2019年12月21日土曜日

広島原爆の炸裂後から、焼失せず残存したコンクリート製の広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。(広島)

広島原爆の炸裂後から、広島駅構内には多数の日本軍兵士が避難していた。構内から南側の駅前広場には、全身火傷や裂傷などや原爆症で約2,000人以上もの被爆者が救護を求めて押し寄せた。翌日の8月7日には、広島駅は軍用線であった宇品線から次第に復旧して、8月8日に山陽本線が部分開通して、列車は被爆者を運搬する救援列車と物資の搬入列車となった。
 広島原爆の爆心地から約1,850mの広島市松原町の広島駅は、窓枠などは爆風で吹き飛ばされた。広島原爆の爆風は、増築したばかりのの待合室をもぎ取り、屋根は押し下げれられた。爆風後の熱線等により、火災で屋根は抜け落ち内部は全焼した。広島原爆によって、建て増し部分の待合室が倒壊し、駅舎の屋根も押し下げられて変形した後、火災によって内部は全焼した。焼け跡からは後日、待ち合わせ中の陸軍幼年学校生徒の約20人をはじめ78人の遺体が見つかった。広島駅の職員も約11人が原爆死した。広島駅のホームの方から大勢の乗客が線路を走り越えて、広島市光町の東練兵場の方に走って逃げた。広島駅では、ホームの上屋根が本線上の客車の上に落ちかかって全線が不通になった。
 広島駅は日本で最初のコンクリート駅として、1922年にモダンな駅舎に建て替えられた。山陽本線をはじめ、呉線、芸備線、宇品線が発着し、年間乗降客は1941年には約1,000万人を越えた。原爆投下当時、広島は産業的にも軍事的にも重要な都市であった。周辺に多くの軍隊の陣地があり、最も重要なのは広島城にあった南日本全土の防衛を指揮した陸軍第2軍司令部であった。広島市は日本軍にとり小規模な補給基地であり、大量の軍事備品も備蓄していた。通信センター、海運の重要な港、軍隊の集会場所でもあった。戦争産業の蜂の巣であり、飛行機やボート、爆弾、ライフル、拳銃用の部品を製造していた。当時に空襲による被害を受けていなかった京都に次いで日本で2番目の大都市であった。家は瓦屋根の木材で作られ、工業用建物の多くは木枠の周りに建てられて、広島市全体は、火災による被害を非常に受けやすくなっていた。広島の人口は、戦争の初期に約381,000人を超えていたが、原爆投下の前は、日本政府の命令による体系的な避難により人口は約340,000から350,000であった。1945年12月までに、広島市人口の半数弱の約140,000人が原爆死した。