2018年2月28日水曜日

メキシコオリンピック開催直前にトラテロルコ広場で大規模な学生と市民運動に対して、軍隊や警官は数千発の銃弾で虐殺をした。

メキシコ政府はメキシコシティで1968年10月12日から10月27日までのオリンピックの開催に向けて膨大な支出とそれを不満とする国民を抑圧をしていた。ディアス・オルダス政権は、特にオリンピック開催に向けて反対派のデモなどを1967年7月頃から鎮圧をしていた。北部のトラテロルコ広場にて、1968年10月2日に約1万人に及ぶ大規模で自発的な学生運動と市民グループが集会をした。彼らに対して、軍隊や警官らは数千発の銃弾により悲惨な虐殺をした。300人程度の死者と多数の逮捕者を出した。その多くの遺体は密かに遺棄されてしまい行方不明になって証拠も隠滅された。しかし、メキシコオリンピックは平和の祭典だけでなく、学生や市民らには密かな弾圧の象徴となった。

2018年2月27日火曜日

ロシア軍に虐殺されたチェチェン人の大量の虐殺死体は、チェチェンの首都であるグローズヌイの土嚢に集積されて埋められた。

ロシア軍は、1994年からチェチェンの独立抵抗勢力に対する紛争を繰り返して制圧していた。チェチェンのダチヌイ村などにて、ロシア軍が2001年1月頃から地域市民を掃討してから、抵抗勢力とされたチェチェン人は収容所に拘束してから拷問した上で大量虐殺した。ロシア軍は駐留しているハンカラ基地から約1kmに存在して、1999年末から閉鎖されて廃村になっていたダチヌイ村に遺棄した。ロシア軍により虐殺されたチェチェン人の大量の虐殺死体は、チェチェンの首都であるグローズヌイの土嚢に集積されて埋められた。チェチェン紛争以降にはチェチェ人による2002年モスクワ劇場事件や2004年のべスラン学校事件などテロリズムが過激化してきた。



2018年2月26日月曜日

アメリカ軍のクラスター爆弾などで、両足を失った幼い少年が、アフガニスタンの市内を這いながら物乞いをした。


アフガニスタン紛争により、2001年10月7日からアメリカ軍らは空爆を開始した。アメリカ軍がカブール空港に投下した爆弾が炸裂した。その破片が、約1kmも離れた市民の家を突き刺した。自宅にいた子供の下肢を貫き、大量の出血とともに下腿が吹き飛んだ。彼の断端の創部も、アフガニスタンでは治療もできずに放置された。そのために義肢を装着すると激痛などで使用が不可能になった。アメリカ軍のクラスター爆弾などで、両足を失った幼い少年が、2003823日にカブール市内を這いながら生きるために物乞いをよく見かけた。2011年9月11日の同時多発テロから、アメリカ軍には史上最長のアフガニスタン紛争に終結が見込めていない。



2018年2月25日日曜日

太平洋戦争にてクェゼリン島の日本軍陣地には、多数の兵士の死体が積み重なって散在していた。

太平洋戦争にて、アメリカ軍は迅速にマーシャル諸島に猛烈な砲撃をしてから、1944年2月1日にはクェゼリン環礁などに上陸した。クェゼリン環礁を守備していた約8,110名の日本軍兵士は全滅して、生還者は約263名で、死亡率は約99.7%に達した。クウェゼリン島の日本軍兵士も2月6日までに全滅した。アメリカ軍に侵攻されて占領されたクェゼリン島の日本軍陣地には、多数の兵士の死体が積み重なって散在していた。その中の日本軍兵士には全滅のために自殺していた。日本の大本営からは2月25日にクウェゼリン環礁の日本軍の全滅が公表された。



2018年2月24日土曜日

アメリカ軍の空襲で日本本土の横浜市は焦土となり、多数の黒焦げになった悲惨な死体が散在した。

アメリカ軍は1944年6月16日の八幡空襲から日本本土に無差別の空爆をした。1945年5月29日には、横浜市に空襲があった。午前9時22分から約1時間、B-29爆撃機が約517機、P-51戦闘機(ムスタング)100機が来襲して、焼夷弾を43万発を、横浜を中心に無差別に空襲した。横浜の上空は燃える黒煙で真夜中のように真っ暗となった。横浜は焦土となり、多数の黒焦げになった悲惨な死体が散在した。焼き焦げた死体に、防空壕の上から棒を突き刺すと、ブシュッと死体の瓦礫が吹き出した。



2018年2月23日金曜日

南ベトナム軍は解放戦線のテト攻勢後に、北ベトナム軍のアジトを襲撃して銃殺した。

ベトナムの共産化主義化を阻止する口実でアメリカは1964年8月のトンキン湾事件から本格的に軍事介入して南ベトナム軍を支援した。1965年2月から北爆を行って地上軍を投入し、北ベトナム軍と南ベトナム解放戦線との戦闘が勃発した。戦争は長期化したが、1968年1月からの北ベトナム解放戦線によるテト攻勢から南ベトナム軍とアメリカ軍が劣勢となり、1973年1月からアメリカ軍は撤退し始めた。1975年4月には南ベトナム政府の首都サイゴンが陥落し、北ベトナムによるベトナム統一が行われ完全に終結した。テト攻勢で急襲を受けた南ベトナム軍とアメリカ軍は、混乱状態に陥ったものの、体勢を立て直し反撃を開始した。解放民族戦線は壊滅状態に陥り、南ベトナム軍は解放戦線の北ベトナム軍のアジトを襲撃して銃殺した。


2018年2月22日木曜日

韓国軍憲兵により、慶尚北道市民は共匪の大邱附逆者として土豪の中で集団銃殺された。

朝鮮戦争は1950年6月25日から緒戦で北朝鮮の人民軍が突如に急南下した。撤退していた地域の韓国軍は、1951年2月頃から残留していた市民の中のパルチザンの完全な抹殺と地域の焦土化を展開した。韓国軍は市民を包囲しては、村落を焼き尽くし、無差別に共匪とした市民に向かって子供・女性・老人を含めて集団銃殺や刺殺をした。アメリカ軍も、無差別な空襲と機銃掃射の虐殺を繰り返した。李承晩政権は共匪を軍法会議に委ねた虐殺として隠蔽した。1951年4月に、ヘルメットの韓国軍憲兵により、慶尚北道の市民は共匪の大邱附逆者として土豪の中で集団銃殺された。朝鮮戦争の前後の大量虐殺は、完全に隠ぺいされ、北朝鮮人民軍の虐殺のみが強調された。


2018年2月21日水曜日

エチオピアを侵略したイタリア帝国軍は、首都を撃破し瓦礫の街路にて、エチオピア市民を無差別に虐殺して死体が散乱した。

第2次世界大戦の直前の世界恐慌から再興するとして、ベニート・ムッソリーニ独裁政権はイタリアをファシズム化した。植民地の獲得によるイタリア帝国の再興のために、イタリア軍はエジプト帝国を1935年から1936年に侵攻して全土を占領して東アフリカ帝国を樹立した。エチオピアを侵略したイタリア帝国軍は、首都アディス・アベバを撃破して、かつては文明の中心地であったが、その大部分を瓦礫とした。その街路にて、イタリア帝国軍は1936年5月25日にエジプト市民を無差別に虐殺して死体が散乱した。それに対して国際連盟からの孤立化により、イタリア帝国はドイツと日本との枢軸国に第2次世界大戦に参入した。


2018年2月20日火曜日

ニューギニア島で日本軍兵士はアメリカ軍の降伏の説得を拒否して、手榴弾で自爆した。

太平洋戦争のニューギニア島の戦闘にて、アメリカ軍は1944年4月24日に北岸中部の陸上揚げ場であったポーラジアからも上陸した。フィリピンへ侵攻する前進基地として占領した。分断され抵抗も困難となった日本軍兵士は混乱して山林のジャングルに逃避して散り散りになった。補給もなく飢餓とマラリアと密林にてほとんどが戦病死して、白骨の死体が散乱した。日本軍兵士は5月25日に西の沿岸部のアラレでアメリカ軍を夜襲するも多数が絶命した。その生存者にアメリカ軍が降伏を呼びかけたが、降伏を拒否して、手榴弾で自爆して、死体が散乱した。



2018年2月19日月曜日

スペイン内戦の緒戦で共和国勢力を支援する外国人義勇兵の国際旅団に膨大な犠牲者と戦死者が散乱した。

スペイン内戦は、陸軍勢力が第二共和国政府に対してクーデターを起こした。内戦1936年7月17日から1939年4月1日まで、スペイン国土と国民を荒廃させて、ドイツ・イタリアのファシスト政権が支援する陸軍勢力が共和国政権を打倒して、フランコ政権下で完全なファシスト体制の樹立に反転した。その緒戦である1936年11月8日のカサ・デ・カンポの戦闘では、首都マドリードの西北部のカサ・デ・カンポの台地で、共和国政府を包囲していた陸軍勢力の進撃を阻止した。共和国政府勢力を支援する外国人義勇兵である国際旅団には膨大な犠牲者を伴って戦死者が散乱した。


2018年2月18日日曜日

ウガンダのアミン政権は、ゲリラの容疑の市民をエンテベで公開の銃殺刑するために縛りつけた。

東中央アフリカのウガンダは、1962年10月にイギリス植民地から独立した。イディ・アミン・タダが、1971年1月に軍事クーデターにより独裁者となった。アミン大統領は、恐怖政治により市民を含めて無差別に恐るべき約30万人以上を大虐殺して、ナイル川にもそれらの死体も捨て流した。アフリカで最も血にまみれて、邸宅からも政敵たちの生首が発見されて食人大統領とも呼ばれた。元ウガンダの首都であったエンテベの目抜き通りで、ゲリラの容疑をかけられてた市民が、公開にて銃殺刑するために縛りつけた。


2018年2月17日土曜日

キプロス内戦によりギリシャ系とトルコ系勢力の内戦で虐殺された犠牲者の死体がぶら下がった。

東地中海のトルコ近隣のキプロスは、1968年8月16日にイギリス支配より独立した。1974年に南部ギリシャ系勢力の内乱に対して、トルコが北部トルコ系勢力に加担して侵攻して、それぞれが共和国に分裂した。1978年からのギリシア系のキプロス軍の侵攻に対して、北部トルコ系のキプロス軍とキプロス島北部で内戦が勃発した。ギリシア軍の介入に対抗して、トルコ軍はキプロス島北部を占領した。ギリシャ系勢力とトルコ系勢力との内戦で、北部と南部にて、キプロスの市民らも巻き込まれて虐殺された。1978年7月28日にキプロス紛争により虐殺された犠牲者の死体がぶら下がった。



2018年2月16日金曜日

ラオスに駐留していたベトナム軍が無差別にモン族に復讐するために掃討して無差別な虐殺をした。

ベトナム戦争において、アメリカ軍は北ベトナムの補給ルートがあるラオスに対し1965年からラオスに膨大な空爆をした。アメリカのCIAは、共産主義政権となったラオス愛国戦線に対して、バン・パオ将軍に指揮される山岳地帯のモン族に戦闘をさせた。アメリカ軍が全面撤退して、南ベトナムが1975年4月30日に消滅した。そのためモン族は、ラオスから悲惨な陸地系難民として無差別に膨大なモン族は虐殺されながら逃避した。ラオス愛国戦線は、アメリカ軍に加担したモン族を復讐として絶滅する攻撃をした。ラオスのフレスノにて、1998年12月27日にもラオスに駐留していたベトナム軍が無差別にモン族に復讐するために掃討して無差別な虐殺をした。



2018年2月15日木曜日

第2次世界大戦中にクロアチアのファシズム政党であるウスタシャが、セルビア人などに大量虐殺が行われた。

ユーゴスラビアにおいて、クロアチアにてファシズム政党であるウスタシャが、第2次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍とイタリア軍と同盟して、1941年から1945年までクロアチア独立国を宣言した。セルビア人からユダヤ人及び反対勢力などを弾圧して、特にヤセノバッツ収容所などで、ホロコーストによる約70万人に及ぶ大量の残酷な虐殺が行われた。膨大な収容者は自ら墓穴や地下洞で処刑されて埋められた。終戦後に、ウスタシャに虐殺された白骨や頭蓋骨が発掘されて十字架に銘記された。民族と宗教間の大量虐殺が、冷戦後の1991年からのユーゴスラビア紛争の遠因となった。


2018年2月14日水曜日

捕虜になった母親と子供は、沖縄戦でのアメリカ軍の虐殺に対して不信と恐怖から担架から睨みつけた。

沖縄戦にて、全死亡者(軍人・軍属・民間人合計)は約18万8千人以上に達して戦没率36.9%以上に上った。特に沖縄市民の犠牲者は約3万9千人以上となり、市民として太平洋戦争にて最大の犠牲者となった。沖縄戦で負傷して歩行困難となった沖縄市民の母親が、子供ともに担架に乗せられた。アメリカ軍の無差別な攻撃に、軍人も住民も次々と命を奪われていった。捕虜になった母親は、アメリカ軍の虐殺に不信と恐怖から睨みつけた。幼い子供も、母親の側で呆然と不安に見つめた。




2018年2月13日火曜日

膨大なビアフラ難民の子供たちには栄養失調の蛋白質の枯渇からクワシオルコ症候群で餓死した。

アフリカのナイジェリアの東部州で、迫害されたイボ族の難民らを中心としたビアフラ共和国が分離独立を宣告した。ナイジェリア内戦が1967年7月6日から1970年1月21日まで勃発した。ビアフラ共和国はナイジェリア連邦国に侵略されて、物資や食糧が途絶えて、厳しい飢餓と虐殺により、膨大なビアフラのイボ族が死亡した。1968年7月から8月に極度の飢餓では、1日あたり約10,000人も餓死して、そのうち児童らは約2ケ月間で約20万から30万人にも達した。膨大なビアフラ難民の子供たちには栄養失調による蛋白質の枯渇からクワシオルコ症候群が発生して餓死した。


2018年2月12日月曜日

第1次世界大戦でドイツ帝国軍の捕虜となった多数のセルビア人兵士が、悲惨にも虐殺された。

第1次世界大戦は、オーストリア=ハンガリー帝国が皇太子の暗殺の1ヶ月後の1914年7月28日にセルビア王国に戦線布告して勃発した。 セルビアに対して第一次侵攻する際には、セルビア市民を含めて無差別に虐殺した。さらに東部戦線において8月1日に参戦したドイツ帝国と1915年 10月14日から参戦したブルがニア王国との中央同盟国により、1915年11月5日にはセルビア王国は侵略された。ドイツ帝国軍の捕虜となった多数のセルビア人兵士が、悲惨にも虐殺された。




2018年2月11日日曜日

イタリア軍とドイツ軍らはギリシアを侵略して蛮行と搾取により悲劇的な餓死者が出た。

第2次世界大戦においてイタリア軍は、ドイツ軍の参戦により、ギリシアを侵略から分割して占領した。ギリシア市民の多くは1941年から1942年の冬期にかけて占領軍の蛮行と搾取による経済的な危機により悲劇的な餓死者を出した。特にアテネやそのほかの都市では、食糧の極度の欠乏により、大半の市民が急激な栄養失調となり、約300,000人もの餓死者が散乱した。ギリシア市民は多数の餓死者の死体をトラックに積載して処理した。


2018年2月10日土曜日

朝鮮戦争で両親を失った膨大な戦争孤児は取り残され、朝鮮半島の全域にわたり散乱して多数の難民となった。

朝鮮戦争に巻き込まれた朝鮮人市民らは、国連軍と北朝鮮軍との激しい戦闘に襲われた。朝鮮人市民らは、1950年6月25日から1953年7月23日の約3年間にわたる戦闘により全土にわたり全壊や崩壊から虐殺されて最大の犠牲者となった。家を焼かれ、両親を失った戦争孤児は、約175,000名にも上り、朝鮮半島の全域にわたり散乱して多数の難民となった。戦争孤児は、荒廃した地域にただ一人で取り残されて呆然としてして泣き叫びさまよった。





2018年2月9日金曜日

多くの抵抗勢力のマキの団員が、ドイツ軍の捕虜となり絞首刑の犠牲により虐殺された。

第2次世界大戦では、ドイツ軍に対して占領されたフランス国内では攻撃的な抵抗運動であるレジスタンスが激しくなった。それに対して、ドイツ軍側の弾圧もますます凄まじくなった。森林に逃げ込んで潜伏した「マキ」は、ゲリラ作戦で抵抗するレジスタンス勢力となった。数多くのマキの団員が、ドイツ軍の捕虜となり、絞首刑の犠牲となり、虐殺された。逆にマキの団員は、ドイツ軍兵士を捕虜にしないで、直ちに処刑して虐殺した。レジスタンスの武力闘争の結果は、市民を巻き込み解放するも、逆に市民の侵略者に変貌するなど過激ともなった。


2018年2月8日木曜日

朝鮮戦争にて、国連軍も韓国軍も民間人等に対しナパーム弾により無差別の虐殺をした。

朝鮮戦争にて、国連軍も韓国軍も民間人等に対して無差別の虐殺をした。コンクリートなどの構築物を破壊するための油脂状の焼夷弾であるナパーム弾を放射した。ベトナム戦争のように、北朝鮮軍が潜むとして多くの民間人を標的とした。村落などにナパーム弾を投下して、避難民に掃射して、無差別の砲弾によって焼死や銃殺した。第2次世界大戦中にも、連合軍は1945年にドイツと日本の一部に使用したナパーム弾を是認した。ナパーム弾で全身の火傷などの犠牲者となったのは主に婦人と子供の朝鮮民間人たちであった。


2018年2月7日水曜日

ドイツ軍の支配下のルーマニアのブンツラウ捕虜収容所は、多量のルーマニア人やロシア人死体が集積して埋葬した。

第1次世界大戦下にて、ルーマニアのブンツラウ捕虜収容所は、ドイツ軍の支配下にあった。1917年の春にて、虐殺されたルーマニア人やロシア人の死体が集積した埋葬された。共同の埋葬墓地が毎月2から3ヶ所は必要であった。コレラやチフスに感染死したり、餓死などにによって各共同墓地には、300人から500人のり死体が散在していた。



2018年2月6日火曜日

第2世界大戦にて連合国がドイツの首都ベルリンに無差別空襲して、亡くなった多数のベルリン市民の死体が体育館に集められた。

第2世界大戦において、1943年11月18日から1944年3月24日まで連合国がドイツの首都ベルリンに対して16回もの空襲をした。第1回目のベルリ爆撃だけの空襲で143人が死亡、4人が行方不明、409人が負傷して、8,493軒が全半壊(内全壊は533軒)した。都市に対する無差別爆撃を開始され、ベルリンを焦がす悲惨な空襲が本格化して、昼夜を問わずに大量の爆弾がベルリンに投下されれた。埋葬のために、空襲で亡くなった多数のベルリン市民の死体が埋葬のために体育館に集められ散在した。


2018年2月5日月曜日

南アフリカのシャープビルで抗議活動をした黒人市民を、警察隊が装甲車等で虐殺した。

人種隔離政策であるアパルトヘイトを強制するために、南アフメカ政府は1952年のパス法で18歳以上のアフリカ系黒人に身分証の携帯を義務化した。パン・アフリカニスト(PAC)は、1960年3月21日にトランスバール州ヨハネスブルグ付近のシャープビルで抗議活動をした。警察官は、身分証明書を持たずに警察署の前で抗議するPACに対して、警察隊は装甲車を配備して、黒人市民を虐殺した。69人が死亡して、200人弱が負傷した。ますますアフリカ系黒人の抗議や暴動が頻発した。ネルソン・マンデラも、対抗する武装闘争をして反逆罪で1964年に終身刑となり27年間の投獄後に、1994年の全人種参加選挙で大統領となった。



2018年2月4日日曜日

アメリカ軍の歩兵隊員が、散乱した日本軍兵士の死体の側を、走りながら激しく沖縄本島を侵略した。

太平洋戦争の本土決戦の緒戦となった沖縄戦では、アメリカ軍は1945年4月1日に沖縄本島に無血上陸した。大量の物資を駆使して、砲撃しながら岩盤を砕き切り崩した侵攻路を、まずは戦車隊が突進して、歩兵部隊が追尾した。上陸して2日目には、沖縄本島を横断して、北部と南部に分断した。緒戦から非常に不利な日本軍兵士を、戦車から砲撃と射撃しながら死滅させた。その後を膨大なアメリカ軍の歩兵隊員が、散乱している日本軍兵士の死体の側を、迅速に走りながら激しく沖縄本島を侵略した。



2018年2月3日土曜日

摩文仁の沖縄戦で、多くの沖縄少女学徒が砲弾で絶命し、残存したひめゆり部隊は断崖に追い込まれ自決した。

沖縄では、中学校学徒の動員による軍隊編成は1944年12月から実施された。男子生徒には戦闘に、女子生徒は看護で軍隊に所属した。1945年3月24日から男子は「鉄血勤皇隊」に、女子は学徒看護婦に配属された。県立第一高等女学校200名と師範学校女子部122名は共同従軍して、最期の摩文仁にて6月20日にアメリカ軍のガス弾で、多くの少女らは家族を叫びながら絶命した。残存した少女の班は脱出の時に砲弾で虐殺され、断崖に追い込まれ捕虜を拒絶して自決した。各部隊は86名、122名が若き犠牲の死体となり、校友会誌「しらゆり」「おとひめ」から「ひめゆり部隊」と呼称された。


2018年2月2日金曜日

沖縄戦で摩文仁の洞窟司令部で自決した多数の日本軍兵士をアメリカ軍兵士が検死した。

沖縄戦において、1945年5月22日に首里から撤退した摩文仁(まぶに)の第32軍の洞窟司令部で、6月23日に司令官、参謀長、経理部主計大佐、高級副官、中佐以下、多数の日本軍兵士が自決した。アメリカ軍兵士が、その洞窟司令部の内部で検死をした。摩文仁は、陸軍第32軍の最後の砦となった。この地ではアメリカ軍に対する日本軍兵士との死闘など、沖縄では太平洋戦争の終局の悲劇が繰り返して散乱した。沖縄県糸満市にある「平和の広場」が摩文仁の遺跡として整備された。






2018年2月1日木曜日

日本軍のガダルカナル島の前線司令所では、5人が戦死してその死体には蝿が群がって腐敗していた。

太平洋戦争にて、ガダルカナル島で1942年8月7日から1943年2月まで、日本軍と連合国の戦闘があった。日本軍の仙台で設置された第2師団が10月3日に西北のタサファロング海岸から上陸するも、すでに死臭のする死の島に変貌した。食料の補給が困難となる餓島となり、日本軍兵士の膨大な死体や白骨が散乱していた。内陸部に向かうアメリカ軍兵士によって、日本軍の前線司令所で、5人が戦死していた。その死体には蝿が群がって腐敗していた。