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2024年2月16日金曜日

1927年4月に、上海クーデタで共産主義者の共産党指導者が、国民革命軍に捕らえられて、斬首された。国民革命軍が、検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者を死傷した。

1927年4月に、上海クーデタで共産主義者の共産党指導者が、国民政府軍に捕らえられて、斬首された。上海クーデターは1927年4月12日に中華民国にて、武装労働者糾察隊が北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こした。国民革命軍右派による武装解除の命令に応じないで抵抗を試みた。国民革命軍から武力行使を武装労働者糾察隊が受けた。武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対して、国民革命軍が発砲・虐殺した。国民党左派と共産党系労働組合の解散を命じて、総工会の建物を占拠した。中国国民党は清党と称する一方で、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と呼称した。国民革命軍が、検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者を死傷した。

 1925年3月12日に北京で孫文の死の前後から、中国の労働者は上海でまた青島で、日本の資本家が経営している紡績工場を中心に、はげしいストライキにはいった。ストライキに対して、日本人資本家・北方軍閥・イギリス人警官隊は、力を合わせて弾圧にのりだした。上海では、1925年5月15日に日本人監督とイギリス人警官隊が、ストライキ中の十数人の中国人労働者を殺傷した。5月30日に学生約2000人を中心にした大抗議デモが行われ、1万人近い上海市民大衆が打倒・帝国主義を叫んだ。イギリス人警官隊は発砲し、10人の死者と15人の重傷者をだした5.30事件が勃発した。

 1926年9月7日に国民革命軍は、揚子江沿岸の工業都市、漢口を解放した。1927年1月4日には、漢口のイギリス租界が中国民衆によって奪還された。2月19日から3月21日に3回の大ストライキをした上海総工会の労働者は、3月22日に武装蜂起して、国民革命軍の上海解放を可能にした。3月24日についに南京が、国民革命軍が奪還した。やがて4月18日に、蒋介石らの指導する国民政府が、南京に誕生した。

 北伐は多くの中国人の血を流しつつ進展した。イギリスの勢力範囲であった華南・華中は, 国民革命軍によって解放された。次の北伐が、主に日本軍の勢力範囲である華北・満州に向いた。日本軍の支配者に、日中戦争の武力闘争に火をつけた。




2023年12月28日木曜日

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御した。傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御していた。その傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。反乱軍の国民党軍は、8月9日のイルンの戦いの最初の攻撃は失敗に終わった。8月27日に再攻撃を試みて、約9日間にわたる激戦の末に、9月5日にモラ軍がイルンを占領した。その1週間後にはサン・セバスティアンを制圧した後、戦線は数ヶ月間静寂に包まれた。

 スペイン内戦は1936年7月17日に、右翼将軍のグループがスペインの民主的に選出された共和国政府を転覆させる軍事クーデターが勃発に端を発する。クーデターはスペインの多くの都市で国民党軍部隊によって侵攻された。しかし、マドリード、バルセロナ、ビルバオといったスペインの大都市のいくつかは、依然として共和国政府の支配下にあった。

 クーデターから数日のうちに、ヒトラーとムッソリーニは反乱軍将兵の側に介入した。ソ連は共和国軍のロイヤリストを支援した。イギリス、フランス、アメリカは中立を維持し、共和国への武器売却を禁じた。スペインの覇権をめぐる戦いは、3年近く続く凄惨な大惨事となった。写真報道という新しいメディアは、世界中の人々に内戦の恐ろしい映像をもたらした。国際的連帯を示すために、50カ国から約35,000人の志願兵が国際旅団に参加し、共和国を守るために生命と身体を危険にさらした。

 イタリア軍とモロッコ軍の支援を受けた国民党軍は、南部と西部の拠点から北上し、禁輸措置で弱体化した共和国軍の都市を占領した。バルセロナとその他カタルーニャ地方は1939年初めに陥落し、フランコ軍は3月28日にマドリードは陥落して、4月1日にフランコは内戦の終結と勝利を宣言した。スペイン内戦で共和国側と国民党側で50万人もの戦闘員と民間人が殺されたと推定した。両陣営で残虐行為が行われて、フランコ将軍率いる国民党軍は、戦後にさらに数千人を処刑した。紛争中、10万人以上の男女が処刑され、無名の墓に埋葬されたと推定されている。スペイン内戦戦で、共和党の親左派勢力が、国民党の勢力に敗北し、スペインにおけるフランコ将軍の長期独裁時代が始まり、1975年11月20日に死亡するまで継続した。




2023年12月7日木曜日

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。クール・ルージュが包囲したカンボジアの首都プノンペンへのロケット攻撃後に、1970年4月頃にプノンペンの通りには多数の死体が散乱した。軍事情勢は、クメール・ルージュがプノンペンの北西わずか約10kmにある重要なカンボジア陸軍司令部を大規模に攻撃して悪化した。

 クメール・ルージュに繋がる1967年3月11日のサムラウト蜂起から、カンボジア内戦が勃発した。一方には、アメリカと南ベトナムの支援を受けたカンボジア国王ノロドム・シアヌーク政府があった。反対側には北ベトナムの支援を受けたカンプチア民族統一戦線があった。しかし、アメリカの支援は共産主義者との戦いでは役に立たなかった。1973年3月から7月だけで、約25万トンの爆弾がカンボジア領土に投下された。しかし、これは共産主義者を止めるのには役立たなかった。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンはクメール・ルージュの支配下に入った。クメール・ルージュの指導者はポル・ポトであった。

 クメール・ルージュの主な支持者は文盲の若い農民であった。彼らの憎悪と復讐は、都市住民にも及んだ。国民の下層階級の間でクメール・ルージュが絶大な人気を与えた。ベトナムを敵視するという考えが盛んに広められた。クメール共和国の打倒後、クメール・ルージュは代表者の物理的破壊と射殺であった。次のステップは都市からの人々の立ち退きだった。4月18日に、プノンペン住民は、クメール・ルージュに即時退去命令を受けた。住民全員が72時間以内に市から立ち退かされた。人々はあらゆる権利を剥奪された。拒否者は、敵として殺害された。困難な障害者や高齢者も殺害された。道路沿いでは数万人の住民が銃撃された。途中で体力の低下と飢えから多数の人々が死亡した。4月23日、ポル・ポトは空虚な首都プノンペンに入った。

 クメール・ルージュは、カンボジアに共産主義社会を構築する革命実験を開始した。以前の国家は事実上清算された。法令と政府文書以外の読み書きは禁じた。統治の最初の年に、ポル・ポトの指導下のクメール・ルージュは前国家の経済を完全に破壊した。カンボジアにおける正確な犠牲者数は判明していない。クメール・ルージュが権力を掌握して、内戦は終結した。カンボジアの全人口は1,000万人未満であり、死者数は約100万人から約300万人と推定した。

 1978年末、ベトナムはカンボジアへの本格的な侵攻を開始した。1979年2月7日、プノンペンが占領されました。1979年半ばまでに、ベトナムはカンボジアの主要都市をすべて占領した。クメール・ルージュは党派的な立場に転じ、80年代を通じて対ゲリラ戦を実施しなければならない重要な勢力の代表となった。しかし90年代までにこの組織は衰退したが、その残党は今もジャングルで強盗を続けている。 




2023年11月21日火曜日

1976年3月11日にアフリカのナイジェリアのラーゴで、クーデター未遂事件の容疑者たちは公開で銃殺刑された。2月13日のクーデター未遂事件に関与した容疑者の32人が、銃殺で処刑された。

1976年3月11日にアフリカのナイジェリアのラーゴで、クーデター未遂事件の容疑者たちは公開で銃殺刑された。1976年2月13日のクーデター未遂事件に関与した容疑者の32人が、銃殺で処刑された。

 1976年ナイジェリア・クーデター未遂事件は、1976年2月13日にナイジェリアで起きた軍事クーデター未遂事件であった。ブカール・スワ・ディムカ中佐が率いる軍将校一派が、ムルタラ・モハメッド将軍(1975年7月にクーデターで政権を奪取)政権の転覆を図った。

 モハメッド将軍は、側近のアキントゥンデ・アキンセヒンワ中尉とともにラゴスで暗殺された。ドダン兵舎に向かう途中のイコイで、ディムカが率いる軍隊兵士たちによって、モハメッドの車が待ち伏せされた。クーデター未遂は、その数時間後にナイジェリア政府軍によって鎮圧された。

  約3週間の捜索の後に、ディムカ中佐は1976年3月6日にナイジェリア南東部のアバカリキ近郊で逮捕された。軍法会議の後に、ディムカ中佐を含む38人の軍人と民間人が銃殺刑に処された。ディムカと他の6人の共謀者は1976年5月15日に銃殺刑された。モハメド将軍の後任には、オルセグン・オバサンジョ中将がナイジェリア国家元首として就任した。

 1960年代初頭からの国境紛争にて、アフリカの多くの植民地が、英連邦の協力のもとで独立国家へと移行した。アフリカ最大の国家ナイジェリアでは、外見上は当初は、英連邦への移行がほぼスムーズに進んだ。イギリスの民主主義輸出の目玉であったナイジェリアでさえ、1965年には早くも長く血なまぐさい内戦に巻き込まれた。アフリカの状況下での政治的統合と国家建設の問題を実証して、1970年代にほとんどの独立国家の特徴である軍事政権に終わった。1966年~1993年にナイジェリアでは、7回の軍事クーデターが勃発した。1967年〜1970年までビアフラ内戦が勃発した。1979年〜1983年まで第二共和政が成立した。




2022年10月11日火曜日

2014年2月20日に、ウクライナ人のデモ隊はキエフの大学通りで治安部隊の狙撃兵の射撃に狙われて、インスティトゥツカヤ通りで左側のイワン・パンテレエフが殺害された。

 2014年2月20日に、ウクライナ人のデモ隊はキエフの大学通りで治安部隊の狙撃兵の射撃に狙われた。インスティトゥツカヤ通りで、左側のイワン・パンテレエフ(Ivan Panteleev)が殺害された。彼は狙撃された負傷者を運び出そうとして、狙撃の弾丸の標的になり射殺された。奥のイヴァン・ラポヴィ(Ivan Rapovyi)は狙撃で負傷した。2月20日の独立広場(マイダン)で約75人以上の死者のほとんどは路上で殺害されて、約363人以上が負傷して入院して、暗黒の木曜日と呼称された。1月19日からデモ隊と治安部隊の間で大きな衝突をして、2月19日から2月20日にかけてデモ隊と治安部隊との激しい衝突により、約108人のデモ隊と約13人の治安部隊が死亡して、多くの犠牲者を出した。最後の日にあたる2月21日の大学通りでの狙撃では、市民が木製の盾を手に狙撃兵の方に向かって殺害された。人々はばらばらに前へと飛び出して、彼らに対する銃撃が始まり、多くの市民が殺害された。

 ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領が、欧州連合(EU)との関係を強化する法案が成立する直前の11月21日に反故にした。その直後から、キエフでの反政府市民運動のデモが勃発して独立広場で展開した。2013年から2014年にかけて、ウクライナの独立広場で尊厳の革命が勃発した。治安部隊は大統領に従って武器を使用する権利と義務を強行した。大統領を解任された親ロシア派のヤヌコーヴィチは、2月22日にウクライナを脱国してロシアに国外亡命した。 

 ウクライナの尊厳革命後に、暴動がウクライナ南部と東部にも拡大した。2月27日にロシア派武装勢力がクリミア政府庁舎と議会を占領した。プーチン大統領の命令で、ロシア軍は、3月1日にクリミア半島に侵攻して直後から実効支配した。ウクライナ南部クリミア自治共和国では3月16日に、ロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施された。同共和国選挙管理委員会によれば、投票率82.7%、開票率75%の段階で、ロシアへの編入に賛成票を投じた人の割合は95.7%に至っている。ウクライナ東部の親ロシア派の住民たちはウクライナ過激派を恐れ、ロシア国営放送は彼らをネオナチと報じた。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ暫定政権は過激派によって成立した政権であり、正当性を認めなかった。2022年2月24日午前5時から特別軍事作戦により、ロシア軍は東部のウクライナ軍に集中砲撃が勃発して、ロシア・ウクライナ戦争が勃発した。




2022年10月5日水曜日

エル・サルバトルの国家警備隊が、1982年のエル・サルバドル内戦の戦闘で殺害された。軍兵士は、街路に倒れた死体に白シーツをかぶせ、民族解放戦線を拳銃を構え監視した。

エル・サルバトルの国家警備隊が、1982年のエルサルバドル内戦(Salvadoran Civil War)の戦闘で殺害された。エル・サルバトル軍兵士は、街路に倒れた死体に白シーツをかぶせた。その周囲の反政府の民族解放戦線(FMLN)を緊張しながら拳銃を構えながら監視した。

 エル・サルバドル内戦(1980-1992)は、政府軍によって約7万5千人以上の市民が犠牲になった。16世紀のスペインによる征服以来、人口の約95%を占める先住民や混血は農奴制に陥り、14家族と呼称される少数の土地所有者が、軍事独裁政権を経て支配した。労働指導者のアグスティン・ファラブンド・マルティが、1932年1月に農民の反乱を起こした。サルバドール政府軍の報復で鎮圧され、約3万人の市民が虐殺された。

 1960年代から1970年代には、左翼のゲリラと右翼の準軍事的な死の部隊が内乱を繰り広げた。1979年10月15日に、軍事クーデターが革命政府軍(JRG)を結成した。1980年1月、JRGに対して右翼の暴力が勃発し、政府機関紙への爆弾テロ、誘拐、殺人などが起こり、JRGの文民指導者は全員辞職した。

 1980年のロメロ大司教の暗殺から、本格的な内戦(1980-1992)に突入した。ロメロ大司教の25万人の葬儀に政府軍の狙撃手が約42人を殺害して、約200人以上が負傷させた。1980年9月に、5つの主要な左翼革命組織が合併し、ファラブンド・マルティ民族解放戦線 (FMLN)がゲリラ軍を編成した。1980年12月、4人のアメリカ人女性牧師が軍事組織によって強姦と虐殺された。1980年にレーガン大統領は、冷戦下で残虐行為を行ったエルサルバドル政府を友好国と見なした。1981年1月10日にFMLNが政府軍に全面的な攻撃を開始して、アメリカはサルバドル政府を支援した。1980年代を通じて、政府軍、ゲリラ、準軍事組織の間の内戦は、市民を拷問、虐待と虐殺、強制失踪、超法規的殺人、集団強姦にさらした。約75,000人のサルバドル人が虐殺、即決死刑、地雷、無差別爆撃によって殺害された。

 1989年11月16日に対反乱迅速展開部隊「アトラクアトル旅団」が中米大学構内に侵入し、イエズス会の神父と家政婦と娘6人を強姦して虐殺した。イエズス会の虐殺は、1989年にアメリカ議会の特別調査委員会が、首謀者であるサルバドル将校団約26人のうち19人がアメリカ陸軍の軍事訓練を受けたことを公表した。1988年から1991年の東欧革命とソ連の崩壊が、FMLNに重要な同盟国を喪失した。1992年1月16日に、メキシコシティで国連の仲介でチャプルテペック和平協定が調印された。2009年FMLNは大統領選挙に勝利した。



2022年8月11日木曜日

ハイチでは、アリスティード派民兵シメールによる見せしめの報復のために、2004年2月28日に反アリスティード派と思われる一味が殺害した血まみれの死体が、首都ポート・プランスの道端に捨てられて放置された。

2004年2月5日にハイチ解放再建革命戦線が北部の町ゴナイーヴで反乱を蜂起して、アリスティード政権と武力衝突が発生した。ハイチでは、アリスティード派民兵シメールによる民衆に見せしめの報復のために、2004年2月28日に反アリスティード派と思われる一味が殺害した血まみれの死体が、首都ポート・プランスの道端に捨てられて放置された。

 2004年に、カリブ海にて人口約800万人のハイチは、2月29日にアリスティード大統領が2月29日に2度め目の脱国をした。1990年半代に、アリスティードによって解体され追放された旧ハイチ軍兵士が2004年2月に舞い戻った。脱国後に、首都ポート・プランスでは銃声と煙が立ち上り、破壊・略奪・放火が拡大した。見せしめの報復により、両手を縛られた死体が転がって散乱した。さらに眼をくり抜き、顔の肉までそぎ取った死体を見せしめられた。総合病院の死体安置所では、腐敗して判別できない死体が山積みとなった。

 ハイチは、1492年にコロンブスによりイスパニョーラ島が発見された。1697年にフランスの植民地となった。1795年にフランス・スペイン戦争で、全島がフランス領となった。1804年に奴隷が反乱を起こしてナポレオン軍を打倒して、世界初の黒人国家として独立した。1915年から1934年は、アメリカが軍事占領した。1957年から1986年まで、デュバリエ父子による独裁国家となった。独立国家となった以後に、約33回以上ものクーデターによる政権転覆が頻発して、ハイチ市民は政争の犠牲に巻き込まれた。

 1990年に初めての民主的選挙により、アリスティードが大統領に選出された。1992年にはクーデターで国外追放されて、1994年にクリントン政権によりアメリカより生還した。ハイチの旧軍事政権を排除して、経済が崩壊して不安定となり復興が頓挫した。ギャングのようなアリスティード派の民兵部隊シメールにより、反アリスティード派を弾圧して、暴力や腐敗も拡大した。2000年に、不正選挙でアリスティード派政党のラバラスが圧勝した。反アリスティード運動も高まって、2004年2月にドミニカからハイチに侵略した旧武装勢力が、首都ポート・プランスを侵攻した。2006年2月にハイチでは、旧軍部の暫定政権が選挙で負けて、アリスティード派のルネ・プレヴァルが大統領に就任して。アリスティード自身は亡命中である。




2022年1月13日木曜日

皇道派の相沢三郎陸軍中佐が、1938年8月12日に陸軍省の統制派の永田鉄山軍務局長を、軍刀を抜いて斬りかかり刺突して暗殺した。

1937年8月12日午前9時30分頃に皇道派の相沢三郎陸軍中佐が陸軍省に到着して、山岡重厚整備局長との談話中に給仕を通して、統制派の永田鉄山軍務局長の在室を確かめた。午前9時45分頃に、陸軍省の軍務局長室に突入して直ちに軍刀を抜き、永田鉄山に斬りかかり刺突して暗殺した。永田鉄山は隣室に逃れようと、軍事課長室のドアに身体を当てるも、相沢三郎は体当たりして背中から軍刀で突き刺して、刃先は体を突き抜けドアまで達して刺殺した。相沢事件あるいは永田事件と呼称された。1938年1月28日から開廷した軍法会議は勅許奏請の手続きの段階となった。突如に1938年2月26日未明に、皇道派の青年陸軍将校らが二・二六事件のクーデターを勃発した。5月7日に死刑の判決となり、7月3日に銃殺刑が執行された。

 統制派は、当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、陸軍幹部である永田鉄山が陸軍大臣林銃十郎を通じて政治上の要望を実現する人事異動による合法的な組織で、列強に対抗し得る高度国防国家を目指した。それに対して皇道派は過激思想から、天皇への忠誠を誓い、結果を問わず危険な行動に走り、政財界の君側の奸を排除して天皇親政の下で国家改造する昭和維新を目指した。皇道派に敵対する永田鉄山が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に敵対する統制派なる派閥の頭領にさせられた。皇道派が、統制派による人事の冷遇と排除に反発して、統制派の幹部を暗殺した。時代の転換点となり、個人主義、自由思想は一切排撃されて統制されて、時代は一挙に全体主義に逆戻りした。

 軍人はよく国家革新を論ずるが、革とは何か、どうすることが、どんな方法と設計でやることが、国家革新するのか、さっぱり判らない。重臣を殺害したり、クーデターをやることは、もはや言語道断であるばかりでなく、とても危険でもあり、愚劣でさえある。しかし軍人に対して、理論的にも、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、革新出来るというビジョンものを、よく得心させる必要があると、永田鉄山は示唆していた。やがて逆に、統制派であるも開戦派であった東條英機首相が1941年12月8日に、日本軍はイギリス軍との間で太平洋戦争に突入し、真珠湾攻撃して間もなくアメリカ軍との間に太平洋戦争が勃発した。




2021年2月18日木曜日

ソ連の議事堂を防衛した市民の壁に、軍事クーデーターの装甲車が侵入して、モスクワの3人の若者が巻き込まれて殺害された。

ソビエト共和国の議事堂を防衛していた市民の壁に、1991年8月19日に軍事クーデーターの装甲車が侵入した。急に急ブレーキをかけて後退した時に、モスクワの3人の若者が妨害をした。1人の若者は装甲車上に飛び乗って射殺された。その他の2人の若者は装甲車のキャタピラに巻き込まれて圧殺された。
 ソビエト連邦はゴルバチョフのペレストロイカ革命が崩壊して、共産主義の保守派により1991年8月19日に軍事クーデターが勃発した。ペレストロイカから約6年間も、政治的にも経済的にも混乱して、ソ連の市民は厳しい生活に苦悩していた。旧ソ連に引き戻す軍事クーデターに対抗したのは、民主主義を求めるソ連の一般の市民の結集であった。一時的に軍事クーデターが武力で優勢になった。軍事クーデターに参戦するソ連軍兵士に対抗して引き止めて粉砕したのは、ソ連の一般の市民であった。ソビエト連邦の崩壊により、ソビエト国家共同体(CIS)がに生まれ変わった。
 8月19日朝に非常事態委員会が、ゴルバチョフが解任されて、て突如に反ペレストロイカ派政権が樹立された。モスクワ市内には、ソ連軍の装甲車や戦車が中心部に出現した。ロシア共和国の議会前に、軍事クーデターに対抗する市民が次第に集結していた。8月19日の晩には、モスクワ市民が議会前をバリケードで取り囲んだ。占拠していたソ連軍の戦車の一部が、モスクワ市民側に寝返った。さらに投入されたKGBの特殊部隊も、軍事クーデターに対抗していた。軍事クーデターの戦車や装甲車に対して、モスクワの女性も立ち上がり、兵士に市民を理解して射撃しないことを嘆願した。次第に、軍事クーデターの兵士らが、モスクワ市民側に豹変した。ロシア共和国議会を防御するために、約数万人もロシア市民が集結した。
 8月19日午後10時に、軍事クーデターの装甲車が、モスクワ若者から火炎瓶の攻撃を受けて炎上した。8月20日午前0時30分頃に約10両の装甲車が、サドーボエ環状道路を経て、カリーニング大通り下の地下道に侵攻した。バリケードに突入して身動きできなくなった。数人の若者が、装甲車の覗き窓を毛布で塞いだ。ハッチをこじ開けようとした時に、装甲車の兵士により3人の若者が虐殺された。
 8月20日午前4時15分頃に、陸軍の最高司令官と交渉するも、議事堂のバリケードからモスクワ市民は立ち退かなかった。8月21日の午後10時に軍事クーデーター側に攻撃をする事を午前中に通告した。軍事クーデターは、共謀者が8月21日昼にクリミアに逃亡して終焉した。1991年12月25日に、ミハイル・ゴルバチョフが国営テレビで劇的に辞任して、ソビエト連邦はもはや存在くなった。