ラベル 侵略 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル 侵略 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年11月5日火曜日

第二次世界大戦中の冬戦争にて、フィンランド軍によるスオムッサルミの戦いの後に、1940年1月20日にソ連赤軍の44師団のロシア人兵士の凍死体が雪道の路傍に横たわった。

第二次世界大戦中のフィンランド、スオムッサルミの戦いの後に、1940年1月20日にソ連赤軍の44師団のロシア人兵士の凍死体が雪道の路傍に横たわった。冬戦争の中で、スオムサルミの戦いはフィンランド軍とソ連軍の間で勃発した。スオムサルミの戦いは1939年11月30日から1940年1月8日まで行われた。厳寒で、優勢なソ連軍の戦力に対するフィンランド軍の勝利となった。スオムサルミの戦いの犠牲は、ソ連軍兵士は35,000人のうち戦死は30,0003人以上、捕虜は2000人である。フィンランド軍は死傷者または行方不明者2000で、フィンランド軍兵士は死傷者または行方不明者は約2,000人となった。 

 ソ連赤軍の第153師団がラドガ湖北部を攻撃するのに唯一の通過経路がスオムッサルミ村にあった。スオムッサルミ村で、ソ連赤軍は、小規模なフィンランド軍の反撃に完全に不意を突かれた。村から追放されたソ連軍は、相当な覚悟と勇気で3日間のフィンランド軍の度重なる攻撃に耐え抜いたが、結局、戦意を失って大量の兵士が退散してしまった。

 フィンランド軍の砲撃と爆撃は、湖の氷を粉砕し、その上を横切って逃走するソ連軍兵士たちを大量に溺死させた。フィンランド軍は、ソ連軍第44師団を道で待ち伏せをした。-43℃の猛烈な寒さで、ソ連赤軍の銃でさえも凍りつき、装備不充分となった。ふたたびソ連軍は無謀で無器用な戦いをして、壊滅した。スオムサルミの戦いは、フィンランド軍にとって偶然のい勝利となり、戦況には影響を及ぼさなかった。

 冬戦争は、ソ連軍とフィンランド軍との間の戦争である。第二次世界大戦勃発の3ヵ月後の1939年11月30日から、ソ連軍のフィンランド侵攻が勃発して、3ヵ月半後の1940年3月13日にモスクワ講和条約で終結した。冬戦争はソ連軍の能力に対する誤った印象をもたらし、ナチス・ドイツのソ連に対する攻撃を増長させる結果となった。 





2024年8月23日金曜日

第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍はソ連のロストフ・オン・ドンを、1941年11月19日から12月2日まで第一次占領した。戦勝したドイツ軍兵士が、ソ連のロストフ町の瓦礫と多数の死体の横を歩いた。

第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツ軍はソ連のロストフ・オン・ドンを、1941年11月19日から12月2日まで第一次占領した。戦勝したドイツ軍兵士が、ソ連のロストフ町の瓦礫と多数の死体の横を歩いた。戦車のパンツァーの急速な侵攻に対して、切り離された数千人のソ連赤軍兵士は、特に都市中心部でしばしば激しい戦闘を繰り広げた。ロストフ攻勢作戦にてソ連赤軍が、ロストフを奪還した。ロストフの戦いの犠牲者は、ソ連赤軍は、約33,111人が犠牲となった。ソ連赤軍のロストフの解放は、第二次世界大戦東部戦線の初期のドイツ国防軍の最初の大敗となった。ドイツ軍の総損害は、死者約30 000人と推定された。

 その後のロストフの戦いでドイツ軍の第1パンツァー軍による攻撃の後に、ドイツ軍は、1942年7月24日から1943年2月14日までの7ヶ月間にわたりロストフを再奪還して占領した。ドイツ軍は、ロストフの郊外のズミエフスカヤで民間人の大量絶滅を執行した。ナチス・ドイツ軍は、27,000人のユダヤ人と3,000人のその他の国籍の人々を虐殺した。約53,000人のロストフ市民が強制労働のためにドイツに強制送還された。ソ連赤軍は1943年2月2日にスターリングラードでの勝利の後に、ドイツ国防軍は東部戦線南部を撤退して1943年2月14日にロストフはついにドイツ軍から解放された。

 ロストフはソ連の港湾都市で、ロストフ州とソ連邦南部管区の行政中心地である。東ヨーロッパ平原の南東部のドン川沿って、アゾフ海から約32kmで北コーカサスの真北に位置する。ロストフは南ロシアの重要な文化の中心地である。ロストフは鉄道の分岐点で、石油や鉱物の豊富なコーカサス地方と連結する河川港として、戦略的に重要であった。




2024年5月1日水曜日

満州事変が1931年9月18日に勃発して、関東軍は、奉天の郊外の柳条湖事件に呼応して、長春の寛城子、南嶺の中国国民党軍兵営を奇襲攻撃した。関東軍は激戦の戦闘末に占領して、戦死傷者の犠牲者の処置をした。

満州事変が1931年9月18日に勃発して、関東軍の第3旅団第4連隊兵士たちは、奉天の郊外の柳条湖事件に呼応して、長春の寛城子、南嶺の中国国民党軍の兵営を奇襲攻撃した。関東軍は中国国民党軍から占領した。中国国民党軍による頑強な抵抗を受けた関東軍は、激戦の戦闘末に占領して、戦死傷者の犠牲者の処置をした。

 1931年9月18日の夜、中国東北部に進駐していた日本の小軍団関東軍は、まず夜の闇に乗じて、瀋陽市の籐湖の近くに自力で建設した南満州鉄道の線路を密かに爆破した。そして、この犯罪を当時駐留していた中国軍のせいにした。これを口実に中国東北軍北陣を砲撃し、中国内外に衝撃を与えた九・一八事件(満州事変)を引き起こしたのである。

  翌日9月19日に、日本軍は瀋陽に侵攻し、東北三省を次々と侵略し始めた。それ以来関東軍は、中国を完全に侵略しようとした。関東軍は中国国民党と約14年に及ぶ長く険しい日中戦争が勃発した。1931年9月18日の九一八事件から1945年8月15日の日本の降伏までの約14年間で、中国と日本の市民の血と涙、火と水をくぐり抜けて、日中戦を戦って、数え切れない中国腎と日本人の息子や娘たちは、英雄的とされて命を犠牲にした。

 満州事変の翌日1931年9月19日に、関東軍司令官本庄中将が布告を出した、その内容は、中華民国東北辺防軍の一部の部隊は、大胆不敵にも満鉄線を爆破して日本に敵対行動をとったため、我が軍はやむをえず対抗手段をとった布告であった。

 陸軍中央部からは、「満州事変の処理に関しては、必要度を越えないように閣議決定した」ことを伝達した。朝鮮軍司令部からも、参謀総長により増遣部隊を差し止められしにより(略)と戦局の拡大を極力抑止する方向で展開せよと示唆した。陸軍中央部は9月19日午後6時頃に第一五号電報で訓令を発した。関東軍司令部は、第二師団主力に対して、次なる作戦準備として長春に集結するように命令を下した。

 9月20日早朝、関東軍の独立守備第二大隊は、関東軍司令部からの命令で、四平街、昌図付近の張学良軍を攻撃した。昌図の紅頂山にあった張学良の第20旅団の激しい抵抗に遭遇するも、張学良軍を西南方に潰走させた。その後、長春に帰還して、以後、長春―吉林間を結ぶ鉄道と長春警備の任に当たった。







2023年11月24日金曜日

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して傷付いた。中国軍は広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送された。

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して、傷付いた。このために、中国軍は次々と野戦病院を増設した。それでも死傷兵士の完全収容は不可能だった。広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送した。それを中国人の従軍看護婦が見守っていた。徒歩で到着した中国人の戦傷兵士は野戦病院前にて、治療の手続きを待機した。

 桂林・柳州の戦いにて、日本の第11軍は桂林攻略を計画した。全県と桂林の間は約120kmもあり、支那派遣軍は一号作戦計画時から、柳州は第23軍が攻略を実施させ予定が、発動しなかった。第11軍は桂林攻略に固執し、その計画は1944年10月5日に決定した。

 桂柳攻略作戦の主力は日本の第11軍で、第23軍は側面から重慶軍を牽制した。第23軍傘下の第104師団は、10月14日に広西省に侵攻して、中国の重慶軍を牽制した。日本軍の丹竹平地で飛行場の占領も、中国軍に脅威を与えた。10月中旬に武林へ侵攻した第22師団は、アメリカ軍の爆撃機の来襲が激しく、防空壕に留まった。

  第11軍は10月26日に、桂林攻略の命令を受け、第3師団と第37師団に発進命令を出した。第3師団は広西省に侵攻すると、早くも中国人住民から自衛団の抵抗をうけた。11月4日に、歩兵第34連隊竹下大隊は雨中を突破して、不眠不休で修仁の高地で炊事を始めた。重慶軍はこの火に向けてアメリカ製10ミリ榴弾砲で初めて猛射した。

  10月28日に、第58師団の正面で重慶軍が退却を始めた。第58師団の第一線部隊が追撃を開始した。第40師団が桂林に進撃を開始した。第40師団は桂林の南側から攻撃を、中国軍から反撃され、逆に苦戦を強いられ、東方正面からの攻撃を命じらた。

 11月4日、湘桂作戦の最大の作戦である桂林城攻略のため七星巌の夜襲が執行された。中国軍は陣地内から銃や迫撃砲で応戦を開始した。日本軍は火焔放射器を使用したが、重慶軍の激しい防戦に会い、血戦は11月8日の朝まで続いた。中国軍側は日本軍は毒ガスを使用したと抗議した。

  11月9日に、第58師団による桂林の総攻撃が勃発した。日本軍は野砲42門を中心に、空からは第5航空部隊が市街地を銃爆撃した。重慶軍の応戦は激しく、日本軍の戦車へも果敢に砲撃を加えた。日本軍は水東門から桂林城中に突入に成功して、城内は混乱状態に陥った。敵味方の識別も難しい中での市街戦がはじまった。激闘一日半、桂林は第11軍が確保した。日本軍側の犠牲者数は不明で、中国軍の戦死者は約5600人、捕虜は約13,000余人を数えた。日本軍が桂林、柳州を占拠して「一号作戦」の目的である中国西南部のアメリカ軍用航空基地は全て奪取した。




2023年6月25日日曜日

2023年6月17日に、ウクライナ軍が奪還したウクライナ東部ドネツク州のブラホダトネ村で、ウクライナ軍兵士が、殺害されたロシア軍兵士の死体を偵察した。ブラホダトネ村は、反攻作戦で解放された最初の村である。

2023年6月17日に、ウクライナ軍が奪還したウクライナ東部ドネツク州のブラホダトネ(Blahodatne)村で、ウクライナ軍兵士が、殺害されたロシア軍兵士の死体を偵察した。ブラホダトネ村は、侵攻するロシア軍に対するウクライナ軍の反攻作戦の一環として解放された最初の村の一つである。ブラホダトネ村は、ドネツク州とザポリージャ州の境界に位置した。厳しい戦闘にて弾痕だらけのブラホダトネ村の文化の家の図書館に、ロシア軍兵士の死体が散乱した。ウクライナ軍によると、ブラホダトネ村に残っている民間人は2人だけであった。











Warning: A Ukrainian commander, aka Lermontov, of the 68th Oleksa Dovbush hunting brigade, walks past the body of a killed Russian soldier in the recently retaken village of Blahodatne, Ukraine, Saturday, June 17, 2023. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

 

  ウクライナ国防副大臣が、ウクライナ軍は、ザポリージャ地域のベルディアンスク方面とメリトポリ方面での反抗作戦により、ノヴォダリフカ(Novodarivka)、レヴァドネ(Levadne)、ストロジェヴェ(Storozheve)、マカリヴカ(Makarivka)、ブラホダトネ(Blahodatne)、ロブコヴェ(Lobkove)、ネスクチネ(Neskuchne)、さらにザポリア州南東部のピアティハツキー(Piatykhatky)を含めて8つの集落が解放されたと述べた。ウクライナ軍は約7km侵攻し、約113平方kmの地域を奪還した。反攻作戦では、ウクライナ軍兵士に占領された集落では、ウクライナ軍兵士たちは侵攻を続けて、退却しないように命令された。集落の道路はクレーターで穴が開き、建物は陥没して、ほぼすべての住居には弾痕が散見された。

 2023年6月17日に、ウクライナ東部のドネツク州のブラホダトネ村を奪還したばかりのウクライナ軍兵士が、破損した建物内で死亡したロシア軍兵士の死体の横を通り過ぎた。ロシア軍は2022年2月にウクライナに侵攻し、破壊と人道危機を引き起こした。ロシア軍とウクライナ軍は、ウクライナ軍が反攻の初期段階で、占領地域からロシア軍を追い出すために戦って、多数の軍事的死傷者を出した。ロシア軍は、ウクライナ軍の反抗作戦は6月5日に勃発したと主張した。最も激しい戦闘は、ウクライナ南東部のザポリツィア州、バフムト周辺、さらに西のウクライナ東部ドネツク州が中心となった。ウクライナ軍の前進を阻止するロシア軍側による無人機や砲撃など激しい攻撃に直面した。











Warning: A Ukrainian serviceman, aka Boroda, of the 68th Oleksa Dovbush hunting brigade, walks past the body of a killed Russian soldier in the recently retaken village of Blahodatne, Ukraine, Saturday, June 17, 2023. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)

2023年6月21日水曜日

1932年に旧満州国で、二人の中国人少年が匪賊として、日本軍により縄で身体を拘束されて捕虜となった。その後は拷問され、処刑あるいは人体実験用のマルタに強制された。

1932年に旧満州国で、二人の中国人少年が匪賊として、日本軍により捕虜となった。日本軍の占領下の満州にて、中国人の少年らも抗日ゲリラ活動した。縄で身体を拘束されて、戦争捕虜となった。その後は、拷問された後に、処刑されるか、人体実験用のマルタ(丸太)に強制された。

 1931年に奉天事件が勃発した満州事変後に、満州全土で軍事目的の鉄道や道路の建設が大規模に進められた。1934年には、満州が軍事支配下に置かれた。満州国という傀儡国家が建国されたことで、反日の抵抗は続いた。反乱軍の軍事的制圧は、関東軍の継続的な任務となった。当時の日本軍は、日本の支配に抵抗する抗日組織を匪賊と呼称した。

 処刑された匪賊は、死刑が執行された後に、死体の一部は、満州における関東軍731部隊(防疫給水部)などの人体解剖の身体実験に使用された。南満州鉄道会社が南満州医科大学を設立した1911年から1945年に、満州にて医療犯罪に関与した。戦時中に約3,000人以上の中国人捕虜に、生物化学兵器の実験を執行した。満州国では、1932年9月に臨時懲治叛徒法と臨時懲治盗賊法が、中国人を厳罰する反乱分子鎮圧法が制定された。

 日中戦争の戦時下になると、実験死体の調達先が変わった。死刑判決を受けて死刑を執行された匪賊の死体を調達できた。1884年に日本本土で公布された墓地埋葬取締規則第25号での死後24時間以後の死体の埋葬や火葬は、満州では無視された。関東軍と満州国軍、日本領事館などが人体実験の協力を認めた。満州の医学者たちは、日本軍の暴力や処刑を活用して実験研究を進め、人体材料を集めて利用した。満州の日本軍は、多くの悪事を働き、民間人を殺し、処刑される中国人の匪賊を、有用な人体材料として使用した。

 関東軍731部隊の指揮官の石井四郎は、1929年に軍医学校の教官となり、陸軍に細菌戦の研究を主張した。1933年秋に、東郷部隊が黒龍江省北仁河背陰河で、細菌兵器の人体実験を開始した。1936年8月に関東郡防疫部が新設されて、1940年7月に、関東軍防疫給水部本部の満州第731部隊が発足した。

 欧米では、タスキーギ梅毒実験、J・マリオ ン・シムズ博士の奴隷黒人女性実験、アフリ カ人に大きな副作用をもたらしたトリパノソーマ治療薬の実験、ナチスが強制収容所で行った 人体実験など、他者を従属的な人種と位置づける人種理論に基づいた人体実験が数多く行われた。
















Japan No War NGO (JNWN) 
日本平和市民連盟
2023年6月21日に
Blogger投稿数は2500回に達した。

2023年6月20日火曜日

アル・ムサイフィラの戦いは、シリア大反乱の初期段階である1925年9月17日に、ドルーズ派の反政府勢力とフランス軍が戦って、死体が地面に散らばり、家々は廃墟と化した。

アル・ムサイフィラの戦い(Battle of al-Musayfirah)は、1925年7月から1927年6月下旬まで続いたシリア大反乱の初期段階である1925年9月17日に、ドルーズ派の反政府勢力とフランス軍が戦って、死体が地面に散らばり、家々は廃墟と化した。アル・カフルと アル・マズラーで反乱軍がフランス軍に勝利した後に、9月15日にフランス軍の前衛部隊がアル・ムサイフィラ村に派遣された。村の住民を掃討した後に、アル・スウェーダへの攻撃に備えて要塞を築いた。1920年初頭にフランスの植民地軍が沿岸部の占領が起点となり、シリア大反乱が勃発した。アル・ムサイフィラ村はシリア南部で、首都ダマスカスの南東約37kmに位置する。

 戦闘は9月16日早朝から、ドルーズ派の反乱軍がフランス軍陣地に対する攻撃が勃発した。フランス軍の戦線を大きく突破できなかった。フランス軍の戦闘機による爆撃を約3時間受け続け、反乱軍は大きな犠牲を出した。その後に反乱軍は撤退して、その前にフランス軍に多数のドルーズ派が捕らえられた。アル・ムサイフィラの住民の何人かは、戦闘の前から最中にも殺害された。フランス軍の勝利は、反乱期における最初の重要な勝利となった。9月24日のアル・スウェーダ占領への道を開いくも、人里離れた環境のためその2ヵ月後に撤退した。

 アル・ムサイフィラの戦いでは、フランス軍は戦死者が約47人と戦傷者が約83人が犠牲となった。ドル―ズ派は、戦死者は約200人から500人が戦死して、約500人が戦傷と捕虜となり、その後に見せしめに処刑されせた。9月15日に、アル・ムサイフィラは約600人から800人のフランス軍兵士に占領された。フランス軍が到着すると、アル・ムサイフィラの住民は追放されるか殺害された。フランス軍は直ちに村の周囲に石垣を築き、塹壕を掘り、有刺鉄線や機関銃を設置して要塞を構築した。村の周囲を偵察していた部隊は、高地から突撃した約800人近いドルーズ派軍の攻撃を受けた。

 ガムリン軍本隊がダマスカスから到着する前にフランス陣地を攻撃して、反乱軍は9月16日にアル・ムサイフィラへの攻撃を開始した。約10時間継続的に攻撃を続けたが、フランス軍の機関銃による射撃で組織的に撃退された。反乱軍は9月17日午前4時頃に2度目の攻撃を開始した。依然として多くの反乱軍がアル・ムサイフィラの狭い通りでフランス軍団兵を待ち伏せした。9月17日午後早く、フランス軍は3時間の間に反乱軍を27回砲撃して撃破した。




2023年6月18日日曜日

ウクライナ軍が解放したドネツク州ネスクチノエ村で、2023年6月13日にウクライナ軍に殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体の側をウクライナ軍兵士が歩いた。村の路上にはロシア兵が死体が横たわった。

ウクライナ軍の反撃で解放したドネツク州のネスクチノエ村で、2023年6月13日にウクライナ軍に殺害されて死亡したロシア軍兵士の死体の側をウクライナ軍の戦闘員が歩いた。ネスクチノエ村の路上にはロシア兵が死体が横たわった。

 2023年6月10日に、ウクライナ軍がドネツク州のネスクチノエ(Neskuchnoye)村を激しい戦闘で解放したと6月11日に報道された。6月15日に、ウクライナ軍は東部および南部方面の領土を徐々に解放していると公表した。6月4日からウクライナ軍の反撃が始まった。モクリ・ヤリ川の周辺にある集落の一つであるネスクチノエ村の住民は一人も発見されなかった。反撃作戦開始して以来、ウクライナ軍がロシア軍の占領地に南進して奪還したと発表した。ロシアが侵攻する前は、数百人の住民が住む村の建物のほとんどが被害を受けた。



Warning: A fighter of the Armed Forces of Ukraine walks past the body of a dead Russian soldier in Neskuchnoye (Oleksandr Ratushniak/Reuters/Scanpix/LETA)


 吹き飛ばされたロシア軍兵士の死体が、放棄されたロシア軍車両の隣に放置された。少なくとも3人のロシア軍兵士の死体が、路上に横たわった。州都ドネツク市の南西約90kmに位置するネスクチノエ村で、ウクライナ軍の侵攻が確認された。ネスクチノエ村は、2014年にも一時的にロシア軍に占領された。ロシア軍の支援を受けた戦闘員がドネツク州と隣接するルハンスク州の広大な土地を占拠した。その後に、ネスクチノエ村はウクライナに戻ったが、2022年2月24日の侵攻直後にロシア軍に占領された。



Warning: The body of a Russian soldier who was blown up lies next to an abandoned Russian military vehicle (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)


 ウクライナ軍当局は、攻勢の直前ははほとんど情報を提供しなかった。6月12日時点で、7つの集落を奪還したと発表した。ロブコヴェ(Lobkove)、レヴァドネ(Levadne)、ノボダリフカ(Novodarivka)、ネスクチノエ(Neskuchnoye)、ストロジェヴェ(Storozheve)、マカリフカ(Makarivka)、ブラホダトネ(Blahodatne)村が解放されたと述べた。ウクライナ軍は最大約6.5km前進して、南部の前線100kmに沿った90平方kmの土地を奪取したと公表した。ロシア軍とウクライナ軍は、ウクライナ東部と南東部のドネツク州とザポリージャ州の国境沿いで激しい衝突が発生して、反撃の一環として一連の村を奪還した。

2023年6月11日日曜日

ワグネル民間軍事会社代表のプリゴジンは、2023年5月5日にテレグラムで、地面に横たわる血まみれのロシア人傭兵の約30体の死体の前に立って、ロシア軍に弾薬を要求した。

ワグネル民間軍事会社の代表のエフゲニー・プリゴジンは、2023年5月5日のテレグラムに非公開される場所で、ワグネル民間軍事会社の戦闘員の死体の前に立って叫んだ。戦場の最前線と思われる屋外でプリゴジンは小さな懐中電灯を照らしながら、悲惨な動画で弾薬不足に怒り、5月10日にバクムトからの撤退を誓った。プリゴジンは、地面に横たわる血まみれの軍服姿のロシア人傭兵である約30体の死体の前に立って、ロシア軍に弾薬を要求した。この約30体の死体は、5月5日までの1日間にバフムトの戦闘で殺害された。プリゴジンは、「ここにいるのは、本日殺害されたワグネルの傭兵たちである。血はまだ新鮮だ。全員を撮影しろ!」と叫んだ。

 ロシアの傭兵グループのワグネルの創設者であるプリゴジンは、バフムト攻略のための血なまぐさい戦いの先頭に立つ民間軍事会社が、5月10日からウクライナの都市バフムトから撤退することを発表した。弾薬不足を憤慨しながら、ワグナー戦闘員の死体を示した悲惨なビデオを公開して、そのわずか数時間後に撤退を公表した。ビデオ映像の中で、セルゲイ・ショイグ国防相とヴァレリー・ゲラシモフ参謀総長を罵倒した。この死体は誰かの父親であり、誰かの息子なんだと、プリゴジンは死体を指差しながら、ワグネルに弾薬をくれない野郎どもは、地獄で腹の肉を食ってやる!と罵倒した。プリゴジンは、第二次世界大戦でロシアがナチス・ドイツに勝利を祝う5月9日の翌日に、バフムトからの撤退を示唆した。

 プリゴジンは軍服に身を包み、重武装した数十人のワグナー部隊の兵士に囲まれながら、ワグネルの勝利を妨げているとロシア軍と隣接する官僚たちを非難した。ロシアの参謀本部長と司令官に対して公式に宣言した。私のワグネルの部下は、弾薬を持たずにバクムトで無意味で不当な犠牲を出すことはしない。戦勝記念日の祝日の5月9日まで任務を遂行して、5月10日からワグネルはバクムートの戦場を離れると主張した。












Warning: Prigozhin forces stood in front of bodies he presented as fallen Wagner mercenary group fighters at an undisclosed location in this image taken from video and posted to Prigozhin’s Telegram channel. 

2023年4月9日日曜日

ロシア軍とウクライナ軍の間で激しい戦闘が行われたウクライナの首都キエフ北部のモシュチュン村で2022年3月30日に、民家の間にロシア兵の遺体が横たわった

ロシア軍とウクライナ軍の間で激しい戦闘が行われたウクライナの首都キエフ北部のモシュチュン(Moshchun)村で2022年3月30日に、民家の間にロシア兵の遺体が横たわった(Heidi Levine for The Washington Post) 。他にも約10体の死体がモシュチュン村に散乱し、そのうちの数人は森の端にあった。無数のロシア軍の死体が戦場に放置された。ウクライナ軍の安置所や冷蔵鉄道車両に約7,000体の引き取らないロシア軍兵士の死体があった。ロシア軍は、行方不明として報告するのが安上がりであった。

 モシュチュンの戦いは、ロシア軍のウクライナ侵攻の2022年3月5日から3月21日に、モシュチュン村で軍事交戦が勃発した。北方玄関口となり、キエフ防衛中の最も激烈で重要な戦闘の一つであった。ロシア軍は、約600人が戦死して、約600人が戦傷して、ウクライナ軍は約55人が戦死した。

 ウクライナ首都キエフの北にあるウクライナの村、モシュチュンの住民は、4月21日には自分の家に戻ることができた。ロシア軍が撤退する前に、対人地雷やその他の爆発物の痕跡を残した。この地域所には、まだ死の危険が潜んでいた。ロシア軍の侵攻で、焼かれ、爆撃を受けた自宅に戻るには、住民は死傷のリスクを書面で受け入れ、村の入口を警備するウクライナ軍からの免責書に署名が必須であった。

 住民は部分的に清掃しても、庭に爆発物が残存した。2022年2月24日のロシア侵攻の開始後に、ウクライナ国外に避難した数百万人のウクライナ人のうち、特に首都キエフ北部の住民は、ウクライナ軍の激しい抵抗に遭ってロシア軍が撤退した地域に帰還した。大部分の家が略奪され、窓は割れ、壁には破片が飛び散った。一部は、完全に焼失した。すべてを元の状態に戻す前に、不発弾が洗剤する可能性を慎重に検証が必須である。公式の地雷除去チームは、村のすべての建物を調査できない。不発物や罠のリスクがある。ロシア軍は、地面に置いた宝石の下に穴を掘って、爆発物を置いた。子ども用のおもちゃやウクライナ軍兵士の死体にもリスクがある。住民は、脱出の際、村民の中には書類や着衣以外は、爆発や火災で焼かれた。生き残った喜びを感じつつも、住民に対する暴行を目撃したトラウマを背負った。ロシア軍の爆撃から逃れるために、異なる家の地下室に潜んだ。











Warning: Bodies of Russian soldiers lie among civilian homes on March 30 in the village of Moshchun, Ukraine, where heavy fighting between Russian and Ukrainian forces (The Washington Post by Heidi Levine).

2023年4月4日火曜日

1904年に鉄道破壊する妨害罪の容疑者の朝鮮人の3人が死刑執行が公開された。日本軍兵士は銃撃してもまだ生きている朝鮮人に、撃った後の射撃の効果を検証した。

1904年に鉄道破壊する妨害罪の濡れ衣を着せられて朝鮮人の3人が死刑執行が公開された。日本軍兵士は銃撃してもまだ生きている朝鮮人に、撃った後の射撃の効果を検証した。中央の囚人は一発目で顎に、右の囚人は右腕に銃弾を受けた。目隠しをされた朝鮮人は、ロープをかけられ、十字架の上に乗せらた。単にロシア軍に幇助の罪で告発された3人の朝鮮人が処刑された。3人の囚人は、小隊として配置された多くの日本軍兵士の射撃の標的に利用された。9人の日本軍の射撃隊はで構成され、約25mメートル以上の距離から射撃した。銃撃は将校が命令して、監督した(La Vie illustrée, 1904年12月2日号: ラヴィ・イリュストレは1898年から1911年まで刊行されたニュース週刊誌である。多数の写真で出来事を報道した)

 1910年8月29日から日韓併合して約1年後に、満州において鉄道を妨害して止めた3人の朝鮮人の義兵を捕獲した。日本軍兵士が、朝鮮人義兵を木に縛り付けて銃殺した。捕らえられた朝鮮人の囚人は、朝鮮独立運動の抑止力として見せしめに銃殺された。日本軍が朝鮮半島に鉄道を敷設すると土地を差し押さえて、何の補償も受けれない3人の朝鮮人たちが、1905年に鉄道の線路を引き抜いて逮捕されて銃殺された。処刑場面は、9枚の一連の写真がある。

 日清戦争開戦を目的とした日本軍大部隊が朝鮮に侵入、王宮占領を起点に始まった反日義兵闘争は、その後1910年代前半まで、約20年間も展開された。日本軍は義兵を暴徒に矮小化した。義兵の闘争の規模から、戦争に匹敵した。日韓併合の次期に、朝鮮独立運動の過程で犠牲になった朝鮮人は少なくとも約15万人以上と推定された。そのうち国家から叙勲を受けた朝鮮人は1,500人もいない。約90%以上の朝鮮人の犠牲者は行方不明である。朝鮮八道で蜂起した数多くの義兵たちもほとんど不詳である。日本軍の警察の尋問は常に審問的である。朝鮮人の自白を狙った。1897年12月8日に成立した法律では、司法の尋問の形式や障害に左右されなかった。実際の証拠がない場合、容疑者、起訴された犯罪を最初から非難された。当分の間、証言を拒否する自由、弁護士を選ぶ権利、弁護士なしで裁判で証言しない権利を秘密裏にした。




2023年3月31日金曜日

日本軍に侵略された1928年5月3日の済南事件で、お菓子を売る子供たちが、かごの中に中央銀行券を入れていたため、日本刀を持った日本軍兵士に切り刻まれて殺害された。

日本軍に侵略された済南で1928年5月3日の済南事件の悲劇が5月11日まで勃発した。お菓子を売る子供たちが、かごの中に中央銀行券を入れていたため、日本刀を持った日本軍兵士に切り刻まれて殺害された。子供たちのお菓子のかごの中にあった三角形の中国中央銀行券が発覚して殺害された。子供は、山東省済南市の2番大通りの木に縛られ、首をはねられた。

 中国在留の日本人の保護を口実に、4月下旬に日本軍第6師団を約5000人の兵力が、青島から山東に侵攻した。青島の上陸した日本軍第6師団は、昼夜を問わず侵攻して、4月末にようやく済南郊外に到着した。4月21日に、日本軍は在留日本人の保護の名目で、天津から済南へ3個分隊を派遣した。4月25日から27日まで、日本軍は青島に上陸し、膠済鉄道に沿って軍隊を済南に輸送した。4月28日に、済南の日本軍は約3,000人以上に達した。日本軍は、魏志路を中心線とする済南の商業港で2つの保安区に分けて、要塞を築き、道路封鎖を敷き、戒厳令を敷いた。

 5月1日に、蒋介石が率いる北洋遠征軍が済南に侵入した時に、在留日本人の保護を口実に数千人の日本軍兵士が集まって介入した。蒋介石は応戦しないことを命じ、忍耐と引き換えに済南の平和を期待した。5月2日に日本軍は、さらに残虐な攻撃を仕掛けた。5月3日に日本軍は済南の重要部門を強制的に占拠し、ラジオ局を爆破し、中国国民党軍兵士や市民を虐殺した。無差別に兵士、市民を問わず、男女、若者を問わず、中国人が至る所で銃を乱射した。日本軍は、家屋に侵入して、中国人女性を強姦し、住民を連れ去り、殺害した。日本軍は商業地に砲撃を加え、家屋を燃やし、道路には銃声と血の海が広がった。た。済南の市街地を占拠して、約10,000人近い中国国民党軍兵士や中国人市民を殺害した。中国内外に衝撃を与えた済南の5月3日の悲劇が勃発した。

 北伐する北洋遠征軍兵士や中国人を無差別に殺害して、古都・済南を地獄と化した。山東省にいた国民党政府の特別外交官の蔡焜燦が日本軍に抗議した。日本軍は国際条約を無視して、蔡焜燦を含む約17人の外交官を残虐に殺害した。5月11日に、日本軍は、済南を陥落した。日本軍は、陥落した済南市に白色の恐怖支配を課した。中国人は約6,123人が殺害された。日本人は兵士が約26人が殺害されて、民間中国人は約15人が殺害された。



2023年2月26日日曜日

プーチン・クレムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP)は、2022年3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡し、約16153人が戦傷したとネット発表した。

ロシア・ウクライナ戦争が勃発した直後の2022年3月5日に、ウクライナのシトニャキ(Sytnyaky)付近にて、ロシア軍とウクライナ軍の間で直前に激しい戦闘があった。その道路脇に、殺害されたロシア軍兵士の死体散乱した。



   







Warning: A corpse of a dead Russian soldier sits on the side of the road where there was recent heavy fighting between Russian and Ukrainian forces, near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. (MARCUS YAM / LOS ANGELES TIMES)

 プーチン・レムリン親派のロシア紙コムソモリスカヤ・プラウダ(KP:Komsomolskaya Pravda)は、3月20日にウクライナ戦争開始以来、約9861人のロシア軍兵士が死亡して、約16153人が戦傷したとネット発表した。3月20日にKP紙のウェブサイトに掲載されたKPの記事のスクリーンショットである。ロシア国防省の報告を引用して、ウクライナ戦争開始以来に、約9861人のロシア軍兵士が死亡したと報じた。約4時間後、この9861人の数字が記事から削除された。その後、同紙の編集者は、この情報の公開はハッカーの攻撃によ数値であると発表した。



















 3月20日のネット記事で、KPがロシア国防省の数字を参照して、2月24日にロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に、約9861人のロシア軍兵が死亡したと記載された。ロシア軍当局が、公式に3月2日に認証したのは、約498人の戦死と約1597人の戦傷したロシア軍兵士だけであった。3月22日にロシア国防省で殺害されたロシア軍兵士に関する情報は皆無であった。KP紙のウラジミール・スンゴルキン編集長はイギリスBBCに対し、約9861人の戦死数は、ハッキング攻撃の結果であると示唆した。

 ロシア・ウクライナ戦争が勃発して以来に約1ケ月間の犠牲者は、ほぼ1万人のロシア軍兵士の殺害を示唆した。1980年代のアフガニスタン戦争では、ソ連軍は約9年間で約1万5千人のソ連軍兵士が殺害された。アメリカ軍が主導した9年間のイラク戦争で殺害された連合軍兵士の死者数の約4825人(アメリカ軍約4,507人、イギリス軍約179人、その他約139人)の2倍以上に達した。アメリカとウクライナ当局は、ロシア軍の死者数を約7000人以上から1万人近くと推定した。モスクワ当局は、3月上旬に新しいメディア法を導入して、ロシア軍に関する誤報には厳しい罰則を課した。3月5日に、ウクライナのシトニャキー近郊の荒原には、殺害されたロシア軍兵士の死体が横たわった。



















Warning: A corpse of a Russian soldier lies in a field near Sytnyaky, Ukraine, Saturday, March 5, 2022. Los Angeles Times / Polaris

2023年2月21日火曜日

第一次世界大戦にて、ドイツ軍が占領したルーマニアのブンツラウ捕虜収容所で、1917年春にコレラやチフス、飢えや窮乏で、多量のルーマニア人とロシア人の囚人が死亡した。毎月に数個の集団墓地の墓穴に約300から500体の死体が埋葬された。

第一次世界大戦の東部戦線において、ドイツ軍が占領したルーマニアのブンツラウ(Bunzlau)捕虜収容所では、1917年春にコレラやチフス、飢えや窮乏で、多量のルーマニア人とロシア人の囚人が死亡した。その死体を埋めるために、毎月に2から3個の集団墓地を掘る必要があった。それぞれの墓穴には約300から500体の死体が埋葬された。見捨てられた無残な死体を集団墓地に投げ込む度に、血や汚物の跡が、集団墓地の縁に残った。死体は穴に投げ込まれ、土を被せられた。















 

  




Ernst Friedrich(1894-1967)"Krieg dem Kriege! (War against War!, Guerre à Guerre!, Oorlog aan den Oorlog!, 戦争に反対する戦争, p118, 龍渓書舎, 1988年)

ロシア軍兵士の死体を共同墓地に集団埋葬するのに、ドイツ軍はロシア人捕虜に強制労働させて、集団墓地にロシア人の死体を詰める作業を強制した。共同墓地は、毎日ロシア人捕虜は共同墓地を設置した。斜めに立位して待機しているのが、ロシア人の死体を集団埋葬したロシア人捕虜であった。共同墓地に積み上げられた死体から衣服なども略奪されていた。ドイツ軍兵士は、敵国であるロシア軍兵士の死体は、憎しみながら虫けらのように扱った。





 






Ernst Friedrich(1894-1967)"Krieg dem Kriege! (War against War!, Guerre à Guerre!, Oorlog aan den Oorlog!, 戦争に反対する戦争, p109, 龍渓書舎, 1988年)

 第一次世界大戦にて、ルーマニア王国は1916年8月27日に、ロシア軍のブルシロフス攻勢を受けて、連合国側として第一次世界大戦に参戦した。ルーマニア軍は、1916年12月6日にドイツ軍により首都ブカレストのワラキア地域を喪失して、国境付近まで退却した。1917年12月に、ルーマニアは10月革命によりロシア軍の撤退により休戦に追い込まれた。1916年末にはルーマニア古王国領のうち、西モルダビアだけがルーマニア軍とロシア軍の支配下に残存した。ハンガリー・ルーマニア戦争が、1918年11月13日から1919年8月3日まで勃発して、ルーマニアはハンガリーを一時的に占領して第一次世界大戦後に返還させられた。

2023年2月17日金曜日

ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。アフガニスタンのムシャヒディンは何も言わず、ソ連侵攻後も生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。

ソ連のアフガニスタン侵攻は、1979年12月24日にアフガニスタンにソ連の軍隊が侵攻した。アフガン戦争(1978-92)で反共産主義のイスラムゲリラと対立したアフガニスタン共産党政府を支援するためにソ連軍は介入した。その後1989年2月中旬までアフガニスタンに駐留した。

 1978年4月に、モハンマド・ダウド・ハーン大統領率いるアフガニスタン中道政権は、ヌール・モハンマド・タラキ率いる左翼軍人に打倒された。その後、マルクス・レーニン主義の人民(ハルク)党と旗国(パーチャム)党が権力を握った。以前は人民民主党の組織から生まれ、クーデターの直前に不安な連合体として再統合された。新政府はソ連と緊密な関係を築き、アフガニスタン国内の反対勢力を冷酷に粛清して、大規模な土地・社会改革を開始した。敬虔なイスラム教徒と反共産主義者が多いアフガニスタン国民からは激しい反発を受けた。部族と都市の両方のグループから、政府に対する反乱が起こった。反対グループはすべて、ムジャヒディーン(アラビア語のmujāhidūn、「聖戦に従事する者」)と総称され、イスラム原理主義を志向した。

 1982年にアフガニスタンのボコハム(Bokoham)付近では、ムシャヒディンの負傷者を収容するために戦線近くの家である最前線の回復センターは、負傷したアフガニスタンのムジャヒディンの兵士でほとんど埋まった。ジャマカール青年は、腕と脚に重症の怪我をして、窓際に仰向けに寝ていた。

 ヤコウブ医師はジャマカール青年の左大腿の傷口から膿を排泄させて水で傷口を洗浄した。何も言わず、世の中の愚かさを生き抜き、悲壮な表情で我慢して座位になった。旧式のかばんから錠剤を配った。入院者は煮沸した水だけを飲み、ゆで卵とナンのみを食べて、肉、米、スープは絶食した。ムシャヒディンは、数ヶ月間絶えずソ連軍と戦った。ムシャヒディンは生きているだけで精一杯だった。カラシニコフを膝に挟んで何時間も座り続けた。頬骨が高く、黒髪のたてがみを持ち、目はうつろで、獰猛な印象を与えた。突然、他の誰かに牙を剥き、嘲笑うのである。最初は無視したり、宥めたり、プライドが邪魔して言い争いになり、最後は怒鳴り合いになった。




2022年12月29日木曜日

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、1936年2月13日に帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。そのうちの何人かの死体は性器を切断されて去勢された。ゴンドランドの虐殺(Gondrand Massacre)は、1936年2月13日にアフリカのエチオピアにて、ゴンドランド社のイタリア人の男性労働者が襲撃されて虐殺された事件である。ファシスト・イタリア当局は、エチオピアの征服を正当化するプロパガンダのために公表した。

 ゴンドランドの虐殺事件は1936年2月13日に、エチオピア北部の町マイ・ラーラ(現ラマ)付近で発生した。当時に、道路建設に従事していた物流会社ゴンドランドの民間イタリア人労働者の宿舎が、ラス・イムルの命令を受けた帝国エチオピア軍によって夜明けに襲撃された。建設現場には約15丁のマスケットが備え付けられ、イタリア人労働者も作業道具を防衛用武器として使用した。帝国エチオピア軍の奇襲に虐殺された。1936年2月10日から19日にかけて、マイ・ラーラの南約200kmで行われたアンバ・アラダムの戦いとほぼ同じ時期にゴンドランドの虐殺事件が勃発した。

 約130人の労働者のうちで、約68人のイタリア人が殺された。そのうちの約17人の死体は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの「敵の死体を切断するな」という命令に反して帝国エチオピア軍は去勢した。他の27人は負傷し、約4人が行方不明となった。このうち約2名は後に捕虜となっていた。攻撃で約40人の帝国エチオピア軍兵士が死亡したが、その多くはゲルグナイトの貯蔵所の爆発で殺害された。この攻撃の後、イタリア軍兵士によるエチオピア市民への報復する虐殺が行われ、数え切れないほどの死者を出した。

  第二次エチオピア戦争(1935年10月3日から1936年5月5日)にイタリア王国とエチオピア帝国との戦争である。約15,000人のイタリア人と約275,000人のエチオピア人が殺害された。第一次エチオピア戦争(1894年12月15日から1896年10月23日)で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行って、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスにてエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。イタリアはエチオピア全土を占領した状況を背景に、アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国した。国際紛争の解決にて大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われたが、イタリアに対して実効的ではなかった。イタリアは孤立して、ドイツおよび日本と枢軸国を形成する道をたどった。




2022年12月14日水曜日

アメリカ側の5つの歩兵大隊と1つの空挺大隊が集結して、約1500人の部隊が、1961年4月17日にグアテマラとニカラグアを船で出発し、4月17日の夜にキューバ侵攻軍はピッグス湾のプラヤ・ジロン海岸に上陸し、地元の革命的民兵を圧倒した。

ピッグス湾侵攻作戦(The Bay of Pigs Invasion)、地名のプラヤ・ジロン(Playa Girón)、1961年4月17日にキューバ亡命軍がアメリカから秘密裏に資金と指揮を受けて、キューバの南西海岸に上陸した。フィデル・カストロの共産主義政権を転覆させる目的であった、冷戦の真っ只中に失敗した。キューバ革命軍は、約176人が殺害されて、約500人が戦傷した。民兵は、約2,000人が戦死傷した。キューバ亡命軍は、約118人が殺害されて、約360人が戦傷して、約1,202人が捕虜になった。アメリカ軍兵士は、4人が殺害された。

 1958年12月に、アメリカの同盟政権にいたバチスタ将軍は、カストロの率いる7月26日運動によってキューバ革命で退位した。カストロは、銀行、製油所、砂糖・コーヒー農園などのアメリカ企業を国有化し、アメリカとの関係を断絶し、冷戦時代のソ連と連携した。中央情報局(CIA)はカストロ政権の打倒を計画して、1960年3月にアイゼンハワー大統領が承認した。カストロがキューバ政権奪取後に、アメリカに移住したキューバ人亡命者は、民主革命戦線(DRF)の武装部門である反革命軍団(2506旅団)を結成した。CIAはアメリカ軍も含む2506旅団に資金を提供し、グアテマラで部隊を訓練した。

 アメリカ側の5つの歩兵大隊と1つの空挺大隊が集結して、約1500人の部隊が、1961年4月17日にグアテマラとニカラグアを船で出発した。4月17日の夜に、キューバ侵攻軍はピッグス湾のプラヤ・ジロン海岸に上陸し、地元の革命的民兵を圧倒した。キューバ革命軍の反撃は、当初はホセ・ラモン・フェルナンデスが指揮したが、後にカストロが自ら指揮を執るようになった。キューバ革命を争点で選挙に勝利したケネディ大統領が立案した作戦は、空軍と海軍の両方が関与したが、作戦の主導権を奪われ、空軍支援の差し控えを決定した。空軍支援なしで、CIAが想定した少ない兵力で侵攻が行われた。侵攻軍は3日でキューバ革命軍に敗れて、4月20日に降伏した。降伏した部隊は、公開尋問を受けて、キューバの刑務所に収監された。

 キューバ侵略は、アメリカの外交政策の失策となった。キューバ政府の勝利で、カストロは、国民的英雄の役割を強固にし、かつて同盟関係にあったアメリカとの政治的分裂を拡大させた。キューバはソ連に接近して、1962年のキューバ・ミサイル危機の舞台となった。




2022年12月5日月曜日

アフガニスタンのペシャワールのヘズミ・イスラミ軍事病院にて、13歳のアフガニスタン・ゲリラの少年兵であるモハメド・ホジャナビは、地雷で切断された右膝以下の断端の傷口を処置された。

アフガニスタンのペシャワールのヘズミ・イスラミ軍事病院にて、13歳のアフガニスタン・ゲリラの少年兵であるモハメド・ホジャナビは、地雷で切断された右膝以下の断端の傷口を処置された。1980年7月下旬以降に、アフガニスタン人の少年兵は、右下腿が吹き飛んで、ザクロのように深部組織が赤く裂けて、白骨がむき出しになり重態となった。オキシドールにて、傷口を消毒して染みると、激痛が走って、目に涙をためて歯を食いしばって疼痛に耐えていた。

 ホジャナビは、ジャララバードに近いナンガルハール州のソルクロット基地から夜間出撃した途上にて、ソ連軍が山岳地帯の山道に散布した小型爆弾を踏んで、爆発して右下腿が吹き飛び切断された。ソ連軍の接触爆弾は空中地雷と呼称される人員殺傷用の小型爆弾であり、少年兵はそれに接触して爆発した。アフガニスタン人少年兵のホジャナビは、ソ連軍のアフガニスタン侵攻に、ゲリラ戦で対抗した。ホジャビは戦場で負傷して、ロバの背に載せられ移送されて、軍事病院に収容されて、切断の処置を受けた。 

 アフガニスタンの少年ゲリラの多くは、肉親がソ連とアフガニスタンとの戦闘で殺害されてイスラム教で殉教したと思い込んだ。イスラム教の聖戦で戦死した肉親の遺志を、少年兵を志願して引き継いだ。アフガニスタンの部族では、復讐する掟であるバダルは、イスラム教で重大なる義務となった。復讐を果たすまでは、殉教の義務から解放されない。復讐する義務は、肉親の家族から一族までに世代間にまで及んだ。バダルにより、聖戦として生か死かの二者択一に陥る。ハムラビ法典の「目には目を、歯には歯を」の戒律の文化が潜伏した。

  ソ連軍のアフガニスタン侵攻は1979年12月25日に始まり、1989年5月15日から撤退を始めて1989年2月15日の完全撤退まで続いた。アフガニスタン政府はムジャヒディンと呼称される反対派に対抗できず、ソ連軍の援助を求めた。ソ連軍の参戦により、地元住民に潜伏したムジャヒディーンに対して大規模な軍事侵攻した。大量の破壊と戦傷により、地元アフガニスタン人住民がムジャヒディーンに味方した。駐留するソ連軍に、全国的な抵抗から紛争に及んだ。ソ連軍の戦死者は約1万5千人、戦傷者は約3万5千人である。アフガニスタンの民間人は、約200万人が犠牲になった。




2022年10月11日火曜日

2014年2月20日に、ウクライナ人のデモ隊はキエフの大学通りで治安部隊の狙撃兵の射撃に狙われて、インスティトゥツカヤ通りで左側のイワン・パンテレエフが殺害された。

 2014年2月20日に、ウクライナ人のデモ隊はキエフの大学通りで治安部隊の狙撃兵の射撃に狙われた。インスティトゥツカヤ通りで、左側のイワン・パンテレエフ(Ivan Panteleev)が殺害された。彼は狙撃された負傷者を運び出そうとして、狙撃の弾丸の標的になり射殺された。奥のイヴァン・ラポヴィ(Ivan Rapovyi)は狙撃で負傷した。2月20日の独立広場(マイダン)で約75人以上の死者のほとんどは路上で殺害されて、約363人以上が負傷して入院して、暗黒の木曜日と呼称された。1月19日からデモ隊と治安部隊の間で大きな衝突をして、2月19日から2月20日にかけてデモ隊と治安部隊との激しい衝突により、約108人のデモ隊と約13人の治安部隊が死亡して、多くの犠牲者を出した。最後の日にあたる2月21日の大学通りでの狙撃では、市民が木製の盾を手に狙撃兵の方に向かって殺害された。人々はばらばらに前へと飛び出して、彼らに対する銃撃が始まり、多くの市民が殺害された。

 ウクライナのヤヌコーヴィチ大統領が、欧州連合(EU)との関係を強化する法案が成立する直前の11月21日に反故にした。その直後から、キエフでの反政府市民運動のデモが勃発して独立広場で展開した。2013年から2014年にかけて、ウクライナの独立広場で尊厳の革命が勃発した。治安部隊は大統領に従って武器を使用する権利と義務を強行した。大統領を解任された親ロシア派のヤヌコーヴィチは、2月22日にウクライナを脱国してロシアに国外亡命した。 

 ウクライナの尊厳革命後に、暴動がウクライナ南部と東部にも拡大した。2月27日にロシア派武装勢力がクリミア政府庁舎と議会を占領した。プーチン大統領の命令で、ロシア軍は、3月1日にクリミア半島に侵攻して直後から実効支配した。ウクライナ南部クリミア自治共和国では3月16日に、ロシアへの編入の是非を問う住民投票が実施された。同共和国選挙管理委員会によれば、投票率82.7%、開票率75%の段階で、ロシアへの編入に賛成票を投じた人の割合は95.7%に至っている。ウクライナ東部の親ロシア派の住民たちはウクライナ過激派を恐れ、ロシア国営放送は彼らをネオナチと報じた。ロシアのプーチン大統領は、ウクライナ暫定政権は過激派によって成立した政権であり、正当性を認めなかった。2022年2月24日午前5時から特別軍事作戦により、ロシア軍は東部のウクライナ軍に集中砲撃が勃発して、ロシア・ウクライナ戦争が勃発した。




2022年8月18日木曜日

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士から、日本軍に殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士は、上海市宝山区に位置する大場鎮にて殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。1937年10月26日、日本軍の上海派遣軍は上海近郊の要衝である大場鎮を攻略して、10月27日に、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。大場鎮を陥落して、上海はほぼ日本軍の制圧下になった。11月9日には中国軍は退却を始めて、上海は日本軍の占領下に置かれた。

 日本海軍陸戦隊が、1937年8月23日に上海の呉淞鎮に上陸した。10月23日から総攻撃をして、10月25日に廟行鎮、11月11日には南翔の堅塁を陥落した。さらに北進して、大倉、常熟、無錫に侵攻した。その当時に、上海は人口は約150万人、中国全土の約85%の工場を有して、第一の海外貿易額を有した。上海事変によって、上海市街の大半は壊滅して瓦礫となった。日本人租界の虹口、北閘の一部は、崩壊して瓦礫が散在した。

 上海の市街地の両側の道路で対峙して、向かい合って白兵戦となり悲惨な大量の虐待と虐殺を伴う死闘を伴った。大場鎮向けて二重や三重の塹壕が続いて、中国軍兵士の死体はを納めた棺が放置されていた。塹壕内には血に染った軍服、帯革、水筒、懐中電灯、カンテラ、軍報、笠、食器類など殊にドロドロになった布団の散乱していた。その戦場となった上海の大場鎮の周辺地域では、殺害された死体が放置されて、半ば白骨化していた。

 日本軍は大昌の戦い(10月1日から26日)で、雲沢濱江を渡り、上海市街と西北の郊外の町を結ぶ通信路である大場鎮を奪取を目指した。大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となり、幾度の決死の突撃を繰り返した。日本軍は、約700門の大砲と約150機の爆撃機を投入し、大昌の町は完全に瓦礫と化した。戦闘は非常に激しく、1時間当たりの平均死傷者数は数千人に達し、数日で崩壊した師団もあった。この激戦は10月25日に、ついに大昌が陥落するまで続いた。この時、中国軍は約3ケ月近く守り続けた上海市街地から撤退した。