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2024年3月15日金曜日

1994年7月21日に、ザイールのゴマ郊外約10kmにある難民キャンプで、ルワンダの難民の少女ちが、両親の死体のそばで泣いた。ルワンダにてツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)からフツ族が逃れてきた。

1994年7月21日に、ザイールのゴマ郊外約10kmにある難民キャンプで、ルワンダの難民の少女ちが、両親の死体のそばで泣いた。ルワンダにてツチ族のルワンダ愛国戦線(RPF)からフツ族が逃れてきた。何千人ものフツ難民が、難民キャンプにたどり着くも、コレラ等の流行で多くの命を落とした。

 ツチ族のポール・カガメは1994年の5ヶ月の間に、何百万人ものフツ族のルワンダ人をコンゴ民主共和国、ブルンジ、ウガンダ、タンザニア、ケニアの国境に追いやった。数百万人のフツ族のルワンダ人が、5ヶ月の間にすでに殺害されていた。ポール・カガミ下のルワンダでは、5ヶ月の間に、ルワンダ人の死体が千の丘の尾根に散乱していた。ポール・カガメは、5ヶ月の間に、ルワンダのフツ族の男性をアガフニから逃避しないように、ルワンダ全土に道路封鎖を設置した。5ヶ月の間に、何百万人ものフツ族のルワンダ人がすでに国を失い、両親を失い、叔父を失い、親戚を失い、姉妹を失い、兄弟を失い、祖父を失った。

 ポール・カガミ下で1994年り5ヶ月の間にルワンダはジャングルと化した。ポール・カガミは、インテルハムウェ民兵でさえ敢行できない殺害命令を下した。宗教指導者と難民を攻撃することを、ポール・カガメとツチ族が結成したルワンダ愛国戦線はそれを実行した。ポール・カガメは、カブガイ大聖堂に避難した3人のカトリック司教の虐殺を命じた。カガミは、彼らがバントゥー人である理由だけで、彼らの抹殺を命じた。補佐司教、司祭、修道女、兄弟、信徒の教会指導者、青少年指導者などの聖職者も虐殺された。悲惨な母親のエスペランス・ムカシェマは一緒に教会に避難した4歳のツチ族の男の子であるエスペランス・ムカシェマは、ツチ族によるジェノサイドのフツ族の生き残りで、4歳の息子は、ガクラのカソリック聖職者全員と一緒に殺された。

 ルワンダ虐殺は、フツ族の過激派により1994年4月7日から7月15日までツチ族の虐殺が勃発した。フツ族によるジェノサイドで107万4,017人が殺害され、その94%がツチ族であった。7月4日にツチ族のルワンダ愛国戦線が、ルワンダ全土を制圧して終結した。1994年以降のルワンダにおいてツチ族によるジェノサイド統治された。ルワンダ愛国戦線の勝利後に、約200万人のフツ族が、報復を恐れて近隣諸国、特にザイールの難民キャンプに逃れた。





2023年12月8日金曜日

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネを解放後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕で救援物資を握りしめたまま殺害されていた。

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネ(Ikot Ekpene)を解放した後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕の中で救援物資を握りしめたままで殺害されていた。

 ビアフラ共和国は、1967年5月26日に虐殺されたイボ族を理由に、ナイジェリアからの分離独立を宣言して、1967年から1970年まで存在した。1960年10月1日にナイジェリアがイギリスから独立した後に、一連の民族的緊張と軍事クーデターが発生し、1966年にはイボ族に対するポグロムが勃発した。約3年間のナジェリア内戦にて、ナイジェリア軍による全面封鎖により、約200万人のビアフラ市民が餓死した。ナイジェリア軍は1960年の独立時に、戦闘ではなく市民を鎮圧する国内治安部隊となった。1966年6月から10月には、ナイジェリア北部で約8,000人から約30,000人のイボ族が虐殺されたポグロムが勃発した。1967年7月6日にナイジェリア軍がビアフラに侵攻して、ビアフラ戦争が勃発した。国際的に、ポグロムと飢饉はジェノサイドに分類され、ホロコーストを非難された。1970年1月14日に、ビアフラ共和国が降伏文書に調印して、内戦の終結と分離独立を放棄した。

 ナイジェリア南部のイコット・エクペネは、おそらく他のどの町よりも、ナイジェリア内戦によるビアフリア戦争で深刻な影響を受けた。ビアフリア軍にとってもナイジェリア軍にとっても、戦略的、軍事的、政治的に重要な町だった。この苦い紛争の中で、町とこの地域は少なくとも3回、所有者が変わった。戦争後、新たな再編成と国家構造により、アンナグ族の指導者のほとんどが戦争中に虐殺された。アナング族はナイジェリア内戦で 大虐殺を受けた。戦争は約3年間(1967年〜1970年)続いて、アナング族はかなりの数の人々を失った。















   1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争は、2年半の内戦でビアフラ市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が死亡した。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破ってナジェリア政府軍によるビアフラ市民への暴力を公に非難して、1971年12月22日、国境なき医師団(MSF: Médecins Sans Frontières)が設立された。

2023年11月21日火曜日

1976年3月11日にアフリカのナイジェリアのラーゴで、クーデター未遂事件の容疑者たちは公開で銃殺刑された。2月13日のクーデター未遂事件に関与した容疑者の32人が、銃殺で処刑された。

1976年3月11日にアフリカのナイジェリアのラーゴで、クーデター未遂事件の容疑者たちは公開で銃殺刑された。1976年2月13日のクーデター未遂事件に関与した容疑者の32人が、銃殺で処刑された。

 1976年ナイジェリア・クーデター未遂事件は、1976年2月13日にナイジェリアで起きた軍事クーデター未遂事件であった。ブカール・スワ・ディムカ中佐が率いる軍将校一派が、ムルタラ・モハメッド将軍(1975年7月にクーデターで政権を奪取)政権の転覆を図った。

 モハメッド将軍は、側近のアキントゥンデ・アキンセヒンワ中尉とともにラゴスで暗殺された。ドダン兵舎に向かう途中のイコイで、ディムカが率いる軍隊兵士たちによって、モハメッドの車が待ち伏せされた。クーデター未遂は、その数時間後にナイジェリア政府軍によって鎮圧された。

  約3週間の捜索の後に、ディムカ中佐は1976年3月6日にナイジェリア南東部のアバカリキ近郊で逮捕された。軍法会議の後に、ディムカ中佐を含む38人の軍人と民間人が銃殺刑に処された。ディムカと他の6人の共謀者は1976年5月15日に銃殺刑された。モハメド将軍の後任には、オルセグン・オバサンジョ中将がナイジェリア国家元首として就任した。

 1960年代初頭からの国境紛争にて、アフリカの多くの植民地が、英連邦の協力のもとで独立国家へと移行した。アフリカ最大の国家ナイジェリアでは、外見上は当初は、英連邦への移行がほぼスムーズに進んだ。イギリスの民主主義輸出の目玉であったナイジェリアでさえ、1965年には早くも長く血なまぐさい内戦に巻き込まれた。アフリカの状況下での政治的統合と国家建設の問題を実証して、1970年代にほとんどの独立国家の特徴である軍事政権に終わった。1966年~1993年にナイジェリアでは、7回の軍事クーデターが勃発した。1967年〜1970年までビアフラ内戦が勃発した。1979年〜1983年まで第二共和政が成立した。




2023年11月20日月曜日

アフリカのルワンダ内戦にて、ニャマタのカトリック教会内で、1994年6月17日にフツ族民兵が約500人のツチ族市民を殺害した死体が横たわり散乱していた。

アフリカのルワンダ内戦にて、ニャマタ(Nyamata)のカトリック教会内で、1994年6月17日にフツ族民兵が約500人のツチ族市民を殺害した死体が横たわり散乱していた。ルワンダ内戦が1994年4月7日から勃発して、1994年4月初旬に約10,000人のツチ族市民がが旧カトリック教会に避難した。しかし、フツ族の民兵はレンガの壁に穴を開け、中に手榴弾を撃ち込んだ。1994年4月14日から4月19日にかけて、ニャマタ教会の敷地内だけで約10,000人が殺害された。教会の裏には集団墓地があり、約45,308人のジェノサイド犠牲者が埋葬された。

 フツ族民兵は教会を襲撃し、その中にいた人々をナタで撃ち殺した。祭壇のスカーフは今でも血にまみれている。大虐殺の後に、周辺地域でも多くのツチ族市民が殺害された。首都キガリの南約30kmに位置するニャマタ教会の建物の周りには、約5万人の死体が墓に埋葬された。壁には穴が開き、天井には弾痕が残っている。犠牲者の遺品は衣服と身分証明書だけである。ツチかフツかを識別するIDには特別な意味があった。

 ルワンダ大虐殺は、ルワンダ内戦中に1994年4月7日から7月15日に勃発した。約100日間の間に、少数民族のツチ族と一部の穏健なフツ族とトワ族が、武装したフツ族民兵によって殺害された。ツチ族の死者数は約50万人から80万人と推定された。ジェノサイドの規模と残虐性は世界中に衝撃を与えた。どの国も強制的に殺害を止める介入をしなかった。犠牲者のほとんどは自分の村や町で殺され、多くは隣人や村人仲間に殺された。フツ族のギャングは教会や学校の建物に隠れている犠牲者を探して虐殺した。フツ族民兵は、ナタやライフルで犠牲者を殺害した。性的暴力が横行し、ジェノサイドの間に約25万から50万人の女性が強姦されたと推定された。




2023年9月29日金曜日

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、コレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。

1994年7月に、アフリカのザイールのゴマで、ルワンダ大虐殺により難民となったフツ族が、致命的なコレアの伝染病に襲われた。フランス軍のブルドーザーが、コレラの伝染病により死亡した死体を、集団埋葬するために集めた。難民キャンプには、深刻なコレラの伝染病がまん延した。コレラ犠牲者の死体の多くは、アフリカの暑い太陽の下で露出して腐り、荒れ果てた火山荒野に積み重なった。他にも膨れ上がった死体が散乱して、世界史上最悪の疫病を必死で食い止めた。唯一の救援は集団墓地の掘削だけで、危機が終末的な範囲を示した。推定約120万人の難民がザイール国境を越えて流れ込んだ。

 1994年4月7日から7月15日に勃発したルワンダ大虐殺(ルワンダでツチ族に対するジェノサイドとも呼ばれる)では、アフリカ中東部に位置するルワンダの多数派フツ族が、少数派ツチ族を中心に80万人もの人々を殺害した。首都キガリでフツ民族主義者によって勃発した大量虐殺は、衝撃的なスピードと残虐さでルワンダ全土に広がった。一般市民は地元の役人やフツ勢力政府によって、隣人に対して武器を取るよう扇動された。ツチ主導のルワンダ愛国戦線が7月初旬の軍事攻勢によってルワンダを掌握するまでに、数十万人のルワンダ人が死亡し、約200万人の主にフツ族の難民がルワンダを逃れ、本格的な人道危機の事態が悪化した。ジェノサイドに協力し支援したのはルワンダ市民ぶあった。多くのツチ族や穏健なフツ族が、反ツチ感情に燃える隣人たちにより引き渡され、殺害された。難民のほとんどが新たに力を得たツチ反乱政府の報復を恐れたフツ族が、近隣のブルンジ、タンザニア、ウガンダ、旧ザイールの病気だらけの難民キャンプに詰め込まれた。

 1994年7月に、アフリカのザイール東部のゴマに住む約100万人近いルワンダ難民の間に、最悪の伝染病のコレラが流行した。国連難民高等弁務官事務所は、伝染病の流行で約12,000人近くが死亡したと推定した。バングラデシュ国際下痢症研究センターは、医療チームをゴマに派遣した。約2週間の滞在中に、ユニセフとザイール保健省と協力し、疫学的評価を行い、臨時治療センターを運営して、他の保健員にコレラと赤痢症の管理の技術的支援を行った。流行の原因の病原体と薬剤感受性を特定するため、ゴマに微生物学研究所を設置した。医療チームは、5つのキャンプ地のうち2つのキャンプ地にある多くの仮設治療施設を訪れ、医療提供者に技術的助言を行った。推定20万人の難民が流行の影響を受けたゴマ市の治療施設も訪問した。治療センターでもコレラによる死亡者は予想をはるかに上回った。

 治療センターでの全体の症例致死率は15%近くあった。研究所の調査により、初期の流行はテトラサイクリンとドキシサイクリンの抗生剤に耐性を持つコレラ菌と判明した。8月第1週までにコレラ患者数は減少したが、赤痢患者数は急速に増加した。主に赤痢菌1型が原因であり、赤痢菌はメシリナムを除くほとんどの赤痢治療薬に耐性であった。不適切な水分補給療法や保健員の経験不足もあり、死亡を防ぐことはできなかった。医療チームは、症例致死率が最も高い(14.5%)ゴマ市のカティンド臨時治療センターの運営を引き継ぎ、致死率を1%未満に下げた。




2023年9月26日火曜日

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供を虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺して散乱したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供が虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。痩せて骨ばったアルジェリア人の犠牲者の死体が、虐殺現場に散乱した。

 1954年11月1日に、アルジェリアの独立を求めて戦闘するアルジェリア民族解放戦線(FLM: Front de Libération Nationale)が、フランスの植民地統治に対して武装抵抗を開始した。11月1日早朝に、ゲリラは軍事施設、警察署、倉庫、通信施設、公共施設などを複数襲撃した。民族解放戦線の軍隊は民族解放軍と呼称されて、わずか数百人の武装要員で始った。1957年までに約4万人近くの軍隊に拡大した。1956年から1957年にかけて民族解放戦線は、より武装したフランス軍との戦闘を避けて、待ち伏せと夜襲に重点を置いたひき逃げゲリラ戦術を採用した。

 1956年までに、フランスはアルジェリアに約40万人以上のフランス軍を投入した。民族解放戦線を攻撃する戦闘任務は主に植民地の精鋭歩兵空挺部隊とフランス外人部隊によって遂行された。フランス正規軍には約17万人のアルジェリア系イスラム教徒が軍務に就いて、ほとんどが志願兵であった。1950年代後半には、フランスは反乱軍への支援を阻止するため、約200万人以上のアルジェリア人を山地の故郷から平地の強制収容所に強制移住させた。

  アルジェリア戦争により、約30万人から150万人のアルジェリア人、約25,600人のフランス軍部隊、約6,000人のヨーロッパ人が死亡した。フランス軍は約8,000以上の村を破壊し、約200万人以上のアルジェリア人を強制収容所に強制移住させた。1962年のアルジェリア独立と同時に、約90万人のヨーロッパ系アルジェリア人が、民族解放戦線の復讐を恐れて数ヶ月にフランスに避難した。フランス政府は膨大な難民を受け入れる準備ができずに、フランス国内は混乱した。特にフランス軍として戦ったアルジェリア人兵士であるハルキ教徒は、裏切り者とみなされ、多くの者が民族解放戦線によって、リンチ集団によって、拉致され拷問を受けた後に殺害された。約9万人がフランスに脱国した。

 1954年11月1日、フランス系キリスト教入植者とベン・ベラが率いる民族解放戦線との間で戦闘が勃発した。当初は劣勢でも、十分に武装したフランス軍と植民地軍の残虐な行為により、すぐに民族解放戦線は農民大衆の支援がもたらした。民族解放戦線はゲリラ攻撃を1956年末にアルジェに拡大した。その結果、フランス第4共和制政府は入植者に対する制御を失った。第四共和制の崩壊を引き起こして、第五フランス共和国を創設するド・ゴールが復帰した。ド・ゴールは直ちに、サランの軍事秘密組織の抵抗して、彼の個人的権威によりアルジェリアにフランス軍の忠誠を再確立した。ド・ゴールは民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月18日にレマン湖畔でエビアン協定を締結して、戦闘は停止した。アルジェリアの独立は1962年7月3日に宣言された。




2023年9月22日金曜日

北東アフリカのスーダンにて1899年11月25日のウム・ディワカラートの戦いは、イギリスのエジプト遠征軍がマフディスト軍と信奉者を残忍に大量虐殺して、約1,000人以上の死体が散乱してマフディスト国家は滅亡した。

北東アフリカのスーダンにおける1899年11月25日のウム・ディワカラート(Umm Diwaykarat)の戦いは、マフディスト国家の最終的な滅亡を示した。カリファとして知られるアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドが指揮下したマフディスト軍の残党が撃破された。マフディスト軍と信奉者らは残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死体が散乱した。マヒディ国家の後継者であったハリファとして知られるアブダラヒ・イブン・ムハンマドの死体も含まれていた。

 首都オムドゥルマンから撤退したマフディスト軍は、後継者のハリファと約1万人の残りの信奉者たちは、追撃してきた約8000人のウィンゲート将軍の指揮したエジプト遠征軍と立ち向かうことを選択した。武装していたマフディスト軍は残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死者が出た。

 その1年前の1989年9月2日に、スーダンの首都オムドゥルマン(Omdurman)の戦いで、イギリス軍のキッチナー卿が指揮下したエジプト遠征軍に、マフディスト軍は同様に悲惨な敗北を喫した。約52,000人のマディスト軍は、約12,000人が戦死して、約13,000人が戦傷して、約5,000人捕虜になった。約25,800人のエジプト遠征軍は、約48人が戦死して約382人が戦傷して、近代的装備で圧倒した。

 マフディストの反乱軍はオスマン・エジプト政権を打倒し、オムドゥルマンを首都とする独自のイスラム・国家を1885年1月26日に樹立した。イギリスは1898年にスーダンを再征服して、植民地としてスーダンを統治した。イギリスの首相に2回なったウィンストン・チャーチルは、イギリス陸軍の将校として、キャリアアップのために戦闘の経験を求めてオムドゥルマンの戦いに参戦した。チャーチルは、電信、鉄道、新世代の兵器の使用による戦争の機械化を詳しく述べた『河川戦争The River War:スーダン再征服の歴史的記述(1899年)』を敢行した。




2023年9月15日金曜日

アフリカのアンゴラ独立戦争によりポルトガル領アンゴラでは、1961年3月15日に白人のポルトガル人の雇い主に忠誠を誓い続けるアフリカ人をアンゴラ人民同盟が殺害した。

アフリカのアンゴラ独立戦争によりポルトガル領アンゴラでは、1961年3月15日に白人のポルトガル人の雇い主に忠誠を誓い続けるアフリカ人をアンゴラ人民同盟(UPA)が殺害した。1961年3月15日から7月8日までのアンゴラ戦争の最初の数か月間に、ホールデン・ロベルトの武装勢力のUPAによって引き起こされた残忍なテロ攻撃によって、大量虐殺された。

 オラシオ・カイオ(Horácio Caio)が『アンゴラ、絶望の日々(1961年10月)』に出版してアンゴラの植民地戦争が公開された。UPAが白人、黒人、女性、子供、高齢者、無防備な人々の民間人に対して行った大量虐殺の残酷な写真が掲載された。UPAは、解放の名の下に解き放たれた盲目で抑制のないテロ攻撃となった犠牲者の多くの死体の写真が公開された。アンゴラ独立戦争により、1961年2月4日から1974年4月25日まで植民地戦争が勃発した。

 1961年3月15日に、アンゴラ人民同盟(UPA)はホールデンの下で、約4000人から約5000人のアンゴラ人の武装勢力を率いて拠点のザイールからアンゴラ北部に侵攻した。アンゴラ人民同盟の軍隊は農地や政府の前哨基地、交易センターと植民者居留地、商業地域を奪って占領した。民間市民や公務員の役人などを殺害した。その犠牲者の殆どは、中央高地から来たオヴィンブンド人の契約労働者だった。UPAの武装勢力は、ザイール州、ウイゲ、クアンザ・ノルテ、ルアンダのアンゴラ地区を襲撃し、侵攻中に民間人を虐殺し、1,000人の白人と6,000人の黒人(女性や子供もその中に含まれた)を殺害した。ヨーロッパ系白人やアフリカ系黒人の女子供も含んだ。殺戮だけでなく、UPAの武装勢力は家屋、農場、道路、橋などのインフラを破壊し、全体的な混乱とパニックを引き起こした。恐怖に怯えた住民は森に避難したり、近隣地域やコンゴ・レオポルドヴィルに逃亡した。

 アンゴラ独立戦争の起点である1961年2月4日に、アンゴラのルアンダで約50人のアンゴラ解放人民運動が、警察署と聖パウロ刑務所を襲撃して、約40人の襲撃者が死亡して、7人のポルトガル人の警察官が殺害された。2月5日のポルトガル人警察官の葬儀で、ポルトガル人の復讐は凄まじかった。警察は夜間にルアンダのスラムで市民を虐殺をするのを手伝った。白人達は、アフリカ人を脆い家から引きずり出し、約300人を射殺した後に路上に死体を放置した。UPAが3月15日にアンゴラ北部の全体を壊滅させる戦争の最初の起点となった。




2023年9月1日金曜日

アフリカ北東部の第2次マサワの戦いで、1990年2月にエリトリアのマサワの路上に、エチオピア軍の大破した戦車BMP-1とエチオピア軍兵士の死体が放置されて散乱した。

アフリカ北東部の第2次マサワの戦いにて、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、エチオピア軍に対するフェンキル(Fenkil)作戦にて  1990年2月10日から17日にかけて、紅海の港湾都市のマサワをめぐる1週間にわたる戦闘が勃発した。エリトリアのマサワの路上には、エチオピア軍の大破した戦車BMP-1とエチオピア軍兵士の死体が放置されて散乱した。戦車は、ソ連からデルグ政権に供与された戦車であった。

 フェルキン作戦により、1990年2月8日から2月10日の3日間の激戦の末に、エリトリア人民解放戦線(EPLF)は、エチオピア軍から港湾都市マッサワの解放をもたらした。EPLFによるフェンキル作戦で、エリトリアにおけるエチオピアの植民地主義の終焉を告げた。エチオピア軍は、数百人のマッサワ住民を人質に取り、穀物の袋を隠れ蓑として降伏を拒否した。EPLFは海と陸の連携して攻撃した。マサワがEPLFの手に落ちた後に、エチオピアのデルグ政権は、人的・物的資源の残骸と撤退しながら、マサワの民間住民に対してナパーム弾とクラスター爆弾を10日間にわたり無差別空爆をした。マサワに多くの死者、負傷者、トラウマを残して、地面に破壊されたインフラが散在した。

 1988年3月に、エチオピア軍はソ連の軍事顧問ともに、エリトリア北部のアルファベットの戦いで、EPLFに敗北してアルファベットは陥落して撤退した。ソ連はエチオピアとの関係を事実上終わらせて、ソ連の軍事機構は引き揚げた。エチオピアの空軍は約30年もの間、エリトリアを摂氏800度から1200度の温度を発生するナパーム弾で空爆し続けた。ソ連軍の引き上げてから、エチオピア軍は、ファラーシャ(エチオピアのユダヤ人)とイスラエルのクラスター爆弾の取引を始めた。クラスター弾は、爆発と同時に小さな爆弾粒を放出し、広範囲に拡散して、エリトリア市民に壊滅的な打撃を与えた。

 エチオピア・エリトリア国境紛争は、1998年5月6日から2000年6月18日まで勃発した。発端は国境紛争ではあるが、互いの首都を空爆して、規模は極めて大きく、犠牲者も多かった。第二次世界大戦以降に勃発した国家間紛争のうち、死者数が10万人を超えたのは、朝鮮戦争、インドシナ戦争、ベトナム戦争、イラン・イラク戦争、エチオピア・エリトリアとロシア・ウクライナ戦争のみである。




2023年8月1日火曜日

キベホ虐殺は、1995年4月22日にルワンダ南西部のキベホ国内避難民収容所で大虐殺が発生して、多くの死体が散乱して転がった。キべホ国内難民キャンプ内で約4,000人がルワンダ愛国軍によって殺害されたと推定した。

キベホ虐殺は、1995年4月22日にアフリカのルワンダ南西部のキベホ近くの約4万人以上の国内避難民が暮らす国内避難民収容所で発生した。大虐殺で、多くの死体が散乱して転がった。右端には、国連平和維持(PKO)のザンビア軍兵士が立っていた。国連ルワンダ支援派遣(UNAMIR)の一環として32人のオーストラリア軍兵士らは、キべホ国内難民キャンプ内で少なくとも約4,000人がルワンダ愛国軍(RPA)兵士によって殺害されたと推定した。ルワンダ愛国戦線の軍事部門が率いるルワンダ新政府は死者数を約338人と推定した。国内避難民の多くは、内戦から逃れてきたフツ族の市民であった。

 4月18日に、RPAの重武装した約1,000人の軍隊が、収容所を閉鎖するためにキベホに到着した。4月22日午前10時過ぎ、大雨の中、避難民がカミソリワイヤーやバリケードに向かって殺到するなか、RPA部隊が病院敷地内の群衆に向けて発砲した。RPA部隊はその後2時間にわたり、逃げる難民に向けて発砲を続けた。RPAは当初、群衆に向けて小銃を発砲して、その後に60mm迫撃砲を使用した。ルワンダ難民は追い詰められ銃撃された。RPAは昼食後に一時的に速度を落とし、午後6時頃まで撮影を再開した。国境なき医師団(MSF)とオーストラリア軍の医療チームは、多数の負傷者の対応に苦悩した。多く負傷者はその後にキガリ病院に搬送された。ルワンダ愛国軍の歩兵部隊が、砲撃の合間に負傷者を掃討した。基地や病院に搬送している間、医療チームは救護を続けた。病院も砲撃されて、ザンビアの敷地内に移された。虐殺は一日中断続的に続いた。難民収容所内のあちこちでルワンダ難民が殺害された。RPAはさらに4月22日午後5時以降に脱出を試みた別のルワンダ国内避難民に対して自動弾丸、ロケット推進の手榴弾、50口径機関銃を発砲した。

 RPAは4月22日から23日の夜にルワンダ難民の死体の埋葬を開始した。4月23日の夜明け、オーストラリア医療隊が立ち入った地域では、約4,200人の死体を検死した。死体はすでに撤去されいた。RPAがオーストラリア軍に死体の検死を強制的に停止した。撤去された遺体を除いて、まだ400~500体あると推定した。死者は銃剣による刺傷か至近距離の銃撃で死亡した。ルワンダ政府は約330人と国連当局者は約2,000人と殺害数を最小限に抑えた。ルワンダ愛国戦線の委員会は、現地視察は行われず、虐殺は国内避難民からの発砲があったと結論づけた。RPA軍の攻撃に群衆はパニックを引き起こし、暴動を恐れたRPA軍兵士らは群衆に無差別発砲した。

 1994年4月から5月のわずか3ヶ月の間に推定約80万人のルワンダ人が虐殺された。大虐殺は、内戦の勃発に端を発した民族間の激しい対立が原因で、フツ族の過激派がルワンダのツチ族と穏健派のフツ族に対して大虐殺した。ツチ族が支配するRPAが、フツ族が支配した旧政府に勝利を収めた。




2023年4月26日水曜日

1960年のコンゴのベルギー植民地からの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、ベルギーの白人市民は虐殺に巻き込まれた。

1960年のコンゴのベルギー植民地からの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、ベルギーの白人市民は虐殺に巻き込まれた。1960年6月30日に独立した旧ベルギー領コンゴが、冷戦の舞台となった。1960年7月5日に、コンゴ共和国軍兵士たちは、ティスヴィル基地でベルギー系白人指揮官に対して反乱を起こた。反乱はすぐに他の基地にも拡大して、コンゴ全域で暴力事件が発生した。数千人のベルギー人らが逃げ出し、白人に対する残虐な行為が勃発して、世界中に公開された。1950年代後半から1970年代半ばにサハラ砂漠以南のアフリカに脱植民地化が勃発した。新たに独立した非同盟諸国をめぐり、米ソの代理の冷戦が何度も勃発した。

 独立までの数ヶ月の間に、コンゴ国民は大統領ジョセフ・カサブブ、首相パトリス・ルムンバを選出した。アメリカは、コンゴ共和国が親欧米政府を期待したが、新しく独立したコンゴ共和国は混乱に陥った。先住民のコンゴ国民軍(CNA)を支配できないベルギーは、カサブブやルムンバの許可を得ずに軍隊を投入した。コンゴ政府は、国連に兵力提供を直訴し、ベルギー軍の撤収を要求した。7月13日に、国際連合は介入部隊のコンゴ民主共和国機構(ONUC)の創設を承認して、ベルギー軍の撤退を決議した。その2日前には、カタンガ州が、8月には南カサイ州もコンゴ共和国から独立を宣言した。

 アメリカは国連を支持したが、コンゴ危機からソ連の介入を懸念して、危険な外交を模索した。7月下旬に、ルムンバをワシントンに招き、穏健な影響を期待した。CIAの報告では、コンゴ共和国を典型的な共産主義の買収と表現した。ソ連圏の技術者や物資の到着から、国家安全保障チームは、ルムンバの排除を確信した。ルムンバを失脚するアメリカ外交が活発化して、ルムンバを暗殺計画も練らした。9月5日に、カサブブはルムンバを政権から解任した。ルムンバは勅令を無視して、カサブブを罷免した。コンゴ内外のルムンバの支持者は激怒して、ルムンバの復職を支持した。内戦を避けるため、コンゴ国民軍(CNA)のジョセフ・モブツ大佐は、9月14日にクーデターを起こしてソ連の国外退去を命じた。モブツは親欧米政権を支持し、軍部の繋がりから、9月18日にモブツは暗殺計画を知らされた。暗殺計画の責任者としてルムンバは逮捕され、最終的に1961年1月17日に死刑が執行された。

 その後4年間、コンゴ共和国が次々と首相が交代する中で、アメリカは親欧米派の候補者の票の買収や資金援助をした。モブツもまたコンゴ国民軍(CNA)の忠誠心を高めて、組織内の反乱を回避する資金を得た。国連軍撤退後の不安定な状況を懸念したケネディ政権は、コンゴ共和国との二国間軍事協定を結び、1963年5月31日にモブツがケネディ大統領と面会した。コンゴ共和国への支援は、ジョンソン政権も続けた。1964年8月4日にスタンリービル(キサンガニ)が反政府軍に陥落した。アメリカの軍事援助は劇的に増加した。国防省はコンゴ共和国軍は、近隣アフリカ諸国、ソ連圏、中国共産党の支援で強固になる反政府勢力に対抗した。アメリカはアフリカ統一機構(OAU)にも働きかけ、コンゴ共和国への支援を取り付けた。10月下旬にスタンレーヴィルの状況は悲惨となり、10月28日に反乱軍司令官は、その地域の全ての西洋人を軟禁した。反乱軍の支配下の他都市でも、相当数の人質が拘束された。11月下旬に人質救出作戦(ドラゴンルージュ作戦)は成功するも、ツォンベ首相はカサブブとモブツ双方から無能とみなされた。1965年10月にツォンベ首相は罷免されて、再び内戦の危機に瀕した。

 モブツは1965年11月25日に再びクーデターを起こし、大統領と首相を解任し、コンゴ政府を掌握した。モブツは1990年代半ばまでコンゴ(1971年にザイールと改称)を支配した。定期的な反乱を起こるも、コンゴ共和国を支配した。モブツは、アフリカの共産主義侵攻に対抗する強固な同盟者と証明された。モブツはアメリカからの資金、物資、政治的支援を受け、サハラ以南のアフリカで地位を高めた。ジョンソン政権からレーガン政権まで、モブツ政権にしばしば便宜を図った。




2023年3月16日木曜日

アフリカ中部のザイール(現コンゴ)にて1992年2月16日に、民主化を求めて平和的なデモ行進する人々に、ザイール軍が卑劣な銃撃をして、約19人が殺害された。

アフリカ中部のザイール(現コンゴ)にて1992年2月16日に、民主化を求めて平和的なデモ行進する人々に、ザイール軍が卑劣な銃撃をして、約19人が殺害された。犠牲者の中には、わずか10歳の少年も巻き込まれた。約100万人ものザイール人のキリスト教徒が、希望の行進を首都キンシャサの通りを挙行して、国民会議の再開を要求した。モブツ大統領の治安部隊は殺人的な武力で対抗して、少なくとも約30人のデモ参加者を殺害して、数百人が負傷した。他の都市の抗議活動でも死傷者が出た。国際的な反応により、モブツは主権国民会議を4月初旬に再開させた。モブツ政権と国民会議とは激しい交渉が行われた。8月3日に妥協合意に至り、野党連合のチセケディが大統領に就任した。モブツとチセケディの間の権力闘争は続いた。10月4日に、モブツに忠実な軍隊が、約2週間も銀行と国会議事堂を取り囲った。ザイールは、長年にわたる内紛、独裁政治、経済的衰退を経て、1996年には瀕死の状態で、1997年5月17日から周辺諸国の侵攻を受けて第一次コンゴ戦争が勃発した。 

 アフリカのザイール(現コンゴ)は、1990年4月24日に、内外の圧力によりザイールの一党独裁のモブツ大統領は複数政党制を導入した。1990年5月に、モブツの民主化から2週間後に、ルブンバシ大学の学生たちは、モブツ政権に反抗するデモを行った。学生らは治安部隊に攻撃されて、不特定な人数が殺害された。大虐殺により内部の反対と国際的な圧力が、主権国民会議の招集を余儀なくした。

 会議は1991年8月に初めて開催されるも、1か月以内に崩壊した。9月には、首都キンシャサにてザイール軍兵士が深刻な略奪をした。モブツ大統領の任期が満了直後の12月初旬に会議が召集された。1992年1月19日に、ングズ首相が政権交代のない会議を中断した。会議の中断は反対派を刺激して、1月22日の夜にザイール軍兵士たちが反乱して国営ラジオ局を占領した。モブツ政権は反乱をクーデター未遂と公表した。野党を容疑者として一斉検挙した。数日間、参戦したザイール軍兵士のうち11人は、3月に見世物の裁判にかけた。軍事裁判所は11人のうち9人に懲役刑を宣告した。その他の残余の兵士は、政府から逃亡者として不在で死刑が宣告された。





2023年3月6日月曜日

南アフリカで、アパルトヘイト時代における人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。

南アフリカの真実委員会は、アパルトヘイトによる人種分離隔離政策で殺害された多数の無残な死体が発掘された。埋葬された死体は、身元も局在も不明であった。南アフリカは、1960年から1990年の間に処刑された政治犯の死体を発掘した。アパルトヘイト時代の人権侵害を調査している真実委員会は、死体や墓の発掘は、警察が幹部を待ち伏せして逮捕せずに殺害し、密かに埋葬するパターンを示唆した。南アフリカでは、アパルトヘイト体制の末期に、軍や警察は証拠隠滅をしていた。1992年3月には、南アフリカ公安本部は捜査記録を破棄する通達を出した。

 南アフリカは1995年に国民統合和解促進法34により、真実和解委員会(Truth and Reconciliation Commission)の法廷機関を設立して、アパルトヘイト時代に起きた人権侵害の真実を明らかにし、国民の和解をもたらした。第二次世界大戦後のドイツのニュルンベルク裁判や日本の極東国際軍事裁判とは異なり、被害者と加害者の双方から証拠を集め、情報公開に重点を置いた。1998年10月29日に最終報告書5巻が、2003年3月21日に最終報告書2巻が公表された。1960年代から1990年代に、何千人もの南アフリカの人々が拉致され、拷問され、殺害される悪辣な闘争が浮かび上がった。

 1990年に、F.W.デクラーク大統領による解放運動と野党の禁止解除、ネルソン・マンデラの釈放、南アフリカの非常事態解除により、アパルトヘイト政権と対抗する人々と和平調停で、南アフリカは300年以上続いた植民地主義とアパルトヘイトを解決を図った。当時の南アフリカ大統領ネルソン・マンデラは、デズモンド・ツツ大主教を委員長に任命した。被害者から約2万2千件以上の意見書を受け取り、公聴会を開いて、アパルトヘイト国家による拷問、殺害、失踪、拉致、重度の虐待と定義される重大な人権侵害を証言させた。アフリカ民族会議、インカサ自由党、汎アフリカ主義会議などの解放運動の指導者も、委員会に姿を現し、解放運動の手によって侵害を受けた人たちが証言した。委員会は7,000件以上の恩赦申請を受理して、2,500件以上の恩赦公聴会を開催し、アパルトヘイト時代に犯した何千もの犯罪に対して1,500件の恩赦を与えた。

 アパルトヘイトとは、20世紀後半に南アフリカで少数民族である白人と多数民族である非白人の関係を支配した政策で、人種隔離と非白人に対する政治的・経済的差別を是認した。1948年以前の南アフリカでは、法律による人種隔離政策が展開した。1948年に国民党が、アパルトヘイトと呼称して、1950年人口登録法で分離隔離が拡充した。。1950年の集団地域法で、種ごとの居住区と営業区を設け、他の人種の居住、営業、土地の所有を禁じた。南アフリカ国内には常に反対運動があった。黒人グループは、一部の白人の支援を得て、デモやストライキを行い、暴力的な抗議活動や破壊活動も数多く行われた。1960年3月21日、シャープビルでアパルトヘイトに反対する最初の、最も暴力的なデモが行われた。警察はデモ隊に対して発砲して、約69人の黒人アフリカ人が死亡、多数の負傷者が出た。1976年、アフリカ系黒人の学生にアフリカーンス語を強制して、ソウェト暴動が発生した。




2022年11月23日水曜日

南アフリカの首都ヨハネスブルグで、ソウェト蜂起にて、1976年6月16日にデモ行進学生と警察が対峙して暴動が勃発した。車の中に学生の死体の一部が車と横転していた。

南アフリカの首都ヨハネスブルグで、ソウェト(Sowet)蜂起にて、1976年6月16日にデモ行進学生と警察が対峙して暴動が勃発した。車の中に学生の死体の一部が車と横転していた。

 南アフリカの首都ヨハネスブルグのソウェト(Soweto)地区にて、1976年6月16日の流血事件が勃発した。1976年6月16日に、ヨハネスブルグ南東部郊外のソウェト地区に約1万5千人の南アフリカの学生が集まり、アパルトヘイトとアフリカーンス令に反対するデモ行進に参加した。デモ参加の主な理由は、アパルトヘイト時代の暴力的な人種差別政権への反対であった。学生らはは、科目の半分をアフリカーンス語で学ぶことを義務づけ、黒人の教育の質に嘆かわしい条件を課したバンツー教育法の実施に抗議して、黒人居住区の通りをデモ行進した。早朝から数百人の若者たちが、アフリカーンス語をやめろ、バンツー法をやめろ、アフリカーンス語は抑圧者の言語だと横断幕を掲げた。デモ行進は、反アパルトヘイト活動家のスティーブ・ビコ(Steve Biko)が創設し、黒人の理想を掲げたアフリカ学生運動が主催した。

 平和的なデモ行進のはずが、流血の大虐殺となり、数百人の学生が虐殺される犠牲になった。警察当局は、デモ行動で23人の犠牲者が出た発表した。実際には、566人の学生が虐殺された。黒人学生約1万人と警察隊約300人が衝突して、学生は約500人が死亡して、約2000人が負傷する流血の惨事が勃発した。

 ソウェトの大虐殺の衝撃によって、南アフリカの残酷さと人権侵害が世界にさらさた。12歳の生徒の死体を運ぶ青年の写真は世界中を駆け巡り、虐殺の象徴となった。事態は悪化、暴動は収まらず、逆に周辺地域まで拡大し泥沼化した。国際連合安全保障理事会は6月19日に南アフリカを非難する決議案を全会一致で可決した(決議392号)。1976年6月16日の出来事を起点に、アフリカ諸国に分離主義・人種差別主義政権に対峙するアフリカ民族会議が統一された。




2022年7月22日金曜日

コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に反撃した反乱軍から奪還された。反撃した反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。

アフリカの脱植民地化にて勃発したコンゴ動乱が、1960年代の旧ベルギー領コンゴ(現ザイール)を荒廃させた。1960年にベルギーが速やかにコンゴ共和国から撤退した後に、一連の地方反乱が勃発した。国連軍は首都のレオポルドビル政府を支援して、事態の収拾に苦慮した。1964年に、モイーズ・カペンダ・チョンベ首相は、中国に学んだ元内閣大臣ピエール・ムレレの弓矢で武装した彼の信奉者の反乱軍に遭遇した。コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に、シンバ反乱軍の反撃から奪還された。反撃したシンバ反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。ピエール・ムレレは直前に首相を解任されて、ジョセフ・デシレ・モブツが11月24日に軍事クデーターで、長期独裁の大統領に就任した。

 コンゴ動乱は、1960年に旧ベルギー領コンゴの独立後に勃発して、1965年まで行われた内戦である。1960年6月にコンゴはカサブブを元首,ルムンバを首相として独立国となった。独立に反対するベルギー軍に対して、全土的な暴動が起こり,ベルギー軍が武力介入した。対応して親ベルギー派のチョンベが、カタンガ州の分離独立を宣言して,内戦となった。7月に国連軍が派遣されたが、内覧はおさまらなかった。民族派のルムンバが、親ベルギー派のチョンベに虐殺された。キンシャサ(旧レオポルドビル)のカサブブ,カタンガのチョンベ,ルムンバ派のギゼンガの3大勢力が抗争をくり広げた。1961年9月に,カタンガの復帰工作に向かうハマーショルド国連事務総長が事故死した。1964年にカサブブとチョンベが手を結び,カタンガ州は合同した。1965年にまた対立して,モブツ将軍の無血クーデタで、カサブブが追放されて,コンゴ動乱は終結した。 

 コンゴ動乱は、コンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)にて1960年から1965年に勃発した政治的混乱と紛争である。一連の内戦を構成するコンゴ動乱は、冷戦下で対立する派閥間で、約10万人の死者が発生した。1960年6月30日に、ベルギー領コンゴで植民地支配の撤廃を求める民族運動が起こり、独立が宣言された。7月の第1週には、軍隊で反乱が起こり、黒人と白人の民間人の間で暴動が勃発した。ベルギーは逃亡する白人を保護する名目で軍隊を派遣した。カタンガと南カサイは、ベルギーの支援を受けて分離独立した。暴動が続く中で、国連は平和維持軍を派遣したが、ダグ・ハマルスキョルド国連事務総長が、首都レオポルドビルの中央政府が分離主義者と戦うために、国連維持軍を拒否した。最大派閥のカリスマ、パトリス・ルムンバ首相は、ソ連に支援を求め、ソ連は直ちに軍事顧問団を派遣して支援に乗り出した。

 ベルギーからの独立後に、コンゴ民主共和国で一連の政治的騒乱が起こった。1960年1月、ベルギーがコンゴ沿いの広大な植民地を独立させる突然の決定を下して、レオポルドビル(キンシャサ)を統治者とする単一国家が誕生した。5月の議会選挙で部族間の戦闘が始まり、独立時の6月30日にはさらに戦闘が発生した。コンゴ警察は、ベルギー軍将校に反抗し、反乱を起こした。ヨーロッパ人と財産は攻撃され、ベルギー人難民は逃亡した。鉱山が豊富なカタンガ州では、ベルギー軍と白人傭兵の支援を受けたモイゼ・ツオンベが独立共和国を宣言した。政府は国連に治安回復のための軍を要請し、国連事務総長ハンマークヨルドはベルギー軍に代わる平和維持軍を派遣した。クーデターにより陸軍司令官モブツ大佐が政権を握り、急進派のパトリス・ルムンバ首相を排除した政権が誕生した。1961年、ルムンバは敵対部族に殺され、ハンマークイェルドもコンゴ訪問中に墜落死している。戦闘は続き、カタンガ、スタンレーヴィル、カサイでそれぞれ独立政権が樹立された。1965年11月、モブツ率いるコンゴ軍は2度目のクーデターを起こし、モブツは大統領になることを宣言した。



2021年6月6日日曜日

ルワンダの内戦にて、1990年代に大虐殺が頻発したツチ族とフツ族間の大量虐殺により、散乱した膨大な死体の未処理が、潜在的な病気を引き起こす要因となった。

ルワンダの内戦により、1990年代に大虐殺が頻発した。ツチ族とフツ族のルワンダ民族間の殺し合いの内戦により、ルワンダ人の死体の山がよく散見された。すでに弱体化している地域のルワンダ人にとって、その死体の処理の問題が、潜在的な病気を引き起こす一つの原因となった。

 ルワンダの不平等はより地域的に偏在して、北部では権力者が支配して、ルワンダ政府の役職や管理する経済活動、支援される開発プロジェクトにおける賄賂で最も多くの恩恵を受けていた。この優遇措置は、1958年から1962年の革命期に、カトリック教徒のフツ族がツチ族の王政を打倒してさらに加速した。革命を暗黙に支持したのは、長年にルワンダの外国支配を維持するツチ族の政権に恐れを抱いた脱植民地勢力であった。革命では、多くのツチ族が犠牲になり、ルワンダの旧ツチ族の権力者のほとんどが中央アフリカなど他国に逃亡した。

 1962年にルワンダを暴力の支配が強化され始めた。1961年から1962年には、亡命したツチ族が、ブルンジとウガンダを拠点にルワンダに反撃した。フツ族の軍隊によって簡単に鎮圧された。緊張が高まり、1962年には約2,000人のツチ族が処刑され、1963年には約10,000人が殺害された。約14万人から25万人のツチ族が国外に逃亡して、ツチ族の人口は約2分の1から約4分の3にまで減少した。

 1966年から1993年までルワンダを支配した2つの政権は、ツチ族の権力者を殺害したり、強制的に排除した。2つの政権は非常に弾圧的で、フツ族の正当性を示した。第一に、ルワンダ政権による国家主導の開発はフツ族の利益のためであった。フツ族を優位にする民主的な努力と国民に納得させた。第二に、何百年にも少数派のツチ族に支配されたルワンダは、フツ族の所有であるイデオロギーにより、ルワンダ政府はフツ族の覇権に有利であると見せかけた。弾圧的な政権に正当性を与える一方で、フツ族はツチ族に対する恐怖心と偏見が段階的に拡大した。実際、ルワンダ政府はツチ族に対する偏見を組織的に助長した。約20年以上かけて、偏見をツチ族に対する過激な憎悪に変えた。最終的にはツチ族に対する暴力を増長し、1994年にはツチ族の絶滅を図った。フツ族の関心をツチ族に向けて、ルワンダ政権は失敗から国民の注意をそらした。

 ツチ族の難民がルワンダ国内に戻ることは厳禁であった。ツチ族が人口の約9%に応じて社会経済活動に参加できるクオータ制が導入された。政府内には、約9%の割当ては実現しなかった。商業や非政府企業など規制の少ない分野では、ツチ族の数は約9%をはるかに超えた。

 1990年代初頭に、紛争の出来事が集団虐殺するジェノサイドを発生した。フツ族の劣勢地域で、ルワンダ政府への反感が高まった。ルワンダ政府が北部を優遇して、南部のフツ族が怒りを高めてフツ族内の紛争が勃発した。政府は偏った政策から国民の目をそらすために、ツチ族に対すフツ族の偏見を煽って煙幕を張った。1959年から1963年の間に国外に追放されたツチ族の子孫たちが、1990年にルワンダに侵攻した。民族間の憎しみの火をさらに燃え上がらせた。ツチ族は十分な資金と物資を投入した侵攻作戦は、北部の地域を制圧できた。ツチ族の支配が復活するフツ族の危機感を煽った。1992年までに、国連を中心とした国際社会は、新たに帰還したツチ族をフツ族との統合を求めて、フツ族政権に対してより包括的な政府を樹立する交渉を要求した。

 タンザニアのアルーシャで国連が要求した交渉は、ツチ族がフツ族の支配するルワンダに侵入する不安をさらに増大させた。ルワンダ国軍が地元の民兵や市民を武装させ、1991年から1993年にツチ族を平然と殺害した。1994年4月6日に、ルワンダのフツ族大統領がアルーシャでの交渉の帰りに飛行機事故で死亡した。その撃墜からフツ族が暴動して数千人のツチ族が殺害された。国連関係者たちはルワンダから退去した。これらの暴動から約100日間の内戦に巻き込まれて、約80万人の主にツチ族が虐殺された。北部のツチ族勢力であるルワンダ愛国戦線(RPF)が侵攻を再開して、1994年7月4日にはルワンダの首都キガリを占領した。約200万人のフツ族は多くの軍隊や政府幹部と、コンゴ民主共和国(旧ザイール)に逃亡して、再編成を行した。ルワンダで次の階段の暴挙を企てた。1999年までに、少なくとも約20万人のフツ族とツチ族がルワンダで殺害され、数十万人が近隣諸国に逃亡し、数十万人がルワンダ国内で避難して、難民収容所に収容されている。

 ルワンダの状況は非常に不安定となった。ルワンダの内外に大量の難民が存在して、少数派のツチ族が絶滅されない限り、フツ族は生活を支配される偏見と恐怖が段階的に拡大した。大量の難民の存在は、中央アフリカの他の国々の資源を圧迫した。21世紀のアフリカでは、再び紛争と殺戮が起こる可能性が非常に高くなる。2000年4月にルワンダにRPFからツチ族カガメ大統領か就任してアフリカの奇跡の経済成長を遂げた。一方で、2003年5月と2015年12月に新憲法に改正して再選の延長により、2017年8月に2034年まで長期独裁への大統領に再選された。 




2021年3月14日日曜日

第二次エル・アライメントの戦いで、イギリス軍部隊は砂漠に散乱した殺害された3人のドイツ軍兵士の死体と大破した戦車の側を、通り過ぎながら侵攻した。

第二次エル・アライメントの戦いで、イギリス軍部隊は砂漠に散乱した殺害された3人のドイツ軍兵士の死体と大破した戦車の側を、通り過ぎながら侵攻した。連合軍は1942年10月23日から11月4日まで、エジプトのアレキサンドリア西方約106kmのエル・アライメントでドイツ軍を圧倒した。ドイツ軍は約4ケ月かけて最長となる約2,700kmも撤退して、チュニジア内側のマレット要塞で攻防した。第二次世界大戦の北アフリカの戦線にて、エジプトの西部戦線で、エルアラメインの戦いが勃発して、北アフリカ戦線が終結した。イタリア軍とドイツ軍の枢軸国軍は、イギリス軍に決定的な敗北を喫した。
 北アフリカ戦線は、1940年にイタリア軍がリビアの植民地からエジプトに侵攻して勃発した。イギリスの戦略的資産であるスエズ運河とペルシャ油田を脅かした。イタリア軍が敗北したため、1941年の春にドイツ軍が枢軸国軍として介入した。ドイツ軍は、緒戦から驚くべき戦果を収め、リビアを奪還して、エジプトを脅かした。しかし、1941年後半までに、ドイツ軍は供給ラインを過度に伸ばして、イギリス軍の攻撃に直面して、余儀なく撤退した。1942年に復活した枢軸国軍の再侵攻により、ガザラでイギリス軍を打倒して、トブルクを占領した。
 北アフリカのドイツ軍は、コーカサスで進撃するドイツ軍と連携して、中東全体を制圧を目指した。イギリス軍はエジプトに混沌とし​​て撤退した。イギリス軍は、疲弊した軍隊を結集し、第一次エルアラメインの戦いが勃発した。砂漠の他の場所とは異なり、機械化された軍隊が通行できない流砂の海となり膠着した。
 多国籍連合軍を結成したイギリス軍は、1942年10月23日の夜から、大規模な砲撃から攻撃を開始した。イギリス軍は枢軸国軍と交戦して前線を犠牲にして消耗させた。消耗戦には、両軍兵士が熱、騒音、恐怖の渦潮の中で残忍な接近戦を伴った。イギリス軍は、枢軸国軍の反撃を打ち負かした。イギリス軍の戦車は、混沌とした地雷源下に大破して、ドイツ軍の対戦車砲により甚大な損失を被り、イギリス軍の進撃に多大な犠牲を伴った。

 



2021年2月3日水曜日

アンゴラでの内戦の余波を受けて、アンゴラ市民の母親が、我が子が2002年に殺害された死体を見つめて慟哭した。

アンゴラでの内戦の余波を受けて、アンゴラ市民の母親が、我が子が2002年に殺害された死体を見つめて慟哭した。約27年間の内戦が終わった2002年の停戦の前後の数ヶ月間の死亡率は、家族の死亡率は依然として高くなり、特に子供たちの間で死亡率が過剰であった。栄養失調、発熱またはマラリア、そして戦争または暴力は、全期間にわたる主な死因となった。2001年の主な殺害である暴力は、2002年に栄養失調に取って代わた。長年の孤立と武力紛争、悲惨な食糧危機に直面した不十分な人道的対応を反映した。
 1975年1月にポルトガルによる植民地支配が崩壊した後に、アンゴラは長い内戦で崩壊した。地雷やその他の戦争の残骸は依然として民間市民を殺害し、負傷させ、紛争が終わってから再建するのを妨げた。アンゴラ軍の待ち伏せでUNITAのジョナス・サヴィンビが殺害された後に、2002年4月4日にUNITA反政府勢力とMPLA政府の間で紛争が停止して、アンゴラでの約27年間の内戦が終結した。紛争は、天然資源に恵まれたアンゴラの国土を浪費し、深刻な人道的災害を引き起こした。
 3つの革命運動勢力であるアンゴラ解放人民運動(MPLA)、アンゴラ解放人民戦線(FMLA)と、ウガンダ人民軍(UPA)と1962年に合併したアンゴラ全面独立民族同盟(UNITA)は、ポルトガル政府とアルヴォー合意に署名して、協定はアンゴラの独立を認めて、三者勢力間の権力共有政府を樹立した。しかし、3つのグループ間の協力と信頼は決して確立されず、アングラは約27年間も続く内戦に陥った。
 アンゴラ内戦は当初、冷戦の対立国の代理戦争に変質して、アンゴラの天然資源を狙ってさまざまな諸国が戦争側に介入した。ソビエトとキューバの支援を受けて、MPLAは1975年から1976年に従来の戦闘の初期段階を勝ち取った。ルアンダからFNLAを追放して、事実上のアンゴラ政府となった。FNLAは崩壊したが、アメリカと南アフリカが支援するUNITAは、後背地でダイヤモンド貿易を支配して、ウガンダの東と南にある基地からMPLA政府に対するゲリラ戦を続けた。冷戦の終結に向けて国際的な関心と紛争への関与が衰退した。2002年2月にUNITAリーダーのジョナスサヴィンビが殺害されるまで、石油の増産により支配するMPLA政府に対する反乱が続けた。UNITAは2002年4月4日にMPLA政府に停戦に署名した。
 1980年代の戦闘の激化から2002年まで、アンゴラは大規模な内戦が勃発した。集中的な民間人の大虐殺から暴力が集まった。1990年代後半まで、約150万人〜約360万人が紛争により死亡して、約50万人が難民に陥った。地雷などで今なお多くの死傷者が出続けている。特に1998年から2002年に民間人に対する虐待と虐殺が大幅に増加した。約27年以上の紛争によるアンゴラの医療、食糧、生計、インフラ、住宅の荒廃により、直接の殺害よりも多くの民間市民が死亡した。

2020年9月2日水曜日

ナイジェリアのビアフラ内戦による飢饉で、約7,000人の子供たちが集まっては食物に手を伸ばし、日常で餓死に直面していた。

ビアフラ戦争が、1967年7月6日から1970年1月12日まで、ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州が、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言して戦争が勃発した。ナイジェリア内戦による厳しい飢餓と、栄養失調から来る病気、北部州における虐殺などにより、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。特にビアフラ共和国は、1968年の食糧危機により飢饉が悪化して、日常で餓死に直面していた。

 病院、宣教所、道端でも、どこでも餓死に至る。オビンツェ西約130kmにあるオクパラ宣教所では、夕暮れ時になると約7,000人の子供たちが集まり、食物に骨のような手を伸ばした。付近には餓死した子供の死体が散乱した。ケンド・ヘニー牧師は泣きそうになる。子供たちは毎晩に小さなスープ、牛乳、豆を求めて宣教所に来ていた。「今は何も残っていません。これは子供たちの戦争です。彼らはすべての運命から見捨てられた。」ビアフラの救援隊員は、政治と欲望に阻まれたナイジェリア内戦により、大量の食料の空輸のみが、蔓延している飢餓からビアフラの人々を救うことができると信じた。

 夜間に着陸して封鎖された飛行機に乗って、ナイジェリア東部の飢饉の地域に、食物と薬のほんの少しの物資が到達した。バケツの中の一滴である。ラゴスのナイジェリア政府は、飛行機がビアフラに直接に飛ぶことを、毎日拒否していた。最前線の北にあるエヌグからビアフラへの陸上通路が必要であった。ビアフラの死者数は、世界教会協議会のハーマン・ミドルコープは、「飢饉は次第に加速している。それは絶望的な状況である。私が言えることはそれだけです。」ビアフラ南部のこの泥だらけの小さなタウンオビンツェ付近の道端では、8人の年配の女性が、雨の中で動かずに座ったままで、衰弱して歩行困難となった。友人の腕に抱かれている9人目の女性は死亡した。しかし死亡した彼女の友人は、彼女がまだ生きているかのように話し続けた。子供の死を1日あたり約200から400人に達した。 
 赤十字国際委員会は1968年7月29日に、ビアフラへの医療および食料供給の慈悲深い飛行機が、技術的な障害により中止したと発表した。ナイジェリアの反乱地域の領土に上陸するための手配が困難であった。その直前に委員会はチャーターされた4エンジン飛行機をジュネーブから派遣して、ナイジェリア沿岸のスペインの島であるフェルナンドポーから、包囲されているビアフランへのシャトル便を続けた。1967年4月から援助活動を開始してから、合計16便が飛行したが、人道支援機関のロジャー・ギャロピンは、フェルナンドポーからの緊急救援物資の空輸は、常に一時的なものであると強調した。 

 


 

2020年1月25日土曜日

ソマリアの父親は、娘が回復するように目前で、イスラム教の経典コーランを暗唱した。

ソマリア国境から炎天下を歩いて移動して、2006年に約80kmのケニア北東部のソマリアのダダーブ難民キャンプにたどり着いた。4歳の娘であるカリージャは、ソマリアの飢餓状態から慢性的な下痢で痩せて栄養不良となり重態となった。38歳の父親のハッサン・アダンが付き添って救護所にたどり着いた。父親は、娘が回復するように娘の目の前で、イスラム教の経典コーランを暗唱していた。父親には、娘にイスラム教のコーマン経典を祈り続けるしかなかった。
 アフリカ大陸の北東の角といわれるソマリアは、紅海をはさんでアラブ世界とアフリカが接して交錯する地域である。1960年にイタリアから独立して、近年に至るまで政権争いが絶え間なく繰り返された。1969年に、クーデターで政権を奪取したバーレ大統領は、敵対する部族を徹底的に弾圧した。1991年に、諸部族が蜂起してバーレを追放した。その後、アイディド将軍派とマフディ暫定大統領派の勢力争いが激化して、ソマリア全土が残忍な内戦状態に陥った。内戦と干ばつで約30万人以上が餓死し、約100万人以上が難民として近隣アフリカ諸国に流出した。1992年に、国連はこの事態を国際平和に対する脅威と見て、人道的介入を開始した。アメリカ軍などによる第1次、第2次の国連ソマリア活動(UNNOSOM)に加え、統合機動部隊(UNITAF)を投入して、史上初の人道上の理由による武力介入を行った。この武力介入は、一定の成果をあげたもののソマリア当事者の反発を買って、派遣軍兵士に犠牲者が出た。国連平和維持軍と現地武装勢力の戦争状態にも陥った。1994年2月に、国連安保理は強制介入を停止して、人道的介入は失敗に終わった。それ以来も、ソマリア内戦は継続的に泥沼化し、首都モガディシオをはじめ主要な都市は完全な廃虚となった。国際社会やアメリカが介入して、結局は放棄したソマリアは、残酷な内戦のまま見捨てられて情報も一切途絶えた。3つに分裂した地域では、2002年にもソマリア政府軍と反政府勢力が抗争を繰り返している。この数年の空白の間に、国際テロ組織アルカイダの影がソマリアにも潜伏した。
 2006年12月に、エチオピアがソマリア暫定政府を支援して軍事介入して首都モガディシオを占領した。2007年1月にはアメリカ軍が直接に介入して空爆して、エチオピア軍は南部のキスマユも制圧した。対抗する反政府勢力であるイスラム法廷は中部や南部でゲリラ化して、2009年にはイスラム過激派のアッシャバーブが集結して、暫定政府に対抗した。2011年には最悪の干ばつが、ソマリアからケニアとエチオピアなどを襲った。ソマリアが最も深刻で、7月の約10日間だけで約2万人が餓死と病死した。過激派のアッシャバーブらは、国連の世界食料計画(WFP)を非難して活動を阻止した。2013年5月に、国連食糧農業機関(FAO)は、2010年10月から2012年4月までに、ソマリア飢饉で約25万8000人が死亡した。そのうち5歳未満の子どもは約半数の約13万3000人が死亡した。さらに2011年5月から8月まで、毎月に約3万人もの餓死が発生した。