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2024年2月16日金曜日

1927年4月に、上海クーデタで共産主義者の共産党指導者が、国民革命軍に捕らえられて、斬首された。国民革命軍が、検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者を死傷した。

1927年4月に、上海クーデタで共産主義者の共産党指導者が、国民政府軍に捕らえられて、斬首された。上海クーデターは1927年4月12日に中華民国にて、武装労働者糾察隊が北伐に呼応して第三次上海暴動を引き起こした。国民革命軍右派による武装解除の命令に応じないで抵抗を試みた。国民革命軍から武力行使を武装労働者糾察隊が受けた。武力行使に対して抗議のためのデモを行った労働者・市民に対して、国民革命軍が発砲・虐殺した。国民党左派と共産党系労働組合の解散を命じて、総工会の建物を占拠した。中国国民党は清党と称する一方で、中国共産党は四・一二反革命政変、四・一二惨案と呼称した。国民革命軍が、検挙の過程で暴動を引き起こした多くの共産党党員と工場労働者を死傷した。

 1925年3月12日に北京で孫文の死の前後から、中国の労働者は上海でまた青島で、日本の資本家が経営している紡績工場を中心に、はげしいストライキにはいった。ストライキに対して、日本人資本家・北方軍閥・イギリス人警官隊は、力を合わせて弾圧にのりだした。上海では、1925年5月15日に日本人監督とイギリス人警官隊が、ストライキ中の十数人の中国人労働者を殺傷した。5月30日に学生約2000人を中心にした大抗議デモが行われ、1万人近い上海市民大衆が打倒・帝国主義を叫んだ。イギリス人警官隊は発砲し、10人の死者と15人の重傷者をだした5.30事件が勃発した。

 1926年9月7日に国民革命軍は、揚子江沿岸の工業都市、漢口を解放した。1927年1月4日には、漢口のイギリス租界が中国民衆によって奪還された。2月19日から3月21日に3回の大ストライキをした上海総工会の労働者は、3月22日に武装蜂起して、国民革命軍の上海解放を可能にした。3月24日についに南京が、国民革命軍が奪還した。やがて4月18日に、蒋介石らの指導する国民政府が、南京に誕生した。

 北伐は多くの中国人の血を流しつつ進展した。イギリスの勢力範囲であった華南・華中は, 国民革命軍によって解放された。次の北伐が、主に日本軍の勢力範囲である華北・満州に向いた。日本軍の支配者に、日中戦争の武力闘争に火をつけた。




2023年11月30日木曜日

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を公開で執行された。死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、死刑囚は刑場に倒れた死体となった。

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を執行された。公開された上海の屋外刑場にて、死刑囚は、戦犯の罪状を記した死者の墓標となる卒堵婆を背部に縛り付けた。中国人民衆は膝まずいた日本軍将兵を取り囲んで騒ぎ立てた。死刑執行人は、拳銃により日本軍将兵の後頭部から狙った。




  







 第二次世界大戦時の連合国は、東京に極東国際軍事裁判所を設置して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他上海、済南、武漢、太原、台湾、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどで、B級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本軍の戦犯総数は約5,423人、判決を受けたものは約4,226人、そのうち死刑を執行されたのは約941人であった。その中で、中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷が設置された。1949年2月までに日本軍戦犯約145人に死刑の判決を下した。アメリカやイギリス、オーストラリアにも軍事法廷が設立され、アメリカでは約6人、イギリスでは約21人、オーストラリアでは約5人が死刑になった。

 太平洋戦争後に東京裁判がA級戦犯を裁いたのに対して、横浜、マニラ、ラバウル、シンガポール、上海、広東などの各戦地では、通常の戦争犯罪ある非戦闘員(捕虜を含む)に対する残虐行為を行った者への軍事裁判であるB・C級戦犯裁判が審判された。指揮官としての管理責任を問われた山下奉文と本間雅晴両将軍のマニラ軍事裁判をはじめとして、残虐行為を実際に行ったとされた者に至るまで、B・C級戦犯の多くは、法律による満足な保護や手続もないままに、過酷な取り扱いを受けて、死刑を宣告された日本軍将兵は刑場で死刑が執行されたる。

 日本軍による残虐行為が、実際に多く発生した以上は、やむを得ない側面もあったが、被害者や目撃者の証言などが吟味されることなく証拠として採用された。人違いや、風俗習慣の違いからきた誤解、さらには個人的怨恨による告発などもあって、処刑や服役した者のなかにも、無実の者が含まれる否定できない。

   BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪である。戦争犯罪人とされ罪状に問われた。A項は、平和に対する罪で訴追された者は「A級戦犯」と呼称した。日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされた。











     上海の刑場で、死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、日本軍将兵の死刑囚を前にたまらず全弾を撃ち抜いた。殺害された死刑囚は刑場に倒れた死体となった。


2023年6月8日木曜日

第二次国共内戦中の1947年12月24日に、多数の児童の死体が、集団埋葬するために臨時の死体安置所の集合棺桶に入れられた。その入口から、中国人の民衆が集散して、多数の児童の死体を興味本位と不安げに眺めた。

第二次国共内戦中の1947年12月24日のクリスマスイブには、多数の児童の死体が、集団埋葬するために臨時の死体安置所の集合棺桶に入っていた。その臨時の死体安置所の入口から、生存している中国人の子供たちや市民らが集散して、多数の児童の死体を興味本位と不安げに眺めた。その周辺の上海では、1948年1月の冬の寒さの中で、多数のホームレスや子どもたちが路上で眠っていた。



 第二次国共内戦が、1945年10月10日に双十協定により、内戦は一時的に回避された。双十協定調印の同日に、山西省で上党戦役が勃発した。1946年6月26日に中国共産党軍と国民党軍の全面戦争が始まり、休戦は崩壊した。その後、中国は3年以上続く内戦状態に突入した。中国共産党の切り札は、土地改革政策の戦略により、中国共産党は戦闘と兵站の両面でほぼ無制限に中国人民を確保できた。多くの戦闘で大きな犠牲を伴っても、中国人民の人手は増え続けた。上海攻略戦が、第二次国共内戦の後期に1949年5月12日から6月2日に勃発した。中国最大の都市である上海の支配権をめぐっては、国民党と中国共産党が戦った一連の戦いで、共産党が数的優位に立って上海を占領した。

 第二次国共内戦の1947年12月から1949年5月17日まで、ジャック・バーズ(Jack Burns)がドイツ製中古カメラ3台を携え、LIFE誌の依頼で中国に渡った。中国の難民や売春婦、兵士や物乞い、路上での処刑や都市での抗議行動などを、国共内戦が拡大して、貧困、腐敗、混乱の中で、困難で危険な状況の中で撮影された。当時、国民党は約20年以上にわたり共産党の勢力と戦っていた。国共内戦の中国の姿だけでなく、戦火、疲労、絶望が、共産主義革命の肥沃な土壌となったのかを示唆した。普通の中国人々の日常風景は、貧困、抑圧、恐怖に包まれながらも、市民の回復力と尊厳を示唆した。1947年12月に上海にて、タバコを口にくわえた無表情の中国人男性が、栄養失調でやせ細った児童の死体を自転車カートに乗せた。上海の臨時の死体安置所に自転車カートで運んだ。

 



















 日中戦争期間中、国民党政府は増加し続ける財政支出を補填する法幣が1935年11月3日から1948年8月19日まで大量に発行された。1945年の終戦時には発行高は約5,569億元、戦前の約400倍まで規模が膨らんだ。1946年以降、国民党政府は国共内戦の戦費調達で更に法幣を大量に発行した。1948年8月には発行高は約604兆元にまで及び、僅か3年間で約1,000倍にまで増大て、市場にはスーパーインフレが招来した。あまりにも価値の下がった法幣は製紙会社の原料に使われた。宋子文が行政院長に就任すると、法幣の安定を図るために備蓄金を放出して貨幣安定を試みるが、法幣の発行量に追いつかず失敗に終わった。1948年5月に行憲選挙が行なわれ翁文灝が行政院長に任命され貨幣改革を実施し、新たに金円券を発行し法幣の流通を停止した。


2023年2月3日金曜日

第二次上海事変にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂して、上海最大の繁華街は流血の修羅場と化した。

第二次上海事変(1937年8月13日から11月12日)にて、六機編隊の中国戦闘機が1937年8月14日午後4時半頃に、上海市の南京路の角とキャセーホテル前に爆弾を誤爆して炸裂させた。多数の中国人だけでなく、外国人にも死傷者が出た。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には手足の吹き飛ばされた死体や瀕死の人で溢れた。街頭の車が炎上して、爆風で瓦礫が散乱した。その惨状を撮影して記録した『支那事変写真帖第一集』の写真集を、上海の玉川写真館が、第三艦隊報道部と上海日本総領事館に検閲後に、1937年10月に発行した。

 8月14日に、上海にて中国軍の戦闘機による誤爆と共にあらゆる戦争の悲劇が出現した。中国軍が戦闘機を初めて使用して、日本軍の巡洋艦出雲と陣地を爆撃した。終日にわたり中国軍の戦闘機は上海上空から急襲を繰り返した。日本軍は高射砲によって中国軍機を迎撃した。中国軍機の誤爆による大惨事は8月14日4時半に勃発した。2発の爆弾が国際共同租界に、もう2発がフランス租界に投下して炸裂した。およそ約600人(ほとんどは中国人)が死亡して、約11,000人が負傷した。

 それに続けて2発の誤爆が、パレスホテルとキャセイホテルの面する南京路に落下して炸裂した。上海最大の繁華街は流血の修羅場と化して、道路には死体や瀕死の人で溢れた。その後さらに2発が、エドワード7世通にある娯楽施設・大世界に落ちて炸裂した。現地上海のフランス警察は、死者は約445人と負傷者は約828人と推定した。中国空軍に爆撃されたキャセイホテル前の惨状では、壊れた自動車や自転車、瓦礫が散乱し、空襲の凄まじさを物語った。犠牲者には大学教授や雑誌編集者、医師など多数の外国人も含まれた。

 8月14日以降も、中国軍の空襲は複数回に及んだ。8月23日正午12時50分頃には先施公司第二楼に中国空軍の爆弾の投下により炸裂した。その誤爆は惨状を呈して、即死者は約160人以上と約470人余の負傷者が出た。先施公司は上海を代表するデパートの一つであり、白昼に繁華街への攻撃を受けた。当時の上海は欧米各国の要人や特派員が常駐し、国際世論に直結する土地柄だった。日本軍は宣伝工作を十分に尽くさないまま軍事的な報復に踏み切った。一連の攻撃で中国軍が用いた爆撃機はアメリカ製であった。第二次上海事変は、日中双方が保有する陸海空の兵力が激突した。上海は第一次世界大戦の激戦地ベルダンに匹敵するほど、流血が多い戦場と評された。




2022年8月18日木曜日

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士から、日本軍に殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。

日中戦争の第二次上海事変にて、日本軍の猛攻に撃退された中国軍兵士は、上海市宝山区に位置する大場鎮にて殺害された中国人の死体が野末に野ざらしにされて白骨化していた。1937年10月26日、日本軍の上海派遣軍は上海近郊の要衝である大場鎮を攻略して、10月27日に、「日軍占領大場鎮」というアドバルーンを上海の日本人街に上げた。大場鎮を陥落して、上海はほぼ日本軍の制圧下になった。11月9日には中国軍は退却を始めて、上海は日本軍の占領下に置かれた。

 日本海軍陸戦隊が、1937年8月23日に上海の呉淞鎮に上陸した。10月23日から総攻撃をして、10月25日に廟行鎮、11月11日には南翔の堅塁を陥落した。さらに北進して、大倉、常熟、無錫に侵攻した。その当時に、上海は人口は約150万人、中国全土の約85%の工場を有して、第一の海外貿易額を有した。上海事変によって、上海市街の大半は壊滅して瓦礫となった。日本人租界の虹口、北閘の一部は、崩壊して瓦礫が散在した。

 上海の市街地の両側の道路で対峙して、向かい合って白兵戦となり悲惨な大量の虐待と虐殺を伴う死闘を伴った。大場鎮向けて二重や三重の塹壕が続いて、中国軍兵士の死体はを納めた棺が放置されていた。塹壕内には血に染った軍服、帯革、水筒、懐中電灯、カンテラ、軍報、笠、食器類など殊にドロドロになった布団の散乱していた。その戦場となった上海の大場鎮の周辺地域では、殺害された死体が放置されて、半ば白骨化していた。

 日本軍は大昌の戦い(10月1日から26日)で、雲沢濱江を渡り、上海市街と西北の郊外の町を結ぶ通信路である大場鎮を奪取を目指した。大場鎮は第2次上海事変中、最大の激戦地となり、幾度の決死の突撃を繰り返した。日本軍は、約700門の大砲と約150機の爆撃機を投入し、大昌の町は完全に瓦礫と化した。戦闘は非常に激しく、1時間当たりの平均死傷者数は数千人に達し、数日で崩壊した師団もあった。この激戦は10月25日に、ついに大昌が陥落するまで続いた。この時、中国軍は約3ケ月近く守り続けた上海市街地から撤退した。




2022年8月1日月曜日

第二次上海事変にて、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

第二次上海事変において、1937年に上海を侵攻する日本海軍特別陸戦隊は、上海の路上に散乱する中国人の死体を乗り越えて侵略した。

 第一次上海戦終了後の1932年の停戦条件で、1937年8月9日に日本海軍特別上陸部隊の大山功中尉が、違法である上海の鴻橋空港の敷地内に入ろうとした。大山は中国の警官に発砲されて死亡した。8月10日に、日本軍側は中国軍と中国警察組織の和平工作団の上海からの撤収を要求したが、中国軍側は応じなかった。上海での緊張が高まる中で、日本は邦人保護を名目に、上海へ援軍を派遣して、8月11日に中国軍はついに上海への出兵を命令された。

 8月13日午前9時に、1万人以上の日本軍海軍陸戦隊が上海近郊に上陸して、閘北、武松、江湾地区で交戦状態となり、第二次上海事変が勃発した。その昼過ぎには、中国軍が迫撃砲で日本軍を攻撃し始めた。8月13日午後4時に、黄浦江と長江にいた日本軍の第3艦隊が艦砲射撃を開始した。8月14日に、中国軍の戦闘機が日本軍の戦艦と陣地を爆撃し始めて、中国国民党政府は自衛・抵抗の戦争宣言を出した。午後3時頃に、中国軍の反撃が始まるも、国際海域に強固な陣地を築いた日本軍は、軽武装の中国軍の反撃を圧倒した。8月15日に日本海軍の爆撃機が、長崎と台湾から渡洋爆撃した。8月15日に、国民党政権は、総動員令を出した。8月16日に、中国軍は日本軍の建物に忍び寄り、松明や手榴弾で建物に放火した。日本軍が建物から逃避すると、中国軍の機関銃が日本軍兵士を射撃した。8月17日に、日本軍の軽戦車が中国軍を追い返し、中国軍の反撃は終結して、日本軍の戦線を突破できず多くの死傷者を出した。

 8月18日、中国軍は援軍が到着し、恵山の埠頭を攻撃して戦車の援護を受け、日本軍を撃退した。しかし中国軍は戦車と歩兵の連携不足により、日本軍により再び埠頭を失った。中国軍の攻撃は敗退に終わり、約90人の中国軍将校と1,000人以上の中国軍兵士を失った。8月22日に、日本軍は上海を援護して、上海の北東50kmの荘子口、石林、宝山へ上陸した。中国軍は上陸を妨害できずに、一部は上海から撤退した。8月23日に、日本軍は、柳河、武松、荘内口に再び大規模な上陸作戦を展開した。中国軍は日本軍の新たな上陸に対抗するも再び失敗した。中国軍は夜間攻撃で、いくつかの村を侵攻しても、また村を失った。8月末には、中国軍の残党は包囲された宝山の防衛で全滅し、生き残った中国軍兵士は一人だけであった。10月26日に上海近郊の中国軍の大場鎮が陥落して、11月9日に上海を焦土しながら、南京への全面撤退に入った。最終的に中国軍は限定的な交戦にとどめて、より有利な条件で戦える内陸部での対決に転換した。




2022年5月26日木曜日

第一次上海事変にて、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、日本軍は中国国民党軍兵士の死体の上を突進した。

第一次上海事変にて、日本軍は1932年2月22日に、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化して、中華民国軍兵士の死体の上を突進した。アサヒグラフ(朝日新聞社)は、1932年1月28日に、第一次上海事変が勃発すると、朝日新聞社の記者たちはいち早く上海の戦場に駆けつけて、戦闘の様子を写真に収めた。第一次上海事変の写真において、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実を映し出した。中国の大都市を蹂躙する近代的な日本軍の軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の姿を見出した。戦場における死体も含めて戦争の悲惨さを公表した。その後に、日本の政治家や軍部幹部は、中国での戦闘に対する国際的な抗議に驚嘆した。そのために第二次上海事変(1937年8月13日)から南京陥落(1937年12月13日)したときに、日本のマスコミはひどい都市部の破壊の写真を何枚も掲載したが、中国人と日本人にかかわらず殺害された死体の写真は掲載できなかった。

 1930年代初頭に、日本軍による中国への軍事介入に関するメディア報道は、朝日新聞社の特派員は、日本軍の中国での主力部隊である関東軍の跡を追った。満州事変(1931年9月18日)から第一次上海事変(1932年1月28日)、済州島事件(1933年1月3日)を写真による特報を制作した。軍事事件の報道は、アジアで他の追随を許さない無敵の日本軍軍隊が、挑発されて、必要に迫られて軍事行動することを国民に過信させた。1937年まで、満州と中国における日本軍の動きを取材できるメディアは、自社の報道用飛行機を持つ朝日新聞社が最も優れていた。ライバルの新聞出版大手である毎日新聞社は、1937年に中国特派員と『中国前線』誌で対抗する特派員部隊を設立した。1938年2月には、内閣情報調査室(後に室、最終的に局へ昇格)が『写真週報』を創刊した。

 日本軍は第一次上海事変にて、在留日本人を含む国際社会を、中国国民党軍の暴力的な軍事行動から守るために迅速に軍事行動し、中国人の反乱軍が鎮圧されて秩序が回復されて、日本軍の軍事行動は完結したと物語化した。日本軍兵士が上海の都市部の道路を封鎖して、日本の権益を警備した写真を多く掲載した。上海の街を、日本軍の装甲車が巡回して、日本軍旗を掲げて、日本軍の統制を写真で誇示した。




2022年5月5日木曜日

日中戦争勃発直後の1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海に投下された爆弾の炸裂による民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。

日中戦争の第二次上海事変にて、1937年8月14日の血の土曜日に、中華民国空軍の爆撃機から上海市内に投下された爆弾の炸裂により甚大な民間中国人の犠牲者の死体が散乱した。8月14日朝に、中国空軍のパイロットは日本軍陣地に爆弾を投下し始めてから、中国空軍の上海爆撃事件が勃発した。中国空軍の飛行機が黄浦江上空を旋回して、日本軍艦の出雲を攻撃して、爆弾が爆発した。中国空軍の爆撃機から南京路と外灘の角に3発、フランス租界の大世界ビル前に2発の爆弾が落ちて炸裂した。中国空軍が空爆に約1,200人の民間中国人を巻き込み一瞬にして殺害して、数百人の負傷者が地面に倒れた。

 1937年8月14日に2つの爆弾が、大量の難民収容所となった泡井路の大使館劇場の玄関先で爆発し、甚大な殺害場所の一つとなった。最初の悲劇は、午後4時27分に起こった。黄浦江を下る上空に飛行機の一群が現れ、すぐに日本軍の出雲が、高射砲の弾丸を放って、榴散弾が市街地に降り注いだ。中国空軍の爆撃機6機は、厚い雲の中に消えて、日本軍の砲火を逃れた。後方の4機は外灘上空を飛行中に爆弾を投下した。2発は川で爆発し外灘に高波を巻き起こした。残りの3発は南京路に落ちた。上海市の南京路における1番目の爆弾は、キャセイ・ホテルの入口のすぐ前の道路に落下して炸裂した。2番目の爆弾は、パレス・ホテルの屋根を突き破り、約3階を突き破った。3つ目の爆発はキャセイ・ホテルの7階を破損した。ホテル内の爆弾の炸裂により、2つのホテルの全長に、歩道や車道には砂利や木片、外壁からはがれた石などが散乱した。頭、足、腕が、粉砕された胴体から離れて横たわった通行人たちのバラバラ死体が散乱した。キャセイ・ホテルでは建物内部まで吹き飛んで、一番奥の店の窓までが粉々になった。砕けた石組みは揺れ、外れ、舗道の上に崩れ落ち、窓や板ガラスの扉も一緒に落下した。燃え盛る車は煙を吐き出し、ねじれた車体の上で渦を巻いて、中には乗客を乗せて焼かれた車もあった。

 民間中国人の死傷者の数は甚大となり、特に大世界の近くのフランス租界側で救助隊が処理した死体数は約435体に及んだ。約139人の負傷者が病院に運ばれる途中で死亡し、約87人の負傷者は治療中に命を落とした。その犠牲者の内訳は、男約563人、女約51人、子供約47人に及び、犠牲者のほとんどは民間中国人であった。大世界の近くでは、死体があちこちに見られ、ビルに沿って歩道に散乱し、信号機の周りで人力車に数十人が詰め込まれた。大世界の入口には約300死体以上、反対の角にはさらに100死体が積み上げた。上海の高温多湿の気候の中で、腐敗する死体を集団墓地で一刻も早く死体を埋葬処理した。




2022年5月3日火曜日

日露戦争の葉書の表題には「露國良民ノ惨殺屍体」と記載され、ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体とも解釈された。

1904から1905年頃の日露戦争の葉書の表題には、「露國良民ノ惨殺屍体」と記載された。ロシア軍により虐殺された罪のない犠牲者の死体と読める。この虐殺の状況には何の脈絡も説明もない。文法的には、虐殺されたロシア人の死体という意味にもなり得る。表題の解釈は見る人の思い込みによった。日露戦争では、木版画が戦場のドラマや血なまぐさい様子を伝えた。日露戦争の戦死者を撮影した写真は存在するが、まだカメラで写真を撮影するのはかなり困難であった。
 1904年8月10日発行(東陽堂)の『風俗画報』の「ロシア征服の図10」の表紙では、山本庄弥により、モチアン峠での戦闘で数十人のロシア軍兵士を切り倒す日本軍の吉井中尉を描いた。吉井中尉の正確な剣によって、ロシア軍兵士の頭部が切り裂かれ、血の塊の中からほとんど見えない二つの目が覗き込んでいた。このような版画の様式やテーマは、人殺しや幽霊などの扇情的な絵を得意とした江戸時代の浮世絵師たちの影響を強く受けた。カラー版の原画は、ロシア軍兵士や吉井中尉の刀や鞘を深紅の血が覆っており、陰惨な絵画であった。1930年代頃から、日本がアジアに文明開花をもたらす存在になると、野蛮で血みどろの描写はマスコミから敬遠された。
 上海事変の頃の写真には、殺戮や破壊の生々しい光景など、戦争の厳しい現実が映し出された。上海事変写真画報(1932年2月22日、16-17頁、朝日新聞社)の表題全体には、膠江大道は荒れ果てた焼け野原と化した! 我が海兵隊は敵の死体の上を突進する" と記載した。上海事変による死体も含めて戦争の悲惨さをありのままに伝えた。大都市を蹂躙する日本軍の近代的な軍隊と軍艦、爆撃機、戦車の写真を撮影した。中国での戦闘に対する国際的な抗議があり、日本の政治家や軍部の指導者は写真を驚異と捉えた。日中戦争が勃発した後の1937年末に第二次上海事変と南京が陥落したとき、日本のマスコミはひどい都市破壊の写真を何枚も掲載した。しかし、中国人、日本人にかかわらず戦争による死者の写真は掲載しなかった。

 


 

2021年12月17日金曜日

日中戦争の第二次上海事変から、中国国民党軍を追討して蘇州に侵攻した日本軍は多数の蘇州市民を殺害して死体が散乱した。

第二次上海事変から蘇州に侵攻した日本軍に無差別に殺害された蘇州市民の死体が散乱した。1937年8月中旬から11月15日にかけて、日本軍は蘇州市に約4,200個以上の爆弾を投下し、数千人の中国人の死傷者を出した。平門駅はほぼ完全に爆撃されて、一回の爆発で約300~約500人が死亡して、衛生列車や難民用のワゴンも破壊された。大人や子供があちこちで吹き飛ばされていた。さらに日本の爆撃機が天門の外に焼夷弾を落とし、約三日三晩燃え続けて、天門の周りは焦土と化した。日本軍は、掃討しては銃剣で刺殺したり、銃殺した。多くの女性は強姦され、少しでも抵抗すると銃剣で撃たれた。

 1937年8月13日から上海で勃発した日中戦争にて最も激しい戦闘である第二次上海事変(淞沪会战)が、11月12日まで続き、日本軍による上海の占領で終結した。1937年11月5日に、日本軍は杭州湾北岸の金山衛などから上陸を開始して、上海の情勢は中国国民党軍にとって非常に劣勢となった。11月9日から、中国国民党軍は上海から撤退を始めた。日本軍は上海を占領すると、すぐに太湖の北岸と南岸から中国国民党軍を追いかけて、退路を断つために蘇州などを攻略した。

 1937年11月19日に日本軍は蘇州に侵入して、蘇州の街はすべて陥落して日本軍に占領された。占領後の3日間が最も多くの火傷と殺害をした。東中市の地家橋から長門石道まで、昼夜を問わず火災がした。1937年11月21日付の朝日新聞によると、19日午後2時に日本軍が楼門から市内に入り、市内に散らばっていた中国国民党軍兵士約2,000人が日本軍の捕虜になった。 日本の上海派遣軍の司令部が、「囚人は全員殺せ」という密命に従って、全員が処刑された。退却していた中国国民党軍約2,000人が日本軍に捕らえられて殺害された。日本軍は、攻撃した蘇州の地域で、血みどろの殺害、略奪、焼き討ちなどの三光作戦による戦争犯罪を実行した。日本軍の恐怖政治に苦しむ中、多くの蘇州市民は衣食住に困窮し、生活の糧を得れなかった。蘇州の街では、あちこちでボロボロの服を着た蘇州の市民が道端で物乞いをした。日本が蘇州を占領した後に、通りには死体があふれて、約10日間放置された。蘇州市の都市部で約3,738人、田舎で約6,774人が殺害された。




2021年8月12日木曜日

第一次上海事変にて、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻して、塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たり、武器が散乱した。

第一次上海事変にて1932年2月20日に、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻した。塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たわった。その塹壕内には、中国軍の武器が散乱していた。日本軍は、2月20日に上海の廟行鎮東方及び江湾鎮附近の中国軍の陣地を攻撃して、江湾鎮の東端まで侵攻した。中国軍は、江湾鎮の市街に堅固なる家屋を利用して、徹底した抗戦して。日本軍は侵攻の進捗が停滞して、戦闘が苦戦に陥った。

 中華民国の上海共同租界にて1932年1月28日から3月3日まで第一次上海事変が勃発した。日本軍は、上海の邦人の保護と租界防備に関する国際的義務を全するを事由として1917年2月6日に日本軍が日本より上海に派遣された。第十九路軍を主幹とする約5万人の中国軍は2月20日から上海の日本軍に第一次総攻撃した。

 日本軍は、2月22日夜中に廟行鎮の敵陣地を夜襲しこれを奪取した。三十六勇士が出現して、肉弾三勇士として謳われて、作江、北川、江下の三伍長は戦死して、師団長より感状の名誉を授与された。帝国万歳と叫んで吾身は木端微塵、忠烈まさに粉骨砕身、葉隠れ主義の露堂々など、美談が広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士と武功を称えられ国民は軍国主義に熱狂した。日本軍は、中国軍陣地の郭家屯にて、閘北方面から優勢なる中国軍が逆襲した。廟行鎮附近の戦闘により、第十九路軍に蒋介石の中国護衛軍が援軍して来た。

 2月26日には江湾鎮の中国軍は戦闘機の爆撃と砲撃されて、西方に退却した。日本軍は、廟行鎮から江湾鎮、閘北までの戦線を占領した。3月1日に江湾鎮の西方約2Kmの大行橋から江湾鎮の南方約25Kmの夏馬湾まで侵攻した。3月2日に混乱して敗走する中国軍を追撃して、3月3日に戦闘は終結した。

 3月24日より、日本軍と中国軍の停戦を、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの4国の武官が参与した委員会で協議を重ねた。特にイギリス公使の斡旋により停戦協議は進展した。3月25日から上海に駐屯した一部の日本軍から帰還を開始した。4月29日の天長の佳節の爆破事件が勃発した。4月30日に国際連盟の停戦の勧告決議が採択されると、停戦協議は5月5日に調印された。5月9日までの日本軍の戦死者は約634人で戦傷者は約1,791人に及んだ。中国軍の犠牲者は戦死者4,086人、戦傷者は約9,484人に及んだ。民間市民は約6,080人が殺害されて、約2,000人が負傷して、約14,000人が行方不明となった。日本軍は、5月11日に大本営に対して、満州方面における拡大する反満、反日の匪族を、直ちに武力を以て徹底的に鎮圧して治安の維持を求めた。満州の駐兵地域の拡大に伴い兵力が不足して、上海事変の停戦の調印を利用して、日本軍を改編して満洲に転用することが発令された。




2021年8月9日月曜日

第一次上海事変で日本軍兵士らは、板間に戦死した兵士の死体を多人数で載せて担いで、火葬のために大場鎮の戦場から運び出した。

 第一次上海事変の最大の激戦地となった悲惨な大場鎮の戦いでは、塹壕の中で日中両軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士らは、戦死した板間に戦死体を載せて担いで、大場鎮の戦場から運び出した。戦場の後方まで戦死体群を集積して火葬して埋葬した。両軍は塹壕から出る地点で、猛烈な射撃を受けて死傷者が続出した。大場鎮にて突撃を繰り返して、上海戦線の203高地と呼称されて、多くの犠牲者を出した。大小の小川を挟んで、決死の肉弾戦が続いて、弾丸が降り注いだ。小川の橋を落しては、中国軍兵士が民家に籠って頑強に抵抗した。中国軍が設置した小川の水路や陣地の蜘蛛の巣によって日本軍の侵攻が立ち往生した。1932年1月28日から3月3日まで上海で日中両軍が衝突した第一次上海事変では、日本軍と中国軍で約4万人もの死傷者が出た。日本軍は戦死者は約769人、戦傷者は約2,322人の犠牲となる。中国軍は戦死者は約4,086人、戦傷者は約9,484人の犠牲を伴った。

 上海事変後に、1932年1月28日に上海の共同租界に戒厳令が施行され、イギリス・アメリカ・フランス軍は警備した。日本海軍と陸軍も在留邦人保護のために上海に上陸して警備した。中国の第十九路軍が突如に発砲して、上海の閘北一帯が戦闘に陥った。小川沿いの脇に両軍に多くの死傷者が倒れ、多くの犠牲者が出た。中国軍は、戦場ー帯に設置した鉄剛網から機関銃を発砲した。上海の廟江鎮の戦場では、日本軍兵士の爆弾三勇士が爆弾を抱いて自爆して鉄条網を粉砕して、殉職に対して日本大衆から英雄と讃えた。

 第一次上海事変は、1931年9月18日の柳条湖事件から派生した満州事変の際に、併発した日本軍と中国軍の局地戦争である。世界の注目を満州国の建国工作からそらし、中国の抗日運動を抑える謀略から発生した。中国人を買収し、1932年1月18日には、日本人僧侶を襲撃・死傷させて、抗日運動の上海に険悪な情勢を波及した。中国側当局が日本の抗議要求をのんで事件は落着するも、日本軍は日本租界に陸戦隊を配備し、1932年1月28日から中国第十九路軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地形を巧みに活用して日本海軍の陸戦隊を苦しめた。2月には、日本政府は日本陸軍を大動員して、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するために、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力がかかった。国際連盟総会直前の3月1日に最大の激戦地となった大場鎮の中国軍陣地を陥落した。3月3日になり中国軍の第十九路軍は退却した。国際連盟の3月4日の臨時総会で、日中両国の戦闘停止を決議した。日中両国が決議を受諾して、第一次上海事変の戦闘が停止した。5月5日に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間に1931年3月1日に満州国が建国された。中国側の抗日意識や列強の対日警戒心が一挙に増大した。




2021年6月18日金曜日

上海の大場鎮にて、日本軍兵士が殺害した中国人青年兵士の死体が塹壕に横たわった。狙撃した日本軍兵士が死体に立ち寄って、殺害された中国軍兵士の戦死を検死した。

日中戦争において、日本軍と中国革命軍が1938年2月25日に上海宝山区の大場鎮で上海第一次事変(January 28 Incident)で激突した。日本軍は、事前の陸軍動員計画で、日本軍は大軍と大量の馬匹を上海の大場鎮に動員した。上海の大場鎮において、日本軍兵士によって殺害された中国人青年兵士の死体が塹壕に横たわっていた。直ちに、狙撃した日本軍兵士が死体に立ち寄って、殺害された中国軍兵士が戦死していることを検死した。1932年3月1日に激闘の末に日本軍は、中国軍の大場鎮の陣地を占領した。

 満州事変の直後に第一次上海事変にて、日本軍と中国軍とが上海の一部地区で戦闘が勃発した。満州国の建国に向けて、中国軍の抗日運動を弾圧した。上海の中国人を操って、1932年1月18日に、日本人の僧侶などを襲撃して1人を殺害して、2人が負傷した。抗日運動の中心地となった上海に紛争を巻き起こした。虐殺事件は、中国軍側の上海部隊が日本軍側の弾圧要求を受け入れて終結した。

 直ちに、日本軍が日本租界に日本軍部隊が上海に上陸して、1月28日に中国軍と激突した。中国軍側の精鋭である第十九路軍が、上海市街から北西郊外の地形を活用して、日本軍部隊が苦境に陥った。大日本帝国軍は、日本軍子部隊を急増させて、中国軍と激戦を勃発した。上海に混在していた西洋各国の租界が、イギリとアメリカとフランスの3国が、日本軍と中国軍に休戦を勧告した。日本軍は、第一次世界大戦後に設立された国際連盟の介入を回避するために、日本軍は、国際連盟の総会直前である1932年3月1日に強固な中国軍の大場鎮の陣地を占領した。3月3日に中国軍の第十九路軍が退却して、退却して一次上海事変は終結した。5月5日に日本軍は中国軍と停戦協定を締結した。

 日本軍は上海が満州に撤退した。この間の1933年3月1日に満州国が建国されて発足した。満州国が建国されると、中国軍の抗日運動や西洋各国は、日本軍に対する脅威を急激に高まった。日中戦争において、廟行鎮の戦いで日本軍兵士による自爆攻撃を爆弾三勇士として日本国民は英雄と奉った。日本軍と中国軍が停戦を教義していた4月29日に、朝鮮人である尹奉吉が爆弾を上海の日本軍司令官が殺害されて、中国公使の重光葵が負傷して朝鮮人による抗日運動が激化した。




2021年5月18日火曜日

1920年代中頃に、上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力を銃殺による死刑を執行した。

1920年代中頃に上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力に対して銃殺による死刑を執行した。上海人の問題行動、武器密輸、過激主義などの過激な中国人勢力を鎮圧して、人種的偏見によりアジア人種を徹底的に弾圧した。鉄製の檻に入れた中国人の囚人に首枷をつけて竹の棒で打たせるなどの虐待と虐殺した。

 上海工部局警察(SMP)は、イギリスの植民地警察として上海公共租界で騒ぎを起こす過激活動家を取り締まった。上海市議会である工部局が警察を管理していたが、1854年から香港警察や軍隊から雇い入れた英僑だけの少人数と外国人を混成して大規模な海外の他人種に組織化された。日本人部局は、上海公共租界内の北部の虹口地区で拡大していた。外国人部局は、無気力で怠惰になるアジア人組織を徹底的に管理して、ヨーロッパ人を頂点とする人種的な序列に従って組織化された。上海公共租界の外国人住民が、上海工部局警察の組織と活動を管理していた。上海工部警察に雇われた中国人とインドのシーク教徒を奴隷化した。上海公共租界の外国籍の住民は他国の領事の管轄下となった。上海の巡回区では、中国人と外国人、シーク教徒や日本人の門前でのやり取り振る舞いは、騒動の挑発行為となった。

 上海では1913年以降に犯罪率が急上昇して、上海工部局警察は危機的水準に達した。特に、国民党軍が1913年7月12日から袁世凱を打倒する辛亥革命を蜂起するも、8月13日に鎮圧された残党が上海に潜伏した。1914年から上海では、武装した国民党の残党兵士らが、商店や民家を襲撃した事件が約98件も発生して、1916年には約196件にも増悪した。

 イギリスは、第一次アヘン戦争(1839年~1842年)で清国に勝利して1842年の南京条約により、中国の清国における香港島を割譲して、外国人が支配できる条約港である広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港を保持できた。その中で、上海公共租界が、清国の橋頭堡で最大規模であった。上海工部局警察が治外法権で法律と秩序を支配した。1863年に、イギリスとアメリカの租界が正式に合流し、上海公共租界が成立した。日本は第一次世界大戦中の1915年から、日本は上海に最も多くの日本人の外国人居住者を抱えた。1930年代の上海事変により、日本人が急速に上海で治外法権の外国人の約80%を占めた。太平洋戦争が勃発した1941年12月8日と同時に日本軍が上海市に突入して占領して、上海公共租界は消滅した。太平洋戦争後に中華人民共和国が設立された1949年以降は、市政府である工部局は中国共産党の上海市長の支配下となった。(香港: 1997年7月1日にイギリスから中華人民共和国への返還、2020年7月1日に香港国家安全維持法を施行。)


イギリス上海工部局警察による中国人武装勢力に対する死刑の執行前


中国人武装勢力の死体は刑場に放置された。


2021年2月9日火曜日

上海クーデター(四・一二事件)により、上海市内の各地で多数の共産党員や革命的労働者らは逮捕されては銃殺された。

1927年4月27日未明に、上海の暗黒街を支配する暴力団が労働者糾察隊を襲撃したのを起点に、 国民党右派の命令を受けた白崇禧軍が上海市内に侵攻して労働者糾察隊を武装解除して、抵抗する者を射殺した。 労働者糾察隊を指揮した周恩来は逃亡して脱出した。3日間にかけて、上海市は血の都市と化した。約20万人の抗議デモ隊に容赦なく機関銃の掃射を浴びせた。上海市内の各地で多数の共産党員や革命的労働者らは逮捕されては銃殺された。さらに4月15日にも広州でも同様な大虐殺が行なわれて、以後国民党軍の支配地域では白色テロが抵抗者らを虐待と虐殺した。 

 国民政府軍は反共産主義クーデター(四・一二事件)を、1927年4月12日に上海で強行して、国民党内部の反共産主義から勃発した。3月の漢口の国民党大会で、中共分子と左派は政権部分を独占すると同時に、国民革命軍の総司令部制度が廃止された。蒋介石は、単なる軍事委員の一員となり、実権を喪失した。4月6日に北京の警官隊がソ連公使館を襲撃して、極秘書類から赤色革命を使命された中共分子や武器から中国共産化が判明した。上海では1926年5月から、中国共産化から各工場で異様にストライキが勃発した。1927年2月には約36万人にも及ぶゼネ・ストが展開された。1927年3月には中国共産派による臨時政府が設置された。1926年7月から国民革命軍は、北伐を開始して11月には揚子江流域まで達した。1927年1月1日から国民政府を広州から武漢に移転した。上海クーデターにより4月18日に武漢政府を武漢から南京に国民政府を移転して分裂していた。

 国民党の右派は、1927年4月初頭から戒厳司令を下して、次第に工人による糾察隊を武装解除した。ついに4月12日に一気に総工会を襲撃した。国民党は中国共産派を弾圧して、幹部の数十人を捕獲して路上で銃殺して虐殺した。1927年4月12日の夜明け前に、国民党革命軍は、閘北、南市、浦東などの組合労働者が管理する地区事務所を攻撃し始めた。緊急法令の下で、国民党第26軍は、労働者の民兵を武装解除するよう命じられた。その命令の結果、約300人以上が殺害された。組合労働者は大衆会議を組織して4月13日に蔣介石を非難し、数千人の労働者と学生が国民党第26軍の本部に抗議した。国民党軍兵士たちは発砲して、約100人を殺害して、さらに多くの市民を負傷させた。国民党は、上海の臨時政府、労働組合、および共産党の管理下にある他のすべての組織を解散して、国民党に忠誠を誓わせて、労働組合の連携を再編成した。一部の推定では、約1000人以上の共産主義者が逮捕された。その約300人が死刑にされて、約5,000人以上は行方不明になった。他の推定では約5,000〜約10,000人が殺害された。