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2023年6月1日木曜日

太平洋戦争にて1944年11月10日に弾薬艦であるUSSマウントフッドが大爆発して、全乗組員の約304人全身が死亡した。マニス島のロレンガウ海岸にて、積み上げたアメリカ軍兵士の死体が、埋葬のための移送を待機した。

太平洋戦争にて1944年11月10日に弾薬艦であるUSSマウントフッド(Mount Hood A-11)が大爆発して、全搭乗員の約304人全身が死亡した。アメリカ海軍基地があるマニス(Manus)島のロレンガウ(Lorengau)海岸において、水牛のように積み上げられたアメリカ軍兵士の死体が、埋葬のための移送を待機した。アメリカ軍によって戦争写真が検閲されて非公開となった。アメリカ軍当局は、11月10日の爆発後に、乗組員の遺体は一切見つからず、乗組員全員が公式に死亡したと発表していた。



 大量の死体を、戦場から遠隔地のアメリカ文化と結びつける視覚的情報は、アメリカ国民にとって受容が困難であった。ナチス・ドイツ軍のユダヤ人の絶滅政策や連合軍により遠くのヨーロッパや日本本土の都市への砲撃によって引き起こされた大量虐殺の残酷性を理解させなかった。第二次世界大戦にて、人間の苦しみを理解することが、すでに困難な課題であることが、戦争写真の検閲を複雑にした。日本軍による襲撃の可能性は低かった。日本軍当局の女性アナウンサーの東京ローズは、爆発発生から2時間以内に、弾薬艦はミゼット潜水艦によって破壊されたとラジオ英語放送した。

 1944年11月10日午前8時55分に、太平洋のニューギニア島近海のマニス島の嶼基地のシードラー港に停泊中のアメリカ軍の弾薬艦であるUSSマウントフッドが大爆発した。約3,800トンの爆弾を搭載した弾薬艦から巨大な炎の閃光後に、2回の爆発があった。弾薬艦は、船と乗組員全員が吹き飛ばされて、瓦礫に消滅した。死亡者の多くは、弾薬戦から水中に吹き飛ばされ、マニス島の陸上に運ばれたときに死体は油まみれになった。約296人の乗組員と約22人の将校のうち、マニス島に上陸した14人以外の約304人全員が死亡した。周囲にいた22隻の戦艦にも損害を与えた。弾薬艦の大爆発に巻き込まれて、合計で約372人が死亡して、そのうち327人が行方不明となり、約371人が負傷した。





2022年1月28日金曜日

ニューギニアのラム渓谷を侵攻中に、オーストラリア軍兵士らは日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破して、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

太平洋戦争のニューギニアの東部の戦いにて、1943年11月22日にオーストラリア軍がラム渓谷を侵攻中に、日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破した。オーストラリア軍パトロール隊の兵士らは、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

 オーストラリア軍は、ニューギニアの戦いで1943年10月から日本軍が建設した道路をを逆にたどってラム渓谷まで侵攻した。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山脈を守る日本軍と戦闘を重ねた。シャギーリッジでは守備する日本軍が頑強に抵抗し激戦となった。オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させて、日本軍部隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山脈から撤退させ、マダンの日本軍陣地の手前まで迫った。残存した日本軍兵士が疲れきり、物資の欠乏にあえいで栄養失調となり、多くの日本人が路傍に倒れた。

  オーストラリア軍は10月10日に、尾根の南端にあるバート・ポストを占領して最初の陣地を確保した。その後、1944 年1月まで尾根上での戦闘に参加した。尾根は急斜面で狭く、狭い山頂に沿って攻撃するしかなった。日本軍は、尾根の主要な山地であるグリーンピナクルに陣地を残存していた。10月23日にこのグリーンピナクルを占領して、11月には少戦闘で過ぎたが、12月8日に日本軍は反撃に出て、ラム渓谷のオーストラリア軍陣地を攻撃した。その最大の攻撃は12月12~13日の夜に行われたが、日本軍はその後には出発点に退却した。

 マーカム峡谷、ラム峡谷、フィニステール山脈での各戦闘は、第二次世界大戦のニューギニア作戦における一連の戦いの一つである。連合軍は両渓谷を占領するために、1943年9月19日~20日にカイピットを占領した。カピピットの生い茂った飛行場はすぐに撤去して、マーカム渓谷からラム渓谷の下流域に向けて侵攻した。連合軍の戦闘は、1943年9月19日のラム渓谷に対する連合軍の攻撃から始って、1944年4月24日に連合軍がマダンを占領して終結した。これらの戦闘中に、オーストラリア軍はアメリカ軍の戦闘機の支援を受けてマーカム渓谷とラム渓谷に侵攻した際に、日本軍とは小規模な戦闘となり、日本軍はフィニステール山脈の防衛線に向けて撤退した。オーストラリア軍とアメリカ軍は約204人が戦死して、約464人が戦傷した。日本軍は、約800人が戦死して、約400人が戦傷した。




 

2021年11月24日水曜日

太平洋戦争のニューギニアのサラモヤの戦いで、日本軍兵士はアメリカ軍の砲撃で殺害され、死体には蝿と蛆虫が湧いた。

太平洋戦争のニューギニアにて、日本軍兵士はサラモヤの戦いでアメリカ軍の砲撃により殺害された。灼熱の森林地帯で殺害された死体の周囲には蝿と蛆虫が湧いて、死臭が漂って腐敗していた。増援物資の補給も途絶して枯渇して、弾薬の深刻な不足に陥っていた。ジャングルの中で悲惨に虐殺されて死体は放置された。

 ラエ・サラモアの戦い(Battle of Lae-Salamaua, 1943年1月7日から9月16日)は、第二次世界大戦中のニューギニアにて勃発した。1942年3月にニューギニア島東部の要地であるラエとサラモアを占領していた日本軍を、オーストラリア軍を主体とする連合軍が攻撃し、ラエとサラモアを奪還した。日本軍は標高約4,100メートルのサラワケット山系を越えて撤退した。ニューギニアの連合国陸軍の大多数がオーストラリア軍兵士であった。

 オーストラリア軍とアメリカ軍は、日本軍の2つの主要基地のあるラエとサラマウアの攻略を目指した。ワウを攻撃していた日本軍がムボ周辺に撤退したために、オーストラリア軍はムボを占領して、サラマウアに向けて北東に侵攻する中で、数カ月にわたり戦闘が継続した。連合軍はサラマウア周辺で日本軍への攻撃しながら、9月初旬にはナドザブの空襲とラエ近辺に上陸を開始して、東と北西からの攻撃でラエを占領した。ラエ周辺の戦況が絶望的になるにつれて、サラマウアの日本軍は撤退して、1943年9月11日にサラマウアが占領され、直後の9月16日にはラエが陥落した。ラエ・サラモアの戦いの犠牲者は、オーストラリア軍兵士は約1,772人が戦死あるいは戦傷または行方不明となった。アメリカ軍兵士は81人が殺害されて、約396人が戦傷した。それに対して、日本軍は約11,600人が戦死あるいは戦傷または行方不明となった。

 日本軍が、ココダ・トレイルの戦い(1942年7月23日から11月13日)にて、日本軍はポートモレスビー侵攻が失敗した。1943年1月22日までにブナとゴナの橋頭堡は占領されて、日本軍がサマラヤとラエに向かって退却した。日本軍は脅威にさらされ、1943年1月にはサラマウアから約30マイル離れたワウから撤退した。3月には日本軍の輸送船団は連合国軍機に探知されて撃沈して、約3,000人の日本軍兵士が溺死した(ビスマルク海の戦い、1943年3月2日〜4日)。日本軍は、ラエ・サラモヤ地域に約11,000人の兵士で防衛したが陥落した。しかし、サラマウア基地の港や飛行場は貧弱であり、戦いの犠牲は無駄のようになった。