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2023年12月19日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテを1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチ町のドアに釘で打ち付けた写真を公開した。

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテ(Charlemagne Masséna Péralte)を1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチの町のドアに釘で打ち付けられた。アメリカ軍が死体を撮影して写真を公開して、ペラルテの残存信者の士気を下げようとした。アメリカ軍による処刑後に、カコスの指導者ペラルテの死体が展示された。逆効果で、イエスの十字架からの降下に類似して、ペラルテは国民的殉教者の栄誉を得た。

 ペラルテはハイチの民族主義指導者で、1915年のアメリカ軍によるハイチ占領に抵抗した。カコス(Cacos)と呼ばれるゲリラ戦闘員を率いて、ハイチに駐留するアメリカ軍に挑戦を叩きつけた。深刻な内紛が始まり政府が再び転覆したハイチに、ウッドロー・ウィルソン米国大統領は、1915年7月にアメリカ海兵隊を派遣して、ハイチを侵攻した。アメリカは1915年から1934年までハイチを占領した。ペラルテはレオガン市軍司令官だった。1918年9月に強盗事件の逮捕から逃亡して、ペラルテはハイチ北部に臨時政府の樹立を宣言した。数千人の農民非正規兵を動員して、1919年10月7日にポルトープランスを含むアメリカ軍の軍事施設を攻撃した。ペラルテは将校の一人であるジャン=バティスト・コンゼの裏切りに遭い、変装したアメリカ海兵隊軍曹ハーマンH.ハンネケン(後にその功績により少尉に昇進)とウィリアム・バトン伍長を率いて、グラン=リヴィエール=デュ=ノールは、変装して夜陰にまぎれてグラン・リヴィエール近くの反乱軍キャンプに侵入した。1919年11月1日にペラルテは至近距離から背中の2発から心臓を撃たれて暗殺された。ハンネケンとその部下たちは、ペラルテの死体をロバに縛り付けて逃走した。

 殺害されたペラルテの遺体はヒンチェで公開された。ハイチ住民からの反政府勢力の支持を思いとどまらせるため、アメリカ軍はペラルテの死体をドアに縛り付けた写真を撮影し、国内で配布した。しかし、それは逆効果となり、十字架刑に似たその画像はレジスタンスの象徴となり、ペラルテを殉教者として定着させた。1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト米国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。




2023年12月15日金曜日

1967年4月3日に、アラビア半島のアデン住民たちが反英横断幕を振り回し、イギリス陸軍は暴動に対する報復を行った。アデン周辺の市街戦が勃発して、街路にはイギリス軍に銃撃された死傷者が倒れ込んだ。

アラビア半島南端のイエメンのアデンでは1967年4月3日に、住民たちが反英横断幕を振り回し、民族主義的スローガンを唱えながら町を駆け抜けた。イギリス陸軍の王立ノーサンバーランド・フュージリアーズ部隊は暴動に対する報復を行った。アデン周辺の市街戦が勃発して、街路にはイギリス軍に銃撃された死傷者が倒れ込んだ。

 1967年4月2日の国連使節団のイエメンのアデン訪問は無駄に終わった。4月2日に、民族解放戦線(NLF)がストライキを呼びかけ、群衆が街頭に集まり、テロリストが手榴弾を投げたり軍隊を狙撃した。4月3日、特にシェイク・オスマンではテンポが上がりました。「解散するか、我々が発砲するか」の横断幕は急いで巻き上げられ、市街戦戦術が一時的に広まった。アデンの警察署はイエメンの暴徒に包囲され、女王竜騎兵隊の第3大隊と装甲車が救護した。4月4日の平穏な一日の後に、4月5日暴動が再び爆発し、国連使節団はアル・マンスーラ拘置所に護送さた。訪問によりセンター内で大混乱が引き起こされた拘置所外では激しい銃撃戦が起こった。最後に4月7日に、国連使節団はアデンを避難した。使節団のの訪問を機会に、シェイク・オスマンを乗っ取ろうとしたテロリストたちは撤退した。

 アデン緊急事態は、1963年の10月14日革命とも呼ばれ、イギリスの保護領であった南アラビア連邦に対する民族解放戦線(NLF)と占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)により武装反乱が勃発した。南イエメン人民共和国の独立宣言につながった。1963年10月14日にアデン空港に集まったイギリス政府関係者に手榴弾を投げつけて勃発した。その後に、英国王室の植民地であったアデンとアデン保護領に緊急事態が宣言された。緊急事態は1967年にエスカレートし、1839年に始まったイギリスによるアデン植民地支配の終焉を早めた。1967年1月19日から20日に、NLFはアデンで街頭暴動を引き起こした。アデン警察が統制を失った後に、暴動を鎮圧するためにイギリス国軍が派遣された。NLFの暴動が鎮圧されると、親FLOSY派の暴徒が街頭に繰り出した。イギリス軍と親ゲリラ暴徒の戦闘は2月まで続いた。イギリス軍は約40回発砲し、イギリス軍に対する手榴弾や銃撃攻撃が約60回勃発した。その中にはアデン航空の ダグラスDC-3が空中爆撃で破壊され、乗員全員が死亡する事件もあった。1967年11月30日に、アデンおよび旧南アラビア保護領からなる南イエメン国家が独立した。1990年5月22日に、南北イエメン統合により現在のイエメン共和国が成立した。




2023年12月13日水曜日

1947年11月、インドのドグラ朝の支配者ハリ・シンの率いる準軍事組織によって、紛争地域の首都で数千人のイスラム教徒が殺害された。インドの首都ニュー・デリー暴動の犠牲者の死体が、路上から排除された。

1947年11月、インドのドグラ朝の支配者ハリ・シンの率いる準軍事組織によって、紛争地域の首都で数千人のイスラム教徒が殺害された。インドの首都ニュー・デリー暴動の犠牲者の死体が、路上から排除された。1947年10月から11月にかけて、20万人以上のイスラム教徒が、ドグラ朝の支配者ハリ・シンの軍隊に率いられた暴徒や準軍事組織によって、ジャンムー地方で組織的に大量殺害された。1947年8月15日にイギリスからのインド・パキスタン分離独立が宣言されて、パンジャーブ分割をめぐって、イスラム教徒のムスリム同盟に対するヒンドゥー教徒とシーク教徒の報復と暴動が1947年に勃発した。

 パンジャーブ分割に関連した最初の暴動で民族浄化であるラワルピンディ暴動が勃発して、パンジャーブ中央部や東部、シーク教徒が支配する諸侯国、ジャンムー・カシミール、デリー、連合州へのシーク教徒やヒンドゥー教徒の難民の大移動を引き起こした。シーク教徒とヒンドゥー教徒の難民が直面した残虐行為は、特にシーク教徒の間でイスラム教徒のムスリムに対する復讐心を引き起こして、深い衝撃を与えた。シーク教徒とヒンドゥー教とは、直後に、インド西部から追放された難民が定住できるように、インド東部州のイスラム教徒に対して暴動と虐殺を執行した。

 ラワルピンディ暴動は、1947年3月5日に英領インドのパンジャーブ州ラワルピンディ地区で起こった。イスラム教徒のムスリム同盟暴徒によるヒンドゥー教徒とシーク教徒への広範な暴力、虐殺、強姦事件が勃発した。暴動は約2,000人から約7,000人のシーク教徒とヒンドゥー教徒の死者を出し、ラワルピンディ地区からの大量脱出を引き起こした。ヒンドゥー教のホーリー祭に当たる3月5日に、武装したイスラム教徒の暴徒がラワルピンディやムルタンなどの西パンジャーブ州のいくつかの都市でヒンドゥー教徒やシーク教徒を襲撃し始めた。シーク教徒は約200人近くが殺害され、死傷者の多くはヒンドゥー教徒だった。暴徒は放火、略奪、虐殺、強姦を行い、ラワルピンディ、ジェルム、カンベルプール(現在のアットック)地区の村々で次々と暴れ回った。3月7日にタキシラで列車が暴徒に襲撃され、約22人のヒンドゥー教徒とシーク教徒の乗客が殺害された。カフタ村のシーク教徒とヒンドゥー教徒の居住区の家々は放火され、女性は強姦された。トハ・カルサ村とチョア・カルサ村とベワール村とムガール村とバサリ村の大虐殺は、武装したイスラム教徒の暴徒が村を包囲し、シーク教徒の住民にイスラム教への改宗を求め、シーク教徒が集団自殺した。




2023年12月8日金曜日

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネを解放後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕で救援物資を握りしめたまま殺害されていた。

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネ(Ikot Ekpene)を解放した後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕の中で救援物資を握りしめたままで殺害されていた。

 ビアフラ共和国は、1967年5月26日に虐殺されたイボ族を理由に、ナイジェリアからの分離独立を宣言して、1967年から1970年まで存在した。1960年10月1日にナイジェリアがイギリスから独立した後に、一連の民族的緊張と軍事クーデターが発生し、1966年にはイボ族に対するポグロムが勃発した。約3年間のナジェリア内戦にて、ナイジェリア軍による全面封鎖により、約200万人のビアフラ市民が餓死した。ナイジェリア軍は1960年の独立時に、戦闘ではなく市民を鎮圧する国内治安部隊となった。1966年6月から10月には、ナイジェリア北部で約8,000人から約30,000人のイボ族が虐殺されたポグロムが勃発した。1967年7月6日にナイジェリア軍がビアフラに侵攻して、ビアフラ戦争が勃発した。国際的に、ポグロムと飢饉はジェノサイドに分類され、ホロコーストを非難された。1970年1月14日に、ビアフラ共和国が降伏文書に調印して、内戦の終結と分離独立を放棄した。

 ナイジェリア南部のイコット・エクペネは、おそらく他のどの町よりも、ナイジェリア内戦によるビアフリア戦争で深刻な影響を受けた。ビアフリア軍にとってもナイジェリア軍にとっても、戦略的、軍事的、政治的に重要な町だった。この苦い紛争の中で、町とこの地域は少なくとも3回、所有者が変わった。戦争後、新たな再編成と国家構造により、アンナグ族の指導者のほとんどが戦争中に虐殺された。アナング族はナイジェリア内戦で 大虐殺を受けた。戦争は約3年間(1967年〜1970年)続いて、アナング族はかなりの数の人々を失った。















   1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争は、2年半の内戦でビアフラ市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が死亡した。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破ってナジェリア政府軍によるビアフラ市民への暴力を公に非難して、1971年12月22日、国境なき医師団(MSF: Médecins Sans Frontières)が設立された。

2023年10月18日水曜日

コロ島を出港したその夜から、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。

日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。

 ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。 

 中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。

 葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。




2023年9月26日火曜日

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供を虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺して散乱したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。

アルジェリア戦争中に、フランス軍外人部隊が多くの民間アルジェリア人、女性、子供が虐待して、虐殺した。フランス軍外人部隊の一団が、虐殺したアルジェリア人の死体の前で集合写真を撮った。痩せて骨ばったアルジェリア人の犠牲者の死体が、虐殺現場に散乱した。

 1954年11月1日に、アルジェリアの独立を求めて戦闘するアルジェリア民族解放戦線(FLM: Front de Libération Nationale)が、フランスの植民地統治に対して武装抵抗を開始した。11月1日早朝に、ゲリラは軍事施設、警察署、倉庫、通信施設、公共施設などを複数襲撃した。民族解放戦線の軍隊は民族解放軍と呼称されて、わずか数百人の武装要員で始った。1957年までに約4万人近くの軍隊に拡大した。1956年から1957年にかけて民族解放戦線は、より武装したフランス軍との戦闘を避けて、待ち伏せと夜襲に重点を置いたひき逃げゲリラ戦術を採用した。

 1956年までに、フランスはアルジェリアに約40万人以上のフランス軍を投入した。民族解放戦線を攻撃する戦闘任務は主に植民地の精鋭歩兵空挺部隊とフランス外人部隊によって遂行された。フランス正規軍には約17万人のアルジェリア系イスラム教徒が軍務に就いて、ほとんどが志願兵であった。1950年代後半には、フランスは反乱軍への支援を阻止するため、約200万人以上のアルジェリア人を山地の故郷から平地の強制収容所に強制移住させた。

  アルジェリア戦争により、約30万人から150万人のアルジェリア人、約25,600人のフランス軍部隊、約6,000人のヨーロッパ人が死亡した。フランス軍は約8,000以上の村を破壊し、約200万人以上のアルジェリア人を強制収容所に強制移住させた。1962年のアルジェリア独立と同時に、約90万人のヨーロッパ系アルジェリア人が、民族解放戦線の復讐を恐れて数ヶ月にフランスに避難した。フランス政府は膨大な難民を受け入れる準備ができずに、フランス国内は混乱した。特にフランス軍として戦ったアルジェリア人兵士であるハルキ教徒は、裏切り者とみなされ、多くの者が民族解放戦線によって、リンチ集団によって、拉致され拷問を受けた後に殺害された。約9万人がフランスに脱国した。

 1954年11月1日、フランス系キリスト教入植者とベン・ベラが率いる民族解放戦線との間で戦闘が勃発した。当初は劣勢でも、十分に武装したフランス軍と植民地軍の残虐な行為により、すぐに民族解放戦線は農民大衆の支援がもたらした。民族解放戦線はゲリラ攻撃を1956年末にアルジェに拡大した。その結果、フランス第4共和制政府は入植者に対する制御を失った。第四共和制の崩壊を引き起こして、第五フランス共和国を創設するド・ゴールが復帰した。ド・ゴールは直ちに、サランの軍事秘密組織の抵抗して、彼の個人的権威によりアルジェリアにフランス軍の忠誠を再確立した。ド・ゴールは民族解放戦線に和平交渉を呼びかけ、1962年3月18日にレマン湖畔でエビアン協定を締結して、戦闘は停止した。アルジェリアの独立は1962年7月3日に宣言された。




2023年9月22日金曜日

北東アフリカのスーダンにて1899年11月25日のウム・ディワカラートの戦いは、イギリスのエジプト遠征軍がマフディスト軍と信奉者を残忍に大量虐殺して、約1,000人以上の死体が散乱してマフディスト国家は滅亡した。

北東アフリカのスーダンにおける1899年11月25日のウム・ディワカラート(Umm Diwaykarat)の戦いは、マフディスト国家の最終的な滅亡を示した。カリファとして知られるアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドが指揮下したマフディスト軍の残党が撃破された。マフディスト軍と信奉者らは残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死体が散乱した。マヒディ国家の後継者であったハリファとして知られるアブダラヒ・イブン・ムハンマドの死体も含まれていた。

 首都オムドゥルマンから撤退したマフディスト軍は、後継者のハリファと約1万人の残りの信奉者たちは、追撃してきた約8000人のウィンゲート将軍の指揮したエジプト遠征軍と立ち向かうことを選択した。武装していたマフディスト軍は残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死者が出た。

 その1年前の1989年9月2日に、スーダンの首都オムドゥルマン(Omdurman)の戦いで、イギリス軍のキッチナー卿が指揮下したエジプト遠征軍に、マフディスト軍は同様に悲惨な敗北を喫した。約52,000人のマディスト軍は、約12,000人が戦死して、約13,000人が戦傷して、約5,000人捕虜になった。約25,800人のエジプト遠征軍は、約48人が戦死して約382人が戦傷して、近代的装備で圧倒した。

 マフディストの反乱軍はオスマン・エジプト政権を打倒し、オムドゥルマンを首都とする独自のイスラム・国家を1885年1月26日に樹立した。イギリスは1898年にスーダンを再征服して、植民地としてスーダンを統治した。イギリスの首相に2回なったウィンストン・チャーチルは、イギリス陸軍の将校として、キャリアアップのために戦闘の経験を求めてオムドゥルマンの戦いに参戦した。チャーチルは、電信、鉄道、新世代の兵器の使用による戦争の機械化を詳しく述べた『河川戦争The River War:スーダン再征服の歴史的記述(1899年)』を敢行した。




2023年9月15日金曜日

アフリカのアンゴラ独立戦争によりポルトガル領アンゴラでは、1961年3月15日に白人のポルトガル人の雇い主に忠誠を誓い続けるアフリカ人をアンゴラ人民同盟が殺害した。

アフリカのアンゴラ独立戦争によりポルトガル領アンゴラでは、1961年3月15日に白人のポルトガル人の雇い主に忠誠を誓い続けるアフリカ人をアンゴラ人民同盟(UPA)が殺害した。1961年3月15日から7月8日までのアンゴラ戦争の最初の数か月間に、ホールデン・ロベルトの武装勢力のUPAによって引き起こされた残忍なテロ攻撃によって、大量虐殺された。

 オラシオ・カイオ(Horácio Caio)が『アンゴラ、絶望の日々(1961年10月)』に出版してアンゴラの植民地戦争が公開された。UPAが白人、黒人、女性、子供、高齢者、無防備な人々の民間人に対して行った大量虐殺の残酷な写真が掲載された。UPAは、解放の名の下に解き放たれた盲目で抑制のないテロ攻撃となった犠牲者の多くの死体の写真が公開された。アンゴラ独立戦争により、1961年2月4日から1974年4月25日まで植民地戦争が勃発した。

 1961年3月15日に、アンゴラ人民同盟(UPA)はホールデンの下で、約4000人から約5000人のアンゴラ人の武装勢力を率いて拠点のザイールからアンゴラ北部に侵攻した。アンゴラ人民同盟の軍隊は農地や政府の前哨基地、交易センターと植民者居留地、商業地域を奪って占領した。民間市民や公務員の役人などを殺害した。その犠牲者の殆どは、中央高地から来たオヴィンブンド人の契約労働者だった。UPAの武装勢力は、ザイール州、ウイゲ、クアンザ・ノルテ、ルアンダのアンゴラ地区を襲撃し、侵攻中に民間人を虐殺し、1,000人の白人と6,000人の黒人(女性や子供もその中に含まれた)を殺害した。ヨーロッパ系白人やアフリカ系黒人の女子供も含んだ。殺戮だけでなく、UPAの武装勢力は家屋、農場、道路、橋などのインフラを破壊し、全体的な混乱とパニックを引き起こした。恐怖に怯えた住民は森に避難したり、近隣地域やコンゴ・レオポルドヴィルに逃亡した。

 アンゴラ独立戦争の起点である1961年2月4日に、アンゴラのルアンダで約50人のアンゴラ解放人民運動が、警察署と聖パウロ刑務所を襲撃して、約40人の襲撃者が死亡して、7人のポルトガル人の警察官が殺害された。2月5日のポルトガル人警察官の葬儀で、ポルトガル人の復讐は凄まじかった。警察は夜間にルアンダのスラムで市民を虐殺をするのを手伝った。白人達は、アフリカ人を脆い家から引きずり出し、約300人を射殺した後に路上に死体を放置した。UPAが3月15日にアンゴラ北部の全体を壊滅させる戦争の最初の起点となった。




2023年6月20日火曜日

アル・ムサイフィラの戦いは、シリア大反乱の初期段階である1925年9月17日に、ドルーズ派の反政府勢力とフランス軍が戦って、死体が地面に散らばり、家々は廃墟と化した。

アル・ムサイフィラの戦い(Battle of al-Musayfirah)は、1925年7月から1927年6月下旬まで続いたシリア大反乱の初期段階である1925年9月17日に、ドルーズ派の反政府勢力とフランス軍が戦って、死体が地面に散らばり、家々は廃墟と化した。アル・カフルと アル・マズラーで反乱軍がフランス軍に勝利した後に、9月15日にフランス軍の前衛部隊がアル・ムサイフィラ村に派遣された。村の住民を掃討した後に、アル・スウェーダへの攻撃に備えて要塞を築いた。1920年初頭にフランスの植民地軍が沿岸部の占領が起点となり、シリア大反乱が勃発した。アル・ムサイフィラ村はシリア南部で、首都ダマスカスの南東約37kmに位置する。

 戦闘は9月16日早朝から、ドルーズ派の反乱軍がフランス軍陣地に対する攻撃が勃発した。フランス軍の戦線を大きく突破できなかった。フランス軍の戦闘機による爆撃を約3時間受け続け、反乱軍は大きな犠牲を出した。その後に反乱軍は撤退して、その前にフランス軍に多数のドルーズ派が捕らえられた。アル・ムサイフィラの住民の何人かは、戦闘の前から最中にも殺害された。フランス軍の勝利は、反乱期における最初の重要な勝利となった。9月24日のアル・スウェーダ占領への道を開いくも、人里離れた環境のためその2ヵ月後に撤退した。

 アル・ムサイフィラの戦いでは、フランス軍は戦死者が約47人と戦傷者が約83人が犠牲となった。ドル―ズ派は、戦死者は約200人から500人が戦死して、約500人が戦傷と捕虜となり、その後に見せしめに処刑されせた。9月15日に、アル・ムサイフィラは約600人から800人のフランス軍兵士に占領された。フランス軍が到着すると、アル・ムサイフィラの住民は追放されるか殺害された。フランス軍は直ちに村の周囲に石垣を築き、塹壕を掘り、有刺鉄線や機関銃を設置して要塞を構築した。村の周囲を偵察していた部隊は、高地から突撃した約800人近いドルーズ派軍の攻撃を受けた。

 ガムリン軍本隊がダマスカスから到着する前にフランス陣地を攻撃して、反乱軍は9月16日にアル・ムサイフィラへの攻撃を開始した。約10時間継続的に攻撃を続けたが、フランス軍の機関銃による射撃で組織的に撃退された。反乱軍は9月17日午前4時頃に2度目の攻撃を開始した。依然として多くの反乱軍がアル・ムサイフィラの狭い通りでフランス軍団兵を待ち伏せした。9月17日午後早く、フランス軍は3時間の間に反乱軍を27回砲撃して撃破した。




2023年5月8日月曜日

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。イギリス軍医師が、ボーア戦争のモンテ・クリストの戦いで、銃剣傷を負った被害者のボーア人兵士の手当てをした。加害者のイギリス軍兵士は、被害者に気がついた。「被害者のボーア人兵士の具合は悪いのですか」とイギリス軍医師に尋ねた。「はい、かなり悪いです」と医師は返事をした。「まあ、できる限り優しくやったよ。実際、ボーア人に銃剣を押し込むよりも、銃剣を引き出して傷ついた!」と、加害者のイギリス軍兵士のコックニーは言った。「その後、ボーア人に水筒から飲み物を飲ませたんだ。被害者のボーア人が私に出会ったのは、ちょっとした幸運だったと思わないか」

 ボーア戦争にてハイデルベルク近郊で、2人の特殊隊員がイギリス軍将校を驚かして重傷を負わせた。特殊隊員は、イギリス軍将校の傷の手当てをして、最も近いイギリス軍キャンプに連れて行った。特殊隊員の人道的行為は非常に高く評価された。キャンプを出る前に夕食と風呂が与えられた。ボーア戦争後に、将校の両親は、息子であるイギリス軍将校の命を救ったことに感謝するため、特殊隊員の一人であるレナード・ビュイスを訪問した。

 ボーア戦争にてメシュ―エン将軍は、まともな状態でボーア軍に捕らえられた唯一のイギリス軍の将軍であった。逆に致命傷を負ったペン・シモンズ少将は、ダンディーで一時的にボーアの捕虜となって死亡した。デラリー将軍は、トウィーボッシュの戦いで大腿部を負傷し、同じダンディーで捕らえられた。デラリー将軍は抗議にも関わらず、クラークス・ドロップのイギリス病院に送り込まれた。戦後、メシュ―エンとデラリーの二人は友人となり、1915年にデラリーの死亡を聞いたメシュ―エンは「戦争では勇敢な敵のボーア人を、平和では真のイギリス軍の友を失った」と言った。

 ボーア戦争のゲリラ段階にて、ボーア人は重態の死傷者をイギリス軍の救急車に残した。イギリス軍の農場焼き討ちや民間人狩りなどの残酷な行為の中で、1つだけ救われる点があった。イギリス軍兵士が、将校も男性も、ゆるぎない人道的な態度をとっていた。傷病者を部隊の慈悲にためらいもなく委ねた。人道的な態度が、戦争の厳しいさを和らげた。

  ボーア戦争は1899年10月11日から1902年5月31日まで、約50万人のイギリス軍は南アフリカでボーア人を相手に厳しい植民地戦争であるボーア戦争(Anglo-Boer War)を繰り広げた。多勢に無勢とはいえ、約88,000人のボーア人は熟練した強い敵だった。最初の挫折と長いゲリラ戦の後に、イギリス軍は最終的に勝利を収めて南アフリカを占領した。イギリス軍は約2万人以上、ボーア軍は約1万4千人以上が戦死した。




2022年12月29日木曜日

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、1936年2月13日に帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。

第二次エチオピア戦争にて、ゴンドランド社の宿舎の地上には、帝国エチオピア軍の襲撃で殺害されたイタリア人の男性労働者の死体が散乱した。そのうちの何人かの死体は性器を切断されて去勢された。ゴンドランドの虐殺(Gondrand Massacre)は、1936年2月13日にアフリカのエチオピアにて、ゴンドランド社のイタリア人の男性労働者が襲撃されて虐殺された事件である。ファシスト・イタリア当局は、エチオピアの征服を正当化するプロパガンダのために公表した。

 ゴンドランドの虐殺事件は1936年2月13日に、エチオピア北部の町マイ・ラーラ(現ラマ)付近で発生した。当時に、道路建設に従事していた物流会社ゴンドランドの民間イタリア人労働者の宿舎が、ラス・イムルの命令を受けた帝国エチオピア軍によって夜明けに襲撃された。建設現場には約15丁のマスケットが備え付けられ、イタリア人労働者も作業道具を防衛用武器として使用した。帝国エチオピア軍の奇襲に虐殺された。1936年2月10日から19日にかけて、マイ・ラーラの南約200kmで行われたアンバ・アラダムの戦いとほぼ同じ時期にゴンドランドの虐殺事件が勃発した。

 約130人の労働者のうちで、約68人のイタリア人が殺された。そのうちの約17人の死体は、エチオピア皇帝ハイレ・セラシエの「敵の死体を切断するな」という命令に反して帝国エチオピア軍は去勢した。他の27人は負傷し、約4人が行方不明となった。このうち約2名は後に捕虜となっていた。攻撃で約40人の帝国エチオピア軍兵士が死亡したが、その多くはゲルグナイトの貯蔵所の爆発で殺害された。この攻撃の後、イタリア軍兵士によるエチオピア市民への報復する虐殺が行われ、数え切れないほどの死者を出した。

  第二次エチオピア戦争(1935年10月3日から1936年5月5日)にイタリア王国とエチオピア帝国との戦争である。約15,000人のイタリア人と約275,000人のエチオピア人が殺害された。第一次エチオピア戦争(1894年12月15日から1896年10月23日)で敗れたイタリアは、再度エチオピアの植民地化を意図して侵攻を行って、短期間の戦闘をもって全土を占領した。敗れたエチオピア皇帝ハイレ・セラシエ1世は退位を拒み、イギリスにてエチオピア亡命政府を樹立して帝位の継続を主張した。イタリアはエチオピア全土を占領した状況を背景に、アルバニア王ヴィットーリオ・エマヌエーレ3世を皇帝とする東アフリカ帝国(イタリア領東アフリカ)を建国した。国際紛争の解決にて大国の利害に左右された国際連盟の無力さが露呈した戦争でもある。国際連盟規約第16条(経済制裁)の発動が唯一行われたが、イタリアに対して実効的ではなかった。イタリアは孤立して、ドイツおよび日本と枢軸国を形成する道をたどった。




2022年11月24日木曜日

イギリス軍は植民地に対し懲罰的遠征をして、捕虜となった反体制派のビルマ人に、木製の骨組みに縛り付けて懲罰処刑した。

最終的には、懲罰で反乱に対処した。懲罰的遠征が、不本意な民衆に対して執行された。イギリス軍は、懲罰的遠征を、肉屋あるいは閂(かんぬき)と呼称した。イギリス軍は懲罰的遠征をして、捕虜となった反体制派のビルマ人に対して、木製の骨組みに縛り付けて懲罰処刑した。ビルマ(ミャンマー)人はイギリスの支配に簡単には従わなかった。イギリスとビルマとの戦争である(Anglo-Burmese Wars, 英緬戦争:第一次1824年-26年、第二次1852年、第三次1885年)は、1824年に勃発して、ビルマは1885年にイギリスに占領された。1937年に自治権を持つ王室植民地となるまで、インドの属国として統治された。大英国帝国の至上主義と自由の象徴は両立は不可能であった。

 大英帝国は冷酷となり、ルールや習慣をほとんど知らないビルマ民族に押し付けた。それが破られると鞭打ち、絞首刑などで虐待と虐殺した。1857年のインドの反乱などで、イギリス軍は、反乱軍に白人の女性や子供を虐殺した部屋の血痕を舐めさせ、その後に大砲の口に縛り付けて吹き飛ばした。反乱軍兵士が隠れている野原を叩いて、血で赤く染まり、重荷の下で銃剣がきしんだ。すべての大砲の前の地面に、ぼろや肉や砕けた骨が散乱した。全ての小屋を燃やし、閉じ込められた多くの原住民は焼き殺され、彼らの叫び声が聞こえた。 

 太平洋戦争開戦後の1941年12月16日に、アウンサン(Aung San)たちは南機関の支援を得て、ビルマの隣国であるタイ王国の首都バンコクでビルマ独立義勇軍を創設した。日本軍と共に戦い、1942年3月にラングーンを陥落し、1942年7月にビルマからイギリス軍を駆逐して、ビルマ独立義勇軍をビルマ防衛軍に改組した。1943年8月1日にビルマ国が建国された。日本軍のインパール作戦の敗退から、1945年3月27日にビルマ国軍の一部が日本軍に反抗した。日本軍の敗戦後に、ビルマはイギリスの再び植民地となった。1947年7月19日アウンサンらは暗殺された。1948年1月4日にイギリスから独立してビルマ連邦共和国となった。




2022年9月30日金曜日

暗殺された金玉均の死体は、朝鮮半島に送還された大反逆罪人として、死体を八つ裂きにされて、胴体は河に捨てられ、断頭された頭部が、大逆無道玉均として、さらし首にした。

親清派は、朝鮮の李氏朝鮮の独立党による開化派を組織した。日本軍と結託してクーデターを企図した。1884年12月4日の甲申政変にて、金玉均らは親日派のクーデターを引き起こして、李氏朝鮮の政権を一時的に掌握した。清国軍がクーデターに武力介入して、開化派は頓挫した。日本軍は撤退して、金玉均らは日本に亡命した。1894年に金玉均は日本軍を見放して、上海に潜伏した。上海で、1885年3月28日に清国軍の刺客に暗殺された。暗殺された金玉均の死体は、朝鮮半島に送還された。大反逆罪人として、死体を八つ裂きにされて、胴体は河に捨てられ、断頭された頭部が、大逆無道玉均として、さらし首にした。

 李王朝は、1882年の壬午事変で興宣大院君が清国へ強制連行された。李王朝は、親日派から親清国派に事大政策に転換された。朝鮮の近代化の危機に、親日派の金玉均らの開化派は、密かに日本政財界と密着した。金玉均は、李王朝の国王の高宗を取り込んだ。1884年12月4日の甲申政変にて、一時的に李王朝は清国から独立宣言した。インドシナ半島でフランス軍に敗退すめも、袁世凱の清国軍は王宮を守衛した日本軍を打倒した。わずか3日間でクーデターは頓挫して、親清派の保守派が臨時政権を樹立した。清国と日本との間に1885年4月に朝鮮に軍隊の派遣と駐留を禁止する天津条約が結ばれた。

 甲申政変から約10年後に、1894年1月の東学党の乱が勃発した。清国も日本も事前通告して、李氏朝鮮が依頼した清国軍を派遣をして、6月5日に日本人保護に日本軍を派遣する大本営を設置した。1894年7月25日から1895年11月30日まで、日清戦争が勃発した。日本軍は平壌・大連・旅順などで清国軍を圧倒して、1895年3月までに日本軍は清国の遼東半島を制圧した。休戦を成立させて、4月17日に講和条約である下関条約が締結された。日清戦争の犠牲者数は、日本軍は約17,069人と清国軍は約35,000人に及んだ。




2022年7月22日金曜日

コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に反撃した反乱軍から奪還された。反撃した反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。

アフリカの脱植民地化にて勃発したコンゴ動乱が、1960年代の旧ベルギー領コンゴ(現ザイール)を荒廃させた。1960年にベルギーが速やかにコンゴ共和国から撤退した後に、一連の地方反乱が勃発した。国連軍は首都のレオポルドビル政府を支援して、事態の収拾に苦慮した。1964年に、モイーズ・カペンダ・チョンベ首相は、中国に学んだ元内閣大臣ピエール・ムレレの弓矢で武装した彼の信奉者の反乱軍に遭遇した。コンゴ動乱で、首都レオポルドビルは、激しい戦闘の末に、シンバ反乱軍の反撃から奪還された。反撃したシンバ反乱軍は1965年11月に全滅して生存していた捕虜は一人もいなかった。ピエール・ムレレは直前に首相を解任されて、ジョセフ・デシレ・モブツが11月24日に軍事クデーターで、長期独裁の大統領に就任した。

 コンゴ動乱は、1960年に旧ベルギー領コンゴの独立後に勃発して、1965年まで行われた内戦である。1960年6月にコンゴはカサブブを元首,ルムンバを首相として独立国となった。独立に反対するベルギー軍に対して、全土的な暴動が起こり,ベルギー軍が武力介入した。対応して親ベルギー派のチョンベが、カタンガ州の分離独立を宣言して,内戦となった。7月に国連軍が派遣されたが、内覧はおさまらなかった。民族派のルムンバが、親ベルギー派のチョンベに虐殺された。キンシャサ(旧レオポルドビル)のカサブブ,カタンガのチョンベ,ルムンバ派のギゼンガの3大勢力が抗争をくり広げた。1961年9月に,カタンガの復帰工作に向かうハマーショルド国連事務総長が事故死した。1964年にカサブブとチョンベが手を結び,カタンガ州は合同した。1965年にまた対立して,モブツ将軍の無血クーデタで、カサブブが追放されて,コンゴ動乱は終結した。 

 コンゴ動乱は、コンゴ共和国(現在のコンゴ民主共和国)にて1960年から1965年に勃発した政治的混乱と紛争である。一連の内戦を構成するコンゴ動乱は、冷戦下で対立する派閥間で、約10万人の死者が発生した。1960年6月30日に、ベルギー領コンゴで植民地支配の撤廃を求める民族運動が起こり、独立が宣言された。7月の第1週には、軍隊で反乱が起こり、黒人と白人の民間人の間で暴動が勃発した。ベルギーは逃亡する白人を保護する名目で軍隊を派遣した。カタンガと南カサイは、ベルギーの支援を受けて分離独立した。暴動が続く中で、国連は平和維持軍を派遣したが、ダグ・ハマルスキョルド国連事務総長が、首都レオポルドビルの中央政府が分離主義者と戦うために、国連維持軍を拒否した。最大派閥のカリスマ、パトリス・ルムンバ首相は、ソ連に支援を求め、ソ連は直ちに軍事顧問団を派遣して支援に乗り出した。

 ベルギーからの独立後に、コンゴ民主共和国で一連の政治的騒乱が起こった。1960年1月、ベルギーがコンゴ沿いの広大な植民地を独立させる突然の決定を下して、レオポルドビル(キンシャサ)を統治者とする単一国家が誕生した。5月の議会選挙で部族間の戦闘が始まり、独立時の6月30日にはさらに戦闘が発生した。コンゴ警察は、ベルギー軍将校に反抗し、反乱を起こした。ヨーロッパ人と財産は攻撃され、ベルギー人難民は逃亡した。鉱山が豊富なカタンガ州では、ベルギー軍と白人傭兵の支援を受けたモイゼ・ツオンベが独立共和国を宣言した。政府は国連に治安回復のための軍を要請し、国連事務総長ハンマークヨルドはベルギー軍に代わる平和維持軍を派遣した。クーデターにより陸軍司令官モブツ大佐が政権を握り、急進派のパトリス・ルムンバ首相を排除した政権が誕生した。1961年、ルムンバは敵対部族に殺され、ハンマークイェルドもコンゴ訪問中に墜落死している。戦闘は続き、カタンガ、スタンレーヴィル、カサイでそれぞれ独立政権が樹立された。1965年11月、モブツ率いるコンゴ軍は2度目のクーデターを起こし、モブツは大統領になることを宣言した。



2022年4月15日金曜日

アルジェリア戦争にて、フランス軍が民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討し、虐殺したアルジェリア人の死体を踏み気取った。

アルジェリア戦争において、フランス軍部隊がアルジェリアの民族解放戦線(FLN)の反乱軍を掃討した。フランス軍兵士は、虐殺したアルジェリア人の死体を踏みつけては気取っていた。捕虜にして無抵抗なアルジェリア人を強制連行した。 

 アルジェリア戦争は、アルジェリア独立戦争とも呼ばれ、フランスからアルジェリアが独立するための戦争(1954-62年)であった。アルジェリア独立運動は第一次世界大戦(1914-18)中に始まり、第二次世界大戦(1939-1945)後に、フランスが約束したアルジェリアの自治権拡大を実現しなかったため、独立運動が勢いづいた。1954年に、民族解放戦線(FLNは、フランスに対してゲリラ戦を勃発した。アルジェリアの主権国家を樹立するために、国連に外交的承認を求めた。アルジェリアの戦闘員は国境沿いを中心に活動した。最も深刻な戦闘はアルジェとその周辺で行われた。FLNの戦闘員はアルジェの戦い(1956-1957)として、一連の激しい都市攻撃を開始した。フランス軍(約50万人にも増員)は、残忍な虐殺手段で何とか支配権を取り戻した。この戦闘の激しさはフランス軍の紛争継続への政治的意思を失わせた。1959年に、シャルル・ド・ゴールは、アルジェリア人は自分たちの将来を決める権利があると宣言した。独立に反対するフランス人やアルジェリア人によるテロ行為や、フランス軍の一部によるフランスでのクーデター未遂などがあった。フランスと1962年に協定が結ばれて、アルジェリアは独立した。

 アルジェリアには、民族主義政党は長年存在したが、独立を達成できず、次第に過激派になった。第二次世界大戦前には、アルジェリア人民党が設立されたが、1930年代後半に頓挫して、1940年代半ばに民主的自由を目指す運動(MTLD)に代わった。より過激な準軍事組織である特別組織(OS)もほぼ同時に結成された。1950年に植民地警察に発見されて、多くの指導者が投獄された。1954年に、元OSのメンバーがMTLDから分裂し、統一と行動の革命委員会(CRUA)を結成した。この組織は、軍事行動に備えて、後にFLNとなった。

 フランスは1830年に北アフリカのアルジェリアに侵攻して、1848年にフランスの一部として宣言した。多くのフランス人がアルジェリアに移り住み、ピエ・ノワールと呼ばれる集団を形成して、大多数のイスラム教徒であるアルジェリア人よりも優れた生活環境であった。第二次世界大戦を経て、インドシナ半島でフランス軍は敗退した。当初は平和的な独立運動を展開したFLNは、1954年に独立のための武装解放闘争を呼びかけた。フランスに独立を拒絶されると、軍や市民を標的にした連続攻撃を行った。アルジェリア戦争は、ゲリラ戦、民間人襲撃、テロ作戦からなる長い闘いであり、特に残虐な大量虐殺の闘いであった。1956年から1957年のアルジェの戦いで、FLNは紛争を都市部にも持ち込んだ。フランス軍と親派は、ますます攻撃的で暴力的な軍事弾圧で対抗した。

 フランス政府は何カ月も、アルジェリア情勢が制御不能であり、戦争に発展していた。1956年までに、アルジェリアには約50万人以上のフランス軍が駐留した。植民地時代の精鋭歩兵空挺部隊と外人部隊は、攻撃的な対反乱軍に対抗した。約17万人のイスラム教徒のアルジェリア人も、フランス正規軍であるハルキに所属した志願兵であった。彼らは、約30万人ものFLNのパルチザン部隊と、少なくとも4万人の民間人支持者と対決した。アルジェリア戦争は世界冷戦時代(1946-90)の数ある代理戦争となった。




2021年12月23日木曜日

スーダンのウム・ディワカラートにて、イギリス・エジプト軍が手前にカリファ・アブダラ匕首長と右手にアフマド・ファディル将軍を殺害してスーダン軍の死体が散乱した。

スーダンのウム・ディワカラートにて1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍が手前に首長のカリファ・アブダラ匕と右手に将軍のアフマド・ファディルを殺害してスーダン軍兵士の死体が散乱した。処刑する戦いとなり、死体は広大な土地に均等に散らばっていた。イギリス軍のレジナルドウィンゲートとエジプト軍は、カリフとコスティの南西にいる約10,000人の軍隊を追い詰めた。その後の戦闘で、カリフは約1,000人の部下と共に殺害された。イギリス・エジプト軍は、わずかに約3人が死亡して、約23人が戦傷した。 

 1896年に、イギリス・エジプト軍がスーダンの再征服を開始した。アブダラヒは2年近く抵抗した。イギリス軍の攻勢により、1898年9月2日に新首都でのオムドゥルマンの戦いで、約52,000人のスーダン軍が壊滅して、撤退を余儀なくされた。イギリス軍の機関銃と一斉射撃により、スーダン軍の約12,000人が殺害されて、約13,000人が戦傷した。イギリス・エジプト軍側は、わずかに約48人の戦死と第382人が戦傷した。スーダン軍の残党を率いて南方に逃亡を続けた。1899年1月のコンドミニアム協定により、スーダンはほぼイギリスの保護領となった。多くのスーダン人はこれに憤慨して、1899年11月24日に、イギリス・エジプト軍がマフディスト残党と交戦して、アブダラヒは殺害された。 

 アブダラヒは、1885年6月にマフディの突然の死後、ムハンマド・アフマドが創設したマフディ派の指導者の地位を継承した。自らをカリファト・アル・マフディ、すなわちマフディの後継者と宣言した。アブダラヒは、1885-1886年、1888-1889年、1891年に数回の反乱を鎮圧し、唯一の指導者になった。当初、マハディヤはジハード国家として、イスラム主義の軍事カリフ制で運営して、裁判はシャリーア法とマハディの戒律で執行した。その後に、アブダラヒはカリファとして、より伝統的な行政を確立した。マハディヤは、スーダン部族間の不和を乗り越えてスーダンを統一するために、自称イスラム主義の軍事カリフ制を維持するために、エチオピアとエジプトの一部にも侵略した。1899年からスーダンは、再びイギリス・エジプトの共同統治となった。1924年から再びスーダンの独立運動が勃発して、1954年に自治政府が発足して、1956年にスーダン共和国が独立した。






2021年11月23日火曜日

プエルトルコ民族主義者が、知事を暗殺する目的で、サンファンの知事公邸に侵攻して、銃撃戦で4人の民族主義者が殺害された。

1950年10月30日、数人のプエルトルコ民族主義者が、プエルトリコの知事ルイス・ムニョス・マリンを暗殺する目的で、サンファン民族主義者の反乱であるラ・フォルタレザがサンファンの知事公邸に侵攻した。約5分間の銃撃戦の結果、4人の民族主義者が殺害された。公邸の警備員のうち、3人が重傷を負った。

 1950年代のプエルトリコ国民党の反乱は、50年以上にわたるアメリカの軍事占領と植民地支配からの独立を求めた。1898年の自治憲章の承認とプエルトリコの国際的主権を要求した。植民地時代のプエルトリコの自由連合国を否定した。1950年10月30日国民党総裁の命令から反乱が始まった。ペニュエラス、マヤグエス、ナランヒート、アレシボ、ポンセなどで反乱が起きた。最も注目すべき蜂起は、プエルトリコのウツアード、ジャユヤ、サンファンなどで起こった。8つの町で銃撃戦が勃発した。ウチュアドでは反乱分子が殺害された。ジャユヤではプエルトリコ自由共和国を宣言した。サンフアンでは、国民党が知事に選ばれたルイス・ムニョス・マリンを、公邸であるラ・フォルタレザで暗殺が失敗して4人が殺害された。

 反乱を鎮圧するために、アメリカ軍は数千人の軍隊を投入し、2つの町を爆撃した。プエルトルコの反乱にて。死者は約28名のうち、国民党員が約16名、警察官が約7名、州兵が約1名、無関係の一般市民が約4名であった。負傷者49名のうち、警察官約23名、国民衛兵約6名、国民党員約9名、無関係な民間人約11名であった。

 プエルトルコの反乱は国内だけでなく、ハリー・S・トルーマン米国大統領の暗殺計画も含まれた。1950年11月1日、2人の民族主義者がワシントンD.C.の仮の住まいであるブレアハウスを襲撃して1人が殺害され、1人が負傷して、1人の警備員が死亡した。ブレアハウスにはホワイトハウスの改修工事中で、滞在していたトルーマンは無事であった。プエルトリコの状況に国際的注目を集めた最後の大規模な試みは、1954年3月1日に4人の国民党員が米国下院を襲撃した。

 しかし、プエルトルコはアメリカの州昇格を求めるも達成できず、プエルトルコ自治連邦区として、アメリカ合衆国の自治的・未編入領域となって、多数のアメリカ軍基地が散在している。住民はアメリカ国籍であるも、連邦税の納税義務も投票権もなく、採決権のない代表者が送り出している。




2021年11月10日水曜日

インド分離独立を巡る暴動により殺害されたイスラム教徒の犠牲者たちの死体がデリー市街の路上から撤去された。

インド・パキスタン分離独立により首都デリー全域でも暴動が勃発した。1947年9月16日にインド分割を巡る暴動により殺害されたイスラム教徒の犠牲者たちの死体がデリー市街の路上から撤去された。1947年の独立後に、デリーで勃発した分離独立騒動は、数千人のイスラム教徒の虐殺と約30万人の難民をもたらし、残されたイスラム教徒地域は人口的にも政治的にも深刻な打撃を受けて、少数民族としてゲトー化した。デリーの社会的な暴力に加えて、他の多くの要因がイスラム教徒を侵食した。分離独立の暴動が終わった後も暴力を支援した。

 1947年8月14日にパキスタン、8月15日にインドと2つのイギリス領土から独立した国家に分割された。ヒンドゥー教徒の多いインドと、イスラム教徒の多いパキスタンに分割された。何百万人ものイスラム教徒が西パキスタンと東パキスタンに移住し、何百万人ものヒンドゥー教徒とシーク教徒が逆方向に向かったのだから、人類史上最大級の大移動が始まった。何百万人ものイスラム教徒が西・東パキスタン(現在のバングラデシュ)へ、何百万人ものヒンズー教徒やシク教徒が反対方向へと向かった。

 デリーは何世紀にもわたって、インドの歴代のテュルク系イスラム教徒が支配したムガル帝国の首都であった。一連のイスラム支配者がデリーを帝国の拠点として、デリーには膨大なイスラム建築が残存して、イスラム文化が浸透していた。1911年、英国統治時代に植民地の首都がカルカッタからデリーに移ると、都市の様式が変わり始めた。都市の中心部は、少数ながらも増加するイギリス人のニーズに応えるべく設計された。1941年の国勢調査では、デリーの人口は約33.2%がイスラム教徒であった。

 1947年になって難民を押し寄せても、デリーは難民の流入に対応する体制が整っていなかった。難民たちはどこにでも散らばった。1950年になると、政府は市内の特定の場所に不法占拠者が家を建てることを許可し始めた。しかし、パンジャーブから何千人ものヒンドゥー教徒やシーク教徒が避難してくると、インド・イスラム文化の拠点であるデリーでは、共産主義的なポグロムが発生して、大混乱に陥った。インド政府はデリーのイスラム教徒を排除した。陸軍部隊が罪のないイスラム教徒を公然と銃殺した。デリーでのイスラム教徒の犠牲者は約20,000人から約25,000人の間とされた。

 何万人ものイスラム教徒が無差別に難民キャンプに追いやられ、デリーの数多くの歴史的な場所が難民キャンプに変貌した。デリーの緊張が頂点に達した時に、約33万人のイスラム教徒がパキスタンに移住した。1951年の国勢調査では、都市のイスラム教徒の人口は1941年の約33.2%から1951年には約5.3%に減少した。




2021年7月12日月曜日

台湾原住民による霧社蜂起は、セデック族幹部が日本軍・警察に追い込まれて1930年12月8日に首吊り自殺して鎮圧された。

台湾原住民による霧社蜂起は、セデック族幹部が日本軍・警察に追い込まれて1930年12月8日に首吊り自殺して鎮圧された。その縊死体がぶら下がり、右側はモーナ・ルオーダの長男であるタダオ・モーナである。モーナ・ルオーダは、霧社のセデック族の村落のマヘボ社の頭目であった。日本軍との戦闘にて、約700人のセルデック族の蜂起者が死亡して、約500人が捕獲された。それに対して、日本側は日本軍約22人、警察官約6人が死亡した。

 台湾の原住民であるセデック族のモーナ・ルダーオの長男やタダオ・モーナらが、日本統治下で最大の抗日蜂起をした霧社事件が勃発した。1930年10月27日に、台湾中部山地の霧社の町において、霧社公学校で行われた運動会の会場に、刀と小銃などで武装した約300人もの台湾原住民の部族が乱入した。モーナ・ルダーオが霧社地域のタイヤル族の約300人を指揮した。その直前に警察署や派出所も襲撃していた。その場にいた子供も含めた約134人が殺害された。直ちに日本の台湾総督府は、日本軍を投入して関与した台湾の原住民を10月29日には掃討して撃退した。約2,700人の日本軍が砲撃や空襲により鎮圧した。抗日蜂起に加担した原住民を掃討して、生存者は強制収容所に収容した。

 日清戦争の下関条約により、1895年4月17日に清国から日本に台湾が割譲された。1895年5月25日に、日本への割譲反対を唱える漢人が台湾民主国の建国を宣言した。進駐した日本軍との乙未戦争に発展して。台湾民主国は崩壊して、1896年から台湾総督府により、植民地に統治された。台湾の原住民は、過酷な強制労働や弾圧、警察への反感から非人道的な虐待や虐殺をされていた。日本人が原住民の女性を、内縁の妻に扱った婚姻問題に、原住民の結婚式で発生した殴打事件が引き金となった。タダオ・モーナが、1930年10月7日の結婚式にて、日本人巡査を殴打した。1931年4月25日には、霧社事件で投降したセデック族が、対立したタウアツ社を襲撃して約216人を殺害した第二霧社事件が勃発した。



2021年5月24日月曜日

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人を弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人などを弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。1910年に日韓併合された朝鮮半島において、三・一革命の独立運動が1919年3月に勃発した。朝鮮半島の各地に独立運動が発生した。独立万歳事件は約618ヶ所にて、総回数は約847回も発生した。日本帝国の軍隊、憲兵や巡査らが検挙した朝鮮人は、約587,641人にも達した。その中で、有罪判決されたのは約7,816人であった。独立万歳事件にて、殺害された犠牲者は約553人であり、負傷者は約1,499人にも達した。朝鮮人にとって、三・一独立運動は民族解放のための独立運動であり、植民地化された朝鮮人の自由を回復することでもあった。日本帝国の弾圧に対して、朝鮮人は原始的武器から投石棟による対抗暴力が増悪した。日本人巡査や朝鮮人巡査補に対して虐待や虐殺をした。朝鮮人は日本の植民地支配と日韓併合を象徴する機関を襲撃や放火した。 

 約33人の宗教指導者らが集って、現在はソウルの京城の中心部にて、現在はタプコル公園であるパゴダ公園にて、1月22日に死亡した大韓帝国の初代皇帝の李太王の葬儀に合わせて、3月3日に独立宣言を読み上げることを計画した。天道教が15人、キリスト教が16人、仏教が2人で構成した民族を代表して33人の宗教指導者は、3月1日午後に変更して、仁寺洞の泰和館にて独立宣言を朗読して、万歳三唱をした。「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。」と独立宣言をした。その発端となった民族代表33人は朝鮮総督府に逮捕された。3月3日にて李太王の葬儀により、事前に独立宣言をする予定であったパゴダ公園には、数千人もの朝鮮人学生が集合して、太極旗を掲げてソウル市内を独立万歳の示威運動をした。3月10日には南朝鮮地域から、その後に朝鮮全土に拡大して、4月11日に上海に大韓民国臨時政府が樹立された。独立万歳と叫ぶ学生運動に、朝鮮人市民も参加して、数万人規模に達した。4月上旬には、農民から労働者など様々な階層が合流して朝鮮半島全土に暴動が拡散して、警察署・役場・小学校などが襲撃されて、虐待と虐殺も拡大した。三・一宣言以後に、約3カ月間にわたり示威運動が展開された。

 日本帝国は、独立宣言の直後は首謀者を逮捕して群衆を解散させた。軍隊の使用は朝鮮将来の統治に悪影響を及ばないなるべく区域を限定していた。3月10日以降から、軍隊の使用を積極的に区域外にも及ぼした。4月4日には、日本帝国政府は歩兵6大隊、憲兵約65人と補助約350人を朝鮮に派遣した。次第に日本帝国政府は、軍隊ならびに憲兵や巡査を増強して、三・一独立運動を厳しく弾圧した。5月末までに約200万人を超える参加者の内、朝鮮人の犠牲者は約7,509人が殺害されて、約15,961人が負傷して約46,948人が囚人となった。