2021年8月31日火曜日

太平洋戦争中の1945年2月から3月に、フィリピン・マニラの路上で、アメリカ軍兵士は、日本軍の狙撃兵を殺害して死体を見つめた。

太平洋戦争中の1945年2月から3月にかけて、フィリピンの首都マニラの戦災地で死んだ日本軍兵士の死体の横を、武装したアメリカ軍兵士が用心深く検死した。ライフル銃を持ったアメリカ軍兵士がライフル銃を持って、日本軍狙撃兵を掃討した。フィリピンのマニラの路上で、アメリカ軍兵士は、日本軍の狙撃兵を殺害して、その死体を見つめた。1945年のマニラの戦いで、アメリカ軍兵士は、戦死者は約1,010人、戦傷者は約5,565人であった。マニラに立てこもって降伏しない日本軍は、全滅して戦死者は約12,000人たった。マニラの民間市民は約10万人が殺害された。

 マニラの戦いは第二次世界大戦中の最も過酷な戦闘の一つで、約10万人の民間人が犠牲になった。マニラの戦いは、第二次世界大戦末期の1945年2月3日から3月3日にかけて勃発した。第二次世界大戦中に、ワルシャワに次いで壊滅的な被害を受けた都市となり、街は破壊され、約10万人が死亡した。アメリカ軍は、日本軍が約3年間占領したフィリピンの首都であるマニラは、破壊され、10万人以上の市民が犠牲になって解放された。1945年2月3日から3月3日までの戦闘で、日本軍兵は約1万6000人、アメリカ軍は約1000人が死亡した。

 1941年に日本軍が、アメリカの植民地であるフィリピンに侵攻したときはマニラの破壊は免れた。しかし、アメリカ軍が1945年に再侵攻すると、日本軍はマニラ街区全体を焼き払った。建物から建物へと最後の一人まで戦うこと覚悟した。民間人は栄養失調やアメリカ軍の砲撃や日本軍により死傷した。

 1945年1月下旬、アメリカ軍が首都マニラに迫る前に、日本軍は民家に押し入り、すべての部屋を掃討した。電柱に泥棒と書かれて首を吊られた死体もあった。マニラでの戦闘が激化する中、家族が脱出する前に、日本軍は約13人の親戚をクラブの中に何百人もの人と一緒に入れられ、生きたまま放火された。日本軍が撃ったり、女はが木に銃剣を突き立てられて悲鳴を上げた。 

 日本軍の強制収容所の抑留者は歩く骸骨となり、餓死は日常茶飯事だった。1945年2月3日に、アメリカ軍の戦車が大学の門を突き破った。日本軍の収容所長は降伏を拒否して、手榴弾と取ろうとして射殺された。死体は本館に引きずり込まれ、占領軍から何年も虐待を受けていた抑留者らは、死体に唾や尿をかけた。マラテ地区では日本軍は家々を焼き始めた。道に転がった日本軍兵士の死体に対して、一人の老人が石を手にして全力で投げつけた。日本の敗戦後に、フィリビン人は日本を訪れたが、日本人ほど、親切で、文化的で、親しみやすい人々には会ったことがないと真逆に憤慨した。日本人民族は、マニラや南京などに侵攻する野蛮な軍隊を生み出した真実を放置したままである。




2021年8月30日月曜日

第二次世界大戦のバルジの戦いにてアメリカ軍兵士の死体の側で、1945年1月6日に雪で覆われた地形に急ごしらえの塹壕を掘った。

第二次世界大戦の西部戦線のバルジの戦いにて、アルデンヌ攻防戦が1944年12月16日から1945年1月28日まで勃発した。アメリカ軍は、ベルギーのベリスメニル付近でドイツ軍の砲撃を受けた。手前のアメリカ軍兵士はもう手遅れで死亡した。アメリカ軍兵士の死体の側で、1945年1月6日に雪で覆われた地形に急ごしらえの塹壕を掘った。アメリカ軍兵士の死体の側には、血が丘を赤く染め、砲撃によって引き裂かれた死体も散乱して、膨大な数の死傷者をもたらした。ドイツからフランスまでの地形と天候に恵まれないアルデンヌ地方は、多くの長い道が森林を通り、多くの道が崖の端に立ち、丘陵が上下して回った。1945年1月には、雪が足首から膝、膝から腰に積もり続けた。天候はますます寒くなり、氷点下まで下がった。オーバーコートを着ても、氷の板に包まれた。凍傷はドイツ軍と銃撃を合わせるほど生命の危険を伴った。塹壕を掘るのに1日がかりの作業になった。バルジの戦いは、アメリカ軍にとり、最も血なまぐさい戦争となった。

 1945年1月1日に、ドイツ空軍は北西ヨーロッパの連合軍空軍基地に深刻な損害をもたらした。1月初旬には連合国の反撃はドイツ軍を押し戻して、1月末までに占領された地域を取り戻した。連合国は損失を相殺したが、ドイツ軍は人的資源と物的資源を使い果した。ドイツ軍兵士は、寒さは多くの手足を凍らせ、痛みを伴う壊疽を引き起こし腐った。食物の不足のために、人食いに頼り、山中に見つかった死体を食べ、雪を飲んだ。小競り合いは血と内臓で汚れ、制御不能なパニック状態に陥った。寒さは多くの手足を凍らせ、痛みを伴う壊疽を引き起こし腐った。食物の不足のために、人食いに頼り、山中に見つかった死体を食べ、雪を飲んだ。小競り合いは血と内臓で汚れ、制御不能なパニック状態に陥った。戦傷したドイツ軍兵士は回復不能な状態にあり、塹壕から引き出すと殺害される結論に達した。人道的に悲惨なドイツ軍兵士の苦悩を確実に集結するために、地面にて頭部を射撃した。

 1944年12月16日、ドイツ軍は第二次世界大戦中にベルギーとルクセンブルグのアルデンヌの森周辺で連合軍に対して大規模な攻撃を開始した。アルデンヌの主にアメリカ軍は戦歴が浅く疲れ果てた。ドイツ軍はは、アメリカ軍の戦線の真ん中を西に圧倒して、一時的に膨らみであるバルジ(Bulge)が突出した。連合軍の援軍の迅速な到着して、主要な道路の交差点に対するアメリカ軍の防御が、ドイツ軍の侵攻を遅らせた。ドイツ軍は、悪天候により燃料不足が悪化し、供給ラインが混乱した。バルジの戦いにおけるアメリカ軍の甚大な犠牲者は、戦死者は約19,2767人、戦傷者は約47,139人、行方不明・捕虜は約21,144人に達した。ドイツ軍の犠牲者は、約12,652人、戦傷者は約38,600人、行方不明・捕虜30,582人に及んだ。連合軍による空爆が、天候がやがて晴れて再開された。12月末までに、ドイツ軍の侵攻は頓挫して、連合国は攻撃を再開し、春先までにドイツの中心部に侵攻した。




2021年8月29日日曜日

パレスチナ人の男の子が、2003年にガザ地区のイスラム教のモスクにお祈りの帰路に、イスラエル軍の爆撃に殺害されて葬儀された。

パレスチナ人の男の子が、2003年にガザ地区のイスラム教のモスクにお祈りに行った。その帰路において、イスラエル軍の爆撃に無差別に巻き込まれて死亡した。爆死死したパレスチナ人の男の子の死体の周りを、両親とパレスチナ人らが取り囲んで葬儀をして悲しみに包まれて慟哭した。イスラエル軍が占領した地域では、抵抗するパレスチナ人を逮捕して収容して、略奪から虐待や虐殺した。

 1987年12月8日にパレスチナのイスラエルが占領したガザ地区にて、パレスチナ人によるイスラエルに対する抵抗運動である第一次インティファーダが勃発した。イスラエル人のタンクローリー車とパレスチナ人の車が衝突した。つもり溜まったストレスから、12月9日からジャバリア難民キャンプから抵抗運動が巻き上がり、さらにヨルダン川西岸の占領地域にも抗議運動に初めて拡大した。パレスチナ人女性や子供らもイスラエル軍に対して抵抗運動に参加した。 インティファーダが勃発して、ガザ地区のパレスチナ人が最も厳しく抵抗した。夜間外出禁止令により、夜間の外出が制限された。1988年頃からイスラム原理主義組織であるハマースが拡大するにつれて、パレスチナ人のイスラム教徒女性は頭部に巻くヒジャーブの装着を強要された。パレスチナ人は生活が困窮になるほどイスラム教の宗教に追い込まれて、原理主義に陥った。

 主にパレスチナ人の若者から、次第に女性から子供や老人まで、インティファーダの参加者となった。パレスチナ人には、武器もなく投石のみの抵抗運動に限られた。インティファーダにより、イスラエルによりパレスチナ人は家族や子供から女性まで無差別に虐待や虐殺された。パレスチナの抵抗運動には、主にPLO(パレスチナ解放機構)主流派ファタハ、DFLP(パレスチナ解放民主戦線)、PFLP(パレスチナ解放人民戦線)、パレスチナ共産党などの4つのイスラエルに対する抵抗組織が発生した。1993年9月にイスラエルとPLOの間で、オスロ合意でパレスチナ暫定自治が認められた。1994年にヨルダン川西岸エリコとガザ地区、1995年にヨルダン川西岸の周辺地域も暫定自治区になった。

 2000年9月に、エルサレムのイスラム教徒の聖地であるハラム・アッシャリーフに、超タカ派のシャロン首相が侵入して監視した。パレスチナ人は、聖地に対する冒涜に激怒して、悲惨な第二次インティファーダが勃発した。パレスチナ人は武器による銃撃による闘争にも巻き込まれて死傷した。イスラエル軍は、パレスチナ人の武装集団を掃討するために、2001年にはオスロ合意により自治区となったヨルダン西川岸にも軍事侵攻した。抵抗する手段として自爆攻撃により、イスラエルにテロ攻撃が頻発した。2002年1月からイスラエル軍は、パレスチナ人の自爆テロに対抗して、ヨルダン川西岸のラマラ・ナブルス・ジェニンに軍事侵攻した。2002年1月にエルサレムの繁華街に対して、初めてパレスチナ人の若い女性が自爆テロを強行した。




2021年8月28日土曜日

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した約2ケ月後の10月9日に、子供らの被爆者が広島日赤病院の外来治療室にて加療された。

広島赤十字病院の外来に、多数の子供らも広島原子爆弾の被爆者が通院していた。広島原子爆弾が1945年8月6日投下されて炸裂した約2ケ月後の1945年10月9日に、外来に子供ら被爆者が、広島日赤病院の外来治療室にて加療された。看護婦らは、原爆症の子供らの被爆者の傷口の処置も行っていた。被爆当日には46人の看護婦が死亡し、5人の看護婦が重傷を負った。看護寮では25人の看護学生も死亡した。

 1945年に被爆した10歳未満の子供たちは、通常は高齢者に急性骨髄性白血病を発症する骨髄異形成症候群(MDS)に、一般人口の4倍の割合の罹患が後に示唆された。幼少期の被爆者は、数10年にわたり複数の種類の悪性新生物に罹患し、個別に発症する傾向が見られる。被爆時に全身が放射線を受けて、複数の臓器の幹細胞が損傷を受け、その後に異常な細胞が発生して悪性新生物を発症すると示唆された。放射線被曝が被爆者の遺伝子に損傷を与えた場合に、放射線影響の遺伝的な伝達も長期的な問題となる。

 太平洋戦争中は、広島陸軍病院赤十字病院であった日本赤十字社広島病院は、爆心地から南約1.6kmと至近距離であったが、広島市中区千田町1丁目に残存した。「敷地内にあった木造建築は全部倒壊し、間もなく火を発して焼失したが、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てであったので焼失は免れた。しかし、鉄の窓枠は破壊しガラスはこっぱみじんに飛散し、内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れ、足を踏み入れることができないほどまったく壊れてしまった。医師5名、薬剤員3名、その他43名の計51名が死亡し、全職員の85%が重軽傷をうけた。病院としての機能を全く喪失してしまった。」しかし、8月6日午後から、病院職員の尽力で被爆直後から臨時救護所が設けられた。翌日の8月7日には山口県、岡山県などの赤十字病院から救護班が到着し始めて、医療活動に入った。

 広島市内は瓦礫の中で、広島日赤病院は被爆した直後から、被爆者の救護活動を再開した。「1.収容患者の治療をすること。2.外来に押しかけたり運び込まれたりする患者に何とか応急処置をすること。3.破壊された病室を清掃して少しでも患者の収容力を増すこと。4.衛生材料の確保補充。5.食糧の確保。6.次々に死んでいく死体の処置。7.便所をつくること。8.入浴場をつくること。9.飛散した病院の書類を収拾して紛失盗難を防ぐこと。10.職員及びその家族の死亡や負傷状況を知り、また職員の日々の活動状況を正確に把握すること。」が緊急の課題であった。[「」内の引用は、後に病院長になった重藤文夫氏の『回想』(仁科記念財団編纂『原子爆弾=広島・長崎の写真と記録)を参照]悲惨な損壊を受けた広島赤十字病院で、1945年10月頃には血液検査ができるようになり、血液検査を求める広島市民の被爆者の人数がさらに増大した。被爆者の放射能障害は、血液検査が診断となる白血球の著しい減少が特徴である。




2021年8月27日金曜日

アフガニスタン元大統領のナジブラと弟は、タリバン武装勢力に去勢と切断された死体を鋼線のループで吊るされ、紙幣とタバコを、指、口、鼻、ポケットに挿入された。

ムハンマド・オマルが1994年11月に設立したスンニ派過激組織であるタリバン武装集団は、1996年9月27日にアフガニスタンの首都カブールを占領した。タリバンは、ムハンマド・ナジブラ(Mohammad Najibullah)大統領と実弟のシャープール・アフマザイ将軍が潜伏した国連使節団のビルに侵入した。ナジブラと弟は9月27日午前1時30分に連行され、午前4時30分に殺害された。拷問されて、射殺された。暗殺された大統領ら兄弟の死体をジープに縛り付けた後に、タリバンは死体を大統領官邸アルグの近くの要塞化された検問所で、ナジブラと弟は、去勢され切断された血まみれの死体を鋼線のループで吊るした。タリバンはまた、暗殺された大統領と彼の弟の死体をあざけり、アフガニスタンの紙幣とタバコを、指、口、鼻、ポケットの中に挿入した。

 アフガニスタンは1978年4月に軍事クーデターが発生して、王族のダウド政権は打倒された。武装勢力の反乱が蜂起して、アフガニスタンはアフガン内戦に陥った。冷戦下で親アメリカ政権が権力を握り、全国の反体制派を一掃し始めた。1979年12月24日に、遂にソビエト連邦はアフガニスタンの内政に介入し、軍隊をアフガニスタンに派遣した。

 侵攻したソビエト連邦軍は、ナジブラに国家情報局長にさせ、1985年に共産主義の人民民主党の書記長になり、首都カブールの権力を取得して、軍隊、警察、諜報機関を管理下に置いた。ソビエト連邦軍の支援を受けて、国内で反対派の秘密の監視と残酷で血なまぐさい虐殺を行った。しかし、アフガニスタンからのソビエト軍の撤退は、1988年4月に締結されたジュネーブ協定に従って、1988年5月15日に始まっていた。ソビエト連邦は1991年8月モスクワ8月革命により、11月15日に首都カブールのナジブラ政権への軍事物資を公式に停止した。

 1989年2月15日に、最後のソビエト軍人がアフガニスタンを去った。ソビエト軍がアフガニスタンから撤退して、武装勢力に対抗するナジブラ政権は放置されて、ソビエト軍の撤退から4日後に、非常事態宣言を宣言した。パキスタンとアメリカの当局者は、ムジャヒディンの迅速な勝利を期待してた。しかし、6か月以内にソビエト連邦からの武器と弾薬の補給により、アフガニスタン軍は武装反対部隊を攻撃して撃退して、約3年間はナジブラ政権は権力を保持した。1992年1月1日から、ロシアは政府軍へのすべての武器と弾薬の供給を停止して、アフガニスタン軍は著しく悪化し始め、燃料と食糧の深刻な不足に陥った。

 イスラム教の聖戦部隊であるムジャヒディンは次々と州を占領し始め、首都カブールに接近した。ソ連の軍事顧問は1992年4月13日にアフガニスタンを去った。カブール飛行場はソビエト航空機の離発着に障害が勃発した。

 ナジブラは、1992年3月18日に辞任を発表した直後に、アフガニスタンの政治情勢の支配を失った。大統領と弟はと共に、首都カブールの国連使節団事務所に庇護され、その後は約4年間にわたり国連国連使節団ビルで過ごした。1992年4月28日に、ムジャヒディン部隊が、無戦で首都カブールに入り、約14年間国を統治したナジブラ政権を打倒した。アフガニスタンで内戦は再び激烈となった。ムジャヒディンの部隊間の武力衝突により、国は崩壊して内戦状態に陥った。首都カブールからのは新たな大多数のアフガニスタン難民が、首都カブールを去った。



2021年8月26日木曜日

日中戦争にて、日本軍は騰越城内に中国軍に追い詰められ、全滅して玉砕して殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。

日中戦争において、日本軍は騰越城内の守備隊は、城内に中国軍に追い詰められて、1944年9月13日に中国雲南省の拉孟にて全滅して玉砕した。日本軍は弾丸も尽きて、最後には大事な手榴弾で自決を命令された。騰越城内には、殺害あるいは自決した日本軍兵士の死体が散乱した。

 1944年6月27日から、雲南省の騰越城に守備していた日本軍に、中国軍から砲撃された。騰越城は、3kmにわたり高さ約5mと幅約2mの壁に囲まれていた。その周辺の約3000m前後の山地の陣地で、日本軍は約2,025人の体制で戦力はわずか約900人が守備した。7月23日に騰越城外の日本軍の陣地に、中国軍は侵攻した。7月26日は中国軍はアメリカ軍の爆撃機で、空襲して爆撃した。7月27日には、日本軍は騰越城内に集結して守備した。7月28日に日本軍司令部は、全員が死ぬまで守備する死守の命令を下した。日本軍司令部も、騰越から南に約70kmの龍陵にて中国軍と激戦中であった。中国軍は、アメリカ軍の武器を装備して戦力は増大していた。8月2日に、騰越城内に1日約3,000発の砲撃と機銃掃射を受けた。8月5日には、連合軍のB-25爆撃機が、空襲して騰越城内と城壁を爆撃して、8月13日に騰越城内の日本軍は大損害を受けた。8月14日から中国軍は騰越城内に侵攻を繰り返した。8月19日には、中国軍により、騰越城内の日本軍は北東方面に追い込まれた。8月21日には残存兵力は約650人に、9月1日には約350人まで、9月11日には約70人まで減弱した。9月13日に日本軍は、日本国旗を焼却して、最後には全滅する突撃をした。

 騰越城から南東に約100kmにて、日本軍は1944年6月1日から雲南省の拉孟方面を守備して、中国軍の松山陣地に侵攻していた。サルウィン河の対岸の鉢巻山から松山陣地まで突撃した。突撃した約100人の戦傷者を含めた約1,260人の日本軍が、6月20日に日本軍の弾薬庫が中国軍の砲撃で崩壊した。その後から次第に弾薬が枯渇した。6月20日に日本軍の戦闘機が、手榴弾と銃弾を投下補給した。7月からは、中国軍が日本軍の陣地内にも攻撃した。7月20日には、約8,000発もの中国軍の砲弾が、日本軍の陣地に砲撃した。日本軍の生存者は約300人と激減した。7月末には、司令部から守備隊の日本軍兵士に対して、9月上旬まで死守する命令が下された。死守できない場合は、日本軍兵士は全滅して玉砕を示唆された。8月初旬からは、中国軍が日本軍陣地に繰り返して侵攻して、白兵戦に陥った。8月8日には、日本軍は生存者はさらに約200人まで減弱した。8月20日には、日本軍の最大の関山陣地にも中国軍は侵攻した。8月23日には、日本軍の守備隊はさらに戦死傷して約100人まで減衰した。司令部から厳命された9月上旬までの死守の直前である8月30日に、日本軍は白兵戦で弾薬は枯渇して、戦闘能力のある日本軍兵士は激減した。守備隊長は、すべての生存者は弾薬と食料が欠如して、死守が不可能になったと司令部に電報した。その直後に全ての日本軍守備隊のすべての資料から資材を破壊して消去した。9月6日に守備隊長が戦死して、9月7日に日本国旗を焼却した。最後に残存していた約50人の日本軍守備隊員は、バンザイと掛け声から中国軍の陣地に突撃して全滅して玉砕した。戦傷者は、手榴弾により自爆して自死した。

 1944年9月21日の朝日新聞に、日本軍の騰越と拉孟の守備隊の全滅して全員が戦死したことが公表された。数倍の敵を撃破し、全員壮烈なる戦死、ビルマと雲南を結ぶ公路の打通許さずと朝日新聞は報じた。騰越と拉孟の両守備隊は、阿修羅の奮戦をした皇軍の精華であると奉り、大本営の上層部からの感状を称賛した。敵中である中国軍の半数は再起不能であると虚偽した。




2021年8月25日水曜日

アメリカ軍はイラクのバクダット北東のバクーバを空爆して、ジハード主義者の指導者のアブ・ムサブアル・ザルカウィを殺害し、隠れ家の瓦礫の中から死体を発掘した。

アメリカ軍は2006年6月7日に、イラクのバクダット北東のバクーバを空爆して、ジハード主義の指導者となったアブ・ムサブアル・ザルカウィ(39歳)を殺害した。隠れ家の瓦礫の中から発掘した死体である。アブ・ムサブアル・ザルカウィが、イスラム教によるカリフ制度のイスラム国(ISIS)を確立した張本人である。イスラム国は、2004年にアブ・ムサブアル・ザルカウィという血に飢えた宗教的熱狂者によって設立された。

アメリカ軍は、2003年3月にイラク軍を粉砕して占領した。ザルカウィは、アルカイダの首長オサマ・ビン・ラーディンからの資金提供を受けて、その直後にイラクに入国した。イラクの不満を抱いたスンニ派の部族から、戦闘員を引き入れた。ザルカウィは、イラクでのアルカイダの指導者と宣言して、非戦闘員を斬首するテロ組織となった。テロ組織は、2006年後半にイスラム国に改名した。中東からヨーロッパまで、シーア派を撲滅するためにスンニ派イスラム教徒の戦闘員を集結して、イラクでの宗派間の内戦を勃発させた。イスラム国の信者がイラクとシリアの領土を占領して、2014年にイスラム国がイラク北部とシリア東部を制圧してカリフ制国家を築いた。

 ザルカウィはヨルダン人として、難民キャンプの近くにあるヨルダンのザルカで生育した。凶悪犯として刑務所に出入りした。犯罪者の人生を捨て、過激なイスラム教に洗脳された。アフガニスタンのヘラートで、ビンラディンのアルカイダ過激組織に合流して、ジハード聖戦主義者を組織化した。アフガニスタンの首都カブールで、アメリカに対するテロを模索したビンラディーンからはザルカウィは無視された。9.11同時多発テロ後に、アメリカ軍がアフガニスタンを2011年10月7日から侵略した。ザルカウィは、2003年3月20日から5月1日まで暴発したイラク戦争より以前にイラクに侵入していた。アメリカは、イラクのザルカウィは、アフガニスタンのアルカイーダのテロ組織と大量破壊兵器と懐疑的に関連付けて、イラク戦争の戦因と凶悪犯に仕立てた。

 イラクのザルカウィは、2004年5月13日に民間アメリカ人のニック・バーグの斬首シーンを世界に流した。モスクを破壊して、バスを爆破して、連合軍や地元のイラク人に残忍なテロ指導者の象徴となった。イラク戦争の勃発後に次第にアルカイーダと結託して、スンニ派とシーア派のイラク内戦を引き起こした。国際的なジハード聖戦主義のネットワークを構築して、ジハード組織を構築した。アフガニスタンのオサマ・ビン・ラーディンは、2011年5月1日にパキスタンにて、アメリカ軍により殺害された。




2021年8月24日火曜日

ナッシュビル軽巡洋艦はネグロス島沖で神風特攻が自爆により激突して、右舷の甲板に戦死したアメリカ軍水兵の死体を集積した。

太平洋戦争後期の1944年12月13日に、ナッシュビル軽巡洋艦(Nashville, CL43)はネグロス島沖での戦闘で神風特攻が自爆により激突して損傷した。それ直後に、ナッシュビルの船内で大規模な火災が引き起こした。遠方に見える火災による煙が登った(神風画像 https://www.kamikazeimages.net/)。神風攻撃を受けたナッシュビルの左舷127mm砲台の反対側の右舷の甲板に、犠牲となり戦死したアメリカ軍水兵の死体を集積した。1944年12月12日にミンドロ島へ向けて出港して、翌日の13日に、ボホール海を通過中に、約63kgの大型爆弾を両翼下に2個搭載した、日本軍の戦闘機に搭乗した神風特攻隊がナッシュビルに激突して自爆死した。

 太平洋戦争中の1944年12月13日に、ナッシュビルはネグロス島沖で神風特攻に襲われた。神風特攻は、左舷の約127mm砲台に激突した。2つの爆弾は甲板から約3mほど離れた場所で爆発した。ガソリン火災と爆発した弾薬により、ナッシュビルの中央部地域は地獄と化した。アメリカ軍水兵が約133人が戦死して、約190名が戦傷したも。残った127mm砲で対空射撃を続けて、直ちにレイテ島に帰還した。

 日本の神風特攻隊員が1944年10月から1945年8月の間に攻撃を行った。日本人は、手を振るとき、さよならをする若い笑顔の英雄として搭乗員を拝見する。勇敢な若い搭乗員が日本本土を守るために悲劇的な死を遂げたと信じた。海軍は18歳から24歳、陸軍は18歳から22歳の若者を犠牲にした。多く神風特攻隊が空爆されて墜落や撃沈は秘密裏にされた。神風特攻隊員が書いた死の恐れや苦悩を反映しない手紙、詩、日記は多大な影響を与えた。1949年刊行された「きけわだつみのこえ(海からの声に耳を傾ける)」は、学徒出陣の学生らを反映した。神風特攻は、1333年に天皇を忠実に擁護し、切腹で自殺した楠木正成を象徴した。

 対照的に、アメリカ人は、特攻の戦闘機が戦艦に激突して爆発して、アメリカ軍の戦艦の破壊と戦死傷を拝見した。非常に異なる視点は、神風特攻隊のに対する日米の認識に多大な影響を与えた。アメリカ人は、神風特攻隊員は個性も表情も見えなく少ないと認識した。多くのアメリカ人は、特攻隊員が狂信的、自殺的、自爆を強要されたと認識した。日本軍が撮影した勇敢な神風特攻隊員の笑顔は、アメリカ軍が戦艦の甲板から撮影された写真に示された爆死と破壊とは全く正反対である。現在の地球上のテロリストによる自爆テロは、日本軍の神風特攻隊員による攻撃に対する論争を引き起こしている。 





2021年8月23日月曜日

韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱して、軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。

1967年には韓国軍は、ベトナムの中央海岸付近の荒野に駐屯していた。韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱していた。韓国軍は軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。黒服を着たベトナム人の死体が荒野に散乱していた。周辺には人体の破片が飛び散り、至るところに血痕が付着していた。韓国軍による残酷な拷問や虐待かせら虐殺により、北ベトナム軍とベトコンを弾圧して恐怖に陥れた。

 韓国軍の民間ベトナム人の虐殺事件は、1999年5月6日の「ハンギョレ21」に掲載された。1968年2月12日に、韓国軍兵士がベトナム中部クアンナム省のフォンニィ・フォンニャット村で、民間ベトナム人の約79人を虐殺した。その他ゴダイ虐殺約38人、ハミ虐殺約135人など多くの村々で住民の虐待と虐殺を繰り返した。韓国軍の中央情報部が、虐殺事件の幹部を尋問した。韓国の最高裁判所は、2021年3月25日に尋問の歴史的情報公開を韓国の国家情報院に命じた。ベトナム戦争時に、2020年4月にベトナム戦争で民間ベトナム人の虐殺に対して国家賠償が提訴された。韓国軍がベトナムで執行した民間ベトナム人の虐殺事件は約80件以上、犠牲者のベトナム人は約9000人を超えると推定される。特に青龍(チョンリョン)と猛虎(メンホ)部隊は、残酷な虐殺軍団の“鬼畜部隊”と呼称された。さらに、韓国人兵士によるベトナム人女性に対する性的暴行により産まれた約3,000人以上の子供はライダハンとベトナム語の読みとなった。タイヴィン虐殺1200人、ベトナム戦争後のベトナム社会主義共和国は、経済発展の国益を優先して、公開しても何の得にならない戦争の歴史を封鎖している。

 1964年8月から韓国人部隊がベトナムに出向された。1965年1月26日に韓国の国会でベトナムへの韓国軍の派遣が承認された。1965年2月から韓国軍部隊が派遣された。4月3日から約200人の韓国軍に対して北ベトナム軍から砲撃を受けた。1965年9月から、韓国軍の猛虎師団が赴任し始めた。1966年末には、ニンツアン省とビンジン省まで戦闘を拡して占領して、ベトコンと北部ベトナム軍に対して猛攻撃をした。1967年には最大の約44,829人まで増員されて、1973年3月23日まで留まってベトナムから撤退した。韓国が関与した1964年9月11日から1973年3月23日まで約8年5ケ月間に派遣された韓国軍兵士は延べ人数で約325,517人に及んだ。約5,099人が戦死して、約10,962人が戦傷した。




2021年8月22日日曜日

太平洋戦争でフィリピンのルソン島のバヨンボンにて、救護所に残存した日本軍兵士の重傷病人は致し方なく自殺して自死した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにおいて、ルソン島のバヨンボン近隣にて、日本軍の野戦救護所に収容されて生存していた重症の戦傷者あるいは重態の重病人は戦場では歩行困難となった。取り残された多数の人軍兵士の戦傷者あるいは戦病者らは、アメリカ軍に掃討されて殺害あるいは拉致される前に、致し方なく自殺して自死した。救護所の日本軍兵士は降伏することもなく、銃殺あるいは毒殺によって自殺した。1945年6月8日にアメリカ軍は、自殺して自死した救護所の床あるいはベッド上に散乱していた日本軍兵士の死体を検死した。日本軍兵士の死体群の周囲には、ハエがたかり死体が腐敗して死臭による悪臭が漂っていた。

 1945年6月上旬から中旬にかけて、日本軍はアメリカ軍に追撃されて、バヨンボン盆地は豪雨の中を北上して撤退していた。戦場の修羅場を、日本軍兵士や民間日本人が敗走した。歩行できない日本軍兵士や民間日本人の戦傷者や戦死者は周辺に取り残された。歩行できる日中はジャングルの中で隠遁して潜伏して、夜間にルソン島の北部に向けて敗走した。日本軍は、北部のキアンガンを最終の逃避場として、6月下旬にイフガオ州の山間に集結していた。

 1945年6月上旬からアメリカ軍は、ルソン中部から北上してバヨンボン盆地に突撃した。6月5日にアリタヨ、6月6日にバンバン、6月7日にバヨンボンに侵攻した。日々に刻々と、バヨンボン盆地の周辺地域の日本軍を掃討した。6月中旬には、アメリカ軍はバンバンの西側の山中のサリナスに集結した。6月下旬には、アメリカ軍は山中を北上してアンチポロに侵攻した。アメリカ軍は、日本軍を追撃して、アシン川周辺に追撃した。アシン川周辺に逃走した日本軍と民間日本人は、物資や食糧が減少して戦力も低下し、栄養失調による飢餓と伝染病にも襲われた。フィリピンの戦いの末期には、日本軍兵士と日本民間人は前途には戦場の地獄に追い込まれて、飢餓や病気に倒れる者が続出する惨状となって太平洋戦争の終戦を迎えた。日本軍の最終的な降伏は、終戦後の1945年9月3日に公式に降伏した。1945年1月6日からのルソン島の戦いだけでも、日本軍兵士の約217,000人は戦死あるいは戦病死して、約9,050人が降伏して捕虜になった。フィリピン人はマニラ市街戦にも巻き込まれて約150,000人以上が死亡した。アメリカ軍兵士は、戦死者は約8,310人と戦傷者は約29,560人に及んだ。




2021年8月21日土曜日

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の多数の被爆者らが手当を受けた。

1945年9月9日頃に広島赤十字病院の外来において少女ら広島原子爆弾の被爆者らが手当を受けた。爆心地から南西に約1.6Km離れた千田町1丁目の広島赤十字病院は1945年8月6日の原爆投下で大きな被害を受けた。広島赤十字病院は鉄筋コンクリートの一号館,二号館は大破して、木造の南病棟・隔離病棟・寄宿舎などはその後の火災によって焼失した。必死の救護活動が展開されるも、軍関係の入院患者のうち約5人が死亡,約105人が負傷,院長の竹内釼をはじめ職員・生徒のうち,約51人が死亡,約250人が負傷した。広島原子爆弾の救護所は,広島県が把握したものが約53か所,広島県医師会広島支部会員が救護活動が判明した約102か所に及んで、約31万5,910人の被爆者が手当を受けた。

 原子爆弾の放射能が放射するガンマ線は、非常に透過性が高く、広島赤十字病院のコンクリート室の鉛容器内に保管されたX線の写真乾板も完全に透過する放射能の光線にさらされた。東京帝国大学を卒業した竹内釼は、1939年に広島赤十字病院の初代院長に赴任した。竹内釼は被爆して重症でも被爆者を加療した。

 広島原子爆弾によるX線フィルムの分析も、1946年8月号の原爆記念版の月間中国新聞のコラムに投稿していた。広島赤十字病院の廊下から庭の隅まで、無数の患者が病院の敷地を埋め尽くした。まるで満員電車のように、人々の列がぶら下がった。ガンマ線(放射線の一種)は透磁率が非常に高く、コンクリート室の鉛容器に収められたX線写真乾板も完全に光にさらされた。つまり、コンクリートの空気中でも放射線を遮断できず透過した。壁に十分な厚さがない限り、シェルターを襲撃した。原爆病の場合、主な死因となる特異な症状は、造血器官の障害、血液の変化、粘膜上皮の変化による吐血、血便、内外の出血である。日本国民の中には、敗北の現実に直面することに耐えられない人がたくさんいると確信している。しかし、連合国による日本の占領は事実であり、夢ではない。人々はこの現実に目を覚まし、できるだけ早くそのような洞察を得る必要がある。広島でも、適切な手段で原爆遺跡の一部を後世に引き継ぐことができれば、確かにさまざまな平和に有益である。最後に、「夏の草 廃墟の中に入る 立ち去るのが難しい」と竹内釼は俳句を残した。

 被爆者は、自分の子供が 『第二世代被爆者』として不当な差別の対象となることを恐れて、黙って子供たちを守ろうとして、被爆証言の公表を躊躇した。2021年4月17日から全国の劇場で上映された(https://www.hiroshimaenochikai.com/)のドキュメンタリー映画「ヒロシマへの誓い-サーロー節子とともにー」に、竹内の孫娘の竹内道が製作者として参画した。



2021年8月20日金曜日

第三次中東戦争の6日戦争で、シナイ半島の砂漠で、1967年6月6日にエジプト軍兵士がイスラエル軍に殺害され戦車が破壊された。

1967年6月5日から6月10日まで6日間に、アラブ諸国とイスラエル間の6日戦争(Six-Day War)である第三次中東戦争が勃発した。6日戦争で、6月6日にシナイ半島の砂漠の戦場で、エジプト軍の兵士がイスラエル軍に殺害され、エジプト軍の戦車が破壊された。中東において極めて重要な事件であり、波及効果は現在に至るまで中東にさまざまな影響を及ぼしていた。参戦した国の中で、最も大きな犠牲を受けたのがエジプトである。六日戦争では、イスラエル軍は600人以上の死者を出した。エジプト軍は、戦力の約10分の1にあたる約1万人が戦死して、さらに約1万5千人の負傷者や捕虜となった。エジプトの総面積の約6%に当たるシナイ半島全体が失われて、パレスチナの地区を占領して、イスラエルの領土を約3倍に拡大した。軍需物資の約80%以上が破壊されて放棄された。1967年6月10日に、国連が仲介した停戦が発効し、第三次中東戦争は突然終結した。

 1967年の1月から3月にイスラエルが深刻な不況に陥って、アラブ諸国からテヘラン海峡を封鎖する暴言が飛び交った。シリアとヨルダンから数ヶ月のテロ攻撃された後に、1967年5月に中東地域全体の緊張が高まった。1967年6月5日早朝に、イスラエル軍の戦闘機がエジプト空軍を攻撃して壊滅させて、6日間後にイスラエル軍の勝利で終結する紛争が勃発した。テルアビブから約20km離れたヨルダン領のラトラン商会からイスラエルに砲撃された。イスラエル軍が戦車部隊を率いて、ガザからシナイ北部に向けて突撃した。悲惨なことに、ヨルダンやシリアもこの戦いに巻き込まれた。

 1967年の6日間戦争は、シナイにおけるエジプト軍が、6月5日早朝から6月7日午後にエジプト軍は崩壊した。イスラエルの軍事的、戦略的、経済的な優位性から、エジプト軍の軍事的敗北は避けられなかった。壊滅的で、徹底的で、迅速なエジプト軍の敗北に至った。6月7日の時点で、シナイを完全に退避させず、スエズ運河の東側の峠に撤退しなかった。その後、エジプトのナセル大統領が短期間でエジプト軍を再建して、1967年9月に消耗戦を開始した。エジプトとシリアは、第三次中東戦争により失われた領土を取り戻すために1973年に第四次中東戦争を引き起こした。アラブとイスラエルの宗教を憎しみ合って悲劇の戦争と犠牲者を生む。




2021年8月19日木曜日

イスラム国は、アメリカ人の記者であるジェームズ・フォーリーを斬首するビデオを、2014年8月19日にYouTubeに投稿した。

イスラム国(ISIS)が公開したビデオは、アメリカ人の記者であるジェームズ・フォーリー(James Wright Foley)の斬首のビデオが、2014年8月19日にYouTubeに投稿された。オレンジ色の囚人用ジャンプスーツを着て砂漠に跪き、両手を後ろに縛られた。坊主頭のフォーリーの隣に、黒服とマスクを被ったイスラム国の過激派であるジハーディ・ジョン(英語なまり通称)が立っていた。フォーリーは、アメリカのイラク政策を批判し、自分が殺されるのはイスラム国の戦闘員への空爆のせいと台本の声明を述べた。「私は死刑執行令状に署名した」と述べた後に、彼は断頭される直前と直後の死体の映像を放映した。10秒未満の断首は放映していない。2014年8月以降から、イスラム国は、人質となった囚人の命を脅かす陰惨な斬首のシーンを頻繁に撮影した動画を複数公開した。

 ISISは、シリアからイラクに広がるイスラム・カリフ制を確立する一環として、斬首を含む死刑執行を実施した。ISISは死刑執行をビデオに録画し、オンラインで投稿した。アメリカ軍が、バグダッド北部でクルド人勢力と戦っているイスラム国の戦闘員を爆撃する決定の結果として処刑した。2人の日本人が2015年1月20日に、黒マスクした黒服を着た男性の前で、オレンジ色のジャンプスーツにひざまずた。ISISビデオで、日本の人質として識別された断頭される後藤健二(47歳・記者)と湯川遥菜(42歳・民間軍事会社)が放映された。

 フォーリーは2012年11月22日、トルコとの国境近くのシリア北西部のタフナズで誘拐された。彼は銃撃者により車に押し込まれた。フリーランサーとして、フォーリーはフランス通信社やグローバルポストを含む多くの主要なメディアの仕事を引き受けた。フォーリーは以前リビアで2014年4月5日から約44日間も捕虜にされた。ニューハンプシャーで育ち、2008年にノースウェスタン大学のメディルジャーナリズム学校を卒業した。2001年9月11日の同時多発テロ後に、フォーリーはイラク、アフガニスタン、その他の紛争地域に引き寄せられました。最初のアメリカ人であるフォーリーを虐殺した処刑者のジハーディ・ジョン(モハメッド・エムワジ)は、2015年11月12日に、アメリカ軍のドローン攻撃で爆死した。




2021年8月18日水曜日

日本関東軍は、山西省大行山脈の潞安城の南門を襲撃して、八路軍と民兵組織から地域住民など人馬を含めて掃討して大虐殺した。

満州事変直後から満州から中国の北東部に向けて侵攻した。日本関東軍は1938年2月22日に、山西省大行山脈の潞安城の南門を襲撃した。潞安(現、長治)地域の中国共産党の八路軍と民兵組織ならびに地域住民から人馬を含めて掃討して大虐殺した。その周辺には死体からの悪臭と死臭が充満しているので、一部の日本軍兵士は手ぬぐいで鼻を塞いだ。日本軍兵士が、それらの死体を潞安城の南門の近隣の塹壕の土穴に集積して埋め込んだ。一部の日本軍兵士は、中国軍兵士の首から断頭して、竹槍をに突き刺してその周辺にさらした。山西省の中国人兵士と民間人は、日中戦争に対して多大な犠牲を払い、大地に悲劇の血をまき散らした。 

 1937年7月7日に、北京市南西部の盧溝橋の発砲事件から日中戦争が勃発した。7月11日に大本営は華北に向けて日本軍を増援した。7月28日に関東軍は古都である北京を攻略して陥落した。次いで7月30日には天津が陥落した。それ以後に、日本軍は華北において占領範囲を拡大した。国民党軍は中国各地域で長期持久戦するために11月20日に首都を重慶に移転した。12月7日には南京が陥落した。関東軍は、9月から11月まで山西省太原に侵攻して、中国軍約13万人と日本軍約3万人が死傷した。

 1937年9月に張家口、10月に大同、12月に平北、1938年1月16日に日本政府は国民党を正統政権と認めず、1938年3月に上海、中国各地に傀儡政権である臨時政府を次々に樹立させた。日本軍の華北部隊と南京戦後の華中部隊を、中国東部の徐州に集結して、4月7日から徐州を包囲して攻略した。国民党軍は、徐州を放棄して撤退して5月17日に徐州、6月4日に開封、10月24日に武漢三鎮が陥落した。日本軍の戦死傷者は約20万人と中国軍の死傷者は約40万人と甚大な犠牲を伴った。その一方で、1937年11月に中国共産党は孤立していた山西省太原市を根拠地として、江蘇省や安徽省の日本軍非占地域に八路軍などを派遣して勢力を拡大して、各地で国民党軍と共産党軍が武力衝突を繰り返した。




2021年8月17日火曜日

サイゴンのテト攻勢でチョロン地区に潜伏して生存していたベトコン兵士を、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士が家屋から屋外に引きずり出して射撃して絶命させた。

ベトナム戦争におけるベトコンと北ベトナム軍によるテト攻勢が1968年1月30日から南ベトナムで勃発した。1968年2月11日に、サイゴンのチョロン地区に潜伏していた黒衣服のベトコン兵士が、南ベトナム軍兵士とアメリカ軍兵士により、崩壊した家屋から屋外に引きずり出された。負傷していたがまだ生存していたベトコン兵士は、抵抗することもなく弾丸1発を射撃されて絶命した。弾丸が鋭くベトコン兵士の身体にめり込み、生存していたベトコン兵士はしばらくすると全く生命反応も無い死体に変貌した。敵兵がどこにいて、どの方向にいるのかさえ不明であった。敵軍は家やトンネルの中、そして下水道の中でも潜伏した。

 1968年1月30日の早朝に、多くの家族が旧正月の祝賀を開始したのと同時に、約84,000人ものベトコン軍と北ベトナム軍が奇襲して南ベトナムの主要な都市部を攻撃した。南ベトナムの44の州都のうち39、64の地区本部、ほぼすべての同盟飛行場とアメリカ軍基地などがテト攻勢された。サイゴンに、テト攻勢が勃発した時は、多くの南ベトナム軍は休暇中であった。24時間後には、北ベナム軍とベトコン軍は、南ベトナム全土の都市、町、政府の建物、アメリカ軍基地または南ベトナム軍事基地を含む、南ベトナム全土の他の多くの標的を攻撃し、合計約120回以上の攻撃を行った。アメリカ大使館を攻撃しただけでなく、サイゴン中の他の約12の目標にも攻撃した。特に驚異となったサイゴンのアメリカ大使館に対するテト攻撃では、アメリカ軍がそれを掃討する前に、ベトコン部隊が大使館の複合施設の中庭に入った。特にアメリカ国大使館への大胆な攻撃とその驚異は、テレビで放送されたベトコンに対する大虐殺の映像を見たアメリカ市民に非常なショックを与えた。サイゴンでは、散発的なテト攻勢の市街戦は3月8日まで続いた。国際的な報道機関は、テト攻勢の間に、ベトナム戦争の無修正の生の戦争映像をアメリカのテレビ画面に送信して多大な反戦運動を引き起こした。 

 1968年のテト攻勢までに、少なくとも約485,000人のアメリカ軍兵士が南ベトナム国内に駐留していた。地上戦はほとんど田舎であり、爆撃は北ベトナムの主要な供給ラインであるホーチミン・ルートを破壊するためにラオスとカンボジアに侵攻していた。町を救うために町を破壊する必要が生じた。テト攻勢は1968年4月1日まで継続した。北ベトナム軍とベトコの犠牲は、甚大な戦死者しは約58,373人(戦死者約32,000人、戦傷者約50,000人他)を損失した。アメリカ軍と南ベトナム軍は、戦死者は約9,078人、戦傷者は約35,212人が戦傷した。ベトナム民間市民は、約14,000人が死亡して、約24,000人が負傷した。

 ジョンソンの後継となったリチャード・ニクソンは、「名誉ある平和」を公言して選挙に勝利した。就任したニクソンは、数ヶ月ごとにアメリカ軍の増員を撤回した。その後に、完全なるアメリカ軍の撤退を必要とする和平協定を交渉した。テト攻勢によりアメリカ大使館が攻撃された不運な事件から、約7年後の1975年4月30日に、最後のアメリカ人と一部のベトナム人の同盟者は、南ベトナムを悲惨で残酷にも見殺しにして、アメリカ大使館の屋上からヘリコプターで南ベトナム首都サイゴンから上級国民が脱出して飛び去った。



(アフガニスタンでも再び、タリバンにより首都カブールが陥落して、2021年8月15日にアシュラフ・ガニ大統領からアメリカ大使館屋上にて上級国民らが軍用ヘリコプターで脱出し始めた。)

2021年8月16日月曜日

イラク政府軍のサファウィ軍が、イスラム国の攻撃を受けて逃亡する前に、スンニ派イスラム教徒約39人の囚人を拘置所で虐殺した。

イスラム国は2014年6月25日に、イラクの北西部のモスルから西方に約50Kmのタル・アファールを占領した。スンニ派が多数派で、ラダフィディ派は少数派であった。イラク政府軍のサファウィ軍が、イスラム国の攻撃を受けて、逃亡する前に、スンニ派のイスラム教徒の囚人を虐殺した。イラクの拘置所で、アルマリキのイラク政府軍隊は、イラクのスンニ派囚人を大量虐殺して、多くの死体が散乱して積み上げた。36人の死体がいる拘置所で、殺害と屠殺が行われた食肉処理場に成り果てた。アルマリキ首相のイラク政府軍とシーア派の軍隊が、イラク国内で虐殺を繰り返していた。虐殺の生存者は、病院に運ばれた後に、死体はアルマリキのイラク政府軍隊によって射殺されたと証言子した。スンニ派被拘禁者は、アルマリキのイラク政府軍による大量死刑が執行された。

 2013年12月から、イラクとイスラム国との軍事衝突がイラク西部で頻発した。イスラム国(ISIL)は、2014年1月にファルージャを占領して、2014年6月にイラク北部から攻勢が激化した。6月4日サマラ、6月10日モスル、6月11日ティクリーチを占領した。6月13日にイラク政府軍は南部に撤退した。イラク政府は6月下旬に、ヨルダンとシリア両国の国境周辺の支配を失った。2014年6月29日にISIL(イラクとレバントのイスラム国)とISIS(イラクとシリアのイスラム国)の連合隊は、イスラム国(Islamic State)と名称の変更を発表した。2014年8月には、イラク北部のズマール、シンジャール、ワナを占領した。

 イラクのアルマリキ首相は、2006年5月から2014年8月までイラク暫定政府を引き継いだ。シーア派の反対派であるスンニ派であった。2014年8月7日からアメリカ軍は、イスラム国の勃発に対して、イラクへの軍事介入した。8月5日からクルド人に武器供与、8月8日から空爆を開始した。イスラム国は、2014年8月12日から、インターネットによる西洋民間人と日本民間人らを斬首する宣戦を開始した。アメリカ軍の軍事介入により、2014年から2021年8月までに、アメリカ軍は約69人が殺害されて、イスラム国は約70,000以上が殺害された。民間市民は、約34,000人以上が巻き込まれて殺害されて、約550,000人が難民化した。




2021年8月15日日曜日

太平洋戦争の終戦後に、少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて海外から門司駅まで引揚した。

太平洋戦争の終戦後に、1945年10月16日に中国大陸から九州方面への引揚者は列車で門司駅に運送された。殺到した引揚者は一時的に門司引揚寮に停泊した。少女は母親の遺骨と遺影を抱いて、悲しみ泣きながら花びらの枝葉を付けて引揚した。手にした持ち物のみが全ての所有物であった。そこから父母の故郷の元へ、遺骨を抱えて不安と悲しみに包まれて引揚した。引揚は、生還者だけでなく、途上で死亡者も多発したて、その遺骨の一部も帰還した。終戦後の復員や引揚の人達が、門司に上陸して安堵の思いで、門司駅の水飲み場で喉を潤して「帰り水」と呼称された。門司港では最後の集団引揚は、1961年6月27日に、北ベトナムからの集団引き揚げ船「上海丸」が、福岡県の門司港へ入港して、最後の集団引き揚げが終了した。

 1945年12月8日に太平洋戦争が終結し、日本はポツダム宣言を8月14日に受諾した。1945年8月15日正午からラジオで放送された玉音放送により、8月14日に決まったポツダム宣言受諾と日本の降伏が、日本国民を公表した。終戦の日とて、日本は武装放棄と投稿を命令して、連合軍は戦闘を停止した。ポツダム宣言に、軍人は「九 日本国軍隊は、完全に武装を解除せられたる後各自の家庭に復帰し、平和的且生産的の生活を営むの機会を得しめらるべし。」と規定された。連合軍は、日本陸海軍の移動に第一優先を、民間人の移動に第二優先を附与すべしと指示して、軍人軍属の帰還の復員を優先して開始された。民間市民は、「八 カイロ宣言の条項は、履行せらるべく、又日本国の主権は、本州、北海道、九州及四国並に吾等の決定する諸小島に局限せらるべし。」との条項をもとに、終戦時に海外に在留した軍人、民間人あわせて約660万人は、日本本土への復員と引揚が始まった。

 軍人は約3,107,411人と民間人約3,189,835人と同数が、アジア全域から日本本土に復員あるいは引揚した(図表)。引揚者は、厚生省が開設した18地区の引揚港から上陸した。軍人が軍務を解かれて日本本土に帰還する復員をした。海外の民間市民が帰還する引揚した。復員と引揚は、1947年12月31日までに、約624万人が復員と引き揚げした。それから一時空白期間から、1959年頃まで引き揚げは継続した。公式記録では個別引揚は1976年まで続き、最初の引き揚げから約30年も継続した。特にフィリピン・東南アジア・ベトナムからの引揚は1960年頃まで少数ながら継続した。軍人の本土復帰である復員は、優先されて帰還できた。しかし、支援組織のない民間市民の引揚は、長期にわたる悲惨と苦難の引揚となった。ほとんどの民間市民は、着の身着のままで哀れな姿で日本本土に帰還した。民間市民の終戦後の引揚は、戦争による悲惨な犠牲者となった。






2021年8月14日土曜日

アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者の調査のため、広島第一陸軍病院宇品分院にて、収容された被爆者の診察検査をした。

 アメリカ陸軍調査団が1945年9月11日に被爆者を診察するために、広島第一陸軍病院の宇品分院を訪問した。収容された仰向けの被爆者の視覚検査をした。広島原子爆弾の爆心地から南東約4.1kmの陸軍船舶練習部は臨時野戦病院として、次いで広島第一陸軍病院宇品分院となった。約6,000人以上の被爆者が収容された。

 原子爆弾の開発を行なった機関の調査団であるマンハッタン管区調査団とアメリカ太平洋陸軍軍医団調査班が合同して原爆及び医学的報告を行なった。ファーレル准将を団長とする約15人からなる調査団を広島に送ることを決定した。連合国最高司令官総司令部(GHQ)は、日本政府に対しこの調査に協力するように指令を出した。

 これを受けて、広島で調査活動中であった陸軍本橋および東京帝国都築正男教授は東京に呼戻もどされ、調査団に同行・協力した。調査団は9月7日空路で岩国に到着した。9月8日に広島に入り、日本軍や行政各機関の協力を得ながら調査を行なった。

9月8日に、ファーレル准将一行の調査団は、厚木飛行場から飛行機6機で広島に向かった。広島に着いた一行は海軍鎮守府が用意したバスで中国軍管区司令部に行き、第二総軍司令官の出迎えを受けた後、調査を開始した。一行には、東大都築教授、軍医学校の本橋少佐などが同行し、彼らを案内するとともに、これまでの日本側の調査・研究結果を報告した。調査団にはスイス赤十字社のジュノー博士も同行し、占領軍は約15トンに及およぶ医薬品を、博士の要望に応おうじて提供した。

 1945年9月に、アメリカ陸軍・アメリカ海軍の軍医団は、旧陸軍病院宇品分院などに収容された被爆者から約1年間の被爆調査を行った。陸軍医務局、東京帝国大学医学部の協力で、東大の都築正男(教授)、アシュレー・オーターソン(米陸軍)、シールズ・ウォーレン(米海軍)による日米合同調査団を編成して、約1年間の被爆調査が行った。収集資料の解析には日本の研究者の参加は認められず、全調査資料がアメリカに送られて、アメリカ陸軍病理学研究所(Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。

 広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した1945年8月6日から敗戦の8月15日までに撮影された原爆写真は、広島で被爆した9人の撮影者と大阪から入った朝日、毎日、同盟(共同通信)の記者3人の計12人による259枚と、陸軍船舶司令部写真班が撮影した52枚の311枚の原爆写真の存在が明らかとなっている。学術研究会議に同行して9月下旬に入った東京の撮影者などを含めて1945年末までに、日本側は計37人の2702枚を収めた。写真の半数は、サンフランシスコ講和会議で日本が占領下から主権を回復すると、東京の朝日出版社から直ちに「原爆第1號ヒロシマの写真記録」(1952年8月14日発刊)に使用された。ただし、場所や撮影者の記述はない。そのうち1枚が、アメリカ写真雑誌「ライフ」(1952年9月29日号)に「原爆の恐ろしさを米国初公開」として別の写真と一緒に掲載された。




2021年8月13日金曜日

太平洋戦争にて、フィリピンのレイテ島のカナンガ北方ロノイにコンクリートの要塞の中で、アメリカ軍兵士が自殺した約7人の日本軍兵士の死体を引き出して検死した。

太平洋戦争にて、フィリピンのレイテ島のカナンガ(kananga)北方約2kmのロノイ(Lonoy)付近のコンクリートの要塞の中で、アメリカ軍兵士が1944年12月22日に自殺した約7人の日本軍兵士の死体を引き出して検死した。日本軍兵士の遺品から、日本軍の情報と遺書を見出した。日本軍の士気と体調は非常に低くなり、崩壊し始めて、脱走も多くなり、医療も受けれない負傷者は部隊に合流できなかった。上官が説得力のある言葉で、戦線の重傷の日本軍兵士に自決を求めることが多くなり、大半は喜んで自殺した。部隊からはぐれた日本軍兵士は、重傷を理由に部隊への合流を拒まれ、軽傷者を戦線に送り返した。

 11月1日にレイテ島に到着した日本軍部隊は、約1ヶ月分の食料と弾薬だけで、12月1日には供給が尽きて飢餓状態に陥っていた。ココナッツ、雑草、竹の子、ココナッツの幹の繊維、採集した自生の果物や野菜を食べた。弱った胃腸のために食物の一部を消化できず、1日に数回も嘔吐した。退却中には、多くの装備、弾薬、配給を放棄した。鬱蒼としたジャングルの中を撤退して、12月25日にはアメリカ軍の攻撃を受け、さらに壊滅状態となった。日本軍が、意気消沈してレイテ島西部の山に向かって退却していく中、大本営は日本国民に、「我が軍はブラエン飛行場、サンパブロ飛行場を保持し、敵陣への攻撃を続けている。我が軍はオルモック、アルブエラ付近の東側山腹で猛烈な戦闘を展開している」と通達した。

 1944年12月18日に、アメリカ軍は、レイテ島のロノイ、カナンガ、および北西部に偵察隊を派遣した。12月19日に、アメリカ軍は、多くの日本軍の装備を略奪して、多くの物資の置場を破壊してロノイを占領し、カナンガに侵攻した。カナンガ地域に砲撃を加え、多くの日本軍兵士を殺害して、残りの日本軍は南に逃げた。日本軍に集中砲火と機関銃を浴びせ始めた。対戦車小隊は砲とその乗員を破壊するために出動した。12月20日には、アメリカ軍は、すぐに民家の下や道路沿いの小さな物陰に潜んでいた日本軍から激しい銃撃を受けた。カナンガ方面に向けて南方に移動した。

 カナンガを占領するために、12月21日に侵攻して攻撃した。道路を見下ろす尾根から日本軍の激しい銃撃を受けて、包囲した。日本軍は明らかに略奪を行って、荷物の中には、リネン、銀製品、女性用の衣類が入っていた。12月22日に、アメリカ軍は、カナンガの南にある橋で部隊が合流した。ついにオルモック渓谷からピナモポアンまでの全距離が解放あされた。日本軍がアメリカ軍の進撃に粘り強く抵抗したオルモック渓谷が、アメリカ軍に占領されたいた。レイテ島に残存している日本軍部隊は、オルモック渓谷の裏山への退却を命じられた。オルモック湾西のレイテ島北西部の山地は、北西部海岸に向かう難所であった。地形は荒れて、北側の砕けた土地や低い丘から、南側の急な岩の尾根や高い丘へと高度が上がっていた。カナンガの南部では耕作地や草原が密林に変わり、植物が生い茂り、鋭く切り立った尾根の通過には時間がかかり、困難を極めた。南下する際に迂回してきた日本軍の抵抗勢力を一掃した。

 12月28日に、装備の乏しい日本軍の小部隊は壊滅した。竹竿に取り付けた銃剣だけを武器とする日本軍の一団は、絶望的に戦線を突撃して殲滅された。12月31日に、日本軍は数回の夜襲をした。いずれもラッパの音で始まり、午前2時30分頃から明け方まで、迫撃砲、機関銃、小銃などで、武装した日本軍兵士約500人は壊滅した。 




2021年8月12日木曜日

第一次上海事変にて、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻して、塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たり、武器が散乱した。

第一次上海事変にて1932年2月20日に、日本軍は中国軍陣地がある上海の江湾鎮を強襲して侵攻した。塹壕の中に取り残されて遺棄された中国軍兵士の死体が横たわった。その塹壕内には、中国軍の武器が散乱していた。日本軍は、2月20日に上海の廟行鎮東方及び江湾鎮附近の中国軍の陣地を攻撃して、江湾鎮の東端まで侵攻した。中国軍は、江湾鎮の市街に堅固なる家屋を利用して、徹底した抗戦して。日本軍は侵攻の進捗が停滞して、戦闘が苦戦に陥った。

 中華民国の上海共同租界にて1932年1月28日から3月3日まで第一次上海事変が勃発した。日本軍は、上海の邦人の保護と租界防備に関する国際的義務を全するを事由として1917年2月6日に日本軍が日本より上海に派遣された。第十九路軍を主幹とする約5万人の中国軍は2月20日から上海の日本軍に第一次総攻撃した。

 日本軍は、2月22日夜中に廟行鎮の敵陣地を夜襲しこれを奪取した。三十六勇士が出現して、肉弾三勇士として謳われて、作江、北川、江下の三伍長は戦死して、師団長より感状の名誉を授与された。帝国万歳と叫んで吾身は木端微塵、忠烈まさに粉骨砕身、葉隠れ主義の露堂々など、美談が広く報道され反響をよび、壮烈無比の勇士と武功を称えられ国民は軍国主義に熱狂した。日本軍は、中国軍陣地の郭家屯にて、閘北方面から優勢なる中国軍が逆襲した。廟行鎮附近の戦闘により、第十九路軍に蒋介石の中国護衛軍が援軍して来た。

 2月26日には江湾鎮の中国軍は戦闘機の爆撃と砲撃されて、西方に退却した。日本軍は、廟行鎮から江湾鎮、閘北までの戦線を占領した。3月1日に江湾鎮の西方約2Kmの大行橋から江湾鎮の南方約25Kmの夏馬湾まで侵攻した。3月2日に混乱して敗走する中国軍を追撃して、3月3日に戦闘は終結した。

 3月24日より、日本軍と中国軍の停戦を、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアの4国の武官が参与した委員会で協議を重ねた。特にイギリス公使の斡旋により停戦協議は進展した。3月25日から上海に駐屯した一部の日本軍から帰還を開始した。4月29日の天長の佳節の爆破事件が勃発した。4月30日に国際連盟の停戦の勧告決議が採択されると、停戦協議は5月5日に調印された。5月9日までの日本軍の戦死者は約634人で戦傷者は約1,791人に及んだ。中国軍の犠牲者は戦死者4,086人、戦傷者は約9,484人に及んだ。民間市民は約6,080人が殺害されて、約2,000人が負傷して、約14,000人が行方不明となった。日本軍は、5月11日に大本営に対して、満州方面における拡大する反満、反日の匪族を、直ちに武力を以て徹底的に鎮圧して治安の維持を求めた。満州の駐兵地域の拡大に伴い兵力が不足して、上海事変の停戦の調印を利用して、日本軍を改編して満洲に転用することが発令された。




2021年8月11日水曜日

太平洋戦争にて、テニアン島に上陸したアメリカ軍に対して、日本軍兵士が夜間にバンザイ突撃して、大砲と機関銃により死体群が荒野に散乱して山積みとなった。

太平洋戦争において、1944年7月24日にテニアン島に上陸したアメリカ軍に対して、日本軍兵士が夜間にバンザイ突撃した。アメリカ軍は、すべての大砲と機関銃は地獄のように撃ち始めた。夜襲をした日本軍兵士が殺害された約251人以上もの死体群が、テニアン島の荒野に7月25日には散乱して山積みにされた。約15,000人以上のアメリカ軍が上陸して、日本軍兵士をはるかに凌駕した。アメリカ軍は上陸直後から、日本軍から夜間の突撃を予期していた。テニアンの戦いで初めて焼夷弾のナパーム弾が投下された。焼夷弾は、日本軍の要塞を焼き尽くした。日本軍は、昼間に退却して夜に攻撃した。7月31日夜中に、日本軍は最後に自爆するバンザイ攻撃を行って全滅した。民間難民は8月1日直後にすぐに約500人、8月2日は約800人、次第に約8,000人まで増大した。

 平坦な地形のテニアン島は、アメリカ軍のB-29爆撃機の飛行場の建設に適した。テニアン島は、サイパン島、グアム島とともにアメリカ空軍の基地となった。B-29爆撃機が、テニアン島からフィリピン、琉球諸島、日本本土を標的として空襲した。8月1日に占領した約1年後に、B-29のエノラ・ゲイ号が広島に投下される原子爆弾を積んで1945年8月6日午前1時45分にテニアン飛行場を離陸した。その3日後の8月9日午前2時47分に、2機目のB-29ボックス・カーが長崎に投下される原爆を積んでテニアン飛行場を離陸した。第二次世界大戦を終結させた日本の降伏は、その直後の8月15日に無条件降伏が宣言された。

 テニアンの戦いが、第二次世界大戦の太平洋戦争にて、1944年7月24日から8月1日までマリアナ諸島のテニアン島で勃発した。日本軍の反撃は最初の夜中に突撃した。日本軍兵士は、アメリカ軍に約3回突撃した。夜明けまでに、日本軍の攻撃は打ち砕かれて、アメリカ軍は掃討を始めた。次の3日間で、アメリカ軍は内陸に移動し、抵抗はほとんどなく、ウシポイント飛行場を占領した。7月29日に、退却する日本軍兵士は南部の丘や洞窟に避難した時により厳しい攻撃をした。日本軍は、孤立して攻撃が破壊された後に、日本軍兵士は南端に撤退した。残存する日本軍を掃討して、1944年8月1日早朝に、最後の砦から2回のバンザイ突撃を撃退して、日本軍は全滅した。

 7月9日のサイパンの戦いの終結後に、アメリカ軍は約5kmの近隣のテニアン島を攻撃した。1944年6月までに、約8,039人の日本軍兵士、約13,000人の日本民間人、約2,700人の朝鮮人、約22人のチャモロ民族が在住していた。テニアン島の戦いで、日本軍兵士は約5,542人が戦死、約2,265人が行方不明、約252人のみが捕獲されて生存した。日本人等の民間人は、約4,000人が多数の自殺あるいは殺害された。約41,364人のアメリカ軍兵士のうち、約326人が戦死して、約1,593人が戦傷した。




2021年8月10日火曜日

ドイツ親衛隊がヘルムブレヒトの女性強制収容所でやせ衰えて虐殺されたユダヤ人女性囚人の約22人の死体を、アメリカ軍が集団墓地から発掘した。

ナチス・ドイツ軍がヘルムブレヒト(Helmbrechts)女性専用強制収容所で虐殺したユダヤ人女性囚人の約22人の死体を、アメリカ軍が集団墓地から発掘した。1945年4月18日に掘り起こされてやせ衰えたユダヤ人女性の死体であった。2人のアメリカ軍兵士が見守った。

 ドイツ軍がヘルムブレヒトの女性専用強制収容所内にて、殺害したユダヤ人女性22人の死体が散乱していた。ヘルムブレヒト女性強制収容所は、1944年9月1日からフロッセンビュルク強制収容所の管轄下であった。 

 ヘルムブレヒツ強制収容所は、1944年7月にドイツのホーフ近くのヘルムブレヒツ近くに設立されたフロッセンビュルク強制収容所の管轄下の女性専用強制収容所であった。収容所に最初に収容された囚人は、ドイツ北部のレイヴンズブルック収容所からの政治犯であった。その後に、ユダヤ人女性の囚人が強制連行され収容された。1945年4月15日に解放されたが、生存した囚人は残存しなかった。

 ポーランドのラーフェンスブリュック強制収容所からの約680人のポーランド・ソビエト連邦・チェコから約68人の非ユダヤ人女性囚人が移送された。1945年3月6日には、約621人のハンガリー系ユダヤ人女性が、グロースローゼン強制収容所に併設されたシレジアのグリュンベルク強制収容所からの死の行進を経由してヘルムブレヒツ女性専用収容所に到着した。看守は朝から女性囚人を叩打して虐待と虐殺した。毎朝、看守が手押し車を持って、夜に死んだ者の死体を運び出した。廃繊維工場で兵器製造の強制労働を強要された。さらに工場から約1km離れた有刺鉄線で囲んだ兵舎内にも設置された。

1945年3月までに約10から20年まで非ユダヤ人囚人が虐殺された。逃亡した約3人の女性が虐待と虐殺された。4月中旬までに、約40から約50人のユダヤ人女性が虐殺した。1945年4月13日に閉鎖して、女性囚人の一部の約590人の非ユダヤ人がズウォダウ強制収容所に強制行進させた。他の約577人のユダヤ人女性はさらに南部のチェコに死の行進中には、約200人が虐殺された。行軍中の囚人が衰弱して歩行できないと、生きたまま残してはならないと、囚人を射殺した。




2021年8月9日月曜日

第一次上海事変で日本軍兵士らは、板間に戦死した兵士の死体を多人数で載せて担いで、火葬のために大場鎮の戦場から運び出した。

 第一次上海事変の最大の激戦地となった悲惨な大場鎮の戦いでは、塹壕の中で日中両軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士らは、戦死した板間に戦死体を載せて担いで、大場鎮の戦場から運び出した。戦場の後方まで戦死体群を集積して火葬して埋葬した。両軍は塹壕から出る地点で、猛烈な射撃を受けて死傷者が続出した。大場鎮にて突撃を繰り返して、上海戦線の203高地と呼称されて、多くの犠牲者を出した。大小の小川を挟んで、決死の肉弾戦が続いて、弾丸が降り注いだ。小川の橋を落しては、中国軍兵士が民家に籠って頑強に抵抗した。中国軍が設置した小川の水路や陣地の蜘蛛の巣によって日本軍の侵攻が立ち往生した。1932年1月28日から3月3日まで上海で日中両軍が衝突した第一次上海事変では、日本軍と中国軍で約4万人もの死傷者が出た。日本軍は戦死者は約769人、戦傷者は約2,322人の犠牲となる。中国軍は戦死者は約4,086人、戦傷者は約9,484人の犠牲を伴った。

 上海事変後に、1932年1月28日に上海の共同租界に戒厳令が施行され、イギリス・アメリカ・フランス軍は警備した。日本海軍と陸軍も在留邦人保護のために上海に上陸して警備した。中国の第十九路軍が突如に発砲して、上海の閘北一帯が戦闘に陥った。小川沿いの脇に両軍に多くの死傷者が倒れ、多くの犠牲者が出た。中国軍は、戦場ー帯に設置した鉄剛網から機関銃を発砲した。上海の廟江鎮の戦場では、日本軍兵士の爆弾三勇士が爆弾を抱いて自爆して鉄条網を粉砕して、殉職に対して日本大衆から英雄と讃えた。

 第一次上海事変は、1931年9月18日の柳条湖事件から派生した満州事変の際に、併発した日本軍と中国軍の局地戦争である。世界の注目を満州国の建国工作からそらし、中国の抗日運動を抑える謀略から発生した。中国人を買収し、1932年1月18日には、日本人僧侶を襲撃・死傷させて、抗日運動の上海に険悪な情勢を波及した。中国側当局が日本の抗議要求をのんで事件は落着するも、日本軍は日本租界に陸戦隊を配備し、1932年1月28日から中国第十九路軍と衝突した。中国側の第十九路軍は抗日意識の高い精兵で、上海市街や北西郊外の水陸の地形を巧みに活用して日本海軍の陸戦隊を苦しめた。2月には、日本政府は日本陸軍を大動員して、激戦を展開した。上海は各国の権益が交錯するために、英・米・仏3国の休戦勧告など国際的圧力がかかった。国際連盟総会直前の3月1日に最大の激戦地となった大場鎮の中国軍陣地を陥落した。3月3日になり中国軍の第十九路軍は退却した。国際連盟の3月4日の臨時総会で、日中両国の戦闘停止を決議した。日中両国が決議を受諾して、第一次上海事変の戦闘が停止した。5月5日に停戦協定が結ばれ、日本軍は撤退した。この間に1931年3月1日に満州国が建国された。中国側の抗日意識や列強の対日警戒心が一挙に増大した。




2021年8月8日日曜日

アフリカ系アメリカ人のチャーリー・ヘイルが、白人集団によりリンチで絞殺された死体に「彼を起こさないで下さい」と看板した。

1911年4月7日の真夜中に、アメリカ北東部のニュージャージー州のローレンスビルのペリー・ストリートとパイク・ストリートの角にある裁判所の広場で、アフリカ系アメリカ人のチャーリー・ヘイルが、白人集団によりリンチを受けて、絞殺された。死体のつま先にぶら下がっている看板には「彼を起こさないで下さい」と掲載していた。約20歳のチャーリー・ヘイルは、ローレンスビルの監獄から引きずり出され、約200人以上の仮面の暴徒に囲まれてリンチされた。白人女性への暴行容疑で告発されたヘイルは、告発内容を弁明する機会もなく、交差点にある電柱に首吊りされた。週末に白人男性と子供たちの群衆が集まって、写真が撮られた。写真を撮影したリンチの様子を描いた絵葉書が作成された。1911年4月8日のリンチの余波でも、誰も逮捕されなかった。写真は、貧しい首吊りの犠牲者のそばで熱心によく着飾った目を見開いた笑顔の人々が撮影されていた。死のリンチに群がった白人の男性と女性は、死体の側に幼い子供たちを連れてきた。

 1850年代以降の南北戦争から、奴隷制、人種、分離などの問題をめぐる急激な政治的分裂、際州内で異常な争いと暴力が沸き起こった。この紛争は、男性、女性、子供、白人、アフリカ系アメリカ人、先住民と移民、農民、都市と町の住人を含む、社会のすべての人種と階層に影響を与えた。アフリカからの黒人の残忍な奴隷制が、残酷に拷問され、レイプされ、切断され、火あぶりにされた無数の黒人男性、女性、子供たちはほとんど議論されない。アフリカ系アメリカ人は、公民権以前の権利では消耗品と見なさた。第二次世界大戦中に約600万人のユダヤ人の命を奪ったホロコーストは、決して忘れない。

 2021年6月16日グウィネット郡委員会が、約110年前にローレンスビルの下町の広場で執行されたチャールズ・ヘイルへのリンチを認めた。リンチで、適正手続きを受けずに個人を公に殺害した。処刑には、警察官が参加したものの、正義の名目で無法の暴徒によって行われることが多かった。黒人住民へのリンチが白人至上主義を支持し、地域住民を恐怖に陥れ、コミュニティ全体に精神的衝撃を与えた。リンチは単なる一連の殺人事件だけではなく、組織的な人種的恐怖政治となった。ジョージア州だけでも、少なくとも約594件のリンチが記録された。最もリンチ数の多いミシシッピ州で581件、ジョージアで531件、テキサスは493件であった。リンチされた犠牲者の約72%が黒人であった。一部の白人は、黒人を助け、反リンチでリンチされた。メキシコ、中国、オーストラリア、その他の外国からの移民もリンチされた。リンチ率は1930年代に低下した。1882年から1968年の間に、アメリカでは約4,743人以上の黒人がリンチによって虐殺された。 






2021年8月7日土曜日

太平洋戦争にてマリアナ諸島のサイパン島に、アメリカ軍が破損した日本軍戦車の前で、日本軍兵士が殺害された死体が荒野に横たっていた。

太平洋戦争にて、マリアナ諸島のサイパン島にアメリカ軍が上陸した翌日である1944年6月16日に、破損した日本軍戦車の前で、日本軍兵士が殺害された死体が荒野に横たっていた。日本軍兵士と戦車は、アメリカ軍の戦線を攻撃した後に、殺害と壊滅された。6月17日の夜中に、日本軍は再びアメリカ軍に約44台の戦車を使った大規模な攻撃を仕掛けた。戦闘は、騒音、トレーサー、点滅するライトの狂騒に発展した。日本軍戦車が撃たれて炎上すると、他の戦車が輪郭になって前方に突撃した。アメリカ軍は、大砲と戦車で騒音を立てながら砲撃を続けた。夜が明けたとき、戦闘は終結して、約24両の日本戦車が粉々になって、残骸が煙を上げて、多数の死体も横たわった。6月18日に日本軍の洞窟に向けて発砲した時には、有害なガスの濃い雲が流れ出てきて、ガス警報器が鳴って、日本軍が洞窟に貯蔵していたピクリン酸と認定した。

 アメリカ軍の上陸した部隊は、内陸部の高台にいる日本軍からの絶え間ない砲撃により死傷者を出した。海岸に向かう途中で日本軍の狙撃手から猛攻撃を受けた。水陸上陸船は。方向を見失い、直撃を受け、日本軍の攻撃で横倒しになり、装備や人員を岩礁に置き去りにした。両軍の死傷者は急速に増加して、陸上に設置された救護所も、散発的な日本軍の攻撃を受けた。アメリカ軍の代償は大きく、6月18日の夜までに約5,000人以上の死傷者を出した。

 アメリカ軍の約7万人がサイパン島に1944年6月15日に上陸した。サイパン島には約31,000人の日本軍の駐屯軍によって防御され、多くの民間人が居住していた。すべての洞窟には、日本軍の狙撃兵、大砲、または戦闘からの避難を求める民間人が潜伏していた。日本軍は、民間人を待ち伏せの餌として、または人間の盾として使用した。アメリカ軍の戦闘員を悪魔化して、多くの日本の女性と子供たちは、サイパンでアメリカ人と対峙するのではなく、自殺を選んだ。

 6月末には、日本軍は島の岩だらけの北部に追い詰められた。7月7日に、海に背を向けて、日本軍は最大のバンザイ突撃を開始した。約15時間のバンザイ攻撃の後、最後の約5000人の日本軍兵士が絶滅して、死体が散乱した。1944年7月9日に、組織化された日本軍の抵抗が終わり、アメリカ軍はサイパン島に安全宣言を出した。約4か月後の11月1日から、サイパンから東京行きのB-29爆撃機が約100機が離陸して、日本国土に無差別の空襲が勃発した。




2021年8月6日金曜日

学術調査団は10月1日から広島原子爆弾の爆心地付近で放射線を測定したが、9月17日の強烈な枕崎台風による流出のため、低値で無害の測定値が報告された。

広島原子爆弾の爆心地である島病院の南側で、学術調査団が1945年10月1日より残留放射能を測定した。理研が、同一地点を約3回にわたり、ローリッツェン検電器により、土地の放射能の強度を測定した。測定の結果は、広島の土地の残留放射能が、すでに人体に害を及ぼすほどのものはないと報告された。しかし、学術調査団は10月1日から爆心地付近で放射線を測定したため、9月17日の強烈な枕崎台風によって表土が流されたためか、測定値は以外に低かった。(枕崎台風による死者・行方不明は全国で約3,800人、広島県では約2.000人)残留放射能が流出して、「広島では70年間何も育たない」という説を覆す結果を報告した。

 しかし、原爆投下後の広島で活動していた京都大学医学部の研究グループが、大野陸軍病院に滞在していた。9月17日夜、中国・四国地方を襲った枕崎台風による土砂崩れで、病院は壊滅状態となった。この台風により、広島県では被爆者を含む1,199人が亡くなり、897人が行方不明となり、1,297棟の家屋が流され、さらに2,101棟の家屋が倒壊しました。

 9月19日に、撮影スタッフの生物班が東京から広島へ向けて出発した。続いて物理班が東京を発ち、最後に土木建築班と医学班の撮影スタッフが広島へ入った。現地では、食糧などの物資が不足するなど、苦労が伴ともなった。しかし、各班の撮影スタッフは焼け跡やけあとを丹念に歩き、学術調査団の活動を追いながら広島の被害をカメラに収おさめて、広島での撮影は、約1ヵ月間に及んだ。

 原子爆弾のドキュメンタリーを作りたいと思っていた科学調査チームとカメラマンの調査記録員が、9月27日に広島に入り、29日から作業を開始していた。日本フィルム株式会社のスタッフが調査記録を撮影した。しかし、この時に撮られた写真と映像は、アメリカ軍の占領当局(GHQ)によって没収された。幻の映画と写真として、日本に公開されるのは約28年後となった。




 
















2021年8月6日 Japan No War NGO (JNWN)
日本平和市民連盟 視聴回数 500,000回, 1817投稿

2021年8月5日木曜日

白軍と連合軍が、何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺して、刑務所の地下室では革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。

ソビエト政権が1917年10月に誕生して、対抗する白軍と連合軍が1918年初頭から占領した地域では、ソビエト権力が転覆し、残酷な恐怖政治が敷かれた。あらゆる革新的勢力が最も残忍な手段で弾圧された。何万人もの共産主義者、労働者、農民が虐殺された。刑務所の地下室で、革命勢力の人々が射殺されて、死体が散乱した。連合軍は恥ずかしげもなくロシア市民の財産を略奪して、国土を荒廃させた。ソビエトの反革命権力は、食料、原材料、燃料の主要な供給源から切り離して、ロシア市民は飢えた。

 連合軍は、内部の反革命の助けを借りて、反乱を組織して、陽動作戦を実行した。外国の外交官たちは、ソ連政府幹部の逮捕とレーニンの暗殺により、ソ連の政権に対する陰謀を企てた。社会革命的なテロ集団が、党や国家の要人に対して、いくつかの攻撃を行った。1918月1月30日に、社会革命家たちがレーニンの暗殺を試みたが未遂に終結した。

 レーニン暗殺未遂のニュースは、ソ連の国中に憤りを与えた。労働者たちは総力を挙げて反革命勢力を殲滅することを誓った。労働者や農民は、党にさらに結集し、赤軍への援助を増やしていった。1918年9月2日に、ソビエト共和国はトロツキーを長とする革命軍事評議会を設立した。ペトログラードの共産主義者が前線に送られ、赤軍は大きな成功を収めた。反革命である連合軍を粉砕した。赤軍は9月にはカザンとシンビルスクを、10月初めにはサマラを解放した。

 ロシア中央部でソビエト権力が確立されると、反革命の拠点となったのは旧ロシア帝国周辺の諸民族地域が反革命の拠点となった。1918年1月以来に、ドン、クバン、ウクライナなどでソビエト軍と反革命軍との戦闘が勃発した。1918年5月にウラル、シベリアで起こったチェコ軍団の反乱が、全面的内戦の起点となった。第一次世界大戦中にチェコ軍団は、革命後にはヨーロッパ戦線へ移動するためにロシア国内で編成された。チェコ軍団の反乱はシベリア鉄道沿線に展開して、ソビエト政権に深刻な脅威を与えた。シベリア各地には、反ソビエト政権が生まれた。連合軍はこれを契機に全面的な干渉戦争を開始して、1918年8月にはチェコ軍の救援を根拠に、日本軍、アメリカ軍を主体とする大軍部隊がシベリアに侵攻した。




2021年8月4日水曜日

満州事変後に関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。

満州事変が1931年9月19日に勃発して、日本帝国側は、満州鉄道の利害に影響する洮昂鉄道を占領するために、関東軍は四平から大興の南約220kmの洮南に向けて侵攻した。関東軍と中国軍が洮南の付近の大戸屯の戦いにより、殺害された中国軍兵士の死体が荒野に放置され散乱した。洮昂鉄道は、中国の奉天軍閥が1924年9月に満州鉄道と請負契約を締結して、1925年から満州鉄道が敷設して、1933年に満州国が占領した。

 関東軍により中国側鉄道の軍事的奪取をした。満州事変後在満の中国系諸鉄道は満州国の国有鉄道(満州国線と略す)とされ、その経営は満鉄に委託された。しかし、その実態は関東軍が戦時下で獲得した鉄道に対する支配権を、事変終了後にも継続するために、関東軍の軍事的観点からの要求であった。実際様々な措置を通じて満州国線に関しては関東軍が指揮監督権を持つことが認められたのである。満鉄が満州国法人となった場合、日本政府の影響力は低下して、満州国が満鉄に対して発言権を拡大し、その結果軍の管理権に影響が出た。独立国家として満州国が満鉄への発言権を拡大した。

 満州国籍への変更が日本の諸監督機関の影響を低下させて、関東軍が在満の鉄道の指揮監督を独占した。1932年4月19日に関東軍と満鉄の協定により、満州国線等の管理権が関東軍にもたらされた。関東軍は満州国の交通等につき管理権を持ち、さらに関東軍は、満州国の国家の行政権限まで含めた。関東軍は、満州国を明確に植民地と見なした。関東軍は軍事力によって支配を拡大し、自らに都合の良い主観的な主張に基づいた。関東軍が必要だと判断すれば、必要な措置を講じれた。

 1919年4月に日本が日露戦争の勝利後に、清国からロシア帝国が租借した遼東半島の関東州を、日本は割譲された。関東州と南満州鉄道の守備隊がのちに関東軍となった。1931年9月18日に柳条湖事件が勃発して、満州事変が勃発して、1932年2月には関東軍は満州全土を占領した。その直後に、関東軍は1932年3月1日に満州国を設立した。




2021年8月3日火曜日

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。

レバノン内戦にて1976年秋期に、パレスチナ・コマンドのイスラム教徒の左派パレスチナ人が、右派のキリスト教徒の多数のレバノン軍兵士を襲撃した。その射殺されて虐殺された右派レバノン軍兵士の死体が、レバノンの荒野に散乱した。レバノン左派連合とパレスチナ・コマンドが、キリスト教右派の間でレバノン内戦が1975年4月13日から1990年10月13日まで勃発していた。レバノン内戦により、約120,000から約150,000人が死亡した。

 1949年にイスラエル建国して以来に、ヨルダンからレバノンにパレスチナ人は避難した。支配派である富裕層で人口少数派の右派キリスト教徒が、レバノン政府の権力を保持して、左派連合のイスラム教徒を弾圧した。1967年六日戦争にてアラブ側が敗戦して、パレスチナ人はパレスチナ解放組織(PLO)を結成した。レバノンでは、弾圧された人口多数派で貧困層であるイスラム教徒を、パレスチナ人解放機構が支援した。レバノン人の左派グループとパレスチナ解放機構である左派連合のイスラム教徒が、右派キリスト教徒のレバノン政府に反発した。

フェダイーンと呼称されるパレスチナ・コマンドが、イスラエルに対する攻撃や1970年に飛行機乗っ取り事件を引き起こした。

 それに対抗したイスラエル軍や爆撃機がレバノンの左派連合を侵攻した。イスラエル軍は、1968年にレバノンのベイルート空港で約13機の飛行機を爆破した。イスラエル軍は、レバノンの南部の村を襲撃して占領し、民間市民を無差別に射殺した。レバノン政府軍は、イスラエル秘密組織とアメリカCIAと連携して、パレスチナ・コマンドを攻撃した。

 1975年2月にレバノンの南約40kmのサイダ(シドン)港町で、イスラム教徒の幹部が暗殺された。左派連合が右派のレバノン政府に反発して、レバノン全土でデモや発砲事件が頻発した。右派によるバス襲撃事件が勃発して、銃を持たない左派イスラム教徒の乗客が暗殺された。

レバノン左派連合が、右派レバノン政府を糾弾して反発した。レバノン左派の支援を受けたパレスチナ・コマンドと、キリスト教右派の間で戦闘が勃発した。ベイルート市内では、右派レバノン政府は、検問所で無差別に左派連合の容疑者を掃討した。1976年6月に右派レバノンから要請されシリア軍がレバノンに侵攻して、レバノンの左派連合のイスラム教徒が劣勢となった。




2021年8月2日月曜日

サイパン島の北端に追い詰められた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時にタナバク海岸で悲惨な最後のバンザイ攻撃で全滅した。

サイパン島の北端に追いつめられた日本軍兵士は、1944年7月7日午前4時に猛烈で悲惨な最後のバンザイ攻撃に参戦した。約5,000から6,000人の自暴自棄な人間が、玉砕の栄光に洗脳されて、哀れな武器を手に取り、タナパグ海岸でアメリカ軍歩兵に向かって真っ直ぐに走ってバンザイ突撃した。体力のある日本人は真っ先に死に、負傷者は死の後を追おうとした。アメリカ軍は一切の妥協を許さず、日本軍を全滅させた。タナバク海岸には無数の日本軍兵士の死体が散乱して、死体の側にはアメリカ軍兵士から奪った銃が放棄された。

 日本軍のバンザイ攻撃は、狂信的で自殺的攻撃は、常に暗闇の中で行われ、アメリカ軍陣地に正面か攻撃した。日本軍兵士は、殺されるのは目に見えていた。日本軍兵士は、アメリカ軍に向かってまっすぐ突撃することを要求された。みんな突撃しているじゃないか。みんな突撃したぞ!突撃しろ!日本刀を抜いて激しい姿勢をとり、再び突撃せよと叫んだ。死んでも構わず、広い浜辺でバンザイ攻撃をした。

 日本軍兵士は、いずれは死ぬと真に信じていた。生け捕りでは、家族に顔向けできない。バンザイと見送られて、家に帰れない。バンザイ攻撃は自殺攻撃である。動けない者は、手榴弾あるいは青酸カリで死ねと言われた。女性や子供は青酸カリを飲んだ。あるいは崖から飛び降りた。洞窟で殺されるよりは、アメリカ軍兵士を道連れで死ぬことを選択した。日本軍は、アメリカ軍の戦線を突破し、支配した支援地域を奪還し、アスリート飛行場を破壊してナフタン・ポイントで再編成する見栄で無謀なバンザイ攻撃をした。

 日本軍は死の谷と呼ばれた窪地に、数百人の日本軍が集結した。走れる者、歩ける者、よろける者、這える者は攻撃に参加し、動けない者には手榴弾を渡して死ねと指示された。日本軍兵士は、祈り、泣き、歓声を上げ、酒を飲んで、声はタナパグ平原に響き渡り、アメリカ軍のる尾根にまで聞こえた。アメリカ軍兵士よ、お前は今夜死ぬんだ。日本男児はアメリカ人の血を飲むと叫んだ。次第に、天皇万歳!とっつぁん!と掛け声した。

 夜は最悪であり、日本軍は前線を突破して、照明弾があっても、何も見えない。の暗闇から狂人の大群が現れた。バンザイと叫び声が響き渡り、日本刀を抜いて頭上でぐるぐると振り回している。武器を撃ち、バンザイと叫んでアメリカ軍に突撃した。アメリカ軍は、迫撃砲と機関銃が絶え間なく発射した。目の前に日本軍兵士の死体が積み重なっても、その死体を轢いて突撃した。攻撃のたびに犠牲者が出ても、続々と突撃した。弾丸は周りを飛び交い、悲鳴は耳をつんざき、辺りは死の臭いが漂い、日本人の死体と火薬の臭いが空気中に漂った。日本軍兵士は、恐怖と憎しみに満ち、殺意を持って、野蛮な野獣となり、悪魔となり、全く人間性を失い、ただ殺す、殺す、殺すと叫んだ。アメリカ軍兵士は、一旦、接触して接近戦が始まると、恐怖を忘れて、至近距離で短い間隔にて両手で射撃した。バンザイ攻撃で約4,000人以上のほぼ全員の日本軍兵士が死亡した。約12時間に及ぶ戦闘で、約1,000人のアメリカ軍兵士が死傷した。




2021年8月1日日曜日

朝鮮戦争にて、アメリカ軍の基地に襲撃した中国義勇軍兵士が鉄条網に巻き付いて射殺された死体が荒野に放置された。

朝鮮戦争において、アメリカ軍の基地に襲撃した中国義勇軍兵士が鉄条網に引っかかり射殺された。鉄条網(trip-wire)が巻き付いた中国義勇軍の死体が放置された。中国義勇軍の1951年の春期攻撃に備えて、全長約800kmにもわたる鉄条網を貼った。1951年の春までには、アメリカ軍は朝鮮戦争の範囲と規模を拡大して、決定的な勝利を収めるのはもはや実行不可能と結論づけた。

 朝鮮戦争は1950年6月25日に約75,000人の北朝鮮軍が韓国に侵攻して勃発した。最初の6週間に、アメリカ軍と韓国軍は一連の遅延と撤退した。洛東江の背後に撤退して防御態勢を確立して、1950年8月1日に釜山境界線が編成された。その直後に1950年9月15日に仁川の水陸両用上陸の攻撃と同時に釜山境界線からの侵攻は、北朝鮮人民軍を崩壊させた。アメリカ軍と韓国軍は1950年10月1日に38度線に到達し、10月9日には38度の国境を越えた侵攻を開始した。10月19日に北朝鮮の首都平壌を占領し、11月24日に北朝鮮と中国の国境に向けて最終攻勢を開始した。

 11月25日に、中国人民義勇軍の全面的な介入により、戦況が逆転してアメリカ軍と韓国軍は防衛に移行した。数的優位性を持つ中国人民志願軍は、複数の攻撃を仕掛け、最終的に北朝鮮からアメリカ軍と韓国軍を追放して、1951年1月4日にソウを再占領した。防衛線から約443kmも撤退した。1951年1月中旬までに、アメリカ軍と韓国軍はより強力な戦力により占領した土地から、中国義勇軍と北朝鮮軍との距離を縮めては破壊した。1951年3月15日にソウルは4度目の奪還をした。3月下旬までに、アメリカ軍は38度線に到達し、その3週間後には約30km先に強固な防御陣地を築いた。

 中国義勇軍がソウルの最後の攻略を決行した。しかし、中国共産党は、最後に韓国の首都ソウルを占領して、停戦を提唱する予定であった。中国軍の1951年4月22日から7月8日までの侵攻は、朝鮮戦争で最大の地上戦となった。中国人民義勇軍は壊滅的な損失を被った。1951年の夏には、両軍ともに地上戦の防御戦に移行した。休戦交渉を開始し、膠着した軍事的状況を休戦会議に移した。朝鮮戦争の休戦交渉は1951年7月10日に始まり、約2年間にわたり複雑で冗長な会議となり、1953年7月27日にようやく休戦が成立した。