2020年9月30日水曜日

イスラム教徒である回民は同治反乱を起こすも、清軍に大量虐殺されて、回民の遺骨が積み重なっていた。

19世紀後半の太平天国の乱から、イスラム教徒である回民は同治反乱を起こし、清軍に大量虐殺された回民の遺骨が積み重なっていた。19世紀後半の清朝末期に太平天国よる全国的な大反乱が起きた。太平天国の嵐により中国の各地で反清の反乱が起こった。回族と漢族の反目が激しくなり、太平天国の乱の一派として同治反乱と呼称される回族大反乱が勃発した。回族の大乱は1855年から1873年に約18年間にも及んだ。漢族に虐殺された回族は約100万人ともいわれ、特に清朝は粛州の回族を皆殺した。陜西省の回民の約9割の約1,394万人が、甘粛省は回民の約3分2の約1,946万人が虐殺された。回族をみれば殺す恐怖政治となり、清朝末期だけでも中国の回族の半数以上が虐殺された。同治反乱の際、回族の一部は内モンゴル、青海、甘粛と転戦し、最後には新疆に落ち延び、天山山脈の南北で約3年半もウイグル族と連合して戦闘して、やがては国境を越えてロシア領内に逃亡した。清朝は異民族であるモンゴル、チベット、新疆内の各民族を支配するために、地域や民族によって統治形態を使い分けた。非漢民族をたくみに間接支配した。モンゴルとチベット地域の間に、新疆のイスラーム教徒を介入させた。

 7世紀に誕生したイスラームは、アラブ・イスラーム文明成立のときから、はるかな中国唐朝に強い関心を持っていた。「学問は遠く中国にあるが、行き、求めるべし」というのが、イスラームの創始者ムハンマドの言葉であった。中国のムスリム(中国流にいえば回族・回民)は、唐の時代にアラブ、ペルシアから来た人びとに源を持って、唐朝時代には宗教信仰の自由があった。元の時代には中央アジアを侵略して、多数のイスラーム教徒を奴隷として連行した。その後の時代から次第にイスラーム以外の宗教は消滅した。西アジア、中央アジア系の外国人集団の中にも、イスラーム教徒だけは漢族に溶け込まずに回民で残存した。 

 辛亥革命でアジア初の共和国となった中華民国は、孫文の「五族共和論」や人民主権の臨時約法も消滅した。モンゴル・チベットなどを管轄も、清末から理藩部に変わり、国民党の蒙蔵院も喪失して脆弱となった。1935年に国民党政府軍に追われた中国共産党の紅軍は、江西省などの大本営を失った。やむを得ず紅軍は約12,500kmの長征を経て、中国の南から北方まで逃避した。陜西省に到着した紅軍は国民党軍に包囲されて、1937年に甘粛の高台で全滅した。紅軍の連続した敗北は、西安事件による国共合作で回避された。1910~30年代前半まで新疆、青海などと中央政府はきわめて疎遠で、チベットは清朝期よりも独立状態にあり、1917年の第一次康蔵紛争、1930年の第2次康蔵紛争など辺境では衝突が頻発した。中国に辺境・民族政策を、1924年に共産党との合作した国民党が執行した。 1953年から中華人民共和国は民族問題で、分離独立は絶対に許さない。中国は構成する諸集団が、民族に帰属を法的に認定する民族識別工作を行政手続きした。




2020年9月29日火曜日

第二次世界大戦に、ソ連のパルチザンは若い共産党の8人の民間人が、ドイツ軍に絞首刑にされた死体を、ヴォロコラムスクの集会所で遭遇した。

第二次世界大戦にて1941年12月20日に、ソ連のパルチザンはヴォロコラムスクの集会所で絞首刑された若い共産党の8人の民間人の死体に遭遇した。第二次世界大戦中に、ヴォロコラムスクの近くでドイツ軍とソ連のとパルチザンの間で、多くの激しい衝突が起った。1941年10月27日から12月20日までドイツ軍の占領下となり、その後の12月20日にソ連軍によって解放された。大聖堂には、多くのソビエト人の捕虜を投獄して、飢餓から拷問や虐殺で死亡した。

 ソ連の首都モスクワから北西に約129kmのヴォロコラムスク周辺では、モスクワの戦いの一環として激しい戦闘が勃発した。1941年9月30日から、ドイツ軍はモスクワで攻撃を開始して、11月中旬までにソ連の首都モスクワから約100km以内に到達した。天候が10月7日から天候が荒れ始めて、道路や畑が泥沼に変わった。ドイツ軍は、ソビエト軍によって防御されたヴォロコラムスクへの攻撃を開始した。ヴォロコラムスクは1941年10月27日にドイツ軍に墜落した。ソ連軍はヴォロコラムスクから東方に撤退した。ソ連軍はドゥボセコヴォ鉄道駅を防御するも、11月16日の朝にドイツ軍に攻撃されて、ペチェノとネリドヴォの村を支配され、約100人以上の死傷者が出た。ヴォロコラムスクは1941年12月20日にソ連軍によって解放された。モスクワの戦いは1942年1月7日にドイツ軍の敗北に終わった。

 第二次世界大戦(1939年-1945年)が勃発し、1939年9月1日から1943年初頭にかけて世界中に拡大した。この期間中に、電撃戦術で、ナチス・ドイツはヨーロッパのほとんど(英国といくつかの中立国を除く)に侵攻した。1941年6月22日、ナチスドイツはソ連を攻撃して、徐々にソビエト領土の奥深くまで進んだ。日本軍の真珠湾攻撃した1941年12月7日頃は、ヨーロッパではドイツが優勢であった頃に、日本軍は突然パールハーバー(ハオアイ島)でアメリカ艦隊を攻撃した。日本軍は東南アジア全域と太平洋の一部の島々を占領した。1940年9月の北アフリカでは、イラク軍がエジプトを攻撃した。戦争は世界中に広がり、西ヨーロッパの前線、ソビエト-ドイツの東部前線、アジア・太平洋戦線と北アフリカ戦線で第二次世界大戦が勃発した。1942年1月から連合軍の戦線が、ファシズムを破壊するために、世界中の反ファシスト勢力が集結し始めた。

 


 

2020年9月28日月曜日

多数の日本軍兵士は、ニュージョージア島の断崖より海中に墜落して壊滅して、生存しても崖下で自殺した。

太平洋戦争のニュージョージア島の戦いにおいて、アメリカ軍とニュージランド軍は、日本軍とニュージョージア島で、1943年6月30日から10月7日まで激突した。日本軍は大きな損失と犠牲を伴って、飛行場があったムンダ地区から撤退した。その撤退に逃げ遅れた多数の日本軍兵士は、アメリカ軍とニュージランド軍に挟まれて追い込まれた。追い込まれた日本軍兵は、断崖より太平洋の海中に墜落して壊滅した。生存していた日本軍兵士は、崖下の水際で捕獲されるよりも自殺した。アメリカ軍が8月5日にムンダ飛行場を占領した。9月にはニュージランド軍もアメリカ軍から引き継いで侵攻した。ニュージョージア島は、最も困難なジャングルに厚く覆われてしいた。非常に厚いので、真っ昼間でも薄明が広がるのみであった。なたと斧でジャングルを通り抜けた。下の地面は多くの急な尾根と小さな川で覆われた。地形が海岸線の近くで平らになり、川が内陸高原から運ばれた沈泥により、湿地が生じた。

 日本軍がガダルカナル島から2月7日に撤退した直後から、アメリカ軍はムンダ飛行場に侵攻した。アメリカ軍は6月30日にムンダ南西のレントバ島に、さらに7月5日にムンダ東に上陸した。日本軍は抵抗するも、8月4日にムンガ飛行場を占領した。険しいジャングルの地形と野蛮な日本の抵抗で、内陸への侵攻は遅延した。熱帯の暑さと湿度、病気、疲労感などと、日本軍兵士のバンザイ攻撃により、多数の日本軍兵士の死体が散乱して、アメリカ軍隊も犠牲を伴った。厚い珊瑚で補強されココナッツの丸太の掩蔽壕に閉じ込められた日本軍は、狂気的な抵抗をした。血まみれの叫び声で攻撃したり、アメリカ軍の塹壕に静かに這い、隊員を刺殺あるいは絞め殺した。ニュージョージア島の犠牲者は、アメリカ軍は約1,195人が戦死して、日本軍は約1,671人が戦死して、約3,873人が戦傷した。 



2020年9月27日日曜日

第一次世界大戦で、ドイツ軍はベルギー占領して、悲惨な女性と少女の売春を容認して安っぽい娯楽とセックスで堕落した。

第1次世界大戦において、ドイツ軍が占領下のベルギーの軍隊生活を、「売春をしている女性と少女の大量供給に驚いた」と公表された。彼女らの不幸を恥じさせる軍国主義の体系的な残酷さを示唆した。生計を立てるための他のすべての方法を奪われた哀れな女性たちは、単に他の選択肢がなかった。空腹で死ぬ、さらに残酷なのは、狂気の大虐殺のために命を危険にさらし、命を犠牲にしたり、不自由になった。悲惨なのは、女性と少女の精神的苦痛であり、最大かつ最もひどいのは、占領地で極貧に陥った女性の苦しみであった。
 ドイツ軍はベルギー占領して、売春を容認し、すぐに兵士たちはブリュッセルを安っぽい娯楽とセックスの堕落した都市と見なした。ベルギーのドイツ軍司令官は、売春宿と売春の存在を擁護し、ドイツ政府に、ブリュッセルでの「深刻な精神的および肉体的緊張」から回復するために、戦場兵士がリラックスする必要があると報告した。
 ドイツの警察による監視を逃れて、売春婦の数を知ることは困難である。1917年7月までに、ブリュッセルとルーバンでドイツ当局は約3,855人と記録した。戦前の少なくとも4倍であった。女性と少女は、生活費が上昇し、失業が蔓延して、貧困によって売春を余儀なくされた。
 イギリスでは売春は違法であり、男性に性感染症が蔓延しないように、軍は公式に禁欲を助言した。売春宿が法的に許可されたフランスの売春婦を訪ねる男性兵士を阻止できなかった。1918年3月には、イギリス軍がフランスで少なくとも2つの売春宿を運営した。売春は、戦闘地域の近くでも広まった。3人の若い売春婦が、戦場で埋葬された男性の体と取引を定期的に行っていた。
  東部戦線では、長年の占領、戦争の荒廃、民間人の貧困化により、多くの女性が売春に転向を余儀なくさた。売春は、東ヨーロッパを崩壊したドイツ軍の支配下で屈辱的な搾取であった。占領下のヨーロッパの東西の至る所でドイツ軍は、将校と兵士とは別々の売春宿であり、女性売春婦に健康診断を強制して、軍隊は男性兵士の性病を防いた。軍隊で毎週健康診断が行われ、兵士には感染を保護する軟膏が与えられ、兵士たちにコンドームの使用が奨励された。
  ドイツの民間人も影響を受けた。ドイツ帝国では違法であったが、特定の大都市では容認され、規制された売春は、戦争中に大幅に増加した。ベルリンだけでなく、軍事的基地の小さな村でさえ、女性に対して緩んだ道徳が散見された。経済により、性的慣習の変化に影を落とした。
 戦時中の緊急事態に対する必要性から、ロンドンでは無認知の非摘出の出産が第一次世界大戦で約35%の増加し、パリでは約28.6%が増加した。伝統的な宗教的および家父長制の社会が崩壊して、乱交が増加した。1914年8月末に、イギリスの政権獲得の女性雑誌は、軍隊の訓練基地を散策している女性による性的違法行為を「国民の恥」と見なして、「若い兵士の保護」を求めた。基地の近くで飲んだり浮浪する女性は「​​本当のスキャンダル」とした。避妊の知識は、農村地域にも広がった。第一次世界大戦は、英国社会と富裕階級にとってビクトリア朝時代の終結を示した。

 愛人が何ヶ月も何年も行方不明となり、不運の瞬間に殺害されて、結婚以外の永遠の忠実さと純潔の慣習と矛盾した。多くの男性と女性にとって、性的充足への憧れは、少なくとも戦争の間、道徳的規範から切り離された。不法出産と性病の増加の危険が現れ。イギリス軍では1918年までに約10,000人から約15,000人の男性兵士の能力を失った。ドイツ軍では、男性兵士の約1%が1917年2月から3月に性感染症の治療を受けて、インフルエンザと肺炎に次いで3番目に多い病気となった。

 


2020年9月26日土曜日

広島原子爆弾の被爆者が1945年10月6日に、爆心地が南東約460mでも残存した袋町国民学校の救護所で外来治療を受けていた。

広島原子爆弾の投下して炸裂により、被爆者が袋町国民学校に救護された。被爆者が1945年10月6日に、袋町国民学校で外来治療を受けていた。わらのマットが敷かれて、ロープで蚊帳を引き上げて仕切って、外来患者は救護された。爆心地から約460mの袋町国民学校救護所には、原爆症の治療を受けるために並ぶ被爆者の列は後を絶たなかった。袋町国民学校の1階に急造の外来診察室が設置されて、窓はまだムシロで、荒縄で蚊帳を釣り上げて、ハエと蚊などを避けた。蚊帳の中に、入院患者を収容していた。しかし、多くの被爆者たちが死亡して、生き残っても、原爆症の後遺症に苦しめられた。

 1873年から開校した袋町国民学校は、広島原子爆弾の爆心地から南東に約460mにあった。8月6日に登校していた児童と教職員の約160人が重度に被爆してほんどはど一瞬で原爆死した。すべての木造の校舎は倒壊して焼失した。第二次世界大戦の前に鉄筋コンクリートで作られた西校舎だけは、広島原爆投下した後も校内で唯一の建物として残った。外観だけ留めた西校舎は、被爆直後から救護所として使われた。残存した袋町国民学校は10月5日から救護所が整備されて、日本医療団病院として、袋町救護病院が発足した。広島市内の救護所も合計7カ所に整備された。救急臨時救護所は、戦時災害保護法に基づいては2カ月間は運営された。10月5日時点で11ヵ所で、入院患者は約500人と入院患者は約1,200人に達した。

 家族や知人が、被爆者の消息を求めて西校舎に、連絡手段の代わりに伝言を壁に書いた。階段の壁面には、チョークで被爆者の消息を尋ねる多数の伝言が残されていた。2000年に、西校舎の建て替えのために解体した時に、救護所であった壁の漆喰や黒板から多くの被爆伝言が発掘された。2002年に西校舎の一部が、平和資料館として残存されている。袋町国民学校は、木造校舎は全焼全壊するも、鉄筋コンクリートの西校舎だけは倒壊だけは免れた。救護された被爆者は、白壁に焼跡の消炭で、「ミチコどこへ行った、母が来た」というような肉親を探し求めた多くの跡が残っていた。被爆者の書き置きが、救護所の壁の左の上部に残った。当時救護所として利用されていた校舎の壁や黒板に、家族などの行方を捜す多くの人が伝言を書いた。学校近くの病院に勤めていた娘を探す母が、「田中鈴江 右ノモノ御存知ノ方ハお知らせ下さい」と書き残している。「高一 瓢文子ガ火傷シテ・・・治療ヲ受ケテヰマス・・・」と担任が、被爆した生徒を伝言した。




2020年9月25日金曜日

アメリカ軍の太平洋戦争の司令官のマッカーサーが、フィリピンのバターン半島で両手を腰に当て日本軍兵士の死体群を見下した。

太平洋戦争において、日本軍の侵攻によって、アメリカ軍が1942年にフィリピンのバターン半島から撤退した。再び、アメリカ軍は1945年2月22日にフィリピンのバターン半島まで戻って来た。1945年2月にフィリピンのバターン半島の日本軍を撃ち破って殺害して、コレヒドールを再占領した。アメリカ軍の太平洋戦争の司令官であったマッカーサーが、両手を腰に当てて日本軍兵士の死体群を見下した。日本軍兵士の死体が、重なり合って散乱して横たわった。

 コレヒドール島の奪還の戦いが1945年2月16〜28日まで勃発した。日本軍は、破壊的な火炎てでも、各陣地を死守した。アメリカ軍の猛攻撃に追い出されるのではなく、必死にトンネルの多くを爆破して自殺した。2月21日にアメリカ軍は、サンバレス山脈の丘から強力な日本軍を大量に殺害して占領した。2月23日の夜に驚異的な爆発が、コレヒドール島全体を揺さぶった。すぐ近くで爆破されたアメリカ軍に多くの犠牲者が出るも、個々の洞窟を片付ける掃討を軽減した。2月27日までに、アメリカ軍はコレヒドール島完全に掌握して、2月28日にコレヒドールの戦いの終結を宣言した。12日間にわたり悪質で流血した戦いとなった。約4,700人の日本軍兵士が全滅した。わずか数人が捕虜になった。

 1944年10月20日、アメリカ軍がフィリピンのレイテ島に上陸した。その日、マッカーサーはラジオ番組で、「フィリピンの人々、私は帰ってきた!」と宣言した。1945年1月、アメリカ軍部隊はフィリピンのルソン島に侵攻した。1945年2月にフィリピンのバターン半島の日本軍は撃ち破れて、コレヒドールを再占領した。フィリピンの首都であるマニラは3月に陥落した。6月にマッカーサーはルソン島への攻撃の完了を宣言した。散発した日本軍の抵抗は戦争の8月の終結直後も継続した。1942年3月にマッカーサーが残したアメリカ軍兵士の約3分の1だけが、再帰還を見届けるまで生き残った。捕虜であったアメリカ軍に対して、「少し遅れました」と「しかし、我々はついに来また。」と伝えた。 


 
2020年9月25日 Japan No War (JNW) 
日本平和の市民連盟 視聴回数 450,000回

2020年9月24日木曜日

太平洋戦争におけるサイパン島の戦いで、砲弾により塹壕の穴に山積みになって、死んだ多くの日本軍兵士の死体が散乱した。

サイパン島の戦いで、砲弾により塹壕の穴に山積みになって、死んだ多くの日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍はサイパンで定期的なバンザイの攻撃で殺害された。日本軍の激しい抵抗にもかかわらず、アメリカ軍はサイパン島を占領した。日本軍兵士は日の丸の旗に「七生報国」と記して、「6回戦死しても、7回生まれ変わって国に報いること、天皇陛下のために死ね」と信じこんだ。

 サイパン島の戦いの終末期は、1944年7月6日の夜明けから、アメリカ軍は攻撃を再開して勝利を感じ始めた。サイパン島の大部分を占領して、日本軍の防御は依然として厳しいものの、調整されず分裂して着実に弱体化した。アメリカ軍は深い峡谷を攻撃して、日本軍は激しい砲撃を受けて、日本人の身体と四肢は巨大な爆発で四方八方に飛び散った。アメリカ軍はさらに侵攻して、7月27日からサイパン島で最後の重要なタナパグ町を占領した。アメリカ軍部隊の砲兵隊はマッピ岬を射撃するために背後に配置された。
 日本軍兵士らが外で集まり、ライフル、剣、そして竹の槍で武装した。月明かりの下で部隊に分けて出撃した。サイパン市民を含む約3,000人以上の日本人が沿岸平野に入った。日本軍が叫び声を上げて攻撃を合図して、尾根からライフルの発砲があった。日本軍兵士は指揮を待たずに。海岸からタナパグ町に向けて突撃した。アメリカ軍は、日本軍から襲撃が来るのを事前に知っていた。捕虜の日本人が日本軍の意図を漏らし、夜明け前にライフルや槍を運べる全ての日本人による全面攻撃を漏らした。日本軍はアメリカ軍大隊を襲撃して、約650人のアメリカ軍兵士を殺傷した。日本軍部隊は曲がりくねった峡谷を通って突撃したが、アメリカ軍に排除されて壊滅した。アメリカ軍のタナパグ町の街路を襲撃する日本軍に、巡洋艦が海岸から砲弾を投げ込んだ。アメリカ軍の砲兵隊は、動いた日本軍兵士を射撃して海岸に追い込んだ。アメリカ軍は圧倒的な武力で対抗して、多くの日本軍兵士の死体群をすり抜けた。
 アメリカ軍は防衛する日本軍を仕留めるために、8月7日午前11時30分から攻撃して掃討した。約100人の日本軍が抵抗する洞窟を見つけ、ついに午後6時30分頃に掃討した。8月8日と9日の終日に、無秩序な日本軍部隊が侵入した洞窟を調査して発見した。7月9日にマッピ岬を見下ろす尾根と海に面した崖壁を確保した。マッピ岬では、のこぎりのように刻んだサンゴ岩の海岸から約253mの高原で、約5,000人の日本人の男性、女性、子供たちを捕獲した。アメリカ軍に対する死と永遠の恥を恐れて、民間日本人は自殺し始めた。家族全員が海に飛び込み溺死した。自殺の乱交は7月12日まで続いた。民間日本人は、日本軍のプロパガンダによって洗脳された。アメリカ軍の残虐行為の恐怖の話を信じて、サイパン島のマッピ岬の崖から自分たちと子供たちを投げ飛んで自殺した。アメリカ軍は介入することができず、民間日本人が下の岩に溺れたり倒れたりして命を落とすのを無力に見守るとかなかった。アメリカ人は死者は約3,225人、負傷者は約13,061人、行方不明者約326人が犠牲となった。日本の損失はさらに大きかった。アメリカ軍は約23,811人の日本軍兵士を殺害して、約921人の日本軍兵士と約838人の韓国人を含む約1,780人を捕虜とした。

 

Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 2020年 9月24日にBlogger投稿数は1,500回に達した。

2020年9月23日水曜日

太平洋戦争のマニラの戦いで、1945年2月3日にがれきの中で、 女性と子供らの死体が散乱していた。

太平洋戦争におけるフィリピンのマニラの戦いで、マニラは日本軍だけでなく、アメリカ軍とフィリピン軍からも容赦ない攻撃を受けた。戦闘によってフィリピン人の婦人や子供などが無差別に殺害された。1945年2月3日にがれきの中で、 女性と子供らの死体が散乱していた。太平洋戦争中に、フィリピンの都市と田舎は戦闘によって爆撃されて廃墟になった。 日本軍がフィリピンからの撤退中に、フィリピンの特に港湾都市であるマニラで、無実のフィリピン人市民が戦闘に巻き込まて殺害された。多くの非武装のフィリピン人市民が戦闘に巻き込まれて殺害された。マニラでは、男性、女性、子供たちは、路上や個人の家、教会、病院、学校が破壊されて、戦闘によって虐殺された。マニラ市内のほとんどの建物が戦闘によって破壊された。フィリピン人女性たちは日本軍に虐待されたり、拷問されて、虐殺された。「東洋の真珠」と呼称されたマニラは廃墟となった。

 1945年2月3日から3月3日までのフィリピンの戦いは、アメリカ軍とフィリピン軍が、日本軍に対して戦闘をした。約1か月間に及ぶ戦いは、ひどい血まみれと都市の完全な荒廃に至った。太平洋戦争で最悪の都市戦闘の一つの戦場となった。フィリピンでの1942年から1945年まで約3年間の日本軍の占領が終結した。アメリカ軍は、約1,010人の戦死と約5,565人が戦傷して、日本軍兵士は約16,665人が戦死して、約120,000ものフィリピン人が殺害された。日本軍のフィリピン司令官は、日本が降伏後に軍事法廷で裁判にかけられて、1946年2月23日に絞首刑にされた。フィリピン共和国の大統領博物館と図書館によると、「1945年2月に日本軍がマニラの民間市民に犯した虐殺は、太平洋戦争における悲劇の1つです。マニラ市では約10万人の市民が無差別に、そして故意に殺害された。その多くは日本軍によって残忍に殺害されて、他のフィリピン市民は市内の一部を襲った火災で殺されて、さらにアメリカ軍の砲撃などに巻き込まれて殺害された。アメリカ軍は約42,000もの砲弾を使って建物の上層階を吹き飛ばして瓦礫にして、あるいは炎上させた。アメリカの無慈悲な銃の猛攻撃により、コンクリートの壁の柱を粉砕して隙間のある壁を切り裂き、建物の鉄筋を露出させた。

 全滅して生還できない狂気となった日本軍兵士は、数え切れないほどの女性を強姦して、拷問をして、赤ん坊を空中に放り投げて、銃剣で突いた。患者と医師は病院で刺され、修道女と司祭は教会で絞首刑にされ、子供たちに手榴弾で穴に投げられた。日本の軍隊は略奪すると、修道院、学校、刑務所で生きているフィリピン人を火傷させて、他人を生き埋めにした。日本軍は2月9日に疑わしいゲリラに対する個別の攻撃から組織的な大量絶滅へと移行した。

 


 

2020年9月22日火曜日

1946年の戦争犯罪裁判において、南京の大量埋葬地から白骨の一部が、審査のために中国軍の士官によって掘り出された。

1946年の戦争犯罪裁判において、南京の大量埋葬地から白骨の一部が、審査のために中国軍の士官によって掘り出された(日中戦争の真実を保存する同盟、No.43)。 南京は日本軍により1937年12月13日に占領された。わずか約6週間にわたる南京における大虐殺と蛮行が英語版で暴露された。 中国系アメリカ人のアイリス・チャンが、徹底した南京の欧米人からの調査資料、南京大虐殺の記録と写真を確保して、生存者の調査を通じた証言から、1997年に英語版の本書「The Rape of Nanking、(ザ・レイプ・オブ・南京, 同時代社)」を発刊した。南京大虐殺を忘れられたホロコーストと呼称した。「市民は、このような大量虐殺を受け入れ想像すらできないこの事件について受動的傍観者になった。それは最も悲惨な教訓だった。」欧米の第二次世界大戦の大著の中で、南京大虐殺が一節に記載されたのはロバート・レッキー「第二次世界大戦の伝説」のみであった。

 日本軍は全ての目立つ南京の中国人を捕獲して、食べること飲むことも与えずに、数日間ほど抑留した。その後に中国人の捕虜たちを捕縛して連行した。 反抗もできずに、空腹で疲弊した中国人は、食事と安楽を期待して行進した。しかし、日本軍兵士が、機関銃、血剣と銃剣で殺害した中国人の死体を見た時には、逃避するには既に遅かった。日本軍は、虐殺は食糧が枯渇して、兵士の命を維持することも困難であり、中国人捕虜が反乱を起こす危険性から致し方ない事件とした。しかし、武器も反乱も起こせない無実の南京市民の虐殺を言い訳できない。採掘場の土嚢から抜け出し、揚子江の冷たい葦で身を隠ーして、死体の中で埋もれて銃傷だけで逃避できた生存者の一部の中国人が南京における日本軍の蛮行を暴いた。日本軍が入れない大使館や大学などの南京安全地帯に、数十人の西洋人が約20万人もの中国人難民を避難させた。

 1937年12月13日に南京を占領した日本軍は「捕虜は残さず全部処理する」方針が指令された。 「女性と子供を問わず、中国人であれば、すべて殺害し、家を燃やす」指令も受けた。捕虜を殺害すれば食糧を確保でき、潜伏して報復するのを処理した。捕虜を12人ずつに分けて銃殺した。最初の列の捕虜を斬首した。次の2列目の中国人は、断頭した胴体を川に投げ込まされた。これでは約2,000人しか処理できずに、捕虜を一列に起立させて、機関銃を乱射した。捕虜は川に飛び込むも、向かい側の岸にはたどり着けなかった。極東国際軍事法廷は、南京で約26万人の非戦闘員が死亡したと推定した。最大規模の虐殺地域は、南京の幕府山の付近で、約57,000人が殺害された。広島原爆の約14万人と長崎原爆の約7万人の被爆死亡者数を上回った。

 少なくとも2万人以上の中国人女性が強姦を受けて、残酷に虐殺された。家族間にも強姦を強要させて虐殺した。児童らは銃剣で刺殺された。日本軍が南京で運営した慰安所は、40以上も確認された。日本軍兵士が、民間人虐殺と婦女強姦、性感染症の蔓延などで、秩序が崩れて戦力低下を懸念して日本軍が設置した慰安所は、南京が最も多い都市であった。各部隊は、中国人女性を拉致したり、強制的に連行して慰安所を運営した。しかし、慰安所を設置した後も、日本軍兵士による中国人女性の強姦は繰り返された。さらに1939年4月に、日本軍は医学研究機関を設置して、Ei1644部隊が毎週140人以上もの生体実験をしては焼却した。 

2020年9月21日月曜日

日本軍兵士が最後の突撃の姿勢のままで、アメリカ軍に射殺されて砂浜を真っ赤にした死体が、仰向けに転倒して静止した。

太平洋戦争における硫黄島の戦いで、日本軍兵士が全滅することで終結した。日本軍兵士が最後の突撃の姿勢のままで、アメリカ軍に射殺されて砂浜を真っ赤にした死体が、仰向けに転倒して静止した。硫黄島の砂地を血に染めて、両軍の死体が至る所に散乱した。砂浜に掘っただけの塹壕の中で、多数の殺害された死体が寝転んだ。アメリカ軍兵士もそれに匹敵する甚大な犠牲者数を伴った。アメリカ軍は、硫黄島の黒大粒の火山灰の砂地を「地獄の土地」と呼称した。天皇陛下が長く生きる天皇陛下万歳と叫びながら、日本軍兵士が最後の突撃をした。アメリカ軍の記録には、日本軍兵士のバンザイ突撃は「天皇のために死んだ」と記載された。玉砕が由来した唐の北斉書では「大丈夫はむしろ玉砕すべきも、瓦全するあたはず。」と諭した景皓は玉砕されて、逆に生き延びた景安だけが尊厳を保持した。

 硫黄島の戦いの時期には、既に日本軍は降伏する運命がほとんど大勢は定まっていた。逆に、最後まで徹底抗戦することで、ますます最も流血して凄惨な戦闘に突入した。それに対して、アメリカ軍はますます容赦なく日本軍兵士の殺害を繰り返した。アメリカ軍は第二次世界大戦の欧州戦線に対して、太平洋戦線の約3倍の兵力を投入していた。太平洋戦争には、欧州戦線の最後の一週間前まで、余分の兵力を投入されなかった。 日本本土に空襲を繰り返して、アメリカ軍のB-29爆撃機が生還するためには、サイパン島、テニアン島、あるいはグアム島まで到達できなければ、硫黄島しか太平洋で不時着できなかった。日本軍は硫黄島を死守するために、一人でもできるだけ多数のアメリカ軍兵士を殺害することを日本軍兵士は全滅するまで繰り返した。 最後の最後には、日本軍兵士は集団で気違いじみたバンザイ突撃で自爆死した。

 硫黄島にアメリカ軍が上陸した2月19日から約26日間後の1945年3月26日に硫黄島の戦いで日本軍兵士は死決した。日本軍兵士の死者数は約18,500人に達して、わずか約216人が捕虜として生き延びた。生き残った日本軍兵士は、故郷を追放されて自分たちの生活で守ることができなかった。アメリカ軍兵士は約6,800人が戦死して、約19,200人が戦傷した。



2020年9月20日日曜日

広島原子爆弾に被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。

広島原子爆弾で自宅を焼失して被爆した夫婦が、荒廃した銀行のビルの地下室に避難して居住した。つくろいものをする主婦と力を失ったように腰をおろす主人。婦人は熱線をあびて顔面を痛々しい火傷をした。レンズに向けた悲しげなまなざし。松葉杖が痛ましい。夫婦のシャツの上には多数のハエが集る。爆心地付近の鉄筋の建物は少なく、焼け残ったのは紙屋町の広島銀行、三菱商事、野村商亊のビルのひと棟が残っていた。1945年9月中旬にライフ誌のアメリカ軍従軍カメラマンのアイヤ・マン(Jay Eyemann)が撮影した。

 広島原子爆弾が炸裂した8月6日直後には、緊急的に約11ケ所以上の救護所が開設された。その後1週間以内に広島市内では約53ケ所以上に達した。被爆者の集結場を救護所に指定した。被爆当初に、具体的な救護所や救護活動の詳細な記録は見当たらない。大病院からテント救護所や地下室救護所など格差が様々であった。『戦災誌』では被爆後1週間以内に日本銀行広島支店と1週間以後に勧業銀行跡が、残存した建造物内の救護所と記載されている。広島市内と市外で、約249ケ所の救護所が開設された。市内の救護所は次第に機能の限界を越えて、被爆者は市外へと避難した。

 原子爆弾から生き延びた被爆者は癌ややその他の病気で苦しんだ。アメリカ軍が広島と長崎に投下した原子爆弾により、被爆者は危険な量の放射線に被爆した。被爆した犠牲者の骨を調査すると、9.46グレイ(Gy)ものの放射線を吸収していた。癌に対する放射線治療では、腫瘍の局所領域に2〜3Gyを照射している。放射能の曝露のために、広島と長崎の多くの生存者が癌に苦しんだ。アメリカ軍が投下した原子爆弾から約2年後に、白血病の割合は子供たちの間で急上昇した。その約10年後には、癌の発生率は中壮年者の間で急上昇した。広島と長崎の癌患者の約10%は、高濃度の放射能の被爆から原爆症を発症した。

 

2020年9月19日土曜日

アメリカ軍兵士は、日本軍兵士が至近距離の手榴弾を隠して、突如にピンを引いて投げ込む直前に射殺した。

太平洋戦争のサイパンの戦いで、1944年7月2日の戦闘で、アメリカ軍の爆弾が日本軍の洞窟の入口を粉々にした。その後に、降伏するかのように、日本軍兵士は洞窟から出て来てつまずいた。左側のアメリカ軍兵士は、日本軍兵士に照準を当ててライフルを構えた。まだ戦闘が続いていた。日本軍兵士は至近距離の手榴弾を隠しながら、突如に投げ込もうとした。アメリカ軍兵士は、従来からの日本軍の玉砕として、日本軍兵士がピンを引く直前に射殺した。射殺された日本軍兵の死体は、洞窟から前方の地面に転倒した。

 7月2日にアメリカ軍は、石灰岩の丘で不確定で目には見えない日本軍を発見した。塹壕や洞窟に隠れて、日本軍はアメリカ軍に対して狙いを定めて小銃を発射した。伝令のアメリカ軍兵士が、戦場を駆け抜けて樹木が茂った陣地に入った。しばしばではないが、射撃を受けることなく戦場の中央の監視所への行き来が困難であった。

 アメリカ軍の犠牲者を、戦場から救出するすべての試みはより多く犠牲を伴った。日本軍の小火器だけでは、戦車の厚い車体に飛び散った。戦車を死傷者と石灰岩の丘の間に位置させて救出した。衛生兵は戦傷者をストレッチャーで移動して、急いで包帯を巻いて、モルヒネ麻薬を注射した。戦車の動きを注意深く調整して、担架を運ぶアメリカ軍兵士を護衛した。

 石灰岩の丘を占領する戦闘として、火炎放射器で、照明弾とライトを使用して丘を夜間襲撃した。アメリカ軍のライフルと機関銃が丘を監視し、隠れて突撃する日本軍兵士を射撃して、丘に向けて火炎放射器を放射した。火炎放射器でくすぶった丘には、ある程度の成果はあった。サイパン島の石灰岩の崖にまで至ると、日本軍は全滅するか洞窟が封印されるまで、アメリカ軍を悩殺されて苦難を引き起こした。最後に死ぬまで日本軍兵士は撤退せずに、アメリカ軍を遅延させる任務を遂行した。

 


2020年9月18日金曜日

神戸市民がアメリカ軍による無差別の焼夷爆弾による大空襲に巻き込まれて、多くの黒焦げに焼死した死体が散乱した。

第二次世界大戦末期にアメリカ軍は、神戸市と周辺地域に対して無差別な焼夷爆撃を繰り返す大空襲を行った。神戸市民が無差別の焼夷爆弾による大空襲による大炎上に巻き込まれて、多くの黒焦げに焼死した死体が散乱した。特に、1945年3月17日に西神戸の兵庫区や林田区などに大空襲されて壊滅した。1945年6月5日に東神戸と阪神地域の市町村は広範囲な大空襲で壊滅した。神戸の被害地域は約21%も達した。総計の罹災者は約530,858人以上のうち、死者は約7,491人以上、負傷者は約17,002人以上と想定された。空襲の被害者を人口密度と面積の比率では、東京大空襲よりも最悪となった。
 神戸と周辺地域は、1945年1月3日から1945年8月15日までに約128回もの空襲を受けた。日本本土に対して2月4日から初めて神戸に無差別の焼夷爆弾が投下されて炎上した。B29爆撃機から投下された焼夷弾が燃え上がると、その炎上を目標に次々に焼夷弾を投下した。地域が炎上に囲まれて、脱出路が塞がれた市民が焼殺された。焼夷弾は落下すると、含まれたナパーム弾が火を吹きながら滝のように落下した。

 神戸の空襲から、アメリカ軍は従来の軍事施設や軍需産業への空襲から、焼夷爆弾による無差別の空襲に転換した。2月25日に東京の無差別空襲から全国の都市に繰り返された。3月10日の東京大空襲から各地の都市部に無差別の焼夷爆弾が投下されて大炎上した。 終戦までに被災した都市は、全国206都市のうち81都市に達した。

 


 

2020年9月17日木曜日

タラワの戦いで守備していた約4,500人の日本軍兵士は、アメリカ軍に対抗するも、捕虜となった17人を除いて全員が死滅した。

太平洋戦争において、1943年11月21日から勃発したタラワの戦いは、4日間におよぶ悲惨で残酷な戦闘になった。タラワの戦いで守備していた約4,500人の日本軍兵士は、アメリカ軍に対抗するも、捕虜となった日本軍兵士17人を除いて全員が死滅した。

 日本軍兵士は、爆弾の落下した場所、爆弾によるクレーター噴火口と既存の塹壕で殺害されて死体が散乱した。多くの場合、アメリカ軍の犠牲者は、日本軍兵士や韓国労働者の死体と混ざっていた。以前は人間であった体が、ねじれたしこりの死体となった。水に浮かんでいる死体、半水没した死体、砂浜では無理な体勢の死体がゆがんだ。日本軍からの反撃はなくても、いたるところに自決の死体が散乱した。わずかに生存した日本軍兵士は戦車に轢かれ、火炎放射器により焼死した。  タラワの戦いは、ギルバート諸島内でタラワは最大の環礁であった。日本軍が所有する領土を侵略するアメリカ軍の侵攻であった。タラワの戦いは1943年11月20日に始まり、アメリカ軍はタラワ環礁内のベティオ島に着陸した。アメリカ軍は北に160kmのマキン島にも着陸した。メイキン島では日本軍の防御勢力が軽微であり、アメリカ軍の犠牲は少なくなった。
 しかし、ベティオ島に強固に駐留している日本軍の防御により、タラワの戦いを損失のかかる約76時間もの戦いに変えた。ベティオ島の約4,500人の日本軍の防衛軍隊は、強固な要塞の背後からアメリカ軍に頑固に反撃した。爆撃機と戦艦からの砲撃と銃撃により、アメリカ軍は一度に1つずつ日本の防衛陣地を根絶した。11月22日から23日の夜に、アメリカ軍は日本軍の最後の突撃を破った。そして最後の日本の守備隊を絶滅した。貴重な拠点であるタラワ環礁では、約1,000人を超えるアメリカ軍兵士の命を奪い、その2倍の戦傷者を出した。日本軍はベティオ島で約3,000人以上もの犠牲者を出した。推定約1,000人の韓国人労働者も死亡した。
 アメリカ軍海兵隊による日本軍の推計では、日本軍兵士は1943年11月20日では約4,836人が駐屯した。タラワの戦いで殺害された日本軍兵士は約4,690人であった。アメリカ軍に捕虜となった日本軍兵士はわずか約17人と韓国強制労働者が約129人であった。約18,000人のアメリカ軍の犠牲者は、約1,009人が戦死して、約2,101人が戦傷した。

 

2020年9月16日水曜日

第二次世界大戦でベルリンは連合軍から大空襲を受け、爆撃と爆撃の合間に、市民は空襲で犠牲になった死体を運搬して埋葬した。

第二次世界大戦にて、ドイツの首都ベルリンは連合軍からの大空襲を受けた。爆撃と爆撃の合間に、ベルリン市民は空襲で犠牲になった死体を運搬して埋葬した。第二次世界大戦では、約410,000人のドイツの民間市民が連合軍の空襲によって殺害された。1944年7月から1945年1月までの間に、毎月平均13,536人が死亡した。ベルリン空襲では約35,000人の民間市民が、連合軍の爆撃によって殺害された。ハンブルクだけでも、空襲で約49,000人の民間市民が殺害された。1945年2月1日から14日までの夜間に行われた1回の空襲の間に、ドレスデンで約20,000人以上の民間市民が殺害された。しかし、連合国の戦略爆撃は、都市市民だけでなく、地域の市町村の市民も犠牲になった。
 ナチス・ドイツ軍は、西部戦線と東部戦線が1943年頃から崩壊を始めた。イギリスの爆撃機の編隊が、ベルリンやドイツの重工業都市などに空襲した。西部方面は、連合軍が制空していた。たび重なる空襲を受けるドイツ市民は疲弊して犠牲者となった。1944年になると、連合軍によるドイツ市民に対する無差別な空襲がますます激化した。ドイツ国内の軍事施設や工場だけでなく、都市の周辺地域まで空襲された。1943年10月の夜間襲撃で、ベルリンでは約40万人が、ハノーバーでは約25万人がホームレスとなった。1944年3月には約150万人がホームレスとなった。その他に、連合国の爆撃機が多数の都市や地域を追加するたびに、空襲警報により市民が深夜に地下壕や地下室に潜んだ。終末期には、西ドイツだけでも約400万人以上が避難する難民となった。
 連語国の空襲して工場を爆破するも、戦争の末期まで生産性の向上により、ドイツの工業生産には大きな影響が及ばなかった。ドイツ人の産業労働者には、空襲を受けても、特別な食料と配給が提供された。連合軍の空襲の目標は、ドイツ国民の士気を弱め、不安と反乱により、政権の根幹を揺さぶることであった。一部では政権の支持率は低下するも、緊急事態が市民とナチス・ドイツ政権を強制的に結束させた。全体主義体制下では、市民に対する極秘の監視、ゲシュタポまたは潜在的な情報提供者が常に存在していた。破壊された社会資源、爆撃により家や財産を失った市民に対する供給の不足または遅延は、国民が次第にナチス・ドイツ政権を懐疑した。


2020年9月15日火曜日

日本軍と警察隊は、逃亡をする台湾原住民の幹部らを縄で捕縛して懲罰を加えて、母親と子供は父親の拘束の解放を泣いて念願した。

日本軍と日本警察隊による台湾討伐にて、トバカー方面の台湾原住民を拘束した。拘束されてから、台湾原住民らに勧告して銃器を拠出させた。一部は賛同するも、一部の反抗者は銃器の拠出を拒絶して、暴動を起こした。日本軍と日本警察隊は、暴動する台湾人に懲罰を加えた。逃亡をする台湾原住民には、その幹部ら数名を縄で捕縛して、懲罰を加えた。拘禁された台湾原住民の父親に、母親と子供らは近づいては泣きながら、捕縛を解放を念願した。

 日本軍と警察隊は、いくつかの台湾の原住民をすでに地面に横たわらせて、手は縛り、鼻と口は地面に押し付けた。また、2、3歳の子供が憂鬱な顔で地面に座って、子供を抱いた母親もいた。日本軍と警察隊は、台湾部族の原住民を一緒に束ねた。台湾原民族の一部はすでに背中の後ろに手を縛られて、地面に横たわった。日本軍と警察隊が台湾原住民を握っている間に、鼻と口は地面に押し付けられた。武器は脇に押収された。タロコ族(太魯閣族)は、台湾の東部に居住する台湾の原住民の一部族である。日本人の入植が始まるとタロコ族と日本人移民との間で紛争が勃発した。1914年に台湾のタロコ族が、日本軍に武装蜂起した太魯閣戰爭が1914年5月17日から8月28日まで勃発した。台湾島での最大の戦闘となった。日本軍と警察隊により平定された。日本軍兵士の約13,335人のうち約364人を損失して、タロコ族の青壮年の約2,350人から約3,000人のうちで犠牲者数は不明である。

 1913年度からの台湾戦略に伴う新竹(キナジー)方面の台湾討伐は、当初は日本警察隊により実施された。宣蘭の方面の渓頭や南海の台湾で相次いで反乱が発生した。日本警察隊の形勢が危機的となった。その時点から日本軍の軍隊は、これらの反抗する台湾民族を掃討する任務で急遽に台湾に向けて侵略した。日本軍の討伐隊は、台湾の宣欄の濁水と渓上に主力を集結した。日本警察隊は協力して、台湾討伐する日本軍に従った。両部隊は台湾民族に対して向かう所敵なく、ガオガンの険要を衝いて中央山脈の一帯の険峰を蹂躙した。キナジー方面に肉薄して、ついで新竹と桃園方面の日本警察隊と連携した。予定方面の討伐を完了した。さらに日本の台湾討伐隊は、新たにシカヤブ・サオラ方面にも躍進して、台湾原住民を屈服して討伐を終結した。約60日余りの戦闘の期間で、日本陸軍と日本警察隊の両部隊が協力して、約80地域の台湾民族を制圧した。台湾原住民の武器などを押収して、北部の台湾原住民の大部分を征服した。




2020年9月14日月曜日

20歳のアメリカ軍兵士はケサン近郊のジャングルで北ベトナム軍に殺害されて、生存した兵士らがその死体だけを必死で護送した。

ベトナム戦争が激化していた1968年2月25日に、20歳のアメリカ軍兵士はケサン近郊のジャングルの中で北ベトナム軍に待ち伏せられて殺害された。生存したアメリカ軍兵士らが集まって、その死体だけをジャングルの下草を引こずりながら必死で護送した。

 2月25日朝に、アメリカ軍の約40人の小隊は、ケサン戦闘基地の外でパトロールをしていた。北ベトナム軍の待ち伏せに誘い込まれて襲撃された死体。約40人うちで約24人が殺害された。そのジャングルの中から前哨基地まで護送できた唯一の死体となった。 

 ケサンのアメリカ軍部隊が、前哨基地の付近で待ち伏せされた攻撃された。若いアメリカ軍兵士はすでに戦死して、彼の部下の兵士らは絶望的になった。彼らは死体の手首と足首を持ち上げて、ジャングルから引きずりながら、顔をしかめて前哨基地まで持ち帰った。彼らの一人は、将校の腹部の傷の近くに出血した布を見下ろした。茂みからすぐ後ろのアメリカ軍兵士は、ヘルメットなしで死体を護送した。

 撮影した戦場カメラマンは、写真を出版社に送信した後に、ケサンに戻ろうとした。1968年3月6日にダナンからケサン行きの航空機に乗り換えた。ダナンで航空機には、兵士と装具を載せて、戦場のカメラマンを含めて約40人が乗員した。航空機がケサンに近づいて墜落して、機内の約40人全員が死亡した。戦場カメラマンの写真は、3月18日に「ケサンの苦しみ(The Agony of Khe Sanh)」と表題して、ニューズ・ウィークに掲載された。

 ベトナム戦争にて、1968年から1月21日から7月9日まで、北ベトナムとの国境付近でケサンの戦いが勃発した。 北ベトナム軍が包囲して、ケサンの戦闘基地を巡って攻防をした。アメリカ軍は、北ベトナム軍の包囲を解除した後に、ケサンの戦闘基地を爆破して南ベトナムに撤退した。アメリカ軍は、ケサンの戦闘基地で約6,000人のうち、約274人が戦死して、約2,541人が戦傷した。北ベトナム軍は約17,200人のうち、推定で約1,602人の死体が認められて、犠牲者は約5,550人と想定された。

 


2020年9月13日日曜日

第一次世界大戦において、セルビア軍兵士とセルビア人が大退却する途上で、積雪に転倒した仲間のセルビア人の死体を見守った。

第一次世界大戦において、セルビア軍兵士とセルビア人が1915年12月に、大退却するグレート・リトリート途上で、セルビア軍兵士が積雪に転倒した仲間のセルビア人の死体を見守った。1915年10月に、オーストリア=ハンガリー軍、ドイツ軍、ブルガリア軍がセルビアへ共同侵攻を開始した。その砲撃と武力で非常に激しい侵略となり、1915年11月25日からセルビア軍部隊は、領土を放棄して、モンテネグロ、そして最終的にはアルバニアへと撤退することを決定した。

 約40万人ものセルビア軍兵士と民間セルビア人が一緒に撤退した。天候は悪化して、道路は泥だらけで、特に冬期は、特にアルバニア山脈を通過するセルビア軍にとって非常に過酷な退却となった。 食料と水が不足し、病気も蔓延した。約77,455人以上ものセルビア軍兵士と約160,000人の民間セルビア人が、アルバニアを経由しての退却中に、主に飢餓、喉の渇き、病気、低体温症で死亡したと推定される。不毛のアルバニア山脈を通って退却するセルビア人に想像を絶する恐怖をもたらし、第一次世界大戦でも最大かつ最も悲劇的な惨事となり、アルバニア・ゴルゴダと呼称された。

 厳しい焼きと厳寒の中で、退却する道も失ったアルバニア山脈に数週間も徘徊して、残存した死体が散乱する恐怖の痕跡を残した。1916年1月18日にわずか約12万人のセルビア軍兵士と約6万人の民間セルビア人のみが、アドリア海からギリシアのコルフ島に避難できた。上陸したコルフ島でも約11,000人以上のセルビア人が病気、栄養失調、戦傷で死亡した。第一次世界大戦中に、セルビア人は約1,247,435人が死亡して、総人口の約28%を失った。そのうち約402,435人のセルビア軍兵士が、戦傷や伝染病で死亡した。



2020年9月12日土曜日

原子爆弾の爆心地に近いほど、母体内で原爆放射線に被爆した胎児は、胎児期から乳児期までの死亡率と知的障害の発現率が増加した。

原子爆弾が炸裂時に、母体内にいた胎児も被爆して、様々な影響を受けた。その中で被爆によって、多くの妊婦が死亡して、胎児の死亡、胎児の流産も認められた。妊娠中に被爆して出産した子供は、体内被曝児と呼称された。母体内で被爆した子供の人数は不詳である。1960年にABCC(原爆傷害調査委員会: Atomic Bomb Casualty Commission)は、体内被曝時の人数は、広島で2,310人、長崎で1,462人で、合計3,872人と報告した。

 長崎市内の爆心地から0〜2km以内の妊婦96人と4〜5kmで被爆した妊婦の113人とを比較して経過観察した。 0〜2kmで被爆して放射能症が発症して妊婦は、胎児死亡率は約23.3%、新生児の死亡率は約26.1%、知的障害の発現率は25%であった。4〜5kmでは胎児死亡率は2.7%、新生児の死亡率は3.6%、知的傷害の発現率は0%であった。爆心地の近いほど死亡率と発現率が急上昇した。

 長崎原子爆弾の爆心地から0〜2km以内で被爆して急性放射能傷害があった妊婦のうちで、7人が胎児の死亡、6人は新生時以降に死亡、残る16人の内でのうち4人に知的障害を伴った。知的障害は特に小頭症を合併した。頭囲が平均値に比較して、2標準偏差以上に 狭小であった。3標準偏差以上に狭小であるほど、知的障害が重度で、社会生活機能が低下した。

 広島原子爆弾の胎児被爆児では小頭症が48例と長崎原子爆弾で約15例を認定された。知的障害を伴う重度の小頭症は、約3〜15週間に被爆した胎内被爆時に多く発現した。被曝線量の増加に、発現率が相関した。特に広島原子爆弾では、小頭症児の母親が比較的に低線量閾値でも発現した。広島原子爆弾による被爆した初期の放射線量に中性子線が多いことが想定された。



2020年9月11日金曜日

ドニエプル川の戦いで、ドイツ軍に虐殺されてた子供の死体がドニエプルの東岸に流れ着き、ソ連軍兵士が見守った。

ドニエブルの戦い(Battle of the Dnieper)で、ナチス・ドイツ軍は1943年の夏にドニエプル川を難攻不落の戦線として、ソ連軍の反撃を阻止しするも敗北した。スターリングラードの戦いとクルスクの戦いで、ドイツ軍の戦争の敗北の流れに反転した。1943年の夏のウクライナにてクルスクの戦いでの敗北した後に、ドイツ軍は最終的な戦争の主導権を失って、急速に西側に撤退を始めた。すでに8月11日はクルスクのバルジでの戦闘が終結する前に、バルト海からアゾフ海への東部の防衛網の設置を命じられた。
 ソビエト連邦の主要な河川であり、最長約1,400kmで幅が最大18kmにも達するドニエプル川流域を東部の防壁とした。ドイツ人が西側に足場を固めると、ソ連軍は難攻不落の水障壁の前で立ち往生して巨大な犠牲を伴う。ソ連軍もクルスクの勝利後に、可及的に早期にドニエプルに移動を命じられた。クルスクの戦いの3日後の8月26日に、ソ連軍はスモレンスクからアゾフまで約750kmの戦線に大規模な攻撃を開始した。ドイツ軍はドニエプル川を西側に渡って、すべてのものを急いで避難させ、その地元住民を強制連行した。ドイツ軍の連行されたドニエプル川の地元住人の一部は虐殺されて、ある子供の死体がドニエプルの東岸に流れ着いて、ソ連軍兵士が見守った。
 ソ連軍による9月24日から空挺部隊の約4,000人以上がドイツ軍上に投下されて、分散して連携も取れず膨大な犠牲を伴った。一部の空挺部隊は、ドニエプル河に飛び込み溺死した。ドニエプル川を渡河すると、川の水が血で赤くなり、何百人もの兵士が死亡した。ソ連軍は、ドニエプル河に、何千人もの兵士が釣り船、ボート、即席のいかだ、樽、または水泳やボードや庭のベンチにしがみついて、反対側の河壁に渡り始めた。橋頭堡を守るソ連軍は、軽装備で弾薬も食料も枯渇して甚大な犠牲を伴った。10月中にドニエプル川の西岸で激しい戦闘が継続した。赤軍は構築できたウクライナの橋頭堡から侵攻して、11月6日にキエフを侵略して、12月20日にドニエプル川はソ連軍が占領した。1943年8月から12月のドニエプルの戦いは、両軍で最大約400万人の兵士が参戦して、第二次世界大戦中だけでなく、人類全体の歴史の中で最大の戦闘の1つとなった。ソ連軍は、約348,815人が戦死あるいは行方不明、約937,162人が戦傷した。ドイツ軍は、約41,907人が戦死して、約51,161人が行方不明、約157,888人が戦傷した。

 

2020年9月10日木曜日

湾岸戦争にてアメリカ軍によって射殺されて、大量出血をしたイラク軍兵士の死体が砂漠上に放置されていた。

湾岸戦争において1991年2月24日からのアメリカ軍が地上戦により攻勢した。通称「テキサスハイウェイ」上にてアメリカ陸軍第6連隊によって射殺されて、大量出血をしたイラク軍兵士の死体が砂漠上に放置されていた。
 湾岸戦争の中で残忍な虐殺が、クウェートの西約32キロのハイウェイ80で勃発した。1991年2月26日から27日の夜に、アメリカ軍は撤退するイラク軍を破壊する命令を受けた時点で、イラクは停戦を宣言した。その後にも、バクダットに向けて何千人ものイラクの兵士と民間イラク人が殺害された。アメリカ軍等の戦闘機が、非武装の車列と車両の移動を阻止して攻撃して破壊した。攻撃が終わった後に、膨大なイラク軍兵士の虐殺された死体や焦げて焼死した死体が、砂漠の道路上に散乱した。この道路は「死のハイウェイ」と呼称された。バスラに通じる別の道路であるハイウェイ8に沿ってもイラク人が殺害された。
 この悲劇的な虐殺事件の前夜の2月26日午前2時に、イラク外相がラジオでソ連の停戦提案を受け入れた。国連決議660に従って、全てのイラク軍はクウェートからの撤退を表明した。2月26日午前からイラク軍はクウェートから撤退を開始していた。しかし、アメリカ軍は「イラク軍が撤退する証拠はなく、イラク軍は戦闘を続けている。」と停戦を拒否して戦闘を挙行した。2月28日には、イラクのフセインはラジオで撤退が実際に2つの道路に沿って始まったと報道した。アメリカのブッシュはフセインの発表を残酷な欺瞞と喧伝した。
 アメリカ軍は、戦場を撤退するイラクの降伏の受け入れを拒否した。爆撃は2月26日の真夜中から始まった。最初に、アメリカ軍とカナダ軍の爆撃機がコンボイの前後を爆撃して高速道路の交通を遮断して攻撃した。アメリカ軍は、イラク人の誰もクウェートから撤退させるなと命令された。その結果、高速道路を走り抜ける車両はすべて追跡され、個別に破壊された。アメリカ軍に降伏して武装解除されたイラク軍兵士でさえ、機関銃で殺害された。その日に生き残ったイラク人兵士は一人もいなかった。イラク軍は、避難にはクウェートで押収された観光バスの大隊が使用された。
 「トラックの運転台は爆撃されて、地面に詰まった。爆撃の熱からフロントガラスが溶け、巨大な戦車が粉砕された」「撤退したイラク軍兵士の虐殺は、1949年のジュネーブ条約に違反して、その条項IIIは、戦闘以外での兵士の殺害を禁じている。」「帰国するイラク軍兵士を攻撃することは戦争犯罪である。」「ベトナム戦争でさえ、停戦後の虐殺はなかった。」「虐殺事件の最も厄介な極秘であった。」

 アメリカ軍は、イラク軍が自発的にクウェートからの撤退ではなく、血なまぐさい戦闘で追放されたと喧伝した。高速道路を爆撃した理由は、イラク軍の軍事装備を破壊するように命じられた。国境を越えてイラクに戻るのは、無実のイラク人だけではない。クウェートで民間人を虐待と虐殺して、捕まる前に国外に退去した強姦犯、殺人者、凶悪犯の集団であったと正当化した。1991年2月28日にアメリカ軍等は勝利宣言をして、敗北したイラク軍に対する連合軍の攻撃を終了した。 



2020年9月9日水曜日

北朝鮮の朝鮮革命博物館は、朝鮮戦争でのアメリカ軍による残忍な虐殺を展示している。

北朝鮮の朝鮮革命博物館(Korean Revolutional Museum, 조선혁명박물관)には、朝鮮戦争において、アメリカ軍による残忍な虐殺を展示している。北朝鮮軍がアメリカ軍と交戦して一時的に北方に撤退している期間に、アメリカ軍は朝鮮人に対して大規模な虐待と虐殺をした拷問の武器と多数の証拠写真を展示している。

 朝鮮革命博物館は、北朝鮮の平壌に1948年8月1日に設立された。金日成を称賛する朝鮮半島の革命運動を大規模に展覧している。北朝鮮議会である最高人民会議に隣接している。朝鮮革命博物館には、1860年から現在まで、特に日本帝国の朝鮮併合に対抗する抗日の朝鮮独立運動からアメリカ軍に対抗した朝鮮戦争までの北朝鮮の歴史を展示している。朝鮮革命博物館では、特に日本軍とアメリカ軍は、ナチス・ドイツ軍以上の残虐性を強調している。但し、朝鮮戦争における韓国軍の残虐性や中国志願兵の貢献は黙示している。

 「エンゲルスはかつてイギリス軍を最も残忍な軍と呼んだ。 第二次世界大戦中、ドイツのファシスト軍は野蛮なイギリス軍を打倒した。 人間の脳は、ヒトラー主義者によって犯されたものよりも悪魔的で恐ろしい野蛮を想像することができなかった。しかし朝鮮戦争では、アメリカ軍の残虐はヒトラー主義者をはるかに上回っていた。 キム・イルソン(KIM IL SUNG, 金日成, 김일성)」と金言名句として朝鮮革命博物館に掲げている。朝鮮革命博物館では、特に日本軍とアメリカ軍は、ナチス・ドイツ軍以上の残虐性を強調している。

 「優れた軍事戦略家である金日成最高司令官元帥は、朝鮮戦争の第3フェーズの戦略的政策を確立した。38度線の南に敵軍を追い込み、絶え間なく絶滅する戦いを通じて敵軍を弱体化し、最終勝利した。この戦略により、朝鮮人民軍(KPA)は1950年10月下旬とから1月上旬に敵軍の甚大な挫折に対抗して、アメリカの「感謝祭」(11月第4木曜日)の前に、アムノック川の流域における「電撃」作戦で侵攻するアメリカ軍を頓挫させた。KPAは、一時的に敵軍の占領下にあった朝鮮半島の北半分のすべての部分と、南半分の一部の地域を解放する大きな勝利の結果であった。」と、金日成と朝鮮人民軍の勝者を絶賛している。但し、朝鮮戦争における韓国軍の残虐性や中国志願兵の貢献は黙示している。

 

2020年9月8日火曜日

済南事件において、日本軍兵士は何人もの農民と子供たちを冷酷な銃剣で刺殺した。

済南事件は、1928年5月3日から日本軍により大規模な中国人の虐殺が勃発したため、5月3日の虐殺とも呼ばれる。日本軍兵士は何人もの農民と子供たちを冷酷な銃剣で刺殺した。日本軍は、満州に対して第二次北伐する国民革命軍の遠征を済南で妨害した。日本軍は海外の日本人を守るという名目のもと、日本軍を済南、青島、および交通路に、4月26日から第二次山東出兵をして5月2日に済南に到達した。北伐する国民革命軍は1928年5月1日に済南を占領した。
 両軍は済南での略奪と暴挙で衝突するも、5月3日から4日で済南での市街戦は終結した。日本軍は5月3日に国民革命軍によって設立された山東東交渉公署に軍隊を派遣して職員約16人を殺害した。日本人の犠牲は、約10人の死者と在留日本人は約12人が犠牲となった。国民革命軍は、すでに5月6日には城外に逃避して北伐を続行していた。

 5月9日から10日かけて、約15,000人もの日本軍はすでに撤退した済南に侵攻して、5月9日から10日の総攻撃により済南を壊滅した。済南の中国人は約3,600人が殺害されて、約2,400人が負傷した。それに対して、日本軍の犠牲は死者約25人と負傷者は約157人であった。5月11日に日本軍は、済南を占領した。さらに5月9日には日本政府は第三次山東出兵を指令した。済南虐殺は、中国と海外に衝撃を与えて国際的な非難で紛糾した。




2020年9月7日月曜日

朝鮮戦争の長津湖の戦いから、アメリカ軍が撤退するヘルファイヤー峡谷に、北朝鮮軍と中国人民志願軍の膨大な戦死体が散乱した。

アメリカ軍は、朝鮮半島の北東端で中国国境付近の人工湖である長津湖(Battle of Chosin Reservoir)で、1950年11月27日に初めて中国人民志願軍と衝突した。突然の奇襲を受けたハガルリ基地を全面撤退しながら体制を立て直した。朝鮮戦争の線局が不利となり、アメリカ軍司令部は、コドリ基地を経てフンナム港から38度線以南への全面撤退が決定した。アメリカ軍は、この時点で約7,000名以上の損害を出した。氷点下の気温、雪に覆われた山々、凍った道路、風にさらされた断崖が、あらゆる戦闘に襲った。

 12月3日からアメリカ軍は、ハガルリ基地からコドリ基地に向けて撤退した。約80Kmの間は とても撤退路が狭小であり、北朝鮮軍と中国人民志願軍には絶好の待ち伏せ地点となるヘルファイヤー峡谷(Hell Fire Valley)があった。アメリカ軍は、危険を伴いながら、コドリ基地を目指して退却を始めた。ヘルファイヤー峡谷で、双方は激烈な戦闘となった。撤退路を確保しないと、壊滅する危険も伴った。アメリカ軍が、山岳の北朝鮮軍と中国人民志願軍に下方から這い上がって突撃を敢行した。ヘルファイヤー峡谷には、北朝鮮軍と中国志願軍の膨大な戦死した死体が散乱した。アメリカ軍は撤退しながらも、北朝鮮軍と中国志願軍は山岳地帯からの攻撃を受けた。苦闘してコドリ基地に12月4日に到着した。その後にさらに南方に撤退して、12月11日にフンナム港に到着した。その途上では海からのアメリカ軍の艦砲射撃で、北朝鮮軍と中国志願軍の犠牲者は増大して、中国国境から遠方となり補給が枯渇して、追撃は停止した。アメリカ軍はフンナム港を破壊しながら、輸送船で38度以南に向けて撤退した。
 長津湖の戦いで、主にアメリカ軍は約1,029人が戦死して、戦病死は約7,338人、戦傷者は7,338人、行方不明が約4,582人と、犠牲者は約17,843人にも達した。北朝鮮軍と中国軍志願軍は、戦死傷者は約19,202人、戦病死が約28,945人と犠牲者は約48,147人以上にも達した。

 


2020年9月6日日曜日

重症の被爆者をトラックの荷台に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送され、重度な火傷にはガーゼや布で応急処置がされた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて広島市内で炸裂した。生命保険を取り扱う富国生命の広島支店の富国館のビルが残存して、その周辺に緊急救護所が設置された。1945年8月12日には、特に重症の被爆者をトラックの荷台上に横に並べて、富国生命の周辺の緊急救護所に搬送された。重度な火傷に対して、ガーゼや布で応急処置をされた。救護隊員は搬送の準備をしながら、心配そうに見守った。

 広島富国館は、広島市袋町に1936年に建設された地上7階、地下1階のビルであった。その当時では、広島市内で最も高層ビルであった。ビルには、保険会社である富国徴兵保険や、レストランの精養軒などが入館していた。1945年6月、NTT西日本の前身である広島電信局が地下から地上5階までを使用した。空襲警報の伝達や電報、電話業務をしていたために、日本軍部が頑丈なビルに移るよう要請した。爆心地が約330mの富国館の建物の内部は焼き尽くされたが、外部は倒壊しなかった。強烈な爆風によって、鉄骨の柱が大きく湾曲した。原爆資料館では、広島原子爆弾で電信局では約117人中で約107人が被爆死して、約10人が生存したと推定された。強固な鉄筋ビル内部で、熱線の直射を避けて、致死量の放射線被爆を免れた。戦後は富国ビルは、改修を経て1982年に解体されるまで使用されて、同じ場所にフコク生命ビルが建設された。

 近隣の袋町国民学校は木造校舎は全焼して消滅したが、広島富国館が防御壁となり、コンクリート3階の西校舎は外形のみを残して内部の被災を免れた。被爆直後から、袋町西校舎は避難所と救護所となり、階段室の壁面には被爆者の消息を知らせる多くの伝言が残っている。1999年に被爆した西校舎を建て替える時に、壁に記された文字が発見された。2002年4月に、袋町小学校の西校舎の一部が、広島市立袋町小学校平和資料館が開設された。


2020年9月5日土曜日

太平洋戦争で日本軍兵士が、アメリカ軍の捕虜になった恥辱から舌を噛んで自殺し、アメリカ軍の軍医が舌の手術をした。

太平洋戦争において日本軍兵士が、1944年6月にアメリカ軍に敗北して捕虜になった恥辱から、自殺をするために舌を噛んた。アメリカ軍の軍医が命を取り留めるために舌を手術した。アメリカ軍に捕虜になる直前に日本軍兵士は、「英雄としての死」あるいは「生き恥さらす」 しか選択肢がなかった。大本営は、日本軍兵士に投降して捕虜になる選択肢を消滅して、自殺する自決を厳命した。捕虜になることは、最も恥辱であると洗脳された。日本人捕虜が帰還した場合は、軽蔑されて死刑に処されて、さらに家族にも危害が及ぶと喧伝された。日本軍兵士は容赦なく突撃して、捕虜を拒否して死守した。

 アメリカ軍には、排日主義から日系アメリカ人を強制収容して、緒戦では日本軍兵士を報復のために憎悪して虐待と虐殺をした。太平洋戦争中に捕虜になった日本軍兵士は、わずか約35,000人であった。多くの日本軍兵士は命令される集団で捕虜となるよりも、戦死を選択した。但し、孤立して生存すると生命の保持を渇望した場合があった。第二次世界大戦にて、ドイツ軍の捕虜が約945,100人、イタリア軍の捕虜が約496,000人と比較して皆無に等しい。ソ連軍の場合は、1945年8月8日に満州に侵入してから、約60万人もの日本軍兵士を捕虜にした。抑留と監禁されて、重労働と飢餓から約6万人も死亡した。

 江戸時代の武士道の精神では、降伏よりも切腹による自害を選択した。明治になると1882年に「軍事勅語」が発布された。日本帝国に対する忠誠を絶対化した。国体の保持のために、軍事教育によって戦死を賛美して、奉安殿を設けて御真影を収めた。戦死すれば、「兵として最もすばらしい死にざまである」と名誉になった。1941年1月8日に「不名誉よりも死を選ぶ」とする戦陣訓を公布して、戦争思想を流布した。大本営は、太平洋戦争では、全員が戦死する玉砕を最終通告した。日清戦争では、日本人捕虜は一人のみであり、日露戦争では、日本人捕虜はわずか約1,626人であった。1864年から赤十字国際委員会(ICRC)が、「戦争時の捕虜に対する扱いを人道的にする必要がある」とするジュネーブ条約を提唱した。日本帝国は1886年に加盟して批准した。日本軍内では俘虜は厳罰の対象であり、1929年のジュネーブ条約の俘虜の待遇に関する条約を批准しなかった。

 

 

2020年9月4日金曜日

ポーランドのカテキス地域で、ウクライナ反乱軍により、左から3歳の男子、真中は5歳の女子、右は2歳の男の子が残酷に虐殺された。

1943年5月7日および8日に、ポーランドのカテキス地域の住民が、ウクライナ反乱軍(UPA)により虐殺された。無差別の虐殺による子供の犠牲者は、左から3歳の男子で、腕と足を骨折されて殺害された。真ん中は、5歳のポーランド人とウクライナ人の女子で、腹は鍬で引き裂かれて殺害された。右は、2歳のポーランド人で、銃剣が身体に突き刺さっていた。真ん中の女子は、父親がポーランド人だったために殺害された。母親も殺害された。その夜には、約28人のポーランド人と約2人のポーランド系ウクライナ人の家族が残忍に殺害されて、約25か所の農場が焼失した。

 1943年6月2日には、ウクライナ反乱軍はハービー村のポーランド人住民に対して恐ろしい虐殺をを犯した。多くの子供や女性を含む約250人が、今日は存在しないハービー村に攻撃されて殺害された。 ウクライナの右翼組織であるバンデライト(Banderites)は、かつてのウクライナの友人さえも殺害した。 虐殺の後には、ポーランド人の遺体は墓から掘り取り出され、野畑に散布された。

 バンディライトは、1929年に結成されたウクライナのファシストであるウクライナ民族主義組織(OUN)であった。ソ連に敵対して、ウクライナ人による死の部隊を結成して、ナチス・ドイツと協調して、集団的虐殺を実行した。体系的に民族浄化を拡大するために、反ユダヤ主義、人種差別主義、ファシスト主義をウクライナ地域な喧伝した。様々な残虐行為に関与して、犠牲者は少数民族を含めたユダヤ人やロマであった。1941年6月30日、ナチス・ドイツがウクライナを占領すると、OUNはリヴァで独立宣言をするも、拒否されて弾圧された。1943年から1944年には、OUNから派生した過激組織のウクライナ反乱軍(UPA)が、ポーランドのヴォルヒニアと東ガリシアで、ウクライナ民族浄化のために、女性や子供も含めた約10万人ものポーランド人を大量虐殺した。UPAによるポーランド人に対する残虐行為は、無差別に無制限に実行された。犠牲者は、年齢や性別を問わず、日常的に虐待を受けて虐殺に至った。

 


 

2020年9月3日木曜日

大東亜戦争にてビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。

大東亜戦争において、1944年5月にビルマのミッチーナ飛行場から、連合軍のC-47輸送機が離陸した際に、射殺された日本軍兵士のうつ伏せの死体が飛行場に放置された。左側には、別のC-47輸送機が炎上した。その約5分前に4機の日本軍のゼロ式戦闘機に攻撃された。アメリカ軍と中国軍も厳しい戦闘と気候や環境に苦闘して、連合軍の空軍の支援の下に総攻撃を開始したが、日本軍の防戦と連合軍の誤爆で大混乱するも、次第に日本軍は圧迫されて撤退した。
 日本軍は1942年5月8日に、ビルマを征服中にミッチーナを占領した。ミッチーナはビルマを北から防衛するための日本軍の主要な航空基地であった。ミッチーナ飛行場は、日本の戦闘機がアメリカ軍が中国に輸送する飛行機を攻撃した。ミッチーナは、日本軍の作戦地域の南端にある重要な輸送拠点であった。主要な航空基地ミッチーナの包囲戦は、第二次世界大戦の連合軍のビルマ戦略に関連して、1944年5月17日から8月3日に勃発した。連合国軍と中国軍はミッチーナを日本軍から奪還して占領した。北ビルマと雲南省の古くから道路を開通して、インドから中国への供給ルートを大幅に効率化化した。
 ミッチーナの包囲戦は、ジャングルの山腹での戦闘が激しく、物資が不足し、地形が困難で、伝染病が蔓延して、ミィッキーナに対する作戦は、過度の死傷者のため、特に中国軍は戦闘部隊として壊滅した。ミィッキーナ飛行場の占領により、古いビルマと中国を結ぶ道路が開通した。中国軍兵士の犠牲者数は、ビルマへの中国介入によ全戦闘の中で最も高かった。日本軍兵士は約2,400人が犠牲となった。連合軍はアメリカ軍兵士は約272人が戦死、約955人が戦傷、約980人が行方不明と中国軍塀は972人が戦死、3,184人が戦傷、約188人が行方不明であった。
 日本軍は、8月3日から撤退して、すでに約5,000人は約1,500が残存した。日本軍は深夜の闇に紛れて、粗末な丸木舟や筏を使って川を渡り始めた。日本軍兵士たちに、「生きる」渇望が蘇った。我先へと渡し舟に群がる兵士が続出した。「恥を知れ。お前たちはそれでも神軍の兵隊か!」と上官が怒鳴る。それでも殺到して、船に手を掛ける日本軍兵士たちの手指や手首を、上官は日本刀で斬り落とし、射殺された兵士が続出した。阿鼻叫喚の後に、約650人だけが生存した。


2020年9月2日水曜日

ナイジェリアのビアフラ内戦による飢饉で、約7,000人の子供たちが集まっては食物に手を伸ばし、日常で餓死に直面していた。

ビアフラ戦争が、1967年7月6日から1970年1月12日まで、ナイジェリアのイボ人を主体とした東部州が、ビアフラ共和国として分離・独立を宣言して戦争が勃発した。ナイジェリア内戦による厳しい飢餓と、栄養失調から来る病気、北部州における虐殺などにより、少なくとも150万人を超えるイボ人が死亡した。特にビアフラ共和国は、1968年の食糧危機により飢饉が悪化して、日常で餓死に直面していた。

 病院、宣教所、道端でも、どこでも餓死に至る。オビンツェ西約130kmにあるオクパラ宣教所では、夕暮れ時になると約7,000人の子供たちが集まり、食物に骨のような手を伸ばした。付近には餓死した子供の死体が散乱した。ケンド・ヘニー牧師は泣きそうになる。子供たちは毎晩に小さなスープ、牛乳、豆を求めて宣教所に来ていた。「今は何も残っていません。これは子供たちの戦争です。彼らはすべての運命から見捨てられた。」ビアフラの救援隊員は、政治と欲望に阻まれたナイジェリア内戦により、大量の食料の空輸のみが、蔓延している飢餓からビアフラの人々を救うことができると信じた。

 夜間に着陸して封鎖された飛行機に乗って、ナイジェリア東部の飢饉の地域に、食物と薬のほんの少しの物資が到達した。バケツの中の一滴である。ラゴスのナイジェリア政府は、飛行機がビアフラに直接に飛ぶことを、毎日拒否していた。最前線の北にあるエヌグからビアフラへの陸上通路が必要であった。ビアフラの死者数は、世界教会協議会のハーマン・ミドルコープは、「飢饉は次第に加速している。それは絶望的な状況である。私が言えることはそれだけです。」ビアフラ南部のこの泥だらけの小さなタウンオビンツェ付近の道端では、8人の年配の女性が、雨の中で動かずに座ったままで、衰弱して歩行困難となった。友人の腕に抱かれている9人目の女性は死亡した。しかし死亡した彼女の友人は、彼女がまだ生きているかのように話し続けた。子供の死を1日あたり約200から400人に達した。 
 赤十字国際委員会は1968年7月29日に、ビアフラへの医療および食料供給の慈悲深い飛行機が、技術的な障害により中止したと発表した。ナイジェリアの反乱地域の領土に上陸するための手配が困難であった。その直前に委員会はチャーターされた4エンジン飛行機をジュネーブから派遣して、ナイジェリア沿岸のスペインの島であるフェルナンドポーから、包囲されているビアフランへのシャトル便を続けた。1967年4月から援助活動を開始してから、合計16便が飛行したが、人道支援機関のロジャー・ギャロピンは、フェルナンドポーからの緊急救援物資の空輸は、常に一時的なものであると強調した。 

 


 

2020年9月1日火曜日

日露戦争の遼陽会戦の後に、日本軍兵士は塹壕の中で殺害された日本軍兵士とロシア軍兵士の多数の死体の処理をした。

日露戦争の遼陽会戦(Battle of Liaoyang)の後に、日本軍兵士は塹壕の中で殺害された日本軍兵士とロシア軍兵士の多数の死体の処理をした。遼陽会戦は、日露戦争で満州、朝鮮半島などの権益を巡り、1904年8月24日から9月4日まで勃発した。両軍の主力がはじめて衝突した戦闘であった。日本軍は約12万5,000人で攻撃して、ロシア軍兵士は約15万8,000人で防御して、合計約28万の兵が衝突して、日本軍には初めての近代陸軍による本格的会戦であった。犠牲者は日本軍兵士は約5,537人が死亡して、約18,603人が戦傷した。ロシア軍は約3,611人が死亡して、約14,301人が戦傷した。9月4日にロシア軍が撤退して終結した。

  日露戦争にて戦死に関する日本軍兵士の文章に、戦場での詳細な死の陰惨な記述があった。多くの場合、戦闘後の虐殺という言葉で表現された。日本軍兵士たちはしばしば彼らの仲間の死体が処分された方法に衝撃をを受けた。 1904年5月23日に、九里城周辺で激しい戦闘を目撃した歩兵中隊長の山本松太郎は、「一人残されたロシア兵の死体を片付けた者は誰もいなかったし、彼らを埋めるためにすぐに掘られた穴でさえ、野良犬によって掘られて掃除された。その光景は見るには恐ろしすぎる。谷間に埋められていた死んだ日本軍兵士の死体もそれほど深くなく、手足が突き出ていた。」
  ロシア軍兵士の死体は埋葬されたが、日本軍兵士の死体は火葬された。特に、中沢一太郎の日記は、内密の移送部隊であり、死体の整理を任されることが多かったため、悲惨な場面で一杯であった。1904年12月初旬に203高地を攻防した後に、医師らも大虐殺に驚嘆した。「山頂に向かって丘を登るとき、野蛮さを言葉では説明できない。見たことがなければこれを想像することは不可能である。私はかなりの数の戦いを経験し、かなりの数の死体を見てきたが、203高地の攻防ほどの大虐殺に遭遇するのは初めてである。涙が出ないほど悲惨である」
  道徳的な嫌悪感が戦時中に日常的に起こり、兵士たちはすぐに残忍になり、恐ろしく暴力的な多数の死を目にする。澤田は内密な死者の埋葬の事実を説明した。「すでに一度は埋葬されたが、犬や鳥によって掘り出された敵の戦死者の死体を埋葬しなければならなかった。ジャガイモのように頭を並べて埋葬した。臭いので鼻が落ちそうであった。目はすべて抜けていて、穴が空いていた。臭いがひどいので、土で覆うのは本当に大変であった。1つの穴に約8人から9人を埋めた。少しの水で手を洗ってから、夕食をとり寝た。」秘密裏な戦争の残忍化は、上記の澤田の説明のように、彼が日常の現実の恐怖に対処することを可能にした。同志の多くがほとんど精神的な浄化として日記に書き続けた。
 中澤の日記には、死んだ兵士の記念碑の建設に関与した。1905年4月7日に、中沢と仲間は、戦死者の埋葬地の地図に従って兵士の埋葬地を見つけるように命じられた。彼らはこれらの死体を火葬し、司令部から配給された箱に灰を保管した。彼らは2日後に掘り始めた。彼らは死体のひどい死臭によって妨げられた。次の数日の間、記念碑の道路を敷設して、記念碑の彫刻に取り組み、また死体を掘り続けた。