2023年5月31日水曜日

1944年10月20日早朝から、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島のドラック海岸から上陸した。日本軍の爆撃に伴って、多数のアメリカ軍の戦死者が発生した。その死体を処理するために、トラックの荷台に積み上げた。

1944年10月26日の夜に、日本軍の爆撃機がフィリピンのレイテ島のドラック海岸周辺のアメリカ軍陣地を爆撃した。1944年10月20日早朝から、アメリカ軍はフィリピンのレイテ島のドラック(Dulag)海岸から上陸した。日本軍の爆撃に伴って、多数のアメリカ軍の戦死者が発生した。その死体を処理するために、トラックの荷台に積み上げた。アメリカ軍は、10月20日午前10時に、アメリカ軍はレイテ島東岸のタクロバンに、続いてその南方約27kmのドラッグから上陸を開始した。

  アメリカ軍がレイテ島に深く侵入すると、日本軍は空と海から反撃した。10月24日に、約200機の日本軍機が北からアメリカのビーチヘッドと船舶に接近した。約50機のアメリカの陸上機が迎え撃ち、66機から84機の攻撃機を撃墜した。日本軍による昼夜の空襲はその後4日間続き、陸上の物資集積所に損害が与え、アメリカ軍の船舶を脅かした。10月28日までに、アメリカ軍機が日本の飛行場や他の島の船舶を反撃して、日本軍の航空戦力が低下し、従来の空襲は大きな脅威ではなくなった。レイテ島の戦いは、日本軍約8万人は全滅して、生還者はわずか約2,500人であった。アメリカ軍は、約3,504人が戦死して、戦傷者が11,191人であった。

 日本軍の航空戦力が低下すると、爆弾を積んだ戦闘機を直接にアメリカの戦艦に墜落させて自爆する神風特攻隊を編成した。神風特攻隊は、1944年10月25日にレイテ湾に集結していたアメリカの大規模な輸送・護衛艦隊を最初の目標に選択した。1944年10月25日に護衛空母USSセントロールを撃沈した。これは、神風攻撃によって主要な軍艦が沈められた最初の例であった。その他多くの艦船に大きな損害を与えた。神風特攻隊は、アメリカ軍がレイテ島に上陸する前日の10月19日の晩に編成された。大西瀧治郎中将がクラーク飛行場群の一つであるマバラカットの海軍201航空隊で編成した。敷島隊、大和隊、朝日隊、山櫻隊と命名され、隊長は江田島海軍兵学校第70期生の関行男大尉となった。




2023年5月30日火曜日

クロアチア東部のヴコヴァルの戦いで1991年11月18日に、セルビア人民兵士が捕虜にした民間クロアチア人を強制連行した。陥落直前のヴコヴァルは崩壊して瓦礫の中には、殺害されたクロアチア人の死体が放置された。

ユーゴスラビア紛争の内戦にて、クロアチア東部にてヴコヴァルの戦いで、1991年11月18日に、セルビア人民兵士が捕虜にした民間クロアチア人を強制連行した。陥落直前のヴコヴァルは崩壊して瓦礫の中には、殺害されたクロアチア人の死体が放置された。捕虜となった多くのクロアチア兵と市民が即座に処刑されて、戦後に戦争犯罪と判決された。

 ヴコヴァルの戦い(Battle of Vukovar)は、1991年8月25日から11月18日にかけて、セルビアの準軍事勢力の支援を受けたユーゴスラビア人民軍(JNA)が、クロアチア東部のヴコヴァルを約87日間包囲した戦闘が勃発した。クロアチア独立戦争以前は、ヴコヴァルは、クロアチア人、セルビア人、その他の民族が混在していた。ユーゴスラビアが、1991年6月25日にクロアチアとスロベニアが独立宣言して崩壊し始めた。セルビアのスロボダン・ミロシェヴィッチ大統領とクロアチアのフランヨ・トゥジュマン大統領が、民族主義政治を追求した。1990年に、セルビア政府と準軍事組織の支援を受けたクロアチアのセルビア人民兵が武装蜂起して、クロアチアのセルビア人居住地域を占領した。ユーゴスラビア人民軍は反乱軍に有利な介入を開始した。1991年5月にはクロアチア東部のスラヴォニア地方で紛争が勃発した。1991年8月に、ユーゴスラビア人民軍はヴコヴァルを含むスラヴォニア東部のクロアチア人支配地域に対して本格的な攻撃を開始した。

 ヴコヴァルは、重装甲車と大砲を装備した約36,000人ものユーゴスラビア人民軍とセルビア人準軍事組織の攻撃に対して、クロアチア国家警備隊(ZNG)の軽装備兵と市民ボランティア約1,800人が防衛した。戦闘中には、1日に約12,000発もの砲弾やロケットがヴコヴァルに撃ち込まれた。最も長引く戦闘となり、ヴコヴァルは全壊した。1991年11月18日のヴコヴァルが崩壊した時に、クロアチア国家警備隊や市民数百人がセルビア軍に虐殺されて、少なくとも約2万人の住民が追放されて難民となった。両軍では約3000人がヴコヴァルの戦いで殺害された。ヴコヴァルの大部分で、セルビア人以外の住民は民族浄化されて、セルビア・クラジナ共和国と自己宣言した原始国家の一部となった。ミロシェヴィッチを含む数人のセルビア人軍人と政治家は、戦闘中および戦闘後に犯した戦争犯罪のために後に起訴されて投獄された。

 ヴコヴァルの戦いでユーゴスラビア人民軍は疲弊し、クロアチア独立戦争の転機となった。数週間後に、停戦が宣言された。ヴコヴァルは1998年までセルビア人に占領された。その後にエルデュト協定の締結により、平和的にクロアチアに再統合された。再建されたものの、人口は戦前の半分以下となり、多くの建物が戦闘の傷跡を残した。セルビア人とクロアチア人の2つの主要な民族が深く対立している。





2023年5月29日月曜日

湾岸戦争でイラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。

湾岸戦争にて、イラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。サダム小児科病院内では緊急時以外は、自家発電も保育器も停止して、停電していた。母親は、寒さをしのぐために、ろうそくなどをかざしていた。湾岸戦争の1991年のイラク爆撃は、イラク軍のクウェート侵攻に対抗して1991年1月17日から2月23日まで大規模な空爆が執行した。アメリカ軍が主導して、湾岸戦争連合は約10万回以上の出撃を行い、約88,500トンの爆弾を投下し、軍事・民間インフラを広く破壊した。 

 国連安全保障理事会は1990年11月29日に決議678号を採択し、イラクに1991年1月15日までに、クウェートからの撤退を認めた。その期限後にイラクをクウェートから撤退させるために、あらゆる必要な手段を用いる権限を連合国に与えた。国連安全保障理事会決議678で定められた期限の1月15日の翌日から、連合軍は大規模な航空作戦を開始した。1日に約1000回以上の出撃が行われた「砂漠の嵐作戦」の総攻撃を開始した。

 最初のバクダット攻撃は1991年1月17日午前2時38分に、イラク・サウジアラビア国境付近のイラクのレーダーサイトの破壊から総攻撃が勃発した。1月17日午前3時、EF-111の3隻編隊に守られた10機のアメリカ空軍F-117ナイトホークが、イラクの首都バグダッドを爆撃した。最初の総攻撃から約5時間後に、イラクの国営ラジオは、サダム・フセインと名乗る音声を放送した。「偉大なる決闘、すべての戦いの母が始まった。この偉大な対決が始まれば、勝利の夜明けは近い。」と宣言した。

 アメリカ海軍のBGM-109トマホーク巡航ミサイルが、1月17日の総攻撃に同期して、イラクの首都バグダッドの標的を攻撃した。他の連合軍の爆撃機もイラク全土の標的を攻撃した。政府庁舎、テレビ局、飛行場、大統領官邸、軍事施設、通信回線、補給基地、石油精製所、バグダッド空港、発電所、イラク軍装備の製造工場などが、連合軍の大規模な空爆とミサイル攻撃で破壊された。

 湾岸戦争の終了時、アメリカ当局は、イラク市民の推定死者数は約2,278人、負傷者約5,965人と報告した。1991年2月13日に、アメリカ空軍 (USAF) の戦闘機がバグダッドのアルアミリヤ地区の空襲用シェルターに向けてレーザー誘導ミサイルを2発発射して、そこに避難した約408人の民間人が死亡した。アメリカ当局は、シェルターはイラク軍の通信センターと主張した。




2023年5月28日日曜日

ウクライナ軍の第24機械化旅団の兵士が、2023年3月7日にウクライナのトレツク近郊で、ロシア軍が包囲したバフムトを切り崩した。ウクライナ軍に殺害されたロシア分離主義者の戦闘員の死体の直前を移動した。

ウクライナ軍の第24機械化旅団の兵士が、2023年3月7日にウクライナのトレツク近郊で、ロシア軍が包囲したバフムトを切り崩そうとした。ウクライナ軍に殺害されたロシア分離主義者の戦闘員の死体の直前を移動した。ウクライナ軍によると、ロシアの傭兵集団ワグナーには、刑務所から徴収した戦闘員が、バフムト攻撃の損失によって不足して、ウクライナ軍も大きな犠牲を出した。ロシアのワーグナー傭兵部隊は、ウクライナ侵攻で最も長く継続したバフムトの戦いで数千人単位で戦死した。枯渇した傭兵の在庫を補うために、バクムトでは新人の傭兵をさらに送り込んだ。













 



Warning: A soldier from the 24th Ukrainian Mechanized Brigade walks past the body of a Russian separatist fighter killed in action as Russian forces try to cut off the besieged town of Bakhmut near Toretsk, Ukraine, on Tuesday. (Tyler Hicks)

ウクライナ軍は、ウクライナ東部の都市で受けた大きな損失にもかかわらず、ワグナーの自殺攻撃に近い囚人の傭兵へ攻撃をした。ロシア軍とウクライナ軍の間で数ヶ月にわたる激しいバフムトの戦闘により、ワグナーの傭兵の数千人の兵士が戦死して、街が廃墟となった。ウクライナ軍によると、ワグナー傭兵部隊の約5万人のうち約3万人近くが脱走あるいは戦死傷して、その大多数はバクムト周辺で戦死傷した。ロシア軍もウクライナ軍も、バフムト地域での戦死傷者数を発表しない。ロシア国防相は、ウクライナ軍は2023年2月には約11,000人以上の兵力を失ったと述べた。

 バフムトの戦いが決定的局面を迎えても、両陣営は戦略的重要性の低い小さな町バフムトでの驚異的な損失を、自軍の大義と提示して、正当化した。敵の疲弊こそ、犠牲を払う価値があると両軍は主張した。ワーグナーの傭兵は、主に元囚人をウクライナに投入して、多大な犠牲を払って、ウクライナ軍を消耗させて、ロシア軍のバクムト包囲網の侵攻を手助けして、バフムトは、ほとんどすべてが破壊された。













A screen showing footage of the Ukrainian army from a drone in Bakhmut in January, 2023. (Nicole Tang)

プリゴジン自身が警鐘を鳴らし、3月6日にウクライナの反撃に対抗する緊急増援と弾薬をロシア軍に要求した。アメリカ情報当局は2022年12月に、ワグナーはロシアの治安部隊の退役軍人を中心に集められた約1万人の職業軍人と4万人の元受刑者で構成されたと推定した。囚人たちはわずか2週間の訓練で戦闘に投入されて、主に小規模で無防備な集団で、ウクライナ軍の陣地を攻撃し、暴露して攻撃波のための塹壕を掘るのに使用された。ワグナーとの6ヶ月の契約を終えて帰国した投獄中の新兵のうち、例えばロシアのイワノボ地方にあるコロニーから到着した約170人ほどの囚人のうち、約80人が大きな負傷をせずに帰国した。バクムトにおけるワグナーの主な目的は領土の征服ではなく、約960kmの前線の他の戦場で戦いができる経験豊富なウクライナ人部隊を枯渇させることであった。

2023年5月27日土曜日

1945年8月7日に、広島城の本丸付近の中国軍管区司令部は、机と椅子を集めて携帯用テントで屋根を設置して、広島原子爆弾被爆後の中国軍管区の仮事務所を地下作戦室の前に急造した。

1945年8月6日午前8時15分に一発の広島原子爆弾がアメリカ軍が投下して炸裂させた。太平洋戦争の遂行中のために、広島の軍隊は壊滅した中枢機能の再建に全力をあげた。8月7日に、広島城の本丸近くにあった中国軍管区司令部は、松村参謀長ら重症者約15人らが、古ぼけた机2つ、椅子3つを集めて、携帯用テントをつなぎ合わせて屋根を設置した。中国軍管区の仮設司令部を地下作戦室の前に急造した。同日8月7日に、同じ焼け跡に広島連隊区司令部の広島地区司令部の仮設事務所も設置された。

 広島城・第一補充隊正門よりも東側にあった広島連隊区司令部の焼け跡に作られた仮事務所のテントを南から北に向かって写真撮影した。門柱には「広島連隊区司令部 広島地区司令部 仮事務所」と垂れ幕がかかっている。テントの奥にうっすら、広島逓信局と広島逓信病院の建物が見える。写真右端には、負傷したのか、座り込んでいるような姿の男性が見える。

 広島師団司令部の報道班員の岸田貢宜が8月7日から写真撮影した。広島城の天守閣も消えてなくなっていた。傍の溝の中には、白衣や褌のままの日本軍兵士が、頭を突っこんで死んでいた。溝の黒い水を求めて、腹ばいでやっとたどりついて、そのままこと切れたのであろう。傷ついた無残な格好の兵士たちが、あちらこちらから寄ってきた。まともな服装で負傷もしていないのをみて、救助を求めにくるのであった。29歳の岸田貢宜は、8月13日頃から高熱に襲われて、数カ月にわたり療養した。




2023年5月26日金曜日

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍が殺害したデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。

1989年6月5日に、北京西部の郵電病院の仮設死体安置所に、天安門事件で中国人民解放軍により殺害されたデモ隊員の死体が横たわった。6月4日の天安門(六四)事件で、デモ参加者が中国人民解放軍兵士らにより殺害された。中国共産党は6月4日に、北京の天安門広場とその周辺に約30万人の中国人民解放軍の戒厳部隊を配備した。機関銃や戦車を使って、学生や市民を強制的に虐待と虐殺した。流血の大虐殺は、中国共産党が今日も隠蔽する事件となった。

 天安門事件は1989年4月15日に、中国共産党の前総書記である胡耀邦が急死したことが起点となった。中国人の学生や市民が天安門広場で自発的に追悼活動を始めた。それが報道の自由、汚職、インフレ、失業の解決などを求める大規模で過激なデモ活動に変貌した。天安門広場に民衆が集まった参加者は、約100万人と推察された。1989年4月15日、改革派指導者だった胡耀邦・元総書記が死去した。その追悼を機会に、学生と市民らが天安門広場に集まり、大規模な民主化運動に発展した。5月20日、中国政府当局は北京市に戒厳令を宣言した。6月3日夜から4日未明に中国人民解放軍を投入し、排除して鎮圧し、当局は死者を319人と発表した。

 当時の中国共産党総書記であった趙紫陽などの穏健派は、民衆との対話と融和を望んだ。中国共産党の軍事委員会主席である鄧小平などの強硬派は、武力での弾圧を決定した。結局、6月4日未明に、中国人民解放軍が天安門広場を制圧し、武力で天安門広場を片付けた。非武装の学生や民衆を大量に殺害した。 平和な時期に中国共産党が中国本土の住民に対して行った凄惨で流血の大虐殺であった。

 6月4日の天安門事件をきっかけに、趙紫陽はすべての役職から解任された。江沢民上海党書記は、学生の大弾圧を機に共産党の国家主席に上り詰めて、第三世代の共産党指導者となった。2017年12月のBBC放送によると、機密解除されたイギリス国家文書によると、天安門(六四)事件で、中国軍は少なくとも1万人の殺害を示唆した。1万人の数値は、駐中国イギリス大使のアラン・ドナルドが、中国共産党の国家評議員の友人を通じて入手した。秘密の外交ケーブルでイギリス本土に電報が伝送された。

 電報は1989年6月5日以降に送られて、ドナルドは学生たちは1時間で広場を離れろと通告するも、5分後に装甲車が学生たちを攻撃し始めたと記録した。学生たちは手をつないだが、中国人民解放軍兵士に振り回された。装甲車は学生たちを殺害した死体をパイのように繰り返し轢き、残骸はブルドーザーで転がされた。その後に、死体は焼却され、灰は下水道から流されて隠滅した。




2023年5月25日木曜日

第一次世界大戦のカポレットの戦いにて、チヴィダーレ近郊の山地の斜面の塹壕で、激しい戦闘からイタリア軍兵士が殺害された。多数のイタリア軍兵士の死体が、塹壕に散乱した。

第一次世界大戦のカポレットの戦いにて、チヴィダーレ近郊の山地の斜面の塹壕で、激しい戦闘からイタリア軍兵士が殺害された。多数のイタリア軍兵士の死体が、塹壕に散乱した。カポレットの戦いは、アルプス戦線とも呼ばれ、イタリア戦線にて第一次世界大戦の最も犠牲を招いた戦いとなった。イタリア戦線は、イタリアとオーストリア=ハンガリーの国境に沿った地域で、山脈や谷間で発生した。カポレットの戦いは、第12次イソンゾの戦いとも呼ばれた。イタリア軍とオーストリア・ハンガリー軍の間で行われた大規模なイソンゾの戦いの一部で、膠着状態に陥った。

 イソンゾの戦いは全部で12回あり、スロベニアとイソンゾ川沿いで戦われた。12回の戦いは、イタリア軍とオーストリア=ハンガリー軍の間で、1915年から1917年まで継続した。オーストリア=ハンガリー軍は主に防御側で、山中に防御陣地を取り、イタリア軍は攻撃側であった。イタリア軍はイソンゾの戦いにて、山岳地帯と河川の攻撃に苦戦した。12回のイソンゾの戦いの間に、両軍は一進一退の攻防を繰り広げ、ともに多大な損害を被った。

 イソンゾの戦いで、イタリア軍は約95万人以上の死傷者を出し、オーストリア・ハンガリー軍は約52万人の死傷者を出した。オーストリア・ハンガリー軍は、第12次イソンゾの戦い(別名カポレットの戦い)で決定的な勝利を収めた。カポレットの戦いで約30万人のイタリア軍兵士が死亡した。第12次イソンゾの戦いは、1917年10月24日から11月19日にかけて行われ、最後にして最も犠牲を伴った。

 1917年秋には、イタリア軍もオーストリア・ハンガリー軍も、11回までのイソンゾの戦いによって疲弊した。オーストリア=ハンガリー軍は、ドイツ軍の支援によりイタリア軍の防衛線を突破し、イタリア軍を国境から撤退させた。カポレットの戦いは10月24日早朝に始まり、オーストリア=ハンガリー軍とドイツ軍は、イタリア軍の塹壕に対して毒ガス攻撃を行って、イタリア軍を撤退させた。ガス攻撃に続いて、オーストリア軍とドイツ軍は火炎放射器、手榴弾、機関銃、迫撃砲を使用した激しい攻撃を行った。中央同盟国の2つの軍隊は、イタリア軍が支配する地域を素早く侵攻した。

 カポレットの戦いは、1917年11月19日に終結した結果、イタリア軍は約150Km後退し、約13,000人のイタリア軍兵士が死亡し、約30,000人が負傷、約275,000人近くが捕虜になった。カポレットの戦いは、イタリア軍にとって大きな損失であり、イタリア軍兵士の士気が大きく低下した。オーストリア=ハンガリー軍はカポレットの戦いで2万から7万人の死傷者を出した。



2023年5月24日水曜日

ドイツ軍は1945年4月28日に、アメリカ軍が解放する直前にラーンツベルグ地域のカウフェリングⅣ強制収容所を放火した。強制収容所内に監禁された約500人のユダヤ人の囚人は、放火で黒焦げになり焼死した。

第ニ次世界大戦の末期に、連合軍のドイツ侵攻によって、ドイツ軍は余儀なく撤退した。ドイツ軍は1945年4月28日に、引き払う直前にラーンツベルグ地域のカウフェリング(Kaufering)Ⅳ強制収容所を放火した。強制収容所内に監禁された囚人は、放火によって黒焦げになって焼死した。解放軍らは、約500人の黒焦げの死体を発見し、その多くは裸で、地元のドイツ人住民に埋葬を強制した。

 ランツベルクから撤退する直前に、ナチスの看守が牢屋小屋に放火した。ユダヤ人囚人の黒焦げの死体が、牢屋小屋の灰の中に横たわっていた。ユダヤ人の囚人は、木造の小屋に閉じ込められ、逃亡すれば看守に銃殺されると脅迫された。生きたまま焼かれて、やせ細った身体には、焼け焦げた衣服の破片が付着した。衣服が完全に焼失した裸のユダヤ人囚人もいた。

 カウフェリング強制収容所は、ダッハウ強制収容所の11の小収容所の中で最も大きく、最も劣悪な環境にあった。1944年6月18日から1945年4月27日まで運営された強制収容所で、3万人の囚人のうち約半数が飢えや病気、処刑、死の行進の中で死亡した。約3万人の囚人のうち、約半数が飢えや病気、処刑、死の行進で命を落とした。

 1944年6月20日に、アウシュビッツからのユダヤ人強制収容所の囚人1000人がカウフェリングに到着した。彼らは、3つの巨大な地下壕の建設に強制労働した。3つの地下壕では、ジェット推進のメッサーシュミット機「Me262」などが生産される予定だった。ランツベルク地区に、ダッハウ強制収容所に併設した11の強制副収容所が建設され、カウフェリングI~XIと命名された。終戦まで、最大で約23,500人が収容された。約6.400人以上の囚人がカウフェリング収容所で死亡した。約3,500人の囚人がアウシュビッツなどの他の収容所に強制送還され、到着後ほとんど虐殺された。1945年4月27日、カウフェリングの強制収容所はアメリカ軍により解放された。




2023年5月23日火曜日

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が公開された死刑が執行された。

中国の清朝末期に、焼き討ち、殺し合い、略奪などの重罪を犯して、民家を襲っては生計を立てていた2人の馬賊が死刑が執行された。馬賊は重犯罪者として、木の杭に縛り付けられた。野次馬の民衆の面前で公開処刑された。処刑者は将校や兵士ではなく、地元の村人によって組織された民兵集団であった。公開処刑することで他者への犯罪の抑止力の見せしめにもなった。

 重罪を犯した者は、斬首による死刑を宣告されて、民衆に刑罰を広めて、犯罪を抑制するために、民衆に公開で処刑が実行された。見物人の多数の民衆が集合して取り囲んで、処刑による報復に喝采を浴びせた。清朝末期には、治安が悪化して、馬賊が多発した。その撮影された写真に、「銃殺前の馬賊」と添え書きした絵葉書が、済南の愛屋から発行された。

 日本軍が占領した満州には、中国の抗日ゲリラが活動した。民衆自衛抗日軍と呼称して、日本軍は匪賊とか馬賊と呼んだ。満州各地で、日本軍や日本人を襲撃する事件が多発した。1932年9月16日午前1時5分, 平頂山事件が勃発した。撫順炭鉱の事務所、警官派出所、宿舎を抗日ゲリラが襲った。満鉄の職員と家族に死傷者がでた。日本軍は、抗日ゲリラが集結していた平頂山一帯の住民は、抗日ゲリラと通じていると断定した。村の住民約3000余人全員を集め、崖に追い詰めて、機関銃で銃殺した。死体の山に石油をかけ火をつけた後に、崖を爆破して埋めた。満洲国が崩壊した後は、馬賊も衰退していった。その後の国共内戦では、両陣営に取り込まれた。




2023年5月22日月曜日

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルでアメリカ軍が仮設した墓地から、戦闘機事故で戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。

第ニ次世界大戦の太平洋戦争の終戦直前の1945年8月14日に、ビルマのジャングルにあるアメリカ軍が仮設した墓地から、戦死したアメリカ軍兵士の死体を発掘した。その死体は、1945年初頭の戦闘機の事故で死亡したアメリカ軍の飛行士の死体であった。その死体を2人のアメリカ陸軍の兵士が発掘作業を執行した。この写真は、1945年8月14日に、連合国首脳が、日本に対する降伏を宣言した日に撮影された。この写真は、第二次世界大戦の戦闘段階において、最後に検閲された写真の一つで、アメリカ軍が検閲して非公開にされていた。もし写真が公開されていたら、発掘されるアメリカ軍の飛行士の死体の下肢や上腕など、写真全体に見られるV字の形状は、アメリカ本土の家族らによっては、第2次世界大戦の大東亜戦争の勝利の意味は、全く異なっていることを痛感させた。

 第二次世界大戦は、アメリカ国民ならば誰でも参加できる最初の画像や映像であった。アメリカ政府やニュース、娯楽メディアなどによって、アメリカ国民に公表された第二次世界大戦の画像や映像には、説得力のある戦争の筋書き、アメリカ軍服を着た大勢のアメリカ軍兵士たち、わかりやすい善玉の連合軍と悪玉の枢軸国軍などが紹介された。アメリカ国民は、第二次世界大戦の画像や映像を視聴者として参加した。

 第ニ次世界大戦の連合国軍の勝利をアメリカ国民は予測はできても、当然とは言えない結末が勃発していた。1945年8月6日午前8時15分に広島市に、8月9日午前11時2分に長崎市に原子爆弾が投下されて炸裂して、広島市も長崎市も一瞬にして壊滅した。その約1ケ月以内の9月2日に、東京湾において約2000機近いアメリカ軍の戦闘機が集結た中で、アメリカ軍の戦艦USSミズーリ号で、日本軍が降伏する光景が映し出された。太平洋戦争が、パールハーバーでの始った日本軍の真珠湾攻撃と同じくらい劇的な結末を迎えていた。どの戦争の写真や映像は、第二次世界大戦をアメリカ国民一人一人に、戦争の観客と戦争の参戦者という二重の役割を効果的に与えた。

 世界中の何千万人もの人々を巻き込んだ激しい第二次世界大戦の戦闘の画像や映像は、全世界の観客を惹きつけないわけがない。世界中で何千万人もの人々を巻き込んだ激しい戦闘は、全世界の観客を惹きつけずにはおかない。戦争に対する欲求とその表現方法で、ほとんどの全世界の観客が、自分も第二次世界大戦の参加者であると洗脳することを保証した。戦争宣伝のアメリカ軍担当者が、最も強く訴えたテーマは、アメリカ国民に誰もが戦争に果たすべき役割を担っていると思い込ませることであった。アメリカ社会への平等な参加から排除されているアメリカ国民に、多くの人々を怖がらせることなく、いかにして戦争への完全なる参加を促すことができるかを訴えた。逆に戦争の画像や映像は、アメリカ国民に深刻な問題を突きつけた。




2023年5月21日日曜日

2023年5月11日に、ウクライナ・ドネツク州の激戦地であるバフムト付近の道路で、バフムトの戦いで戦死傷したウクライナ軍兵士に応急処置を施した。軍医らが死亡したウクライナ軍兵士の死体をビニール袋に入れて、車に載せて死後処理した。

 2023年5月11日に、ウクライナ・ドネツク州の激戦地であるバフムト付近の道路で、バフムトの戦いで戦死傷したウクライナ軍兵士に応急処置を施した。バフムト近郊の道路では、軍医らが死亡したウクライナ軍兵士の死体をビニール袋に入れて、車に載せて死後処理した。








 



         Warning: Military medics give first aid to wounded soldiers on the road near Bakhmut, Donetsk region, Ukraine, Thursday, May 11, 2023. (AP Photo/Boghdan Kutiepov)

ウクライナ軍は2023年5月12日に、戦争で最も長く血生臭い戦いの戦場となったウクライナ東部の都市バフムトで、ロシア軍から領土の一部を奪還したと発表した。ウクライナ軍は、バフムト南部で奪還した約2kmの領土は、補給路として確保した。一方、ロシア国防省は、ウクライナ軍はバフムト地域北側で攻撃を強めて、突破口を開いた憶測を否定した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、5月12日に最高司令官と会談して、ウクライナ軍はロシア軍の侵攻を阻止して、いくつかの方面でロシア軍を押し返したと指摘した。

 アメリカの国家安全保障会議は、バフムトが依然と紛争地域であると評価した。ウクライナ軍はバフムト防衛を、ロシア軍はバフムト占領を諦めないと述べた。毎日毎日、戦線が前後して、時には地域ごとに変貌した。アメリカは、バフムトの戦略的価値は限定的と主張した。ロシア軍は、約8ヶ月間も続けた旧塩鉱山のバフムト町での戦闘で、兵員と兵器の膨大な損失を招いた。

 ロシアの民間軍事請負会社ワグナーの支配人のエフゲニー・プリゴジンは、5月12日のビデオ生命で、バフムト周辺の地盤を失って、ロシア軍は事実上逃げ出し、戦線の側面は崩れたと述べた。ウクライナ軍は、都市周辺の重要な高台を奪還し、バフムトへの重要な補給路を事実上封鎖した。プリゴジンは、ワグネルに十分な弾薬を提供しないロシア軍指導部を再び非難した。国防省の報道官は、プリゴジンの放棄の主張を明らかに否定した。ロシア国防省によると、バフムト市南部の攻撃に続き、5月12日にはソレダル市付近でウクライナ軍の攻撃行動が増加して、ロシア軍は、1,000人以上のウクライナ軍の攻撃を撃退したと述べた。

 ウクライナ軍は、バクムトでの戦闘と侵攻は進行中を示した。ウクライナ軍のバフムトの領土獲得は、シバースキー・ドネツ運河の近く、イヴァニフスケ村とクルディウミフカ村の間で奪還した。運河沿いのコスティアンティニフカ方面への攻撃に使うロシア軍の橋頭堡で、運河の反対側に追いやる必要があった。コスティアンティニフカは、クラマトルスク市につながる重要な物流チェーンの一部である。

 バフムトの争奪戦は、戦略的重要性が低いにもかかわらず、双方にとって犠牲を伴うものとなった。ウクライナ軍は同市に駐留して、ロシア軍は北、東、南から攻撃した。ウクライナ大統領府は、5月12日以降、他の戦闘で少なくとも約2人が死亡し、約22人が負傷した。ロシア軍の攻撃は、ウクライナ軍部隊の拠点があるクラマトルスクを襲い、学校と住宅が破壊された。ロシアの砲撃は同地域の約11の都市と村を襲い、約12人の市民が死亡した。











Warning: Military medics load bodies of the killed Ukrainian soldiers in plastic bags on a car on the road near Bakhmut, Donetsk region, Ukraine, Thursday, May 11, 2023. (AP Photo/Boghdan Kutiepov)

2023年5月20日土曜日

広島平和記念公園でG7サミット首脳は2023年5月19日に、広島平和記念資料館を見学して、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。

2023年5月19日に日本国内閣総理大臣の岸田文雄は、広島県を訪問中のG7サミット首脳らと広島平和記念公園で開催されたG7行事を主催した。岸田首相は、広島平和記念公園でG7(Group of Seven)首脳とその配偶者に挨拶した後、G7首脳らと広島平和記念資料館を見学した。その後、原爆死没者慰霊碑で献花と祈りを捧げた後、原爆を免れた桜の木を植樹した。G7とは、フランス、米国、英国、ドイツ、日本、イタリア、カナダ(議長国順)の7か国及び欧州連合(EU)が参加する枠組でである。2023年に日本は7回目の議長国となり、広島サミットを開催した。ウクライナのゼレンスキー大統領は、G7サミットと広島平和記念公園に参加するため、5月20日午後3時半ごろ広島空港に到着した。

 2023年5月19日、岸田首相と岸田裕子夫人は、G7首脳とその配偶者を広島平和記念公園で歓迎した。フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国大統領ジョセフ・R・バイデンJr、アメリカ合衆国大統領およびファーストレディ、カナダ首相ジャスティン・トルドー閣下、ドイツ連邦共和国首相オラフ・ショルツ閣下およびその配偶者、イタリア共和国閣僚理事会議長ジョルジア・メローニ閣下、グレートブリテンおよび北アイルランド連合王国首相リシ・スナック閣下およびその配偶者、フランス共和国大統領エマニュエル・マクロン閣下、アメリカ合衆国首相シャルル・ミシェル閣下、カナダ首相オラフ・ショルツ閣下、イタリア共和国閣僚理事会議長シャル・ミシェル閣下、イタリア共和国閣僚理事長シャ・ミシェル閣下が、G7首脳およびその配偶者を歓迎した。G7広島サミットに出席するため広島を訪れたシャルル・ミッシェル欧州理事会議長、ウルスラ・フォン・デア・ライエン欧州委員会委員長およびその配偶者は、広島県広島市の広島平和記念公園で会見を行った。その後、岸田総理は、広島平和記念資料館を見学した。広島平和記念公園内の原爆死没者慰霊碑での献花式、G7首脳との植樹式に参加した。

 G7首脳は一緒に平和記念資料館を訪れ、首相自らが展示物を説明したほか、被爆者の小倉桂子さんとも言葉を交わした。訪問後、岸田総理をはじめとするG7首脳は、湯崎英彦広島県知事、松井一実広島市長の案内で原爆慰霊碑に向かった。原爆慰霊碑に花輪を捧げ、広島の中学生・高校生の協力のもと、黙祷を捧げた。松井市長から原爆ドームについての説明を受けた後、G7首脳は、岸田首相とともに、平和への希求と平和実現に向けたG7首脳の結束の意志の象徴として、原爆を生き延びた桜(ソメイヨシノ)を公園内に植樹しました。G7首脳は、平和記念公園への訪問を通じて、原爆投下の現実について理解を深め、失われた命の霊を慰めるために心を合わせた。G7首脳は、ロシアによる核兵器の使用はもちろんのこと、その威嚇も許されないとの立場を改めて表明した。今回の訪問は、核兵器のない世界の実現に向けたG7のコミットメントを確認する機会となったことを確信する。




2023年5月19日金曜日

1905年10月に、ウクライナのオデッサで勃発したポグロムで、ロシア人との武力衝突で虐殺されたユダヤ人労働者同盟のブンドの仲間の死体を、ユダヤ人同盟が取り囲んだ。

1905年10月に、ウクライナのオデッサで勃発したポグロムで、虐殺されたユダヤ人労働者同盟のブンド(Bund)の仲間の死体を、ユダヤ人同盟のメンバーが取り囲んだ。10月16日から、学生、若者、ユダヤ人労働者はオデッサで街を歩き回り、バリケードを築き、警察や軍と戦闘になった。1905年10月、ニコライニ世が十月宣言を発表した後に、ユダヤ人排斥のポグロムがオデッサ居住区を席巻した。10月18日から武装したデモによる反政府運動が勃発して、ユダヤ人とロシア人の武力衝突によるポグロムに及んだ。ポグロミストは、無防備なユダヤ人を残忍かつ無差別に殴り、切り刻み、殺害した。

 ユダヤ人労働者総同盟(General Jewish Labor Union) は、帝政ロシア時代の1897年に、リトアニアの首都ヴィリニュスで結成された、ロシア支配地域におけるユダヤ系住民の社会主義(社会民主主義)団体であり、同盟を意味するブンドの略称で知られる。当初は、リトアニアとベラルーシのユダヤ人を組織した。1898年にロシア社会民主労働党の結成に貢献して、1905年には約35,000人に達した。レーニンやスターリンからは民族自決を否定する文化的民族自治論から厳しく批判された。1905年1月9日には、ロシア帝国の首都サンクトペテルブルクで血の日曜日事件により、第一ロシア革命が勃発した。混乱を収束するために、10月17日に専制から立憲制に十月宣言をするも事態は屈辱化した。

 1821年から1905年にかけて、ロシア帝国に属したウクライナのオデッサ市で、ユダヤ人に対する一連のポグロムが発生した。ポグロムは、民族的または宗教的集団、特にユダヤ人を虐殺や追放する暴力的な暴動である。特に1905年のポグロムは、規模も著しく大きく、反ユダヤ主義が中心になり、オデッサ史上最悪の反ユダヤ人ポグロムであった。1905年10月18日から22日に、ロシア人、ウクライナ人、ギリシャ人の民族が、約400人以上のユダヤ人を殺害し、約1600以上のユダヤ人の財産を破損・破壊した。10月17日に皇帝ニコライ2世は、ロシア国民の市民的自由を確立し、選挙による議会の創設を約束する十月宣言を発表した。10月18日に、ユダヤ人のグループが数人のロシア人労働者に赤い旗に敬意を払う命令をして、路上で喧嘩が起こり、反ユダヤ暴動に発展した。10月のポグロムで殺害されたユダヤ人は、約302人から約1,000人と推定された。





2023年5月18日木曜日

1951年1月27日に、朝鮮戦争にて北方に退却する北朝鮮軍に朝鮮人が撃たれて射殺された。縛られた両手と雪の中の呼吸穴から、放置された朝鮮人市民の死体が判明した。

1951年1月27日に、朝鮮戦争にて北方に退却する共産主義の北朝鮮軍に朝鮮人が撃たれて射殺された。縛られた両手と雪の中の呼吸穴から、放置された朝鮮人市民の死体があることが判明した。「雪の墓場から手を伸ばす(Reaching Up from a Snowy Grave)」の戦争写真は、縛られた朝鮮人の両手が雪に突き刺さり、殺害された朝鮮人は自分の妻のために呼吸孔を作っていた。北朝鮮の国境近辺である韓国の京畿道の独島山の雪山の楊枝で虐殺された。  

 マックス・デスフォー(Max Desfor, AP通信写真家)が撮影した朝鮮戦争にて最も無益な戦争を象徴したのは、雪に埋もれた朝鮮人の写真だった。縛られた手は、捕虜となり処刑された数人の民間朝鮮人の一人となった。その死体は雪に覆われて放置された。デスフォーは写真は、その後に「無益な行為(Futility)」と改題した。いつも戦火に巻き込まれる民間人は、罪のない民間人であり、戦争がいかに無益であるかを象徴した。1950年に、朝鮮戦争中に、朝鮮人難民が破損した橋を殺到して這って渡る姿を撮影して、ピューリッツァー賞を受賞したマックス・デスフォーは2018年2月19日に死去した。

 朝鮮戦争は、冷戦時代に起こったいくつかの軍事衝突の一つである。朝鮮戦争は、1950年6月25日に、共産主義国家の北朝鮮が韓国に侵攻して勃発した。国連は7月7日に、北朝鮮の軍事占領から韓国を解放するアメリカ軍が朝鮮半島に軍隊の派遣を許可した。韓国に派遣された兵士の多くはアメリカ軍の軍隊であり、国連の直轄部隊となった。9月8日の仁川上陸から侵攻で戦局は、国連軍と韓国軍が一気に北朝鮮軍を北朝鮮に追い返した。1950年10月、国連軍は北朝鮮軍を中国との国境まで追い詰めた。10月19日から中国軍は北朝鮮の国境を越えて国連軍に攻撃を開始した。1951年1月4日に中国・北朝鮮軍はソウルを奪還した。その直後の1月7日から中国軍と北朝鮮軍の多くの部隊が撤退した。3月8日に国連軍が最終的にソウルを再奪還した。1951年初めに、中国軍は国連軍を北朝鮮と韓国のほぼ元の国境線である38度線まで追い詰めた。その後約2年間は、38度線の周辺で事実上の膠着状態になった。朝鮮戦争は、1953年7月27日、停戦に合意し終結して終結した。





2023年5月17日水曜日

第二次世界大戦の西部戦線で1944年12月6日に、フランス北東部グランエスト県のドイツ国境近辺のフォルクスベルグ地区にて、アメリカ軍兵士が殺害したドイツ軍兵士の死体に、トランプを投げつけて死体を冒涜した。

第二次世界大戦の西部戦線で1944年12月6日に、フランス北東部グランエスト県のドイツ国境近辺のフォルクスベルグ地区にて、アメリカ軍兵士が殺害したドイツ軍兵士の死体に、トランプを投げつけて死体を冒涜した。その冒涜されたドイツ軍兵士の死体を、アメリカ陸軍信号部隊の撮影隊が写真撮影した。アメリカ軍当局は、アメリカ軍兵士がドイツ軍兵士の死体を不遜に扱ったり軽蔑する可能性を示唆する写真は検閲して戦争中は非公開にしていた。

 第二次世界戦争中は、検閲にてほとんど公開されなかった資料の一例である。この写真は、戦争疲れと宣伝的な行動喚起に過剰な露出で対抗するために、特例として戦争末期にのみ一般公開された。検閲する官憲は、アメリカ軍兵士が自制心を失っている写真はすべて検閲して非公開にしていた。まれに戦争疲れの心理的影響を喚起する写真を公開することがあった。

 写真の説明文は、戦時中に検閲された画像と公開された画像を明確にした。ビジュアル・エッセイに登場する検閲された画像のほとんどは、CEと指定された国立公文書館のファイルから入手した。知る限り、CE識別番号を持つ画像はすべて、何年も、ほとんどの場合、何十年も検閲された資料のファイルに残存した。現在では、国立公文書館の静止画部門にいる研究者がアクセスできる。CEファイルにはなかったが、当局がその画像の公開を制限した他の証拠がある場合は、説明文や本文に制限の内容や証拠を示した。

 アメリカ軍は1944年9月から12月中旬まで、フランス戦線にてドイツ軍をロレーヌから追い出し、ジークフリートラインの背後から追放するために戦った。モーゼル川の横断とメッツ要塞の占領は、ドイツ軍は増援、補給不足、悪天候に直面して、アメリカ軍の防御は困難なものであった。1944年9月から10月にかけて、連合国第6軍集団(アメリカ第7軍とフランス第1軍)は、ヴォージュ山脈を舞台にして、ドイツ軍の執拗な抵抗と侵攻の遅れを象徴とる困難な作戦で戦った。しかし、11月に入ると、ドイツ軍の戦線は連合軍の圧力に耐え切れず、連合軍の急激な侵攻により、ベルフォール、ミュルーズ、ストラスブールは解放されて、連合軍はライン川沿いに配置された。ドイツ軍はライン川西岸、コルマール市を中心とする大規模な橋頭堡を保持できた。11月16日に、連合軍はクイーン作戦と呼称する大規模な秋季攻勢を開始した。ヒュルトゲンの森を再び主戦場とした攻勢は、連合軍はルール川まで追い込んだが、ルールダムの攻略とライン川への道筋をつける主要目的は果たせなかった。連合軍の作戦はその後、ドイツ軍のアルデンヌ攻勢に向けて引き継がれた。





2023年5月16日火曜日

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズの軽機関銃の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引張り出して検死した。

アメリカ軍海兵隊員は1942年11月に、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、ポイント・クルーズ付近の塹壕から、殺害された日本軍兵士の死体を引きずり出した。アメリカ軍兵士は、太平洋戦争のガダルカナル島の戦いで、戦死した多数の日本軍兵士の死体を、日本軍の軽機関銃の陣地から引張り出して検死した。 

 日本陸軍第4歩兵連隊は、ガダルカナル島のポイント・クルーズ地区を防御した。日本軍第4歩兵連隊は戦死者や負傷者、熱帯病、栄養失調のために疲弊した。アメリカ軍は1942年11月1日から攻撃を開始して、11月3日までにポイント・クルーズ地区を防御した日本軍を壊滅した。そのマタニカウ攻勢にて、アメリカ軍はマタニカウ川を渡り、ガダルカナル海岸北部のポイントクルーズまでの日本軍部隊を1942年11月1日から4日まで攻撃した。アメリカ軍は約71人が死亡して、日本軍兵士は約400人以上が死亡した。11月1日にアメリカ軍海兵隊は、戦艦の支援を受けながら、マタニカウ川を渡って侵攻を開始した。

 11月2日にアメリカ軍は、ポイントクルーズの西海岸に到達し、日本軍を包囲した。日本軍の防御陣地には、ポイントクルーズの西海岸沿いの小道、珊瑚、土、丸太の壕、洞窟や狐穴があった。アメリカ軍砲兵は11月2日の終日に、日本軍陣地を砲撃して、日本軍守備隊には甚大な死傷者を出した。北部の日本軍には固定銃剣の正面攻撃を行って、日本軍の防衛隊を制圧して殺害した。

 11月3日には、アメリカ軍はポイントクルーズを越えて侵攻した。11月3日に、日本軍一部が塹壕の脱出を試みたが、海兵隊に殺害された。アメリカ軍は、小銃、迫撃砲、爆薬、直接・間接砲火を使用して、ポイントクルーズ付近の日本軍陣地の破壊した。ヤシの木の間に約300人ほどの若い日本軍兵士の引き裂かれ、粉々になった死体がずらりと並び、生存者は一人もいなかった。

 ガダルカナル島の激戦は、1942年8月7日から1943年2月3日まで継続した。陸・海・空で戦闘が繰り広げられた。ガダルカナルの戦いでは、次第に食料が枯渇して、日本軍兵士は戦争で殺害されるよりも、栄養失調にて餓死あるいは病死する兵士数が急増した。日本軍は約31,000人、アメリカ軍は約7,100人の兵士、船員、飛行士、海兵隊員が犠牲になった。




2023年5月15日月曜日

文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、1980年2月8日に銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。

中華人民共和国の黒龍江省のハルビン郊外の南東約30kmの雪原の野原で、1980年2月8日にトラックから降ろされた。ハルビン郊外に広がる雪の野原に強制連行された王守信は、死刑の執行を待った。文化大革命が終結後、元党支部書記であった女性の王守信は、横領の罪で、銃殺により処刑された。王守信は雪の地面の上にひざまずいて、処刑執行者に背部から銃殺された。




 黒龍江省の党支部書記と賓県燃料公司の社長であった52歳女性の王守信が、約10万ドルの金を横領したと、1979年に文化大革命で迫害されたノンフィクション作家の劉賓雁が人妖の間の暴露記事で告発した。王守信は、文化大革命以前は単なる出納係であった。文化大革命にて造反派を組織して、急進的な政治権力を掌握した。中国全土に蔓延る斡旋収賄と汚職の象徴となる横領犯として裁判された。ハルビンの工人体育館でわずか3日間の公開裁判で、王守信は無実を叫ぶも、拷問して沈黙させた。有罪して死刑の判決を受けた。その他の暴力犯罪と比較しても、あまりにも死刑の判決は重大すぎた。1980年2月8日に、死刑は執行された。

 毛沢東は、1966年から腹心の林彪や四人組の共産党幹部らと、紅衛兵と呼称された若者たちを扇動した。旧来の社会主義に市場経済の導入を図った走資派の政権幹部を暴力的に迫害した。文化大革命をスローガンに、紅衛兵が全中国に暴走して、伝統文化や市民に甚大な被害を伴った。紅衛兵の暴動はしだいに毛沢東にも制御不能になった。1976年に、毛沢東の死と四人組の逮捕によって国家的騒乱が終結した。  

 1966年の秋までに、ほとんどの中国人にとって、毛沢東は生き神様になっていた。毛沢東は、1958年2月に中国を大躍進に導いた毛沢東は、2000万人以上の死者を出す壊滅的な飢饉をもたらして1959年に失脚した。毛沢東は、1966年の文化大革命の最初の数年間、天安門広場で約1100万人以上の紅衛兵を出迎えた。人々は、地主、金持ちの農民、反革命分子、悪い人物という4つの要素に属した市民が非難され、即座に処分された。文化大革命での推定死者数は間接も含めると、総計約2,000万人と推定された。




2023年5月14日日曜日

2023年4月28日のロシア軍の20発以上の巡航ミサイル攻撃とドローン2機の中の2発の巡航ミサイルがウクライナ中部のウマンのアパートに激突して、消防士は死体を運搬して、犠牲者の約23人はほぼ全員が死亡した。

2023年4月28日のロシア軍の20発以上の巡航ミサイル攻撃とドローン2機の中の2発の巡航ミサイルがウクライナ中部のウマンのアパートに激突した。住宅ビルの瓦礫から、消防士は回収された死体を運搬した。約23人の犠牲者のほぼ全員が死亡した。その23人の死者の中に、6人の子供が含まれた。



    Warning: Firefighters carry a body recovered from the rubble of a residential building that was hit during a Russian attack in Uman, central Ukraine, Friday, April 28, 2023. (AP Photo/Bernat Armangue)

   弟6歳のミハイル・シュルガ(Mykhayl Shulha)は、4月30日の葬儀で11歳の姉ソフィア・シュルガ(Sofia Shulha)の棺の横で、親族と泣きながら抱き合った。その他に参列者は17歳のピサレフ・キリウシャ(Pysarev Kiriusha)少年に哀悼を表した。弔問客がロウソクを手にして賛美歌を歌う中、イコン教会の司祭は、棺の上で線香の容器を振り回した。




 







Warning: Mykhayl Shulha, center, cries next to the coffin of his sister Sofia Shulha during a funeral prayer in Uman, central Ukraine, Sunday, April 30, 2023. Sofia Shulha, 11, and Pysarev Kiriusha, 17, were killed during a Russian attack on a residential building early Friday morning. (AP Photo/Bernat Armangue)


   ロシア・ウクライナ戦争の戦闘は、戦場以外の場所でも長距離ミサイルで多くの命が奪われた。ウクライナ中部のウマンへのロシア軍のミサイル攻撃で死亡した子供やその他の市民を葬儀して、4月30日に親族や友人は棺の前で泣いた。ウマンの被災した建物の近辺に、市民が花や犠牲者の写真を持ってきた。9階建てアパートへの攻撃は、キエフから南に約215kmに位置する都市ウマンで発生しました。

 ロシア・ウクライナの戦争は、同4月30日に、他の場所でも多くの死者をもたらした。ウクライナの国境を接するロシア地域は、ウクライナ軍のロケット弾攻撃で、4人が死亡した。ロケット弾がウクライナとの国境から約9km離れたスゼムカ村の家屋を直撃した。ロシアのベルゴロド州では、戦争中散発的に国境を越えた砲撃を受けた。3月には、ウクライナの破壊工作員によるブリャンスク地方への侵攻で、2人が死亡した。

 同4月30日には、ウクライナのケルソン地方で過去24時間に約27回のロシア軍の砲撃を受けて、市民1人が死亡した。ウクライナ北部のブリャンスクとベルゴロドに接するスミ州とチェルニヒフ州は、同4月30日の夜間に約11回の砲撃を受けた。ドニプロペトロフスク州では、ロシア軍の砲撃でニコポルの48歳の住民が死亡し、2人が負傷した。6棟の多層ビルと6棟の民家が被害を受け、その他数棟の建物、ガスパイプライン、送電線が破損した。

2023年5月13日土曜日

1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。

 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に広島市内に落下して炸裂した。1945年10月頃に、佐々木雄一郎が爆心地から約800m付近の安田銀行の広島支店前の近隣から東方の焼け跡を、展望して写真撮影した。本通商店街の平田屋町(現 本通)の周辺である。広島の中心商店街であった本通商店街は一瞬にして瓦礫と化した。写真の右側にはキリンビールホールと爆風で変形して倒壊した下村宝石店、左奥には中国新聞ビルなどが見えた。広島市民が、廃墟となった焼け跡の広島市内の街路を、大八車などを引きながら移動した。 

 佐々木雄一郎は、東京のオリエンタル写真学校を経て、内閣情報部が発行した「写真週報」のカメラマンとなった。日本の敗戦により、退職金の代わりのフィルムを携えて、1945年8月18日に広島市に帰省した。母や兄家族、姉、妹ら親族の約13人が死亡や行方不明となった。最初は肉親の死亡した場所だけを写真撮影する予定が、再度に撮影したい場所が見つかった。次第に広島原子爆弾による広島市の復興から変貌の写真撮影に深入りした。元宇品町(南区)に住み着くと、観光の写真撮影で生計を立てながら、被爆都市の広島市を記録し続けた。被爆者の苦痛を知り、物言わぬ墓標を一徹に撮影した。シャッターをきるうちに、約10万枚を撮影した。職業病である眼病を乗り越えて、組織に属さず市民のカメラマンを貫いて記録し続けた。『写真記録 ヒロシマ25年』(朝日新聞社)を、1970年7月30日に出版した。原爆はヒロシマの地上に存在するあらゆるものを破壊した。だが、その大地までは消し去ることはできなかった。

 佐々木雄一郎は、広島原子爆弾の爆心地からの距離をあらわす円周にむかって、8本の線と2個の点を図示した。放射状に8本の線をのばした。この8本の線が円周上に鋭く突刺さり停止した点が、彼の肉親約13人が被爆した地点である。13人は全員が爆死あるいは行方向不明となった。行方不明で未だに線の引けなにい迷える1個の点も含めた。被爆図が、一片の生の匂いもとどめぬ、完璧な原爆死を証明した。広島市の戦後は原子爆弾の被爆後からはじまった。





2023年5月12日金曜日

日本軍が広東攻略戦で広州を1938年10月に陥落した後に、広州市街のあちこちに死体が散乱していた。日本軍の爆撃機による無差別爆撃により、広州は激しい爆撃を受けた。

日本軍が広州を1938年10月に陥落した後に、広州市街のあちこちに死体が散乱していた。日本軍の爆撃機による無差別爆撃により、広州は激しい爆撃を受けた。街中は瓦礫だらけで、市民は防空壕に避難をして、死体を木箱に乗せて引きずられた。日本軍の爆撃機は、表向きは軍事戦略の旗印のもとで、一般人や公共施設にも砲弾を向けた。官舎や要塞を除けば、鉄道駅や空港、商店、民家はどこも被害は免れなかった。日本軍は広東省政府を占領して、門に日の丸を立てた。日本軍が広州を占領後に、野原には死体が散乱した。

 広東攻略戦において1938年10月初旬、日本軍の約4万人以上が、大亜湾に上陸して広州の占領を開始した。中国革命軍の約8万人は、大亜湾から広州までの広東省と珠江東岸を防御した。10月12日未明に、日本軍は大亜湾に上陸した。中国革命軍の守備隊は抵抗した後、広州市街を放棄して夜退却した。日本軍の爆撃を受けて、多大な犠牲を出した。日本軍は13日に平山を、10月14日に恒里を占領し、日本軍は優勢な戦力で恵州への猛攻撃を開始した。10月17日、日本軍部隊を撃破し、中国革命軍は保呂に退却させた。10月18日、日本軍は縣港と石澳を包囲して攻撃し、中国革命軍は大きな損害を被った。日本軍は戦車で猛攻して、中国革命軍は敗走した。10月20日日本軍は防衛線を突破し、曾城県を占領した。10月21日に、日本軍は沙河を占領し、広州市を占拠した。10月23日に太平倉とに従化を占領した。10月23日に虎門要塞、10月25日に三水、10月26日に佛山を攻略し、10月29日には広州市南郊に到達した。日本軍は広州と周辺の要衝を支配下に置いた。広州の戦いで中国軍は約10,000人、日本軍は約2,500人が犠牲となった。

 日本軍の広州爆撃では、約100回近い空襲で、爆撃機は900機以上の出撃があった。約6000人以上が死亡して、約8000人近くが負傷して、約4000軒以上が破壊され、約100隻近い船が破壊された。繁栄した広州はその後7年間に日本軍の支配下に置かれた。日本軍が広州を占領した後、彼らは焼き討ちと略奪を開始した。何十本もの通りに火をつけ、賑やかな商業地区を瓦礫の原に変えた。市内の商店は略奪され、地方の民間工場はすべて日本軍に占領されるか移転させられ、民家も、食料、家具、寝具までも略奪された。




2023年5月11日木曜日

北ベトナム軍のイースター攻勢により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入し、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミス病院で、治療を受けるのを待機した。

北ベトナム軍のイースター攻勢(Easter Offensive)により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入して、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミスの病院で、治療を受けるのを待機した。戦闘が続く中で、北ベトナムのベトナム人民軍から絶え間ない砲撃にさらされ、何度も戦車に突撃された。毎日の砲撃で瓦礫と化した町には、腐敗した死体の臭いが充満した。

 北ベトナム軍の1972年3月30日からのイースター攻勢により、南ベトナムの最北中部沿岸のクアンチー市北部の戦線が崩壊した。南ベトナム(ARVN)軍と市民が国道1号線に殺到しパニックに陥った。ドンハの住民はほぼ全員が逃げ出し、デビッド・エリオットは廃墟と化した。大量の難民がフエに到達すると、フエの住民もパニックに陥った。ハイヴァン峠の南方のダナンに避難するために国道1号に住民が流入し始めた。1966年4月6日に、ベトナム人民軍(PAVN)部隊はロック・ニンを占領して、サイゴン北部のアンロックに攻め込んだ。サイゴン市内に残存した予備軍は、攻勢に対応するため国道13号線を急行した。サイゴンのアメリカ軍ラジオは、爆撃機の戦闘機をカンザスからベトナムに派遣することを発表した。

 北ベトナム軍のイースター攻勢は、ベトナム戦争中の1972年3月30日から10月22日まで、北ベトナム正規軍(PAVN)が南ベトナム正規軍(ARVN)とアメリカ合衆国軍に対する軍事攻勢である。北ベトナム軍は、3つの戦線を同時に攻撃した。規模と激しさに南ベトナム防衛側はバランスを崩した。北ベトナム軍が、1968年のテト攻勢以来初めて南ベトナムに侵攻した。北ベトナム軍は約1ヶ月に及ぶ第一戦線で、南ベトナムの防御陣地を制圧し、クアンティ市を占領した。その後に南下してフエの占領を攻勢した。北ベトナム軍は第ニ戦線で辺境防衛部隊を排除して、州都コンツムに侵攻した。サイゴンの北東の第三戦線で、北ベトナム軍はロック・ニンを制圧し、ビン・ロン州の州都アン・ロックを侵攻した。

 北ベトナム軍が侵攻の4月、停滞の5月、6月から7月は南ベトナム軍の反撃、9月のクアン・チ市の奪還に達した。3つの戦線で、北ベトナム軍は多くの死傷者と無能な戦術により頓挫した。イースター攻勢の結果、1968年11月以来、アメリカ軍は初めて北ベトナムに持連続的な北爆が開始された。南ベトナム軍はイースター攻勢による北ベトナムの侵攻を阻止した。北ベトナムは、装甲や装備の多くを失い、約10万人もの兵力を失う。南ベトナムの死傷者は約43,000人、うち約10,000人が死亡した。アメリカ軍兵士は、約10,000人が戦死して、33,000人が戦傷した。イースター攻勢の結果、約25,000人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。




2023年5月10日水曜日

第一次世界大戦の東部戦線で1918年4月に、オーストリア=ハンガリー軍兵士が、ウクライナのドニプロ市のエカテリノスラフスク通りで、ウクライナ人の労働者をポール方式による公開の絞首刑で大量虐殺した。

第一次世界大戦の東部戦線で1918年4月に、オーストリア=ハンガリー軍兵士が、ウクライナのドニプロ市のエカテリノスラフスク通りで、ウクライナ人の労働者をポール方式による公開の絞首刑で大量虐殺した。第一次世界大戦中に、オーストリア=ハンガリー軍は、パルチザンや反抗者など、現実の敵あるいは想定される敵を相手に略式の処刑で、死刑を頻繁に執行した。

 ドニプロ市は侵略が繰り返されて、2022年2月24日に勃発したロシア・ウクライナ戦争の激戦地域であるドンバス州の北部に隣接する。ドニプロ市は、ドンバス州の北部に隣接するドニプロペトロフスク州の州都である。ドニプロ市は二月革命後の1917年11月に、ウクライナ人民共和国に属した。1918年1月9日に、ソ連からボリシェヴィキの部隊が侵攻して、ドニプロ市を占領した。それから1918年4月まで、ドネツク・クリウォイ・ログ・ソビエト共和国に併合された。1918年4月以降は、ドニプロ市はドイツ軍の占領区に属した。1919年1月から6月29日までは赤色・ウクライナ・ソビエト社会主義共和国に属し、その後に、白色運動の支配地域の白色南ロシアに属した。

 ロシア内戦の間は、ドニプロ市は戦闘や破壊を免れた。1918年12月27日から31日までと1919年11月9日から12月9日までの2回、ウクライナ革命反乱軍兵士が占領した。1918年に、ウクライナ人民共和国とウクライナ国家の連合軍は追放された。1919年にドニプロは、白軍の部隊が追放された後に、ウクライナ革命反乱軍の首都となった。1919年12月30日にロシア赤軍がドニプロ市を占領し、ロシア内戦に最終的に勝利した。1933年のホロドモールの際には、ウクライナでは数百万人が餓死した。第二次世界大戦中、ドニプロ市は甚大な被害を受けた。1941年9月に、ドイツ国防軍が占領した。1943年10月に、ドイツ軍は撤退を余儀なくされ、ソ連が占領した。




2023年5月9日火曜日

太平洋戦争のサイパン島の戦いで、日本軍兵士が歩哨の隙をうかがって、アメリカ軍兵士に奇襲した。直後に、アメリカ軍兵士から逆襲されて、射殺されて殺害された。

太平洋戦争のサイパン島の戦いで、日本軍兵士が歩哨の隙をうかがって、アメリカ軍兵士に奇襲した。直後に、アメリカ軍兵士から逆襲されて、射殺されて殺害された。殺害したアメリカ軍兵士が、日本軍兵士の死体に近づいて検死した。サイパンの戦いでの極限の接近戦により、日本軍兵士の突撃の勢いが、海兵隊員を数インチまで追い詰めた。海兵隊の圧倒的な防衛である機関銃は、侵入する日本軍兵士の格好の標的となった。音と銃口の閃光は、日本軍兵士の注意を引きつけて、日本軍兵士は、短時間の偵察で忍び寄り、手榴弾を投げたり、ナイフで銃座に飛び込んだ。サイパン島の戦いは、1944年6月15日から7月9日に勃発した。日本軍は陸軍約22,702人と海軍約6,690人が、頑強に悲惨に奮戦した。

 サイパン島の戦い初日である1944年6月15日は、日本軍は海岸でアメリカ軍を撃破できず、殲滅を目的とした日本軍兵士はラッパを吹き、旗を振って突撃した。アメリカ軍の武力にに蹂躙され撤退し、戦場には約700人近い死者を残した。塹壕の中は、日本軍兵士の死体でいっぱいなった。最初のサイパン島の民間人が戦線になだれ込んで、苦しみ、不潔になり、病気になり、負傷した。敵対する日本軍兵士と怯えた民間人を見分ける術はなかった。動くものはすべて銃撃した。やがて、生き残った日本軍は尾根を越えて退却した。 

 サイパン島の標高約474mのタポチョ山は、サイパン島の中央部にそびえた。長い山道を登りながら激戦をかさねた後に、ちょうどアメリカ軍はサイパン上陸後の11日目にタポーチョ山を占領した。山頂よりアメリカ軍は島の北端のマルビ岬まで一望の中に眺めることができた。アメリカ軍は、しだいに日本軍をサイパン島の北端へ押し込め始めた。6月30日にはタポチョ山一帯の日本軍は掃討され、残存部隊はガラパン方面に撤退した。日本軍が北部へ転進した後に、アメリカ軍が追撃した。タポチョ山制圧までに、アメリカ軍海兵隊はかなり甚大な死傷者を出して、未訓練の陸軍部隊にさまたげられた。上陸軍の司令官は、同名の師団長ラルフ・スミス陸軍少将を解任した。陸軍側は大憤慨を起して、太平洋戦線でアメリカ軍は最悪の陸海軍間の抗争に発展した。




2023年5月8日月曜日

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。

1900年12月30日に、ボーア戦争にてイギリス軍兵士が、南アフリカのドルトレヒトにて、同じ仲間の戦死傷者に水筒から最後の一滴の水を与えた。戦場の写真の映像から、「最後の一滴」と表現された。イギリス軍医師が、ボーア戦争のモンテ・クリストの戦いで、銃剣傷を負った被害者のボーア人兵士の手当てをした。加害者のイギリス軍兵士は、被害者に気がついた。「被害者のボーア人兵士の具合は悪いのですか」とイギリス軍医師に尋ねた。「はい、かなり悪いです」と医師は返事をした。「まあ、できる限り優しくやったよ。実際、ボーア人に銃剣を押し込むよりも、銃剣を引き出して傷ついた!」と、加害者のイギリス軍兵士のコックニーは言った。「その後、ボーア人に水筒から飲み物を飲ませたんだ。被害者のボーア人が私に出会ったのは、ちょっとした幸運だったと思わないか」

 ボーア戦争にてハイデルベルク近郊で、2人の特殊隊員がイギリス軍将校を驚かして重傷を負わせた。特殊隊員は、イギリス軍将校の傷の手当てをして、最も近いイギリス軍キャンプに連れて行った。特殊隊員の人道的行為は非常に高く評価された。キャンプを出る前に夕食と風呂が与えられた。ボーア戦争後に、将校の両親は、息子であるイギリス軍将校の命を救ったことに感謝するため、特殊隊員の一人であるレナード・ビュイスを訪問した。

 ボーア戦争にてメシュ―エン将軍は、まともな状態でボーア軍に捕らえられた唯一のイギリス軍の将軍であった。逆に致命傷を負ったペン・シモンズ少将は、ダンディーで一時的にボーアの捕虜となって死亡した。デラリー将軍は、トウィーボッシュの戦いで大腿部を負傷し、同じダンディーで捕らえられた。デラリー将軍は抗議にも関わらず、クラークス・ドロップのイギリス病院に送り込まれた。戦後、メシュ―エンとデラリーの二人は友人となり、1915年にデラリーの死亡を聞いたメシュ―エンは「戦争では勇敢な敵のボーア人を、平和では真のイギリス軍の友を失った」と言った。

 ボーア戦争のゲリラ段階にて、ボーア人は重態の死傷者をイギリス軍の救急車に残した。イギリス軍の農場焼き討ちや民間人狩りなどの残酷な行為の中で、1つだけ救われる点があった。イギリス軍兵士が、将校も男性も、ゆるぎない人道的な態度をとっていた。傷病者を部隊の慈悲にためらいもなく委ねた。人道的な態度が、戦争の厳しいさを和らげた。

  ボーア戦争は1899年10月11日から1902年5月31日まで、約50万人のイギリス軍は南アフリカでボーア人を相手に厳しい植民地戦争であるボーア戦争(Anglo-Boer War)を繰り広げた。多勢に無勢とはいえ、約88,000人のボーア人は熟練した強い敵だった。最初の挫折と長いゲリラ戦の後に、イギリス軍は最終的に勝利を収めて南アフリカを占領した。イギリス軍は約2万人以上、ボーア軍は約1万4千人以上が戦死した。




2023年5月7日日曜日

ウクライナ軍兵士は、2023年1月12日にハリキウ州のクリリブカ近郊にて2022年9月下旬の戦場で、凍った泥のプールから砲撃により殺害されたロシア軍兵士の死体を回収した。

ウクライナ軍兵士の死体回収チームは、2023年1月12日にハリキウ州のクリリブカ(Kurylivka)近郊の2022年9月下旬の戦場で、凍った泥のプールから殺害されたロシア軍兵士の死体を回収した。ロシア軍兵士の死体は、2022年9月下旬の戦場でウクライナ軍により破壊されたロシア軍の装甲車の近くで発見された。ウクライナ軍の死体回収チームは、砲撃のために殺害された死体の8体のうち3体を回収できた。ロシア軍がハリキウ州から撤退した後には、ロシア軍が破棄して捨て去った死体や戦車が散乱した。

 ハリキウ州のクリリブカでは、2022年9月25日に、ウクライナ北東部のロシア領内での戦闘から逃れようとした約31人を乗せた車両が襲撃され、7人が死亡した。イギリスは2023年9月期に、ロシア軍の戦死者数は約2万5000人以上、捕虜や負傷者を含める戦死傷者数は、約8万人に上ると推定した。ロシアの国防相は2023年9月期に、約5,937人のロシア軍兵士が戦死したと発表した。ノルウェー軍は2023年1月22日に、ロシア軍は約18万人の死傷者を出し、ウクライナ軍兵士の戦傷者は約10万人、民間人は犠牲者約3万人であると推定した。アメリカ軍も、ロシア軍の死傷者は10万人を超えて、ウクライナ軍も同程度の死傷者が出たと推定した。ロシア軍もウクライナ軍も、数ヶ月間、信頼できる犠牲者数の公表していない。

 2022年9月12日にロシア軍は、ハルキウ市近郊で占領した地域の大部分を明け渡して撤退した。9月13日に、ハルキウ州から撤退した初期段階で、ロシア軍部隊は甚大な犠牲を出し、ウクライナ軍の反撃を前に完全に再編成できなかった。プーチン大統領は、9月21日に職業軍人だけでなく、予備役などのロシア国民を部分的に約30万人以上も動員する大統領令に署名した。ロシアは9月23日から9月26日に併合するためにウクライナ南部と東部の4州の住民投票を強行した。9月30日にロシア議会の決議を経て、併合の手続きが強行されて、4州は併合条約に署名した。


















Warning: Ukrainian servicemen recover the remains of Russian soldiers from frozen pools of mud on the frontline on January 12, 2023 in Kurylivka, Ukraine. The bodies were discovered near a destroyed Russian armoured vehicle in late September 2022. The recovery team was able to retrieve 3 of the 8 bodies due to artillery shelling. (CNBC, The Atlantic, Photo by Pierre Crom/Getty Images)

2023年5月6日土曜日

広島原子爆弾に被爆した似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。左の下顎、口から首に、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。

広島原子爆弾の炸裂により重度の被爆者は、広島湾沖の似島臨時救護所に搬送された。似島臨時救護所に入所者の左顎から左首に、著明なケロイドが膨隆した。表面的な火傷でも巨大なケロイドが形成された。左の下顎から、口から首にかけて、手のひら大のケロイドに覆われ、醜い形態を伴った。瘢痕組織の肥厚とは異なり、蟹の甲羅や脚に類似した不規則な形態の膨隆を形成するために、ケロイド(Keloid, ギリシャ語で蟹の意)と呼称された。ケロイドは、被爆後の火傷後に形成される瘢痕組織の繊維状の過形成で、皮膚への放射線熱傷を伴った。

 毛包のない火傷は治癒が長期化しやすく、治癒後もケロイドが形成されやすい。原子爆弾のケロイドは、形状が大きい傾向があり、治癒が遅れた傷が、厚く深いケロイドを形成した。創傷閉鎖後も、ケロイドの再発を示す傾向があった。ケロイドの傷跡は、被爆者の皮膚が原子爆弾の炸裂の初期閃光の熱に直接にさらされた部位に形成された。被爆者の火傷の治癒に際して過剰な量の瘢痕組織を形成する傾向があった。

 原爆による火傷や傷の傷跡が厚くなり、ケロイドの瘢痕の増殖が見られた。ケロイドは、爆心地から約2km以内で被爆して熱線を浴びた被爆者の約50~60%に見られた。ケロイドは放射線とも関係性があった。ケロイドは、被爆者の心と体にも永続的な傷跡を残した。特に、顔面に発生したケロイドには精神的な苦痛を伴った。背中や肩にできたケロイドは、肌を見せるのを避けた。

 1955年5月には、広島から25人の被爆してケロイドを顔貌などに発現した若い女性の原爆乙女が、顔と体の形成外科手術のためにアメリカに連れて来られた。彼女たちは原爆乙女(Hiroshima Maidens)と呼ばれて、約18ヵ月間のアメリカ滞在で形成手術を受けた。アメリカ国民が、出会った最初で唯一の原爆被爆者として当時はとても有名になった。




2023年5月5日金曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士は南部式軽機関銃をかかえたままアメリカ軍海兵隊隊員に殺害された。硫黄島の火山灰の海岸には、殺害された日本軍兵士が倒れ込んだ悲壮な死体が散乱した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、日本軍兵士は南部式軽機関銃をかかえたままアメリカ軍海兵隊隊員に殺害された。硫黄島の火山灰の海岸には、殺害された日本軍兵士が倒れ込んだ悲壮な死体も散乱した。

 1945年2月19日初日に、アメリカ軍海兵隊は北太平洋に浮かぶ火山島である硫黄島の海岸に上陸した。上陸用舟艇のタラップが下がると、海岸は混沌とした納骨堂に変貌した。日本軍の砲撃と機銃掃射により、身動きがほとんど不可能となった。海岸の全長は、日本軍の砲撃で、アメリカ軍の車両の残骸と、海兵隊の死傷者の無残な死体が四方八方に無差別に散らばり、海岸は、この世の地獄となった。最終的には第二次世界大戦中最大の水陸両用軍を集結させた。約8万人の海兵隊が、硫黄島の日本軍を直接攻撃した。

 アメリカ軍を待ち受けたのは、日本帝国でも屈指の兵力を擁する要塞であった。硫黄島の日本軍守備隊は21,000人で、ほとんどが歩兵で、砲兵と高射砲が加わった。装甲部隊、工兵や補給部隊を含む海軍の支援部隊もいた。硫黄島分は、迷路の地下道で結ばれ、厳重に要塞化され、十分に隠蔽された。

 最初の装甲LVT(水陸両用A)は午前8時59分に海岸に到着した。上陸地点の砂浜は粗く黒い火山性の結晶で、人も車も通れない状態で、車両は泥沼化した。海岸は海兵隊員で埋め尽くされた。日本軍の大砲、迫撃砲、小銃の猛烈な砲撃が、混雑した浜辺に突然降り注いだ。砲撃の恐ろしい轟音が上陸地点に押し寄せると、海岸線はたちまち納骨堂と化し、地面には死屍累々の海兵隊員と破壊された車両が散乱した。日本軍の機銃掃射が鳴り止まない中、海兵隊は、日本軍の防御を横断して、海兵隊員は塹壕を攻撃し、手榴弾を投げ込み、爆風に耐えて生存した日本軍兵士を殺害した。海兵隊は日本軍の砲火を浴びながら、甚大な犠牲を払って、次々に倒れ、孤独に苦しみながら死亡した。

 日本軍の砲撃が海岸線を襲い続ける中、海兵隊員は堤防を登り、内陸へ侵攻した。戦車や車両が続々と上陸し、海岸線は残骸で詰まっていた。夕闇が迫る中、日中の戦闘で疲労した海兵隊員たちは身を固め、日本軍の反撃の脅威の中で夜を迎えた。上陸作戦は、3万人の兵員を、装甲車と砲兵によって硫黄島へ正面から上陸した。硫黄島の初日の戦いは、血の犠牲を伴った。熾烈な戦場の中で、すべての負傷者の収容は不可能であった。日中に約1,000人の兵士が避難したが、海岸には恐怖におののき、骨折し、必死に治療を必要とする無力な海兵隊員の戦死傷者が散らばった。日本軍の迫撃砲は無差別に降り注ぎ、救護所を2度も直撃した。




2023年5月4日木曜日

太平洋戦争にてグロスター岬の戦いが、1943年12月26日から1944年1月16日まで勃発した。グロスター岬に上陸したアメリカ軍は、直ちにジャングルを踏破して日本軍の飛行場に侵攻して、日本軍は甚大な犠牲を伴った。

太平洋戦争にて、グロスター岬の戦い(Battle of Cape Gloucester)が、1943年12月26日から1944年1月16日まで勃発した。グロスター岬に上陸したアメリカ軍海兵隊は、直ちにジャングルを踏破して日本軍の飛行場に侵攻した。日本軍守備隊は荒涼たるジャングルの中で猛烈に抵抗するも、圧倒されて甚大な犠牲を伴った。多数の殺害された日本軍塀士の死体が、ジャングルの中に散乱した。アメリカ軍兵士が、日本軍兵士の支隊を見回して検死した。

 アメリカ軍は、12月26日にニューブリテン島の最西端にあるグロスター岬に上陸を敢行して、その近隣の飛行場を占領した。グロスター岬は、ニューギニア本土の北東で、ニューブリテン島の半島北部の西端にあり、近隣の村の名前からツルブと呼称された。日本軍の反撃で、一時的にアメリカ軍の侵攻が鈍化するも、1943年12月下旬までに飛行場はアメリカ軍海兵隊によって占領された。日本軍は、機関銃、迫撃砲、砲撃で攻撃したが、銃撃戦で撃退されて、日本軍はほとんどが撤退した。アメリカ軍兵士は、約310人が戦死しても約1,083人が戦傷した。日本軍兵士は、約2,000人が戦死した。

 日本軍守備隊は、海上輸送船団や沿岸輸送に対する空爆と潜水艦の攻撃のために、物資と医薬品が枯渇した。海岸線に沿う原始的な小道網も不十分で、雨季を通して浸水して、樹木でジャングルが構成された。車両は、グロスター岬の泥の中で身動きが取れなかった。日本軍は猛烈に陣地を守備したが、侵攻するアメリカ軍海兵隊を失速させるも、日本軍守備隊には人員も武力も衰弱した。

 1943年には連合軍の攻勢により日本軍は2月7日にガダルカナルを失って、東部ニューギニアでも敗退を続けた。ダンピール海峡をのぞむニューブリテン島西部のグロスター岬(ツルブ)は、連合軍の北上を食い止める要衝として、約6000人が防衛で送り込まれた。すでに制空権がほぼ連合軍に奪われていたため、部隊の輸送はニューブリテン島の北東端の拠点にラバウルから駆逐艦などで行われた。約2万人の連合軍は12月26日から猛烈な艦砲射撃と空襲を加え、グロースター上陸を開始した。ジャングルの山中に潜伏して持久戦をした日本軍は、ツルブからの後退を開始して、司令部から2月24日にラバウルまでの後退を命令された。過酷な持久戦と1,000kmに及ぶ撤退の途上で、約2,300人以上が死亡して、約7,000人が行方不明となった。




2023年5月3日水曜日

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmのアル・マハウィルの集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰り、無残な遺体を抱きながら泣いた。

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmにて、アル・マハウィル(Al-Mahawil)の集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、見つかった身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰った。イラク人男性は、無残な遺体を抱きながら泣いた。1991年のシーア派の蜂起が鎮圧されて以来、行方不明になっている人々の親族は、トラクターや素手で土を掘り起こしながら、親族の遺体を必死で探した。

 イラク戦争が2003年5月1日のアメリカ軍の戦闘終結宣言した後から、イラクの法医学チームは2003年5月14日に、バグダッドの南約90kmのアル・マハウィル近郊の農場近くの集団墓地に埋められた推定約1万5000体もの死体を発掘し始めた。アル・マハウィルの集団墓地には、行方不明のイラク人が数百人集まり、親族の死体を探した。湾岸戦争が1991年3月1日に終結した直後の3月5日から4月5日までサダム政権に対するイラク蜂起が勃発した。1991年3月に首都バグダッドにいたフセイン大統領は、シーア派の反乱を鎮圧するために、イラク南部の地方に分散した決死隊を南部に素早く集結させた。サダム・フセイン政権は、ヘリコプター、長距離砲、装甲地上部隊を集結して暴動に残忍に反撃した。南部で約30,000~約60,000人のシーア派イラク人、北部で約20,000人のクルド人を殺害した。イラク人権省は、アメリカ軍主導の侵攻以来に約3年間に登録した約200の集団墓地の大半は南部にあったと公表した。

 犠牲者は、1991年3月頃に、フセインがイラク南部で起きたシーア派の反乱を鎮圧した際に殺害された。イラクの裁判所は、1991年の弾圧で少なくとも約10万人、おそらく約18万人のシーア派が殺害された文書証拠と目撃者の証言を持っていた。イラクの1991年の殺人者たちは、蜂起の責任者を追い詰めるのに時間をかけず、戦闘年齢に達した若者を無作為に捕らえて、裁判なしで死刑を執行して、恐怖政治であった。犠牲者たちは、後ろあるいは横に投げ出され、互いの上に倒れ、足が下敷きになり、銃弾が胸部や腹部を打った跡が、衣服の裂け目から検証できた。銃撃で足の骨が粉々になり、死体は身を寄せ合って横たわった。出土した死体の多くは、手首の骨が背中で合わせ結ぶためのロープや布の破片が土にまみれた骨に混じった。







2023年5月2日火曜日

第一次世界大戦の東部戦線の戦場で、1915年9月に急遽に掘られた塹壕の中に、殺害されたロシア軍と中央同盟軍の敵味方の多数の兵士の死体が積み上げて並んでいた。

 第一次世界大戦の東部戦線の戦場で、急遽に掘られた塹壕の中に、殺害されたロシア軍と中央同盟軍の敵味方の兵士の死体が積み上げて並んでいた。現在のベラルーシのザベレジーノ(Zaberezino)にて、1915年9月7日に塹壕の死体を集団埋葬して葬式した。

帝政ロシア軍は、1915年7月13日から中央同盟軍の攻撃を受けて、第一次世界大戦の東部戦線で戦略的にポーランドより8月1日から大撤退と避難した。ロシア帝国軍は、ガリシアとヴィスワ・ランドの突出部を放棄した。ロシア帝国の非常に装備が不十分な軍隊は、中央同盟国軍による1915年7月から9月にかけて、夏の攻勢作戦で大きな損失を被った。帝政ロシア軍は東部戦線の前線を短縮して、ドイツ軍による潜在的な包囲網を回避するために8月1日に大撤退を命じられた。突出部にある大規模なロシア軍は、撤退自体は展開されたが、ロシア軍の士気に対する深刻な打撃となった。

 中央同盟軍は夏の攻勢の間、ロシア帝国軍に非常に大きな犠牲者を出して、約45日間で約1,006,000人に上った。平均1日あたりの死傷者数は、約22,300人にも及んだ。ノヴォゲオルギエフスク要塞の陥落と、多数の駐屯地のドイツ軍によるロシア軍兵士の捕獲に影響を与えた。中央同盟国の軍隊は、1915年5月から6月には約535,300人から、7 月から8月には約348,000人の犠牲者に及んだ。ゴルリス作戦で中央同盟軍の最も深刻な犠牲者数は、オーストリア=ハンガリー軍の犠牲者数で、ドイツ軍の約2.5倍に及んだ。ドイツ軍の大参謀本部には、多数の死傷者数が発生して、帝政ロシア軍に対する攻撃を否定して、防御に切り替える要因になった。

 帝政ロシア軍側に、犠牲者の規模は、軍事作戦に大きな影響を与え、攻撃への移行でなく、長期の戦闘も放棄するに至った。特に苦痛だったのは捕虜数の増加であった。中央同盟国軍は、7月中旬から9月1日までに約511,679人の帝政ロシア軍兵士の捕虜数を発表した。第一次世界大戦の東部戦線の戦場で、急遽に掘られた塹壕の中に、殺害されたロシア軍と中央同盟軍の敵味方の兵士の死体が並んでいた。現在のベラルーシのザベレジーノ(Zaberezino)にて、1915年9月7日に塹壕の死体を集団埋葬して葬式した。

帝政ロシア軍は、1915年7月13日から中央同盟軍の攻撃を受けて、第一次世界大戦の東部戦線で戦略的にポーランドより8月1日から大撤退と避難した。ロシア帝国軍は、ガリシアとヴィスワ・ランドの突出部を放棄した。ロシア帝国の非常に装備が不十分な軍隊は、中央同盟国軍による1915年7月から9月にかけて、夏の攻勢作戦で大きな損失を被った。帝政ロシア軍は東部戦線の前線を短縮して、ドイツ軍による潜在的な包囲網を回避するために8月1日に大撤退を命じられた。突出部にある大規模なロシア軍は、撤退自体は展開されたが、ロシア軍の士気に対する深刻な打撃となった。

 中央同盟軍は夏の攻勢の間、ロシア帝国軍に非常に大きな犠牲者を出して、約45日間で約1,006,000人に上った。平均1日あたりの死傷者数は、約22,300人にも及んだ。ノヴォゲオルギエフスク要塞の陥落と、多数の駐屯地のドイツ軍によるロシア軍兵士の捕獲に影響を与えた。中央同盟国の軍隊は、1915年5月から6月には約535,300人から、7 月から8月には約348,000人の犠牲者に及んだ。ゴルリス作戦で中央同盟軍の最も深刻な犠牲者数は、オーストリア=ハンガリー軍の犠牲者数で、ドイツ軍の約2.5倍に及んだ。ドイツ軍の大参謀本部には、多数の死傷者数が発生して、帝政ロシア軍に対する攻撃を否定して、防御に切り替える要因になった。

 帝政ロシア軍側に、犠牲者の規模は、軍事作戦に大きな影響を与え、攻撃への移行でなく、長期の戦闘も放棄するに至った。特に苦痛だったのは捕虜数の増加であった。中央同盟国軍は、7月中旬から9月1日までに約511,679人の帝政ロシア軍兵士の捕虜数を発表した。





2023年5月1日月曜日

朝鮮戦争で、咸興の洞窟の中で約300体の咸興市民の死体を、洞窟の中から外に運び出した。多数の死体から家族の死体を見回りがら探した。地底の坑道から死体を引き上げた。

朝鮮戦争にてアメリカ軍と韓国軍の仁川上陸作戦により、北方に追われて北朝鮮の朝鮮人民軍が咸興から撤退した。その直前の1950年9月に、朝鮮労働党は人民軍戦線司令部に撤退命令とともに、各地方党に国連軍上陸時に支柱となるすべての要素を除去せよという命令を下した。朝鮮人民軍は、反共産主義の容疑者として咸興市民を洞窟の坑道に中に生き埋めの生埋葬した。

 咸興の洞窟の中で殺害された約300体の咸興市民の死体を、洞窟の中から外に運び出した。1950年10月10日に、アメリカ軍を主体とする国連軍は、親族らに死体の検死をさせて確認させた。咸興の親族らは、多数の死体から家族の死体を見回りながら探した。家族の死体を確認した咸興市民らは、死体の直前で慟哭した。

 


 咸興徳山鉱山に、朝鮮人民軍によって生埋葬によって虐殺された死体を、咸興市民らは1950年11月13日に地底の坑道から死体を引き上げた。地底から、生埋葬された約482体の死体を引き上げた。



 








 朝鮮人民軍による虐殺の惨状は、最南端の南海の海辺から北朝鮮の清川一帯、原山~咸興まで勃発した。大韓民国の李承晩政権も北朝鮮の金日成政権も、自分らが後退する場合に、市民が反李承晩や反金日成の旗の下で蜂起するのを懸念して朝鮮市民を虐殺した。大韓民国の李承晩政権は、1950年6月28日に緊急事態下の犯罪処罰に関する特別措置令を公布して、戒厳令下で左翼分子に対する即決処刑を命じた。ナチスドイツや日本軍も他国に侵攻して、その民族を大量虐殺したが、自分らの国民には銃口を向けなかった。

 朝鮮戦争では、民間市民に対する報復的大量虐殺が多発した。南北の政権が転覆すめ過程で、南北双方に加担した民間市民に対して広範囲に報復的大量虐殺が発生した。特に、1950年7月から9月期間に、朝鮮人民軍が南侵攻して、占領地の左翼が右翼の報復的虐殺を主導した。その後に韓国軍とアメリカ軍が北侵攻すると、旧占領地の右翼が、左翼の報復的虐殺を主導した。李承晩政権も金日成政権も、右翼あるいは左翼の報復的虐殺を黙認した。朝鮮戦争にて報復的虐殺は、南北で憎悪の悪循環と相乗作用により、各地で引き起こした。