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2023年7月19日水曜日

ベトナム戦争にて、47歳女性の戦争写真家であったディッキー・シャペルは、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、1965年11月4日に爆発した地雷によって死亡した。

ベトナム戦争にて、47歳の戦争写真家であったディッキー・シャペル(Dickey Chapelle)は、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、爆発した地雷によって死亡した。1965年11月4日に、チューライ基地近くで、南ベトナム解放戦線のベトコンの地雷が炸裂して、その破片が身体を射殺した。彼女はベトナム戦争で殉職した最初のアメリカ人女性特派員となった。「私が死ぬときは、アメリカ海兵隊のパトロール中でありたい」と彼女は語っていた。彼女の最期の死亡は、"起こるべくして起こった "と伝えらた。




 ディッキー・シャペルは、1965年11月4日午前8時頃にクアンガイ省チューライの南16kmで海兵隊小隊とパトロール中のブラックフェレット作戦中に戦死した。海兵隊によるチュウライ近郊での捜索・殲滅作戦であった。シャペルの頸部に破片を受けて、頸動脈を切断して、間もなく死亡した。彼女の最期の瞬間はアンリ・ユエ(Henri Huet)の写真に収められた。彼女の死体は6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに送還されて、海兵隊により丁重な埋葬が行われた。海兵隊は彼女に軍務上の栄誉を与えた。

 ディッキー・シャペルは、太平洋戦争の硫黄島の戦いの写真を撮った。米海兵隊のウィリアム・フェントン(William Fenton)伍長は、硫黄島の浜辺のすぐ近くに停泊していたUSSサマリタン病院船の中で、重傷を負って担架に横たわり、治療を待っていた。シャペルは、551人の重傷の海兵隊員がその船に乗船し、彼らの命を救おうとしたと説明している。硫黄島は第二次世界大戦中、最も激戦となった戦いのひとつで、海兵隊の死者6,821人、負傷者19,217人、日本軍は死者約21,000人、捕虜はわずか216人だった。



 ディッキー・シャペルは、第二次世界大戦にて女性戦場特派員の創世記の一人である。シャペルは、病院船から沖縄の無人島に向かい、大規模な攻撃で負傷者を救助する海兵隊員たちを取材した。海軍は喜ばず、彼女は銃を突きつけられて沖縄戦争から追い出された。戦争写真は手に入れて、そのうちの2枚は、沖縄の野戦病院で、14パイントの輸血を受ける前と後のジョニー・フッド(Johnny Hood)海兵隊員の写真で、血の川の献血に拍車をかけた。

 

2022年12月7日水曜日

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、劣悪な環境で切断手術を受けて、5日後に死亡した。

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、切断手術を受けた。ボウンは、病院のベッドに横たわるボウンには、物資も乏しく、非衛生的で劣悪な環境であった。ボウンは地雷で受傷してから約5日目に敗血症で死亡した。左大腿切断されるも、右足は切断せずに患肢温存して、重篤な感染症を引き起こした。左下肢だけでなく、右下肢の切断が必要であった。地雷の犠牲者の多くは、民間人の非戦闘員であった。

 カンボジアのラタナ・モンドル西部のトレン・コンミューンで、ヒアン・ボウンは、12月1日にカンボジア政府軍の分隊と通常のパトロールに出た。12月1日の昼前に地雷を踏んで、約3時間後にバッタンバンの軍病院に移送された。戦傷したカンボジア軍兵士は、旧式ソ連製のトラックの後方に載せられた。幌をかける棒に結びつけた血だらけのハンモックに載せて運送された。

 地雷によってボウンの左下腿は破壊されて、左足は薄皮の皮膚のみで繋がっていた。左足には傷はなく、左大腿の下から突き出た。病院に搬送されて入所してから、約1時間半後に医療関係者に診察を受けた。約5時間後にボウンの左大腿切断の手術が開始された。しかし、病院には、物資が不足して、薬品・酸素・輸血用の血液、医療資源、発電機などが不足していた。約40,000人が四肢切断者として生活していた。

 カンボジア内戦は、1967年にラタナ・モンドルの丘陵地帯で勃発した。カンボジアに対する軍事干渉は、アメリカ軍特殊部隊が1960年代に、南ベトナムからカンボジアに潜入して、地雷を敷設した。1975年にカンボジアを掌握したポル・ポト政権は、地雷による人民の戦闘を奨励した。地雷原となった地域の住民は、強制連行されてクメール。ルージュにより虐殺された。カンボジア地雷対策センター(CMAC)は、1,150万人の人口で約500万の地雷を推定した。1979年以来、約64,000人を超える死傷者と約25,000人を超える切断者が記録された。1997年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞して、オタワ条約が調印された。