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2023年12月7日木曜日

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。クール・ルージュが包囲したカンボジアの首都プノンペンへのロケット攻撃後に、1970年4月頃にプノンペンの通りには多数の死体が散乱した。軍事情勢は、クメール・ルージュがプノンペンの北西わずか約10kmにある重要なカンボジア陸軍司令部を大規模に攻撃して悪化した。

 クメール・ルージュに繋がる1967年3月11日のサムラウト蜂起から、カンボジア内戦が勃発した。一方には、アメリカと南ベトナムの支援を受けたカンボジア国王ノロドム・シアヌーク政府があった。反対側には北ベトナムの支援を受けたカンプチア民族統一戦線があった。しかし、アメリカの支援は共産主義者との戦いでは役に立たなかった。1973年3月から7月だけで、約25万トンの爆弾がカンボジア領土に投下された。しかし、これは共産主義者を止めるのには役立たなかった。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンはクメール・ルージュの支配下に入った。クメール・ルージュの指導者はポル・ポトであった。

 クメール・ルージュの主な支持者は文盲の若い農民であった。彼らの憎悪と復讐は、都市住民にも及んだ。国民の下層階級の間でクメール・ルージュが絶大な人気を与えた。ベトナムを敵視するという考えが盛んに広められた。クメール共和国の打倒後、クメール・ルージュは代表者の物理的破壊と射殺であった。次のステップは都市からの人々の立ち退きだった。4月18日に、プノンペン住民は、クメール・ルージュに即時退去命令を受けた。住民全員が72時間以内に市から立ち退かされた。人々はあらゆる権利を剥奪された。拒否者は、敵として殺害された。困難な障害者や高齢者も殺害された。道路沿いでは数万人の住民が銃撃された。途中で体力の低下と飢えから多数の人々が死亡した。4月23日、ポル・ポトは空虚な首都プノンペンに入った。

 クメール・ルージュは、カンボジアに共産主義社会を構築する革命実験を開始した。以前の国家は事実上清算された。法令と政府文書以外の読み書きは禁じた。統治の最初の年に、ポル・ポトの指導下のクメール・ルージュは前国家の経済を完全に破壊した。カンボジアにおける正確な犠牲者数は判明していない。クメール・ルージュが権力を掌握して、内戦は終結した。カンボジアの全人口は1,000万人未満であり、死者数は約100万人から約300万人と推定した。

 1978年末、ベトナムはカンボジアへの本格的な侵攻を開始した。1979年2月7日、プノンペンが占領されました。1979年半ばまでに、ベトナムはカンボジアの主要都市をすべて占領した。クメール・ルージュは党派的な立場に転じ、80年代を通じて対ゲリラ戦を実施しなければならない重要な勢力の代表となった。しかし90年代までにこの組織は衰退したが、その残党は今もジャングルで強盗を続けている。 




2023年11月10日金曜日

アメリカ軍のメリル・マーダーズ隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。1944年2月末から8月初旬で、ビルマの戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

アメリカ軍のメリル・マーダーズ(Merrill's Marauders)隊員が、ビルマの戦いで殺害した日本軍兵士の死体を見つめた。メリル・マレーダーズ隊員のほとんどは、ビルマで戦いの任務に志願した熟練した戦闘員であった。アメリカ軍の戦闘部隊のメリル・マーダース隊員は、先鋒大隊として日本軍と戦って、日本軍の戦線の奥深くで参戦した。ビルマで戦闘に参戦したのは1944年2月末から8月初旬で、ビルマの日本軍との戦いは、病気、ヒル、昆虫、過酷な地形、天候との絶え間ない闘いであった。

 1943年8月のケベック会議で、ビルマにて日本軍の補給線と通信網を破壊し混乱に陥れる一方で、街道の再開するために、日本軍の背後へのアメリカ軍の長距離の侵攻作戦を決定した。ルーズベルト大統領は、危険な任務への志願者を募る大統領令を出した。約3,000人のアメリカ軍兵士が志願に応じた。部隊の正式名称は第5307複合部隊であり、コードネームは後に司令官フランク・メリル准将からメリル・マーターズと命名された。

 メリル・マーターズ部隊の募集は1943年9月1日に始まり、1944年8月10日に解散した。アメリカ陸軍第5307混成部隊で、日本軍が支配するビルマで後方に長距離に侵攻するために組織され訓練された。メリル准将が指揮した約2997人のアメリカ軍兵士を、メリルの襲撃隊と呼称した。

 メリルの襲撃隊は、1944年2月24日に最初の作戦で2,750人が参戦して、3月7日にワラウバムを占領後に、約2,500人が残存した。3月12日から4月9日の第2次作戦で、67人が死亡し、379人が傷病のため避難した。約2,000人に減少した第5307部隊は、4月28日の第3作戦で、ミィトキーナ飛行場奪取作戦のために、中国兵とカチン原住民兵を増員した。その奪取時に部隊は約1,310人に半減した。5月17日から6月1日に部隊の大部分は病気で苦しんで、空路で後方の病院に避難した。ミイトキーナの町が占領後に、当初のガラハド部隊のうち約200人が残存した。

 1944年2月から5月のマーターズ作戦で、ビルマ北部を奪還して、インド鉄道基地と中国への旧ビルマ街道を結ぶレド(Ledo)街道を開拓するために、中国第22師団と第38師団と緊密に連携した。カチン原住民兵は、ビルマ北西部のフカウン渓谷からイラワジ川沿いのミトキナまで、ジャングルを抜けて山を越えて行進し、戦った民兵であった。5つの主要な戦闘と30の小規模な戦闘で、メリル・マターズ部隊は、日本軍第18師団兵士と衝突して侵攻した。日本軍主力部隊の後方で侵攻して、補給線と通信手段を混乱させ、中国軍の南進に道を開いた。マ−ターズの作戦の絶頂は、ビルマ北部で唯一の全天候型飛行場であるミトキナ飛行場の占領であった。1944年8月に解散した第5307混成部隊の最後の勝利となった。作戦終了時に、マ−ターズ部隊の全員は、熱帯病、疲労、栄養失調、あらゆる蓄積に苦しみながら病院に疎開した。






2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年10月9日月曜日

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。戦死した夫の死体に抱きかかえて、若い未亡人は苦悶しながら嘆き悲しんだ(@ Don McCullin)。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

 1975年4月17日にプノンペン陥落して、クメール・ルージュによってクメール共和国(現在のカンボジア)の首都プノンペンが占領されて、カンボジア内戦は終結した。1975年4月初旬に、クメール共和国に残された最後の砦であったプノンペンは、クメール・ルージュに包囲されて、ポチェントン空港からの空中補給に完全に依存した。クメール・ルージュの制圧が目前に迫り、アメリカ政府は1975年4月12日に、アメリカ国民と同盟国のカンボジア人を避難させた。4月17日のうちに、プノンペン周辺の最後の防衛線は制圧されて、クメール・ルージュがプノンペンを占領して、クメール共和国政府は崩壊した。

 捕らえられたクメール共和国軍は、オリンピック・スタジアムに連行され、そこで処刑された。政府や軍の幹部は、処刑前に自白書を書かされた。クメール・ルージュはプノンペン住民に強制退去を命じて、4月30日までフランス大使館に避難した国外居住者を除き、プノンペンは空っぽになり、タイに移送された。外国人はフランス大使館の敷地内に押し込められた。約2週間後には外国人たちはタイ国境までトラックで運ばれ、追放された。外国人が去り、カンボジアのクメール・ルージュによる民主カンプチアで始まった恐怖政治の唯一の外部目撃者を失った。

 クメール・ルージュは、プノンペンを支配下に置いて、約200万人のプノンペン住民を地方の農村部に強制移住を強行した。家や学校で銃を突きつけられ、直ちに移動しなければ発砲された。病院でも患者は路上に追いやられた。家族はバラバラになり、子供たちは混乱の中で両親を見失った。首都プノンペンから続く道路は大渋滞となり、何千人もの人々が死亡した。友人や親族は死体を置き去りにし、わずかな持ち物を担いで足早に移住を強制された。




2023年10月5日木曜日

バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

第二次世界大戦の太平洋戦争が勃発した直後に、大東亜戦争にて1942年1月18日に、オーストリア軍の対戦車砲は、マレー半島を南下する日本軍の進撃を一時的に食い止めた。バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

 1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、日本軍がマラヤを南下して、2月にはシンガポールを占領するに至った。1941年末にマラヤに配属されたオーストラリア軍第8師団は、そのほとんどが日本軍の捕虜となり、悲劇的な形ですでに損失した。シンガポールは、大東亜戦争おけるオーストラリアの安全保障の礎石であったが、日本軍によるシンガポールの陥落で礎石は打ち砕かれた。

 ムアール(Muar)の戦いでは、第二次世界大戦中のマレー作戦の最後の主要な戦いであった。1942年1月14日から22日に、ムアール川とゲメンサ橋の周辺で行われた。連合軍兵士は、ゲメンサ橋での待ち伏せと、ゲマスの町の北数kmで行われた第二次戦闘で、日本軍に大損害を与えた。オーストリア軍第8師団は橋での待ち伏せで、日本軍第5師団の約600人を殺害した。ゲマス北方の戦闘ではオーストリア軍の対戦車砲が日本軍の戦車数両を撃破した。この戦闘で、日本軍がマレー作戦で最も大きな損害を被った。

 待ち伏せ攻撃は連合軍には成功だったが、西海岸のムアルとバクリの防衛は完全に失敗した。インド軍歩兵第45旅団はほぼ全滅し、オーストラリア軍歩兵2個大隊にも大きな死傷者が出た。連合軍の戦死傷者は約3,100人に達して、日本軍は約700人が戦死亡して、800人が戦傷した。マラヤ作戦とシンガポールの戦いで、約1800人以上のオーストラリア軍兵士が戦死して、約1400人以上が戦傷した。シンガポール陥落で約15,000人以上のオーストラリア軍兵士が捕虜となった。




2023年9月25日月曜日

マレー半島南部のマラや連邦のマラッカのアサハンで、日本軍が中国人系住民を粛清した大量の遺骨が発掘された。日本軍がマレー半島を占領中に、華人社会で反日分子の容疑者を特定して、排除する大量虐殺を執行した。

マレー半島南部のマラや連邦のマラッカのアサハンで、日本軍が中国人系住民を粛清した大量の遺骨が発掘された。大東亜戦争にて、日本軍がイギリス軍から1942年1月31日にマラヤ連邦を、シンガポールを2月15日に奪取して占領した。粛清(Sook Ching)は、浄化による粛清を意味する中国語である。日本軍がマレー半島を占領中に、大検挙と呼称して、華人社会で反日分子と疑われる人物を特定して、排除する大量虐殺を執行した。日本軍は1942年2月21日から3月4日に、18歳から50歳までの中国人男性が、集団検挙センターに強制連行されて、反日の容疑者は処刑された。日本軍は、中国の国民党と共産党の両勢力を財政的に支援する中国人系の華人を最も嫌悪した。

 1942年2月18日に、日本軍第25軍司令官の山下奉文中将は、中国人内の反日分子の排除を命じた。日本軍の占領軍が、反日容疑者は裁判なしで処刑した。2月7日に、マレー連隊の約70人の生存兵士が、日本軍によりシンガポールのファラーパークの捕虜収容所からパシルパンジャンの戦場に強制連行されて銃殺された。粛清は2月21日にシンガポールで、その後にマラヤ全土で勃発した。脅威と容疑した中国人の華人を一網打尽にして処刑する大虐殺の粛清の勃発であった。日本軍憲兵隊によって推定約5万人以上の中国人系の華人が殺害された。

 1942年2月18日に、山下奉文中将は日本軍第25軍に対して粛清の指令が出した。粛清の指令は、18歳から50歳までの中国人系の華人男性に、指定スクリーニングセンターに出頭を命じた。指令は特に、義勇軍、共産主義者、略奪者、武器所持者、日本軍が管理・配布した反日容疑者リストが選別処刑の対象者であった。

 集団検挙は、1942年2月21日から3月4日まで、日本軍の憲兵隊第2野戦部隊によって、都市部で執行された。各指定スクリーニングセンターの選別は、恣意的かつ無秩序に行われた。ジャラン・ベサールセンターでは、眼鏡をかけた男性は教養があり、抗日活動を行った罪があると選別された。別のセンターでは、柔らかい手は教育の証拠で選別された。テロック・クラウ・スクールのセンターでは、人々は職業に基づいて選別された。不運にも選別された人々は、ローリーに積み込まれて、遠隔地に強制連行された。容疑者は、即刻に機関銃で射殺して処刑された。日本軍は、粛清の殺害をほとんど隠さなかった。日本軍は、約5,000から約6,000人を処刑したと推定された。中国人の華人らは約40,000から約50,000人と推定した。




2023年9月21日木曜日

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍によるタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設する強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍による泰緬鉄道の強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。手足のしびれ、筋肉の機能低下、嘔吐、精神錯乱などがみられた。脚気は、水腫を引き起こした。体内の水分が足のほうに流れ込み、足と脚が腫脹した。足はひどく腫れており、立ったり歩いたりするのが非常に苦痛である。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

 日本軍は1943年12月5日から、大東亜戦争に必要な物資を供給するため、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を執行した。泰緬鉄道は険しいジャングルの中を約420kmも建設した。約6万人の連合軍の捕虜と約20万人のアジア系労働者のロムシャの俘虜労働力によって建設された。1943年のモンスーンの中で、手工具と筋肉で鉄道を敷設した。全員が日本軍の「スピード」との叫び声に駆り立てられた。致命的な熱帯の環境下、不十分な配給での容赦ない強制労働は、莫大な犠牲をもたらした。1943年10月に鉄道が完成するまでに、少なくとも約2,815人のオーストラリア人と、約11,000人以上の他の連合軍捕虜、約75,000人のロムシャが病死した。

 ビルマ-タイの泰緬鉄道での死因の最たるものは病気であった。過度の労働、栄養失調、粗末な食事、日本軍が十分な医薬品を提供することを拒んだ結果、ほとんどすべての捕虜が病気になった。強制労働させられた捕虜は一度に複数の病気にかかることが多かった。重病人のみが休息を許された。民間人なら重病と見なされても、働き続けた。

 病気では赤痢と下痢で、捕虜の死因の3分の1以上を占めた。便が出続けることで脱水症状を引き起こし、生存に不可欠なビタミンが失われた。栄養に富んだ食事がなかったため、アビタミノーシス(ビタミン欠乏による病気)が蔓延した。その最も頻発する病気は、ビタミンB1の欠乏による脚気とナイアシンの欠乏によるペラグラであった。

 マラリアはビルマ-タイ鉄道での死者の約8パーセントを引き起こした。マラリアは蚊によって媒介され、その症状は悪寒、発熱、衰弱であった。被害者は、戦後も繰り返し発症することがあった。熱帯性潰瘍は、鉄道事故による死者のわずか2%であったが、特に嫌われた。傷口が微生物に感染することで発症し、骨まで肉を食いちぎられた。多くの場合、切断が唯一の選択肢だった。しかし、適切な薬や器具がなかったため、多くの患者が命を落とした。

 その他の病死では、コレラは非常に感染力が強く、死亡率も高いため、囚人の約12%が死亡した。糞便に汚染された食物や水によって蔓延し、便所があふれる雨季に流行した。激しい胃痙攣で二重になって地面に転がり、手足は痙攣し、筋肉が痙攣してピクピク動いた。嘔吐と、腸から米のとぎ汁の白っぽい液体が無理矢理押し出され噴出した。

 1943年半ばの泰緬鉄道の追い立てられた「スピード」の時期には、毎日のように死者が出ていたため、各収容所には粗末な墓地があった。後で遺体を回収して身元を確認できるように、医療関係者は死者の墓場の詳細を記録した。葬式は厳粛に行われ、ジャングルからラストポストの音符が聞こえた。焚き火の刺激臭がキャンプ中に漂った。日本軍は死んだ捕虜の埋葬を許可し、葬儀に立ち会った。生前の捕虜の苦しみには無関心でも、死後は尊重した。




2023年9月5日火曜日

フランス軍の外人部隊の空挺部隊は、インドシナ紛争で1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケで、ベトミンのゲリラ部隊を掃討し殺傷した。

フランス軍の外人部隊の空挺部隊の兵士たちは、インドシナ紛争にて1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケ(Mao Khê)で、ベトミンのゲリラ部隊を掃討して殺傷した。ベトミンは約2,000人から約3,000人が殺害され、フランス軍は約40人が殺害され、約150人が戦傷した。ベトナム人ゲリラの死体が、マオ・ケの野原に散乱した。1949年にフランス人徴集兵の海外派遣が禁止されて、外国人部隊はナチス・ドイツ親衛隊(SS)などの退役軍人などで構成された。元親衛隊員は、第二次世界大戦の東部戦線にて、パルチザンと戦った経験があった。フランス領インドシナでは効果的な戦闘員となったが、但し外国人部隊はフランス本国では政治的には受け入れられなかった。

 ベトナム沿岸部では、膨大な数のフランス軍兵士がゲリラ部隊の待ち伏せの多い道路や河川で命を落とした。空からの補給が不可欠となり、フランス軍はAAC-1輸送機で、1952年以降はアメリカ軍から供与された輸送機に頼った。ベトミンとベトナム人民軍がより高性能の対空兵器を手に入れると、補給源も危険で頼りなかった。

 フランス軍には、対反乱戦の経験者はほとんどいなかった。フランス軍の戦術は、敵地を碁盤の目状に分割し、正方形に攻撃部隊をかき集めた。フランス軍は、北部一帯に、1951年にド・ラトル線を形成する数百の鉄筋コンクリート製の要塞を建設した。戦術の問題点は、ベトミンは土地にも縛られず、後退したり攻撃した。防衛要塞は、孤立した脆弱な場所に大勢のフランス軍兵士を縛り付けた。フランス軍には、陸軍と海軍の河川突撃師団や空挺コマンド集団は、迅速な展開戦術を駆使した。優秀な軍団兵士と空挺部隊は、戦闘が最も激しい戦場で精鋭として継続的に活用された。

 ベトミン(Vietmin)は、1941年5月19日に結成され、フランスによる植民地支配からの独立を求めて、第一次インドシナ戦争で戦闘に従事したベトナムの独立運動組織である。ベトミンは通常の軍隊として建設され、PAVNの拡大は急速で、1951年までに約154個大隊が編成された。ベトナムの地形と人民を熟知して、人民の支持を得れた。フランス軍は致命的に失敗し、ベトナム人民軍は限られた資源で生き延びて、戦うことができた。何千人もの志願兵がいて、物資は確実に戦闘員に手渡しで運ばれた。政治的意思や戦略的大胆さを弱めずに、膨大な数の死傷者を吸収できた。フランス軍の失敗を指摘する際に、ベトミンは革命軍であった。ベトナム人民軍(PAVN)は、後にベトナム戦争では、対アメリカ軍とのベトナム戦争中は、北ベトナム軍(NVA)と呼称された。




2023年3月22日水曜日

ベトナム戦争にて1965年2月7日から勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムでは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の多数の死体が散乱した。

ベトナム戦争にて1965年2月7日に勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の死体が散乱した。

 アメリカは、インドシナ問題に関する1954年ジュネーヴ協定を破壊して、南ベトナムで特殊戦争を進めて、北ベトナムに対する挑発と破壊を強めた。その典型的なものは、1964年8月5日の空軍を使ったトンキン湾攻撃であった。重大な侵略行動は、北ベトナム軍と人民から激しい攻撃と非難を受けた。1964年8月5日のトンキン湾事件から1965年2月7日の北爆開始までに、アメリカは世界の世論の反対を受けても、20数回にわたり戦闘機や軍艦を派遣し、北ベトナムの北爆を加え、ラオスの戦争を拡大すると同時に、カンボジアの領土を絶えず侵略した。

 ジョンソン大統領は1965年2月7日午後2時に北爆の命令を下した。アメリカの戦闘機は東海(東シナ海)上に停泊するアメリカ第七艦隊の航空母艦から何回も発進し、ドンホイ市とクァンビン省のその他の地区およびヴィンリン地区のコンコ島に攻撃を加えた。ドンホイの病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加え、同地の人民の生命、財産に損失を与えた。人民の生命、財産を守り、ベトナム民主共和国の領土の保全を守るため、現地の軍隊と人民は断固たる反撃を加え、敵機4機の撃墜、多数を撃破した。

1965年2月7日にアメリカ軍が空軍を使って攻撃を加えた北爆は、ベトナム民主共和国に対する重大な新たな戦争行為でとなった。国際法およびベトナム問題に関する1954年のジュネーヴ協定に対する違反であった。アメリカ政府は南ベトナムにアメリカ軍事力の増派を決定した。

  アメリカ軍は、南ベトナムの苦境を挽回するために、ベトナム民主共和国に対して北爆をしかけた。南ベトナムにアメリカの軍事力を強化し、戦争を南ベトナム以外の地区に拡大した。インドシナおよび東南アジアの戦争の危機が増悪した。北ベトナムは、アメリカ軍の新たな戦争行為と南ベトナムに対する軍隊および兵器の増派した。



2022年12月7日水曜日

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、劣悪な環境で切断手術を受けて、5日後に死亡した。

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、切断手術を受けた。ボウンは、病院のベッドに横たわるボウンには、物資も乏しく、非衛生的で劣悪な環境であった。ボウンは地雷で受傷してから約5日目に敗血症で死亡した。左大腿切断されるも、右足は切断せずに患肢温存して、重篤な感染症を引き起こした。左下肢だけでなく、右下肢の切断が必要であった。地雷の犠牲者の多くは、民間人の非戦闘員であった。

 カンボジアのラタナ・モンドル西部のトレン・コンミューンで、ヒアン・ボウンは、12月1日にカンボジア政府軍の分隊と通常のパトロールに出た。12月1日の昼前に地雷を踏んで、約3時間後にバッタンバンの軍病院に移送された。戦傷したカンボジア軍兵士は、旧式ソ連製のトラックの後方に載せられた。幌をかける棒に結びつけた血だらけのハンモックに載せて運送された。

 地雷によってボウンの左下腿は破壊されて、左足は薄皮の皮膚のみで繋がっていた。左足には傷はなく、左大腿の下から突き出た。病院に搬送されて入所してから、約1時間半後に医療関係者に診察を受けた。約5時間後にボウンの左大腿切断の手術が開始された。しかし、病院には、物資が不足して、薬品・酸素・輸血用の血液、医療資源、発電機などが不足していた。約40,000人が四肢切断者として生活していた。

 カンボジア内戦は、1967年にラタナ・モンドルの丘陵地帯で勃発した。カンボジアに対する軍事干渉は、アメリカ軍特殊部隊が1960年代に、南ベトナムからカンボジアに潜入して、地雷を敷設した。1975年にカンボジアを掌握したポル・ポト政権は、地雷による人民の戦闘を奨励した。地雷原となった地域の住民は、強制連行されてクメール。ルージュにより虐殺された。カンボジア地雷対策センター(CMAC)は、1,150万人の人口で約500万の地雷を推定した。1979年以来、約64,000人を超える死傷者と約25,000人を超える切断者が記録された。1997年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞して、オタワ条約が調印された。




2022年10月12日水曜日

約50人以上のインドネシア軍の混成隊が、北アチェ県警察の勾留者を襲撃して暴行した。その犠牲者の約27人が重態となり病院に搬送されて、そのうち約4人が死亡した。

1999年1月6日に、インドネシア政府の国家人権委員会がアチェを調査した。1月9日の夜明け頃に、インドネシア軍の機動部隊は、ウィバワ99作戦によりカンダン村でGAMを捜索して掃討した。逮捕した自由アチェ運動(GAM)の容疑者約38人をインドネシア青年国民委員会(KNPI)のビルに強制連行して勾留した。KNPIビルに勾留者のうち、約10人は北アチェ県警察にて拷問されて、超法規的処刑が執行された。さらに約50人以上のインドネシア軍の混成隊が、北アチェ県警察の勾留者を襲撃して暴行した。その犠牲者の約27人が重態となり病院に搬送されて、そのうち約4人が死亡した。インドネシア軍の容疑者は、KNPIビル事件で軍事法廷で責任が追求された。国軍兵士の約4人が免職で7年の懲役刑となった。司令官の曹長も、6年の懲役刑を宣告された。

 アチェ特別州は、インドネシアのスマトラ島の最北端で、首都ジャカルタから約1600kmにある。1970年代半ばまでに、アチェの天然資源に対してインドネシア政府は弾圧して、多くの分離抵抗運動を弾圧して、多くの指導者を殺害あるいは逮捕した。1989年に再び自由アチェ運動が蜂起した。1990年から1998年までアチェを軍事作戦地域(DOM)に指定した。スハルト政権が、弾圧して虐待と虐殺した。日本の円借款で建設した液化天然ガス(LNG)の精製をするアルン社の敷地内に設置されたインドネシア軍の拷問施設で、アチェの市民が、誘拐、拷問、法律を無視した超法規的に処刑された。

 1989年から1990年に、約6,000人のインドネシア軍がアチェの反乱鎮圧に派遣された。アチェ市民の数千人が殺害されて、行方不明、拷問、強姦、逮捕されて勾留された。1992年6月までに約37人の市民と約12人の運動家が、裁判で有罪となり処刑された。特別軍事作戦で、インドネシア軍に強大な権力と虐待と虐殺の特権を与えた。1989年から1991年に少なくとも約2,000人が殺害された。国連は、東チモールを監視したが、イスラム教徒であるアチェは無視した。1998年5月21日にスハルト政権が打倒されて、アチェの軍事作戦地域が解除された。しかし、解除後も、自由アチェ運動に対抗してインドネシア軍はアチェを支配して弾圧を継続した。2004年12月16日のスマトラ島沖地震でアチェは壊滅した。2005年8月に自由アチェ運動はインドネシア政府と和平を締結した。




 

2022年10月4日火曜日

ベトナム戦争にて、1966年6月19日に南ベトナムの首都サイゴンの市内にて、南ベトナム解放戦線(ベトコン)の手榴弾が爆発して、3人の民間ベトナム人が無差別に殺害された。

ベトナム戦争にて、1966年6月19日に南ベトナムの首都サイゴンの市内にて、南ベトナム解放戦線(ベトコン)の手榴弾が爆発して、3人の民間ベトナム人が無差別に殺害された。爆死した死体が、街路に吹き飛ばされた。警察官が、3人の死体を検死して捜査した。

 1966年4月〜5月のバーミンガム作戦で、約5,000人以上のアメリカ軍が大量のヘリコプターと装甲車に支援されてサイゴン北部のベトコンを掃討した。両軍の小規模な戦闘もあったが、3週間で約100人のベトコンを殺害したのみであった。戦闘はベトコンに左右されて、ベトコンはなかなか捕まらず、ベトコンの捜索は困難であった。

 ベトナム戦争では、アメリカ軍兵士は1964年に約24,000人であった。1965年に約180,000人から、1966年9月には約325,000人にも激増した。ベトナム戦争の戦況が泥沼化した。1967年からアメリカ軍は、サイゴン北方の鉄の三角地帯のベトコンの拠点を撲滅して、北爆により北ベトナム軍を追い詰めた。ベトコンと北ベトナム軍は、多大な犠牲を伴いながら粘り強く抵抗した。アメリカ合衆国内の反戦運動の激化によって、アメリカ軍の士気と勢力が減弱した。

 サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦で、アメリカ軍はその後に、最盛期で一度に約50万人もの地上軍を投入して、ヘリボーン作戦や森林戦を展開した。村や森に紛れた北ベトナム軍兵士やベトコンのゲリラを掃討して壊滅する索敵殺害作戦により、ヘリコプターや戦闘機から投下されたナパーム弾などにより、農村部への無差別攻撃や、韓国軍兵士による村民への虐待と虐殺を引き起こした。アメリカ軍は、当初は蔡命新が率いる韓国軍の対ゲリラ戦術に対して批判的であるも、後には韓国軍のゲリラ戦術を採用した。

 1966年には、ベトナムに駐留するアメリカ軍は約385,000人に達して、さらに約60,000人の水兵が海外に駐留した。1966年は、約6,000人以上のアメリカ軍兵士が戦死して、約30,000人が戦傷した。ベトコンの死者数は推定で約61,000人であり、ベトコン兵力は約28万人以上であった。




2022年3月18日金曜日

1992年12月にカンボジアのコンポントム州ストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃により、カンボジア人の少年は大量出血して、若者が抱えて病院に搬送するも死亡した。

1992年12月にカンボジアのコンポントム州のストーン郡で、ポル・ポト派勢力の砲撃に巻き込まれて、カンボジア人の少年は大量出血して重態となる。ストーン郡の青年たちが、至急に両手で担いで病院に護送した。病院に着いた直後に絶命して死亡した。突如に砲撃が炸裂した後に硝煙が立ち込み、大量出血した少年が倒れ込んだ。意識を消失した少年は、鼻と口から出血して、胸部から血液が流出した。少年の母親が近寄って叫び声が響いた。その付近にいた若者が、少年を抱えて病院に搬送するも死亡した。1993年3月3日と5月20日にも、ストーンは共産主義のクメール・ルージュから激しい侵攻を受けた。コンポントム州の戦場では、日本の高田警視が虐殺され、日本人ボランティアの中田厚仁も殺害されたが、極秘に扱われた。カンボジアでは、パリ和平条件である停戦は頓挫して、武装解除されなかった。

 カンボジアのコンポントム州は、ポル・ポトの出身地であり、その軍隊であるクメール・ルージュが潜伏して、政府軍と猛烈な戦闘が勃発していた。コンポントムから約50mのストーンでは、政府軍、ポル・ポト派のクメールルージュ・ラナリット派のアンキが激突した。ストーン郡の周辺地域には、地雷が散在して、吹晒小屋内には骸骨や人骨が積み上がっていた。砲撃や襲撃しながら、地雷を埋めた。その状況下で、1992年2月に設置された国連暫定統治機構(UNTAC)の46カ国のPKO活動する文民警官が選挙権の有資格者の登録を継続した。1993年5月に総選挙、7月に暫定政権、9月には憲法が採決して、明石康は合法政権を樹立して、国連事務総長のガリはUNTACを終結した。

 1990年6月に、カンボジアの各派閥は、民主的な選挙の実施を促進するために新しい最高国民評議会を設立し、国連が監督する停戦に合意した。11月にシアヌークはカンボジアに帰国した。ポル・ポトは国境沿いのパイリン付近に新たな本部を設置し、クメール・ルージュに対し、カンボジアの村々で支持を得る努力を求めた。6月には、サムパンが以前の合意に反して、ベトナム兵がカンボジアに残る間は武装解除しなかった。クメール・ルージュはカンボジア国民連合党を結成するも、3月にポル・ポトは投票をボイコットした。1993年5月の選挙では、ノロドム・ラナリッドが第1党、フン・センのカンボジア人民党は2位であった。シアヌークは両党の連立政権樹立を交渉し、2人の首相を置く制度を導入した。8月までにプノン・チャットを占領し、ポル・ポトはタイに逃亡した。クメール・ルージュは反攻を開始し、1994年5月までに領土の多くを取り戻したが、1996年末までに、クメール・ルージュはカンボジア内陸部のほぼ全ての領土を失い崩壊した。




2021年12月12日日曜日

クメール・ルージュの共産党軍が迫り、首都プノンペンは激しい砲撃を受けて、直撃された民間人の死体が横たわり市場に散乱した。

カンボジアの首都プノンペンは、1975年初頭に、クメール・ルージュの共産党軍が迫り、激しい砲撃を受けた。その爆弾の直撃を受けた市場の周辺には、民間カンボジア人の死体が横たわって散乱していた。プノンペンは廃墟と化し、かつては美しかった首都も、黒く爆撃された建物が立ち並ぶ荒れ地となった。戦闘から逃れるために、全国から何千人もの難民が、首都プノンペン街に押し寄せて、1975年の時点で人口は約200~300万人にも達した。

 クメール・ルージュは1975年4月17日に首都プノンペンを陥落するまで、約1年以上にわたり供給を遮断した。クメール・ルージュの砲撃により、ほぼ継続的に首都プノンペンで炸裂した。クメール・ルージュに捕らわれた数百万人の民間人に無差別な死と負傷を与えた。クメール・ルージュはプノンペンを占領した後に、都民を強制的に追放して農村部に死の行進を強要した。両手も両足もなく、切断された虫のように地面を這っている障害者や、首に巻かれたシーツで約10歳の娘を抱えて泣いている父親、皮膚だけでくっついている下腿に足先をぶら下げていた。病院からはゴミのように患者を路上に運び出した。カンボジアの内戦で、人間の悲惨な最大の難民団となった。富裕層や知識人含むすべての住民が都市から追放されて、農村の農場で困難な労働を強制した。仏教の僧侶と少数民族には残忍な迫害を加えた。

 クメール・ルージュ軍に捕らわれたクメール共和国軍は、オリンピックスタジアムに連行されて、処刑された。政府や軍の上級幹部は処刑される前に自白書を強要された。クメール・ルージュは全ての住民にプノンペンからの退去を命じて約50万人の街は空っぽになった。街宣車が、プノンペンの住民には爆撃が差し迫ることを警告し、都市から田舎に逃避を指令し始めた。フランス大使館に4月30日までにに避難した約800人の外国人だけが、トラックでタイに移送された。それ以前の4月12日に、アメリカ大使館職員はヘリコプターで避難していた。クメール・ルージュ軍兵士たちは、プノンペンの住民たちに、すぐに家を出て田舎に退避するように命じた。住民たちは荷造りする時間もなく、銃口を向けられて避難を命じられた。患者は病院のベッドから引きずり出され、女性は道端で出産させられた。若者も、老人も、体の弱い人も、病気の人も、移動し続けなければ銃殺される危険があった。カンボジアの灼熱の太陽の下、体の弱い人たちは、暑さで体が疲弊しながら道端で死んだ。

 カンボジア内戦中に約24万人のカンボジア人の死のうち、銃器に46.3%、主にクメールルージュの暗殺戦術に31.7%、主にアメリカ軍の爆撃に17.1%、事故に4.9%と推定された。1969年から1973年にかけてアメリカ軍がカンボジアに投下した約50万トンの爆薬のうち、1973年の7カ月間で約半分が投下された。第二次世界大戦中、アメリカ軍が日本に投下した爆薬は約18万トンである。1973年には農村の大部分がクメール・ルージュの支配下に入って、内戦やクメール・ルージュによる補給路の封鎖により米の生産が途絶えて、食糧は不足した。アメリカ軍は1973年以降は、爆撃をほとんど中止して、南ベトナムからもカンボジアからも撤退した。1975年4月12日に、残されたアメリカ市民と多数のカンボジア人高官を乗せた最後のヘリコプターが出発した。その後にロン・ノル政権は崩壊して、クメール・ルージュ軍兵士がプノンペンに侵攻した。最終的には、約200万人の男女と子供がクメール・ルージュ政権下で死亡したと推定された。




2021年5月31日月曜日

ベトコン・ゲリラが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃して、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

アメリカ軍がベトナム戦争に参戦した直後に、ベトコンが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃した。ベトコン・ゲリラは、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

 ジョンソンがアメリカ大統領に再選された1964年11月には、南ベトナム政府では不安定な内乱が相次ぎ、南ベトナム解放戦線(ベトコン)はゲリラ戦から大規模な通常戦へ移行した。アメリカ軍はより厳しく1965年3月に、アメリカ軍はダナンに上陸して、北ベトナムに対して持続的な空爆攻撃を開始した。南ベトナム政府の指導者たちが即時攻撃を求め始めたら、南ベトナム側の改革と引き換えにアメリカ軍は北ベトナムへの空爆の見返りを提供した。アメリカ軍はラオスでの北ベトナムの侵入ルートに対する攻撃を強化して、北ベトナム沿岸でのアメリカ海軍による秘密作戦を敢行した。南方での北ベトナム軍の略奪に対する報復として、アメリカ軍と米南ベトナム軍は合同で北方への空爆をした。
 南ベトナム軍人たちの無責任な行動が、南ベトナムの安定を前提としたすべての軍事計画を頓挫させた。1964年12月24日午後、サイゴンに住む多くのアメリカ人がクリスマスイブを祝う準備をしている最中に、ベトコンはサイゴンのビジネス街に近いアメリカ軍将校の宿舎であるブリンクホテルを爆撃した。この爆撃は、ベトコンのテロ行為の中でも最も影響の大きいものの一つで、2人のアメリカ人が殺害され、アメリカ人と南ベトナム人が51人負傷した。
 1965年1月17日、南ベトナムは陸軍の徴兵制を拡大する法令を発布した。仏教徒が街頭で反乱して、内乱は瞬く間に南ベトナムの都市から都市へと広がり、フエのアメリカ情報機関の破壊や、17歳の少女の焼身自殺にまで発展した。サイゴンでの政権転覆して、一方で首都周辺の地方では激しい戦闘が続いて、ベトコンが徐々に優勢になった。武装したベトコンはサイゴン近郊の海岸沿い人口約6,000人のビンジア村を4日間占領して、約6人のアメリカ軍兵士と約177人の南ベトナム兵を殺害した。戦況を打開するためには、1月下旬に北ベトナムへの報復空爆をした。
 1965年2月7日朝に、ベトコンが中部高原のプレイク近郊にあるアメリカ軍のホロウェイ基地と滑走路を攻撃して、約9人のアメリカ軍兵士の約9人が殺害されて、100人以上の負傷者を出した。同日にアメリカ軍の約49機の戦闘機が、非武装地帯の上にあるベトコンのドンホイ兵舎を攻撃して、翌日に南ベトナム政府軍は、ベトコンのヴィン兵舎を攻撃した。2月10日にベトコンが、クイニョンのホテルを爆破して、建物の崩壊で瓦礫に閉じ込められて約23人の兵士が殺害され、多数が負傷した。2月12日に北ベトナムへローリング・サンダー作戦を決定した。3月2日に、アメリカ軍と南ベトナム政府軍の戦闘機が、北ベトナムの弾薬庫と海軍基地を爆破した。2月26日に北爆のためにダナンの空軍基地を強化して、3月8日上陸した。ダナンの到着は、アメリカ軍の軍事過程にてベトナム戦争の参戦が取り消せない段階となった。



2021年3月30日火曜日

プノンペンの郊外でカンボジア内戦に巻き込まれた5人の市民の死体が散乱して、警察官が死体の周囲を取り囲んだ。

カンボジアのプノンペン内の寺内の中央に、1997年7月7日に白い布をかぶせた5体の死体が横並びに集積されていた。プノンペンの郊外でカンボジア市民の5つの死体が散乱していた。制服を着用した警察官が死体の周囲を取り囲んだ。5つの死体は無数の銃弾の弾痕が残存していた車の中で殺害された。遺体の財布の中から、ラナリット派の身分証明書が残存していた。彼らはフン・セン派の軍隊の捕獲から逃れるために、車でプノンペンを出た時に、フン・セン軍に発見されて射撃されて射殺された。
 カンボジアの首都プノンペンへ1997年7月5日に、フン・セン派の軍隊がなだれ込み市内を掃討した。市内から逃げ出すカンボジア市民が溢れる中で、軍隊の兵士が殺気だって銃撃した。軍隊は、ラナリット派を掃討するために、市民も含めて無差別な砲撃と銃撃をした。約2日間の悲惨な市街戦に巻き込まれて、多数の市民が犠牲となった。7月7日に、フン・セン派の軍隊が完全に首都プノンペンを制圧した。
 カンボジア内戦は、1991年10月23日のパリ和平協定により、国連カンボジア暫定統治機構(UNTAC)がカンボジアを暫定統治した。1993年5月に特別代表が明石康であるUNTACが、カンボジアで総選挙を実施した。シアヌーク国王に由来するラナリット派のフンシンペック党が約45%、フン・セン派の人民党が39%を獲得した。第一首相にラナリット、第二首相がフン・センが就任して、カンボジア王国が成立した。それ以後から、ラナリット派のフンシンペック党とフン・セン派の人民党が衝突した。
 1997年7月5日に、人民党のフン・セン軍が、ラナリットが外国訪問中に、クーデターを引き起こして、ラナリット派勢力と武力衝突した。ラナリット派は敗走して、ラナリットは首相を解任された。ラナリット派勢力は、ポル・ポト派勢力とともにタイ国境で戦闘を継続した。

 

2020年12月30日水曜日

カンボジア内戦にて、クメール・ルージュによる首都プノンペンのロケット攻撃により、プノンペン市民が連日に無差別に殺害された。

カンボジア内戦の1973年2月に、クメール・ルージュによる首都プノンペンに対するロケット攻撃により、プノンペン市民が連日のように無差別に殺害された。カンボジア内戦中に、アメリカ軍の農村部への爆撃により農村人口は難民として都市に流入して、首都プノンペンの人口は、約200万人以上に増加した。アメリカ軍による空撃は、太平洋戦争で日本に投下された総量の3倍にも達した。数十万の農民や農業インフラが犠牲になり、カンボジア国土が一面焦土と化した。プノンペンが1973年にクメールルージュに包囲されて、アメリカ軍による空軍が勃発した。1972年から1975年までは、主にプノンペンの首都の南北のクメール国民戦線の連絡線で内戦が激化した。
 カンボジア内戦にて、東南アジアのカンボジアで、1970年3月のクーデターでカンボジア王国が打倒されて、軍事政権によりクメール共和国が樹立された。1993年にカンボジア国民議会の選挙で、民主政権が誕生するまでの内戦が継続した。1972年1月にアメリカ軍はロン・ノル軍事政権のために南ベトナム派遣軍の一部をカンボジアへ侵攻させた。カンボジア内戦に直接介入した。ベトナム戦争はインドシナ戦争に拡大した。ロン・ノルは1972年10月に軍事独裁政権を宣言し、翌1973年3月に大統領に独裁的権力をもたせる新憲法を公布した。
 中華国から支援を受けたクメール・ルージュが戦闘を続けた。ロン・ノル軍事政権は、1973年にアメリカ軍がベトナムから1974年4月に撤退すると後見を失って、カンポットの戦いが1974年2月26日から4月2日まで勃発した。1975年4月にロン・ノルは国外へ亡命した。隣国のベトナムでは南ベトナムのサイゴンが陥落してベトナム戦争が終結した。クメール・ルージュが、首都プノンペンを陥落して1976年1月にカンボジア民主国憲法を公布して、民主カンプチアと国名を改称した。