2018年10月31日水曜日

ハイチの警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。

ハイチの首都ポルトープランスで、警官らが1986年4月の抗議活動で虐殺した6人の市民うちの1人の死体の側にライフルを構えて警備した。約10,000人にも及ぶ抗議活動者らは、デュヴァリエ親子の独裁政権による犠牲者を追悼した。市民らに対する政権の弾圧は、デュヴァリエ息子が脱国した直後からも再燃した。
 アメリカからの圧力で、1986年1月までに最悪独裁国家のハイチから外国の銀行、投資家、生産者は国外に引き抜かれ操業を停止した。エイズの高い発生率で傷ついた観光産業は廃墟になった。アメリカ国務省はハイチの援助を全面停止して、デュヴァリエ息子に政権の放棄を警告した。首都ポルトープランスで暴動が広がり、企業や工場が閉鎖し、ハイチ経済は低迷した。 「デュヴァリエ野郎!」と叫ぶ抗議活動者は、車を壊し窓を閉鎖して、タイヤを燃やしゴミで道路を塞いだ。デュヴァリエ息子は状況が悪化したために、父親から独裁政権でハイチ人を弾圧した。無秩序と無秩序が状況を悪化した。首都の死体安置所には、抗議中に虐殺された7人の死体があった。警官らは、死体をトラックで運搬して、土中に投げ込み、カルシウムを注入し、薄い土壌で覆った。警察は潮で舞い戻るので死体を海に投げ込まなかった。
 2月6日の木曜日の夜、デュヴァリエ息子はアメリカ大使館に政権の放棄を告げた、空港に向ってアメリカ空軍の貨物機に乗り込み、フランスに亡命して飛び降りた。しかし、デュヴァリエ息子はすでに誰が政権を運営するかを決めていた。脱国する前に、新大統領を選出し政権を引き継ぐ4人の軍人と2人の民間人からなる6人の与党評議会を選んだ。 6人のうち5人は軍事勢力のアンリ・ナンパフィ大佐を含む長年のデュヴァリエ政権支持者であった。


2018年10月30日火曜日

ソ連軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人夫は妻と娘が撲殺された死体の側で路地に座り込み悲嘆した。

ソビエト連邦軍がブタペストに侵攻する直前に、ユダヤ人の妻と娘が撲殺された。その死体の側で、ユダヤ人の夫は路地に座り込み、悲しみに暮れて慟哭した。
 連合軍がノルマンディーに上陸した1944年6月6日には、ソ連の赤軍がハンガリーの首都であるブタベストに約数100kmに迫った。その頃に後方の支援を受けて、ドイツ親衛隊の虐殺者たちは、わずか12週間でハンガリー・ユダヤ人約43万5,000人を強制連行した。列車を毎日操業して、1日あたり約14,000人にものぼるハンガリー・ユダヤ人が強制連行された。
 1944年7月7日には強制連行されたハンガリー・ユダヤ人はすぐに虐殺された。それに報復するために、7月2日に連合国のアメリカ軍はブタペストに空爆した。それに逆ってナチス・ドイツ軍は7月14日にユダヤ人評議会を拘束して、さらに約1,500人も連行して輸送した。
 強制連行されたハンガリー・ユダヤ人は途中の中継もなく、アウシュビッツ=ビルケナウ強制収容所のガス室に直送され虐殺された。焼却場による膨大な死体処理は困難となり、ガス虐殺された死体を集積して、戸外の穴で焼却した。強制収容所の周囲は炭化した死体の悪臭で満ち溢れた。
 1944年10月14日にハンガリーのファシストである矢十字党がクーデターを起こして、元首ホルティ・ミクローシュは失脚した。テロリズムは最後の瞬間まで続き、ソ連軍がブタペストまで約100Kmに迫った11月6日に、ハンガリー・ユダヤ人約40,000人は徒歩でオーストリア国境まで連行された。その行軍の途中で数千人のユダヤ人が絶命した。


https://drive.google.com/file/d/1H6FYqi_MgRpO239VeDrvCzp8VGOgyqdR/view?usp=sharing

2018年10月29日月曜日

モロッコは植民地である 西サハラの独立活動家を、劣悪な監獄に押し込め悲惨な暴行と尋問で虐待と虐殺した。

西サハラの独立活動家の多数を、劣悪なモロッコの監獄に押し込められて、モロッコ占領当局から、悲惨な暴行と尋問を受けて瀕死の状態となった。
 アフリカ大陸で、未だに最後の植民地として西サハラはモロッコに占領され続けている。北をモロッコに国境を接して、西サハラの有用な国土の約80%を、地雷防御である砂の壁でモロッコに占領支配されている。残り20%の不毛な砂漠地帯を、アルジェリアのティドフに西サハラ難民政府が関与している。
 1884年にスペインはボハドール岬からブラン岬までの海岸を植民地とした。1958年にスペインは地域を併合してスペイン領サハラとした。1975年の11月に非武装のモロッコ人の約30万人が、タルファヤに集結して、国王ハサン2世の合図を待って西サハラへ進入する緑の行進が勃発した。遂にスペインは1975年11月14日に西サハラを手放した。
 モロッコは1976年から西サハラの北部2/3を併合し、 モロッコはモーリタニア共和国の撤退後1979年に領有地を占領した。1976年2月27日からポリサリオ戦線はサハラ・アラブ民主共和国を建国宣言してアルジェリアに亡命政権を樹立した。モロッコに対してゲリラ戦を開始した西サハラ紛争は1991年の停戦まで続いた。停戦の合意であったモロッコからの独立か併合かを選択する住民投票は未実施で、西サハラはモロッコの植民地である。
 モロッコによる被占領民が、2010年10月10日から約2万人が、蜂起キャンプの抗議活動を起こした。11月8日に、モロッコ軍は非武装の蜂起キャンプを襲撃して、無差別に虐殺した。連行された被占領民には、暴行と拷問による虐待を受けた。国連や国際社会が蜂起キャンプの虐待と虐殺を非難するも、逆にモロッコは西サハラを戒厳令下で占領した。

https://drive.google.com/file/d/1ZjHp5Am6lqiF31HE8tLZSkavKjSyyU2n/view?usp=sharing

2018年10月28日日曜日

ソマリア人群衆は激怒してアメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。

 1990年代初め、ソマリアは一族戦争により荒廃した。飢饉が広がった。アメリカ主導の多国籍軍は供給ラインを回復したが、その存在が新たな緊張を生じた。1993年7月、4人のジャーナリストが怒っている暴徒によって殴られて虐殺された。ほとんどのヨーロッパのジャーナリストは逃げた。
  ソマリアの武装勢力が1993年9月下旬にアメリカ軍のヘリコプターを撃墜したとき、数人のジャーナリストが同乗していた。 目撃者によると、アメリカ軍兵士の死体の一部は袋に入れて展示された。アメリカ国防省は、アメリカ人の死体の一部が、ソマリアのモガディシュ通りを通り過ぎて見せしめになったことを平然に否定した。
  アメリカ軍部隊は1993年10月3日に、ソマリアの武装勢力であるモハメド・ファラ・アイディドと激しい戦闘に従軍していた。その結末に、ソマリアの武装勢力は一人のアメリカ軍兵士を抑留した。ソマリア人の暴徒は、アメリカ軍兵士の死体を引っ張って、群衆の暴徒が脅威となった。
  ソマリア人の群衆は激怒して、アメリカ軍兵士を死体を殴って汚くなり、下着だけに引きちぎり、部分的に局部まで剥ぎ取り露出させた。ソマリア人の群衆は恐怖に敏感に反応した。アメリカ軍は1994年3月にソマリアから完全撤退した。
    1988年にソマリア内戦が勃発した。1969年のクーデターからバーレ軍政権を1991年 1月に排除して、アリ・マフディ・ムハンマドが暫定大統領に就任した。1991年5月に反政府勢力統一ソマリ会議(USC)が首都を制圧した。USCの内部で、モハメッド・ファッラ・アイディード将軍派が、アリ・マフディ暫定大統領派と対立した。各勢力の内部抗争により南北は再び分裂した。1991年6月に北部の旧英国領地域が「ソマリランド共和国」として独立宣言した。
    1991年 アイディード将軍派に首都を追われたアリ・マフディ暫定大統領が国際連合に対しPKO部隊派遣を要請した。1992年6月にアイディード将軍がいくつかの軍閥を統合してソマリ国民同盟(SNA)を結成した。1992年12月にクリントン大統領が派遣するアメリカ軍を主体にして、国連は多国籍軍によるPKO部隊を派遣した。1993年5月に武力行使を認めた第2次国連ソマリア活動を展開した。アイディード将軍は国連に対して宣戦布告した。1993年10月にモガディシュの戦闘が勃発した。1993年にアメリカ合衆国は、ソマリアから撤兵した。


https://drive.google.com/file/d/1JbTTdOsltBUtLner6w5ZXENaLdYAdOt5/view?usp=sharing

2018年10月27日土曜日

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。

日中戦争にて、日本軍は南京郊外で南京市民の青年や軍人の容疑者を大量虐殺して、塹壕に死体を集積して地中に埋めた。
 日中戦争にて、中国国民政府軍は1937年8月13日から10月36日までの第2次上海事変に敗退により、中国から南京の郊外に撤退して防衛を図った。中国国民政府は、中国軍の13個師の約11万人の中国人兵士を、南京の防衛のために終結させた。日本軍は、1937年12月8日に南京の郊外に接近した。中国国民政府は、日本軍と軍事衝突が勃発するも、中国軍の形勢が不利となった。中国国民政府は敗北する前に、12月12日夕刻には南京放棄を内定して、南京に中国国民軍を放置して揚子江北岸に遁走した。
 しかし、置き去りにされた南京防衛軍の大部分の中国人兵士らは、日本軍の南京の包囲網から敗退することが困難となった。そのために、突破を放棄した中国人兵士は、武器と軍服を捨てて、南京の国際安全区の周辺などに潜伏した。12月13日に日本軍は、南京城南の入り口の中華門を突破して南京市内に突入して、日本軍は南京を侵略して占領した後には、中国防衛軍は無力となっていた。日本軍は南京を占領した後に、潜伏した敗残兵を掃討する名目により、約6週間にわたり、民間市民も含めて大量の虐待と量の虐殺が執行された。日本軍は、無差別に膨大な人数の南京市民を取り調べては、青年や軍人らを容疑者として無差別に虐殺した。多数の青年や軍人の容疑者を捜査して逮捕して、南京郊外に連行して大規模に集団虐殺した。


https://drive.google.com/file/d/1v_xtJMligJHCro3iT2ECVd8WbmcQuklA/view?usp=sharing

2018年10月26日金曜日

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。(広島)

住吉臨時救護所は掘っ立て小屋であり、トタン屋根であった。被爆者のわずかな応急手当てをして、生存可能者を後方の救護所へ護送した。トタン板の上で、本川に流れて来た被爆者の死体を引き上げては火葬した。多くの火葬された白骨の一部が散在した。
 広島市に原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて、爆心地の周辺は完全に崩壊して全滅した。爆心地から約1.4km太田川に分流である本川の最も南側に住吉橋がかかっていた。原子爆弾が炸裂して約1週間後の8月12日頃に、住吉橋東詰めに被爆者を収容する臨時救護所があった。この救護所には、東地区の警備隊長が管轄して、軍医1名、衛生兵1名の体制で、重度の被爆者を収容した。近隣には住吉神社、中島国民学校、広島県立病院、広島県庁があり、広島市の東西を結ぶ繁華街であり、多くの被爆者が倒れて被爆死した。


https://drive.google.com/file/d/1qndgKoFcGvNjgNFMVB-ykToyWDt5lgYW/view?usp=sharing


2018年10月2日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 投稿回数 800回

2018年10月25日木曜日

カンボジアのタソー村の魔の森の処刑場で、ポルポト派により虐殺された親族の死体の人骨を土中から掘り出した。

カンボジアのタソー川に沿って、「魔の森」と呼称された森の地域があった。ポル・ポト政権は、南東部のスペイリエン省のタソー村の近隣にあった魔の森を処刑場とした。タソー村や近隣の大多数の住民は、魔の森に連行されて虐殺された。虐殺された死体は、地中に埋められた。タソー村の住民の約2,500人が連行されて、約1,800人が虐殺された。特に、1977年3月頃に、カンボジア住民らを親ベトナム派と疑われて、親類も含めてほぼ全員が摘発されて最大の大量虐殺が執行された。その頃にはカンボジア・ベトナム戦争が1975年5月から勃発して、ベトナム軍が侵攻した1978年12月25日から大規模な戦闘に転移した。魔の森の土中を掘り起こすと、多数の白骨が散乱した。人体が土中で腐って人骨となるために、表面の土砂は窪んだ。人骨だけでなく、黒い農民服であった衣服も絡んだ。カンボジアの各地には、魔の森のような処刑場が散在していた。スペイリエン省全体で、摘発され虐殺された知識人らは約5,000人以上にも達した。1976年初頭から1977年末までに住民から知識人も摘発されて虐殺された。
    大虐殺時代の当局の命令のすべてはオンカー組織からであった。オンカーとは何か、当局も誰にも知らされず、上層部からの命令系統であった。オンカーの命令は上位組織から下位の組織と一方的に伝令される。ポル・ポト派のカンプチア共産党を頂点とする極秘のオンカー組織であった。市民らには伏せられた支配者であるオンカーによる恐怖政治が君臨した。オンカーは市民らを摘発すると、市民自ら土中を掘らせて、後手に縛られて撲殺して虐殺して、土堀に落とし込んで埋めた。


https://drive.google.com/file/d/1lRxds0fKaMg_FhkJ2Uhdb3Z6PInkAhtO/view?usp=sharing


日本平和の市民連盟は2018年10月25日にBloggerの投稿数は700回に達した。


2018年10月24日水曜日

河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。

太平洋戦争において、1943年後期頃から日本軍は総員壮烈なる戦死して、厳しく膨大なアメリカ軍の戦闘に広範囲に敗北して敗退に陥った。日中戦争中の関東軍の一部は、太平洋戦争への兵力が転移された。中国大陸にも浸出したアメリカ軍の爆撃機B-29による本土と近海の空襲を阻止して東シナ海に至る陸路を確保するために、大本営は1944年1月に関東軍に大陸打通作戦を指令した。公式には一号作戦として、華北から華中、華南などに至る中国大陸を約1,500Kmを突破する本土の都合主義による指令を出した。日本軍は1944年4月17日から12月10日にかけて中国大陸を縦断した。4月から大陸を縦断する京漢作戦と5月から鉄道と空軍基地を侵略する湘桂作戦により、華北から仏領インドシナまでの長大な地域を侵攻した。桂林、柳州、遂川などの航空基地を占領した。B-29はすでにマリアナ諸島の航空基地から日本本土に対する空襲が勃発していた。中国大陸打通作戦の戦果はすでに失われて、補給が困難となり日本軍に大量の戦死傷者と病死者が生じた。
 京漢作戦では北京周辺から漢口まで貫通して、食糧と資材を略奪して補給するために、膨大な地域住民が犠牲になった。河北省の阜平県を打通した日中戦争により、中国軍兵士あるいは中国人ゲリラや民間人が犠牲となり、虐殺された。大陸打通作戦では、戦闘は常に村や街であり、多くの住民が戦火に巻き込まれて、虐待と虐殺の犠牲者となった。


https://drive.google.com/file/d/1ZtK4lykpisgn8eZOlHkTjBprhQL0Y0Nw/view?usp=sharing

2018年10月23日火曜日

太平洋戦争にてタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発して、最後の日本軍の突撃により玉砕した死体が散乱した。

 陸軍大臣であった東条英機によって、1941年1月8日に『戦陣訓』が日本軍に対して、「生きて虜囚の辱を受けず、死して罪禍の汚名残すこと勿れ」と告知された。太平洋戦争において、日本軍は1943年5月12日から5月29日までアメリカ軍とアッツ島の戦闘が勃発して、日本軍兵士は全滅した。大本営は、救援が不可能となり、追い詰められた日本軍に対して5月23日に玉砕を命じた。「最後に至らば潔く玉砕し皇国軍人精神の精華を発揮するの覚悟あらんことを望む」と打電された。最後の5月29日に「共に生きて捕虜の辱しめを受けざる様覚悟せしめたり」と電報して、夜間にアメリカ軍に壊滅的な突撃をした。
 大本営は初めて玉砕による敗北を初めて公表した。5月31日の朝刊には、「アッツ島に皇軍の神髄発揮。部隊長ら全将の壮絶・夜襲を刊行玉砕。敵2万・損害6千を降らず。」と日本国民に通知した。初めて玉と砕けて散る美化されたアッツ島の『玉砕』を通知されて、寂寥感ではなく哀愁から玉砕の魅力に酔いしれた。
 それ以後の太平洋戦争において引き続いて沖縄戦から終戦に至るまで、日本軍は玉砕してアメリカ軍に敗北して敗退し続けた。しかし、大本営はアッツ島は玉砕と公表したが、それ以後の太平洋戦争では『総員壮烈なる戦死』と発表した。さらにサイパン島や沖縄では、民間市民も巻き込んで玉砕の戦闘をした。
   太平洋戦争中の 1943年11月にギルバート諸島のタラワ環礁で恐怖と悲惨な戦闘が勃発した。11月 20日にタラワ環礁に約5,000人のアメリカ軍が上陸した。約 4700人の日本軍が、水ぎわで激しい抵抗して戦闘は4日間続いた。 11月25日に日本軍は最後の突撃により玉砕した。11日24日からアメリカ軍は残存した日本兵を掃討した。

タラワ環礁で恐怖と悲惨な最後の日本軍の突撃による玉砕した死体が散乱した。


2018年10月22日月曜日

ワルシャワ・ゲットーの道端で散乱した餓死や病死のユダヤ人の死体を運搬と処理した。

ワルシャワ・ゲットーの道端には餓死や病死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れ出して路上で意識を失い倒れて餓死した。 ナチス・ドイツは、ユダヤ人の隔離政策であったゲットーの破綻が、ユダヤ人の絶滅政策であるホロコーストに移行する要因が示唆された。ポーランド侵攻により、1939年9月11日にユダヤ人を隔離と移送するために都市部のゲットーに送還した。1939年11月4日にゲットーを形成のめに、ワルシャワのユダヤ人を3日以内に、特定のユダヤ人居住地区に収監させた。11月15日にワルシャワのユダヤ人居住地区から腸チフスなどの伝染病が大流行した。1940年3月27日から汚染地区の周辺に壁を設置させた。さらに発疹チフスの流行から、10月2日にワルシャワの約50万人のユダヤ人を隔離するためにゲットーの設置が公式に命令された。ゲットー地域に居住していたポーランド人の約11万3,000人を移住させて、代わりに約13万3,000人のユダヤ人が収監された。ゲットーは極端に狭く密集した不衛生であった。
 ドイツは必要に応じてユダヤ人を街頭で拉致して強制労働させた。やがてゲットー内部支配のユダヤ人評議会が代行して調達した。収容の過程で財産を没収された貧困のユダヤ人ばかりを選別して苛酷な強制労働を強制した。粗末な食事で夜明けから夕暮れまで労働を強要された。食料の供給が限界になるにつれて、労働力の生産性が低下して、食料価格が高騰した。労働不可能なユダヤ人は厄介者になり、さらに食事が切り詰められた。ゲットーでは、道端に餓死の死体が散乱した。1941年夏頃には栄養不良だけでなく、チフスが大流行した。家族は子供を連れて路上で意識を失い倒れて餓死した。
 1941年7月16日に保安諜報部の親衛隊が、ドイツ本国の国家公安本部ユダヤ人課長に「冬季にはユダヤ人全員には食料は供給できなくなる。労働不可能なユダヤ人は、ユダヤ人が餓死するよりも気持ち良い即効性のある方法で始末する必要がある。」と報告した。やがて1941年8月にロシア戦線からユダヤ人絶滅政策であるホロコーストが執行された。労働不可能なユダヤ人が絶滅の対象となり、特に病人、虚弱者、女子供であった。


https://drive.google.com/file/d/1j0735wBTi33puQctfR7ahmY4lN6-UUVP/view?usp=sharing

2018年10月21日日曜日

ミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する市民集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。

2007年10月6日にミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する大衆集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。 
 ビルマの歴史で、多くの反抗的な反乱があった。自由のための紛争は60年以上続いた。王たちは下層のビルマ市民から税金の徴収や奴隷を集めるために軍隊を送り出した。19世紀のアングロ・ビルマ戦争は、侵攻したイギリス軍と占領に反抗し初めてビルマの自由の戦いとなった。
 1930年には、バーマン協会の知識人と学生がラングーンに集まった。国家の英雄となる若いアウン・サンがいた。1938年〜39年に全国的に激しい抗議が行われ、警察が残酷に抑圧した。アウン・サンは植民地のビルマを解放するために日本軍の支持を求めた。30人の同志は日本軍に訓練され、後にビルマ独立軍(BIA)を設立した。日本軍と一緒にBIAは1942年3月にラングーンを占領してイギリスの植民地支配を終結させた。独立に無関心の日本軍は、引き続きビルマを抑圧した。1944年にビルマがイギリス軍の助けで、日本軍から解放された後でも、ビルマは、非常に不安な基盤に立った。ビルマ以外の民族も1944年 2月12日全ての民族がパングロン協定に署名し、ビルマ以外の民族は平等な権利と実質的な自治となった。1948年カレンニ民族進歩党(KNPP)を通じてカレンニ革命を引き起こした。1949年にパオとモンも独自の革命を開始した。
 1962年にネー将軍が、政治的不安定により軍事クーデターを勝ち取った。ラングーン大学の学生たちは、民主主義の回復を要求し、軍隊がキャンパスを取り囲み、生徒に火を放ち流血された。兵士たちは連合ビルを爆破した。1963年に軍事政権は民族革命家に停戦を拒否したシャン族、カレン族、カチン族、カレン族およびモン族の他の集団は、軍事政権に反抗した。ビルマ軍は残忍に反抗者に野蛮な報復をした。 1960年代半ばに軍事政権はフォー・カットス政策を導入し抵抗を一気に押しつぶした。
   政府軍の悪質な抑圧の下で、民族国境地域は虐待され、学生と反対派は血まみれのデモを続けた。1974年に学生と修道士は再び怒りを表現するデモをした。数十人が死亡して、刑務所に留置され国境地域に逃げた。国民民主戦線(NDF)が設立され、民族族集団が同盟を結成し、ビルマ全域で共同戦線を構築した。1988年には数千人のデモ参加者が殺害された。軍事政権の経済不全に対する大規模なデモで全国が揺れ動いた。国防長官の軍事クーデターの反抗者は膨大に逮捕され、多くの学生らは国境地域に逃げた。ビルマ軍は、農村地域は支援や避難場所を与えたとして引き締め続けた。多くの野党が集まり、1990年にはビルマ民主連合(DAB)とビルマ連合(NCGUB)の連合政権を、EUは実質的に認可した。(軍事政権は1989年に、英語名称のビルマ(Burma)から、ビルマ語のミャンマー(Myanmar)に国名を変更した)
 1995年にビルマ軍に侵略されて、反抗者は海外に逃げて、国境を越えて自由の闘いを続けた。革命勢力は国境を越えて全域に広がって、ビルマ軍に対抗するゲリラ戦をした。政府は、植民地時代の手法で、民族を分裂させ、経済的譲歩、麻薬の栽培で。停戦協定に誘い出した。ビルマに頻繁に自発的なデモが起こり、多くの流血で粉砕された。刑務所で何年も投獄された元学生たちは、引き続き抵抗運動に参加した。 ビルマで2007年の9月と10月のサフラン革命は20年間の最大の抗議運動であった。多くの人が命を奪われ、刑務所に投獄された。 ビルマの自由に対する闘いには、武装抵抗運動はビルマ軍を攻撃し、国境地域を防衛するためにゲリラ戦、多くの政治活動家が国境を越えて遠く離れた土地に逃げた。国際レベルでは、政権に経済制裁を課し、国連安全保障理事会に世界的な措置を強いた。



  • (1)1988年、全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍がデモを鎮圧するとともに国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握した(1997年、SLORCは国家平和開発評議会(SPDC)に改組)。(2)1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、政府は政権移譲を拒否。アウン・サン・スー・チー氏率いる民主化勢力は軍政による厳しい弾圧を受け、同氏自身も2010年までの間、3回、計15年に亘る自宅軟禁に置かれた。(3)2003年8月、キン・ニュン首相(当時)が民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表。(4)2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからピンマナ県(ヤンゴン市の北方約300キロメートル)に移転する旨発表し、新首都をネーピードーと命名。(5)2007年9月、全国的な僧侶のデモが発生。治安当局による制圧で、邦人1名を含む多数の死傷者が発生。(6)2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生。(7)2008年5月10日、新憲法草案採択のための国民投票を実施(一部地域は24日に実施)。92.4%の賛成票で(投票率99%)で新憲法承認。(8)2010年11月7日、総選挙が実施され、国軍出身者が率いる連邦連帯開発党(USDP)が大勝。スー・チー氏率いるNLDは総選挙をボイコット。(9)2011年1月31日、総選挙の結果に基づく国会が召集。(10)2011年3月30日、テイン・セイン大統領率いる政権が発足し(同時に国名も変更)、民政移管が実現。テイン・セイン政権は、政治犯の釈放、報道の自由化、少数民族武装組織との停戦交渉等を進め、民主化と経済改革を推進。(11)2011年6月、国軍とカチン独立軍(KIO)との戦闘が再発。以後、ミャンマー北東部にて複数の武装組織との衝突が断続的に継続。(12)2012年4月1日、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが45議席中43議席を獲得。(13)2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が発生。(14)2015年10月15日、ミャンマー政府は、カレン民族同盟(KNU)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)に署名。(15)2015年11月8日、総選挙開催。アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが大勝。(16)2016年3月30日、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸施策を遂行。
  • (ミャンマー連邦共和国の内政の現代史、外務省)

2018年10月20日土曜日

イラクにてバース党が軍事クーデターで政権を奪還して、バクダットのユダヤ人を、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。

イラクにてバース党が1969年2月の軍事クーデターで政権を奪還してから、まもなくバクダットのユダヤ人に対して、首吊りにより道端で公開の死刑執行をした。
 バースとはアラビア語で復興と再生を示唆する。アラブの統一、外国支配からの解放、社会主義を三大原則とするアラブ民族主義政党が1947年にシリアのダマスカスで結成された。1952年にアラブ社会党と合併し、正式名称はアラブ・バース社会主義党となった。アラブ民族主義は、郷土や祖国を植民地から独立を目指すワタン主義の限界から、第2次世界大戦後にはアラブの統一を掲げるカウム主義に転換した。1947年国連パレスチナ分割決議と1948年イスラエル建国が大きく影響した。カウム主義には、バース党によるバース主義、エジプトのナセル主義、共産主義のアラブ民族運動があった。
 バース党はアラブ世界で広範な支持を受けて、アラブ統一に至る戦略となった。アラブ民族による統一国家というカウム主義では、アラブ民族の統一国家は巨大となる。バース主義はアラブ諸国にバース党を結成して、各国のバース党政権が合体してアラブ統一国家を形成する現実主義となった。
 1950年代後半からアラブ統一を掲げるも、権力の奪取や維持を優先した。シリアは、1963年の軍事クーデターにより初のバース党政権が誕生した。アラブ統一よりも社会主義が優先された。1970年にアサド国防相は2度目の軍事クーデターにより大統領に就任した(2000年に息子のバッシャール・アサドが就任した。2011年3月中旬以降に反政府デモが発生し、反政府勢力に過激派武装勢力なども参戦し、暴力的衝突から内戦に発展した。国連の推定では、2016年6月全土で約25万人の死者、約650万人の国内避難民が発生し、周辺諸国に約480万人の難民が流出した)。
 イラクでは1951年に地域指導部が成立し、1963年軍事クーデターで政権に参加したが、短期間で排除された。1966年にバクル書記長と1967年にサッダ―ム・フセイン副書記長でバース党勢力が拡大した。1968年軍事クーデターで、バクルが大統領に就任した。1969年に副大統領であったフセインがバクルを排除して大統領となった。フセインはイラクの最高意思決定機関であるバース党イラク地域指導部(RC)と革命指導評議会(RCC)合同会議議長に就任した。
 現在では、シリア以外のバース党の政治勢力は極めて小さい。ヨルダンは、ヨルダン民族民主戦線という政党になっている。レバノンは、シリア系とイラク系に分裂状態である。イエメンでもイラク系のバース民族党が分離した。チュニジアでは非合法となった。

https://drive.google.com/file/d/1ZxI6ws_SF080go21MLEC9-PQ97_ngcbn/view?usp=sharing



2018年10月19日金曜日

国民学校では、戦死した卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、小学生と前期中学生を毎日礼拝させた。

1943年頃に熊本県の日奈久国民学校では、戦死した同校の卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、学生に毎日礼拝をさせた。学生は休日には、その遺族への慰問奉仕をさせた。
 日中戦争の頃から、教育機関では学校報国班が結成された。学生は勤労動員から軍事訓練も必須の授業として強要された。太平洋戦争が勃発してから、国民学校の小学生も、戦争を担う次世代の戦争要員として訓練された。少国民として奉仕団を結成され、戦争要員の代替として養成された。少国民として、奉仕団を結成され、勤労奉仕から遺族家庭訪問などの強要が評価された。30校の国民学校が、1943年に陸軍省から特別表彰を受けた。報道機関は軍報道部から命令で同時の学校を取材して撮影された。
 1931年に中国・奉天郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が暴発して満州事変が勃発した。1930年の暫定総動員計画が応急総動員計画に改定された。1938年7月に盧溝橋事件から日中戦争が勃発した。大日本帝国は1938年の第73帝国議会に国家総動員法を提案して、4月1日に公布され5月5日より施行された。国民は一億総動員による徹底抗戦に巻き込まれた。
 1941年の国民学校令によって国民学校は設立された。教育勅語を遵守して皇国に則って初等・前期中等普通教育をして皇民の錬成を為した。教育勅語は、皇国による帝国主義を浸透させて、日本の道徳教育の根幹となった。道徳教育の主張である親孝行などの道徳を尊守を、天皇が国民に指令した。勅語とは、政治・行政などの天皇の発言として皇国化した。第2次世界大戦の敗戦後に、主権在民を原則とする日本国憲法により教育勅語は廃止された。


 「教育二関する勅語」が1980年に正式に交付され教育勅語と呼称された。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽」 



2018年8月20日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 170,000回

2018年10月18日木曜日

ベトナム・カンボジア戦争で、カンボジア兵士に虐殺された農民の死体が国境付近のベトナムのハティエンのジャングルに散在した。

ベトナム戦争後に勃発したベトナム・カンボジア戦争からのカンボジア内戦で、カンボジア兵士に虐殺された農民の死体が東シナ海の国境付近のベトナムのハティエンのジャングルに散在した。
 1965年から始まったベトナム戦争中に、カンボジアのシアヌーク殿下は、国内のベトナム解放戦線の活動を黙認した。1970年にシアヌークが外遊後にに、カンボジア軍のロン・ノル将軍がクーデターを起こした。アメリカの全面的支援を受けて、国内の北ベトナム軍を掃討した。シアヌークは中国を経てカンボジアに戻って、共産主義勢力のクメール・ルージュによる内戦を勃発した。クメール・ルージュは中国から武器援助を受けて、親アメリカのロン・ノル政権との内戦に侵攻した。カンボジアは内戦で混迷して、約50万人のカンボジア人が死亡した。
 アメリカがベトナム戦争から敗退すると、1975年にプノンペンが陥落してロン・ノル政権は終焉した。共産主義勢力のクメール・ルージュによりポル・ポト政権が樹立し、国名を1976年に現 語由来の民主カンプチアとした。生産手段を共有し、生産物を社会全体で平等に分け与える自給自足の原始共産制を強行した。国外追放されたヘン・サムリン将軍は隣国ベトナムにより政権の樹立を目指した。ポル・ポト政権のカンボジアは親中国で、隣国ベトナムは親ソ連であった。1978年にベトナム戦争でアメリカを敗退させた屈強なベトナム軍は、ヘン=サムリンのカンプチア救国民族解放戦線を支援する名目で、カンボジアに侵攻して、ベトナム・カンボジア戦争が勃発した。ベトナム軍は、山中から銃痕がある頭蓋骨が膨大に発掘した。ベトナム軍は、ポル・ポト政権による約100万人に及ぶ大量虐殺事件を公表した。ベトナムが支援するヘン・サムリン政権が1979年1月に樹立され、中国・タイに支援されたポル・ポトはゲリラで内戦した。2月には中国が報復する中越戦争が勃発するも3月には中国は撤退した。
 1867年7月にベトナム新政権が刷新するドイモイ政策から国際協調に転換した。1989年に約5万人もの死者を出してベトナム軍がカンボジアから撤退した。1990年に国名が英語由来のカンボジアに改称された。1991年にはパリで和平協定が結ばれ、カンボジアを統治権限は国連に移行した。国連カンボジア暫定統治機構が明石康が主導して1993年には総選挙が実施された。



2018年10月17日水曜日

ロシア内戦で、骨が浮き上がりやせ細り疲弊して、農民家族が餓死を直前に虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。

骨が浮き上がるほど全身がやせ細って疲弊して、餓死を直前にして、農民家族が虚ろに諦めてしゃがみ込んだ。膨大な農民がレーニン新政権の割当て徴収制度に反発して、農作業を放棄して穀物料が極端に落ち込み、飢饉と餓死に陥った。
 第1次世界大戦が1914年7月に勃発して、兵士と市民の死亡は約365万人にも達した。ロシア革命により、1917年2月に約300年にわたるロマノフ王朝は崩壊した。10月からレーニンの新政権が樹立された。1918年5月から内戦による対ソ連干渉戦争で、14ケ国が約13万人をロシアに派兵するも、1920年秋に終結した。特にロシア南東部の穀倉地帯が戦闘に巻き込まれた。新政権と干渉国の双方が、膨大な農民から強制的に食糧を徴収した。さらに穀倉地帯では、降雨量の減少と気温上昇の天候不順が拍車をかけて、食糧価格が急騰した。ロシアで1921年から1922年に甚大な飢饉が発生した。1921年にソ連の総生産は戦争前より約7分の1まで落ち込んで国家経済は統制されて民間経済が禁止され疲弊して落ち込んだ。レーニン新政権は1921年3月に民間規制して国家経済を独占して、農業には現物税制にする新経済政策(ネップ)を導入して、食糧の価格が高騰して偏在した。長期間の戦争により、穀物と家畜が極端に減少した。広大な地域における飢餓に陥った市民は、ソ連人口の約4分の1に相当する約3,500万人にも達した。収穫不良から飢餓に陥って、栄養摂取量が低下して、体力を奪われ流行した伝染病で死亡した。


2018年10月16日火曜日

太平洋戦争にて、日本軍がニューギニア東部のブナを拠点に対して、連合軍兵士が塹壕に潜伏した日本軍の全兵士を射殺した。

太平洋戦争において、アメリカ軍とオーストラリア軍らの連合軍は1942年11月からニューギニア東部にある日本軍の拠点であるブナに侵攻した。ブナを拠点とした日本軍は1943年1月2日に全滅して全兵士が戦死した。しかし、大本営は全滅して全戦死を極秘にした。連合軍兵士が、ブナの塹壕に潜む日本軍の全て兵士を射殺した。
 ブナを拠点とするため1942年7月21日に日本軍が上陸した。11月中旬から連合軍が、ブナ・ゴナ地区へ侵攻した。ブナ方面の日本軍は疲弊して孤立していた。連合軍の侵略により12月8日にバザブアに配備された日本軍の兵員は全滅した。1943年1月2日にはブナの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。ギルワの日本軍の兵士は全滅して全戦死した。の一連の陸上戦により、日本軍兵士の約11,000人のうち約7,600名が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、バザブア、ギルワにて、連合軍の日本軍兵士の捕虜は約200人程度のみ生存した。ブナの最後拠点であるギルワは、連合軍が1月21日に侵攻して、極度に衰弱した日本軍兵士が全戦死して、ブナ地区の戦闘は終結した。1943年2月9日、大本営は「ブナ付近に挺進せる部隊は寡兵克く敵の執拗なる反撃を撃攘しつつありしがその任務を修了せしにより、一月下旬陣地を撤し他に転進せしめられたり」と誤報した。
 1943年春頃から日本軍兵士は連合軍に追い詰められ、内地からの補給も途絶え、南部のバボに撤退を命令された。ニューギニアの地図上で斜線を引っ張っただけで、絶望的な約2ケ月にわたるニューギニアの死の行進が強行された。道なきジャングルに置き去られ、徘徊して、飢餓と伝染病に侵されて膨大に戦死した。


2018年10月15日月曜日

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。

ニューヨークのトライアングル社のビル大火災による多数の飛び降り犠牲者の死体を医師らが検死した。
 大都市の成長の陰では多くの市民の犠牲を伴った。大火災が1911年3月25日に、婦人用古着再生工場であるトライアングル・シャツウェスト工場で発生した。アメリカでは多くの工場で労働運動の対立と和解があった。トライアングル社は最後まで決着がつかなかった。トライアングル社は8から9階のビルが工場であり、8階から火災が発生して、多くの女工が死亡した。彼女たちは文字通り劣悪な労働環境の犠牲になった。火災により500人のうち縫製工146人(女性123人、男性23人)が、火災や煙の吸引による窒息、さらに転落から飛び降りにより死亡した。犠牲者の大半は16歳から23歳までのユダヤ人やイタリア人の移民女性であった。46~60人以上がの人が火災からの逃げ場を失って、窓枠から飛び降りて死亡した。窓から落下して、街頭に叩き付けられて即死した。多くの死体は道路に積み上げられていた。
 1929年にニューヨークの州知事となったフランクリン・ルーズベルトは、工場調査委員会により州内の労働問題を一掃させた。ルーズベルトは、大恐慌を克服し、経済の蘇生から労働者の待遇を改善するニューディール政策を公約して、1933年に大統領に選出された。日本軍による1941年12月8日の真珠湾攻撃に対して、ルーズヴェルトは正義の戦いを市民に訴え、日本と同盟国に宣戦布告した。
 2001年3月11日のニューヨークの同時多発テロにより、突入した航空機の燃料で火災が発生し、高熱で強度の低下した鉄骨に、荷重が下層に座屈の連鎖を起し、短時間で2つのタワーは崩壊した。約2749人も死亡する大惨事となり、世界貿易センターは崩壊した。ジョージ・W・ブッシュ大統領は、アフガニスタン・イラクに宣戦布告した。





2018年10月14日日曜日

ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。

ソ連の強制収容所であるクラーグの病室で、飢餓で重篤な入所者の大多数が死亡した。
 グラーグは、スターリン時代に生まれた恐怖の収容所である。ソ連内で市民同士の密告システム、秘密警察が拿捕する。何ら証拠もなく市民は手当たり次第に逮捕される。一度囚えると裁判なども省略して、シベリアの強制収容所に送られる。極寒の中で餓死状態で悲惨な重労働を何十年も強制され、生還はほとんど皆無である。
 強制収容所は、敵対者や反体制勢力を隔離する施設であった。シベリアの開発のために労働力の確保も必要な収容所でもあった。ソ連邦の社会主義は、初期には強制収容所が基盤となった。ゴルバチョフは、収容所システムに迫害された勢力の出身であった。ペレストロイカとともに、強制収容所は実質的に閉鎖された。ソ連邦崩壊に伴って、存在すら化石になっている。生き証人もなくなると、強制収容所の全貌を明らかにできない。
 アブグレイブやグアンタナモの捕虜収容所等では捕虜虐待が起きている。強制収容所の教訓が生かされていない。戦争捕虜の処遇の問題であり、ソ連の強制収容所は、完全に社会体制の一部として機能していた。グラーグの問題は、囚人の待遇以前の問題である。
 反対勢力は、強制収容所を否定し隠蔽してきた。社会主義はすばらしい、決めつけでっちあげ裁判ですら肯定し、強制収容所はデマだウソだと言い続けた。否定できなくなったときには適当に言葉を濁してごます。ソルジェニーツィン『収容所群島』も世界にソ連強制収容所の実態を初めて、西側世界に衝撃をもたらした。




2018年10月13日土曜日

甚大な長崎原子爆弾の被爆をして無人地帯となった城山国民学校では、2ケ月後も無数の白骨が散在したのままであった。(長崎)

城山国民学校は、長崎原子爆弾の爆心地の西500mと最も近い学校であった。城山国民学校は激烈なる爆風と熱線から放射線を被爆して全焼して、鉄筋コンクリート3階建の学校内部は完全に破壊された。炸裂後には、甚大な犠牲者わ伴って、約28人の教職員と全校生徒の約1,400名も学校あるいは自宅で原爆死した。さらに城山国民学校を作業場とした三菱兵器製作所の所員の約58人と女子挺身隊の約10人と学徒報国隊員の約41人ん動員学徒を約109人も同時に原爆死した。辛くも生存していたのは、わずか約19人であった。城山国民学校では、全く身元も認証できまいままの多くの死体を散在していた。長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下され炸裂して約2ケ月が経過した10月中旬でも、無人地帯となった校庭には、無数の白骨が散在した状況のままであった。長崎原子爆弾による倒壊をまぬがれた階段塔屋部分は爆心地の短距離に残る最大規模の被爆建造物として保存されている。 



2018年10月12日金曜日

日本軍の襲撃で虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は夫の右手を握り、子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。

日本軍による襲撃により虐殺された中国人の夫の死体の横で、妻は左手で夫の右手を握り、妻の右手で子供を抱いて、妻は泣きながら慟哭した。
 満州の奉天郊外で柳条湖にて1931年9月18日の南満州鉄道の爆破を、国国民軍の犯行であると提訴し、鉄道防衛から軍事衝突を繰り返して満州事変に拡大した。日中間の緊張がにわかに高まり、上海にて日本軍は中国人の抗日運動を1932年1月28日から3月3日にかけて弾圧した。上海市の共同租界周辺で衝突して市街戦となり、第一次上海事変が勃発した。上海にて1月18日に日本人僧侶ら約5名が襲撃されて、中国人の容疑とした。1月27日に日本総領事の抗議で、上海市当局は陳謝と処罰を受諾しながら、戒厳令を強要した。各国租界の警備隊が警備につく中、1月28日に日本海軍は日本政府の許可を受けずに海軍陸戦隊による戦闘が勃発した。終戦後の東京裁判では、関東軍が満州事変に対する国際連盟などの非難を逸らすため、買収された中国人の無頼漢に日本人僧侶を襲撃させたと証言した。上海の共同租界には列強の権益が集中して、イギリス・アメリカ・フランス・イタリアは日本に対して、上海事変の停止の協議を求めた。その会議日程中の4月29日に、上海派遣軍司令官が、爆弾テロリストによって虐殺された。中国人の犠牲者は、死者が約12,354人、戦傷者が約12,070、行方不明者は約10,400人にも達したと中国政府が報告した。そのうち民間市民の犠牲者は、約6,000人の死者と行方不明は約10,000人と推定された。それに比較して、日本軍の犠牲者はわずかで、死者は約769人、戦傷者は約2,322人と指摘された。イギリスの妥協案による調印が5月5日に成立して、 日本政府は上海からの撤兵を決定して、5月中旬に陸兵のすべてを上海から撤退することを閣議決定した。



2018年10月11日木曜日

フランス検閲局はフランス兵士の死体が樹木からぶら下がった「戦場のバレエ」の写真を終戦まで未公開にした。

第1次世界大戦中において、フランス検閲局はフランス兵士の死体が樹木からぶら下がっていた「戦場のバレエ」の写真を、終戦まで公開するのを禁止した。フランスもドイツも徹底した検閲を行いながら、大規模な宣伝戦を繰り広げた。第1次世界大戦では、連合国も同盟国も、写真班を従軍させて、写真による戦争記録を残した。写真は徹底した当局の検閲により、自国に有利となるプパガンダのみが公表された。
 フランスはドイツ占領下の地域に手紙を出すには、直接に郵便物のやり取りは不可能で、フランス検閲局の印章がある専用葉書で20語以内の伝言だけが許可された。戦争中の検閲により、重要な情報が敵国に漏れないためだけでなく、市民らに敗北や莫大な犠牲者の数を秘密裏にした。終戦後になってから、フランスの犠牲者は、兵士が約140万人、民間人が約30万人、戦傷者は約430万人に達した。フランスの人口は約4000万人弱なので、人口の15%が戦死あるいは戦傷した。終戦後に、膨大な犠牲者の公表により、連合国は全ての戦争責任をドイツに転嫁して膨大な賠償金を課した。莫大な賠償金が、ドイツに大きな経済的な低迷を強して、ヒトラー政権を生む要因となった。
 終戦後になってから、アメリカのニュヨークで1919年に「イラステッド・デイリーニュース」紙、フランスでは1929年に 「ビュ」誌、1936年に「ライフ」誌が創刊された。その他にも、イギリスでは1939年に「ピクチャー・ポスト」誌、フランスでは「パリ・マッチ」誌、アメリカでは「ルック」・「ホリディ」誌、ドイツでは「デル・シュピーゲル」誌などが次々に発刊された。戦争中の写真は、日刊新聞・週刊新聞・週刊誌に掲載されて、「ライフ」雑誌は、創刊して3年間で約300万部にも達した。しかし、従軍した写真は厳しい情報管理下で規制されていた。戦時下で検閲局が最も規制したのは、「死者の写真」であった。検閲で却下された一例は太平洋戦争中に1934年のニューギニアの戦いにて「ブーナ海岸で待ち伏せにあった3人のアメリカ兵」は、検閲局により1943年2月に「ライフ」誌の掲載が禁止された。しかし、アメリカ軍の方針転換して、市民の好戦を高揚するために、同じアメリカ兵の3人の死体写真が、「ライフ」誌の1943年9月20日号に掲載された。彼らの顔はヘルメットで隠れて見えず、ジャングルと座礁した船舶のみで、戦意高揚のために「死者の写真」を掲載させた。



2018年10月10日水曜日

強制収容所にて餓死して虐殺されたユダヤ人の死体を、元犯罪者であったカポが看守として火ばさみで引きずり出した。

ナチス・ドイツの強制収容所にて餓死して虐殺されたユダヤ人の死体を、元犯罪者らであったカポ(Kapo)が看守として火ばさみで引きずり出した。
 ナチス・ドイツの親衛隊が、軍務として強制収容所を監視した。1942年から1943年にかけて、ソ連との東部戦線が苦境に陥るにつれて、次第に親衛隊の幹部が戦地へ徴用された。そのために、高齢の親衛隊を中核として、予備警察隊として非ドイツ人が徴用された。予備警察隊は、親衛隊を支持しながら、強制収容所の看守や監視役も担った。少数の親衛隊のみが、収容所長や副官として監督していた。さらに強制収容所内では、親衛隊の地位や規律が崩れて、野蛮な虐待と虐殺が執行された。強制収容所は、ユダヤ人だけでなく、様々な出身者や多数の犯罪者も収容された。元犯罪者らが、カポと任命される囚人の看守に成り上がった。カポは牢名主として、直接的に囚人らに強制収容所の規律を遵守させて、ナチス・ドイツの親衛隊が嫌悪する作業などを執行した。生き延びるために、カポは他人に対して残虐となり、囚人たちを拷問から虐殺に陥れた。アウスビッツ強制収容所では、カポが数千人にも達した。強制収容所の囚人には、既決囚人は緑、エホバの証人は紫、政治犯は赤、同性愛者はピンク、浮浪者は黒の三角形のバッジを胸に付けられた。特に緑のバッチの既決囚人が劣悪なカポに任命された。ユダヤ人の囚人だけは特別に区別できるように、三角形を2つ重ねたダビデの黄色いバッチを付けられた。1951年から1964年の間に、主にカポであると訴追された約40件が裁判された。



2018年10月9日火曜日

アメリカ兵士はレイテ島の飛行場に撃墜した日本軍の爆撃機に搭乗した日本人兵士の黒化した焼死体を運搬と処理をした。

レイテ島のタクロバン飛行場にて、アメリカ軍兵士は撃墜した日本軍の爆撃機に搭乗した日本人兵士の黒化した焼死体を運搬と処理をした。
 太平洋戦争のレイテ島の戦闘にて、日本軍兵士が軽装備をして落下傘で敵陣地に降下する奇襲作戦をした。太平洋戦争が勃発する以前の1940年11月頃から落下傘部隊が編成された。最初の落下傘部隊は、第二次大戦中の1940年4月にドイツ軍がデンマーク占領のためにオールボグルへ降下した。約476人の日本軍の落下傘部隊が、レイテ島でアメリカ軍が奪取した飛行場を奪回する戦闘をした。ブラウエン北(ブリ)飛行場には1944年12月6日朝から日本軍歩兵の斬り込み突撃をした。ブラウエン北(ブリ)とブラウエン南(パユグ)及びサンパブロの各飛行場には、12月6日夜間に日本軍兵士は落下傘で降下するも、全滅して生存者が1人も無かった。アメリカ軍が既に奪還していたブラウエン飛行場は草地に覆われて重爆撃機には利用価値が乏しかった。それらの飛行場の奪回の戦況はアメリカ軍の記録しかない。全滅となる甚大なる犠牲により、その後日に日本軍は落下傘部隊によるレイテ島の飛行場の奪回は中断となった。日本軍の爆撃機が12月7日にタクロバン飛行場とドラッグ飛行場の奪回に向かった。同様に日本軍兵士は全滅により生存者はなく、アメリカ軍には、飛行場の奪回する戦闘に関する記録は皆無であった。アメリカ軍は、タクロバン飛行場に撃墜された日本軍の爆撃機の残骸と、搭乗した日本兵士の焼死体の戦場写真(下記)のみが残存した。



2018年10月8日月曜日

朝鮮戦争にて、虐殺された北側朝鮮市民の死体が1950年10月22日に平壌で散在していた。

朝鮮戦争(6・25戦争)期間に、平壌で虐殺された北朝鮮の民間市民の死体が1950年10月22日に散在した。南北ので起きた民間人虐殺は、戦争の残酷から、報復は報復を生み、悲憤と憎しみ、傷だけが大地に残った。
 朝鮮戦争の傷や痛みは軍人だけでなく、民間市民にも及んだ。南北の民間市民は戦争の期間にわたって避難民の苦痛を経験し、戦争物資を生産するために動員されて、生存のために凄絶な虐待を受けた。膨大な犠牲者により、北朝鮮の民間市民の死者数だけでも約200万人にも達した。北朝鮮側は公式記録で、連合軍と韓国軍が38度線以北の地域を占領した1950年10月と11月50日余りの間に、約17万2000人を虐殺したと主張した。旧ソ連の文書では、朝鮮戦争期間に爆撃や虐殺による民間市民の犠牲者は約28万2,000人と推定した。北朝鮮で受けた民間市民の犠牲者は約40〜48万人と推算した。
 朝鮮戦争中に左右翼の思想により報復が報復を生む悪循環が繰り返された。北朝鮮地域で戦争期間に起きた虐殺はほとんど右翼青年に執行された。北朝鮮政府は、アメリカ軍が最も深刻な被害の新川郡虐殺事件を起こしたと主張した。土地改革を巡って右翼青年は38度線以南に下り、地下に隠れた。朝鮮戦争期間に北朝鮮地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンだった。第二次世界大戦中にドイツに投下された弾数をはるかに超えた。残っていた民間市民と後退して北に来た難民たちも疑惑を受けて処罰の対象となった。民間市民の犠牲は右翼が後退する過程でアメリカ軍の爆撃に遭遇して、約3万5,000人余りが死亡した。左翼と右翼の間に行われた虐殺の傷は南と北に深い不信と憎悪の感情を残した。
 朝鮮戦争期間に北朝鮮地域で民間市民の死亡者数が増加したもう一つの要因は、アメリカ軍の大規模な空襲だった。戦争初期から制空権を掌握したアメリカ軍は、1950年6月29日から停戦発効前まで絶えず襲撃をした。戦争期間に北側地域に投下された爆弾は、約47万6,000トンであった。太平洋戦争期間である3年8ヶ月の間、各国に投下した爆弾量だけでなく、二次世界大戦の期間にドイツに投下した爆弾の数をはるかに超える量であった。米軍は爆撃で北朝鮮の都市地域と産業施設も破壊した。1952年6月23日の空襲で、アメリカ軍は、効果的な攻撃のために、空襲には空母四隻、約500機以上の飛行機を動員した。空襲で米空軍の爆撃機は、わずか数分の間に約900トンの爆弾を水豊ダム上などに投下した。アメリカ軍は、産業施設に加え、農業施設も空襲を敢行した。



2018年10月7日日曜日

アフリカ南部のボーア戦争におけるスピオン・コップの戦闘により、イギリス軍兵士の膨大な死体が塹壕に散在した。

アフリカ南部のボーア戦争におけるスピオン・コップの戦闘により、イギリス軍兵士の膨大な死体が塹壕に散在した。

 イギリスは、豊富なダイヤモンド鉱山を独占するためトランスヴァールの併合を狙った。1877年4月に併合宣言を出して、イギリス軍は混乱するトランスヴァールの首都プレトリアを占領した。1880年12月にトランスヴァール内で、オランダ系を主体とする白人移住者を主体とするボーア軍が挙兵して、第1次ボーア戦争が勃発した。地の利のあるボーア軍が、イギリス軍を撃破して、プレトリア講和会議によるロンドン協定に追い込んだ。

 1886年にトランスヴァール共和国・ヨハネスブルグ西方の町ラントで世界有数の金鉱脈が発見された。ゴールドラッシュがスタートして、ボーア人系も約7,000人がラントに移住して、イギリス系も約2万人が移住した。イギリス系大財閥が本格的に金採掘に参入した。トランスヴァール併合するために、1899年10月に第2次ボーア戦争が勃発した。イギリス軍は軍事力で圧倒的するも、ボーア軍側の抵抗が凄まじく、戦争は3年半以上も継続した。イギリス軍は1900年1月19日から24日にレディスミスを攻略するスピオン・コップ の戦闘で敗退して、約1,000人もの犠牲者を出した。一連の敗退から大英帝国はボーア戦争に威信をかけ、オーストラリア、ニュージーランド、カナダ、インド、ビルマなど、大英帝国から義勇兵による大英帝国の戦争となった。ボーア軍はゲリラ化して、大英帝国軍は泥沼化が続いた。大英帝国軍は、ゲリラ化する農村地帯を焼き払い、女性・子供・老人などのボーア人非戦闘員を強制収容して虐待と虐殺した。主導者であるオランダ系住民への弾圧を強化して、1902年5日にプレトリア講和に導いた。 トランスヴァール、オレンジ両州は直轄植民地としてイギリスの統治下に入れた。大英帝国の市民が多く犠牲となり、大資本家は利潤を得るため富国強兵に導いて、膨大な戦費は国税から賄わせた。オランダ系のボーア人は困窮から脱出するためにアフリカ原住民の黒人を奴隷化して人種差別するアパルトヘイト政策を構築した。


2018年10月6日土曜日

広島原子爆弾により、日本人の若い兵士が重度の熱傷のために、広島湾沖の似島臨時収容所に護送された。(広島)

広島原子爆弾により、人体の全体に重度の火傷を負った若い兵士が、陸軍船舶司令部により似島臨時収容所に護送された。特に顔から上肢にかけた熱傷で皮膚が爛れて、仰向けで瀕死の状態となった。広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。その直後の午前10時には、生存していた重度の被爆者を、広島宇品港から南3kmの似島第二検疫所に搬送した。広島市内は壊滅して、似島第二検疫所は約5,000人分の医薬品等の備蓄があった。広島原子爆弾で史上初めての被爆者のための壮絶な臨時救護野戦病院となった。似島第二検疫所にはも原子爆弾の投下直後から約20日間で治療が必要な約10,000人もの重度の被爆者が護送された。しかし、医薬品はわずか4日間で枯渇して、ほとんど重度の被爆者は原爆症で死亡した。



2018年10月5日金曜日

ロシア軍により捕虜となったドイツ軍の下士官のポケットから発見されたコヴノにおけるユダヤ人虐殺。

ナチス・ドイツ国防軍兵士は、残虐行為の証拠写真を記念に持ち帰っていた。1941年の冬に捕らわれたドイツ軍歩兵の胸ポケットから、コヴノのユダヤ人虐殺の惨状を示す下記の写真があった。ナチス・ドイツ軍は、暴力に快感を感じているようだ。避難民を、銃の乱射で皆殺し、パルチザンを拷問にかけた。ガソリンをかけた薪の上で犠牲者を焼いて、酒を飲んで談笑した。1941年12月13日に捕虜の赤軍を、有刺鉄線で囲んだ四階建てのビルに押し込めた。ドイツ軍は深夜に、建物に火をつけて、窓から飛び降りる赤軍を撃った。約70人の赤軍が射殺されて、その他多数は焼け死んだ。その他に、ロープで首を吊られた2人のロシア人をドイツ兵が眺める写真も所持していた。
 ナチス・ドイツとソ連は1939年8月に独ソ不可侵条約の秘密協定を結んだ。独ソは、ポーランドを共に侵略して分割占領して、バルト諸国はソ連に割譲を取り決めた。ソ連は1940年6月にリトアニアに赤軍を侵攻させてコヴノなど全土を占領した。1941年6月に独ソ戦が開始されると、リトアニアやコヴノからソ連軍はは撤退してドイツ軍が占領した。
 コヴノには全人口の約4分の1を占める約4万人のユダヤ人が暮らした。リトアニアでは反ソ連と反ユダヤ主義が蔓延した。リトアニア人は報復的な殺人行為をドイツ軍に協調して、ドイツ軍の占領から約1カ月間でコヴノで約1万人のユダヤ人が虐殺された。ドイツ軍はユダヤ人の強制隔離地区であるゲットーを創設した。コヴノのユダヤ人住民全員をゲットーに移住させた。ナチス・ドイツは、収容所に送るまでの間、ゲットーにユダヤ人を隔離した。狭い場所に大勢の人間が詰め込まれ、毎日のように収容所への移送した。食糧は不足し、人々は餓死して、不衛生で伝染病が流行した。道端に死体が転がっていた。ゲットーと外部は3m59cmのレンガの壁が遮断して、とても乗り越えれない。ユダヤ人は壁の向こうに願い望み焦がれて叫び憎み呪った。
 1941年8月にはゲットーが封鎖されて、約3万人のユダヤ人が隔離された。数カ月でゲットーの約3,000人が虐殺された。1941年10月28日に約9,000人が郊外の要塞に連行され殺害された。コヴノは約18,000人のゲットーとなった。1943年秋に親衛隊が直接のゲットーを支配して、コヴノ・ゲットーは強制収容所に転換された。1943年10月に基幹収容所の約2,700人の囚人を移送した。健常者はエストニアの労働収容所へ、労働不可者、老人、子供などはアウシュヴィッツ=ビルケナウ強制収容所へと移送した。ソ連軍の接近に伴い、1944年7月8日に親衛隊はコヴノ強制収容所の撤収をした。残った囚人たちはダッハウ強制収容所やシュトゥットホーフ強制収容所へと移送された。ソ連軍がコヴノに到着する前に、ゲットーや収容所は徹底的に破壊され、約2,000人ほどのユダヤ人が虐殺された。


2018年10月4日木曜日

戦争は人道に対する犯罪です(WPU)。フランス北東部のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である。

アメリカの女性平和連合(WPU: Women's Peace Union)は、戦争に伴う犠牲をアメリカ人に再考させるため、1920年代に下記の写真付きのチラシを配布した。(戦争は人道に対する犯罪です。フランス北東部の国境近郊のダン・シュル・ムーズの奥深い森林の中に毒ガスによる戦争犠牲者の白骨の死体である)。私たちWPUは平和を主張します。『戦争に襲われた人類の苦しみで恐怖に満ちているあなたに。約1,000万人が虐殺されたことを覚えているあなたに。最後の戦争で育った。戦争の現実に直面する勇気を持っているあなたに、感傷的な栄光を取り除いてください 停戦協定の署名から8年!平和はまた戦争の準備によって覆われています。次の戦争では、より強力な殺人光線、ガス、病原菌、武器などによって、より多くの男性、女性と子供たちは非人道的で残虐な虐殺されるでしょう。あなたが愛する人たちの全世界の破壊を共有しなければなりません。あなたは世界を粛清に尽力しないようにできますか?妥協しない平和組織にあなたの貢献を送ってください。私たちWPU(女性平和連合)は、暴力と流血は道義的に悲惨な行為と信じています。私たちは、戦争を不法にし、世界平和を確保するよう努めています。』
 世界大戦間の時期に、多くの平和社会活動団体の一つであるWPUは、1930年代に戦争宣言に国民投票を必要とする憲法改正のためにロビー活動を行った。アメリカ救済庁と私的慈善団体は、1921年と1922年に飢饉に見舞われたロシア人を含む貧しいヨーロッパ人に食糧を届けた。アメリカ人は絶望的なヨーロッパ人に食糧を供給するだけでなく、政治的過激主義を抑えることを望んでいた。



2018年10月3日水曜日

北朝鮮軍は、アメリカ軍兵士の両手を有刺鉄線で背中に縛って射殺して、後頭部に弾丸が炸裂した。

 アメリカ軍には、北朝鮮が1950年7月9日に捕虜して翌日に処刑したアメリカ軍兵士の死体を発見したのは衝撃的であった。4名の死体は路地に散在して、両手は有刺鉄線で背中の後ろで縛られて、後頭部に弾丸が炸裂していた。アメリカ軍が北朝鮮に侵攻中には、鉄道のトンネルに約100人の処刑されたアメリカ人捕虜を見出した。アメリカ軍は激怒して、北朝鮮捕虜に対する無差別の復讐的殺人行為が激化した。  
 20世紀のイデオロギー戦争は、無数の残虐行為と非人道的虐殺を生み出した。1950年から1953年まで、朝鮮民主主義人民共和国(北朝鮮)と大韓民国(韓国)の軍隊は、民間人や捕虜までも殺害した。韓国軍の警察が、約40人の衰弱した北朝鮮人を、手が縛ってライフルで射殺した。突然の北朝鮮が1950年6月25日に侵略した後には、北朝鮮人に対する処罰は厳しかった。数百人以上もの北朝鮮の囚人らは、自らの墓を溝掘りを強制した後に、射殺された。北朝鮮の侵略中に起きた残虐行為に対する苦痛と復讐から、韓国政府は報復的措置を命じた。朝鮮戦争の開戦期に北朝鮮の侵略による広範な残虐行為は、李承晩政権に対して抵抗する韓国人も信任に導いた。1950年6月から9月まで、約26,000人の韓国人の民間人が北朝鮮によって殺害された。大田広域だけでも、北朝鮮の退去後に約5,000人の死体が発見された。ソウルを解放時にはアメリカ軍は、数百人の死亡した韓国人の男性、女性、および子供たちで悪臭で満たされた溝を検証した。



2018年10月2日火曜日

鞍山鉄鉱公司の大石橋マグネサイト鉱山の跡に、虎石溝万人坑を掘り出し、塹壕に膨大な白骨が積み重なっていた。

  主に満州を中心として中国各地に存在する日本人の鉱山や工事現場で使役できず不要となった多数の中国人労働者を生き埋めにした万人坑が存在した。万人は犠牲者の数、坑は生き埋めを示唆して、万人坑と呼称した。日本軍が満州を占領して、中国人市民は南満州鉄道や大連港の荷役、鉱山の坑夫、土木建築、工場から農畜産などの労働者として、満州に中国人を強制連行した。日朝満漢蒙民族の平等繁栄を目指す五族協和は夢想となった。日本の富国のために、民族差別をされて中国人は土地を奪われて、低賃金で苛酷に使役された。虐待や拷問により、中国人労働者は虐殺されて死体が各地で山積みとなった。
 鞍山鉄鉱公司の大石橋マグネサイト鉱山の跡に、虎石溝万人坑があった。掘り出した塹壕には膨大な白骨が積み重なっていた。囚人を強制労働させる監獄も鉱山に設置された。万人坑は、拷問や事故などの死者だけでなく、飢餓や重篤な疾病で労働不能者も、虐殺されて土中に埋められた。監獄や矯正院に、入所した中国人は虐待と虐殺された。埋める土中の代わりに、古井戸にも中国人の死体を遺棄した。朝日新聞による「中国の旅 第2部万人坑」などの連載記事に対して、昭和史研究者らは万人坑から韓国・済州島での女性狩りの慰安婦も虚偽とした。
    中国人による強制労働により、中国から日本に強制連行された約4万人もの中国人が、花岡鉱山鹿島事業所などの約135カ所の事業所で強制労働させられて、約7,000人が虐殺された。日本への強制連行と虐殺は周知の事実である。中国本土における強制連行と強制労働は、犠牲者の実態が特定し難い。日本が中国東北地方に建国した満州国では、1934年から1945年までに徴用され、鉱山などの現場で強制労働させられた中国人は約1,640万人と考察した。割り当てや強制連行により満州国で徴用された犠牲者は約850万人、華北など中国各地から満州国に強制連行された犠牲者は約790万人と想定された。
 各地の事業所に連行された中国人労工は、日本人から長時間の過酷な労働を強制され、栄養失調となり、飢餓と疾病等で、多くが過労死あるいは病死した。膨大な数の犠牲者の死体は、事業所近くの山間地などを人捨て場としての万人坑が形成された。



2018年10月1日月曜日

ドイツ親衛隊の銃殺班であるアインザッツグルッペンが、パルチザン容疑の民間人を、ソビエトのヴィヤジマで銃殺した。

ヒトラーのドイツ親衛隊の銃殺班であるアインザッツグルッペンが、パルチザンとして逮捕した民間人を、1941年10月にソビエトのヴィヤジマで銃殺した。ナチス・ドイツ軍がソビエトに侵攻した後方では、一斉射撃による組織的虐殺が繰り返された。ナチス・ドイツの保安警察と親衛隊保安部から組織した銃殺部隊であるアインザッツグルッペンが、ドイツ軍の後方で、ユダヤ人やパルチザンの敵性分子を虐殺した。国家保安本部長官となったラインハルト・ハインドリッヒが、1938年のオーストリア併合時にスパイ部隊として創設した。ナチス・ドイツ軍の東部戦線の拡大するにつれて、保安警察と保安部から組織された。緒戦ではアインザッツグルッペンは、主に敵性指導者を銃殺していた。ドイツ・ソ連戦ではアインザッツグルッペンは、ユダヤ人・ロマ・赤軍幹部を銃殺した。侵略して占領した地域から、敵性分子の容疑者を駆り集めて、荒野や森林の中で銃殺して、死体は塹壕の土中に埋めた。敵性分子には、民間人の抵抗勢力のパルチザンだけでなく、ユダヤ人も含めて大量虐殺をした。
 移動虐殺部隊であったアインザッツグルッペンは、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された部隊であった。 保安警察と親衛隊保安部の部隊として、占領下のソ連にて、ドイツ戦線の背後で人種的と政治的な敵性分子の容疑者を銃殺した。ユダヤ人、ロマ族、ソ連政府やソ連共産党も含めた。アインザッツグルッペンは、精神障害者や身体障害者の施設でも数千人の収容者を殺害した。1941年6月に、アインザッツグルッペンはドイツ軍に続き、ソ連領に深く侵入した。1941年夏の後半になると、あらゆる年齢や性別に関係なくユダヤ人の男性、女性、子供を銃殺して、集団で塹壕に埋めた。受刑者は、自分自身の墓穴を掘り、貴重品を押収され、衣服を脱がされ、銃殺されて、塹壕に埋められた。1941年夏の後半から、ガストラックに搭載された毒ガス室で犠牲者を殺害した。アインザッツグルッペンの隊員は、親衛隊、武装親衛隊、親衛隊保安部、治安警察、およびその他の警察部隊から組織された。1943年春までに、アインザッツグルッペンは、約100万人以上のソ連のユダヤ人、数万人のソ連人民委員、パルチザン、ロマ、障害者を殺害した。移動虐殺の銃殺の非効率的と精神的負担から、ユダヤ人を大量虐殺する絶滅収容所に特殊なガス施設を建設し始めた。