2023年10月31日火曜日

日本本土の秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。

秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊の約30人が、1944年1月15日にアメリカ軍が上陸したペガン(Pegun)島の塹壕にて切腹して集団自決して玉砕した。切腹者に日本刀で介錯して斬首した頭部が切断されて血まみれに散乱した。

 太平洋戦争にて1944年11月15日に、アメリカ軍はマピア(Mapia)諸島のペガン島に上陸した。アメリカ軍B25戦闘機は、ペガン島を根こそぎ揺がす如く激しい執拗な猛爆撃を加えた。日本軍兵士は、次々と斃れて多数の死傷者を出して、ペガン島の北方に退避した。ペガン島にいた一部の日本軍兵士は、珊瑚リーフを渡り、北のブラス(Bras)島へ退却した。

 一方、ブラス島への退却路を塞がれた数十名の日本軍兵士は、アメリカ軍の戦車で壊滅して、蹂躙された。日本軍兵士の戦死体は、顔形が判別できるものは一体もなかった。もはやこれまでと最期を決意した残存した日本軍歩兵第223連隊の約30人は、散兵壕内で手榴弾や切腹により自殺した。11月15日にジャングルの端で爆薬や切腹による集団自決を遂げた。アメリカ軍は、11月15日にペガン島を制圧した。アメリカ軍公刊戦の記録では、マピア諸島における日本軍兵士の玉砕した戦死者数は総数は151人であった。秋田県で編成された日本軍歩兵第223連隊が全滅して玉砕した。殺されなかった日本軍兵士は、ジャングルに逃げ込み、ほとんどが餓死した。

 マピア諸島は、西部ニューギニアの北方約190kmで、海抜わずか1mの扁平のサンゴ礁の小島群である。一番南に、長さ約4.2km、幅約400mの細長いペグン(Pegun)島が位置した。日本軍はペガン島と呼称した。太平洋戦争での玉砕戦は、大半は戦略の失敗による特異な戦術様態にもかかわらず、玉砕は負のイメージを払拭し、雄々しく散った勇士の姿を浮かび上がらせた。玉砕は作戦の立案者や指揮官の失敗を覆い隠し、日本軍首脳にとっては都合のよい言葉になった。まもなく、玉砕は全滅の代替え語になった。




2023年10月30日月曜日

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。

第二次世界大戦末期の東部戦線のベルリンの戦いにて、ソ連軍の赤軍のT-34戦車は、1945年4月26日にドイツ軍兵士の死体や廃墟と化したドイツ軍の防御陣地の横を通り抜けながら、ベルリンに向かって侵攻した。ソ連の赤軍がゼーロウ高地を突破した後の1945年春に、ベルリンへ向かう途上の道に、ソ連軍の戦車が延々と列をなした。弱体化したドイツ軍の空軍も、急ごしらえのドイツ軍の国民突撃大隊も、ソ連軍の進軍を阻止するには至らなかった。

 ベルリン方面では、ソ連軍は頑強に抵抗するドイツ軍と激しい戦闘を繰り広げた。ドイツ軍司令部は、ソ連軍の行く手を阻もうと、使えるすべての戦力を戦闘に投入した。ベルリンの軍事学校は授業を停止し、学校の士官候補生と軍属も前線に送られた。ヒトラーはベルリンで、15歳から65歳まで全面的な戦争動員を宣言した。

 ソ連の赤軍歩兵は要塞化された建物からドイツ軍を叩き出し、砲撃はベルリン郊外の通りに築かれた石やレンガのバリケードを破壊した。ベルリン侵攻の初日4月22日には、最大で8000人のドイツ軍兵士が犠牲となり、47台の戦車と自走砲、150以上の野砲と迫撃砲が破壊された。ベルリン方面での戦闘は昼夜を問わず続き、1時間も途切れることはなかった。

 ドイツ軍は何万人もの戦闘員を集めてソ連の進撃を食い止めようとした。約6000両の戦車と自走砲、8000機の戦闘機、約4万1000門の迫撃砲と大砲で強化された約200万人以上のソ連軍の赤軍部隊にはドイツ軍は勝ち目がなかった。ソ連軍のベルリン攻勢は1945年4月23日に勃発した。4月29日までに、ソ連軍はドイツ軍を切り裂き、首都ベルリンの中心部まで到達した。5月1日に、ソ連軍はドイツ連邦議会議事堂を攻撃し、屋上に有名な戦勝旗を掲げた。5月2日に、ベルリン市内に残っていたドイツ軍の守備隊はソビエト軍に降伏した。




2023年10月29日日曜日

2023年10月5日に、ウクライナのハリコフ州フロザで、地元住民がロシア軍のミサイル攻撃で殺害されて散乱した死体の中で身元確認をした。ヒロザの追悼式のカフェへのロシア軍のミサイル攻撃で51人死亡した。

2023年10月5日に、ウクライナのハリコフ州フロザ(Hroza)で、地元住民がロシア軍のミサイル攻撃で殺害されて散乱した死体の中で身元確認をした。ヒロザの追悼式のカフェへのロシア軍のミサイル攻撃で51人死亡した。

 ウクライナ北東部のヒロザ村にあるカフェと食料品店に、ロシア軍のミサイルが激突し、建物は瓦礫と化し、追悼式中の51人が死亡した。2023年10月5日午後に、ハリコフ州のフロザ村のカフェと食料品店が攻撃された場所には、レンガや粉々になった金属や建材が山積みとなった。ミサイル攻撃は、ロシア軍の侵攻以来、ハリコフ州で最も甚大な被害をもたらした。ロシア軍による一度の攻撃で最大の民間人犠牲者の一つとなった。侵攻初期にロシア軍に占領されたが、2022年9月にウクライナ軍が奪還した。ロシア軍が2022年2月24日にウクライナ侵攻を開始する前に、ヒロザの人口は約500人と比較して、入植地のヒロザには約330人が住んでいて、ヒロザ村の5分の1が1回のミサイル攻撃で殺害された。

 ロシア軍侵攻中の避難命令下にも、家族がヒロザに残存して、犠牲者の中には子どもたちも含また。フロザは、2022年末にウクライナ軍が奪還したクピアンスクの西約30kmに位置し、戦争の最前線にかなり近い。救急隊員は瓦礫の山を通り抜け、子供たちの遊び場に隣接する野原に死体を並べて散乱していた。何人かは白い遺体袋に入れられて運び出された。カーペットなどでかろうじて覆われ、手が不格好に突き出ている死体もあった。緊急サービス広報は、生存者の捜索は終了し、死者数は51人、負傷者数は6人、行方不明3人と発表した。死者の中には6歳の男の子も含まれた。埋葬中の兵士の息子(同じく兵士)も、息子の妻と母親とともに襲撃で死亡した。

 ミサイルが落下して炸裂時に、地元のヒロザの住民の約60人は、戦死した兵士のための礼拝の後に、追悼式の礼拝の席で食事をしていた。ロシア軍のイスカンデル弾道ミサイルで攻撃されて、攻撃の標的を絞った。ロシア軍当局はフロザのミサイル攻撃はすぐにコメントを出さず、意図的な民間人殺害を否定した。ロシア軍がウクライナの住宅地やエネルギー、防衛、港湾、穀物などの施設を襲った攻撃で多くの犠牲者が出た。




















Warning: A local resident tries to identify bodies in Hroza, in Kharkiv region, Ukraine October 5 2023. Picture: SOFIA GATILOVA/REUTERS

2023年10月28日土曜日

1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである。原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。

長崎原子爆弾の被爆者の背中をケロイドが覆った。ケロイドは、瘢痕組織の上に成長する緻密な線維性の増殖である。1945年から1950年にかけて撮影された長崎原子爆弾の被爆者の背中を覆ったケロイドである(日時・場所等不詳)。

 原子爆弾による被爆者の火傷や傷から、傷跡が厚くなってケロイドと呼称される腫瘍が発生した。爆心地から2km以内で熱線を浴びた人の約50~60%にケロイドが発生した。ケロイドは放射線と関係がある。ケロイドは被害者の心と体に永久的な傷跡を残した。特に顔にケロイドがある人は精神的にさらに苦しみ、背中や肩にケロイドがある人は肌を見せることを躊躇した。

 ケロイドは、原爆被爆者の火傷した皮膚が治癒する過程で形成された、不規則で異常に突出した瘢痕組織である。瘢痕が蟹の甲羅や足のように見えることからこの名がついた。爆心地から約2km以内の被爆者に多く見られ、ケロイドは被爆4ヵ月後に形成され、その後6~14ヵ月後に最も目立つようになった。ほとんどの瘢痕は約2年後に縮小して治癒した。

 太平洋戦争の末期となった1945年8月9日午前11時2分に、プルトニウムを核とする約21キロトンの爆縮型の原子爆弾であるファットマンが、長崎上空の約500mで炸裂した。推定7万人の長崎市民が死亡して、約6万人が負傷した。人口密度の高い九州西部の工業都市である長崎市の上空で炸裂した。長崎市は、取り囲む丘陵地帯により、原子爆弾の壊滅的な影響が広がるのを食い止めた。逆に、原子爆弾の破壊力を集中させ、爆心地に最も近い地域で原爆の威力をより強烈にした。長崎原子爆弾は爆心地から約914m以内にあった病院と医学部を消滅させた。爆心地から半径1.5km以内にいた人々は一瞬にして姿を消した。 




2023年10月27日金曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、アメリカ軍が日本軍の95式軽戦車を、火炎放射器で攻撃をした。損傷して、乗組員が焼け焦げて焼死して周囲に散乱した。アメリカ軍兵士が、黒焦げの日本軍兵士の死体を検死した。

太平洋戦争のペリリュー島の戦い(1944年9月15日から11月27日)にて、アメリカ軍が日本軍の95式軽戦車を、火炎放射器にて攻撃をした。日本軍の95式軽戦車が損傷して、乗組員が火炎放射器で焼け焦げて焼死した死体が、戦車の周囲に散乱した。アメリカ軍兵士が、戦車の側から黒焦げの日本軍兵士の死体を検死した。

 日本軍は、アメリカ軍を遅延させて最大限の死傷者と損害を与える戦術へと転換した。自然の地形を利用し、カモフラージュして、厳重に要塞化された陣地が、防御する日本軍側に有利な逆斜面やマスキングされた地形に構築された。日本軍の要塞、掩体壕、トンネル群をめぐる戦闘は、ペリリュー島の戦いを象徴した。アメリカ軍は、包囲戦の状況に陥り、ほぼすべての強拠点を隣接する陣地から孤立させて、火炎放射器とサッチェルチャージの爆破物を使用して、手と手を使った戦闘で破壊した。アメリカ軍が多大な犠牲を払って奪還したペリリュー島は、太平洋戦争の最終年に重要な役割を果たさなかった。

 アメリカ軍は火炎放射器部隊は主に、火炎放射車によりヘリリュー島で日本軍の洞窟、ピルボックス、壕を無力化し、戦場から身を隠すものを燃やすために、フレームトラクターを使用した。防御された陣地に隠れていた日本軍兵士は、逆斜面を直撃する燃え盛る太い燃料のアーチ状の棒の流れにしばしば捕まった。火炎放射器は歩兵よりも、戦車よりも先に動いて、丘に到達して攻撃が緩むと、戦車と歩兵が火炎放射器を支援した。火炎兵器の射程外の目標に火炎を運ぶために高圧ホースを使用した。高圧ホースを新装着した火炎放射器が、約55mの射程距離を達成して、その後の沖縄戦ですべてが使用された。

 ペリリュー島の戦いでは、アメリカ軍の犠牲者は、海兵隊の約1,336人が戦死、約5,450人が戦傷、第81歩兵師団の死者約1,393人(うち戦死者約208人)に及んだ。日本軍の犠牲者は推定約10,695人が戦死して、さらに約301人が捕虜となった。




2023年10月26日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト要塞を防衛した。ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて死体が廃墟に散乱した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、バルバロッサ作戦初日の1941年6月22日から、ドイツ軍に対してソ連軍は、ブレスト(Brest Fortress)要塞を防衛した。ブカレスト要塞の廃墟にて、ソ連軍兵士がドイツ軍に殺害されて、機関銃の横に倒れて、死体が散乱した。

 ソ連ベラルーシ西部の国境にあるブレスト要塞は、ドイツ軍のポーランド侵攻2日目の1939年9月2日に、ブレスト要塞は初めて爆撃された。ブカレスト要塞をめぐる戦闘は9月14日から9月17日まで続いて、ドイツ軍がポーランド守備隊を鎮圧して占領した。独ソ不可侵条約の秘密議定書で、ブレスト要塞はソ連に割譲された。

 1941年6月22日からドイツ軍はバルバロッサ作戦で突如にソ連西部に侵攻して奇襲攻撃した。バルバロッサ作戦の初日にブレスト要塞の戦いが勃発した。6月22日04時15分に、ドイツ国防軍は何の前触れもなくブレスト要塞を攻撃した。ドイツ軍の強力な砲撃の後、突撃を開始した。ブレスト要塞は火の海と化した。周囲はすべて燃え上がり、ゴロゴロと音を立てていた。ソ連軍の兵舎では、天井に穴が開き、壁の一部が剥がれ落ち、すでに死傷者が出た。6月22日午前9時に完全にドイツ軍が包囲した。ソ連軍は6月26日まで持ちこたえたが、ドイツ軍の土木工兵が数か所の要塞を爆破し、ついにソ連軍の抵抗を打ち砕かれた。6月30日遅くに、ソ連軍はブレスト要塞の放棄を決定し、7月2日に生き残ったソ連軍の主力が脱出した。6月30日にはブレスト要塞内には組織化されたソ連軍部隊は残存しなかった。

 ドイツ軍の推定では、ブレスト要塞の攻撃で約7000人以上の赤軍兵士が捕虜となり、約2000人が死亡して、要塞からの脱出者はほんの一握りだった。ドイツ国防軍は500人以上が死亡し、約700人が負傷した。8月26日に、アドルフ・ヒトラーとベニート・ムッソリーニが要塞を訪れた。ソ連軍のプロパガンダにより、戦闘は7月20日まで続き、ソ連軍兵士は誰もドイツ軍に降伏しなかった物語として、赤軍とソ連国民の回復力と勇気の証とした。




2023年10月25日水曜日

太平洋戦争のブーゲンビルの戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル(Bougainville)の戦いにて、日本軍兵士が防毒マスクを持ったままアメリカ軍に殺害された。殺害された日本軍兵士の死体は、ジャングルに倒れて散乱した。

 連合軍と日本軍のブーゲンビル島の戦いは1943年11月1日に勃発して、1945年8月21日に終結した。ブーゲンビル島はソロモン諸島にて約1万平方kmと最大である。日本軍は、ガダルカナル島から撤退した第十七軍の司令部を置いた。その兵力は第六師団、第十七歩兵団、南海第四守備隊などを中心に、最終的には約6万人から約8万人も駐留した。   

 1943年10月27日に、ニュージーランド軍がモノ島(トレジャリー島)に上陸して、日本軍の海軍陸戦隊の約200人を掃討した。10月27日にチョイセル島にアメリカ軍が上陸し、同島の日本軍守備隊約1,000人強との戦闘後に、11月4日には撤収した。11月1日、連合軍の第三海兵師団が、ブーゲンビル島のタロキナ海岸から上陸した。ラバウルの日本海軍航空隊が出撃して、タロキナ海岸付近のアメリカ軍艦船をブーゲンビル島沖海戦で攻撃した。上陸地点に最も近くのモシゲタに布陣した日本軍歩兵第二十三連隊は、約2,200人の兵力でタロキナ海岸に侵攻して、戦闘が11月8日に勃発した。約150対1もの格差があるアメリカ軍の火力に遭遇して、戦闘よりも虐殺に等しいと判断した日本軍の浜之上俊秋連隊長は、独断で撤退した。

  日本軍の歩兵第二十三連隊がタロキナ海岸上陸軍への攻勢を、中止して撤退した後に、日本軍の第十七軍は兵力を集中させて、攻撃の再開を準備した。その矢先に、ラバウルの日本軍の第八方面軍は、攻勢の延期を大本営から指示された。大本営は陸海軍部と早期攻撃を希望したが、第八方面軍は十分な兵力を集中した攻撃でないと、制空権も制海権も連合軍に握られた現状では、効果がないと延期で押し切った。攻撃の3日目で撤退した日本軍第二十三連隊長は、負傷して更迭された。一時は第八方面軍では、第二十三連隊長は敵前逃亡で軍法会議にかけるべきと強硬意見もあった。踏みとどまり攻撃を続行すれば早々に玉砕の全滅も予想されて、日本軍の方面軍の攻勢一時中止は当然だった。

  日本軍の第六師団はブイン地区から百数十kmもあり、一翼を担う第四十五連隊などは反対側、密林で覆われた山脈のタロキナ海岸の反対側キエタに布陣していた。3カ月余りをかけて、第六師団ほかに、在ブーゲンビル島の全兵力をタロキナ付近に集結させた第十七軍は、1944年3月8日、総攻撃を開始した。峻険なジャングルを切り開いて侵攻に時間がかかった。対する連合軍は、第14軍の約62,000人、そのうち第一線は第3海兵師団とアメリカル師団の計約27,000人だった。日本軍は、絶え間ない砲弾のなかで死守敢闘しが、1944年3月末に撤退のやむなきに至った。ブーゲンビル島の戦いの犠牲者は、日本軍は戦死その多くが餓死や病死で約2から3万人に上り、アメリカ軍は約1,243人が戦死した。日本軍は、終戦までの約2年間、食糧、武器弾薬の補給もないままに、国から見捨てられた多くの部隊が全滅した。




2023年10月24日火曜日

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。

1922年のロシアのボルガ地方のサマラ市における大飢饉にて、ロシア人が飢えに苦しみ餓死した農民の死体を収集して、荷車でサラマ市の集団墓地まで運搬した。ロシアの農民の問題が、第一次世界大戦とロシア内戦による秩序崩壊によって餓死者が増大した。

 ウラジミール・レーニンが率いたボリシェヴィキが、農民の食料を奪うことで農民の力を削いだ。1921年から1922年まで続いたロシアの大飢饉で、約500万人以上が死亡した。第一次世界大戦による経済危機、5年間続いたロシア内戦、1921年の干ばつにより、約3000万人のロシア人が栄養失調に陥った大飢饉が発生した。最も被害が大きかったのが、ロシア南東部のヴォルガ川とサマラ川の合流点のサマラ市であった。レーニンは飢饉直後の1924年に死去して、後にヨシフ・スターリンがソ連の指導者となった。1920年代にロシアの飢饉は、広大なロシアのヴォルガ川とウラル川流域の約2,500万人が飢餓に陥った。1930年代には、スターリンによる農業集団化と富農撲滅運動により、ウクライナからソ連各地に大飢饉(ホロドモール)が発生した。

 特にサマラ市は、ロシア内戦により、戦争共産主義を進める赤軍部隊に食糧を供給するために、農民の農場から食糧の接収を命じて、窮状が悪化して最も被害の大きかった地域の一つとなった。さらにサマラの5月平均降水量は38.8mが、1921年には0.3mしか降らず、その後に深い霜が降り、数百万人が飢餓に直面した。サマラ市民は、草、土、犬、猫、革の馬具を食べることを余儀なくされた。飢餓が蔓延し、人々は生き延びるために想像を絶する人肉を摂取するようになった。

 スウェーデン生まれの北極探検家であるフリットヨフ・ナンセン(Fridtjof Nansen)は、身分証明書や国籍証明書を持ってないロシア難民に、ナンセン・パスポートを考案した。無国籍者の身分証明書は、約50以上の外国政府によって認められ、ロシア難民が合法的に国境を越えることを可能にした。当初のロシア難民が、他の難民にも適用された。1922年11月にナンセンは、1922年度のノーベル平和賞を受賞した。




2023年10月23日月曜日

ガザ中心部のアル・アフリ・アラブ(al-Ahli Arab)病院への空爆で死亡したパレスチナ人の死体が、シファ病院に搬送された後、死体の周りにパレスチナ人が集まり、医療関係者や市民らが白い袋や毛布で死体を収容した。

ガザ中心部のアル・アフリ・アラブ(al-Ahli Arab)病院への空爆で死亡したパレスチナ人の死体が、シファ(Shifa)病院に搬送された後、死体の周りにパレスチナ人が集まった。医療関係者や市民らが、白い袋や毛布で死体を収容した。その病院の中庭には血痕と複数の放火された車が散乱した。何万ものパレスチナ人の家族が、終わりの見えないイスラエル軍の砲撃から避難するのに、ガザ地区の壊滅状態にある病院に殺到していた。

 パレスチナのガザ当局は、2023年10月17日にガザ地区のアル・アフリ・アラブ病院の空襲で数百人が死亡と発表した。ガザ保健省は10月17日に、ガザ中心部で患者で満員であったアル・アフリ・アラブ病院への攻撃で少なくとも500人が死亡したと発表した。パレスチナ自治区を統治するハマス武装組織は、イスラエル軍の攻撃は戦争犯罪と述べた。SNS上で共有された画像は、建物が炎に包まれ、被害が拡大し、残骸の中に死体が散乱していた。国連パレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)は言語道断であり、民間人の命を著しく軽視していると述べた。

 イスラエル国内で10月17日にハマスによる前代未聞の攻撃を受けて、イスラエル軍が10月7日に空からガザを攻撃し始めた。その後に砲撃からの避難を求める何万人ものパレスティナ人がガザ中の病院に逃げ込んだ。死体の中には患者や避難民のパレスチナ人も含まれ、病院の攻撃は国際的非難を巻き起こした。イスラエル軍は、病院での爆発をパレスチナのイスラム聖戦グループによるロケット弾発射失敗と非難した。イスラム聖戦グルーブは責任を否定した。

 病院攻撃を受けて、占領下のヨルダン川西岸地区や中東のいくつかの都市で反イスラエルの抗議デモが発生した。ヨルダンは10月18日に予定されたアメリカ、エジプト、パレスチナ自治政府の大統領が出席する予定の首脳会議をキャンセルした。パレスチナ自治政府のマフムード・アッバス議長は、病院が標的となったことは、醜悪な戦争による虐殺であり、容認できないと述べ、アンマンでの会議を辞退した。ガザの保健省は、水曜日のアル・アハリ・アラブ病院での爆発はイスラエル軍の空襲によるものだと発表した。イスラエルは、爆発はパレスチナ・イスラム聖戦(PIJ)武装組織が発射したロケットの誤爆によるとした。PIJは疑惑を否定した。













Warning: People gather around the bodies of Palestinians killed in Israeli air strikes on the al-Ahli Arab Hospital in central Gaza after they were transported to Shifa Hospital. [Dawood Nemer/AFP]


2023年10月22日日曜日

ウクライナ東部のハリコフの都市中心部で、2023年10月6日にロシア軍のミサイルが雑居ビルに突撃して、10歳の少年が殺害された。救急隊員が、10歳の少年の死体を収容した。

2023年10月6日に、ウクライナ東部のハリコフでのロシア軍のミサイル攻撃で10歳の少年と祖母が死亡した。ハリコフの都市の中心部で、ロシア軍のミサイル攻撃が雑居ビルに突撃して、10歳の少年が殺害された。救急隊員が、10歳の少年の死体を収容した。

 ウクライナ北東部の都市ハリコフで、ロシアのミサイル攻撃により10歳の少年と祖母が死亡した。同地域の別の場所では、前日の攻撃で少なくとも約52人の市民が死亡した。ここ数カ月で最も犠牲者の多い攻撃のひとつとなった後に、市民たちは死者を埋葬する準備をしていた。10月6日早朝のロシア軍のミサイル攻撃後に、救急隊員が建物の瓦礫から少年の遺体を引き揚げた。少年はスパイダーマンのデザインのパジャマを着ていた。

 ミサイルの攻撃で、少年の祖母も死亡して、生後11ヶ月の子供も負傷した。ハリコフ市では、10月6日早朝に発射されたミサイルのうち1発が通りに着弾して、クレーターを残し、もう1発が雑居ビルに命中し炎上した。ハリコフ州当局は、ロシア軍の攻撃全体で、約30人が死傷したと述べた。その救助活動は続いている。ウクライナ軍当局者によると、ロシア軍はイスカンデルミサイル2発で攻撃したと報告した。

 ウクライナ当局は、前日の10月5日に、精度と破壊力を伴うロシア軍のイスカンデル弾道ミサイルが、ウクライナ東部のホロザ(Hroza)村のカフェと商店を瓦礫と化し、少なくとも約51人の市民を死亡させた。ミサイルが命中したとき、カフェでは子供を含む約60人が通夜に出席していた。ウクライナ軍兵士のアンドレイ・コジールが戦死して、ホロザ村人が彼の死を悼むカフェの葬儀をロシアのミサイルが直撃した。ロシア軍は一瞬にして、コジールの未亡人、娘、息子、娘婿、娘婿の両親、叔父、叔母、その他の親族を殺した。ロシア軍のミサイル1発で、村の人口の6分の1が殺害された。















Warning: Emergency workers retrieved the body of a 10 years old boy who was killed in a Russian air attack that hit a multi-storey building in central Kharkiv, October 6, 2023.(AP Photo/ Alex Babenko)

2023年10月21日土曜日

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。

1945年10月初旬に広島市内の生存者の住民は整地された道路を、廃墟を二分するように彷徨った。約2カ月前に広島市に投下されて炸裂した原子爆弾によって瓦礫の山と化した。1945年8月6日、広島に原子爆弾が投下され、同年12月までに約9から約12万人が死亡したとされる。その約半数は、原子爆弾の投下して炸裂した直後に亡くなった被爆者である。1945年にはアメリカ軍から、すでに東京をはじめ各都市が徹底的な空襲を受けた。

 ニューヨーク・ヘラルド・トリビューン紙の記者であったホーマー・ビガード(Homer Bigart)は、アメリカ軍が原子爆弾を投下して炸裂して8月6日後に、9月3日と遅延して、広島市内に入ることが許可された。被爆地を撮影したライフ誌の写真家であるバナード・ホフマン(Bernard Hoffman)と同行した。9月3日に、広島市内を歩いた。約4週間前の最初の原子爆弾の爆発による被爆者たちは、治療が困難な火傷や感染症で、9月3日頃に毎日約100人の割合で死亡した。この史上最悪の核兵器の原子爆弾による犠牲者は、死者約53,000人、行方不明者約30,000人、重傷者約13,960人、負傷者43,000人であった。ホーマー・ビガードは、1945年8月6日に広島市上空で原爆が爆発してから1ヵ月後の広島市内の破壊を目の当たりにしても、敵である日本軍を全滅させるための戦争の論理的な行為であると考えた。ビガードは、1945年の太平洋戦争、1951年の朝鮮戦争の取材でピューリッツァー賞を受賞した。

 広島市内は平坦な、ぞっとするような荒涼とした風景が広がっているだけだった。荒涼とした風景を際立たせているのは、むき出しになった黒ずんだ木の幹と、時折見える鉄筋コンクリートの建物の殻だった。瓦礫はいたるところにあったが、その大きさは通常よりはるかに小さかった。原子爆弾はすべてを取り壊した。鉄や鋼鉄でできた建物は、いくつかの砲弾が残っているだけだった。広島の大部分は木造は燃え尽きた。日本は全面戦争だった。戦争に勝たなければならず、敵を実質的に絶滅させなければならないと感じていた。




2023年10月20日金曜日

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。

第二次世界大戦にて1943年11月18日に、アメリカ軍の第8空軍による空襲で、ノルウェーの首都オスロ近郊のドイツ軍のキェラー(Kjeller)飛行場に向けて上空から爆弾を落下した。




 爆撃の元となった攻撃は、1943年11月18日、イギリスのノーフォークを拠点とするアメリカ軍の第2航空師団に所属するアメリカ第8陸軍空軍のB24リベレーター重爆撃機によるキェラー飛行場への空襲で起こった。ドイツ占領軍が1943年11月18日木曜日にキェラーで特別軍事演習を計画していた。キェラー飛行場で、ドイツ空軍機、エンジン、部品の修理・整備は、ドイツの3大工業・整備会社によって行われた。1943年11月18日朝、搭乗した第2AD爆撃集団の約107機が空襲に参加した。キェラー飛行場の対空砲台にいたドイツ軍の対空砲兵は、差し迫った攻撃はすべて軍事演習の一環として、空砲で発砲した。アメリカ軍の約78機のB24爆撃が、約230kg爆弾を合計約838発のをキェラー上空に投下して空襲した。空襲によって、終戦までキェラー飛行場での整備活動は事実上停止した。 キェラー空港はノルウェーで最初に設立された空港である。ドイツ軍により、1940年4月8日からノルウェー侵攻が勃発して、4月10日に4月10日にキェラー飛行場は占領され、6月10日にノルウェーは制圧された。終戦後の1945年5月9日、キェラー飛行場はノルウェーに明け渡された。

 帰還機で2人のアメリカ人乗組員が死亡、1人が負傷、91人が行方不明となり、うち30人が中立国スウェーデンに抑留された。アメリカ軍側はキェラー飛行場の爆撃で約200人以上のドイツ軍兵士が死亡、400人が負傷したと推定した。BMWの現場近くの塹壕に身を隠した多くのドイツ軍兵士が生き埋めで死亡したという。飛行場に実際に落ちた爆弾とは別に、半径2キロ以内に約140発の爆弾が落とされた。民家6軒が破壊され、6軒が大破した。民間人3人が死亡、数人が負傷した。1943年11月18日のアメリカ軍の空襲後に、ドイツ軍のキェラー飛行場のの修理・整備基地に爆弾の煙が立ち昇った。




2023年10月19日木曜日

アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所を1945年5月5日に解放した後に、5月12日にバラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

オーストリアのリンツ近郊にあるグーゼン強制収容所は、アメリカ第3軍第11装甲師団の部隊によって1945年5月5日に解放された。長引く死、過酷な労働、獣姦、大量絶滅の強制収容所であった。グーゼン強制収容所で殺された捕虜の総数、収容されていた最大人数は、開放時には不詳であった。1945年5月12日にアメリカ軍が解放した際に発見された死体であった。マウトハウゼン強制収容所の副収容所であった。アメリカ軍信号体の兵士たちが、オーストリアのグーゼン強制収容所の解放後、バラックの外で死亡した囚人の死体を撮影した。

 アメリカ軍が到着して解放した後も、収容者たちは毎日約100人の割合で、高度な飢餓で死亡し続けた。収容者たちは、収容所は主にヨーロッパ全土からの政治犯のためのものだったと調査官に語った。しかし、グーゼン収容所では一時期、未知数のアメリカ人飛行士が虐殺されたことが判明した。囚人たちは、立っていられないほど衰弱するまで近くの石切り場で働いて、その後ドイツ軍に虐殺された。グーゼン強制収容所は、ガス室、火葬場にて、ドイツ軍が虐殺した犠牲者の処分に使った通常の効率的な手段を備えていた。第三軍部隊は、不潔なベッド、ゴミ捨て場、道路、荷車、貯蔵室、火葬を待つために置かれた冷蔵室で、収容者の死体を発見した。ドイツ民間人は、アメリカ軍によって、腐敗した死体を適切な埋葬のために運び出すよう強制労働された。

 ガス室で死んだ者もいれば、ベッドで餓死した者もいる。遺体は、まともな埋葬のために、貨車に積み込むために通りに運び出された。未知数のアメリカ人飛行兵がグーゼン強制収容所で殺された。男たちは近くの石切り場で、体力が衰えるまで働かされ、その後に殺された。1945年5月8日に、12歳以上のドイツ民間人を、解放されたグーゼン収容所で死体処理の任務に出頭させた。ドイツ、オーストリア、ポーランドの捕虜と、1940年に約4,000人のスペイン共和国人、1941年には4,400人のソ連軍捕虜をグーゼンに収容した。1940年と1941年の平均余命は6ヶ月であり、1940年から1942年の囚人の平均体重は40kgであった。




2023年10月18日水曜日

コロ島を出港したその夜から、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。

日本の博多港を間近にして、父親が亡くなった。残された二人の子供とともに、母親は父親の死体が沈んだ海面をいつまでも見つめつづけた。毛布にくるまれた父親の死体が海に投げ込まれて消えた。「どうぞ安らかに」と引揚者のみんなが合掌した。

 ここまで来たのに。コロ島を出港したその夜から、安心のあまり気がゆるんだのか、絶命して息をひきとる満州からの引揚者があいついだ。乗船する前に死んだ子供を、日本へ連れてて帰りたい一心で、毛布に子供の死体を包み隠した母親もいた。死体は、毛布やコモでつつまれて、みんなに見守られるながら、引揚船の後部から海に降ろされて、水葬にされた。「ボーッ」「ボーッ」「ボーッ」と悲しみに満ちた低く長い汽笛を鳴らしながら、死体が沈んだ周りを、引揚船は大きく旋回した。一回、二回、三回と旋回をくりかえすと、引揚船はその海場を離れて行った。「せっかく博多港のここまで帰って来たのに」。遺族の無念さがこみあげてくる。 

 中国の葫芦島(コロ島)の埠頭の倉庫の下に約5百から6百人の引揚者が、日本に引き揚げる乗船を待機した。銃剣を持った中国軍兵士が、引揚者の荷物を刺しては検閲した。1946年7月16日午前7時から、乗船の許可が降りて、日本への引揚者は「白竜丸」に乗船した。その一週間も前から軒下で待機していた引揚者の数名が絶命していた。コロ島から約4日目の朝に博多港付近まで引き揚げた。

 葫芦島在留日本人大送還は、連合国のポツダム宣言に付随した協議により、中国国民政府(陸上輸送部分)とアメリカ(海上輸送部分)の責任にて、葫芦島(コロ島)からの日本人難民の送還事業であった。アメリカ軍はブリーガー作戦の一環であり、中国では「葫芦島日僑大遣返」と呼称した。1945年10月の中国国民政府とアメリカとの1回目の上海会議で日本民間人人の帰還移送が決まった。遼寧省の錦州の西南に位置するコロ島は、アメリカ海軍の拠点から近く、国民・共産両勢力の境界付近に位置した。1946年5月11日に、アメリカ・国民・共産の3者の協定が締結され、コロ島が確保された。葫芦島からの引き揚げは1946年5月7日から開始され、1946年末までに約101万7549人(うち捕虜1万6607人)、1948年までに総計105万1047人の在留日本人が日本へ送還された。満州から引き揚げできずに、約24万人が死亡した。




2023年10月17日火曜日

ドイツ軍は1943年9月23日にソ連のウクライナ北東部のポルタヴァから撤退する際に、ポルタヴァ市民を生きたまま焼死させる焚刑を執行した。黒焦げになった数十人のポルタヴァ市民の死体が、路上に積み上げられた。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍は1943年9月23日にソ連のウクライナ地方北東部のポルタヴァ(Poltava)から撤退する際に、ポルタヴァ市民を生きたまま焼死させる焚刑を執行した。黒焦げになった数十人のポルタワ市民の死体が、路上に積み上げられた。焼け焦げの死体を、ポルタヴァ市民が取り囲んで眺めた。

  第二次世界大戦中に東部戦線で、ウクライナ地方のポルタヴァの町は甚大な被害を受けた。1941年9月18日のバルバロッサ作戦で、ドイツ軍がポルタヴァを占領してから、その後約2年間にわたりドイツ軍に支配された。ポルタヴァでは約22,000人以上のユダヤ人が、アインザントグルッペンにより郊外一帯に偽って召喚されて虐殺された。1943年9月にソ連軍のステップ戦線の部隊が攻勢を展開して、ボルスクラ川を強行突破した。ソ連軍は、約3日間の激戦の後に1943年9月23日に、ウクライナ地方の中心地であり、ドニエプル川の東にある強力なドイツ軍防衛拠点であったポルタヴァの町を占領した。

 ウクライナ地方のドニエプルの戦いにて、特にポルタヴァでは苛烈だった。ポルタヴァはドイツ軍が厳重に要塞化され、守備隊は万全の態勢を整えていた。ソ連軍の攻勢を大きく鈍らせた数日間の戦闘後、ソ連軍はポルタヴァを迂回して、ドニエプル川に向かって突進した。激しい市街戦が約3日間続いた後に、ドイツ軍のポルタヴァ守備隊は打ち破られた。1943年9月末には、ソ連軍はドニエプル川下流に到達した。ドニエプルの戦いの犠牲者は、ソ連軍が約29万人の戦死または行方不明、ドイツ軍は、102,000人が戦死または行方不明となった。

 ポルタヴァの町の解放の戦闘に作戦したソ連軍兵士に、スターリンは「諸君の指揮するすべての部隊に感謝の意を表する。祖国の自由と独立のために戦った英雄たちに永遠の栄光を。ドイツの侵略者に死を!」。ポルタヴァは、1944年6月からアメリカ軍の戦闘機がドイツ本土へのシャトル爆撃であるフランティック作戦で使用した空軍基地の一つとなった。





2023年10月16日月曜日

イスラエル・パレスチナ戦争で、死体が散乱するガザのアル・シファ病院内にて、パレスチナ人医師は、2023年10月11日にイスラエル軍の空爆で死傷した子供を治療した。

イスラエル・パレスチナ戦争で、死体が散乱するガザのアル・シファ(al-Shifa)病院内にて、パレスチナ人医師は恐怖と混乱の中で、2023年10月11日にイスラエル軍の空爆で死傷した子供を治療した。

 イスラエル軍の空襲で包囲されたガザ地区では、負傷したパレスチナ人が懸命に救命するも、死体袋の数は増え続けた。荒廃して廊下は薄暗いガザのダール・アル・シファ病院に、新たな死傷者が到着した。病院の緊急治療室の各所にうめき声や痛みの叫び声が響き、死傷者はフロアで治療を医療関係者から受けた。塩素の強烈な臭いが漂う中で、病院の医療関係者はモップを持って、死傷者の血で汚れたタイルを掃除した。

 イスラエル軍により包囲されたガザ地区への空爆が始まってから約9日目の10月15日でも、壊滅的な被害の大きさに、病院は戦争で疲弊して限界に達した。イスラエル軍の空爆による破片が、自宅から逃げ出した21歳の弟サレムの腕を直撃し、腱を切断した。病院の手術室は、何百件もの重篤な手術であふれた。

 パレスチナのハマスの戦闘員が、イスラエル軍の要塞化された分離障壁を突破して、約1,300人以上のイスラエル人を殺害して1週間以上が経過した。イスラエル軍は約10年ぶりにガザへの地上侵攻に備えた。ガザへの地上攻撃は、パレスチナ人の死者数を増加させる。包囲された飛び地で、過去4回の戦争の犠牲者をすでに上回った。ガザの病院への物資供給が十分でなく、イスラエル軍が200万人以上の人口を抱えるガザの飛び地への食料、燃料、水、電気の供給を断つ決定を下した。民間人の死者数が急増する可能性がある。

 権利擁護団体は、2007年以来のガザ地区の包囲に加えて、ガザを完全に包囲する決定は集団的懲罰であり、国際法違反であると警告した。シファ病院の職員は、予備の発電機に残っているディーゼルを必死で節約して、必要のない診療科はすべて消灯した。シファ病院は、負傷者に十分なベッドがなく、医療関係者は現場で死傷者を治療した。トイレの水など基本的な生活必需品もない。手術室や医療関係者は、過酷な状況で24時間働いて、数時間しか眠れなかった。10月12日に、イスラエル軍はガザ北部に住む約110万人のパレスチナ人に南へ避難するように命じて、帰還の保証は与えなかった。それ後に避難したパレスチナ人の多くは、イスラエル軍の砲撃から解放されなかった。イスラエル軍の戦闘機が車列や脱出路の道路を攻撃した。

 激しい空爆の中で10月12日に、アル・ドゥラ小児病院には、打撲や包帯を負った乳幼児、顔に血がにじんだ幼児など、新たな患者が押し寄せた。イスラエル軍の空爆により、10月12日朝、ジャバリアの同じ家族の44人を含む少なくとも約250人が死亡した。ガザ保健省は、ドゥラー病院は砲撃を免れず、白リン弾の標的にされた。その後、避難を余儀なくされた。ヒューマン・ライツ・ウォッチは、イスラエル軍はガザ地区で違法に白リン弾を使用したと述べた。

 イスラエル軍がパレスチナ人に対してガザ北部からの退去命令を出して以来に、いくつかの病院は、救命救急の患者を追い出せないと報告した。アル・アウダ病院は10月14日に、死傷したパレスチナ人を追い返したり、ドアを閉めれないと述べた。病棟は死傷者で満杯となった。イスラエル軍に圧力をかけるように、世界中の人道支援パートナーに訴えた。

 ガザ保健省は、イスラエル軍が意図的に救急車を爆撃して、戦争犯罪の国際規則に違反していると非難した。パレスチナ赤新月社(Palestine Red Crescent Society)は、10月15日の約30分間に4人の救急隊員が死亡したと非難した。シファ病院は、数日前に死体安置所が収容可能人数に達し、溢れ始めた。死体はウォークインクーラーの外に3段重ねにして、駐車場には何十体も並べて置いた。










Warning: Palestinian medics tend to children wounded by Israeli air strikes at al-Shifa hospital in Gaza City on 11 October 2023 (AFP)

2023年10月15日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年9月6日に、ドネツク州のコスティアンティニフカは、ロシア軍のミサイル攻撃を受けた。屋外市場の前にウクライナ市民の死体が横たわった。約17人が死亡、約32人が負傷した。

ロシア・ウクライナ戦争にて2023年9月6日に、ウクライナのコスティアンティニフカ(Kostiantynivka)市中心部は、ロシア軍のミサイル攻撃を受けた。砲撃後に、燃え上がる市場の前にウクライナ市民の死体が横たわった。ウクライナ東部のコスティアンティニフカで、ロシア軍の砲撃により、約17人が死亡して、少なくとも約32人が負傷した。その後にニューヨーク・タイムズは9月18日に、コスティアンティニフカの壊滅的な攻撃は、ウクライナの防空ミサイルの誤射により、ブーク発射システムによって発射されたミサイルであったことを強く示唆する証拠があると報じた。

 ロシア軍のミサイルがウクライナ東部の屋外市場を切り裂き、約17人が死亡、約32人が負傷した。ウクライナのドネツク州の最前線に近いコスティアンティニフカ市で、ミサイルの空爆によって、屋外市場を黒焦げの廃墟に変えて、死体が散乱した。屋外市場は、民間人居住地であり、軍事施設はなく、恣意的な無差別攻撃が勃発した。

 コスティアンティニフカの市場の残骸があり、炎に包まれた車の近くには、黒焦げになった死体が服を着たまま通りに出ていた。新鮮なパセリを売る屋台の裏では、救助隊が血まみれの私服姿の女性の死体を発見した。ウクライナのコスティアンティニフカ市中心部が受けたロシア軍のミサイル砲撃後に、屋外市場で、救急隊員が死傷者に応急処置を施して、救急車で搬送した。消防士が炎を消火して、救急隊員は止血帯を装着し、担架や毛布などで死傷者を緊急車両に乗せた。ポスターや防水シートで覆われた死体もあった。地面に覆いかぶさった死体、屋外市場の屋台の火災を消した救急隊員、黒焦げになった車が屋外市場の近くにあった。救急隊員は、屋外市場の約30のパピリオンに火災を消火した。











Warning: A dead body lies on the ground in front of a burning market after a Russian shelling attack in the city center of Kostiantynivka, Ukraine, Wednesday, Sept. 6, 2023. More than a dozen people were killed and dozens more were wounded Wednesday when Russian shelling struck a market in the city in eastern Ukraine, officials said. (AP Photo/Evgeniy Maloletka)


2023年10月14日土曜日

広島に1945年8月6日に原子爆弾が炸裂した爆心地の周辺は崩壊した。原子爆弾による熱風により炎上したバスの乗員は全員が死亡した。アメリカ軍の占領軍の兵士たちが、1945年9月に広島原子爆弾被災状況を調査した。

第二次世界大戦末期に、アメリカ軍によって広島に1945年8月6日に投下された原子爆弾が炸裂した爆心地の周辺は崩壊した。原子爆弾による熱風により炎上したバスの乗員は全員が死亡した。火災被害はとてつもない犠牲をもたらした。アメリカ軍の占領軍の兵士たちが、1945年9月に広島の原子爆弾による被災状況を調査した。

 被爆した直後には、消防隊や救助隊の人員も装備も剥奪されて、最悪な被災状況となった。爆心地から約500m以内にいた広島市民の90%以上が死亡した。1945年8月6日に広島に投下されて炸裂した原子爆弾爆によって、約14万人(そのほとんどは民間人)が死亡したと推定されている。原爆投下で死亡した人のおよそ半数は即死であり、その多くは熱線によって文字通り蒸発した。アメリカ軍の原子爆弾調査団が、1945年9月に広島市内に入り調査研究をした。

 1945年の原子爆弾の投下して炸裂後の1945年9月に、バーナード・ホフマンは広島と長崎の被爆現場にいた最初のアメリカ人の民間写真家となった。原子爆弾の破壊力の悲惨さを写真により垣間見せた。1936年に創刊された『ライフ』誌に被爆写真が掲載された。原爆投下後の広島の被爆の風景の写真である。原子爆弾が投下されて、乗員が死亡した黒焦げのバスの荒涼とした被災状況を、アメリカ軍の占領軍の兵士たちが調査した。



2023年10月13日金曜日

太平洋戦争のマリンの戦いで1943年11月に、撃沈された艦船のリスカム・ベイ空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の艦船レナード・ウッドから太平洋の海上に埋葬された。

太平洋戦争のマリンの戦い直後の1943年11月に、艦船のリスカム・ベイ(Liscome Bay)空母の2人の水兵がアメリカ国旗で覆われて、沿岸警備隊の船から太平洋の海上に埋葬された。USSリスカム・ベイ(CVE-56)で死亡した2人の下士官が、USSレナード・ウッド(APA-12)の乗組員によって海上に埋葬された。救助された乗組員のうち2人が死亡して、海に埋葬された海洋葬により、船、ボート、航空機などから死体を海洋に埋葬した。 

 1943年11月24日午前5時10分に、護衛空母で旗艦のUSSリスカム・ベイは、マキン付近に到着した日本軍の潜水艦I-175によってわずか23分間で撃沈された。I-175が発射した1本の魚雷が、リスカム・ベイの航空機爆弾備蓄庫を爆発した。リスカム・ベイは、魚雷の命中や破片の損傷から保護されない爆弾格納の最悪の場所に命中した。爆発は艦の半分を崩壊させた。機関室後部の前部隔壁より後方では誰も生存していなかった。爆炎が収まった時にはリスカム・ベイ」の後半部分の水兵は全員爆死した。 大爆発が艦全体を飲み込み、急速に沈没した。リスカム・ベイの攻撃が、マキンの戦いにおけるアメリカ軍の死傷者の大半を占めた。リスカム・ベイの約916名の乗組員のうち、約644名(将校53名、下士官591名)が死亡した。救助されたのは約272人であった。

 マキンの戦いが、太平洋戦争中の1943年11月20日から11月23日にかけて、ギルバート諸島ブタリタリ環礁で勃発した。アメリカ軍はマキンの完全占領には4日間を要して、地上軍兵力よりも海軍の死傷者の方がかなり多かった。日本軍は約395人が戦死して、アメリカ軍が約763人が戦死した。アメリカ軍にとっての損害の比率は過大であり、太平洋戦争後半はアメリカ軍の攻勢期でも、アメリカ軍側の人的損失が日本軍側を上回った数少ない戦いとなった。




2023年10月12日木曜日

第二次世界大戦にて連合軍のハンブルグ空襲によって、1943年7月27日夜中にアスファルトの路上は炎に包まれ、ハンブルグ市民が焼死した。約9000トンの爆弾が約4万人の市民を殺害して、主要工業港を灰燼に帰した。

第二次世界大戦にて連合軍のハンブルグ空襲によって、1943年7月27日夜中には、アスファルトの路上は炎に包まれて、多数のハンブルグ市民が焼死した。約9000トンの爆弾が約4万人の市民を殺害して、主要工業港を灰燼に帰した。全部で約13,000人の男性、約21,000人の女性、約8,000人以上の子供が犠牲になった。「ゴモラ作戦のコードネームで呼ばれたハンブルクの戦いは、1943年7月24日から7泊8日の空襲作戦だった。当時、航空戦史上最も激しい攻撃であり、後にイギリス政府高官から「ドイツのヒロシマ」と呼ばれた。地域絨毯爆撃のゴモラ作戦は、ハリスとチャーウェルがチャーチルを説得して立案した。空爆作戦も、すべてのドイツ人とイタリア人を憎むべき敵と見なした。

 イギリス空軍元帥サー・アーサー・トラヴァース・ハリスは、爆撃機ハリスとして 知られ、イギリス空軍内では「ブッチャー」ハリスとして知られた。彼は、第二次世界大戦中、ドイツ国内で何十万人もの罪のない女性、子供、老人を死に追いやった直接かつ意図的な軍事責任者であった。彼はニュルンベルクで被告とともに戦争犯罪の罪で裁かれるべきだった。チャーウェル子爵(リンデマン教授)は、ドイツの都市と市民に対する絨毯爆撃作戦の主席立案者であった。

 作戦は、イギリス空軍爆撃機部隊(RCAF飛行隊を含む)とアメリカ空軍第8空軍によって実施された。イギリス軍は夜間空襲を行い、アメリカ空軍は昼間空襲を行った。7月27日真夜中少し前、約800機近くの爆撃機がハンブルクを空襲した。異常に乾燥した暖かい天候、爆撃が一箇所に集中したこと、空襲の初期に使用されたブロックバスター爆弾による消火活動の限界から、いわゆる"火災旋風(Feuersturm)"が発生した。最大風速240km/h、最高温度800℃の大火災が発生し、市街地の約21km²が焼失した。アスファルトの道路は炎に包まれ、ゴモラ作戦による犠牲者の大半はこの夜に発生した。犠牲者の多くは避難所にいた。7月29日の夜、ハンブルクは再び約700機以上の爆撃機による空襲を受けた。ゴモラ作戦の最後の空襲は8月3日に行われた。多くが跡形もなく焼滅して、死者数は不明である。

 ハンブルクは、空爆以前は特に親英的であり、ヒトラーに対する抵抗勢力を形成する地盤であった。ハンブルク空襲は、親英感情をすべて消え去り、ヒトラーへの抵抗も焼滅した。ドイツ国民は、ゲッベルスの「恐怖の空襲」のプロパガンダを信じ、恐ろしい連語軍の攻撃からドイツを守る傾向が強まった。空襲は、戦争を短縮するどころか長引かせた。

 1943年7月にヨーロッパ戦域のアメリカ空軍将校のカーチス・ルメイはハンブルグ空襲を指揮した。彼は1943年9月に、同地で第3航空師団長に任命された。1944年8月に太平洋戦線に転属して、日本全土に対するすべての空襲作戦を責任者として執行した。




2023年10月11日水曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて1945年7月1日に、ルソン島カガヤン州タペルで日本軍がフィリピン民間人を虐殺した。タペル村に続く小さな橋においては、日本軍が3人のフィリピン民間人を殺害した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて1945年7月1日に、ルソン島カガヤン州タペルで日本軍がフィリピン民間人を虐殺した。タペル村に続く小さな橋においては、日本軍が3人のフィリピン民間人を殺害した。1945年11月23日に写真の男性であるペドロ・セローノは、日本軍に虐殺されたフィリピン民間人の8人の遺体を発掘して、虐殺後に発見した頭蓋骨8個を展示した。アメリカ軍の政府関係者に虐殺された場所を特定して、頭蓋骨は日本軍の戦争犯罪裁判の証拠として使用された。

 フィリピンの日本軍の戦争犯罪は、アメリカ軍主導により1945年10月開廷した山下奉文元大将のマニラ裁判から開始された。1946年7月4日にフィリピン共和国の独立後に、1947年4月までアメリカ軍主導で日本軍の戦争犯罪が裁判された。約1年半の間に、97裁判が開廷されて、215人の被告が起訴された。戦争犯罪の判決結果は、死刑は92人、終身刑39人、有期刑66人、無罪20人であった。マニラでアメリカ軍主導の戦争犯罪裁判は、1947年4月にフィリピンが独立した後の1947年4月に終結した。

 その直後の1947年7月から、フィリピン当局が残りのB級およびC級戦犯の裁判を引き継いだ。1947年から1949年にかけて、フィリピン共和国は、日本軍がフィリピンを占領していた時代に、戦争犯罪を犯した日本帝国陸海軍幹部155人に対し、73の戦争裁判を行った。その結果、1949年12月28日までに138人に有罪判決が下されて、79人に死刑判決が下った。73の裁判は、主にフィリピンにおける民間人の殺人、強姦、拷問から捕虜の非人道的扱いまで、猛威を振るった日本軍の戦争犯罪を対象とした。155人の日本軍の被告人のうち、149人が判決を受けた。日本軍の被告人のうち79人が死刑、31人が終身刑、28人が刑期の異なる判決を受けて、11人が無罪となった。1945年7月のカガヤン州の戦争犯罪を提訴されて、大村康雄(Yasuo Omura)中佐は、1949年9月12日に有罪の終身刑に判決されて、エルピディオ・キリノ大統領の1953年7月4日の恩赦で赦免された。




2023年10月10日火曜日

2023年10月7日にイスラエルのスデロットの警察署が、パレスチナのガザ地区のハマス武装勢力に制圧された。10月8日に警察署の外で、イスラエル警察がパレスチナのガザ地区の武装勢力の死体のそばに立って検死した。

2023年10月7日にイスラエルのスデロット(Sderot)の警察署が、パレスチナのガザ地区からハマスの武装勢力に制圧された。翌日の10月8日に警察署の外で、イスラエル警察がパレスチナのガザ地区の武装勢力の死体のそばに立って検死した。10月7日、ハマスの武装集団がガザ近郊のスデロットを攻撃し、イスラエル警察や一般市民と路上で銃撃戦を繰り広げ、町の警察署を占拠した。イスラエル警察の少なくとも20人が死亡した。ハマスの武装勢力は10月7日に国境フェンスを越えて襲撃し、周辺のコミュニティで数百人のイスラエル人を殺害した。

 2023年10月7日に勃発したガザ地区からハマスの奇襲攻撃は、イスラエルにとって過去数十年で最悪の死者数となった。最初の侵攻に約1,000人のハマス戦闘員が参戦した。ハマスの武装集団は、ガザを囲む国境フェンスを爆発物で突破し、オートバイ、ピックアップトラック、パラグライダー、スピードボートで海岸を横断した。多数の死者、多数の捕虜、そして猛攻撃への対応の遅れは、重大な諜報活動の失敗を指摘し、イスラエルが数十年に支配してきた人口密度の高い小さなガザ地区の領土の監視を配している長年の認識を根底から覆した。44人のイスラエル軍兵士を含む少なくとも約700人がイスラエルで死亡したとメディアは伝えた。イスラエル政府は正式にハマスに10月8日に宣戦布告した。イスラエルは過去40年間、レバノンやガザで大規模な軍事作戦を実施したが、正式な宣戦布告はなかった。

 10月7日から、ハマスの武装勢力は、女性、子供、老人を含む数十人のイスラエル人をガザ沿岸部に強制連行した。捕らわれの身や行方不明となったイスラエル人の親族が、霧の中で慟哭し、援助を懇願する様子が放映された。ハマスと小規模なイスラム聖戦集団は、イスラエル国内にて約130人以上を拘束し、ガザに強制連行したと主張した。イスラエルの治安部隊が、約400人のハマス武装勢力を殺害した。国連は、避難を余儀なくされたガザ住民の数は約123,000人を超えた。

 人口約230万人の小さな飛び地であるパレスチナのガザ地区は、ハマスの占領以来約16年間、イスラエルとエジプトによって封鎖された。ハマスに対するイスラエル軍の報復により、ガザの北東にあるベイト・ハヌーンの町の大部分を空爆で破壊するなど、約800以上の標的を攻撃したとイスラエル軍は発表した。パレスチナ保健省は10月8日に、子ども78人と女性41人を含む約413人のパレスチナ人が死亡し、約2,300人が負傷したと発表した。












Warning: Israeli police station stands by the bodies of militants outside the police station that was overrun by Hamas gunmen on Saturday, in Sderot, Israel, Sunday, Oct.8, 2023. Hamas militants stormed over the border fence Saturday, killing hundreds of Israelis in surrounding communities. (AP Photo/Ohad Zwigenberg)

2023年10月9日月曜日

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。戦死した夫の死体に抱きかかえて、若い未亡人は苦悶しながら嘆き悲しんだ(@ Don McCullin)。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

 1975年4月17日にプノンペン陥落して、クメール・ルージュによってクメール共和国(現在のカンボジア)の首都プノンペンが占領されて、カンボジア内戦は終結した。1975年4月初旬に、クメール共和国に残された最後の砦であったプノンペンは、クメール・ルージュに包囲されて、ポチェントン空港からの空中補給に完全に依存した。クメール・ルージュの制圧が目前に迫り、アメリカ政府は1975年4月12日に、アメリカ国民と同盟国のカンボジア人を避難させた。4月17日のうちに、プノンペン周辺の最後の防衛線は制圧されて、クメール・ルージュがプノンペンを占領して、クメール共和国政府は崩壊した。

 捕らえられたクメール共和国軍は、オリンピック・スタジアムに連行され、そこで処刑された。政府や軍の幹部は、処刑前に自白書を書かされた。クメール・ルージュはプノンペン住民に強制退去を命じて、4月30日までフランス大使館に避難した国外居住者を除き、プノンペンは空っぽになり、タイに移送された。外国人はフランス大使館の敷地内に押し込められた。約2週間後には外国人たちはタイ国境までトラックで運ばれ、追放された。外国人が去り、カンボジアのクメール・ルージュによる民主カンプチアで始まった恐怖政治の唯一の外部目撃者を失った。

 クメール・ルージュは、プノンペンを支配下に置いて、約200万人のプノンペン住民を地方の農村部に強制移住を強行した。家や学校で銃を突きつけられ、直ちに移動しなければ発砲された。病院でも患者は路上に追いやられた。家族はバラバラになり、子供たちは混乱の中で両親を見失った。首都プノンペンから続く道路は大渋滞となり、何千人もの人々が死亡した。友人や親族は死体を置き去りにし、わずかな持ち物を担いで足早に移住を強制された。




2023年10月8日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州シヴェルスク(Siversk)近郊の前線で、K2大隊のウクライナ軍兵士が、塹壕に横たわるロシア軍兵士の死体の上から立って見下した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、ドネツク州シヴェルスク(Siversk)近郊の前線で、K2大隊のウクライナ軍兵士が、塹壕に横たわるロシア軍兵士の死体の上から立って見下した。1月28日に、フランスAFP通信はシヴェルスク近郊の前線の塹壕で死亡したロシア軍兵士の死体の写真を公開した。

 シヴェルスクの戦いは、 ロシア軍によるウクライナ侵攻中に、2022年7月3日に始まったウクライナ東部広域攻勢のドンバスの戦いの一環であった。ロシア軍は7月28日にシヴェルスクとその周辺への攻撃を中止した。8月を通じて戦闘は小康状態となり、ハリコフ反撃で、ロシア軍は9月8日以降は、シヴェルスクの周辺の陣地から撤退した。

 2022年7月以来、主にワグネル部隊からなるロシア軍の民間軍事会社が、ドンバスの重要な交通拠点であるバフムトを攻撃している。ワグネルは、約4万人の受刑者を含む約5万人の戦闘員を送り込んだ。アメリカ財務省は、2023年1月26日ウクライナで活動するロシアの民間軍事会社ワグネルを国際犯罪組織に指定した。

 ウクライナ軍の要塞は、クラマトルスク、スロヴィアンスク、トレツク、シヴェルスクへのロシア軍の侵攻を妨げた。前線は、シヴェルスクから数kmの地点にあった。この方面の他の住宅地と同様に、シヴェルスクもロシア軍の砲撃を受けた。

 2023年1月27日にドネツク州バフムト地区のチャソフ・ヤルの町も砲撃に見舞われた。2人が死亡、さらに5人が負傷した。車だけでなく、住宅や行政の建物も被害を受けた。1月28日に、ロシア軍がドネツク州コンスタンチノフカ市にミサイル攻撃を開始した。住宅地が火災に遭い、高層ビル4棟、ガレージ、ホテル、民間車両が被害を受けた。少なくとも3人が死亡して、2人が負傷した。コンスタンチノフカへの砲撃後、ウクライナ当局は、NATOに対し、首都キエフに長距離ミサイルの供給を呼び掛けた。

 逆に2023年1月28日に、ロシア国防省は、併合したルガンスク州ノボアイダル村の病院に対する襲撃で14人が死亡し、24人が負傷したと発表した。病院施設では軍関係者と地元住民が治療を受けていた。病院がHIMARSミサイルシステムから砲撃を受けた。ウクライナ当局は、ロシア国防省の声明にコメントしなかった。タス通信は、破壊された病院の写真を公開した。















Warning: A Ukrainian soldier of the K2 battalion stood over the body of a Russian soldier lying in a trench on the front line near the town of Siversk, Donetsk region on 28 January 2023.(Photo by AFP/Anatoly Stepanov)

2023年10月7日土曜日

長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により、爆心地から南へ約1.5kmの浦上駅付近にて、1945年9月初旬に、爆風により破壊されて焼失した路面電車が脱線していた。

 長崎原子爆弾の1945年8月9日の炸裂により、爆心地から南へ約1.5kmの浦上駅付近にて、1945年9月初旬に、爆風により破壊されて焼失した路面電車が脱線していた。長崎原子爆弾により2軸車約63両のうち約16両の電車が破壊された。

 長崎市の浦上を中心とした被爆地は、焼け野原になっていた。路面電車の残骸だけでなく、ひっくり返って焼けている自動車の残骸もあった。線路の両脇は瓦礫だらけであった。長崎市内の被爆地は、東西を山で囲まれた南北に細長い盆地であった。浦上駅は爆心地より約1kmの至近距離に位置した。駅舎は全壊し構内には多数の遺体が散乱した。国鉄職員の人的被害も甚大で、勤務中の職員ら約70人のうち即死者20人を含む65人が死亡した。

 長崎電気軌道株式会社(長崎電鉄)は、長崎駅・大橋間のおよそ約3kmに及ぶ区間が壊滅し、主要施設、建物、車両、従業員に大きな被害を受けた。旧市内の全線も数カ月にわたって停止するに至った。車両の焼失破壊は約21両におよび、電柱の倒壊折損約120本、電線及び軌道の焼失数箇所にして、従業員の死者百十余名に達した。電車の運転不能となり休業に至った。損失電車は保有車両56両のうち、可動車の約半数であり、従業員(動員学徒・女子挺身隊を含む)の死亡は総員約500人のうち23%を占めた。長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されてから3か月後の11月24日に、再び路面電車が長崎の街を走り出した。



2023年10月6日金曜日

ロシア革命後のロシア内戦にて1920年に、白軍の処刑部隊がボリシェヴィキの容疑者2人を射殺し、さらに2人を絞首刑にした。ペトログラード郊外で、白軍のオクラナ野戦師団が捕虜となったソビエト人容疑者を処刑した。

ロシア革命後のロシア内戦にて1920年に、白軍の処刑部隊がボリシェヴィキの容疑者2人を射殺し、さらに2人を絞首刑にした。ペトログラード郊外で、白軍のオクラナ野戦師団が捕虜となったソビエト人容疑者を処刑した。

 暴力が日常茶飯事となり、ボリシェヴィキ化した農民や労働者が支配権を握った地域では、地主や雇用主が強盗されて、拷問され、殺害された。白軍が優勢を保っている地域では、警察や兵士がボリシェヴィキの容疑者を見つけ出し、容疑したところでは、冷酷に虐殺した。白軍の処刑部隊は、ボリシェヴィキの容疑者2人を射殺して、さらにもう2人を絞首刑にした。ツァーリズムの無血打倒として始まったロシア革命は、今や何百万人もの民間人の犠牲者を出した。広大なロシアで、民衆が赤と白に分離していない地域はほとんどなかった。

 ロシアが内戦で引き裂かれた数年間に、赤軍と白軍の双方の残虐行為や暴力は頂点に達した。赤軍も白軍も至る所でテロを起こし、大勢の民間人を銃殺刑や絞首刑に処した。「ブルジョワジーが我らを抹殺することを望まぬなら、今こそブルジョワジーを抹殺すべき時だ」(1918年8月31日)とプラウダ紙は記載した。「我らの街から腐ったブルジョワジーを容赦なく一掃せねばならない。この連中は全員登録され、その中で革命階級の脅威となる者は抹殺されねばならない。今後労働階級の賛歌となるのは憎悪と復讐の歌だ!」。このような状況では、敗者は容赦ない勝者の慈悲を期待して降伏するか、逃げるしかなかった。

 ロシア内戦は、主に赤軍(共産主義者・十月革命側)と白軍(ロシア右派、共和主義者、君主主義者、保守派、自由主義者)の間で戦われた。2大戦闘員は、ウラジーミル・レーニンが率いるボリシェヴィキ主導の社会主義国家の赤軍と、ロシア軍の同盟軍だった白軍は、ボリシェヴィキ支配に対抗した。



2023年10月5日木曜日

バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

第二次世界大戦の太平洋戦争が勃発した直後に、大東亜戦争にて1942年1月18日に、オーストリア軍の対戦車砲は、マレー半島を南下する日本軍の進撃を一時的に食い止めた。バクリ前方のオーストラリア軍の対戦車砲で、日本軍の戦車9両が大破した。ムアール地区のバクリ近郊で、倒木に阻まれた日本軍の戦車は、燃えさかる残骸と化した。その手前には、オーストリア軍の対戦車砲により殺害された日本軍兵士2人の死体が横たわった。

 1941年12月8日の日本軍による真珠湾攻撃の後に、日本軍がマラヤを南下して、2月にはシンガポールを占領するに至った。1941年末にマラヤに配属されたオーストラリア軍第8師団は、そのほとんどが日本軍の捕虜となり、悲劇的な形ですでに損失した。シンガポールは、大東亜戦争おけるオーストラリアの安全保障の礎石であったが、日本軍によるシンガポールの陥落で礎石は打ち砕かれた。

 ムアール(Muar)の戦いでは、第二次世界大戦中のマレー作戦の最後の主要な戦いであった。1942年1月14日から22日に、ムアール川とゲメンサ橋の周辺で行われた。連合軍兵士は、ゲメンサ橋での待ち伏せと、ゲマスの町の北数kmで行われた第二次戦闘で、日本軍に大損害を与えた。オーストリア軍第8師団は橋での待ち伏せで、日本軍第5師団の約600人を殺害した。ゲマス北方の戦闘ではオーストリア軍の対戦車砲が日本軍の戦車数両を撃破した。この戦闘で、日本軍がマレー作戦で最も大きな損害を被った。

 待ち伏せ攻撃は連合軍には成功だったが、西海岸のムアルとバクリの防衛は完全に失敗した。インド軍歩兵第45旅団はほぼ全滅し、オーストラリア軍歩兵2個大隊にも大きな死傷者が出た。連合軍の戦死傷者は約3,100人に達して、日本軍は約700人が戦死亡して、800人が戦傷した。マラヤ作戦とシンガポールの戦いで、約1800人以上のオーストラリア軍兵士が戦死して、約1400人以上が戦傷した。シンガポール陥落で約15,000人以上のオーストラリア軍兵士が捕虜となった。




2023年10月4日水曜日

ハンガリーの首都ブタペストを包囲作戦で1945年1月23日に侵攻するドイツ軍の武装親衛隊兵士は、途上の雪道の道路の端には、殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわった。

1945年1月18日から、ドイツ軍とハンガリー軍は、ハンガリーの首都ブダペストのソ連軍の封鎖解除するコンラート3号(Operation Konrad III)の包囲作戦を1月27日まで開始した。ハンガリーの首都ブタペストを包囲作戦で1945年1月23日に侵攻するドイツ軍の武装親衛隊(Waffen-SS)兵士は、途上の雪道の道路の端には、殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわった。

 攻勢の初日の1月18日に、第4SSパンツァー軍団は、ソ連第4衛兵軍の防御陣地を突破して、防御陣地の奥深くまで侵攻した。1月19日に、退却するソ連軍を掃討して、ソ連軍の防衛線の連続性を突破して、ドゥナペンテレ村付近のドナウ川に到達した。1月20日、予備兵力の少ないソ連軍は、第3ウクライナ戦線に脅威的な状況が生まれた。

 1月21日、第5SSパンツァー師団は、ソ連第18パンツァー軍団を撃破して、北進を続けた。ドイツ軍はブダペスト郊外から南西28kmのヴァーリ川の氾濫原に到達した。1月22日に長く血なまぐさい市街戦の後に、ドイツ軍第1パンツァー師団はシュトゥルヴァイセンブルクを完全に占領した。ソ連軍は、ドイツ軍の第5SS師団と第3SS師団を反撃した。アドゥン村とイヴァンチャ村の間で、第5SS師団は大規模な地雷原に衝突した。ドイツ軍の増援偵察大隊はヴァリ川に到達したが、第5SS師団はソ連軍の砲兵隊に、激しい砲撃でヴァリ川に接近できなかった。

 1月23日、第5SSバイキング・パンツァー師団は、ヴァレー川北東岸の高台に設置されたソ連軍の対戦車砲の砲火を受けた。サン・ピエトロ付近での攻撃で撃退され退却するソ連軍部隊を追跡した。狭軌の鉄道路線の両側を突破して、ヴァレー川の対岸に到達した。第3SS師団は、ソビエト軍による猛攻の戦闘に巻き込まれた。

 1月24日、第5SSパンツァー師団と第3SSパンツァー師団は、ヴァリ後方のソ連軍陣地に大規模な戦車攻撃を開始した。戦線の幅20kmの区間でソ連軍の防御を突破した。1月26日、第4SS軍団は、ブダペストの大釜に25kmの距離まで接近した。ドナウ川まで進撃したドイツ軍戦車集団は、ソ連軍師団に補給線を遮断され、極めて脆弱となった。

 1月26日、ソ連軍第104ライフル軍団と第23戦車軍団は東岸からドナウ川を渡り、北からドイツ軍集団を攻撃した。1月27日、バラトンとドナウ川の間のドイツ軍集団には約250両の戦闘可能な戦車と突撃砲が残存した。ソ連軍には、約500両のソ連軍戦車とSAUが集中して、ソ連の大規模な反攻が始まった。南部、シャルヴィズとドナウ川の間の戦線区間で、ソ連軍はドイツ第3パンツァー師団の陣地に攻勢をかけた。北部では、ソ連第23戦車軍団が100両以上の戦車を投入し、ヴァリ川を強襲した。 第5SS戦車師団はソ連軍戦車の前進をしばらく阻止し、ソ連軍も大損害を被った。

 1945年1月28日夜に、コンラート3号作戦を諦めて、ハンガリー南部のドゥナフェルドヴァールでの攻勢に備える命令が下された。1月28日、第4SSパンツァー軍団は元の陣地への撤退を開始し、バラトン湖の北にあるバコニアンの森まで撤退し、コンラート3号作戦で占領したシュトゥルヴァイセンブルクを除くすべての領土を放棄した。

 コンラッド作戦はすべて失敗に終わり、1月の1ヶ月間の激しい戦闘で、第5SSパンツァー師団と第3SSパンツァー師団は、200人以上の将校を含む8000人近くの兵士を失った。 ブダペストでの戦闘は1945年2月13日、ドイツ・ハンガリー連合残党の降伏によって終結した。




2023年10月3日火曜日

1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

1931年9月18日に中華民国の奉天(現瀋陽)郊外の柳条湖で、関東軍が南満洲鉄道の線路を爆破した事件が勃発して、1932年2月18日に関東軍による満洲(中国東北部)全土の占領をした。1931年11月18日の江橋付近の激戦の後で、中国軍の大量の砲撃により、日本軍に戦死傷者が出た。日本軍兵士は、担架に戦死傷者を掲載して、後方の陣地に搬送した。

 1931年11月18日の朝から、日本軍は三望峰の中国軍に対して総攻撃を開始した。日本軍が陣地の前線に1時間砲撃し、中国軍は大砲で応戦した。大砲の音が鳴り響き、朔北の荒野全体を震撼させた。8時、日本軍は中央を突破して包囲して総攻撃を開始した。10時、中国軍は陣地を維持できず、安康渓の地域に退却した。日本軍は戦闘機約12機、戦車約12両、大砲約30数門を追加し、激しい砲撃ですべての塹壕を破壊した。中国軍は、丸一昼夜、米も水もなく、空腹で、叫びながら、殺し合いの戦いを続けて、全旅団が半数ずつ死傷し、安康渓に撤退した。中国軍は3日間戦い続けて、約3000人以上の死傷者を出し、約2000人以上が死亡した。

 三望峰の戦いの最中、中国軍は各方面に援軍を要請した。北京からの指示は皆無であった。道安路の戦い以来、弾丸はすべて黒竜江省の古い在庫で、カビで濡れて使い物にならなかった。一昼夜の激戦で、中国軍兵士は10分の9を使い果たして、丸腰では戦争できない。多くの死傷者を出し、弾薬と食料を使い果たし、助かる見込みもなく、馬占山は中国軍部隊に撤退を命じた。日本軍は虹慶子から中国軍の後を追った。馬占山は省都を克山に移動するよう命じて、約500人の衛兵と700人の騎兵を率いて倫沙を保持した。

11月19日朝、日本軍の主力は省都から約24km離れた玉樹屯を占領し、激しい砲撃で省都を砲撃した。約5000人以上の日本軍兵士が斉斉哈爾に侵入し占領した。馬占山は軍隊を斉斉路から克山、八泉、海崙に撤退して、江橋の戦いは終結した。日本軍側は、11月4日から11月19日までの江橋抵抗戦にて、馬占山軍により、戦死は約31人、戦傷は約104人、行方不明は約13人、さらに約300人の凍傷患者が発生した。中国軍の損害は、不詳であるも約1,000から約3,000人と推定した。馬占山は、11月21日夕方に、海倫に到着した。望奎、海倫、克山、訥河の陣地に分駐した。




2023年10月2日月曜日

ホロドモールによる飢餓で餓死したウクライナ人の死体を焼却するために、毎夕方に1932年頃に運搬人が荷車に死体を満載して集団墓地まで引きずり輸送した。

ホロドモール(Horodomor)による飢餓で餓死したウクライナ人の死体を焼却するために、毎夕方に1932年頃に運搬人が荷車に死体を満載して集団墓地まで引きずり輸送した。ウクライナは、1932年から1933年頃に、ソ連によるホロドモール(ウクライナ語: голодомор)で、飢餓による殺戮が勃発した。1932年から1933年にウクライナ社会主義ソビエト共和国領内で発生した飢饉による大虐殺である。ウクライナの近代史上最悪の国家的虐殺のひとつである。死者数は約250万人から約750万人にのぼった。ヨシフ・スターリンがソビエト・ウクライナを意図的に飢餓に陥れた。ヨーロッパの大量殺戮時代の幕開けとなり、ソ連軍の冷酷な徴発と略奪で、小麦はすべて奪われた。

 ソ連のボリシェヴィキは、1919年にウクライナを支配下に置いた。その後の数年間に、権力はレーニンからスターリンの独裁制に移った。共同耕作が伝統的だったソビエト・ロシア以上に、ソビエト・ウクライナでは農民が農地を失った。ボリシェヴィキ革命直後の1918年から1921年に、ソ連のボリシェヴィキは内戦と戦いながら、農民から食糧を徴発した。ウクライナの農民を、1920年代半ば以降に強制収容所への強制送還して、ソ連が警戒した。

 ウクライナ農民は銃も少なく、組織も貧弱だった。ソ連の国家は火力と兵站をほぼ独占した。ウクライナ農民の強力な国家警察機構(OGPU)によって監視された。1930年のウクライナ人の抵抗行為を100万件近く記録した。1930年3月にソビエト連邦で勃発した大規模な農民反乱のうち、ほぼ半数はソビエト・ウクライナで起こった。1930年の最初の4ヶ月間で、約113,637人がソビエト・ウクライナから自営農家のクラーク(Kulak)が強制送還された。約3万戸のウクライナ農民の小屋が次々と空にされた。何千台もの凍える貨車が、恐怖に怯え、病気に冒されたウクライナ人を満載して、北欧ロシア、ウラル、シベリア、カザフスタンに強制送還された。ウクライナ農民は、銃声と恐怖の叫び声、列車で凍傷と屈辱、奴隷労働者の苦悩と諦めに陥った。

 1931年、収穫物の半分以上が、ソビエト・ウクライナから持ち出された。多くの集団農場は、種子穀物を引き渡して徴発目標を達成された。スターリンは1931年12月5日に、集団農場に種穀物を引き渡しを命じた。ウクライナ農民の多くは本当に何もかも失った。1931年末には、多くの農民がすでに飢えた。飢餓は破壊工作の結果であり、地元の共産党の活動家は破壊工作員であり、裏切者の党幹部となった。1932年の終わりの数週間、スターリンは、ソビエト・ウクライナで何百万人ものウクライナ人を飢餓で殺傷した。ウクライナ人は、飢餓に直面し、家族が分裂し、親は子に、子は互いに敵対した。家族は最も弱い者、子供を殺し、その肉を食用にした。親が子供を殺して食べ、後に餓死した。ある母親は、自分と娘のために息子を料理したことを国家警察機構(OGPU)は記録した。




2023年10月1日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、2023年7月にウクライナ東部ドネツク州の南部戦線にて、ウクライナ軍第35海兵旅団の陣地の側に、放置されたロシア軍兵士の死体が散乱した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2023年7月下旬にウクライナ東部ドネツク州の南部戦線にて、ウクライナ軍の第35ウクライナ海兵旅団の陣地の側に、2023年7月に放置されたロシア軍兵士の死体が散乱した。ウクライナ軍がスタロマイオルスケ(Staromaiorske)を2023年7月30日に解放したとき、ウクライナ軍兵士たちは1ヶ月間、ロシア軍兵士の死体の側で戦った。ウクライナ軍が2023年7月30日に、ドネツク州南部戦線のスタロマイオルスケ町を奪還した。ウクライナ軍の陣地から約10mも離れずに、ロシア軍兵士の死体が1カ月も放置されて横たわった。6月初旬から侵攻して、ウクライナ軍兵士は銃撃を続けた。ウクライナ軍は、ドネツク州の南部のザポリツィア州の入口にいた。最終的に7月30日に広大な平原の町であるスタロマイオルスケを解放した。

 ロシア軍兵士の死体から漂う腐敗臭は、爆発があれは1分も経たないうちに最も不快になる。ロシア軍兵士の死体は、ヘルメットの横で地面に横たわり、制服と防弾チョッキに身を包み、ハエが飛び交った。ロシア軍は結局、占領地スタロマイオルスケ町を防御できなかった。 ウクライナ軍の迫撃砲部隊長である25歳のマキシムは、「ロシア軍兵士の死体を処理するのは業務ではない。司令官から死体の処理は命令されていない。」と述べた。数m先には迫撃砲の砲弾が何十発もあり、ロシア軍は、ウクライナの樹海も要塞として塹壕を掘った。

 ウクライナ軍は膨大な数のロシア軍と衝突し続けた。ロシア軍は防衛網と塹壕を構築し、戦闘機や無人偵察機、対人地雷や対戦車地雷で防御した。スタロマイオルスケの占領してロシア軍が崩壊しても、ウクライナ政府はウクライナ軍の戦争死者、戦傷や行方不明の犠牲数は公表しない。平坦な平原の地面には、壁の裏や建物の防御もなく、丸太が残した穴の間に、ウクライナ軍兵士たちを守る溝や塹壕や穴がある。22歳のアンドレイは、高級アパートと自虐して、かろうじて体が収まる穴を見せびらかした。ロシア軍が爆弾やクラスター弾を降らせると、攻撃中に身を守る穴を使り、砲弾が間近に迫ると、万一に備えて地面に伏せた。














Warning: The corpse of a Russian next to a position of the 35th Ukrainian Marine Brigade, on the southern front in Donetsk.(LUIS DE VEGA/EL PAÍS)