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2024年3月20日水曜日

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦後に、夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦が終結して、戦場の夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。1963年7月頃には、ベトナムでは反政府ゲリラによるゲリラ戦が勃発していた。アメリカから派遣された軍事顧問団や政府軍は、ベトコンとの戦闘を繰り返した。

 1963年初頭までに、ベトナムに駐留するアメリカ軍兵士の数は、数百人から数年のうちに1万人以上に増えていた。朝鮮戦争が勃発して停戦してから10年も経ていない。地球の裏側のベトナムで起こった紛争に、アメリカ軍が直接に関与する影響は、アメリカ国民の話題の一部であった。1963年当時は、ベトナムにおけるアメリカ軍の役割の拡大は、まだ包括的で分裂的な問題にまで発展していなかった。

 1963年1月25日に『LIFE』誌が「We Wade Deeper Into Jungle War」の強烈な表紙と記事を掲載して、カラー写真を添えて注目された。LIFEの写真が1963年以前から、ベトナム戦争中も『LIFE』誌などやアメリカの主要マスメディアは、紙面でもテレビでも、生々しく不安を煽るベトナム戦争を定期的に掲載し放送した。1964年6月12日号『LIFE』に岡村昭彦の「醜いベトナム戦争(9ページ)」の特集が掲載され写真に反響を呼んだ

 雑誌に掲載される写真は、恐ろしいほど拡大する紛争を鮮明に記録して、戦争の生々しさを示唆した。ぼろぼろに切断された手足、放火された死体、内臓で覆われた壁などは、生弱なアメリカ人には動揺が大きすぎた。大手マスメディアに慣れ親しんだアメリカ人には、大衆週刊誌にベトナム戦争の陰惨な写真が日常的に掲載された。




2024年2月6日火曜日

1987年1月5日に、雲南省国境の老山前線の中国軍陣地で、中国人民解放軍の中国軍兵士の宋健平が一服した直後に、ベトナム社会主義共和国のベトナム軍の銃砲撃が中国軍兵士の宋健平を銃殺した。

1987年1月5日に、雲南省国境の老山前線の中国軍陣地で、中国軍兵士の宋健平が一服した直後に、ベトナム軍の銃砲撃が、中国軍兵士の宋健平を銃殺した。その戦闘が継続している間に、宋健平の死体に中国軍同僚が、綿のオーバーコートである綿大衣をかけて死後処置をしようとした。

 中越戦争は1979年2月17日に勃発して3月16日まで、中国軍が北ベトナム軍に対して自衛反撃戦争を開始した。中国は北ベトナムとは、ベトナム戦争中の戦友であった。中国は、1975年4月にベトナム社会主義共和国が誕生すると、熱烈に祝福した。しかし、両国の離反は、ベトナム戦争の終結後間もなく表面化した。1970年代初めから、中国とベトナムの間で争った西沙と南沙両群島の領有権を、ベトナム新政権が要求した。約1,100kmもの国境線をめぐっても、ベトナム側は未画定とし、 国境の交渉を要求した。話し合いがつかないうちに、ベトナムは1977年から、南部に数十万人いた中国人系の都市住民を、農村に強制的に下放させるなどの迫害を始めた。ベトナムは国境地帯でも再三、中国に侵犯事件を引き起こした。国際的背景には、中ソ対立があり、ベトナムはベトナム戦争後に、急速に中国の第一の敵であるソ連に接近した。中国の警戒心をかきたて、1978年12月に親中国のカンボジアに侵攻した。中国の忍耐の限度を越えて、中国軍の越境攻撃した中越戦争は、1979年3月16日の撤退完了まで、約1ヵ月続いた。中国軍は約26,000人が死亡して、ベトナム軍は約30,000人が戦死した。その後も国境線をはさんで、激しい攻防が繰り返された。

 その後も1979年から1991年にかけて中越紛争は、1979年の中越戦争後からも、中華人民共和国とベトナム社会主義共和国との間で起きた一連の国境・海戦の衝突の紛争である。紛争は、中越戦争終結から1991年の国交正常化まで続いた。中越戦争後に1979年3月に中国人民解放軍は、ベトナムから撤退した。中国軍は敵対行為の勃発前に、ベトナムが支配していた60平方kmの紛争地を占領した。ロンソン(Lạng Sơn)市近郊の友好門周辺など、中国軍は軍事的価値は少ないが象徴的価値を持つ領土を占領した。他の場所では、中国軍はベトナムを攻撃するための踏み台として軍事的に重要な戦略的位置を占領した。中国軍による国境地帯の占領はベトナムを怒らせて、国境地域の支配権を得るためにベトナムと中国の間で一連の国境紛争が起こる起点となった。中越紛争は1991年まで続き、1984年から1985年にかけてピークに達した。1990年代初頭には、ベトナムのカンボジアからの撤退とソビエト連邦の解体とともに、両国関係は徐々に正常な状態に戻った。1991年までに両国は国交正常化を宣言し、国境紛争は終結した。




2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年9月5日火曜日

フランス軍の外人部隊の空挺部隊は、インドシナ紛争で1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケで、ベトミンのゲリラ部隊を掃討し殺傷した。

フランス軍の外人部隊の空挺部隊の兵士たちは、インドシナ紛争にて1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケ(Mao Khê)で、ベトミンのゲリラ部隊を掃討して殺傷した。ベトミンは約2,000人から約3,000人が殺害され、フランス軍は約40人が殺害され、約150人が戦傷した。ベトナム人ゲリラの死体が、マオ・ケの野原に散乱した。1949年にフランス人徴集兵の海外派遣が禁止されて、外国人部隊はナチス・ドイツ親衛隊(SS)などの退役軍人などで構成された。元親衛隊員は、第二次世界大戦の東部戦線にて、パルチザンと戦った経験があった。フランス領インドシナでは効果的な戦闘員となったが、但し外国人部隊はフランス本国では政治的には受け入れられなかった。

 ベトナム沿岸部では、膨大な数のフランス軍兵士がゲリラ部隊の待ち伏せの多い道路や河川で命を落とした。空からの補給が不可欠となり、フランス軍はAAC-1輸送機で、1952年以降はアメリカ軍から供与された輸送機に頼った。ベトミンとベトナム人民軍がより高性能の対空兵器を手に入れると、補給源も危険で頼りなかった。

 フランス軍には、対反乱戦の経験者はほとんどいなかった。フランス軍の戦術は、敵地を碁盤の目状に分割し、正方形に攻撃部隊をかき集めた。フランス軍は、北部一帯に、1951年にド・ラトル線を形成する数百の鉄筋コンクリート製の要塞を建設した。戦術の問題点は、ベトミンは土地にも縛られず、後退したり攻撃した。防衛要塞は、孤立した脆弱な場所に大勢のフランス軍兵士を縛り付けた。フランス軍には、陸軍と海軍の河川突撃師団や空挺コマンド集団は、迅速な展開戦術を駆使した。優秀な軍団兵士と空挺部隊は、戦闘が最も激しい戦場で精鋭として継続的に活用された。

 ベトミン(Vietmin)は、1941年5月19日に結成され、フランスによる植民地支配からの独立を求めて、第一次インドシナ戦争で戦闘に従事したベトナムの独立運動組織である。ベトミンは通常の軍隊として建設され、PAVNの拡大は急速で、1951年までに約154個大隊が編成された。ベトナムの地形と人民を熟知して、人民の支持を得れた。フランス軍は致命的に失敗し、ベトナム人民軍は限られた資源で生き延びて、戦うことができた。何千人もの志願兵がいて、物資は確実に戦闘員に手渡しで運ばれた。政治的意思や戦略的大胆さを弱めずに、膨大な数の死傷者を吸収できた。フランス軍の失敗を指摘する際に、ベトミンは革命軍であった。ベトナム人民軍(PAVN)は、後にベトナム戦争では、対アメリカ軍とのベトナム戦争中は、北ベトナム軍(NVA)と呼称された。




2023年8月24日木曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍兵士がベトコンの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコンの戦死者の死体の横を通り過ぎた。ブー・トップの戦いで、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の第1歩兵師団第1旅団兵士がベトコンなどの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコン(VC: 南ベトナム解放戦線)の戦死者の死体の横を通り過ぎた。同日真夜中にブー・トップ地区での激しい戦闘で、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。アメリカ軍のブー・ドップ(Bu Dop)基地は、1963年11月に設置されて、ベトナムとカンボジアの国境に近いビンフオン県ブードップ地区に位置した。

 1967年11月29日午前0時頃に、ベトコンは要塞化されたアメリカ軍のブ・ドック地区を攻撃した。11月29日午後10時頃には、ベトコンの迫撃砲とロケット弾がブ―・ドップ基地に飛び込んだ。ロケットは掩蔽壕に直撃し、アメリカ軍兵士の4人全員が死亡した。数百人のベトコン兵士が、砲撃が終わると、滑走路の東側から突撃して、森から約200m横切ってブ―・トップ基地を突撃した。アメリカ軍は榴弾砲を、突撃したベトコンに撃ち込んで、強行突撃する多くのベトコン部隊を倒した。アメリカ軍の戦闘爆撃機F-100がベトコンが潜伏する森に、爆弾と大砲で攻撃した。ベトコンの突撃は挫折し、すぐに森の中に撤退した。アメリカ軍の死傷者は死者約7人、負傷者11人、ベトコンの戦死者は、31人の死体が残存した。

 その後に1週間も、アメリカ軍はブー・ドップ周辺のベトコン部隊と衝突を続けて、毎晩迫撃砲弾が着弾した。ブ―・ドップ基地に対する2度目の大規模なベトコン攻撃に対抗して、アメリカ軍は12月4日にブー・ドップ滑走路の基地を強化した。その2日後に、アメリカ軍はベトコンの侵攻が目標としたブー・トップの南東に射撃基地を設置した。12月8日午前1時頃に、アメリカ軍はベトコンの陣地を攻撃し、主力突撃隊がロケット砲下で侵攻した。アメリカ軍の砲兵隊は、非常に短い交戦距離下で、高火力砲弾でベトコン部隊を切り裂いて、基地の外線への到達を阻止した。アメリカ軍の空爆、武装ヘリコプター、迫撃砲で、ベトコンはさらなる損害を受けた。その後に、ベトコンは12月8日午前3時頃にブ―・トップ地区から撤退した。アメリカ軍は翌日の12月9日に、ベトコンの死者の約49死体と、軍の死者は4体を検死した。その後に、ブ―・トップ基地は1970年12月31日に南ベトナム軍に移管された。




2023年8月14日月曜日

ベトナム戦争において、1963年に殺害された多数の南ベトナム政府軍兵士の死体が、並べられて草ぶき小屋に安置された。南ベトナム政府軍兵士の死体は、アメリカ軍のポンチョに包まれた。

ベトナム戦争において、1963年に殺害された多数の南ベトナム政府軍兵士の死体が、並べられて草ぶき小屋に安置された。南ベトナム政府軍兵士の死体は、アメリカ軍のポンチョに包まれた。ベトコンの強固な拠点でる集落地域に対する作戦では、部隊の上陸や移動に先立つ長時間の空爆や砲撃によって、奇襲性は失われた。罪のないベトナム人女性、子供、老人が砲撃の矢面に立たされた。1963年3月の1ヶ月間に、ベトコンの攻撃は約1,861件と過去最高に達し、攻撃の規模が大きくなり、広範囲に分散した。

 1959年には約1,000人弱だった軍事顧問を、1961年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは1961年11月に、南ベトナムに対するアメリカ軍の軍事援助の大幅な増大を決定した。1961年12月に、USS空母コアは35機のヘリコプターとサイゴンに到着した。1962年半ばまでに、ベトナムには約12,000人のアメリカ軍の軍事顧問団が駐留していた。特別戦争と戦略的小村の政策により、サイゴン政府の南ベトナム軍は1962年に押し返すことができた。1963年にはベトコンが軍事的主導権を取り戻した。ベトコンは1963年1月に、アプバックの戦いで南ベトナム軍に対して初の軍事的勝利を収めた。アメリカ軍の軍事顧問団は、1964年までに約23,000人に達した。ケネディ大統領は、7月17日に南ベトナムからの撤退は、東南アジアの崩壊を意味するから、アメリカ軍は南ベトナムに留まると会見した。11月22日に、ケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺された。

 1961年から1963年にかけて、約4万人の共産主義兵士が南ベトナムに潜入した。ベトコンが急速に成長して、1962年初頭までに推定30万人の兵士が解放協会に登録された。1963年1月2日にアプバックの戦いは、ベトコンが、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して最初の大勝利となった。ベトコンと南ベトナム政府軍兵士の比率は、1961年の1対10から、1年後の1962年には1対5に跳ね上がった。共産主義側は最大限の軍事的拡大の準備を整えて、北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)の兵力は、1963年末に約17万4,000人に及んだ。