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2024年4月15日月曜日

スペイン内戦にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月からバレンシア攻略をした。

スペイン内戦(1936年7月17日-1939年4月1日)にて、カステリョンの通りで1938年8月8日に、母親が殺害された息子と思われる死体を悲痛に見つめた。国民党軍がカステリョン州の州都であるカステリョン・デ・ラ・プラーナに進軍する前には混乱期があった。退却する国民党軍兵士たちは、解放者だと信じて挨拶をしようとした人々に対して、早まって数百人を殺害した。殺害された息子は、その犠牲者の一人であった。

 スペイン内戦中に、アラゴン戦線で共和国軍を打ち破った国民党軍は南下し、1938年4月から7月にバレンシア攻略を試みた。1938年4月25日から7月24日に勃発したレバンテ攻勢で、フランシスコ・フランコ率いる国民党軍が、共和国軍の支配するバレンシアを占領しようとした。国民党軍は数日間の戦闘の末に、6月13日にバレンシア北部のカステリョン州を占領した。悪天候と共和国軍のXYZ防衛線での執拗な抵抗により国民党軍の攻勢は頓挫した。国民党軍はカステリョン州を占領したが、バレンシアの占領には失敗し、多くの死傷者を出した。共和党軍は5,000人の死傷者に対して、国民党軍は約20,000人の死傷者を伴った。

 国民党軍によるアルゴン攻勢は、1938年3月7日に開始し4月19日に終結した。アラゴン攻勢は1938年4月15日に、国民党軍は地中海沿岸のビナロスの町を占領し、共和国領を二分して、カタルーニャは中央地区から孤立させた。共和国軍に致命的な打撃となり、もはや完全に回復できなかった。国民党軍のアルゴン攻勢は、バレンシアとカタルーニャの町や都市に対する集中的な空爆作戦を伴った。戦略的目標を達成して、民間人を恐怖に陥れた。




2023年12月27日水曜日

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。内戦の戦闘は主に、カール・マルクス・ホーフ、ロイマンホーフ、サンドライテン、オタックリング労働者宿舎などで、約3日間にわたり継続した。2月15日に、ドルフュス政権は政府軍の戦死者118人、負傷者486人と公表した。対抗したドイツ親衛隊は、戦死者は196人、負傷者は319人と推定した。イギリス人ジャーナリストは、戦死者は1,500~2,000人、負傷者5,000人と推定した。

 1934年2月12日早朝に、オーストリアのオーバーエスターライヒ州リンツで、社会民主党が所有するビルが襲撃された際に発砲があってオーストリア内戦が勃発した。社会民主労働党の準軍事組織である共和国防衛同盟が、ドルフュス政権に対して蜂起した。ウィーンの社会民主党はゼネストを招集して対抗したが、長年の失業と絶望的な貧困で、労働者が大勢で蜂起できなかった。

 1933年3月5日に、エンゲルベルト・ドルフュス首相のファシスト政権は、はクーデターを実行した。戦時経済実現法により、独裁政治により、報道の自由は廃止され、集会の自由は制限され、陪審裁判は廃止され、多くの産業で刑罰の脅威によりトライキが禁止され、労働会議所が廃止されて雇用保護法は弱体化され、既存の団体協約は修正され、賃金と失業手当は削減され、警察には政治犯罪の管轄権が与えられた。1934年2月12日に戒厳令が布告され、社会民主労働党、自由労働組合、社会民主党のすべての文化団体やその他の組織が解体された。2月14日からの軍法会議で9人に死刑が執行された。



2023年12月27日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年1月3日火曜日

1933年3月3日から6月末に、ナチス・ドイツによる約500人以上の殺人があった。民間人女性のグレーテ・メッシングは3月6日、男性のハインツ・べスラーは4月4日に虐殺された。

ナチス・ドイツによって殺害された労働者と知識人のリストを抜粋した。1933年3月3日から6月末までに、ナチス・ドイツによって執行された約500人以上の殺人に関する明確な情報源がある。その情報源は、ドイツの公式発表、否定されない報道、認証された目撃者の報告に基づく。殺人の総数のほんの一部であり、大部分は、ナチス・ドイツによる厳しい検閲から、親族、友人、目撃者に対する脅迫によって隠蔽された。

 ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下の、1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されて、1945年5月まで全体主義国家と化した。1939年9月1日にポーランド侵攻がイギリス・フランスの宣戦を招き、第二次世界大戦が勃発した。ソ連赤軍によるベルリンの戦いを目前にヒトラーが1945年4月30日に自殺した。1945年5月7日に連合国軍に敗北して中央政府の不在が宣言され、解体されて滅亡した。

 既婚で2人の子供がいて働く女性のグレーテ・メッシング(Grete Messing)は、1933年3月6日の午後6時頃に、バイエルン州セルブのゾンマーミュール通りに、家を出て買物に町の方へ行った。自宅から約40mほど離れた地点で、同じ通りに住む国家社会主義ドイツ労働者(ナチ)党員の男性ラガーに出会った。彼は彼女の前に出て、「ハイル・ヒトラー!」と挑発した。メッシング夫人は押返して復帰し、彼を追い越そうとした。ラガーは彼女を呼び止め「拳銃で、お前を撃ち殺すぞ!」と脅した。彼女は冷静に「撃ってしまえ!」と答えた。

 ラガーは拳銃を彼女の喉元に当て、引き金を引いた。メッシング夫人は致命傷を負った。彼女の夫は彼女を自宅まで運び出血多量で死んだ。犯人のラガーはナチの宿屋に行き酒を飲んだ後に、特別警察に出頭して、ラガーは逮捕された。約10日後に、ラガーは警察署から釈放された。セルブの駅で儀仗兵がラガーを出迎えた。ラガーはナチス突撃隊から追放されなかった。一方、殺害された女性の夫と19歳の息子は、バイロイトの刑務所に 保護拘束された。警察と特別警察は、ゼルブの労働者階級の家々で繰り返し捜索を行って、犯人でも殺人犯でもなく、殺人の証拠となる写真を探して検閲した。



 ハインツ・べスラー(Heinz Bässler)は、1933年4月4日にデュッセルドルフにて、ナチから逃走中に射殺された。射殺されたウィルヘルム・ドリュース社のベルリンの労働者のハインツが発見された (ベルリン・ターゲブラット新聞)。ベスラーは元ナチス党員で、突撃隊のリーダーであった。1930年12月頃にナチスの真実を理解し始めて、ナチを離党し、後に共産党に入党した。

 4月4日朝4時頃に、7人の保護隊員と2人の刑事によって、ハインツは服を着て連行された。彼らは午前3時には通りを封鎖し、戒厳令下でハインツを拳銃で連行して、通りで射殺した。ハインツの心臓に3発、腕に1発、首に1発、骨盤に1発、その他にも2発、全部で8発撃たれた。死体は放置され、農民たちが死体を見つけた。棺桶の上で、残酷に扱われたハインツがいた。新聞には、ハインツは逃走して射撃された、弾薬2つ発見されたなど嘘の偽ニュースが書かれた。戦争犯罪に圧倒されて、何も信じられず、卑劣で残忍を執行した。ハインツの葬儀は4月7日午後1時半から、南墓地に聖職者によって埋葬された。



2022年12月21日水曜日

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。

スペイン内戦中の1938年3月に、最悪のバルセロナ空爆された。イタリア空軍が、イタリアのサルデーニャ島を離陸したファシスト政権のイタリア爆撃機が、バルセロナを空爆した。空爆により殺害されたバルセロナ市民の死体が路上に放置された。周囲の建物は崩壊して、瓦礫が散乱した。

 最悪のバルセロナ爆撃は、スペイン内戦中の1938年3月16日から18日にかけて、ファシスト・イタリア軍とナチス・ドイツ軍が主導して、フランコが率いる国民党反乱軍を支援した空爆である。最大で約1,300人が死亡し、少なくとも約2,000人が負傷した。フランコは当初はバルセロナ空爆を知らず、3月19日に爆撃の中止を求めた。イタリア帝国元師のムッソリーニは空爆の実験場に自己満足した。

 1938年3月16日から18日にて、バルセロナはスペイン内戦で戦ったイタリア空軍の爆撃機によって空襲された。爆撃機はイタリヤのマヨルカ島などから飛来した。3月16日22時には、まずドイツ軍の戦闘機が最初にバルセロナに空襲をした。その後3月18日15時まで3時間おきに、イタリア軍の爆撃機により約17回の空襲があった。3月18日夜は、労働者階級が住む地区が大きな空爆を受けた。スペイン共和国空軍(FARE)は3月17日朝までバルセロナに戦闘機を派遣しなかった。

 バルセロナに対空砲がほとんどなく、戦闘機からの援護もなく、実質的に無防備であった。爆撃機は静かに高度な上空を通過して、爆弾を投下した後にエンジンを再始動させ、警報は鳴らず、爆弾が爆発するまで爆撃機を発見できなかった。イタリア軍は屋根を通過して建物内で爆発する遅延信管爆弾や、地面の近辺を破壊する新型爆弾を投下した。バルセロナ都市の空襲警報機を無効となった。イタリア軍の爆撃機は約44トンの爆弾を投下した。イタリア軍は軍事目標だけでなく、市内の工業地帯を破壊して、スペイン共和国側の士気を下げた。軍の倉庫、武器工場、兵士が乗った列車、港だけでなく、市民の建物、映画館、領事館、劇場も爆撃で破壊した。




2022年11月21日月曜日

1919年10月に、新政権の警察国家的手法に抗議するために共産党本部に接近した際、ハリコフ労働組合連合から来た非武装の3人の代表の死体であり、冷酷に撃ち殺されたのである。

1919年10月に、新政権の警察国家的手法に抗議するために共産党本部に接近した際、ハリコフ労働組合連合から来た非武装の3人の代表の死体であり、冷酷に撃ち殺されたのである。何千人もの犠牲者は、法廷に出る機会さえなかった。1917年1月6日からハリコフはウクライナにおけるボリシェヴィキ・ソビエト勢力の拠点とされた。ハリコフからの脱出者は、ソビエトの赤軍に射撃された人たちは、頭を撃たれて殺害された。そのほかに集団墓地で見つかった死体は、指や手を切断され、足を折られ、銃剣で刺され、サーベルで切り刻まれ、サーベルで切り刻まれ、骨抜きにされるなど、激しい拷問の跡が明瞭に残存していた。

 ウクライナでは1918年5月、全ウクライナ労働組合中央協議会(Utsentrprof)が結成され、主に反ボルシェビキ政党の代表者で構成された。1919年のハリコフでの労働組合大会で、ウツェントプロフは解散し、ボルシェビキが労働組合運動の指導者となった。その結果、運動はソビエトに従属して、1920年にロシア南部事務局(Biuro Yuga Rossii)が設立され、すぐに全ソ連労働組合中央協議会ウクライナ事務局(VTsSPS)と改称された。1924年に、全ウクライナ労働組合評議会(VURPS)が設立された。1929年までに約200万人以上の労働組合員を代表した。ソビエトのスターリンの中央集権化で、多くのVURPS労働組合指導者は、1933年から1937年の間に解雇され追放された。

 ロシア内戦が進行するにつれて、所有者階級」に属していたかなりの数の囚人、容疑者、人質が処刑された。ボルシェビキが占領した都市の処刑された人数が記録された。 ハリコフでは、1919年2月から6月にかけて約2,000から約3,000人の処刑が行われて、1919年12月にハリコフが再び占領されたときには、さらに約1,000から約2,000の処刑が行われた。ロストフ・ナ・ドヌでは、1920年1月に約1,000人、オデッサでは、1919年5月から8月にかけて約2,200人、その後に1920年2月から1921年2月にかけて約1,500人から 3,000人、キエフでは、1919年2月から8月にかけて少なくとも約3,000人、エカテリノダールでは、1920年8月から1921年2月までの間に少なくとも約3,000人、クバンの小さな町アルマビルでは、1920年8月から10月にかけて約2,000から3,000人が住んでいました。

 ボリシェビキ政権が誕生して1年後に、わずかな民衆の支持が急速に失われていった。公式に共産主義者は、全人口の4分の1以下しか支配していない。地域の外では、武力反乱あるいは敗北に直面した。チェカ(秘密警察)は、狂信的なポーランド人フェリックス・ジェルジンスキー(Felix Dzherzhinsky)の下で、恐怖政治を開始した。共産主義者は、政権に対する現実的攻撃に復讐しては清算した。共産党政権は、武力占領となり、国内征服のための戦争を行った。




2022年10月28日金曜日

ムッソリーニの命令で1944年1月11日に長女の夫で義理の息子であるガレアッツォ・チアーノは40歳で銃殺された。モンシニョール・キオット神父が、銃殺されたガレアッツォ・チアーノに最後のキリスト教の儀式を捧げた。

モンシニョール・キオット神父が、銃殺されたガレアッツォ・チアーノ(Galeazzo Ciano)に最後のキリスト教の儀式を捧げた。ムッソリーニの命令で1944年1月11日に長女の夫であり義理の息子であるガレアッツォ・チアーノは40歳で銃殺された。チアーノは、その生い立ちからファシズムと結びた。若い頃に、ローマへの行進(1922年)に参加し、ムッソリーニ政権はチアーノを海外のさまざまな外交ポストに任命した。1930年に、ムッソリーニの長女エッダと結婚した。チアーノの経歴は飛躍的に伸びた。1936年には外務大臣に任命され、スペイン内戦へのイタリア軍の介入を支持した。エチオピア戦争に参加して、ミュンヘン会議に出席して、ローマ・ベルリン・東京での枢軸国の正式決定に積極的に関与して、当時の政治に最も重要な役割を果たした。

 しかし、ナチス・ドイツ軍がポーランドに侵攻した際に、チアーノはイタリア軍の参戦に難色を示した。ヒトラーはチアーノに不信感を抱いたが、ナチスの最初の戦果を見ると考えを改めた。北アフリカでの枢軸国の敗北と連合国の上陸を受けて、チアーノは密かに連合国、特にイギリスに接近した。1943年2月に、連合軍のシチリア侵攻の数カ月前に、チアーノは役職から解任された。

 1943年7月にファシスト大評議会では、チアーノはムッソリーニの解任に賛成した。その直後に、ムッソリーニは逮捕されると、ドイツに逃亡した。ムッソリーニはドイツ軍に救出された。北イタリアにムッソリーニが非公式に主宰するサロ共和国が成立した。ドイツ軍はサロ共和国当局にチアーノは引き渡された。チアーノはムッソリーニの解任に賛成した他の5人の元ファシスト大評議会メンバーとともに、大逆罪と連合国との協力の罪に問われ、ヴェローナ裁判で裁かれた。チアーノは死刑を宣告されて、銃殺により処刑された。妻エッダは、父ムッソリーニに、船員日誌を公開するとまで脅した。ムッソリーニは、ナチス・ドイツの指示に従がった。

 "処刑は屠殺だった。「豚の屠殺だった」とドイツ人の目撃者の一人は言った。死刑囚のうち4人、そのうちの1人はチアーノは椅子ごと倒れて、地面に横たわってうめき声をあげながら悶えた。暫くの間、恐ろしいほどの沈黙と困惑が続いた後に、何人か兵士が、ライフルで、瀕死の男たちと椅子に座ったままの男に発砲して、チアーノは地面に倒れ込んだ。処刑を担当した隊長ニーノ・フルロッティは、こめかみにピストルを撃ち込んで、倒れたチアーノを仕留めた。最初の一撃でチアーノは背中に5発撃たれて、後ろに倒れて地面に横たわり、弱々しく助けを求めていた。フルロッティはチアーノ背中に2発撃ち、2人のドイツ軍将校がチアーノの死を検死するために近づいた。




2022年9月27日火曜日

ライプツィヒ副市長のエルンスト・クルト・リッソとその家族の妻と娘や役人らが、1945年4月18日にアメリカ軍の捕虜になるのを避けて青酸カリで市庁舎周辺で自殺した。

ライプツィヒ副市長のエルンスト・クルト・リッソとその家族が、1945年4月18日にアメリカ軍の捕虜になるのを避けて青酸カリで市庁舎で自殺した。ソ連の赤軍と西側の連合国が首都ベルリンに接近するにつれて、自殺者が増大した。ソ連の赤軍とのベルリンの戦いで、4月に自殺したドイツ人は約3,881人と記録された。戦勝国のソ連軍は、ロシア国民が耐えたナチス・ドイツ軍の蛮行の報いを、無慈悲な強姦作戦を実際に行った。自殺の動機は、ソ連の赤軍の侵攻への恐怖と説明されるも、西側連合軍によって解放された地域でも自殺は起こった。

 ライツィヒの多くの役人が、4月18日に新市庁舎で自殺した。副市長エルンスト・リッソは、アメリカ軍が市庁舎に向う中で、自殺すると同時に、妻と娘も絶命した。死体の写真では、妻のレナーテ・リッソが夫エルンストの向かいに座って自殺した。娘のレジーナは、ベンチに座って自殺した。娘のレジーナは腕章をつけて、自殺にする前にドイツ赤十字の一員としてドイツ軍兵士を援助していた。市長とその妻、娘も同様に、連合軍が占領する前に青酸カリのカプセルで自殺した。

 人口1万5千人の小さな町デミンでは、ロシア軍が到着する前後に約700人ものドイツ人が自殺した。毒を飲む、川に飛び込む、首をつる、手首を切る、銃で撃つなど、さまざまな手段で自殺した。これらの自殺は、ソ連の赤軍が占領したドイツ東部に偏って頻発した。連合軍が占領した西側へ逃れることは可能でも、ソ連の赤軍による敗北は、全体主義のナチズムの絶対的否定、ナチ幻想の抹殺を意識した。ヒトラーを救世主として、ドイツ人は20世紀最大の戦争犯罪に加担した。

 ナチス幹部、ナチス信者、軍隊員が戦争末期に自殺した。捕虜になった後にも自殺した。1926年から1945年の間に在職したナチス党(NSDAP)地方指導者約41人のうち約8人、上級親衛隊(SS)および警察指導者約47人のうち約7人、陸軍大将約554人のうち約53人、ドイツ空軍大将約98人のうち約14人、クリーグズマリン提督約53人のうち約11人、その他未知数の下級官僚が含まれた。

 日本と違って、戦争末期に多くの自殺したドイツ人には、恥や不名誉の自殺までは洗脳されていない。しかし、何千人ものドイツ人が、ナチス・ドイツの命令下にない人生はもはや生きるに値しなかった。一種の集団的な実存的危機が起こっていた。敗戦で予想される苦難と窮乏が、戦争中に家族や個人を喪失して、多くのドイツ人の精神を限界に追いやった。銃剣や砲弾などの武力を奪われたドイツ人は、征服者とも良心ともに最も迅速で確実な自殺で決着をつけた。




2022年9月14日水曜日

文化大革命の犠牲者の巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられ、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、大勢の観衆が待つ公開刑場に連行され銃殺された。

黒竜江省の省都ハルビンの工場技術者だった巫炳源が166845日に処刑された。彼は同僚の永增蒙とともに、「北方へ」という題のパンフレットを印刷して配布したのが、毛沢東の反ソ連路線への批判されて命を奪われた。巫炳源と永增蒙は人民裁判にかけられて、死刑宣告が下された。二人は罪状が書かれた板を首にかけ、トラックに乗せられ、大勢の観衆が待ち受ける公開刑場に連行されて、銃殺された。死刑宣告を受けた巫炳源は、空を見上げて、この世はあまりに暗すぎる、と大声で叫び眼を閉じて、処刑されるまでその眼は閉じられたままだった。銃殺で合計8(7人の男性と1人の女性)が射殺され、そのうち巫炳源と永增蒙の2人がハルビン電気計器工場の技術者で、謄写印刷されたタブロイド紙「北へ」を配布したことで「反革命グループの主要犯罪者」としてレッテルを貼られて銃殺された。

 文化大革命が始まった1966年の春に、大連生まれの李振盛は23歳となり、ハルビンの共産党機関紙「黒龍江日報」のカメラマンだった。上司の指示に従って、毎日のように革命礼賛のプロパガンダ写真を撮影していた。李振盛は、文化大革命により196845日の銃殺刑を撮影した。暴走する文化大革命に疑問を抱き始めた。公表されない現実を密かに現像して自宅の床下に秘蔵した。文化大革命を真に記録した約20,000枚のネガは、保存された。

 1966516日に党中央政治局拡大会議は五一六通知(中国共産党中央委員会通知)で文化大革命を指示した。1966818日午前5時、北京の天安門楼上に軍服姿の73歳の毛沢東が立つと、天安門広場の100万人の紅衛兵が大歓声を上げ,赤い表紙の『毛沢東語録』を掲げて「毛沢東万歳!」を叫び続けた。午前8時、小柄で瘠せた国防相・林彪が、全国から集まった若者たちを前に、「搾取階級の旧思想、旧文化、旧風俗、旧習慣のすべてを打破しよう」と呼びかけた。紅衛兵のなかで、最も熱烈な文革支持者は疑うことを知らない1,300万人の中高生だった。彼らは毛を崇拝するあまり、各地で暴行を働き殺人まで犯している。




2022年9月6日火曜日

1956年のハンガリー動乱下でハンガリー民族主義者の暴動等により、ロシア軍兵士を、ソ連のレーニンの肖像を握らせて、喉奥に金属棒を突き刺して虐殺した。

1956年にハンガリー動乱が勃発して、ハンガリー民族主義者の暴動等により、ロシア軍兵士が虐殺された。レーニンの肖像を握らせ、喉に金属棒を突き刺した。1956年にハンガリーの首都プタペストの通りには、武装したハンガリー民族主義者が警戒していた。ソビエト軍がハンガリーの暴動を鎮圧すると、数千人のハンガリー人が強制収容所であるグラーグに送還された。

 1956年10月23日にハンガリーで暴動が勃発した直後は、ハンガリー民族主義者は、塹壕やトンネルを偽装して防御した。海外に亡命したハンガリー人からの支援を受けた。武器、無線、冊子、資金などの支援を受けた。ソビエトの行政官や民警であるミリツィアなどもテロ攻撃して、ソビエト軍の治安軍に抵抗した。ハンガリー民族主義者等は、装甲兵員輸送車やー機関銃によって、秘密警察官や共産党役員を殺害した。11月4日には新たにソ連軍は戦車約2500両と約15万人のソ連軍兵士で侵攻した。ソ連は膨大な軍隊と戦車で圧倒して直ちに鎮圧した。

 スターリン時代にはロシア国外で、ソビエト国家保安委員会(KGB:Komitet Gosudarstvennoy Bezopasnosti)におけるスパイ情報機関がスターリン個人の意向で、暗殺などの特殊工作をした。スターリンが1953年3月5日に死去して、フルシチョフ政権下では、共産党中央委員会の合意に見せかけた。1961年にKGBスパイのスタシンスキーがアメリカに亡命して、KGBがフルシチョフ政権下での暗殺を暴露して、国際的非難が殺到した。ソビエト連邦内務省(MVD)が、KGBの悪行を調査して過程で、関係者の家族がKGBに虐待を受けて、調査途上で頓挫した。1991年12月3日、KGBは正式に解散され、その後ロシアでは対外情報局(SVR)と1995年に連邦保安局(FSB)に引き継がれた。

 プーチンはレニングラード大学を卒業して、旧ソ連国家保安委員会(KGB)工作員となり、旧東ドイツ・ドレスデンに駐在した。ベルリンの壁崩壊後に帰国し、サンクトペテルブルク副市長などを経て、1996年に首都モスクワに移り、大統領府副長官、FSB長官、首相などを務めた。大統領代行を経て、2000年3月の大統領選挙で当選して、1期4年の任期を2期務めた。その後に首相を務め、2012年に再出馬して当選した。現在は1期6年の任期の2期目で、ロシア・ウクライナ戦争下で、憲法改正で2024年の任期切れ以降も出馬は有効となった。




2022年9月5日月曜日

フィリピンのマルコス政権の戒厳令下で、4人のイロカノ農民はカパロン地区農場で1978年10月21日に、5人のフィリピン軍兵士により発砲され全員が殺害された。

フィリピンのカパロン地区マニキの4人のイロカノ農民は、カパロン地区カリアンのフェルナンド・カナルの農場で、4日間の収穫を終え、1978年10月21日に自転車で帰宅した。5人のフィリピン軍兵士が、カリアンの結婚式に出席後に、酒に酔って青いフォード・フィエラに乗った。兵士たちは何の前触れもなく、4人の農民に向かって発砲した。目撃者は、4人の農民が負傷し、自転車と一緒にフィエラに積み込まれるのを見た。彼らは手傷を負ったものの、まだ生きていた。翌日、セラフィノ・マラケ(32歳)、ビルジリオ・フェルナンド(29歳)、レスティ・トゥート・バリクアト(25歳)、ロドルフォ・バリ(20歳)の死体が 本部から親族が引き取った。殺害に関与した兵士は、ホルヘ・プヘダ、ノルベルト・ビラール、ヒレヒト・フォルニヨス、ビルジリオ・キコイ、ハイメ・ソノリアであった。11月8日、調査官は犯人の4人を無罪とした後に、ブロサン大佐が2人の兵士のキャンプ制限と武装解除を命じた。

 フィリピンのイロコスノルテでは、ビンタール、ドゥマルネグ、ソルソナ、マルコス、ピディグの町の様々な農民が人権侵害を受けた。マルコス戒厳令の発令によって、マルコス政権は、特に独裁政権と戦った政敵である学生活動家、ジャーナリスト、宗教者、農民、その他を標的とした人権侵害が勃発した。る。アムネスティ・インターナショナルは、フィリピンの抑留者、および人権監視団体の文書に基づき、マルコス独裁政権は約3,257人に超法規的殺人をした。約35,000人に対して拷問、約77人の失踪、および約70,000人の監禁によって人権侵害が挙行された。約3,257人の殺害された被害者のうち約2,520人は、彼らの死体が一般大衆に印象づけるように様々な場所に捨てられて。身体切除さた。一般大衆の間に恐怖心を植え付ける戦略であり、引き揚げ(salvaging)と呼称された。

 フィリピン大統領フェルディナンド・E・マルコスの戒厳令は1972年9月23日にテレビを通じて宣言された。マルコスの統治が憲法の2期制限を超えて延長されると発表した。政令によって支配し、報道の自由と他の市民の自由をほとんど消滅させて、議会とメディア施設を閉鎖し、反対派の指導者と過激派の活動家の逮捕を命じた。戒厳令は14年間も継続して、独裁者マルコスが追放されるまで、1981年1月17日に正式に解除された。1935年憲法で許可された2つの大統領任期を超えて任期を延長するために戒厳令を使用した。 

 マルコス独裁時代には、フィリピン軍(AFP)が全域で様々な人権侵害が行った。定期的に人権侵害を行ったのは、フィリピン軍情報局(ISAFP)、MISG(Metrocom Intelligence and Security Group)、そして第5治安部隊(5CSU)であった。5CSUとMISGは、マルコスの遠縁が率いるフィリピン警察(PC)の一部であった。人権侵害の他に、部隊は、メディア団体、企業経営者、野党グループを脅迫、威嚇、暴力で追い回した。民間家庭防衛隊(CHDF)と呼称された非正規の準軍事部隊は、州知事や市町村長によって監督され、配備されて、様々な悪名高い人権侵害を行った。






2022年8月4日木曜日

ナチス・ドイツ軍からフランス解放後に、親ナチス・ドイツ軍の民兵組織に所属した6人のフランス人の若者が、1944年9月2日にグルノーブルにて公開処刑で銃殺された。

ナチス・ドイツ軍に占領されたフランスは、1944年8月25日にパリが解放された。1944年9月2日にフランス解放後に、親ナチス・ドイツ軍の民兵組織に所属した6人のフランス人の若者が、8月22日に解放されたグルノーブルで銃殺された。6人の死刑囚の処刑を見逃すまいと、群衆は一斉に集まった。フランス人の若者を、無名の裏切り者として死刑が執行された。ナチス・ドイツ軍の占領期の闘争とは無関係のない粛清も執行された。フランス人民兵やフランス地下組織のゲリラ戦士(maquisard)が最後の戦いを繰り広げた。1944年10月2日に、アメリカの週刊誌ライフは、フランス解放の記事に若者の粛清を掲載して、国際世論に衝撃を与えた。

 イゼールのユリアージュ訓練学校出身の6人の若いフランス人民兵は、1944年9月2日にグルノーブル軍法会議で死刑を宣告されて、同日に銃殺された。逮捕、有罪判決、死刑執行、若年の死刑囚、若者に対する重大な罪状がない状況から、特に注目された。1944年の夏以降に、フランス人民兵であった若者は、略式執行や例外的な裁判所の厳罰に暴露された。

 6人のフランス人の若者は、親ナチス・ドイツ軍のダルナンが組織した民兵組織に所属した。ジョセフ・ダルナン(Joseph Darnand)は、第二次世界大戦中のフランスでナチス・ドイツ軍への協力者となった。第二次世界大戦初期にフランス軍の兵士として活躍して、ヴィシー政権の準軍事警察組織であるフランス民兵(Milice)を組織して指導者となった。ダルナンはもナチス親衛隊SSの将校として活躍した。暗殺を実行し、レジスタンスを追いかけ、ユダヤ人を検挙し、フランス抵抗軍のゲリラ戦闘員を無差別に虐待と虐殺した。戦後は国家反逆罪でイタリアで検挙されて、1945年10月10日にシャティヨン要塞にて銃殺で死刑が執行された。




2022年4月6日水曜日

キューバのマチャド独裁政権下に、抵抗運動した青年ルビエリタらは、秘密警察に強制連行されて暗殺された死体が放置された。

キューバの首都ハバナで1932年12月30日に、キューバの独裁者であるジェラルド・マチャド(Gerardo Machado)大統領の秘密警察が暗殺作戦を指揮して、対抗する青年らを尾行した。17歳のハバナ工科大学のフアン・ゴンサレス・ルビエラ(Juan Gonzalez Rubiera)は、同志たちと武器を取りに出かけた。彼らがガソリンを買うためのお金を得ようとして家に着いた。青年ルビエラは、車から飛び降りてコラレス通りを走り、民家に避難した。数時間後に、青年ルビエリタら3人は、秘密警察に強制連行されて、区画整理のミラマール地区に行った。6番街と15番街の角の寂しい場所で、暗殺されて放置されたルビエラの死体が発見されて、身元が確認された。

 15歳のルビエラはキューバの首都のハバナ工科大学に入学して、優れた学生運動リーダーであり、ジェラルド・マチャド政権に対抗する闘士であった。15歳のとき、大学学生理事会が結成されるきっかけとなった学生デモに参加した。1932年12月30日に、17歳の若さで暗殺された。1933年1月16日のエル・パイス新聞の表紙に、キューバの秘密警察の銃撃により、逃げようとした青年ルビエラらに対して11発の銃弾が突き刺さった。血まみれの顔で地面に倒れた17歳のルビエラの死体の禁断の写真が掲載された。ルビエラの死体が、新聞記者が撮影できるほど長い間路上に、秘密警察が放置していた。

 1932年9月に、秘密警察の車列から、キューバ上院の議長であったクレメンテ・バスケス・ベロ医師を自宅の前で銃撃された。その1時間以内に、秘密警察は反マチャドの指導者であるハバナ大学学長のリカルド・ドルツ博士を銃撃した。キューバのマチャド政権下では毎日のように人が銃撃された。秘密結社は12月30日に、秘密警察のラファエル・カストロ軍曹を銃撃して重傷を負わせた。その報復として、12月31日に秘密警察のオルティス署長が自分の車で青年らを路地まで追いかけて3人全員を射殺した。

 1924年に、マチャドはキューバ共和国の大統領に選出された。マチャドは1925年から1928年までの最初の任期中に、主要な公共事業プログラムを実施した。彼の任期が終了する前に、憲法制定会議はキューバ憲法を改正し、新たな6年間の大統領任期を創設した。マチャドは1928年に再選され、新法の下で1935年まで大統領を務めた。マチャドの第2期は、内戦と経済混乱により、砂糖の価格は大幅に下落し、多くのキューバ人は失業した。不安が高まる中1930年に、マチャドは警察に違法な政治集会とデモを解散させた。マチャド政権への反対は大きくなり、抑圧的措置を強化した。1932年に、マチャドは憲法を一時停止して、アメリカのフランクリンD.ルーズベルト大統領により、1933年8月12日にマチャドはキューバから追放されアメリカに定住した。






2022年3月15日火曜日

ベルリンでエーベルトの反革命の最後の段階で、政府軍がスパルタシストらの反乱軍を一網打尽にして、処刑された囚人の死体、犠牲者の死体などが散乱した。

1919年のベルリン3月闘争(Berlin March Battle)は、1918年から1919年のドイツ革命の最後の決定的な局面で勃発した。ナチスへと由来するドイツ義勇軍は、勝利の後にしばしば捕虜に大規模な殺戮が行われた。ベルリンでエーベルトの反革命の最後の段階で、政府軍がスパルタシストの反乱軍を一網打尽にして、処刑された囚人の死体、衛生チームによる犠牲者の死体などが除去された。ベルリン労働者階級は、によるゼネストの結果であり、主要産業の社会化、労働者評議会と兵士評議会の法的保護、軍隊の民主化を実施するゼネストを執行した。ストライキ活動は、準軍事組織であるドイツ義勇軍の暴力に直面した。ベルリンのアレクサンダー広場とリヒテンベルク市周辺で、街頭戦闘と掃討戦が勃発した。スパルタクス派の蜂起が、1919年1月5日から1月12日にかけてベルリンで起こったゼネストと武装闘争が勃発していた。1918年から19年のドイツ革命の間に、第一次世界大戦の退役軍人から成るドイツ義勇軍が準軍事的な民兵組織が育成された。

 ドイツ義勇軍が群衆の中を車で通り抜けるのを、ストライキ参加者が妨害した。ドイツ義勇軍は、すぐに装甲車や戦車で介入して、デモ群衆に発砲して大虐殺となった。特に人口の多いベルリン住宅地で、ドイツ義勇軍による無差別な大砲は、多くの死者を出した。リヒテンベルク警察官の殺害事件を、犠牲者を誇張して、警察官全員の処刑を命じたと偽情報を流布した。政府軍に反抗する闘争で、武器を手に捕った者は、その場で射殺した。銃撃を受けたと称して無差別に住宅を攻撃し、地域が砲撃と空爆で完全に廃墟と化した。

 3月3日に、ニグスドルフAEGの労働者は、1918年12月にベルリンでドイツ帝国議会で承認された軍隊の民主化に関するハンブルク・ポイントを実施するために、ゼネストを決議した。ストライキは、ドイツ共産党とドイツ独立社会民主党の支持を得た。ドイツ政府は、ドイツ社会民主党の多数党の指導下に、国防大臣グスタフ・ノスケの命令で、政府軍によるベルリンとシュパンダウの包囲戦を実行した。スパルタシスト蜂起では、中立の立場であったフォルクスマリネディビジョンは、ストライキに武器を配給した。隊員が致命傷を負った後には、政府軍と戦闘を行った。ゼネストは3月8日に、リヒャルト・ミュラー率いるストライキ指導部の命令で終結した。労働者評議会との交渉の結果、ワイマール政府からいくつかの譲歩がなされた。ベルリン3月闘争は3月16日にノスケによる発砲命令が解除されて終結した。

 ベルリン3月闘争では約1200人以上の死者を出して、そのうち約75人は政府軍側であった。死者数は約2,000人から約3,000人とも推定された。政府軍当局による公式な集計はない。闘争による多くの流血は、ドイツ義勇軍司令官のヴァルデマール・パブストが、銃器を所持している者はすべて殺害する命令に起因した。その結果、ストライキに無関係だった多くの民間人や退役軍人が殺害された。その中には、虐殺された革命家ローザ・ルクセンブルクの元夫であった共産党指導者レオ・ヨギッチも含まれた。ベルリン3月闘争は、第一次世界大戦後のドイツの革命闘争の中で、最も血生臭い犠牲の一つである。























2022年2月24日木曜日

第二次世界大戦の東部戦線で、コルスン包囲戦が勃発して、ソビエト軍がウクライナのドニエプル川沿いでドイツ軍を大量虐殺した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、最も残酷なコルスン包囲戦が1944年1月24日から2月16日まで勃発した。ソビエト軍が、ウクライナのドニエプル川沿いで、ドイツ南方軍集団を包囲した。ソビエト軍は包囲したドイツ軍を崩壊したが、ドイツ軍は包囲外の救援軍と連携して包囲網を突破した。包囲されたドイツ軍兵士の約3分の2が脱出でき、残りの約3分の1は戦死傷あるいは捕虜となった。包囲された絶望的なドイツ軍は、2月16日23時になって司令部から、ヒトラーを無視した脱走の合い言葉「自由、目標、リシャンカ」の無線を傍受した。2月17日午前0時に、ドイツ軍は最後の補給を終えて、銃や車両を破壊してて、負傷者は横たわったまま戦死した。ドイツ軍が平地に入ると、ソ連軍の戦車が突撃し、逃げ回るドイツ軍兵士を追い詰めては虐殺した。湿った雪で覆われた地面を、ソ連軍の戦車が直進して、ドイツ軍兵士を足跡で押しつぶして殺害した。ソ連軍兵士は戦車から離れては、丘の上の避難所に逃げ込んだドイツ軍兵士を追い詰めては虐殺した。戦線に沿って必死に前進するしかないドイツ軍は、甚大な死傷者を出した。2月18日には、「自由ドイツ国民」委員会の勧告に応じて停戦して脱走しようとしたドイツ将軍のヴィルヘルム・シュテマーマンは、ナチス親衛隊によって射殺された。





 ウクライナの首都キエフから南に約180kmのチェルカ−スィ州の都市コルスンで、ソビエト軍は、1月24日に約60,000人ものドイツ軍を包囲した。スターリンは、ソ連軍にはヒトラーの追随者もしくはファシストどもは完全な絶滅を厳命していた。ロシアの厳寒、劣悪な地盤条件、護送団への絶え間ない空襲、頻繁な攻撃によって、ドイツ軍は弱体化していた。天候の悪化により雪解けで泥濘化した大地で、移動が鈍化したドイツ軍に、ソビエト軍は降伏を要求して喧伝した。2月12日から、ドイツ軍は包囲内の北方の部隊を撤退させ、脱出のために再編成を行った。2月16日に、ソビエト軍は包囲したドイツ軍の周辺に激しい砲撃とロケット砲の攻撃を注ぎこんだ。ソビエト軍は爆撃機により、爆撃と地上掃射を行って、至る所に破壊され放棄された車両や戦死傷者が散乱して瓦礫が雪上に残存した。ロシア軍の戦車が現れて、マッチ箱のようにカート上の負傷者を1台ずつ粉砕した。ロシア軍は馬を機械で銃撃し、負傷者を掃討して、馬を線路の下に押しつぶした。2月17日に雪解けで泥流化した支流を渡河して、溺死、凍死、残骸が流出した。2月16日終末には、河川での戦闘は終結して、コルスン包囲戦から生存者の大半が渡った。ドイツ軍は、当初の約5万6千人のうち約3万5千人近くが脱出して救出されて、約1万人以上のドイツ軍兵士が死亡して、約1万7千人が捕虜となった。コルスン包囲戦の犠牲者は、ドイツ軍は戦死が約19,000人と戦傷が約11,000人、捕虜が約18,000人に及んだ。ソビエト軍は、戦死・行方不明が約24,286人と戦傷が約55,902人に達した。




2022年2月24日木曜日の世界協定時間(UTC)午前3時(ウクライナでは午前5時頃)に、ロシア軍がウクライナ東部から軍事作戦を開始した。

2022年2月22日火曜日

ロシア革命後の内戦の中で、多くの無実の民間市民が大量虐殺されて人命が奪われたロシア人の膨大な死体が路上に集積された。

ロシア革命後の内戦の中で、多くの無実の民間市民が大量虐待と大量虐殺された。殺害されて人命が奪われたロシア人の膨大な死体が路上に集積されていた。白軍の白色テロに対抗して、人民委員会も赤軍による赤色テロを喧伝した。その他に、ソビエト秘密警察であるチェーカーによる残虐なロシア人の抹殺も加わった。

 ロシアのニコライ2世の君主制は1917年2月革命によって打倒されて、ロシアは政治的流動状態になった。ロシア共産主義であるボルシェビキ主導の十月革命により、ロシア共和国の臨時政府を打倒した。ボルシェビキ政権の共産主義のために戦った赤軍と政治的君主主義を支持する多様な利益を含む白軍が内戦に陥った。白軍側は複数の軍隊が別個に蜂起して分離していた。1917年4月から労働者にから紅衛兵を募集して、12月5日から秘密警察であるチェーカーで補強した。令状も無く無制限に市民を逮捕して、無実の罪で処刑された。その名称はGPU・OGPU・MVD・NKVDから1954年にKGB(プーチンは約16年間諜報員)に変更された。最高機関である人民委員会は1918年1月28日に赤軍を結成を開始した。1918年6月から地方の農民を赤軍に徴兵を開始して再編成した。

 ボルシェビキ政権は1918年3月3日にドイツ帝国とは緊急和平のブレスト・リトフスク条約を締結した。バルト三国、ベラルーシ、ウクライナの広大な領域をドイツ帝国に割譲した。1918年3月からイギリス軍がムルマンスク、4月5日に日本軍はウラジオストックに上陸して、1918年5月からロシアのチェコスロバキア軍団がシベリアで反乱を起こした。連合国はロシア北部とシベリアへの介入を開始した。1918年7月17日にニコライ二世家族全員は射殺された。1919年3月から白軍が南方と北西と東方から侵攻するも、赤軍が6月に東方、10月に南方と北西の白軍を撤退して、白軍は大きな損失を被った。1920年3月に残存した白軍はクリミア半島に集結して11月14日に崩壊した。1923年6月にヤクートで白軍が壊滅してロシア内戦が終結した。フィンランド、エストニア、ラトビア、リストアニア、ポーランドなどの旧ロシア帝国の西部地域で独立した主権国家は、やがて共産主義のソビエト連邦に統合された。ロシア内戦にてボリシェヴィキの残虐行為は、帝政ロシア時代よりも非人間的犯罪行為であった。ロシア内戦中には、約700万人から1,200万人にも死傷者が出て、ほとんどが民間人が犠牲となった。














  

 ウクライナでは、1917年2月ロシア革命によりロシア帝政が崩壊すると、3月14日にウクライナ中央協議会がキエフで成立した。1918年1月9日にウクライナ人民共和国はキエフで独立宣言して、2月8日にロシア赤軍が占領したキエフを2月9日に奪還した。ドイツ軍が撤退して、1919年1月6日にウクライナ・ソビエト社会主義共和国を樹立した。1919年から1920年に、ウクライナ軍・赤軍・白軍・緑軍・黒軍・連合軍が錯綜して、1920年冬に赤軍が全域を占領した。1921年3月18年にポーランドが侵攻して西ウクライナを占領した。1918年にクリミアは赤軍に占領された。1922年12月にソビエト連邦を形成して自治共和国となり、ウクライナは搾取されて2度の大飢饉で約400万から約1,000万人のジェノサイド(民族絶滅)された。


【ロシアのプーチン大統領は2014年2月23日にクリミア半島に侵攻した。2022年2月22日には、ウクライナ東部の親ロシア派の地域の独立を承認して、平和維持軍を名目にロシア軍の派遣を命令した。】

2021年12月21日火曜日

第2次世界大戦のバルカン侵攻からクロアチア人のウスタシャ民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。

1941年にクロアチアの住宅の中に横たわる虐殺された家族全員の死体が散乱した。テロリストであるクロアチア人のウスタシャ(Ustaše: 蜂起する者)民兵が、セルビア人の家族を探索して自宅を襲撃して全員を虐殺した。その他にユダヤ人やジプシーも標的にした。ウスタシャは、徴兵年齢の男性だけでなく、特に無力な老人、女性、子供たちに対しても虐待と虐殺した。村全体が破壊され、セルビア人の犠牲者を切り刻むために使用された肉切り包丁、フック、斧なども使用された。

 ウスタシャは、1930年に設立されたクロアチアの超国家主義者、テロリスト、革命運動で、第2次世界大戦中は極めて活発に活動し、1945年に解散した。彼らは、何十万人ものセルビア人、ユダヤ人、ロマ人、反ファシスト、反体制派のクロアチア人とボスニア人を強制送還、強制移住、拷問、殺害した。彼らは猛烈な民族主義者で、ローマ・カトリック教徒であり、異質なものは誰でも迫害した。ナチスと違ったのは、ローマ・カトリックへの改宗を強制したり、国外追放や死を予告した。ウシュタシェは、正統派キリスト教とキリスト教を正しい宗教と考えた。多くのカトリック大司教らは、暴力に直接参加しなくとも、ウスタシャを賛美して、クロアチアの繁栄を確保する非情な措置に同意した。

 第2次世界大戦前にはテロ組織として宣言したが、1941年4月6日からの枢軸国軍のバルカン侵攻に伴い、ウスタシャは独立クロアチアとしてユーゴスラビアの大部分を支配するナチス・ドイツ傀儡国家となった。ウスタシャは占領軍であるドイツ軍やイタリア軍に進んで協力した。ナチスやイタリアのファシストと協力して、ユダヤ人、セルビア人(正統派キリスト教徒)、ユーゴスラビアのパルチザン、ロマなど、反体制派のグループを迫害した。1941年4月17日の国民と国家の保護法により、大量虐殺が正当化された。ウスタシャは、ナチスの幹部から野蛮とされ、特にウシュタシェは管理する収容所や虐殺で、残虐性と殺人欲に倒錯した。ウスタシェによって約30万人のセルビア人、約3万人のユダヤ人、約29,000人のジプシーをして、約30万人近くを国外追放して、約20万人が強制的に改宗させられた。

 大量虐殺は、バルカンのアウシュビッツと悪名の高いヤセノヴァッツ強制収容所で発生した。これは、ザグレブの南にある5つの収容所で、バルカン半島最大の絶滅収容所であった。この地域では最も悪名高い強制収容所であった。いくつかの収容所や虐殺は、司祭が指揮していた。ヤセノヴァツ強制収容所は、食料はほとんどなく、汚いバラックには害虫や排泄物があり、辺りには腐敗した死体が散乱した。囚人たちは死体を捨てていたサヴァ川から飲水させられた。ウスタシャは、第2次世界大戦末期の1945年5月9日にオーストリア国境近くでパルチザンと戦闘した。降伏したウスタシャ約40,000人を、ユーゴスラビア人民解放軍のパルティザンが銃殺して死体を溝に捨てた。




2021年12月6日月曜日

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤーは、1933年6月8日にナチスの親衛隊と突撃隊によって暗殺された。

共産主義者であったハインリッヒ・キーペンホイヤー(Heinrich Kiepenheuer)は、1933年6月8日にデュッセルドルフの近郊で、ナチスの親衛隊(SS)と突撃隊(SA)によって暗殺された。その暗殺事件後に警察は、ライン川の橋の上で殺害された無残な死体を検証して写真を撮影した。鉄道員であったキーペンホイアーは、ナチスにとり違法なパンフレットである死(Die)を配布していた。キーペンホイアーは、SSとSAによる追撃からの逃走中に捕獲されて射殺された。

 ナチス・ドイツである国家社会主義ドイツ労働党(NSDAP, ナチ党)がファシズム支配化する初期段階で、ナチスにとって邪魔者を暗殺した。ヒトラーがドイツ帝国首相に就任した1933年1月30日から、いわゆるレーム一揆が発生した1934年6月30日までのテロの犠牲者は、ナチス政権の権力の掌握と強化の開始点と終了点として研究されている。ナチスの初期段階で殺害された人々の総数は推定である。新聞報道の分析では、1933年1月31日から8月23日の間に約220人(ナチス反対派約196人、国家社会主義者約24人)が殺害された。歴史学者は、1933年10月までに殺害された人数を約500~600人と推定された。伝記作家は、ナチス支配の初期に少なくとも約500から約600人が殺害されたと推定した。警察本部からプロイセン内務省への秘密の報告書では、1933年2月27日の国会議事堂放火事件から3月25日までの間に、ベルリンだけで約247人が殺害された。リストには、SAやSSなどの国家社会主義組織のメンバーや、秘密国家警察などの国家の弾圧機関によって殺害された明らかな人数のみが含まれている。具体的なテロ犠牲者約353人は、名前、少なくとも関連する個人的な調書が網羅されている。

  1933/1934年の権力掌握期における国家社会主義者のテロによる犠牲者が分類された。

1) 悲惨なテロ対象となった犠牲者 

 共産主義者、社会民主主義者、ユダヤ人など排除者に属して、恣意的にSAや他の国家社会主義部門によって殺害された。公道や自宅、SAの地下室、ストームルーム、宿舎などで虐待と虐殺での死亡者、逮捕後に刑務所や強制収容所で殺害された者、さらに逃走中に逮捕されたキーペンホイアーも含む。

2) 裏切り者による犠牲者

ナチスの特定の有力者、孤立者は下級幹部から特に嫌われて、標的テロで殺害された。

3) 強制収容所や監獄で非業の死を遂げた犠牲者

強制収容所または刑務所の収容者は、看守らの野蛮な攻撃で、暴力による殺害、裁判所判決とは対照的に、非公式の殺害、上司からの命令、偽装されて意図的な殺害、(看守に殴り殺される、銃で撃たれる、首を吊らるなど)、看守による組織的または無慈悲な虐待と虐殺の結果として殺害された、過酷な労働条件の下で疲労困憊して倒れた心身の障害として死亡した。

4) 司法の場での殺人事件の被害者

1933年までのドイツの死刑制度にて、裁判所により不正に死刑判決が下された。1933年までドイツ帝国の刑事犯罪(殺人、強姦など)ではなく、政治犯罪(反対運動、腐敗など)で処刑された、問題のある法律や慣行に基づいて死刑判決を受け処刑された。







2021年3月26日金曜日

ハンガリーのファシスト軍は、マケドニアの首都スコピエのスタリベチェイで、パルチザンの12人を死の壁で射殺した。

ハンガリーのファシスト軍は、1941年11月11日にマケドニアの首都スコピエのスタリベチェイで、パルチザンの12人を射殺した。彼らが射殺された前壁は「死の壁」と呼ばれた。1942年1月20日にも、ナチス・ドイツは、死の壁の前で、さらに11人の共産主義者らを銃殺した。死の壁は今日でも存在して、文化的記念碑として保護されている。写真では、くいしばられた握りこぶしを持上げたり、拳を上げて目隠しを外した。銃撃された直後に、立ち上がって、ユーゴスラビア共産党は生きて-ファシズムへの死!と叫んだ。その直後に殴打されて射殺された。青年共産党連盟の地区委員会の書記も一緒に逮捕された。逮捕中に、ファシスト憲兵を殺害して、別の憲兵を負傷させた。
 親戚に別れを告げる若い男性の写真が保存されていた。1つは、青年が泣いている母親に別れを告げ、もう1つは、青年が父親に別れを告げ、3つ目は青年が兄に別れを告げている。1942年1月20日に射殺された11人の青年共産党連盟の中には、地区委員会の書記とメンバーoが含まれた。
 1942年1月27日に、ハンガリーのファシストは、スタリベチェイでさらに約244人のセルビア人、ユダヤ人、ローマ人を殺害した。凍結したティサ川の氷の下に投げこまれた。殺害された人々の中には、男性約124人、女性約86人、高齢者約19人、子供15人が含まれた。

 

2021年3月17日水曜日

オーストリア内戦の2月蜂起により、保守系政権により殺害された市民の死体がウィーンに横たわって散乱した。

オーストリア内戦の2月蜂起により、保守系政権により殺害された市民の死体がウィーンに横たわって散乱した。1934年2月12日から2月16日までの間に、保守的ファシスト政権勢力と社会主義勢力との間で内戦が勃発した。保守的ファシスト勢力が圧倒して、オーストラリアは国家全体主義に支配され始めた。犠牲者は、社会主義勢力は約1,000人が死傷され、保守系政権勢力は約118人が殺害された。保守系政権側のオーストリア軍が、参戦して社会主義勢力は一掃された。
 1932年にエンゲルベルト・ドルフースが保守系の首相に就任して保守系の祖国戦線(VF:VaterländischeFront)を設立した。イタリア系のファシストを導入して、1933年8月にイタリアのムッソリーニは、祖国戦線の政権を擁護することを宣告した。祖国戦線は、次第に市民の自由を縮小して、全ての運動組織と政党を禁止して、多くの政治犯を投獄した。新たなオーストリア系のファシズム独裁政権が発足した。祖国戦線の政権は、社会主義である共和国保護同盟を解体するために、1934年2月12日にホテル・シフで、保守政権の警察隊の捜索に対して共和国保護同盟が衝突して内戦が勃発した。相互の勢力間で銃撃戦が起こり、他のオーストリアの都市にも波及した。ファシスト勢力が、社会主義勢力の蜂起を2月16日までに鎮圧した。労働組合は禁止されて、社会主義勢力を弾圧した。5月1日に憲法を制定して、オーストリアにファシスト系政権を確立した。
 オーストリア系ナチスが、1934年7月25日にオーストリアの首相であるドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。約10人のオーストリア系ナチスが、首相官邸に侵攻して、非武装の警備員を排除して、ドルフースを暗殺した。

 

2021年2月24日水曜日

オーストリア系ナチスが、オーストリア首相であるエンゲルベルト・ドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。

突然、オーストリア系ナチスが、1934年7月25日にオーストリアの首相であるエンゲルベルト・ドルフースを暗殺して、他国に対するナチス独裁化が勃発した。10人のオーストリア系ナチスが、首相官邸に侵攻して、非武装の警備員を排除して、ドルフースを暗殺した。官邸を占領した時に、ドルフースは2発にわたり至近距離で銃撃された。1回目の弾丸は腹部から腰髄を貫通した。2発目が頸から喉を貫通して絶命した。
 1930年代を通して、ナチス・ドイツはドイツとオーストリアの併合であるアンシュルスのために熱烈に歓迎していた。しかし、1932年5月20日にオーストリアの首相となったエンゲルベルト・ドルフース(Engelbert Dollfuss)は、身長はわずか約150cmであるが、オーストリアの専制独裁を熱心に取り組んだ。1933年5月20日には、祖国戦線(Austrofascism)を結成して、イタリア系ファシズムをオーストリアで組織化した。1933年1月30日に首相に就任したヒトラーに対抗した。しかし、1934年7月25日のある蒸し暑い午後に、武装したオーストリア系ナチスは、オーストリアの首都ウィーンでドルフース首相を襲撃した。ナチス・ドイツが勇敢な小柄な首相を暗殺したことは世界に衝撃を与えた。ナチス・ドイツはオーストリア政府を掌握することにはイタリアの介入により失敗した。暗殺によるクーデターを鎮圧したクルト・フォン・シュシュニックは、ドルフースから首相を引き継いだ。
 最終的に、シュシュニックはオーストリアの将来を決定するために、1938年3月13日に国民投票の実施を公表した。ヒトラーは国民投票の結果を望まず、直後にオーストリアを攻撃した。1938年3月12日に、ナチス・ドイツはオーストリアの国境を越えた。翌日の3月13日には、ドイツ軍の戦車がウィーンを占領して、リングシュトラーセに沿って彷徨した。新たに4月10日に国民投票が実施されて、公式にオーストリアはナチス・ドイツに併合された。オーストリアのナチス・ドイツの傀儡であるナチス党員のアルトゥル・ザイス=インクヴァルトが新たな政権を率いた。ロスチャイルド邸宅が、ナチス・ドイツのゲシュタポの本部になった。ヒトラーは他国に最初の武装征服を行った。きらびやかなハプスブルク家の宝石であるウィーンは占領されて、もはやナチス・ドイツの一地方の町に過ぎなかった。オーストリアにとって、ナチス・ドイツの専制独裁政治が一早く到来した。