2023年7月31日月曜日

第ニ次世界大戦の西部戦線のバルジの戦いにて、ベルギーで1945年1月にアメリカ軍の第82空挺師団部隊との戦闘で、殺害されたドイツ軍兵士の死体が積雪の街路に散乱した。

第ニ次世界大戦の西部戦線のバルジの戦いにて、ベルギーで1945年1月にアメリカ軍の第82空挺師団の空挺部隊との戦闘で、殺害されたドイツ軍兵士の死体が積雪の街路に散乱した。ベルギーの雪道の通りを歩くアメリカ軍兵士は、雪の中に横たわるドイツ軍兵士の死体を見詰めて妍子した。ドイツ軍兵士は、アメリカ陸軍第82空挺師団の部隊に、町を奪還されまいとして殺害された。

 1944年12月16日に、霧に包まれた冬の早朝に、約20万人以上のドイツ軍と約1000台近い戦車が、連合軍がフランスのノルマンディー上陸から始まったドイツ軍の衰運を覆す最後のバルジ作戦を開始した。ドイツ軍は、アルデンヌの森で攻撃を仕掛け、戦線は約120kmに及ぶ区間であった。アルデンヌ反抗作戦とも呼ばれ、1944年12月16日から1945 年1月25日までの過酷な戦闘が約6週間続いた。極寒の気象条件下で、木々が生い茂るアルデンヌの森で、約30個のドイツ軍師団が戦闘で疲労したアメリカ軍を約137kmにわたって攻撃した。ドイツ軍がアルデンヌに侵攻すると、連合軍の前線が大きな隆起の様相を呈し、これがバルジの戦いの名前の由来となった。

 凍てつく雨、濃い霧、深い雪の吹きだまり、記録的な低温が、アメリカ軍に残虐な行為をもたらした。その冬季には、塹壕足、肺炎、凍傷などの寒冷傷害が約1万5000件以上報告された。天候がようやく回復し、連合軍の空軍が12月25日に攻撃して、12月26日までに、ドイツ軍の侵攻がムーズ川の手前で止まった。ドイツ軍は1945年1月8日にバルジの戦いから撤退を開始した。連合軍は、1945年1月25日の戦いで勝利を宣言し、ベルリンに向かって侵攻した。戦争は約5か月以内にドイツ軍の5月7日の降伏により終結した。アメリカ国防総省によると、バルジの戦いでは約50万人のアメリカ軍兵士を含む約100万人以上の連合国軍が戦い、約1万9千人が戦死、4万7千5百人が負傷、2万3千人以上が行方不明となった。約10万人のドイツ軍兵士が死亡、負傷、または捕虜となった。ノルマンディー上陸作戦、第一次世界大戦のムーズ・アルゴンヌ攻勢に次ぐ、アメリカ軍史上3番目に死者を出した戦闘となった。




2023年7月30日日曜日

ウクライナのザポリージャ地方でロシア軍との戦闘で、両目と両腕と聴力の一部を失った夫のアンドリィを、2023年7月10日に妻のアリーナがキエフの病院で抱きしめた。

2023年7月10日にウクライナのキエフにある病院で、夫のアンドリイ(Andrily)を、妻のアリーナ(Alina)は抱きしめた。アンドリィはウクライナ陸軍47旅団の航空偵察将校で、作戦コードネーム(Apostle)使徒で、ザポリージャ地方でのロシア軍との戦闘で重傷を負った。ウクライナ内務相が7月12日に、ツイッターに「多くの言葉よりも」と写真1枚を共有した。ウクライナ戦争で両目と両腕と聴力の一部を失ったアンドリーさんとその妻のアリーナさんの写真である。戦闘任務を遂行中に、アンドレイはロシア軍の銃撃を受けた。砲弾の一つが彼の足元で爆発した。彼を救護した衛生兵は、青年は助からないと確信した一方で、アンドレイ自身は最後まで意識があり命令を下した。

 27月23日には、ウクライナ南東部で激しい戦闘が繰り広げられた。ウクライナ当局は、大規模な攻勢を開始した、ロシア当局は敵対行為が著しく激化したと述べた。ウクライナ軍は、約17ヶ月前に侵攻したロシア軍に対して、NATO諸国が供給した武器と訓練した軍隊で反攻を開始した。ワシントンの戦争研究所は、ウクライナ軍が7月26日にザポリーザ西部で、大規模な機械化反攻作戦を開始し、ロシア軍の防衛陣地を突破したと報告した。ウクライナ当局は、7月27日にウクライナ軍一団がザポリージャ州に隣接するドネツク州のスタロマイオルスケ(Staromaiorske)村を制圧した動画を投稿した。ウクライナ当局は南東部の村落の支配権を取り戻した部隊を祝福した。

 ロシア当局は南東部ザポリージャ地方で攻撃を撃退したロシア軍を賞賛した。ロシア当局は国営テレビで、ウクライナ軍の攻撃は成功せずに、多くの死傷者を出したと告発した。ウクライナ軍は6月上旬に反攻を開始して以来、少しずつしか成果を上げていない。ロシア当局は、証拠を提示せずに、ウクライナ軍が大損害を被ったと繰り返し主張した。ウクライナ軍はここ数日、南東部地域に数千の軍隊を投入した。

 アメリカ政府関係者は、ウクライナ軍は第10軍団の部隊を投入し始めた。予備軍の第10軍団を保持して、ロシア軍の防衛網を突破できた戦場に、新たな部隊が追加された。ウクライナ軍は戦闘力を温存して、ロシア軍の地雷原を慎重に突破している。ロシア軍は、ウクライナ軍の進撃を妨害する広大な地雷原を設置し、戦闘機や浮遊弾薬を使ってウクライナ軍の装甲車や大砲を攻撃した。アメリカ政府当局は、ウクライナに武器や情報を提供した。ウクライナがロシアの陣地を削り取る中、忍耐を促したが、最新の動向にコメントを避けた。














Warning: Alina, left; hugs her husband Andrily in a hospital in Kyiv, Ukraina, July 10, 2023. Andriy was a Ukrainian army 47 brigade air reconnaissance officer, code name, Apostle, who was heavily wounded in a battle with Russian troops in the Zaporizhzhia region.(AP Photo/ Libkos, File)

2023年7月29日土曜日

1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点とした。11月7日に宇品の広島鉄道局仮家屋で、被爆者の検診が実施された。

広島原子爆弾が投下された広島市内で、日米合同調査団の医師により被爆者の検診が実施された。1945年9月下旬、アメリカから医学面での協力要請により、日米合同調査団が結成された。10月中旬に、来日して広島市を訪問した合同調査団の広島班は、広島第一陸軍病院宇品分院を拠点として合同調査を始めた。1945年11月7日に、宇品の広島鉄道局仮家屋(the temporary home of the Hiroshima Railroad Bureau in Ujina)で、被爆者の検診が実施された。

  1945年9月22日に東京帝国大学医学部で、アメリカ側軍医関係者と東京帝国大学医学部の長宮猛雄教授らが会合し、アメリカ側は医学面での協力を要請した。その結果、「日米合同調査団(the Japan-US Joint Commission)」(アメリカ側は「合同委員会(the Joint Commission)」と呼称)が結成された。日本側参加調査団のメンバーは、主として都築教授によって選出された。東京帝国大学医学部の各教室から36名の研究者と医学部生21名、理化学研究所から村地幸一、これに、陸軍軍医学校、東京陸軍病院のメンバーが協力した。

 日本とアメリカの調査団なる合同調査団の広島班(アメリカ側メイソン大佐以下10人、日本側37人)は10月12日に広島に入った。広島第一陸軍病院宇品分院(the Ujina Branch of the Hiroshima First Army Hospital)を本拠として合同調査を始めた。合同調査団のアメリカ側医師と日本側医師は共同で被爆者の検診を行なった。アメリカ側の第一次調査は、1946年9月に終り、収集した資料はアメリカに持ち帰った。

 この合同調査団の調査内容については、アメリカ側は合同委員会の報告書1946年11月「日本における原爆の医学的効果」として、日本側は、学術研究会議の「原子爆弾災害調査報告集」の中でそれぞれ報告した。







2023年7月28日金曜日

日中戦争の南京事件にて、日本軍によって石油で焼き殺された南京市民の死体が焦化した。焼死体は、日本軍の爆撃で死んだあるいは焼き殺された中国人車夫であった。

日中戦争の南京事件にて、日本軍によって石油で焼き殺された南京市民の死体が焦化した。焼死体は、日本軍の爆撃で死んだ中国人あるいは日本軍に生きたまま焼き殺された中国人車夫と、国民政府が主導して記録された(顾金亮『日寇暴行実録』Picture Record of Japanese Savagery, 1938年)。1937年12月に勃発した南京事件の写真が出回った。

 焼死体の周囲には、焼け残った車以外に火災の痕跡が見られない。爆撃の火災ではなく、車夫は明らかに人為的に焼却された。全身がくまなく焼けて、地面に横たわった状態で燃料を掛けられ、燃やされた。焼かれる前に、既に死体が激しく腐敗して、死体の四肢は屈曲せず水平に伸展し、足は炭化して崩れて、肘は伸展した。死亡後、一週間も経過した死体は、筋肉のタンパク質の腐敗が激しい為に、焼却しても四肢が屈曲しなかった。焼死体は、生きたまま焼き殺されたのではなく、手の付けられないほど腐敗し焼かれた。

 1937年12月13日に、侵攻してきた日本軍は、当時中国の首都であった南京に侵攻し、約40日以上にわたる大虐殺を行って、膨大な中国軍兵士と民間人が無残に虐殺された。中国は長い間、日本軍の残虐行為を大虐殺と据えてきた。日本では、南京大虐殺を否定する勢力が常に存在した。日本の政治や社会が右傾化する中で、南京大虐殺を否定する動きが再び強まった。日中戦争初頭の1937年12月、大日本帝国軍が中華民国の南京市を占領した際、約2カ月にわたり多数の中華民国軍の捕虜、敗残兵、便衣兵および一般市民を殺害、略奪、強姦、放火した

 日本軍は侵攻する先々で焼き討ちと略奪を尽くし、中国の街は廃墟と化し、かつての家屋は荒廃した。日本軍の残虐行為である焼却された死体が、、日本軍の残虐行為を、焼却と略奪に狂奔した映像が映し出した。邪悪な日本軍の侵略は、中国の各所を焼き払おうとて、焦土にした。爆撃の後に、日本軍は再度に火を放ち、高熱の焼夷弾、火災を誘発する油を、人口が密集した都市に、絶え間なく投下した。何度も燃やして、何千年もの中国の遺産が破壊された。炎に埋もれた中国人は、非人間的で悲惨な虐殺に遭遇した。放火による残虐行為は、盗賊や強盗よりも悲惨である。








2023年7月27日木曜日

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1941年10月にZiS-3砲の側で、ソ連軍砲兵が殺害されて、倒れたとても若いソ連軍の乗組員の死体が散乱した。砲弾が命中して、破片が斜面のゴムを破壊して、銃砲が損傷していた。

第ニ次世界大戦の東部戦線にて、1941年10月にZiS-3砲の側で、ソ連軍砲兵が殺害されて、倒れたとても若いソ連軍の乗組員の死体が散乱した。砲弾が命中して、破片が斜面のゴムを破壊して、銃砲が損傷していた。

 ルジェフの戦いが、第二次世界大戦の東部戦線にて、1942年1月8日から1943年3月31日に、ドイツ国防軍に対してソ連赤軍が一連の攻撃をした。戦闘はスモレンスク州の北東部とトヴェリ州の南部で行われた。ソ連軍の損害が甚大となり、ルジェフ肉挽き作戦と呼称された。モスクワ近郊に追いつめられたソ連赤軍が、ドイツ軍に対して反攻に出て、ルジェフの戦いで、ヴャジマへ向かって侵攻し始めた。ルジェフ周辺のみを残して、ソ連軍は前線を西へ押し返して、さらに残存したドイツ軍の突出部に対して再度攻撃が行われた。激しい戦いで、ルジェフの建物は全て消滅して、その人口の6分の1以上がドイツに送られて強制労働を強要された。その他の市民の約9,000人は射殺され拷問を受けた。ルジェフ中心に設置された強制収容所で飢えて死んだ。

 ドイツ軍の武装親衛隊(SS)兵士は、苛酷で無慈悲な思想で能弁な政治思想から、隔絶された永劫の時が流れた。ヒトラー総統への忠誠と祖国必勝の信念に突き動かされて、武装SS部隊は、ロシアの侵攻にて沼沢地、森林を遮二無二に侵攻した。英雄的行為と犠牲に、身の毛のよだつ戦場物語が記録された。武装親衛隊は第ニ次世界大戦の膨大な記録の中に、自らの居場所を獲得した。南方、中央、北方軍集団のいずれの戦区でも、ソ連軍が最初の痛手から立ち直り死守した地点で、ソ連軍の反撃によりドイツ軍戦線に穴が穿たれた地点で、武装親衛隊SSに出動命令が下された。

 武装親衛隊SSは、ドイツ全軍の先頭に立った。ドニエプル河に橋頭堡を獲得し、ソ連軍のクリミア防御をペレコプで打ち破り、タガンロクを襲ってロストフへと侵攻した。武装親衛隊は、ソ連軍を追ってアゾフ海の岸辺へと達した。ボロジノの南で、ソ連軍のモスクワ防衛線を突破して、首都ワルシャワまであと数kmの地点まで進撃した。1941年末にソ連軍が初めて、大反撃を発起した時点には、武装親衛隊SSは戦史に類を見ない奮戦ぶりを示した。ソ連軍の猛射に耐え、殺到する戦車と歩兵集団の攻撃をも跳ね返した。武装親衛隊SSはドイツ東部軍の火消し役という武力を発揮した。




2023年7月26日水曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、日本軍守備隊はアメリカ軍の水際撃滅を狙って、やっと木陰にたどり着いた2人のアメリカ軍海兵隊員も、日本軍に狙撃されて射殺された。

太平洋戦争においてペリリュー島の戦いにて、日本軍守備隊は、オレンジ海岸のアメリカ軍の水際撃滅を狙った。アメリカ軍を水際撃滅を狙って、日本軍は可及的に引きつけて爆撃するように命じられた。この2人の海兵隊員も、やっと木陰にたどり着いた地点で、日本軍に狙撃されて射殺された。椰子の木の陰に隠れていたアメリカ軍兵士は、両手で拳銃を持ち上げ、 狙いをつけようともがいた。日本軍兵士は、次から次へと倒しに、海岸へ突撃した。海岸では敵味方入り乱れての白兵戦が展開中された。軽機関銃や小銃で、狙いを定める余裕もなく、敵味方もただ引き金を引いた。

 アメリカ軍は、1944年9月15日午前8時に、ペリリュー島に上陸した。アメリカ軍兵士が、艦砲射撃に援護された上陸用舟艇や水陸両用戦車が、海岸に上がってきた。海岸にたどりついたアメリカ軍米海兵隊員たちは、予想を裏切られて、 日本軍の猛反撃に遭った。たのみの水陸両用戦車は炎上し、やむなく海岸に乗り上げた上陸用舟艇の陰に隠れた。

 至近距離で撃ち合いだけでなく、手榴弾の投げ合いとなった。海岸に上陸はしたが、日本軍の重砲火で進撃は困難となった。砲爆撃で椰子の木は全部倒されて、敵陣も不明で殺したり殺されたりの白兵戦となり、弾がつづくかぎり撃ちまくった。

 アメリカ軍の前線の第1線には、は黒人兵が多かく、かなりの黒人兵士が戦死した死体が散乱した。ペリリュー島に南洋特有のスコールが通り過ぎ、もうもうたる硝煙と火薬の異臭が洗い流された海岸線には、敵味方の死体が累々と陽に焼かれ、白波に洗われていた。死体の数は明らかにアメリカ軍兵士の迷彩服の方が多かった。アメリカ軍は、ペリリュー島の第1次上陸作戦で、上陸用舟艇約60余隻、シャーマン戦車約3輌、水陸両用戦車約26輌を損失して、約1,000人以上の死傷者を出し、午前8時すぎに、一時的な撤退のやむなきに至った。

 コンクリートで築いたり、珊瑚礁で、日本軍の防空壕や砲座が海岸のいたるところにあり、海にも陸にも機雷や地雷をギッシリと敷設した。交叉した道路には、対戦車砲と自動火器で厳重に防備した。突然と、横にいた兵士が動かなくなり、少し前まで喋っていた兵士が、もう誰が誰かわからない。砂の中に頭を埋め、足を高くして頭を低くしないとタマがよけられず、ペリリュー島の攻略はまったく地獄戦となった。

 ペリリュー島の戦いは、激烈をきわめたアメリカ軍は、ペリリュー島の占領後、上陸点の西海岸 (西浜)を、オレンジ・ビーチと名付けた。両軍兵士の血で白い珊瑚の海面がオレンジ色になってしまったからだ。オレンジ・ビーチは、いまやペリリュー島では正式名称化した。ペリリューの作戦はアメリカ軍は3日間で終了すると公言したが、11月27日に終結した。アメリカ軍は、戦死者約2,236人、戦傷者約8,450人、戦病者は約2,500人と日本軍は、戦死者約10,022人、戦傷者は約446人の犠牲を伴った。





















2023年7月26日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年7月25日火曜日

1943年1月26日に、ニコライエフカ村でソ連軍の包囲網を突破するための攻勢戦により、負傷した多数のドイツ軍兵士が、雪の吹きだまりに置き去りされて凍死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ニコライエフカの戦いは、1943年1月にイタリア軍がスターリングラードの戦いを巡る攻防で起こった包囲突破である。ニコライエフカ村(現ロシア・ベルゴロド州リヴェンカ)付近で、イタリア第8軍のアルピーニ(山岳)軍団がソ連軍の包囲突破した。1943年1月26日に、ニコライエフカ村でソ連軍の包囲網を突破するための攻勢戦により、負傷した多数のドイツ軍兵士が、雪の吹きだまりに置き去りされて凍死した。凍結した死体は、積雪の戦場に放置されて道路の砂利となった。ソ連軍女性カメラマンのガリーナ・サンコー(Galina Sanko)が撮影して、『レニングラード,1942年』に掲載された。

 1942年12月16日、ソ連軍はイタリア第8軍を狙って小土星作戦を開始した。ソ連軍は、ドン川沿いに強行渡河してイタリア第8軍を包囲して、コーカサスで戦っているドイツ軍A軍集団と断ち切った。12月16日、ソ連軍がイタリア第8軍を攻撃して、瞬く間に壊滅した。ソ連軍は黒海に急速に南下した。

 イタリア軍のアルピーニ軍団は、右翼のソ連軍からの攻勢を受けなかった。1943年1月13日に、ソ連軍は土星作戦で、イタリア軍の北西でドン河畔のスヴォボダ付近でハンガリー2軍を攻撃し、包囲し、撃破した。アルピーニ左翼のドイツ軍の残存部隊を押し戻し、イタリア軍アルペン軍団を包囲した。1月17日夜、イタリア軍のアルペン軍団は完全撤退を命じられた。戦闘作戦を遂行できるのはトリデンチーナ師団だけだった。イタリア軍のアルピーニ軍団とドイツ軍とハンガリー軍を加えた約4万人の集団は、わずかなドイツ軍装甲車の支援を受けながら、西方の枢軸側戦線へ向かった。

 1月26日朝、トリデンチナ師団はニコラエフカ村に到達し、ソ連軍が両側の鉄道堤防を要塞化した。午前9時30分に、イタリア軍のアルペン軍団とドイツ軍が攻撃を開始した。正午までにイタリア軍はニコラエフカ村の郊外に到達した。日没までに、イタリア軍のアルペン軍団は、強化されたソ連軍の戦線を突破するのに苦闘した。イタリア軍は、人海戦術でソ連軍の陣地を攻撃して、ソ連軍の戦線を突破した。イタリア軍の生き残り部隊はソ連軍の包囲突破して、戦闘地域から撤退できた。

 2月1日に、イタリア軍のアルピー軍団の残党は枢軸軍の戦線に帰還した。クネンセ師団は壊滅し、ジュリア師団の10分の1(約15,000人の兵力のうち約1,200人)のみが生き残り、トリデンチーナ師団の3分の1(約15,000人の兵力のうち約4,250人)のみが生き残った。ソ連軍の攻撃開始時に約10,466人を数えたヴィチェンツァ師団は、約7,760人が戦死または行方不明となった。合計すると、イタリアのアルペン軍団は戦闘開始時に約57,000人の兵士のうち34,170人が戦死し、9,400人が負傷した。ソ連軍の死傷者は約1,000人であった。




2023年7月24日月曜日

1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。

1903年に勃発したマケドニア国粋主義者によるイリンデン蜂起を鎮圧したオスマン・トルコ軍は、斬首により殺害した反乱軍の首を手前に自慢のポーズをとった。オスマン帝国の支配下にあったマケドニアの解放のためにたゆまぬ戦いを続けた。中世ヨーロッパでは斬首は高く評価された。貴族にのみ首を切り落とされ、農民や職人は絞首刑や溺死した。20世紀になり、西洋文明によって斬首が非人道的で野蛮と認識された。現在、死刑の斬首は、中東諸国のカタール、サウジアラビア、イエメン、イランでのみ執行された。

 1903年8月に、イリンデン・プレオブラジェニエ蜂起が勃発した。約26,408人の反乱軍が、約35万人のトルコ正規軍と非正規軍を相手に生死をかけた戦いを繰り広げた。約3ヶ月の抵抗の後、蜂起は血に染まって鎮圧された。反乱軍は約994人が戦死傷して、民間人が約4,694人が死亡した。オスマン・トルコ軍は、約5,328人が戦死傷した。 

 19世紀にオスマン帝国の力が低下すると民族主義的思想が普及し、バルカン半島全体に動揺をもたらした。ギリシャ人、ブルガリア人、セルビア人などが独自の学校を設立し、言語を基にして民族性を築いた。ブルガリア正教とセルビア正教がギリシャ正教から独立した。バルカン半島のスラヴ人がギリシャ語でなくスラヴ語で説教をする教会に行けた。バルカン半島では国籍の概念が浮上し始めた。19世紀の蜂起と戦争の結果、ギリシャ王国、セルビア王国とブルガリア王国がオスマン帝国から独立した。マケドニア地方はオスマン帝国の領土内に留まった。

 1893年にオスマン帝国のマケドニア地方に住むスラヴ系の革命家が、マケドニア地方と住民の独立を目指した政治的革命組織である内部マケドニア革命組織(VMRO)を設立した。VMROは民族や宗教に関係なく、マケドニア地域の住民であれば誰でも参加できたが、主にブルガリア人で構成された。VMROが設立され、言語や宗教的な区分を基に成立したブルガリア人やギリシャ人という民族性とは別に、新たなマケドニア人という民族性が築かれた。

 VMROは1903年にオスマン帝国に対する大規模な蜂起を起こした。イリンデン蜂起と呼ばれた。イリンデン蜂起は、マケドニア地方全体に広まった。オスマン軍によって瞬く間に鎮圧された。VMROは、マケドニアの独立を主張し続けるグループと、ブルガリアの首都ソフィアを拠点としてブルガリアへの併合を目指す、より過激なグループに分かれた。

 1910年代に、バルカン半島は第一次世界大戦を含む戦争に巻き込まれた。オスマン帝国は崩壊して、現代のトルコ共和国の領土以外を失って、バルカン半島一帯に大きな変化をもたらした。1918年には、中央ヨーロッパを支配したオーストリア=ハンガリー帝国の解体に伴って、主にスラヴ人が居住するオスマン帝国の南端部は、セルビア王国と一体化して、ユーゴスラビア王国が成立した。オスマン帝国の崩壊に伴ってマケドニア地方は分割され、現代の北マケドニア共和国の領土がユーゴスラビアの一部、マケドニア地方の南部はギリシャの一部、北西部はブルガリアの一部となった。ユーゴスラビアの下で、マケドニア地域の領土は南セルビアと改称され、言語はセルビア語の方言と見なされた。

 第二次世界大戦後1946年に、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国を構成する6つの国家の一つとして、マケドニア社会主義共和国が現代の北マケドニア共和国にあたる領土で設立された。セルビア、ブルガリア、ギリシャの教会とは別にマケドニア正教の教会も設立された。新しい国での民族意識が作られ、ギリシャとブルガリアの領土に当たったマケドニア地方の住民は、徐々にそれぞれの国民と同化した。




2023年7月23日日曜日

ウクライナ軍に解放されたドネツク州ストロジェヴェ村への野原や道端には、破壊されたロシア軍の戦車の近隣に搭乗員の死体と燃えた装甲車が散乱していた。

ウクライナ軍は2023年6月12日に、2022年3月からロシアの占領下にあったドネツク州ストロジェボエ(Storozheve)村の解放を発表した。ウクライナ軍に解放されたストロジェヴェ村への野原や道端には、破壊されたロシア軍の戦車の近隣に搭乗員の死体と燃えた装甲車が散乱していた。ウクライナ軍の報告によると、解放の掃討の際に約50人のロシア軍兵士が戦死して、4人が捕虜になったと。ストロジェヴェ村自体には、砲撃によって損壊した家屋が見られる。












Warning: The body of a Russian soldier is seen near a destroyed Russian tank near the front line in the newly liberated village Storozheve in Donetsk region, Ukraine, June 14, 2023. (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)

 ウクライナ軍の反撃の開始日は、ロシア郡は6月4日に大規模な攻撃を阻止したと主張し、ウクライナの反撃の開始日とみなした。6月5日、ウクライナ国防副大臣は、ウクライナ軍がいくつかの方向で攻撃的行動を行ったと述べた。アメリカの戦争研究所は、ウクライナ軍が6月4日から広範な反撃を開始したと公表した。6月6日には、ヘルソン州のドニプロ川にあるカホウカダムが決壊した。

 イギリスBBCとロシアの独立系メディアMediazonaのプロジェクトによると、ウクライナとの戦争で約25,528人のロシア軍兵士の死亡を確認した。そのうち約2,498人が動員されていた。犠牲者の中には、ロシア軍やその他の法執行機関に所属する約2,150人以上の将校が含まれた。約161人の軍用パイロットの死亡も確認された。イギリスBBCとロシアMediazonaの共同プロジェクトは、2023年6月16日に公表した。文書、親族からのメッセージ、墓のデータなど、公開された情報源によって確認された死亡者のみが分析された。ロシア国防省は、人的損失に関するデータを公表しておらず、ジャーナリストが報告した数字もコメントしていない。

 死傷者の中で最も多いのは囚人であると指摘した。クラスノダール(Krasnodar)・クライ地方、スヴェルドロフスク(Sverdlovsk)地方、チェリャビンスク(Chelyabinsk)地方、バシキリア(Bashkiria)地方、ブリヤート(Buryatia)地方、ヴォルゴグラード(Volgograd)地方から出身者の死者が最も多かった。

 2023年6月14日に、ウクライナのドネツク州で新たに解放されたストロジェヴェ村の前線近くにあるロシア兵の死体を検証した(REUTERS/Oleksandr Ratushniak)。ストロジェヴェ村は、モクリ・ヤリ川近くの集落の一つで、ロシア軍兵士の死体の一部は、近隣の畑の湿地帯に放置されていた。














Warning: The body of a Russian soldier is seen near the front line in the newly liberated village Storozheve in Donetsk region, Ukraine, June 14, 2023. (REUTERS/Oleksandr Ratushniak)

2023年7月22日土曜日

大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂した。8月9日当日に、長崎県大村町の大村海軍病院には、約758人の被爆者が収容された。その後は、長崎市内の救護所からの被爆者を合わせると、千数百人の被爆者を収容した。大村海軍病院の病室に収容されてベット上で横たわった幼い長崎原子爆弾の被爆者の弟を、もんぺ姿の姉が見舞った。弟は、顔面ならびに前腕に長崎原子爆弾による火傷を受傷していた。 

 太平洋戦争中に、長崎県全体が海軍の基地になっていた。長崎市は軍需工場があり、佐世保市には海軍佐世保鎮守府があり、大村市には海軍航空隊があった。そして、戦地で戦傷した日本軍兵士を収容していたのが大村海軍病院であった。佐世保鎮守府に近い平坦地で、長崎県東彼杵郡大村町(現・大村市)の海岸に滑走路を設置し、大陸に最も近い航空基地として、大村海軍航空隊が設置された。

 戦時災害保護法で、救護所の開設の期間は、2カ月間以内と定められていた。10月中旬頃から、長崎市内の各地の救護所が閉鎖となった。長崎駅まで運ばれて、汽車に乗せられた被爆者が、長崎原子爆弾の投下直後から被爆者収容の拠点になっていた大村海軍病院に搬送された。長崎県東彼杵郡大村町久原の小高い丘に立つ大村海軍病院は、千数百人規模の被爆者を救護した。

 1945年8月9日に、長崎市への原子爆弾投下に伴って約758人ほどの被爆者が大村海軍病院に収容された。終戦直後から治療を担当した医師らが避難した。残った医師も業務障害状態となったため、8月末で約450人の重症被爆者を退院させた。10月時点の入院患者は約2000人収容の病院に、約3人のみの状況となった。当時、長崎原子爆弾の被害が及んだ長崎医科大学 (旧制)は、大村海軍病院へ教室を移転した。大村海軍病院を医大に転用するように佐世保鎮守府に対し要請を行った。「目下の日本の情勢では大学教育を必要としない」「南方から引き揚げてくる傷痍軍人の病院として残さねばならない」として却下された。1945年12月に、厚生省へ移管されて、厚生省所管の国立病院化により、国立大村病院となった。2001年4月に、現在の国立病院機構長崎医療センターに名称変更となった。



2023年7月21日金曜日

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年2月25日の戦闘で、切り裂く日本軍の機関銃の中を、アメリカ軍兵士は低い姿勢で前進して、1時間前の攻撃で殺害された日本軍兵士の死体が、地面に横たわった。

太平洋戦争の硫黄島の戦いにて、1945年2月25日に硫黄島での戦闘の最中に、日本軍の機関銃の弾丸が、アメリカ軍兵士の頭上の木々を切り裂いた。その中を、ライフル銃を所持しながらアメリカ軍兵士は低い姿勢で前進した。その1時間前に、アメリカ軍海兵隊の前進による攻撃で、殺害されて死亡した日本軍兵士の死体が、硫黄島の地面に横たわっていた。太平洋戦争で硫黄島は日本軍は最も強固な防御をして、アメリカ軍と日本軍ともに約2万数千人の兵士が死傷して倒れた。

  同日の2月25日には硫黄島の戦闘の最中に、アメリカ軍海兵隊戦闘工兵士は、硫黄島で日本軍の防御陣地を爆破する砲弾を放った。多くの日本軍の防御陣地は、日本軍兵士が塹壕に戻って、アメリカ軍海兵隊の側面に砲撃を加えていた。

  アメリカ軍第3海兵隊は2月24日に上陸して、硫黄島北部の台地の比較的平坦な中央部を侵攻した。硫黄島の台地の砂岩は、風雨と火山の隆起によって破壊された。2月25日9時30分頃から、海兵隊の攻撃が開始され、日本軍の主防衛線に殴り込みをかけた。海兵隊の砲弾が発射された。火炎放射戦車は、防弾坑道で日本軍兵士を焼却した。絶え間ない攻撃が、ついに日本軍の戦線に亀裂を入れた。2月26日、摺鉢山の北方で野戦砲と対戦車陣地であった382高地で、日本軍の防御陣地を攻撃した。2月27日夜に、第2飛行場北側の双子の丘を制圧した。2月28日午後に、本山村の廃墟を制圧し、第3飛行場を支配する丘を占領した。3月1日に382高地を必死に奮闘して奪還した。

 硫黄島の戦いの犠牲者は、アメリカ軍は約2万1千人の死傷者、護衛空母1隻沈没、船舶30隻大破、戦闘機約168機が損害を受けた。日本軍側は、守備隊全員の約2万3千人が全滅して玉砕した。




2023年7月20日木曜日

バストーニュ包囲戦にてドイツ軍兵士は究極の犠牲を払って、膨大な兵士の死体が戦場に散乱した。ドイツ軍は、包囲したバストーニュのアメリカ軍防衛網を突破できなかった。

第ニ次世界大戦の西部戦線の最終戦にて、初雪が降った1944年12月20日に、バルジの戦いで重要な戦闘であるベルギー南部のバストーニュ包囲戦が勃発した。ドイツ軍の大砲が、バストーニュを砲撃して、周辺の森林も標的にした。アメリカ軍の落下傘部隊が、森林に潜伏していた。空挺師団が包囲され、逃げ場を失って、ドイツ軍はアメリカ軍の補給を断ち切った。ドイツ軍兵士は究極の犠牲を払って、膨大な兵士の死体が雪上の戦場に散乱した。ドイツ軍は、包囲したバストーニュのアメリカ軍の防衛網を突破できなかった。

 12月21日に、降雪が状況をさらに困難にした。ドイツ軍の戦車は前進できず、バストーニュへの砲撃を続けた。アメリカ軍兵士は、壁が氷で覆われた壕の中で苦闘した。暖をとる術もなく、多くのアメリカ軍兵士が病気や凍傷になった。しかし、アメリカ軍の第101空挺師団は、ドイツ軍の猛攻を撃退し続けて、偵察や戦闘パトロールまで送り出した。

 ドイツ軍の現地司令部は、アルデンヌの森からの撤退を求めた。ヒトラーは予備役の継続起用を命じた。ドイツ軍は、バストーニュ攻防戦では危機的な状況が続いた。バストーニュでは、状況は依然として危機的で、度重なる攻撃でドイツ防衛軍は後退を余儀なくされた。12月22日、ドイツ軍のリュットヴィッツ将軍は白旗を掲げて、包囲された守備隊に名誉ある条件での降伏を要求した。アメリカ軍のアンソニー・マコーリフ将軍からは"NUTS!(地獄に落ちろ)"と、伝説的な返答をした。12月23日に、期待された好天が訪れて、最初の物資を空輸でき、連合軍はドイツ軍の陣地に多くの空襲を加えた。状況は絶望的なままに、12月24日のクリスマスまでに、境界線は26kmに縮小された。

 ドイツ軍はわずかな増援と補給を受けただけで、連合軍の空軍にますます打ちのめされた。12月24日クリスマス当日に、ドイツ軍はあらゆる手を尽くしたが、到着して間もない戦車は大きな損害を被り、防衛線を突破できなかった。アメリカ軍第3軍第4装甲師団が南から進撃し、12月26日午後4時45分に守備隊に合流して、ドイツ軍の包囲網は破られた。1944年の厳冬期、人口4,000人で7本の道路が連結するバストーニュをめぐる攻防戦で、アメリカ軍は約3,000人以上の死傷者、ドイツ軍の犠牲は不明である。




2023年7月19日水曜日

ベトナム戦争にて、47歳女性の戦争写真家であったディッキー・シャペルは、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、1965年11月4日に爆発した地雷によって死亡した。

ベトナム戦争にて、47歳の戦争写真家であったディッキー・シャペル(Dickey Chapelle)は、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、爆発した地雷によって死亡した。1965年11月4日に、チューライ基地近くで、南ベトナム解放戦線のベトコンの地雷が炸裂して、その破片が身体を射殺した。彼女はベトナム戦争で殉職した最初のアメリカ人女性特派員となった。「私が死ぬときは、アメリカ海兵隊のパトロール中でありたい」と彼女は語っていた。彼女の最期の死亡は、"起こるべくして起こった "と伝えらた。




 ディッキー・シャペルは、1965年11月4日午前8時頃にクアンガイ省チューライの南16kmで海兵隊小隊とパトロール中のブラックフェレット作戦中に戦死した。海兵隊によるチュウライ近郊での捜索・殲滅作戦であった。シャペルの頸部に破片を受けて、頸動脈を切断して、間もなく死亡した。彼女の最期の瞬間はアンリ・ユエ(Henri Huet)の写真に収められた。彼女の死体は6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに送還されて、海兵隊により丁重な埋葬が行われた。海兵隊は彼女に軍務上の栄誉を与えた。

 ディッキー・シャペルは、太平洋戦争の硫黄島の戦いの写真を撮った。米海兵隊のウィリアム・フェントン(William Fenton)伍長は、硫黄島の浜辺のすぐ近くに停泊していたUSSサマリタン病院船の中で、重傷を負って担架に横たわり、治療を待っていた。シャペルは、551人の重傷の海兵隊員がその船に乗船し、彼らの命を救おうとしたと説明している。硫黄島は第二次世界大戦中、最も激戦となった戦いのひとつで、海兵隊の死者6,821人、負傷者19,217人、日本軍は死者約21,000人、捕虜はわずか216人だった。



 ディッキー・シャペルは、第二次世界大戦にて女性戦場特派員の創世記の一人である。シャペルは、病院船から沖縄の無人島に向かい、大規模な攻撃で負傷者を救助する海兵隊員たちを取材した。海軍は喜ばず、彼女は銃を突きつけられて沖縄戦争から追い出された。戦争写真は手に入れて、そのうちの2枚は、沖縄の野戦病院で、14パイントの輸血を受ける前と後のジョニー・フッド(Johnny Hood)海兵隊員の写真で、血の川の献血に拍車をかけた。

 

2023年7月18日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月19日に亀甲墓に手榴弾を投げ込み、隠れた日本軍兵士が飛び出すと、取り囲んだアメリカ軍兵士が、狙い撃ちに射撃して殺害した。

太平洋戦争の沖縄戦にて、1945年4月19日に亀甲墓の中に手榴弾を投げ込み、隠れた日本軍兵士が飛び出してくると、取り囲んだアメリカ軍兵士が、一斉に狙い撃ちにして射撃して殺害した。墓の入口に、日本軍兵士の死体が散乱した。アメリカ軍は、シラミつぶしの如くに、抵抗する日本軍兵士を掃討して排除した。多数存在した天然の洞穴や、沖縄独特の墓である亀甲墓が、堅牢な構造からトーチカに使われ日本軍陣地の一部となった。亀甲墓はアメリカ軍の攻撃対象となり、避難した兵士や住民が、艦砲射撃から手榴弾や火炎放射器によって殺害された。4月19日に、アメリカ軍3個師団が、日本軍の戦線を突撃したが、大混乱に終わった。日本軍は那覇市牧志の急斜面で反撃を開始し、比較的露出していた低地に大砲と迫撃砲の雨を降らせた。

 アメリカ軍兵士が、沖縄のトーチカの亀甲墓に手榴弾を投げ込む間に、取り囲んだアメリカ軍兵士は、ライフル銃を持って射殺を待機した。射殺されて死んだ日本軍兵士の死体も散見された。アメリカ軍が日本軍の墓のトーチカを一掃した。アメリカ軍兵士が、手榴弾を残骸に投げ込んだ。取り囲むアメリカ軍兵は、ライフル銃を持って警備した。沖縄では、日本軍が墓をトーチカとして使用した。日本軍兵士の死体が、厚いコンクリートで作られた墓の前に横たわった。

 沖縄の地形は、日本軍に有利だった。稜線と断崖絶壁の地形は、戦場を小規模で悪質な銃撃戦の連続に変えた。日本軍は、密生していない植物にて、アメリカ軍に偵察できた。稜線に散在する洞窟やコンクリートで固められた沖縄の亀甲墓から、日本軍は連動した強烈で激しい小火器射撃を可能にした。日本軍の大砲は、丘や稜線の側面に隠蔽した多数の砲撃によって、攻撃してくるアメリカ軍に照準を合わせた。

 アメリカ軍は、襲撃する日本軍と激しい肉弾戦が勃発した。戦場には日本軍兵士の死体が散乱した。日本軍兵士の胸に戦闘ナイフを突き刺されたり、銃剣で内臓を摘出された。アメリカ軍の手榴弾を浴び、あるいはライフル銃や機関銃の弾丸で銃口が開けられた。

 沖縄戦は3カ月近く繰り広げられ、戦争中最悪の神風攻撃もあった。1945年6月22日、沖縄がアメリカ軍によって占領された。アメリカ軍は約1万2,500人以上の死者・行方不明者を含む約4万9000人以上の死傷者を出した。沖縄戦に巻き込まれた沖縄県民の被害は甚大で、約15万人もの民間人が犠牲と推定された。沖縄島を防御した日本軍兵士のうち、推定約11万人が死亡した。




2023年7月17日月曜日

第一次世界大戦の青島包囲戦にて、日本軍兵士が1914年10月1日に、中国山東省の青島包囲戦で、ドイツ軍に殺害された同志の日本軍兵士の死体の側でひざまずいた。

第一次世界大戦の青島包囲戦にて、日本軍兵士が1914年10月1日に、中国山東省の青島包囲戦で、ドイツ軍に殺害された同志の日本軍兵士の死体の側でひざまずいた。仰向けに倒れた日本軍兵士の死体の側で見守った。1914年秋に、イギリス軍は中国の青島で日本軍とともに戦った。目標は青島のドイツ海軍基地で、約4,000人が駐留した。2ヶ月の包囲の後に、11月にようやく青島は陥落した。犠牲となった日本軍兵士の死者は約733人、戦傷者は約1,282人であった。イギリス軍は死者は約12人、戦傷者は約53人であった。ドイツ軍は、死者は約199人、戦傷者は約504人に及んだ。

 ヨーロッパの西部戦線と東部戦線で戦闘が繰り広げられる一方で、連合軍とドイツ軍との間では、小規模な戦闘が世界各地で勃発した。極東では、連合国は中国の青島にあるドイツの海軍基地を侵略した。イギリスは長い間、中国におけるドイツの存在を、イギリスの利益に対する脅威とみなした。1902年以来、日本と同盟を結んで、日本はアジア大陸に領土的野心を持っていた。

 日本軍は開戦前から、青島を包囲する準備を整えていた。1914年8月15日に、ドイツに最後通告して、ドイツは中国と日本の領海から軍艦を撤退させ、青島を引き渡すよう要求した。拒否されて、1914年8月23日、日本はドイツに宣戦布告した。8月27日から、140門以上の大砲で武装した約2万人の日本軍が青島に上陸し、軍艦とともに港への砲撃を開始した。9月2日に、日本軍は、9月2日に山東半島北岸の龍口から上陸した。イギリスは、中国北部の天津を守備した海軍部隊と約1,500人のイギリス軍兵士の派遣を決定し、青島港の周辺で日本軍と合流した。日本軍は、艦船からの初の航空攻撃、初の夜間空襲により青島港の包囲戦をした。重榴弾砲でドイツ軍を弱体化しながら、塹壕を徐々に侵攻した。ドイツ軍は約2カ月も持久戦して、11月7日に降伏した。その3日後に青島港を引き渡して、日本軍が占領した。

 好機到来とばかり参戦した日本は、ドイツの租借地である青島を占領した。山東半島をおさえると、5項目二十一か条の要求を中国の袁世凱大総統に手わたした。山東省のドイツの権益を日本にゆずる、旅順・大連、満鉄の権益期限を99か年延長、内モンゴルの権益要求、中国政府に日本人顧問をおくなどである。交渉25回、袁世凱は日本の圧力に屈した。中国民衆は憤激し、要求受け入れの日を「国恥記念日」とよび、日本製品の不買運動を起こした。




2023年7月16日日曜日

ロシア軍兵士の戦死者数に関する統計分析によると、2022年2月から2023年5月までに約5万人近いロシア軍兵士のロシア人男性が、ウクライナとの戦争で死亡した。

ロシア軍兵士の戦死者数に関する統計分析によると、約5万人近いロシア軍兵士のロシア人男性が、ウクライナとの戦争で死亡した。2022年3月27日に、ウクライナの首都キエフ郊外のシトニキーで、ウクライナ軍との戦闘中に死亡したロシア軍兵士の死体が、トウモロコシ畑に横たわった。




















Warning: A Russia soldier killed during combats against Ukrainian army lay on a corn field in Sysnyaky, on the outskirts of Kyiv, Ukraine, March, 26,2022. (AP Photo/ Rodrigo Abd, file)

    ロシアの2つの独立系メディアであるメディアゾナ(Mediazona)とメドゥーザ(Meduza)は、ドイツのチュービンゲン大学と戦死者数の共同研究した。ロシア政府のデータを使用して、最も極秘にしたウクライナ侵攻のロシア軍兵士の死者数を統計的推測をした。COVID-19のパンデミック感染で流行した過剰死亡率の統計的手法に準拠した。相続記録と公的な死亡率データから、2022年2月から2023年5月まで約50歳未満の男性が通常期より多く死亡を推定した。

 ロシア軍もウクライナ軍も、軍事的死者数は極秘にしている。敵側の死者数を増幅させて喧伝した。ロシア軍は、約6000人強のロシア軍兵士の死亡数のみ公式に認めた。軍事的死者数の報道は検閲と抑圧された。死者数を公表することは、反国的な行為で、刑事責任に直面した。

 メディアゾナとメドゥーザが、ロシアのネットワークと協力し、SNS投稿やロシア全土の墓地の写真を使って、戦死者のデータベースを構築した。2023年7月7日現在で、約27,423人のロシア軍兵士の死亡を確認した。ロシア政府が執拗に隠蔽した戦死者数を推計した。メディアゾナとメドゥーザは、ロシア当局に提出された相続案件の記録を入手した。全国検認簿には、2014年から2023年5月までに、死亡した1100万人以上の情報が含まれた。2022年に15歳から49歳の男性の相続案件が、予想より約25,000件多く発生した。2023年5月27日までに、超過件数は約47,000件に急増した。

 2022年12月以来にウクライナで、約2万人以上のロシア軍兵士が殺害されたとアメリカ当局の5月の評価とほぼ一致していた。ロシア軍人全体の死者数は、アメリカとイギリスの情報機関の戦死者数よりは低い。イギリス国防省は2023年2月に、約4万人から6万人のロシア人が戦死したと推計した。アメリカ国防情報局は、開戦1年目に戦死したロシア人の数は約35,000人から約43,000人と推計した。イギリス国防省は、7月10日にロシア軍による多くの死傷者(切断も含む)は、約17ヶ月間に、1日平均約400人の死傷者を出した。

 ロシアの公的統計機関であるロススタットから2022年の年齢別・性別の死亡率データを入手した。2022年に死亡した50歳未満の男性は予想より2万4千人多く、相続データ分析と一致している。行方不明は、公式には死亡と認定されないロシア人や、自称ドネツク共和国やルハンスク共和国の部隊で戦っているウクライナ国民は、数に含まれてない。不確実性は数千分の1で、推計結果は全体的に妥当である。

 7月10日にAP通信からメドゥーザとメディアゾナの調査について質問されたクレムリンのドミトリー・ペスコフ報道官は、研究での死亡者数にコメントを拒否し、ロシア国防省のみ特権を持っている。メドゥーザはロシアの独立系メディアで、ラトビアのリガに本部を置いて、約8年前から亡命して活動している。2021年4月、ロシア当局はメドゥーザを 外国代理人に指定し、広告収入を困難にした。2023年1月、ロシア政府はメドゥーザを違法な組織として追放した。ロシア当局は、ウクライナに全面侵攻した後に、独立系メディアゾナをウェブサイトをブロックした。

   ウクライナのドネツク州スヴィアトヒルスクで、戦闘で死亡したロシア軍兵士の死体は、ロシア軍が遺棄して死体と遺骨化した。ウクライナの捜索隊が、ウクライナ軍とロシア軍の死体と遺骨から身元を探索した。













Warning: The Remains of one of the Russian soldiers killed in battles and abondoned by Russian troops in Sviatohirsk, Ukraine, December 21, 2022. Volunteera of a Ukrainian search GRoup looed for the remains of Ukrainian and Russian servicemen to identified them.(AP photo/ Andrily Andriyenko, Files)

2023年7月15日土曜日

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。

原爆死没者の遺骨が、1971年10月から11月に、広島市似島の似島中学校農業実習地で7体分の遺骨が発掘されて、身内に供養された。本格的な発掘作業の結果、約600体分の遺骨と62点の遺品も見つかった。似島は戦時中に、海外からの兵士や軍馬の検疫所があった。原爆投下後により収容所となッタ。原爆で傷ついた被爆者約1万人近く運び込まれた。身元不明の死亡した被爆者は、一カ所に集めて千人塚に埋葬された。1955年に約2,000体の遺骨は、広島平和公園の戦災供養塔に移された。広島にまだどの程度の遺骨が潜在しているかは想定できず、現在も多くの遺族が身内の遺骨を探し求た。

 日清戦争開戦前の1894年9月15日に大本営が東京から広島に移った。明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,広島は臨時首都となった。全国から日本軍兵士が広島に集結して、宇品港から出兵して帰還した。似島が宇品港と対峙して近距離で、似島陸軍検疫所(第一検疫所)が1895年に創設された。1904年に,日露戦争が勃発すると,検疫数は日清戦争時の5倍に及び、第2検疫所(消毒所)が増設された。1日の処理能力は約8千人の死体の大規模検疫所になった。

 1944年夏頃から、海上挺進戦隊などの特攻訓練基地が設置された。ベニヤ板の小型舟艇を用いて教育訓練した。ドラム缶の爆雷を積んで敵艦に突撃する四式肉迫攻撃艇(マルレ)と半潜水攻撃艇(マルハセ)の海上特攻隊の教育訓練に,深浦地区や検疫所の一部が使用された。秘密部隊である陸軍船舶練習部の第十教育隊が似島で教育訓練した。

 1945年8月6日の原子爆弾の投下直後から、日本陸軍船舶司令部(通称「暁部隊」)が,重傷被爆者を手当する似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容しした。爆心地からの直線距離は一番近い島の北端で約8kmであった。8月6日は午前10時頃から広島市中で被爆した被爆者が船で似島に続々と運ばれた。常時に被爆者が運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等が、必死の収容,治療,看護業務を昼夜を問わず執行した。似島町の島民も、献身的な救護活動をした。収容者された被爆者数は約1万人余と推定された。証言や発掘された遺骨数から,搬送された被爆者のうち,約7割が死亡したと推計された。

 被爆者が死亡して、火葬が8月10日頃から開始された。死者の急増により,火葬する手間もなくなった。身元不明のまま多くの死体を、隣接する陸軍馬匹検疫所の構内の各所に土葬した。戦後にたびたびに,被爆者の遺骨が収容された。1945年9月に検疫所職員等が、馬匹検疫所構内に遺骨を集めて供養塔(千人塚)を建立した。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体は,平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。





2023年7月14日金曜日

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。母親の視線は、何かを警戒して、朝鮮戦争中の不安で緊迫しながら周囲を見渡した。北朝鮮から韓国までの数日間にわたり長距離の避難して、一人の幼い韓国人少女は、疲れ果てて栄養失調で、母親の足下に座り込んだ。疲れ果てた朝鮮人の娘は、もはや自らの体を支えることができずに意識を失った。朝鮮戦争から避難した母親は、荷物をたくさん抱えながらも、諦めずに朝鮮人の娘の名前を呼び続けながら、娘の体を引き起こした。

 アメリカ軍の従軍記者らは1950年9月17日に、韓国仁川月尾島に上陸した後に、平沢と五山でアメリカ第2装甲師団と第7歩兵師団に合流して、水原性を経てソウルに入る過程にて写真撮影をした。国際赤十字委員会(ICRC)の東アジア代表処を通じて入手した写真には、遠い道を去る避難民の苦しい姿と負傷者の治療現場、混乱の中で子どもを預かる親の悲惨な姿などが生々しく収められている。戦争写真を通じて戦争の惨状を直接見て、なぜ戦争がこの地から消えなければならず、なぜ平和の世界が来なければならないのかを感じる展示となった。

 朝鮮戦争は、ソ連の支援により軍事力を増強した北朝鮮軍が、1950年6月25日に38度線の全域から南侵して、勃発した。わずか3日間で、首都ソウルを占領した。アメリカ主導で、国連安全保障理事会で、国連軍が派遣された。国連軍が9月15日に仁川上陸作戦で、ソウルを奪還して、鴨緑江まで侵攻した。中国軍が朝鮮戦争に介入して、再び首都ソウルが略奪された。1953年7月27日に休戦協定で一次的に終結した。朝鮮戦争の避難民の総数は、約1,041万人で人口の半数に相当した。朝鮮戦争の犠牲者(戦死者と行方不明者)数は、韓国軍が約98万7000人、民間人約143万人で、北朝鮮軍は約92万6000人、民間人約200万人が犠牲となった。国連軍は約15万人と中国志願軍は約18万3000人、民間中国人が約72万人が犠牲となった。




2023年7月13日木曜日

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

第一次チェチェン紛争で、首都グロズヌイの路上で、チェチェン女性がロシア軍の射撃を受けて死亡した。ロシア軍が、チェチェン人女性を容赦なく射殺して虐殺した。飼い猫が、女性の血みどろの死体を側で見守った。

 第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日から1996年8月31日に、ソビエト連邦の崩壊後のロシアが、チェチェン独立運動の鎮圧する紛争であった。第一次紛争はロシア軍の屈辱的な敗北に終わり、チェチェンは壊滅的な打撃を受けた。人口約105万人のチェチェン共和国は、約4万人から約8万人が死亡、20万人が負傷し、数十万人が移民や難民となった。都市、町、村は消滅し、チェチェン市民は、ロシア軍とチェチェン反乱軍や武装派閥などによる広範な残虐行為にさらされた。グロズヌイのチェチェン系住民の大半は、家族と繋がる田舎に逃げ、主にロシア系民族は行き場を失い、市内に残された。

 第一次チェチェン紛争は、ソビエト連邦崩壊後の不安定な情勢から、少数派民族の民族共和国が独立を主張した。チェチェンでは、1943年と1944年にソ連がチェチェン人を中央アジアに大量に強制送還した。旧ソ連空軍大将のジョハル・ドゥダエフが権力を掌握し、1991年にチェチェン共和国の独立を宣言した。チェチェン政府が、1994年11月29日のエリツィン大統領の最後通告に従わず、ロシア軍はチェチェン奪還を命じられた。第一次チェチェン紛争は、1994年12月11日にロシア軍の空爆作戦で始まり、地域の町や都市が攻撃された。

 第一次紛争では、約25,000人のロシア軍が1994年12月11日にチェチェンへの三方面から侵攻した。ロシア軍は山岳や森林地帯で、チェチェン軍による待ち伏せや戦術的撤退に遭遇した。首都グロズヌイに到達するのに12月25日まで要した。ロシア軍はグロズヌイへ大晦日に悲惨な略を進めた。ロシア軍は市街に入るや否や壊滅して、約60時間で約2,000人が死傷した。ロシア軍部隊は撤退中に放棄された。

 ロシア軍は1995年1月に約40,000人を増強してグロズヌイへの再攻撃した。空爆と大砲でグロズヌイを地区ごとに組織的に破壊した。1月4日の砲撃開始後に、ロシア軍の侵攻は遅延した。チェチェン反乱軍が都市ゲリラ戦術で、小部隊が壕から出てロシア軍を待ち伏せ攻撃した。最後のチェチェン人戦闘員を都市から追い出すのに2月8日まで要した。約5週間の紛争中にグロズヌイだけで、約27,000人の民間人が死亡して、全市民の約6%に相当した。

 ロシア軍は、チェチェン全土で侵攻して、町や村を組織的に消滅した。1995年4月までにチェチェンの約90%がロシアの支配下に置かれた。征服した領域では、ロシア内務省MVD部隊が、反乱軍や反乱支持者の容疑のある村落の浄化作戦で、残虐行為が行われた。強制収容所が設置され、広範な虐待とともに、民間人が集団拘束された。 

 1995年6月、チェチェン共和国のテロリスト集団が、隣国ブディョンノフスクの病院を占拠し、約1,500人の人質をとった。病院を襲撃したロシア軍の試みは何度も失敗し、約150人の人質が犠牲になった。交渉によって停戦が合意されて、第一次紛争は終結した。チェチェンの反乱は1995年10月に停戦を終了させ、第二次反乱期を開始した。ロシア軍は、チェチェンゲリラ襲撃を受けて、ロシア軍の死傷者の大半はこの段階で発生した。ロシア軍は守勢に回ったため、重爆撃戦略を頻繁に利用できなくなった。強制収容所や浄化作戦は続いた。ロシアのメディアはソビエト崩壊後に紛争の悲惨な映像を流し、ロシアの世論を急速に戦争に反対させた。

 1996年8月6日、1,500人のチェチェン人戦闘員がグロズヌイに潜入し、約12,000人のロシア人守備隊に奇襲攻撃を仕掛けた、大胆なチェチェン人によるグロズヌイを襲撃した。ロシア軍部隊は孤立した集団に追い込まれ、チェチェン人の数は効果的な防御態勢を敷いた増援部隊によってすぐに増強された。ロシア軍の反撃が撃退された後、ロシア軍は市街を包囲し、8月19日にチェチェン人に対し、市街から退去する48時間の最後通告を与えた。閉じ込められた約30万人の市民が大パニックに陥った。8月20日に砲撃が開始され、逃げ惑う多くの市民を襲った。ロシア軍は1996年8月22日にチェチェンからの撤退を命じられ、痛烈な敗北を喫した。8月31日までに、正式にロシア軍が撤退して、チェチェンの事実上の独立を認めるハサヴ・ユルト協定が調印された。





2023年7月12日水曜日

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュにより首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュによりカンボジアの首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。4月17日に、クメール・ルージュは勝利を収めて首都プノンペンに入城した。数時間以内にカンボジアを、国家への奉仕する農村社会に変革して崩壊させた。住民約200万人を田舎へ強制退避させる命令を下した。在留した外国人がタイ国境に追放されて、民主カンプチアにおける大量虐殺の目撃者を失った。1975年から1979年の間の犠牲者のうち約50万人から約150万人は、クメール・ルージュが引き起こした強制労働と飢餓が死因となった。

 1968年1月にニクソンがアメリカ大統領に就任したとき、ベトナム戦争から名誉ある終結を公約した。北ベトナムからの軍隊や物資が、カンボジアを経由して南ベトナムに流入していた。北ベトナム軍に対抗するために、ニクソンは前任のリンドン・ジョンソン大統領が始めたカンボジア空爆作戦を劇的に拡大させた。1969年3月に、ニクソンは北ベトナムの補給路を寸断するため、カンボジア東部で大規模な爆撃作戦をアメリカ空軍に密命した。1970年4月に、アメリカ軍と南ベトナムの地上軍がカンボジア東部に侵攻して、共産主義者の聖域を攻撃した。一方、北ベトナム軍はカンボジアの奥深くへと侵入して、クメール・ルージュのために農村の大部分を占領し始めた。ニクソンはその後に、北ベトナム軍の補給路を断つため、カンボジアへの地上侵攻を開始した。

 カンボジアはベトナム戦争の当事者ではなかったが、アメリカ軍のカンボジア爆撃は、第二次世界大戦中にアメリカが投下したすべての爆弾の総トン数を上回ったと推定された。アメリカ軍の爆撃機は、カンボジアの約113,000以上の地点に約270万トン以上の爆弾を投下し、戦闘員と民間人に多大な犠牲をもたらした。カンボジア空爆作戦で何万人ものカンボジア人が死亡し、何百万人もの人々が難民化した。大量爆撃の投下による破壊と1970年のアメリカ軍の部分的な占領により、その後に大量虐殺を執行する共産主義のクメール・ルージュ政権の台頭を促して、クメール・ルージュの政権は、約200万人のカンボジア人を虐殺したと推定された。




2023年7月11日火曜日

第一次世界大戦の西部戦線の戦場にて、弾丸を浴びた木々には、銃殺されたドイツ軍の偵察兵の死体がぶら下がっていた。死体は木の枝に支えられ、手足が垂れ下がっていた。

第一次世界大戦の西部戦線の戦場にて、弾丸を浴びていた木々には、銃殺されたドイツ軍の偵察兵の死体がぶら下がっていた。死体は木の枝に支えられ、手足が垂れ下がっていた。フランス北部への侵攻が始まって、戦争の暴力の悲劇的な道標であるドイツ軍兵士の死体を、降ろす者はいなかった。1914年12月6日付けのル・ミロワール(Le Miroir, 写真週刊誌)の一面に掲載された。特に興味深い戦争に関する写真資料を掲載して刊行した。




  ル・ミロワールは、1910年に創刊した写真を多用したフランスの定期刊行の写真週刊誌である。日刊紙であったル・プティ・パリジャン(Le Petit Parisien)の付録であった。ル・プティ・パリジャンは、1876年10月15日から1944年8月17日まで発行されたフランスの日刊紙であり、第一次世界大戦前夜には、ル・プティ・ジュルナル、ル・マタン、ル・ジュルナルとともにフランス4大日刊紙の一つであった。

 ル・ミロワールは、1914年8月8日から戦争報道に切り替えた。1914年12月6日付けの一面では、木に吊るされたドイツ軍兵士の死体を掲載した。第一次世界大戦中に、ほとんどのヨーロッパ戦線の後方にいるフランス国民に、ル・ミロワールは、戦場で暴力が勃発していることを実にリアルに伝える機関紙として機能した。戦争を語るには、戦争の暴力を再現しなければならなので、実際の出来事の代用として、視覚的衝撃である写真を利用した。未発表である第一次世界大戦の最も衝撃的な写真を入手して、ル・ミロワールに掲載して出版することを可能にした。第一次世界大戦中は、紙不足のためにページ数が少なく、主に写真のを掲載して、価格は25セントで刊行した。第一次世界大戦が1914年7月28日に勃発して1918年11月11日に終結後に、ル・ミロワールは、1920年7月8日からは、写真だけのスポーツ雑誌に変貌した。1939年8月29日発行の1084号をもって休刊した。




2023年7月10日月曜日

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。8月31日夜に、ロシア軍の塹壕内に大突撃をした。塹壕内には、戦死した日本軍兵士とロシア軍兵士の死体が散乱した。首山堡の攻略は、猛烈な犠牲を極めた。1904年8月30日未明、第二軍と第四軍は首山堡塁に対して攻撃を開始した。しかし、ロシア軍の強固な陣地に阻まれて苦戦し戦線は膠着した。8月31日には後に軍神の橘周太が壮絶な戦死を遂げた。戦況を打開するため、第一軍は8月30日夜からひそかに太子河の渡河を開始した。遼陽東方のロシア軍の側面に回り込めた。9月1日には 第二師団が饅頭山を、第十二師団が五頂山を占領した。

  側面に展開した第一軍に退路を危惧したロシア軍は、第二軍、第四軍と対峙した部隊を第二防御線へ撤退させた。その一部を遼陽東方へ投入した。苦戦した第二軍は、退却を始めたロシア軍を追撃しつつ、首山堡一帯を占領できた。今度は第一軍がロシア軍の猛攻を受けた。各方面共に戦線は膠着状態であった。ロシア軍は奉天方面での決戦に向けて9月4日にロシア軍は撤退を命令された。

 日本軍は約13万余の軍隊を集め、ロシア軍もまた約22万余の軍隊を有して、遼陽の戦いが勃発した。8月28日に総攻撃するも、とくに遼陽前面の首山堡の線ではロシア軍主力が第二、第四軍を迎え撃ちたれた。右翼の第一軍だけが侵攻を続け、最右翼の第十二師団は8月30日の夜中に、遼陽を通って遼河に流れる太子河の上流で渡河して、ロシア軍の背後をつく構えを示した。ロシア軍防衛線の中心である首山堡の陣地をできるだけ早く突破するように8月31日に第二軍に命令した。首山堡に突撃を敢行して9月1日に占領した。突撃を指揮して戦死した陸軍歩兵の橘周太は軍神に扱われた。遼陽の戦いで、134,500人の日本軍の死傷者は約23,500人、224,600人のロシア軍の死傷者も約20,000人とされた。




2023年7月9日日曜日

2023年6月16日ウクライナ南部ケルソン州のノヴァ・カホフカダム崩壊後、洪水が引いた後に、ロシア支配のケルソン地方のホラ・プリスタン町で、ボランティアと自治体職員は、浸水した家屋から死体を取り出した。

2023年6月16日、ウクライナ南部ケルソン州のノヴァ・カホフカ(Nova Kakhovka)ダム崩壊後、洪水が引いた後に、ロシア支配地域ケルソン地方のホラ・プリスタン町で、ボランティアと自治体職員は、浸水した家屋から死体を取り出した。6月6日、ウクライナ南部のケルソン地方のノヴァ・カホフカダムが決壊して、町が水没した。ロシアとウクライナは崩壊の原因を互いに非難している。ウクライナ当局ロシア占領下の南部の町の浸水は減少したが、瓦礫の下には遺体が残った。ロシア軍がドニプロ川の西岸で砲撃を続けているため、資源が不足している。

 ロシア軍が占領しているホラプリスタンの浸水した地域の破壊は壊滅的であり、瓦礫の下にはまだ死体が埋まっていたと、ウクライナ軍政部は、6月21日にテレグラムに投稿した。水位は徐々に下がっているが、ホラ・プリスタンの東部、中部、沿岸部は部分的に浸水したままである。浸水した町の家屋の破壊は壊滅的である。死者の死体は瓦礫の下に埋もれている。町の大部分ではガスも電気も供給されておらず、町の一部の下水道はまだ水没している。

 2023年6月6日未明に、ノヴァ・カホフカダムと水力発電所が崩壊した後に、水位が上昇を続けて、ケルソン地方の占領地域は壊滅的と公表した。住民は、救助もなく、水もなく、ただ浸水した集落の家の屋根の上にいるだけであった。人、動物が死んだ。浸水した家々の屋根からは、溺れた人々が浮かんでいるのが見える。向こう側にもそれが見える。ケルソン地方の占領地域から人々を脱出させるのは非常に難しい。6月7日から、ケルソンでの捜索・救助活動は本格化するも、発砲や着弾する大砲の音は継続していた。ケルソン地域全体で1,400人以上が避難し、ドニプロ川西岸の1,800戸以上の家屋が浸水した。

 ノヴァ・カホフカダムは重要なインフラであり、ザポリツィア原発を含むウクライナ南東部の大部分とクリミア半島に水を供給している。ウクライナ農業省は、1万ヘクタールの農地が氾濫して、ウクライナ南部の畑は砂漠化する見込みを公表した。6月6日午前3時頃に、ロシア軍はカホフカ水力発電所を爆破し、水位を上げてドニプロ川のアプローチと左岸、そこにある集落を氾濫させた。ウクライナ軍が今後反抗攻勢を困難にした。但し、ダムが故意に攻撃されたのか、それとも決壊が構造的な欠陥によるものなのかは不明のままである。衛星画像では、橋の一部が失われたのは6月1日から2日であった。










Warning: Volunteers and municipal workers grab the body from a flooded house in the town of Hola Prystan in the Kherson region, Russian-controlled territory, after flood waters receded following the collapse of the Nova Kakhovka dam, Ukraine on June 16, 2023. (Stringer/Anadolu Agency)

 

2023年7月8日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から南南西 1.4kmの住吉橋の東詰めの臨時救護所は、東地区警備隊長の担当であった。掘っ立て小屋へ収容して、後方の救護所へ移送した。死体をひきあげてトタン板で荼毘に付した。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から南南西 1.4kmに位置した住吉橋の東詰めの臨時救護所と荼毘の風景が8月12日に撮影された。住吉橋は太田川の分流の一つである本川に架けた最も南側の橋であった。爆心地のほぼ南に約1.4kmの位置にあった。その近隣には、住吉神社、中島国民学校、広島県病院、広島県庁があった。広島市の東西を結ぶ要所で、多くの被爆者が通行した。住吉橋の救護所は、東地区警備隊長の担当であった。軍医1名、衛生兵1名の人員で構成された。重態の被爆者を、掘っ立て小屋へ収容した。その場で応急手当の上で、後方の救護所へ移送した。手前のトタン板は, 本川を流れてくる死体をひきあげては、荼毘に付した跡である。

 広島原子爆弾が炸裂した翌日の8月7日に、陸軍船舶司令官が総指揮に任じて、広島警備本部が設置された。警備本部は直後に被爆者の救護のため、比治山西側聖橋、御幸橋東側三叉路、住吉橋など11カ所に救護所を開設した。陸軍船舶部隊、陸軍燃料廠救護班、海軍増援部隊および広島県がそれぞれ分担して対処した。その後にも多数の被爆者が発生したため, 救護所は自然発生的に増加し、8月9日には53ヵ所を数えるにいたった。

 関連救護所の整理、臨時野戦病院の設置などの措置は「広島戦災傷者ノ救護ヲ8月20日ヲ目途トシ完成セシム為之特ニ民側救護機関ノ運用ヲ強力ニ指導促進セシム」ことを目的とした。ところが8月15日に、日本軍は太平洋戦争に降伏して、事態は一変した。 8月16日には、全陸海軍部隊に停戦が命じられ、復員が始まった。日本軍は漸次救護の業務から離れた。以後の戦災の広島原子爆弾の処理は、広島県と広島市を中心に遂行することになった。救護・医療は広島県市医師会および各種病院なとが専ら担当する態勢となった。

 広島市内に、8月9日には一時的に53ヵ所にも達した救護所はしだいに整理のうえ, 広島市内の各所の国民学校を中心に活動を継続された。広島市内の39校の国民学校は、全焼全壊15、全壊1、全焼2、半壊10を数えた。学童疎開の対象外となった低学年学童は、広島原子爆弾に多くの犠牲者をだした。11校の国民学校が使用可能の状態であった。国民学校救護所は、医療の実務が10月上旬に日本医療団にひきつがれるまで、救護の作業を継続した。





2023年7月7日金曜日

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。

1945年3月10日の東京大空襲に巻き込まれて殺害された死体を、警備隊員が収容した。3月10日早朝より、軍隊、警防団、消防隊員たちが、アメリカ軍による東京大空襲の死体処理作業に当り、死者数を確認した。焼死体は炭化して原型をとどめなかった。遺品から死者数を割り出した。鉄かぶと、ボタン、がま口の口金などで推定した。身元不明者が多く、都内70ヵ所からの公園、寺院、学校などに仮埋葬された死体は約7万7,000体を超えた。警視庁発表では, 3月10日の死者は8万3,793人で、傷者は約4万918人となった。3月10日の死傷者数は計12万4,711名 (警視庁) から, 19万6,132名(帝都防空本部)までの開きがある。

 3月9日夕にマリアナ基地から爆撃目標である東京に飛び立ったB29爆撃機は、日本大本営発表は約130機だった。アメリカ軍側発表は約325機、合計約1,700トンの高性能焼夷弾を搭載した。3月9日22時30分に、警戒警報が発令された。

 本格的な東京大空襲爆撃は、3月10日の零時の打刻の直後であった。3月10日零時8分に、アメリカ軍B29爆撃機の先頭機が, 深川地区(現在の江東区)に侵入して、第一弾を投下した。木場2丁目付近に被弾して、次いで白河町2丁目、三好町1〜2丁目付近も被弾した。材木町から最初の火災が発生した。束ねた材木も無数の運河に浮かぶ丸太も、マッチ棒のように火を噴きはじめた。2分後の零時10分に、火災は隣接した城東区 (江東区) にも発生した。北砂町2〜5丁目付近が帯状に被弾し、約2分経過した12時12分には本所区 (墨田区) が空襲された。一区当り約20〜25万人からの過密地帯の町を、猛火はわずか約2分間隔で跳躍した。第一弾投下から約7分遅れて、零時15分に空襲警報が発令された。7分差の遅延が、逃げまどう庶民にとって致命的な瞬間になった。

 焼夷弾の豪雨は、本所区を南北に縦断し、直線上の大火流線は、運河で刻まれた江東地域を包囲した。3月10日零時20分に、火災は浅草区(台東区)にも発生した。牛込区 (新宿区)、下谷区(台東区)、日本橋区(中央区)、本郷区 (文京区)、麹町区 (千代田区)、芝区 (港区) なども相次いで被弾した。独立火点が次々に合流し、一挙に大火流になった。浅草区、日本橋区に広範囲に拡がった猛火は、甚大な火の粉を吹きあげ撒き散らし、巨大な火玉となって宙を飛び交い、幅約200メートルの隅田川を越えて、向島区 (墨田区)と合流した。真紅の火炎帯は、わずか半時間のうちに下町全域へと波及した。B29爆撃機は、目標の周囲に火の壁を作った後、逃げまどう人々にねらいを定め、電柱や屋根に接近した超低空で、連続波状的な無差別焼夷弾爆撃へと移った。

 北北西の風はさらに勢いを増し、地上の大火災にあおられ、火の海の沸騰となり、瞬間風速25〜30mに達した。火は風を呼び、風により火事嵐となった。地表の温度が白熱状態になり、炎は瞬間的に激流した。火の玉は不気味なとどろきを上げて、道を走り、川を渡り、家屋をつらぬき、逃げまどう人々を、つぎつぎと渦中に巻きこんだ。各署の消防自動車は消火活動に全力を上げた。直撃弾を受けて隊員もろとも火の塊になったのを皮切りに、次々に大火流に呑まれ車を焼失し、隊員は猛火の餌食になった。東京都消防隊の犠牲は、消防自動車焼失が約96台、水管焼失が約1,000本、隊員の焼死、行方不明は125人、警防団の死傷者500名以上にもなった。

 主な犠牲者は、非戦闘員の女、子ども、 年寄りの下町庶民であった。住居を無断で退去、避難とは防空法で固く禁じらた。危機的状況でも、バケツリレーなどの防火手段に身をゆだねた。人々は、あきらかに逃げおくれた。被害の中心地の江東地域は、荒川放水路と隅田川とに挟まれ、縦に横に無数の運河で刻まれた。橋が焼失して、運河は人々の退路を断った。水中へ難を逃れた人は多かったが、一命を取りとめた人はすくない。両岸から火炎と熱風、黒煙が川面を吹きなぐり、水面から首だけ出した人びとは一瞬に髪を焼かれて死んだ。火炎の前に煙にまかれて一酸化炭素で中毒死した人、 酸素の急速な減少によって窒息死した人、水温のあまりの低さのためのショック死、凍死、溺死も多かった。

 避難場所と指定された学校校舎に逃げこんだ人々も、ほとんどが痛ましい犠牲となった。安全なはずの鉄筋コンクリートの建物は、たちまち窓ガラスが溶け、荷物や衣服に火炎がまとわりついて白熱状態となり、建物もろ とも人間焼却炉に一変した。炭化した死体が何層にも山積し、講堂がぎっしりとカン詰め状態になった。火に追われた人びとが入口からなだれ込み、先の扉は内扉になって、開扉するひまなく大勢の人びとが積みかさなり、 悲惨な状態に至った。空襲警報の解除は、3月11日午前2時35分で爆撃は終了し、B29爆撃機の機影はなくなった。地獄の却火が鎮火したのは, 明方午前8時過ぎであった。一夜明け東京は、見るも無残な廃墟と変わった。東京29区に被害が波及し、約27万戸の家が焼けて、約百万人からの都民がその住居を失った。




2023年7月6日木曜日

ドイツ軍はソビエト連邦の侵攻後、1941年夏にソ連のクライゴネフの集団墓地にて、ソ連民間人を大量虐殺した。ドイツ軍の移動虐殺隊であるアンザッツグルッペンは、集団墓地の脇にひざまずいたソ連民間人を射殺して、死体を集団墓地に投下した。

ドイツ軍は1941年6月22日にソビエト連邦の侵攻後、1941年夏にソ連のクライゴネフ(Kraigonev)の集団墓地にて、大量のソ連民間人を大量虐殺した。ドイツ軍の移動虐殺隊であるアンザッツグルッペン(Einsatzgruppen)は、集団墓地の脇にひざまずいたソ連民間人を射殺して、死体を集団墓地に投下した。ソ連民間人で、共産党員と疑われた者は、ソ連赤軍将校や男性ユダヤ人とともに処刑に選ばれて処刑された。アンザックルッペンは、主にドイツ親衛隊と警察官で構成された。占領下のソ連におけるドイツ戦線の背後で、人種的政治的な敵の容疑者を殺害した。

  主なる殺害方法は大量射殺であった。アンザックルッペンは容疑の犠牲者を一網打尽にした。しばしば夜中に、町や村のはずれまで行進や車で連行した。犠牲者は服を脱がされ、小集団になって掘られた墓穴まで歩かされて銃殺された。容疑の犠牲者をうつ伏せにして、首の後ろにピストルを突き射殺した。ユダヤ人を溝の中に下がらせ、すでに射撃された者の死体の上に横たわらせ、死体の山をどんどん増やしていった。広い河川の近くに住むユダヤ人は、はしけに乗せて陸地から離れて曳航させた後に溺水させた。アインザッツグルッペンは、ユダヤ人に集団墓地を掘らせ、生き埋めにした報告もある。1941年10月に、ルーマニアのドイツ軍対応部隊は、オデッサの約19,000人のユダヤ人を、フェンスで囲まれた広場に集めてガソリンをまいて火をつけて焼死させた。

 1941年7月の最終週にはソ連軍の抵抗が強まって、ドイツ軍の進撃は減速し始めた。1941年夏の終わりにアインザッツグルッペンは、手に入る限りのロシア人ユダヤ人を虐殺する大量殺戮作戦を開始した。1941年5月に人種的に劣等なユダヤ人その他を抹殺する激しいイデオロギーに洗脳を受けた約3,000人のアンザッツグルッペン隊員は、4つの主要グループに分散されて、ユダヤ人狩りを開始した。移動虐殺隊は、ドイツ軍が広大な土地を素早く占領したドイツ占領下の最初の約22ヵ月間にポーランドで起こったユダヤ人に対する残虐行為をした。ソ連当局が未公表にした大量虐殺を最大限に利用した。アンザッツグルッペンは町や村のユダヤ人住民の名簿をユダヤ人社会の指導者たちから入手した。組織的抵抗の可能性を減らすために、コミュニティ指導者を最初に殺害もしばしばあった。地元のユダヤ人たちが、ユダヤ人の隣人の捕獲と殺戮に参加するように勧誘した。ドイツ軍は1941年9月19日にウクライナのキエフ市を占領して、約65万人以上の捕虜を押収した。アインザッツグルッペン部隊は、9月29日と30日にバビ・ヤール渓谷で、約3万3000人以上のユダヤ人を大量射殺した。




2023年7月5日水曜日

ペリリュー島に1944年9月15日にオレンジビーチに上陸したアメリカ軍と日本軍は白兵戦を繰り広げた。アメリカ軍は、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵士の戦死者を仮埋葬する前に、死体の身元の確認を急いだ。

ペリリュー島に1944年9月15日にオレンジビーチに上陸したアメリカ軍と日本軍は白兵戦を繰り広げた。アメリカ軍は、日本軍に殺害されたアメリカ軍兵士の戦死者を仮埋葬する前に、死体の身元の確認を急いだ。海岸陣地の日本軍は、銃剣での白兵戦をアメリカ軍に挑んだ。海岸一帯では、アメリカ軍と日本軍の敵味方の死体が折り重なり殺戮の場と化した。死体数は 明らかにアメリカ軍の迷彩服が多かった。アメリカ軍は第一次上陸作戦は敗退して、海上に引き揚げた。

 太平洋戦争にて、1944年9月15日午前5時にペリリュー島をのぞむ海上は、見渡すかぎり大小のアメリカ軍艦艇で埋め尽くされた。直後に、戦艦と重巡が砲門を開き、ペリリュー島の日本軍に艦砲射撃を開始した。同時にアメリカ軍は一斉にペリリュー島へ上陸作戦を開始した。アメリカ軍の上陸地点は、日本軍が西浜と呼ぶ南部海岸だった。

 アメリカ軍が上陸した西浜に、日本軍は6カ所の前線陣地を設けた。西浜に押し寄せたアメリカ軍は、海岸線から約13km付近で約50隻余の輸送船から、兵士を満載した約20隻の大型舟艇で、艦砲射撃の砲弾の援護下で、次々と海岸線に送り出した。大型舟艇群から上陸用舟艇約300隻で、午前7時30分頃に隆起珊瑚礁に接近した。舟艇から水陸両用車に乗り換え、海岸に殺到した。日本軍が一斉に反撃を開始した。8時30分頃に、ついにアメリカ軍の一部が、イシマツ陣地付近からアヤメ陣地にいたる海岸に漂着するも、第一次上陸は失敗して、海上に引き上げた。 

 その次にアメリカ軍は、西地区と南地区を迂回した間隙から強行突破した。アメリカ軍は上陸して、橋頭堡を確保した。日本軍は、斬り込み決死隊を編成し、戦車隊を加えて反撃した。日本軍の軽戦車は、アメリカ軍の対戦車砲とバズーカ砲が一斉に火を吹き、次々と崩壊した。ペリリュー島の日本軍はバンザイ突撃を避け、アメリカ軍に一発一殺主義を貫いた。オレンジビーチの戦闘は一週間くらいで、その後は日本軍は日中は洞窟陣地の中にいて、夜になってゲリラ戦の毎日であった。次第に日本軍兵士は減り、損害は大きいも、アメリカ軍の損害も甚大であった。アメリカ軍には増援が続々到着した。日本軍には一兵も一発の弾丸も補給されなかった。日本軍はやむなく前線陣地を撤収して、山岳地帯の洞窟に撤退して潜伏した。

 日本軍は、隆起珊瑚礁の山々に削り広げた洞窟陣地や堅固なコンクリート製トーチカに立てこもった。西地区の海岸線に椰子林で、日本軍とアメリカ軍が対峙して、敵味方入り乱れての殺し合いとなった。日本軍は『突っ込めェ!』の合図で穴を飛び出した。アメリカ軍の第一線は黒人兵士が多く、多くの黒人が殺害された。起き上がり拳銃を向ける息のあるアメリカ軍兵士に、日本軍兵士は弾で撃たずに銃床でぶん殴った。傷ついて椰子の木の陰に隠れたアメリカ軍兵士は、日本軍も次から次へと、海岸では敵味方入り乱れた白兵戦が展開された。




2023年7月4日火曜日

1934年10月にスペイン北部でアストゥリアス蜂起が、スペイン共和国政府軍に鎮圧された。州都オビエドのペラヨ兵舎前にて、反乱した労働者が殺害された死体が散乱した。

1934年10月にスペイン北部でのアストゥリアス蜂起が、フランシスコ・フランコ将軍が主導したスペイン共和国政府軍に鎮圧された。州都オビエドのペラヨの兵舎前にて、反乱した多数の労働者が殺害されて死体が散乱した。アストゥリアス労働者同盟は約1,700人が死亡して、約15,000人から30,000人が逮捕された。スペイン共和国軍は約260人が死亡した。

 労働者の抗議行動は特にアストゥリアスで10月5日に勃発して、共産主義者、社会主義者、無政府主義者が肩を並べて戦った。鉱山労働者の武装集団が、オビエドとトルビアの武器工場を占拠した。アストゥリアスでは、赤衛隊を結成した労働者と農民の手に権力が移った。政府軍は急遽、アストゥリアス蜂起を鎮圧するために、民警隊、モロッコ人部隊、外国軍団を派遣した。アストゥリアスの州都オビエドで激しい戦闘が勃発した。政府軍は航空機と大砲の支援を受け、プロレタリアートの蜂起を流血で鎮圧した。アストゥリアスでは戒厳令が布告され、戒厳裁判所は死刑判決を下した。約3万人以上の労働者が刑務所に入れられた。死刑判決を受けた23人のうち、バスケス軍曹とヘスス・アルグエレス・フェルナンデスの2人が処刑された。

 1930年代のスペインでは、民主主義とファシズムの武力闘争が展開された。内戦が始まり、イタリア・ドイツの介入と西側列強とファシストとの共謀した民族革命戦争に発展した。1933年12月、急進的なファシスト指導者であるA.レルスが親ファシスト政権を樹立して、黒い時代(1934-1935年)が幕を開けた。聖職者や親ファシスト派が、次第に国家の指導的地位を獲得し、教会の古い特権が回復され、スペイン共和国初期に労働者が獲得した権利が取り消された。労働者の新聞は厳しく検閲にされ、労働者の不満の表明も残酷に弾圧された。

 ファシストの猛攻撃は、大衆によって強力に撃退された。1934年2月に、反ファシスト闘争に立ち上がったオーストリアの労働者と連帯する集会やデモが、スペイン全土で開催された。スペイン南部で約15日間続いた約50万人の農業労働者の6月ストライキは、ファシスト反動勢力に強力な抗議であった。9月初めに、バルセロナとマドリードの労働者は、約20万人以上の労働者が街頭に出て、ファシストの集会を妨害した。反ファシスト統一戦線を求める共産主義者のスローガンが、大衆の支持を高めた。何千人もの社会主義者や無政府主義者が共産党に入党した。スペイン社会主義労働者党内に強力な左翼が出現し、共産主義者との行動の統一を提唱した。1934年6月12日、共産党中央委員会全体会議は、統一戦線の創設を社会労働党執行委員会に提案した。社会党指導者たちは、社会党が創設した労働者同盟に協力するように共産党を招待して応じた。共産党は提案を受け入れ、同盟のメンバーを拡大し、反ファシスト勢力の団結のための労働者・農民の組織に変える任務を自らに課した。

 1934年10月4日、レルス政権は初めて反革命政党スペイン自治権連盟(CEDA)の代表を加えた。労働者の反発を招き、同日に招集されたゼネストは全土に広がった。ゼネストはマドリード、カタルーニャ、ビスケー、アストゥリアスなどの地方に広がった。1934年10月の武装闘争は多くは敗北に終わった。マドリードとバスコニアでは、社会民主主義指導者の分裂的行動が、スト闘争の武装蜂起に発展するのを妨げた。アストゥリアのプロレタリアートは孤立した。共産党は国民運動を指導するほど強力でなかった。労働者階級に対する農民の支持が不十分であった。




2023年7月3日月曜日

アメリカ軍の歩兵部隊が洞窟の陣地入口をつぶしながら摺鉢山に上っていった。日本軍は地上に姿を見せず、不意に地下の洞窟の入口から飛び出して、肉薄攻撃を繰り返して多数の死体が散乱した。

アメリカ軍の歩兵部隊が洞窟の陣地入口をつぶしながら摺鉢山に上っていった。日本軍は地上に姿を見せず、不意に地下の洞窟の入口から飛び出して、肉薄攻撃を繰り返して多数の死体が散乱した。地下陣地に潜伏した日本軍を、アメリカ軍は火焰放射器で洞窟内を攻撃し、入口を爆破し塞いだ。殺害された日本軍兵士の多数の死体が、硫黄島に散乱した。日本軍の攻撃はやがてゲリラ戦術に変わり、爆薬ごとに戦車に体当たりした。

 1945年2月19日早朝、アメリカ軍は硫黄島を大小の艦船約450隻で取り巻き一斉に砲撃を開始した。その後艦載機約120機が約10分間にわたってナパム弾を投下して、艦砲射撃が再開した。硫黄島上陸の直前の約30分間に約8,000発を撃ち込んだ。

  空爆による硫黄島の日本軍の損害は、戦死約75人、重傷約53人、軽傷約63人に止まっていた。日本軍の約21,000人は地下に構築した複郭陣地に潜って、洞窟式交通路によって連絡された。

  日本軍は、アメリカ軍の上陸部隊を引きつけて攻撃を始めた。海岸の橋頭堡は大混乱に陥って、上陸第一波の8個大隊は正午までに約5分の1から4分の1が死傷した。2月19日中に上陸した約31,000人は、全体では約8%の死傷者を出した。2月20日からアメリカ軍は最大の陣地の摺鉢山と千鳥飛行場の占領に全力を傾けた。全体が岩でできている摺鉢山に、上陸3日目の2月21日に、艦載機が空爆を繰り返し、艦砲射撃が休みなく注がれた。2月22日にアメリカ軍上陸して約51時間後の死者数を約644人、負傷約410人、行方不明約560人と公表した。全米で犠牲者が多いと非難が巻き起こった。

 摺鉢山は2月23日に占領されたが、2月23日に摺鉢山山頂に星条旗を掲げた写真で全米が感激した。日本軍の徹底抗戦は続いて、アメリカ軍は歩兵部隊が侵攻した。硫黄島の中央部・元山飛行場から玉名山を結ぶ線の洞窟から、砲兵隊の速射砲がアメリカ軍の戦車部隊を2月22日から約2日間阻止した。2月24日に元山飛行場をめぐり白兵戦が勃発して、日本軍は一時的にアメリカ軍を撃退した。アメリカ軍は戦力の増強をはかり、2月27日に元山飛行場を占領した。アメリカ軍は約8,000人が死傷して、日本軍も約10,000人が死傷したと推定された。3月14日、大本営あてに訣別の無電を打ち、3月24日に約400人がバンザイ突撃で組織的抵抗が終結した。残存兵は地下に潜り続け、終戦後に捕虜となった者は、最終的に約1,000人であった。




2023年7月2日日曜日

2023年6月19日に、ウクライナ軍の負傷兵が、ウクライナのドネスク州バクムト近郊の医療施設で応急手当を受けた。ウクライナ軍の医療関係者が、負傷したウクライナ軍兵に応急処置を施した。

2023年6月19日に、ウクライナ軍の負傷兵が、ウクライナのドネスク州バクムト近郊の医療施設で応急手当を受けた。ウクライナ・ドネスク州バクムト近郊の医療安定化地点で、ウクライナ軍の医療関係者が、負傷したウクライナ軍兵に応急処置を施した。ウクライナ軍の攻勢が前進し、ロシア軍が守勢に回る方向もあれば、逆にロシア軍が攻勢に転じ、ウクライナ軍が守勢に回る軸もある。一歩一歩、徐々に攻勢して、1メートル単位で戦線をかじっているとウクライナ国防副大臣が6月24日に報告した。 

 ウクライナの防空当局は、ロシア軍が2023年6月20日未明に発射した35機のシャヘド型爆発ドローンのうち32機を撃墜した。ロシア軍は夜間の無人機攻撃でウクライナの首都周辺地域を標的とし、攻撃は3時間ほど続いた。ウクライナの防空部隊が12機ほどを撃墜した。ロシア軍は、ウクライナの南部ザポリツィア地方を弾道ミサイルで攻撃した。ウクライナの前線後方での最近の空爆は、ウクライナの攻勢の初期段階と重なった。

 ウクライナ軍によると、ウクライナ東部のバフムート、ライマン、アヴディフカ、マリンカ周辺で激しい戦闘が起きている。ロシア軍は東部ドネツク地方の15の都市と村落を砲撃し、バフムート近郊のチャシフ・ヤールの3人を含む5人の市民を負傷させた。ロシア軍の焦点は依然としてウクライナの東部戦線にある。ロシア軍は、過去1日間に500回以上にウクライナ軍陣地を砲撃したと、ウクライナ軍参謀本部は報告した。ロシア軍はこの1週間で5,800回以上の攻撃を行い、277,000発以上の弾薬を使用した。ロシア軍国防省は、ウクライナ軍の南部戦線のピアティハツキへの反抗を撃退して、十数台の戦車、装甲車、ウクライナ軍兵士が犠牲となったと6月18日に報告した。















Warning: A Ukrainian wounded souldier gets the first aid at medical stabilisation point near Bakmut, Donesk region, Ukraine, June 19,2023 (AP Photo/ Libkos) 

2023年7月1日土曜日

広島原爆の爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、翌日の8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。

広島原子爆弾が1945年8月6日にアメリカ軍に投下されて炸裂した。爆心地から北方に約2.4kmに位置した広島市内の大芝国民学校に、翌日の8月7日から臨時特設救護病院が設置された。約1ヶ月後の10月12日に、ゴザを敷いた入院室に、被爆患者が布団を上敷きして横たわって寝込んでいた。その側には、身内の家族がその側でお見舞いしていた。

 大芝国民学校は、広島原子爆弾に被爆した直後に、木造2階建ての北校舎・講堂などは全壊した。南側の新校舎のうち爆心地に対して縦に長く建っていた棟は倒壊を免れた。大芝国民学校内では被爆者は出たが、被爆による即死者は特記なかった。被爆した直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到した。翌日の8月7日から救護所を開設して救護にあった。広島県知事は、8月7日に13箇所の救護所を告知した。その内に中山地区に大芝国民学校が含まれた。大芝国民学校は、8月7日から数百人の被爆者を救護した。

 大芝国民学校は、1926年4月1日に大芝尋常小学校が設置された。1929年に広島市大芝尋常小学校と改称した。1941年に広島市大芝国民学校と改称された。1945年8月6日に大芝国民学校は広島原子爆弾に被爆した。1947年に広島市立大芝小学校と改称された。

 広島原子爆弾の炸裂によって、直接に被爆した人数は、広島市衛生局が集計した。1995年の報告書『原爆被爆者動態調査事業報告書』では、主として爆心地から約2km以内の被爆者は約243,463人であった。そのうち1945年末までに死亡した人数は、約83,177人である。約2.0kmから約3.0kmの被爆者約67,538人にも、避難した人が多数いた。約20万人以上の人々が避難したと推測された。その避難した後に多数の被爆者が死亡した。その際、傷害を受けた被爆者(原子爆弾爆発時に広島市にて、外傷、火傷、放射線の傷害を受けた人を被災者と記す)は、自力あるいは他力で、その多くが何処かの救護所に避難したと推察された。