2022年1月31日月曜日

第二次世界大戦のウクライナ戦線にて、ソビエト軍兵士らは塹壕の底に放置されたドイツ軍兵士の死体を見下しながら侵攻した。

1944年6月22日からソ連軍のバグラチオン作戦にて、東部戦線においてソ連軍兵士がドイツ軍の陣地を突破した。ウクライナ戦線にて、ソビエト軍兵士らは殺害したドイツ軍兵士の死体の隣を通り過ぎた。ドイツ軍が造設していた塹壕の底に放置された死体を見下しながら侵攻した。

 1944年6月22日、ナチス・ドイツ第三帝国との戦いにて決定的な戦いが勃発した。戦場はノルマンディー後に、何千キロも東に離れたベラルーシから始まった。それまでに西部戦線では、連合軍は6月6日にノルマンディ上陸作戦が決行された。

 バグラチオン作戦は、ソ連軍にとって決定的な勝利となり、ドイツ本国への最終攻撃に向けて万全の態勢を整えた。ソ連軍は、わずか23日間で約400kmから500km、1日平均で約20kmの距離を西方に侵攻した。ドイツ軍の損失は、死者約38万1,000人、捕虜約15万8,480人で、スターリングラード攻防での犠牲をはるかに上回った。ソ連軍兵士は、その代償として、死者・行方不明者は約180,040人、負傷者・病人は約590,848人を失った。

 8月20日から、ソ連軍はウクライナ戦線で、ドイツ軍の南ウクライナ軍に対し、2方面からの攻撃を開始した。連合軍はドイツ軍の側面を守ったルーマニア軍を素早く撃破した。8月23日までに、ドイツ軍は集結した2つのソビエト戦線に包囲された。ルーマニア軍に対するジャシー・キシネフ攻防戦となった。1944年8月になると、ドイツ軍は東部戦線で本格的な危機を迎えた。ソ連軍の4つの戦線によりドイツ軍は激突して完全に解体された。ドイツ軍は全滅して奔走して撤退した。

  第二次世界大戦の東部戦線は、最大かつ最も血なまぐさい戦場となった。ドイツ軍は戦死者の約80%を東部戦線で損失した。東部戦線での陸戦は、第二次世界大戦の他のすべての戦場を合わせた犠牲よりも多い。東部戦線の戦争の残忍な虐待と虐殺は、両陣営が頻繁に故意に人命を軽蔑したことを実証した。戦争の極端なイデオロギーにも反映されて、2つの正反対のイデオロギーが激しく対立した。

  ロシア軍は2022年から、ウクライナに対して21世紀のバグラチオン作戦を決行する恐れがある。プーチンは、ロシアが2014年3月からクリミアを占領し、ウクライナに対する歴史的な権利があると主張した。ウクライナは、1991年12月に崩壊したソビエト連邦の一部でありロシアの崩壊の産物と述べた。ロシア人とウクライナ人を一つの民族と叫んだ。 




2022年1月30日日曜日

日中戦争の徐州会戦の前後で、日本軍により目隠しをされた中国人が斬殺されて、枯草の中で死体が田畑上に放置された。

日中戦争にて1938年4月7日に勃発した徐州会戦にて日本軍が徐州を1938年5月19日に占領して終結した。その前後にて、日本軍により目隠しをされた中国人が斬殺されて、枯草の中で死体が田畑上に放置された。

  南京攻略戦前後から徐州作戦に参戦した日本軍兵士が毎日日記を記載して写真も添付した。日本軍兵士たちが中国人を見境なく殺戮していた(中国戦線、ある日本人兵士の日記)。日本軍兵士が中国戦線では、平然と中国人から略奪して虐殺した。日本軍幹部からの命令で日本軍兵士たちは、中国人に対する虐待と虐殺の執行者となった。日本軍第16師団第9連隊第32大隊第9中隊に所属して、日中戦争の上海戦、南京攻略戦、徐州作戦から武漢三鎮の軍事占領まで、日中戦争前半の大作戦のすべてに従軍した。日本軍は、「皇軍兵士は捕虜になるな」の思想であり、中国軍兵士の捕虜として直ちに殺害した。捕虜の中国軍兵士を日本軍が虐殺した写真を撮って、日記に添付した。

  日本軍は4月7日に勃発した徐州会戦から5月19日の徐州を占領した。徐州会戦後に、戦争で荒廃した街では、中国人に対する虐待と虐殺が頻発した。陳中硬の証言では、徐州を占領した時、日本軍兵士の虐待や虐殺を恐れて住民は逃避した。日本軍兵士は、子供が軍服を着て、家族も軍服を着た集合写真から、日本軍兵士はスパイと容疑して、その家族を虐殺した。潜伏していた数十人の中国人と家々を放火した。日本軍は村に侵入して、麦畑で数十人の家族を虐殺した。残存者を家々に集めて鍵をかけて放火した。日本軍兵士が街中で十数人を逮捕し、約6人を袋に入れて川に投げ込んだ。徐州が占領した当時は、戦争で衛生状態が悪く、猛暑で多くの人々が下痢をして、コレラ容疑として虐待と虐殺した。

 山東省最南端の台児荘の戦いで中国軍に4月7日に敗北してから、日本軍は徐州会戦を勃発するも、徐州の約60万人の中国軍に包囲された。中国軍が大規模な反撃をする前に、より多くの人的資源を投入した日本軍は、大規模な中国軍を撃破した。日本の北支那方面軍と関東軍が北方から、日本の中支那遠征軍が西方から徐州を攻撃して、南方から鉄道を援軍が登って約21万人に及んだ。中国軍は数的優位であったが、増強した日本軍の攻撃に直面して、1938年5月19日に中国軍を維持するために徐州を放棄した。数的劣勢である日本軍は徐州を包囲できず、中国軍のほとんどは西方へ撤退して田舎でゲリラ戦を続けた。徐州会戦いが終結して、日本軍は約3万人の死傷者を出し、中国軍の死傷者数は約10万人に対した。日本軍は中国軍よりもはるかに少ない死傷者で徐州を占領いるも、包囲されずに集結した中国軍は徐州から退避していた。




2022年1月29日土曜日

長崎原子爆弾で13歳の学童が全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。

吉田勝二は当時13歳時に、1945年8月9日の長崎原子爆弾が炸裂して、全身に大やけどとケロイドを負って、12月下旬から大村海軍病院で植皮術を受ける直前の顔貌である。生死の境をさまよって、特にケロイドが残った顔貌を見る周囲の冷たい視線に傷つきながら、戦後を生き抜いた。爆心地から約1.1km離れた長崎工業学校の周辺の江里町で、造船科の2年生の学友6人とともに被爆した。畑や道路を飛び越え約40mも吹き飛ばされて田んぼに落下した。全身が焼けただれて意識も消失して、気がつくと長崎市内は全くの悪夢の被爆地となった。浦上川が血に染まり被爆者の死体で埋まった。友人同士が吉田勝二に、「何か顔がものすごく変わっとるぞ」と言い合った。

 元気だった友人の一人が、数キロ離れた吉田勝二の自宅までたどり着き、「吉田君は火傷はしているが生存している。早く学校に助けにいってやってください」と伝えた。両親が学校へ駆けつけるとグラウンドいっぱいに、被爆者は白い包帯でぐるぐる巻きにされた。「勝二! 勝二!」と叫んでも、一人一人に声をかけてやっと、勝二を捜し当てた。あまりにも顔貌が火傷で変わり果てていた姿に驚嘆した。

 やっとの思いで自宅へ連れて帰った後も、全身からの膿やウジがわいて、意識も朦朧として、悪臭が家中に漂った。9月頃から新興善国民学校に通院して、12月下旬に治療のため大村海軍病院へ行くと、終戦で進駐してきたアメリカ軍から抗生剤のペニシリンが使われて、生命の危機を脱した。太ももの皮膚を顔の右半分に移植する手術を受けた。手術した移植部分の皮膚の色は黒く、醜い顔になった。

  中等度から重度の火傷を負った被爆者の多くは、顔や手足、体の広い範囲に厚いゴムの溶岩のようなケロイド状の傷跡ができた。瘢痕組織は、強いかゆみ、チクチクする痛み、ズキズキする痛みの原因となり、肘や肩、足の関節を覆うと、動きが制限された。顔にケロイドができると、口が開かなくなり、食事ができなくなる人もいました。皮膚移植のためにケロイドを切除しようとしても、瘢痕組織が再び成長してくることが多かった。

 大村海軍病院から1年あまりで退院したものの、人目に醜い顔をさらす苦しみから一歩も家を出られなかった。母親から「勝二、一生家の中で過ごすことはできんやろ。歩くだけでも練習を」の言葉に励まされて、少しずつ外に出れるようになった。悲しいことばかりに遭遇しながらやっと立ち直った。社会人になり生きるため食品会社に就職した。しかし、被爆者は差別されて嫌がられて苦悩した。「戦争を憎んでも人を憎んではいけない」とアメリカまで行って被爆体験を語った。その体験をパネルにしたり、絵本にした。(肺がんで、78歳死去)































14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受けた後の顔貌である。
















14歳時に、長崎原子爆弾で全身に大やけどとケロイドを負って、大村海軍病院で植皮術を受ける前の顔貌である。

2022年1月28日金曜日

ニューギニアのラム渓谷を侵攻中に、オーストラリア軍兵士らは日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破して、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

太平洋戦争のニューギニアの東部の戦いにて、1943年11月22日にオーストラリア軍がラム渓谷を侵攻中に、日本軍の機関銃の射撃陣地を撃破した。オーストラリア軍パトロール隊の兵士らは、機関銃の弾薬の側で殺害された日本軍兵士の死体を取り囲んで見下した。

 オーストラリア軍は、ニューギニアの戦いで1943年10月から日本軍が建設した道路をを逆にたどってラム渓谷まで侵攻した。1943年10月から1944年1月にかけて、オーストラリア軍はフィニステル山脈を守る日本軍と戦闘を重ねた。シャギーリッジでは守備する日本軍が頑強に抵抗し激戦となった。オーストラリア軍も陸空の攻撃を集中させて、日本軍部隊は一兵残らず全滅した。1944年1月31日までにオーストラリア軍は日本軍をフィニステル山脈から撤退させ、マダンの日本軍陣地の手前まで迫った。残存した日本軍兵士が疲れきり、物資の欠乏にあえいで栄養失調となり、多くの日本人が路傍に倒れた。

  オーストラリア軍は10月10日に、尾根の南端にあるバート・ポストを占領して最初の陣地を確保した。その後、1944 年1月まで尾根上での戦闘に参加した。尾根は急斜面で狭く、狭い山頂に沿って攻撃するしかなった。日本軍は、尾根の主要な山地であるグリーンピナクルに陣地を残存していた。10月23日にこのグリーンピナクルを占領して、11月には少戦闘で過ぎたが、12月8日に日本軍は反撃に出て、ラム渓谷のオーストラリア軍陣地を攻撃した。その最大の攻撃は12月12~13日の夜に行われたが、日本軍はその後には出発点に退却した。

 マーカム峡谷、ラム峡谷、フィニステール山脈での各戦闘は、第二次世界大戦のニューギニア作戦における一連の戦いの一つである。連合軍は両渓谷を占領するために、1943年9月19日~20日にカイピットを占領した。カピピットの生い茂った飛行場はすぐに撤去して、マーカム渓谷からラム渓谷の下流域に向けて侵攻した。連合軍の戦闘は、1943年9月19日のラム渓谷に対する連合軍の攻撃から始って、1944年4月24日に連合軍がマダンを占領して終結した。これらの戦闘中に、オーストラリア軍はアメリカ軍の戦闘機の支援を受けてマーカム渓谷とラム渓谷に侵攻した際に、日本軍とは小規模な戦闘となり、日本軍はフィニステール山脈の防衛線に向けて撤退した。オーストラリア軍とアメリカ軍は約204人が戦死して、約464人が戦傷した。日本軍は、約800人が戦死して、約400人が戦傷した。




 

2022年1月27日木曜日

ソビエト連邦下の女性たちは、ナチス・ドイツ軍が侵攻して1943年に虐殺した人々の中に、愛する人の死体を発見して慟哭した。

ソビエト連邦下の女性たちは、ナチス・ドイツ軍によって侵攻された1943年に虐殺された人々の中に、愛する人の死体を発見した。彼女らは、語り尽くせないほどの苦悩をして慟哭した。犠牲者の生前を偲び、死を悲しみ追悼した。民間市民は、ファシストによるテロの犠牲者となった。

 ドイツ軍がウクライナのハリコフ市を1941年10月24日に占領した直後に、市民に対して恐怖政治を開始した。初日には約116人が捕らえられ、市内の路上で吊るされた。ドイツ軍は無差別に容疑者を捕獲して、処刑した。死刑はハリコフ市街の中心部の通りの広場で、公開して執行された。絞首刑して吊るされた者の死体は何週間も吊るされた。地元市民を恐怖で威嚇した。1941年11月にドイツ軍のハリコフ司令部が、ソ連製のラジコン地雷で爆破された。その後に、ウクライナ人の処刑が再び繰り返され、数十人が絞首刑にされた。ドイツ軍にウクライナのハリコフが占領されてから数週間後に、ハリコフ市内のユダヤ人をトラクター工場の兵舎に強制連行が始まった。1941年12月からユダヤ人、ロマ、その他の国籍の膨大な市民がハリコフの郊外のドロビツキー・ヤールで銃殺された。同時期の12月には、サブールキの精神病院の患者約400人が郊外に連行されて、射殺された。

 ハリコフでは、ドイツ軍が毒ガスを放出して、不適格者を排除して駆除して死滅する機械であるガスワーゲンを使用した。そのドイツ軍の毒ガス操作の運転手は、1943年12月にソ連の裁判所で有罪判決を受け、死刑を執行された。ハリコフでのドイツ軍は残虐行為が際立っていた。子供シェルターを作り、多くの10歳以下の子供たちが意図的に飢えさせ、子供の身体が衰弱した後に、ドイツ空軍のパイロットに輸血するために、「飢えた」血液が採取された。死んだ子供の人数は不詳であるが、数百人は想定された。

 ソ連軍兵士の捕虜も異常なほど残酷に処分された。1943年3月の第2次ハリコフ攻撃では、コールドマウンテンの強制収容所で数千人が殺害された。負傷した数百人のソ連軍兵士は、ナチス・ドイツの親衛隊は生身でソ連軍兵士を焼却した。1941年の夏には約100万人近くいたハリコフの人口は、わずか2年間のナチス・ドイツ軍の占領により、1943年秋の時点で合計20万人ほど激減した。ハリコフ裁判が、1943年12月15日から12月18日までソビエト連邦のハリコフの軍事法廷で開廷された。ソビエト軍が初めてナチス・ドイツ軍兵士の戦争犯罪であるハリコフ裁判を執行して、秘密警察3人を死刑に処した。



2022年1月26日水曜日

太平洋戦争で硫黄島の海岸には、日本軍に上陸して殺害されたアメリカ軍兵士の死体と物資が至る所で火山灰の砂浜に散乱した。

1945年2月19日からアメリカ軍は、硫黄島に上陸して侵攻した。硫黄島の海岸の砂浜には、上陸したアメリカ軍兵士の死体と物資が散乱した。アメリカ軍兵士の凄惨な死体が砂浜の至る所に倒れた。硫黄島への最初に上陸して死亡したアメリカ軍兵士の死体が、車両や船の残骸に囲まれた火山灰の中に横たわった。火山性の砂に埋もれ、容赦ない砲撃を受けていた上陸用舟艇から飛び降りた。彼が最初に目にしたのは、仰向けに倒れ、口から血を流している仲間のアメリカ軍兵士だった。火山性の粗い砂が人と機械の動きを妨げ、彼らは必死になって浜辺に上がっていった。 海兵隊の前進を可能にするために海軍の砲撃がおさまると、日本軍は地下の要塞から出てきて、侵攻部隊に対して激しい砲撃を開始した。

 2月19日の午前10時過ぎに、アメリカ軍は海岸に約9,000人と物資で埋め尽くした。突如に日本軍の機関銃や迫撃砲、重砲などあらゆるものがアメリカ軍が混雑した浜辺に降り注ぎ始め、瞬く間に悪夢のような血の海へと変貌した。火山灰では人を寄せ付けない地形のために、日本軍の攻撃に対する防御が困難となった。火山灰のために、足場を確保することも、日本軍の攻撃からアメリカ軍を守るための塹壕も作ることが困難であった。最大の混乱と死傷者を出すために、硫黄島に上陸した地点でアメリカ軍兵士で埋まり、完全に露出してから、日本軍は攻撃した。最初に上陸した先頭部隊のアメリカ軍兵士が、浜辺から隔てられている低地の段丘を登り始めた時点で突如に日本軍から攻撃された。砲兵隊、ロケット弾、迫撃砲、機関銃、ライフル銃などの弾丸が、南と北の高台からの銃火器から身を守れないアメリカ軍兵士たちに降り注いだ。射撃陣地は他の射撃陣地に完全に通じて、射撃の層は潜伏した。多くのアメリカ軍兵士は、隊員全員が倒れるほどの爆発的な火の粉の中で殺害された。

 日本軍兵士はどこにでもいるのに、日本軍の姿がほとんど見えなかった。火山砂の急斜面をじりじりと登り、その下の砲弾の穴に身を寄せた。バンカーは精巧なトンネルシステムに接続されて、火炎放射器と手榴弾でクリアされたバンカーは、トンネルを移動する日本軍によりすぐに再占領された。アメリカ軍は射撃を予期せずに、再占領された掩蔽壕を通り過ぎたため、多くの死傷者を出した。上陸後3日目の犠牲は、すでに膨大なものとなった。アメリカ軍兵士は約2,300名の死傷者を出し、そのうち約558名が死亡した。3月26日までの約36日間の攻撃で、6,800人の死者を含む約26,000人以上のアメリカ人が犠牲になった。約2万人の日本軍兵士のうち、生き残ったのは1,083人だった。




2022年1月25日火曜日

ソ連軍兵士は、殺害して地面に転がるドイツ軍兵士の死体を傍らに、ベルリン市街戦では建物と建物の間で迅速に掃討した。

ソ連軍が首都ベルリン市街に侵入すると、戦闘は熾烈を極めた。ソ連軍兵士は、殺害して地面に転がるドイツ軍兵士の死体を傍らに、ベルリン市街戦で迅速に掃討した。街は廃墟と化し、道路には瓦礫が散乱して、戦車はほとんど機能せず、戦闘の多くは徒手戦、建物と建物の間で行われた。老人や少年を含むドイツ軍の守備隊が、約2週間にわたり必死になって戦った。ドイツ軍兵士の多くは病人や負傷者、栄養失調で、兵士が不足して、少年や老人も含めた。ドイツ軍の降伏する前日の5月1日の夜に、残存していたドイツ軍兵士のほとんどが、ベルリンから脱出して西部戦線に逃げ込もうとしたが、脱出できた者はほとんどいなかった。

 1945年4月16日から、ソ連軍はアドルフ・ヒトラーと第三帝国に対する最後の攻撃を始めた。ソ連軍が東部戦線から首都ベルリンに向けて攻撃した。地下壕に隠れている総統を執拗に追い詰めるソ連軍に、ベルリンは飲み込まれた。ヨーロッパの首都の中でも、美しく近代的で歴史的であるベルリンは瓦礫と化し、ソ連軍兵士はドイツ女性を集団レイプの対象として、企業や商店を略奪して、ベルリン市民を路上で殺害した。アドルフ・ヒトラーは、ドイツ国民のために命を捧げると公言しながら実行しなかった。ゲルマニアの巨大なドイツ帝国を支配すると夢見て、地図上で架空の軍隊を動かした。4月30日にヒトラーは遺書を書き、長年の愛人であるエヴァ・ブラウンと結婚した後に、一緒に帝国首相官邸の地下壕で自殺して、二人の死体は首相官邸の庭で焼かれた。彼の死後にも、ナチス・ドイツのラジオはヒトラーが戦死したと隠蔽して報じた。1945年5月2日に、ソ連軍が占領されたベルリンにいたドイツ軍の将軍たちは、ソ連軍に降伏した。ベルリンの戦いによる人的被害は甚大で、ソ連軍兵士は約8万人以上の死者を出して、ドイツ軍の犠牲者は約5万人と約30万人以上のベルリン市民が、ベルリンの廃墟の中で殺害された。ナチス・ドイツの強制収容所では約1,100万人、連合軍と枢軸国との第二次世界大戦で、全世界で約6,000万人以上が殺害された。 

 連合軍の1944年6月6日のノルマンディー上陸から約2週間後に、6月22日からソビエト軍はドイツ軍に追撃を開始して、10月16日に、ソ連軍はドイツとの国境を越えた。ソ連のジョセフ・スターリンは、軍事力を誇示して、アメリカ軍よりも先にベルリンを征服を目指した。1945年4月16日から、近郊のオーデル川沿いからソ連軍はドイツの首都ベルリンに対する最終攻勢を勃発した。挟み撃ちにしてベルリンを包囲した。ベルリンへの迅速な突破を試みて、ベルリンの東約70kmに位置するシーロー高地を通過するのに4日間かかり、多くの犠牲者が出た。4月21日に、ソ連軍の最初の部隊がようやくベルリンに侵入した。ソ連軍は、ドイツ軍の必死の抵抗に直面した。西側の連合国は1945年4月16日から空爆を中止した。ソ連はベルリンでの地上攻撃を支援するために4月20日から空爆を続けた。1945年5月2日に、ベルリン守備隊はソビエト軍に降伏した。




2022年1月24日月曜日

第5次イゾンツォの戦いで、イタリア軍とオーストリア軍が激戦となり、オーストリア軍は初めて高濃度の毒ガス攻撃して、峡谷のイタリア軍兵士が毒殺された。

1916年6月29日に、イタリア北部のカルソ地方のサンミケーレ山周辺の第5次イゾンツォの戦いで、イタリア軍とオーストリア軍が激戦となった。オーストリア軍は初めて高濃度の毒ガス攻撃して、峡谷に位置するイタリア軍兵士が毒殺された。オーストリア軍の爆撃、煙、大量のフォスゲン毒ガスの化学兵器の弾幕が、マスクも装着できないイタリア軍兵士を殺害して崩壊させた。前線にいたイタリア軍兵士は、ガスマスクもつけず、睡眠している兵士はほぼ全員が死亡した。ガスマスクを装着したオーストリア軍が追撃した。イタリア軍は約6,900人、オーストリア軍は2,000人を損失した。

 第一次世界大戦中の1915年、サン・ミケーレ山はイタリア軍とオーストリア軍の激しいイゾンツォの戦い(Battle of the Isonzo)の戦場となった。イゾンツォの戦いは、イタリアとオーストリアの境界にスロベニア西部からイタリア北東部にかけて流れるイゾンツォ川周辺で行われた複数の戦いである。イタリア王国軍とオーストリア=ハンガリー帝国軍が衝突した。イゾンツォ川(1915年5月13日から1917年10月27)の犠牲者は、イタリア王国軍は約645,000人、オーストリア・ドイツ帝国軍は約450,000人が死傷した。

 1915年5月13日に、イタリア王国軍は、未奪還地域の占領を目指してオーストリア=ハンガリー帝国に宣戦を布告した。イタリア王国は、6月に当時のオーストリア領であったイゾンツォ川流域に進攻したが戦線は膠着して、イゾンツォの戦いでは前後12度にわたる会戦が繰り返された。12度目の会戦となる1917年10月のカポレットの戦いにて、ドイツ軍の参戦を受けたオーストリア軍はイタリア軍を壊滅して遁走させて、イゾンツォ川流域を完全に占領した。イタリアがイゾンツォ川流域を奪回するのは、オーストリア=ハンガリー帝国が1918年に休戦した後の事である。一連の戦いで、約100万人以上のイタリア軍とオーストリア軍兵士が死んだ。

 1917年5月に、イタリア軍は第10次イゾンツォの戦いを勃発するも、カルソ地区でのオーストリア軍の反撃により、一部の地域が再奪還された。イゾンツォの戦いでの連合軍の支援が再び提起されるも頓挫した。イタリア軍は8月17日に第11次イゾンツォの戦を勃発して、ゴリツィアの北にあるバインジッツァ高原の大部分を占領した。長期にわたる膠着により、イタリア軍は9月12日に攻撃を中止した。イタリア軍の攻勢は、オーストリア軍の攻撃を強化して、ドイツ軍が、オーストリア・ハンガリー軍の崩壊を防ぐために、イタリア戦線へのカポレットの戦い(第12次イゾンツォの戦い, 1917年10月24日~12月19日)に参戦した。第一次世界大戦中にイタリア軍の最も悲惨な大犠牲となった。オーストリア・ドイツ軍の攻勢の前に、イタリア軍が撤退した。オーストリア軍とドイツ軍の追撃により、戦意を喪失した約60万人以上のイタリア軍兵士が脱走または降伏した。




2022年1月23日日曜日

ビルマのフーコンの戦いで、中国国民党軍が日本軍を追撃して、陥没した路端には、殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。

大東亜戦争にて、ビルマの北部のフーコン谷地(Hukawng)の戦いで、中国国民党軍は日本軍を壊滅して、さらに撤退する日本軍を追撃した。その途上にて、地面が陥没した両側の路端には、中国軍に殺害された日本軍兵士の死体が散乱した。悪臭の死臭が漂うために、中国軍兵士は鼻をふさぎながら追撃した。アメリカ軍は、中国軍と連携して日本軍を砲撃した。フーコンは、ビルマ語では悪魔が住んでいる場所と呼ばれ、もともと中国雲南省の一部であったが、後にビルマ地域に割り当てられた。ビルマのフーカン谷地がフーカンの戦いの戦場となった。

 1943年10月に、インドに駐留した中国軍は、中印路と石油ルートの占領するために、インドとビルマ国境から侵攻して、キャブマン山脈を越えてビルマ北部の要所を攻略した。一方、日本軍側は、1943年10月23日に対抗してフーコンの戦いが勃発した。日本軍は、荒野の山中という過酷で原始的な環境により、甚大な死傷者の犠牲が出た。遠征した日本軍兵士たちの残骸てなる死体が散乱した。最悪の戦場となった湖江流域では、底なし沼が延々と続いて、いたるところで蚊、瘴気、毒虫、野生動物などが、日本軍兵士に侵入した。日本軍の退路となったビルマの最北端の渓谷では、悪天候による雨季の鉄砲水による低地の平野につながる湿地により渡河が困難となった。木の幹を引っ張って、茂みを這いながら歩行した。山道では下手をすると崖から落下した。何日も毒虫に襲われて、死傷した。食料が不足して、栄養失調となり衰弱して餓死した。日本軍側は、中国遠征軍から約12キロ離れた湖江流域を占領していたが、この地域の日本軍は、数々のフーコンの戦いの末に全滅した。

 大東亜戦争にて、日本軍は1942年5月から中国と国境を繋ぐビルマを占領した。中国軍は、ビルマから中国に通じたイギリス軍やアメリカ軍からの補給を断たれた。日本軍は、1943年3月にはさらにビルマの多方域を占領するビルマ方面軍を編成した。1943年10月に、日本軍はビルマと国境を介する雲南方面に侵攻した。不意に10月23日に、中国軍とアメリカ軍が、ジャングルが密集したフーコン谷にて、日本軍に襲撃した。連合軍による攻撃と砲撃により、日本軍は甚大な犠牲を伴った。日本軍は、ジャングルのフーコン谷地から平地のマインカン地域に撤退した。1944年1月13日には、退路を突破した日本軍は犠牲を伴って、2月中にマインカン地域まで撤退した。3月5日には、崩壊しながらワローバン地域にまで撤退した。その悲惨な戦況下で、日本軍は3月8日から、無謀にもインド北東部のインパールに侵攻して7月3日に壊滅した。




2022年1月22日土曜日

17歳の山下國男は、長崎原子爆弾の爆心地から約2.5km離れた長崎駅で被爆して、背中から両腕の火傷からケロイドが膨隆した。

長崎原子爆弾に被爆した17歳の山下國男さんは、爆心地から約2.5km離れた長崎駅で火傷を被爆した。背中から両腕にかけた火傷から重度のケロイドが膨隆していた。1946年12月14日に原爆傷害調査委員会(ABCC)の設立準備のために来日したマンハッタン計画のポール・ヘンショー博士が撮影した(2013年10月17日アメリカ国立公文書館で特定)。右手に特定するための標識カードを所持して写真を撮影された(Kunio Yamashita, 山下國男, 14 Dec,1946)。原爆の生存者は重度の火傷と放射能汚染による原爆症に苦しんだ。

 原爆傷害調査委員会(ABCC)から1975年4月1日に後継機関である放射線影響研究所(放影研)は、50年にわたり原爆被爆者とその子供たちの疫学的・遺伝学的調査を行ってきた。この調査プログラムは、放射線健康基準の主要な根拠となっています。ABCC(1947年-1975年)と放影研(1975年-現在)は、いずれも米国(米国科学アカデミーを通じて)と日本の共同事業です。

 1945年9月、アメリカ軍は、原爆の医学的影響を調査するため、広島と長崎に調査団を派遣した。1945年10月12日、GHQの命令により、都築博士率いる日本側調査部隊と統合され、「原爆影響調査合同委員会」が発足した。原爆影響合同委員会の膨大なデータは機密報告書となった。

 1946年11月26日のトルーマン大統領指令から、原子爆弾の人間への生物学的および医学的影響に関する長期的かつ継続的な研究を行うよう指示した。アメリカ学士院(NAS)は、ABCC、その後の放影研を監督した。原爆調査合同委員会がアメリカに戻って報告書を出した。その後の1946年5月28日、アメリカ軍とアメリカ学士院(NAS)は、日本の原爆の死傷者を丹念に追跡調査するを提言した。アメリカ軍の要請を受けて、医学部門は、シカゴ大学のオースティン・M・ブルース博士、マンハッタン計画のポール・S・ヘンショー博士、アメリカ軍医療部隊のカール・F・テスマー中佐(後にABCCの初代常任理事)とジェームズ・V・ニール中尉であった。ニールは初代所長であり、それ以来、被爆者の子供たちの遺伝学プログラムを指揮した。グループは1946年11月に日本で会合した。その正式な名称として「原爆傷害調査委員会(ABCC)」と呼称した。

 1947年3月に広島日赤病院の一部に広島ABCCを開設した。1948年7月に新興善小学校内長崎ABCCを開設した。ABCCは1948年から1950年の間に急速に拡大した。1948年初頭に、ABCCはアメリカ人3名、日本人25名のスタッフで開始した。最終的には広島と長崎の両市の約7万人の子供を対象とした大規模な遺伝学的研究が、開始された。小児科、眼科調査、白血病調査が開始され、広島の比治山ABCCの建設が始まった。1950年には成人医学調査が開始され、外国人143人、日本人918人の合計1,061人となった。しかし、朝鮮戦争(1950~1953年)が始まると、ABCCの研究に財政的な制約を伴った。




2022年1月21日金曜日

連合軍によるドレスデン空襲による無残な丸焦げで黒化したドレイデン市民の焼死体が空爆された残骸の中に散乱した。

連合軍によるドレスデン空襲による無残な丸焦げで黒化したドレイデン市民の焼死体が空爆された残骸の中に散乱した。ドイツ軍の捕虜たちが生存者を捜索するも、約1,000人が収容された空襲シェルターでも生存者も生の死体もなく、骨が突き出た緑褐色の液体だけであった。避難した地下室では、爆発に次ぐ爆発して多くの人が重度の火傷や外傷をした。死者や瀕死の人は踏みつけられて、燃え盛る道路、落ちてくる廃墟、恐ろしい火の海になった。焼死した大人が小さな子供の大きさになり、家族全員が焼き殺され、死体の腕や足の断片が散乱した。どこもかしこも火の海で、その間中で、火災嵐の熱風が民間市民を焼けた家の中に閉じ込めた。子供は弧を描いて火の中に飛んで入った。酸素不足により、次々と窒息死した人々が地面に転倒した。近所の空襲シェルターに逃げ込み、後ろも前も全部燃えて、地下室の酸素が無くなり、窒息死した。焼かれ、火葬され、引き裂かれ、押しつぶされた状態で埋葬された。死体は火炎の竜巻により、ほとんど裸にされた。犠牲者は形のない板状であり、亜鉛製の桶にかき集められて灰の層となった(目撃者の証言)。

  1945年2月13日から15日の連合軍のドレスデン爆撃は、第二次世界大戦の中でも大火災で膨大な市民の人命を失った。4回の空襲で、イギリス空軍の722機とアメリカ陸軍の527機が、約3,900トン以上の高火力爆弾と焼夷弾をドレスデンに投下して、焼夷弾が大量の火災を発生させて、火の海となった。市街地の約40平方kmが焼失した。市街地が燃えれば燃えるほど、酸素が吸い込まれ、火災の勢いが増悪した。最高温度は摂氏990度に達して、道路は溶けて、逃げ惑う人々の足は火傷した。ドレスデンは無防備で、サーチライトもなければ、対空砲も炸裂せず、人工密集地の都市部の民間人が標的となった。連合軍の爆撃は、建物が全壊して、大爆発弾で建物の木組みが露出して、次に焼夷弾で放火して、最後に消火活動を妨害した。空襲が終結してから、近くの強制収容所からナチス親衛隊が連行して、街の旧広場で死体を焼いた。死体の数が多すぎて、火葬の作業には2週間を要した。

 ドイツの公式報告書は、3月22日までに収容された死者の数は約20,204人で、そのうち約6,865人はアルトマルクト広場で火葬されて、死者の総数は約25,000人になると予想した。4月3日の報告書では、回収された死体数は約22,096体とされた。1945年4月30日までに、ドレスデン郊外の3つの市営墓地と17の農村墓地で、アルトマルクト広場の火葬も含めて、ドレスデン空襲による少なくとも約21,895体の埋葬が記録された。進撃するソ連軍から西方へ逃れてきた約10万から約20万人の難民が空襲時に市内にいた。死者のほとんどが窒息死した。ひどく焼かれた死体約4か所が回収された。空襲後に約25,000人が行方不明となった。




2022年1月20日木曜日

ムンダ岬にて破壊された砲台の前で日本軍兵士は爆死して、アメリカ軍は日の丸の日本国旗が腰部に巻いた死体を探索して検死した。

ソロモン諸島のニュージョージア島にある日本軍のムンダ航空基地は、地上戦に先立ち、1944年8月20日にアメリカ軍の激しい砲爆撃を受けた。破壊された砲台の前に日本軍兵士が爆死して死体が散乱した。日の丸の日本国旗が腰部に巻いていた日本軍兵士の死体を1943年8月20日に探索して検死した。ムンダ飛行場の戦い(Munda Point)は、1943年7月22日から8月5日まで勃発して、アメリカ軍兵士は約4,994人が戦死傷して、日本軍兵士は約4,683人が戦死した。アメリカ軍は、ニューギニアで反攻して、ラバウルの日本軍基地を孤立させ、1942年8月7日からガダルカナルと周辺の小島に上陸してソロモン諸島の日本軍に反撃した。

 ニュージョージア島へのアメリカ軍の上陸は1943年6月30日に始まった。さらに7月2日には島の南岸に、7月5日に島の北西岸に上陸した。12の小さな島々は、日本軍の砲撃を受ける狭い水路で隔てられ、珊瑚礁や離島で囲まれて、攻略は困難を極めた。同時期に内陸部への侵攻は、ジャングルの荒れた地形と日本軍の猛烈な抵抗のために、すぐに遅延した。熱帯性の暑さ、病気、疲労に加えて、延々と続く日本軍兵士のバンザイ突撃により、日本軍は大量の戦死者を出しながら、アメリカ軍は疲れて震え上がった。日が経つにつれて、日本軍は夜間突撃も巧妙になり、アメリカ軍を意図的に不安に陥らせた。公式報告書では、アメリカ軍の野営地に、日本軍兵士が夜間に突撃すると、非常に大きな混乱、発砲、刺殺があった。アメリカ軍と日本軍の兵士が互いにナイフで刺し合う者もいた。暗闇の中でやみくもに手榴弾を投げる者もいた。手榴弾の中には木に当たって跳ね返り、アメリカ軍兵士の間で爆発した者もいた。アメリカ軍兵士の中には、何度も何度も銃を撃つ者もいた。多数の震えたくぼんだ目の兵士は後に戦争神経症と診断された。朝になっても、日本軍兵士の死傷者の痕跡は残っていなかった。しかし、アメリカ軍の死傷者は残存して、刺されて死んだ者もいれば、ナイフで負傷した者もいた。多くのアメリカ軍兵士が手榴弾による戦傷を負い、そのうち半数はアメリカ軍の手榴弾の破片によるものだった。戦闘の疲労はすぐに蔓延して、島の南西端にあるムンダ飛行場への侵攻は停滞した。

  7月25日に、アメリカ軍は、戦車、砲撃、空爆、艦砲射撃を受けながら、新たな侵攻を開始した。日本軍兵士はココナッツの丸太を太い珊瑚で補強した塹壕に入って、必死に抵抗していた。アメリカ軍の戦車は、防衛軍によって撃ち落とされ、火炎放射器を持った男たちを狙撃兵が狙い撃ちしていた。また、日本軍は夜になるとアメリカ軍の前線に侵入し、時には壕を奪い返して、兵士たちに何度も追い出させることもありました。まだ未熟で不安定だったアメリカ軍も、火炎放射器により日本軍の砲台を1つずつ消滅していった。迫撃砲や砲兵隊と連携して、日本軍の陣地バンカーを特定し、叩き潰して直接に攻撃した。7月29日に、日本軍はムンダ飛行場前の最終の防衛線に撤退した。戦闘に疲弊したアメリカ軍は侵攻を継続して、ゆっくりとマンダ飛行場を占領した。1943年8月5日に、アメリカ軍兵士は、残存していた日本軍を制圧して、ムンダ飛行場を獲得した。ムンダ飛行場を約2週間以内に再び使用可能とした。ソロモン諸島攻略のための継続的な優勢を提供した。


























2022年1月20日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2022年1月19日水曜日

1963年6月11日以降に僧侶が南ベトナム政権に抗議する焼身自殺をして、人体が身体から火炎が放出して身体は黒く焦げていった。

1963年6月11日以降の数週間で、南ベトナムでは約10人もの僧侶が南ベトナムのゴ・ディン・ジェム政権に抗議する焼身自殺をした。首都サイゴンにて、僧侶の人体が身体から火炎が放出して、徐々にしなびれてしぼんでいき、身体は黒く焦げていった。周囲には人体の肉が焼ける匂いが立ち込めた。人体は驚くほどあっという間に焼け焦げた。焼身自殺して正座して身体を屈めた僧侶の死体に、集まったベトナム人たちが拝みながら取り巻いた。焼けている途中で、僧侶は身体を微動だにせず、うめき声も挙げなかった。背筋をまっすぐに屈曲した姿勢は、周囲に集散した市民らとは対照的であった。1963年代半ばから1971年にかけて、アメリカ軍がベトナムに駐留するようになると、ベトナム戦争に反対した僧侶の焼身自殺が増えて約100人の焼身自殺があった。ある1週間で13人もの僧侶が焼身自殺をした。

 僧侶の焼身自殺の起点となったのは、1963年6月11日にティック・クアン・ドック(66歳)が焼身自殺をした。サイゴン(現・ホーチミン市)のカンボジア大使館前で自らにガソリンをかぶせて焼身自殺した。当時の南ベトナムのゴ・ディン・ジエム政権は、ローマ・カトリック式の統治を強要して、仏教徒に対する高圧的な弾圧に抗議した。僧侶の支援者たちが拝跪する中で、燃え上がる炎の中でも蓮華坐を続けて、絶命するまでその姿を崩さなかった。その衝撃的な姿が、画像を通じて世界中に放映されて、ベトナム国内だけでなく国際世論に大きな衝撃を与えた。1963年11月2日に発生した軍事クーデターにより、ゴ・ディン・ジェム大統領と秘密警察長官は、逃げ込んだサイゴン市内のチョロン地区にあるカトリック教会の前に止めた反乱部隊の装甲兵員輸送車の中で殺害された。

 焼身自殺(Self-immolation)とは、自分の身体を自分で焼いて自身を焼死させ、自殺することである。しばしば政治的、あるいは倫理的な抗議として特に言論の自由の無い、または制限されている状態下で行われる。仏教やヒンドゥー教では、焼身自殺は、何世紀にも行われてきた。サティー、政治的抗議、離婚、絶縁などさまざまな理由がある。キリスト教やイスラム教は焼身自殺は禁忌の一つとされる。最後の審判の日まで自らの肉体は土葬などの手段により、死後も適切に保全された状態とする宗教である。焼身自殺して一命を取りとめた後は死ぬより辛い痛みが待ち受けている。2010年12月18日に露天商のモハメド・ブアジジがチュニジア政府に抗議した焼身自殺がアラブの春を発火させた英雄から、逆に民主化の後退で批判と中傷の対象になった。




2022年1月18日火曜日

硫黄島の戦いで、多数のアメリカ軍兵士の死体はタンカ上でポンチョで覆った。多数の日本軍兵士は、塹壕の中に投げ入れ埋めた。

硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。太平洋戦争の硫黄島の戦いが終結した後に、それらの死体群をアメリカ軍兵士の埋葬版が検死をしながら鑑別した(上)。各々の死体から、識別番号と私物をアメリカ軍の埋葬部隊が検証して回った。硫黄島の北端に散在していた日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた(下)。ひどく壊れた死体は、多くは体が真っ直ぐに切断されて、脚と腕は身体から約15mも吹っ飛んだ。迅速な埋葬が必要であり、特に温暖な天候では、衛生上の理由から非常に重要であった。死体から死臭の腐敗臭はほとんど耐えられなかった。

 硫黄島の戦いは1945年2 月19日から3月26日まで、アメリカ軍の占領で幕を閉じた。硫黄島は戦闘の終結後には、まるで死の谷のように死体が残存していた。火薬が残り、戦争跡が残り、足元には死体が散乱した。硫黄島の日本軍兵士はほぼ全滅して死亡した。アメリカ軍は硫黄島の占領で多大な代償を払った。戦闘の最初の3週間でのアメリカ軍兵士も日本軍兵士の死傷者のほとんどは、迫撃砲、大砲、地雷、手榴弾、ロケット爆弾などの高爆発物により、弾丸や迫撃砲は、どこからともなく飛んできて命を奪う。洞窟やブロックハウスに出くわした日本軍兵士をすべて撃ち殺し、焼き殺した。洞窟を覗き込み、戦闘員はいないと確信する。死んだはずの日本軍兵士が背後で再び生き返ったとき、突如に襲撃を受けた。孤立した洞窟の中で戦って、その下には広大なトンネルがあった。

 硫黄島のいたるところに死体が転がっていた。葬式にも出たことのない青年兵士たちは、死んだ仲間を転がしていくことに慣れていった。生き生きとした青年兵士たちは、死を積んだトラックから死体を降ろす埋葬の仕事をした。硫黄島から生存したアメリカ軍兵士たちは、船出して、白い十字架の墓とダビデの星の列を見えたことを覚えている。硫黄島の地下にはまだ約6,000人以上の日本軍兵士の死体が埋葬されている。最近に約260人が発掘されたが、中には硫黄ガスでミイラ化した死体もあり、眼鏡が鼻の上にまっすぐに置かれて、頭髪も残っていた死体もあった。

 硫黄島の戦いが1945年3月26日に終結した時には、アメリカ軍は硫黄島内で約20,703人の日本軍兵士の死体を者を数えて、約216人の捕虜を拘束していた。しかし、それからの約2ヶ月間も、硫黄島のアメリカ軍は日本軍の残党兵士と何度も遭遇した。終結後から終戦までに、日本軍兵士は、さらに約1,602人が死亡して、約867人が捕虜となった。太平洋戦争が終結した約3年後の1949年1月6日に2人の日本の残留日本兵が島の洞窟とトンネルに潜伏して最終降伏した。

 アメリカ軍の死傷者数は、資料によって若干異なる。硫黄島の戦いで約6,812人のアメリカ軍兵士が戦死あるいは行方不明となり、約19,189人が負傷した。死傷者の内訳は、戦死者数は約4,917人、戦傷による死亡数は約1,401人で、行方不明は約494人と表記された。硫黄島の戦いは、アメリカ軍兵士には最も血なまぐさい戦いとなり、太平洋戦争において、アメリカ兵士の死傷指数が日本軍側の戦死者数を上回った唯一の戦闘であった。特に上陸してから3日間のアメリカ軍兵士の死傷者数は、アメリカ軍の軍事史上最多であった。硫黄島で民間人の死傷者はなかった。











硫黄島の海岸付近に、ポンチョで覆われてタンカ上に載せたアメリカ軍兵士の多数の死体が並列して並べられた。



日本軍兵士の死体は、アメリカ軍兵士が乱雑に集積した。その日本軍の死体群は、地下の洞窟や砲弾孔の中に投げ入れて埋められた。

2022年1月17日月曜日

1893年2月1日にテキサス州パリスで、アフリカ系アメリカ人のヘンリー・スミスは、何千人もの大観衆の目前で、リンチを容認する自人集団により公開火刑された。

1893年2月1日にテキサス州パリスで、アフリカ系アメリカ人のヘンリー・スミスは、何千人もの観衆、都市の指導者、民間企業の目前で、リンチを容認する自人集団により公開火刑された。ヘンリー・スミスが熱い鉄の棒を体の上や足の裏に転がされて拷問をして火刑を執行した。約330平方メートルの敷地に約5,000人から約15,000人の大観衆が詰めかけてリンチを見学した。捕獲されたスミスは、ラバの荷車で町中を運ばれた。リンチでスミスがうめき声を上げるたびに、体をゆがめるたびに、大群衆が喝采した。

 娘ヴァンスを殺害の容疑者スミスは、警官の父親ヘンリーと15歳の息子、義理の兄弟によって縛られ、処罰と掲げた木製の足場の上から約50分間拷問された。彼らはスミスを杭に縛り付けた。足元には、焼印を加熱する熱い石炭の入った缶を踏ませた。スミスの告白文を読み上げた後に、スミスを拷問にかけた。男たちは焼印を手に取り、スミスの足の裏を焼き、目に届くまで体に沿って転がして、スミスは沈黙を破り、体をゆがめて長く続く苦悩の悲鳴とうめき声が空気中に響き渡った。目をえぐり出した。舌は切り落とされ、性器も切り落とされた。まだ生きているスミスに、体に灯油をかけて染み込ませた綿棒で火をつけた。火の強さで下肢が先に焼かれ、ロープが焼け落ち、切断された腕が視力のない目を拭こうとした。足場が崩れ、スミスは炎から逃れようとして転げ回った。群衆が足でスミスを焔の中に押し戻して焼死した。リンチ後に、観衆は黒焦げの死体の一部を持ち帰り、土産物屋は焼け跡から骨を探し出し、プロの写真家はポストカードとして売るための写真を撮った。

 アメリカでは18世紀から19世紀半ばまでは、人種的リンチではなく、理論家、馬泥棒、賭博師、奴隷制廃止論者などが対象であった。しかし、1880年代から、暴徒の虐待と虐殺はますますアフリカ系アメリカ人に向けられた。1882年から1964年の間に、約5,000人の人々がリンチで虐殺され、大半はアフリカ系アメリカ人であった。1890年代から、アメリカ史上最悪のリンチの時代となった。1893年2月1日のスミスのリンチは、ニューヨーク・サン紙に、テキサス州パリスで、白人少女の殺害を告発された黒人男性スミスが火刑された悲惨な記事を掲載した。リンチを目撃、余波を垣間見ることは、白人からリンチの対象になりやすいアフリカ系アメリカ人の若い男性にとって、恐怖の体験となった。リンチの脅威は、南部の黒人を弾圧する悲惨な手段となった。




2022年1月16日日曜日

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナで第3次ハリコフの戦いで、ドイツ軍とソ連軍が戦闘して、ドイツ軍の戦車の側で殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわっていた。

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナで第3次ハリコフ(Kharkov)の戦いで、1943年2月2日から3月18日までドイツ軍とソ連軍が戦闘した。ドイツ軍の戦車の側で殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわっていた。その死体からはブーツが略奪されていた。大雪と寒さで気温がマイナス30度以下になったソ連軍の攻撃に、雪解け水と泥の中でドイツ軍が反撃した。双方に多大の犠牲を伴った。生き残ったロシアの戦車が煙と焔で崩壊して生き残ったソ連軍の乗組員をドイツ軍が掃討しました。

 1943年2月16日に、ソビエト軍はソビエト連邦で4番目に人口の多い都市であるウクライナのハリコフ市を、ドイツ軍から奪還した。ドイツ軍は、2月2日にスターリングラードの戦いでの敗北により、ドイツ南軍の東部戦線全体が崩壊の危機に陥った。3月2日にはドイツ軍は、南軍グループに所属するSSパンツァー3個師団を率いてハリコフ市への攻撃を開始して、第3次ハリコフの戦いが勃発した。3月11日から数日間、激しい市街戦が繰り広げられた。雪に覆われた裸の草原は、反撃するドイツの戦車にとって理想的な訓練場と化した。ソ連にはわずかな避難所も喪失した。ソ連軍が退却する軍隊は、最大20kmの距離でドドイツ軍砲兵の標的になった。ソ連軍が再占領したハリコフの街は、約70%が廃墟と化して、数万人の住民が犠牲となった。ドイツ軍の死傷者数は約11,500人、ソ連軍は約86,569人(戦死約45,219人と戦傷約41,250人)に及んだ。ドイツ軍の中で最も被害が少なかったのは第1SS戦車師団で、ソビエト軍に約4万もの死傷者を出したにもかかわらず、約4,500人の死傷者にとどまった。ハリコフ市民は、約21,000人が殺害された。約35,000人の市民が難民として流出した。

 ハリコフを3月14日に再占領したドイツ親衛隊員が最初に行ったのは、病院にいた負傷者約200人を虐殺して病院に焼却した。ドイツ軍によるスターリングラードの復讐だった。第3次ハリコフの東部戦線でのドイツ軍の最後の反撃となった。ドイツ軍はクルスクの戦いの後、8月までハリコフを保持していた。第4次ハリコフの戦いで、 1943年8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲されつつあった。8月21日に、ヒトラーの命令に反して撤退命令を出して、ドイツ軍は撤収を始めた。8月23日には、ハリコフの街は、最終的にソ連軍が再奪還した。その後にハリコフ約20,000人の市民とそのうち約4,000人の女性がドイツ軍協力者として処刑された。 その他に、市民を強制収容所に強制連行した。ハリコフの15歳から45歳までの男性約15,000人が強制的に軍隊に入隊されて、大半が戦死した。




2022年1月15日土曜日

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年の健二が、二次放射能による残酷な急性髄質白血病により12歳で死亡した。

広島原子爆弾の投下時に、生後5カ月の胎児だった少年が、被爆地の近くを歩いた母親はほとんど異常がないのに、二次放射能による急性髄質白血病で12歳で死亡した。梶山猛(44歳)の長男の健二(11歳)は、豊島小学校の6年生だった。原爆投下の翌日の8月7日から6日間に、妊娠5ヵ月の母親美富代さん(41歳)は、相生橋、大手町、吉島町などの被爆地周辺を歩き回り、叔母を探していた。母は一時髪が抜けて、吐き気や下痢を伴って、1946年1月4日に健二が誕生した。

 健二が11歳の1956年11月頃から体重が減少した。1956年の5月頃から、左膝下に腫瘤ができ、腫物が多発して、38.9度以上の熱が続き、やせ細っていった。手足の痛みやだるさを訴えて、1957年5月23日に広島大学病院に入院した。原爆による急性髄性白血病と診断されて、原田病院に入院して治療を受けて、6月5日に広島原爆病院に転院した。白血球数は301(通常は6000~8000)、赤血球数は172万(通常は400万~450万)、ヘモグロビンは36%(通常は95~100%)と、深刻な血球減少を示した。肝臓と膵臓が腫れて、髄質性白血病の末期で、終末の貧血であった。広島原爆病院では、直接被爆していない母親の子供が白血病になったのは初めであった。布団から飛び出した手足は、やせ細り骨と皮だけだった。お腹が痛くなり、最後には全身の骨や腸が痛くなって、とても苦しんだ。全く食欲がなかった。健二は6月21日朝4時5分に死亡した。

 原爆病の健二は、死という絶対的な運命を目前にして、「僕を撮影してください......」突然か細い声で言った。父も「写真を撮ってください」と言った。家族に枕元に集まっ撮影した。天井に吊るされた千羽鶴や歌仙も撮影した。午後4時頃、体温と脈拍を測りに来た看護師を撮影した。6月21日午前7時には広島原爆病院で遺体を安置する部屋に健二はいた。被爆者の遺体は、死後数時間以内に解剖されて、すべての資料は比治山のABCCに運ばれた。健二は、休憩室の床に敷いた布団の上で、白いガーゼで顔を覆っていた。

 神棚の前から健二の名前を呼んでも、写真から声はなかった。恐ろしい放射能は親愛なる健二の骨の髄まで食い込み、胃まで食い込み、地獄の苦しみへと陥って、約一年間にわたり残酷に苦悩した。神棚の前に座って、神仏に平和と原水爆の廃絶を祈った。宇品港から船で約3時間にある豊島にて、健二の墓は瀬戸内海を一望できる高台で「釈慈海」と書かれた。仏壇の線香に火をつけて、心から健二の冥福を祈った。原爆禁止運動にも協力してください。(Domon Ken) 



















2022年1月14日金曜日

タラワの戦いで自殺した日本軍兵士は、銃口を胸に当てた状態で、ライフル銃の引き金を足の親指を突き立てて自らを銃殺した。

太平洋戦争にて1943年11月20日から勃発したタラワの戦いにて、アメリカ軍がギルバート諸島のタラワ環礁でペティオ島の日本軍を撲滅した。アメリカ軍に11月22日に制圧される直前に、自殺した日本軍兵士の死体が、取り壊された塹壕の下で、その他の死体と散乱していた。自殺した日本軍兵士は、銃口を胸に当てた状態で、ライフル銃の引き金を足の親指を突き立てて自らを銃殺した。アメリカ軍兵士は、ペティオ島の海岸の付近の塹壕や溝を掃討して、日本軍兵士を探索して殺害しながら死体を検死した。

 タラワの戦いの3日目、11月22日にアメリカ軍は戦闘を続てけ、いくつかの日本軍の塹壕や要塞を破壊した。その夜、ベティオ島に生存していた最後の日本軍兵士は、自殺行為となる猛烈なバンザイ突撃を行ったが、人命の無駄に終わった。ほとんどの日本軍兵士は、降伏することなく死ぬまで戦った。11月23日の夜明けには、日本軍の防衛隊員たちの死体が絡み合うように倒れていた。ベティオ島を防衛した日本軍兵士は捕虜となった約146人を除いて全員が死亡した。アメリカ軍が上陸して侵攻開始から約76時間後に、ようやくベティオ島の安全が宣言された。タラワの戦いでペティオ島が占領した後に、アメリカの建設部隊と駐屯部隊はペティオ島とマキン島に滑走路を作ったが、アメリカ軍の太平洋戦争の侵攻の速さのために、これらの島々の施設は太平洋戦争でその後の作戦にはほとんど役立たず無駄になった。

 1943年11月23日に、約76時間に及ぶ戦闘の末に、タラワの戦いは膨大な人命の犠牲を伴って終結した。約1,000人以上のアメリカ軍兵士が殺害されて、約2,300人近くが戦傷した。日本軍兵士は、防衛していた約4,800人の日本軍兵士のの守備隊員のうち、約97%が死亡した。アメリカ軍の捕虜になったのはわずか約146人だけで、そのうち約17人は朝鮮人労働者だった。犠牲者の多さはすぐにアメリカ国民に伝わり、この小さな島を奪うために失われたアメリカ軍兵士の人命の多さにアメリカ国民は驚愕した。

 タラワの戦いに限らず、太平洋戦争では、アメリカ軍と日本軍の戦争思想の違いが大きな犠牲を伴った。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士を殺害して太平洋の諸島を占領し、帰順することを目標とした。しかし、日本軍兵士は死ぬまで戦うことを目標とした。太平洋の諸島にいた日本軍兵士は、アメリカ軍兵士を倒さないで自分たちの人生を歩むなどとは考えなかった。日本軍兵士は、タラワの戦いが自分たちの最期の地になる可能性が高いことを覚悟して、当然と考えた。




2022年1月13日木曜日

皇道派の相沢三郎陸軍中佐が、1938年8月12日に陸軍省の統制派の永田鉄山軍務局長を、軍刀を抜いて斬りかかり刺突して暗殺した。

1937年8月12日午前9時30分頃に皇道派の相沢三郎陸軍中佐が陸軍省に到着して、山岡重厚整備局長との談話中に給仕を通して、統制派の永田鉄山軍務局長の在室を確かめた。午前9時45分頃に、陸軍省の軍務局長室に突入して直ちに軍刀を抜き、永田鉄山に斬りかかり刺突して暗殺した。永田鉄山は隣室に逃れようと、軍事課長室のドアに身体を当てるも、相沢三郎は体当たりして背中から軍刀で突き刺して、刃先は体を突き抜けドアまで達して刺殺した。相沢事件あるいは永田事件と呼称された。1938年1月28日から開廷した軍法会議は勅許奏請の手続きの段階となった。突如に1938年2月26日未明に、皇道派の青年陸軍将校らが二・二六事件のクーデターを勃発した。5月7日に死刑の判決となり、7月3日に銃殺刑が執行された。

 統制派は、当初は暴力革命的手段による国家革新を企図していたが、陸軍幹部である永田鉄山が陸軍大臣林銃十郎を通じて政治上の要望を実現する人事異動による合法的な組織で、列強に対抗し得る高度国防国家を目指した。それに対して皇道派は過激思想から、天皇への忠誠を誓い、結果を問わず危険な行動に走り、政財界の君側の奸を排除して天皇親政の下で国家改造する昭和維新を目指した。皇道派に敵対する永田鉄山が、自らの意志と関わりなく、周囲の人間から勝手に皇道派に敵対する統制派なる派閥の頭領にさせられた。皇道派が、統制派による人事の冷遇と排除に反発して、統制派の幹部を暗殺した。時代の転換点となり、個人主義、自由思想は一切排撃されて統制されて、時代は一挙に全体主義に逆戻りした。

 軍人はよく国家革新を論ずるが、革とは何か、どうすることが、どんな方法と設計でやることが、国家革新するのか、さっぱり判らない。重臣を殺害したり、クーデターをやることは、もはや言語道断であるばかりでなく、とても危険でもあり、愚劣でさえある。しかし軍人に対して、理論的にも、建設的な具体案で、かつ漸進的で段階的に、革新出来るというビジョンものを、よく得心させる必要があると、永田鉄山は示唆していた。やがて逆に、統制派であるも開戦派であった東條英機首相が1941年12月8日に、日本軍はイギリス軍との間で太平洋戦争に突入し、真珠湾攻撃して間もなくアメリカ軍との間に太平洋戦争が勃発した。




2022年1月12日水曜日

第一次世界大戦の西部戦線にてソワソンの戦いで、連合軍により殺害されたドイツ軍兵士の死体が陥没した道路に散乱した。

第一次世界大戦の西部戦線にてソワソンの戦い(Battle of Soissons)で、バリから北東約100kmのソワソンにて、連合軍により殺害されたドイツ軍兵士の死体が陥没した道路に散乱した。1918年7月18日にフランス軍とアメリカ軍の連合軍による圧倒的な砲撃で、ドイツ軍の前線は破壊されて、森や農場の抵抗拠点は崩壊した。7月19日に連合軍が再び侵攻して、ドイツ軍は19日夜から20日にかけて、重要な占領地を放棄して再びマルヌ川を渡り、北岸の高台に撤退した。ドイツ軍は一歩一歩後退して、しばしば倉庫や略奪した後に避難しながら火災や爆発が頻繁に起こった。7月27日から29日にかけて、ドイツ軍は大規模な後退となった。

 ソワソンの戦いでは、双方とも砲兵の支援が不十分で何の隠蔽もなく、敵から完全に見えている平地を兵士は侵攻した。侵攻する兵士には直ちに破壊的な射撃を行われ、機関銃の射撃と相まって主要な軍隊がほぼ壊滅した。ソワソンの戦いで、死傷者はフランス軍兵士は約9万5千人とアメリカ軍兵士約1万2千人で連合国軍側は10万7千人に達して、ドイツ軍は約16万8千人もの死傷者を出した。

 ソワソンの戦いは、1918年7月18日から7月22日にかけて、フランスの町ソワソン付近で行われた戦いである。フランス軍とアメリカ軍は、パリに向けられたドイツ軍の侵攻を止めた。この戦いは、1918年5月にドイツ軍に奪われた土地の大半をフランス軍とアメリカ軍が奪還することで終結した。1918年5月下旬、ドイツ軍は第3次攻撃を開始して、ケマン・デス・ダムを越えてソワソンを占領し、5月末日にはマルヌ渓谷をパリ方面に侵攻した。7月18日の早朝に、フランス軍とアメリカ軍の連合軍部隊は、ドイツ軍に対して大攻勢を開始した。ドイツ軍を森の中に追いやり、トランスロン農場とヴェルテ・フィーユ農場を占領した。敵がヴィエルジーを南下する防衛線を強化した後、攻撃を中止した。7月19日に攻撃が継続されると、連合軍はソワソンの道路を確保した。将来の総統であるアドルフ・ヒトラーは、1918年8月4日にソワソンで鉄十字章が授与された。





2022年1月11日火曜日

日本軍の工兵隊が、南京虐殺された中国人の死体に釣鉤に引っ掛けて、船の脇に吊るして下関川の沖合から揚子江に流した。

日本軍の工兵隊が、南京虐殺された中国人の死体に釣鉤に引っ掛けて下関川の沖合から揚子江に流した。犠牲者の死体は、船の脇に吊るされた。下関川に死体を引きずり込み浮かせた。1937年11月13日に南京に侵攻した日本軍は、中国の兵士と民間人を下関川に強制連行して、機関銃で銃殺した。南京虐殺はその約2日間にかけて執行されて、揚子江のほとりの無福山付近で行われた。死体にはガソリンをかけて焼却された。多くの死体はその後に揚子江に投げ込まれた。

 朝日新聞の特派員は1937年12月13日と12月14日の両日に、第13師団歩兵第65連隊が長江南岸の武龍山・無風山の砲台付近で、中国軍兵士約14,777人を捕虜にしたと報じた。その後に続報はなく、何十年もの間、中国人捕虜がどうなったのかは不明であった。日本側では、半数が釈放され、約4分の1が逃亡し、残りは暴動を起こして殺された説があった。中国人捕虜は全員、揚子江のほとりに引きずり込まれて処刑された説もあった。

 1980年代後半に、日本の化学工場勤務の小野賢二が、約200人ほどの戦争体験者にインタビューし、約24冊の戦時中の日記などの史料を集めて南京事件を調査した。その調査から1998年に、12月14日以降に捕虜になった中国人約1万5千人と、約2千人から約3千人の捕虜から、日本軍の命令で虐殺されたことを示唆した。中国人捕虜の大量処刑は、南京虐殺の中でも最も規模の大きい。 

 日本軍一等兵の[1937年11月25日の日記】宿舎に着くと、大きな豚を2匹殺した。そして今、それを食べています。戦争は楽しいですね。お酒が好きな人は好きなだけ飲める。ここ数日、ようやく天気が良くなってきたので、心も楽になってきた。【12月16日の日記】数日前に捕らえた捕虜の一部、約5,000人を揚子江のほとりに連れて行き、機関銃で刈り殺した。その後、満足するまで銃剣で刺した。おそらく30数人の憎い中国兵を銃剣で刺しただろう。死体の山に登って銃剣で刺すことで、私は勇気を得て、鬼にも勝てるような気がした。彼らのうめき声を聞きながら、全力で刺していった。年寄りも子供もいた。全部殺した。刀を借りて首を切ったこともある。今までに経験したことのない珍しい体験でした。日本軍少尉の[12月16日の日記】捕虜は17,025人。夕方に軍令を受け、そのうちの3分の1を土手に連れ出し、第1大隊が射殺した。[12月17日の日記】夜、10,000人以上の残りの捕虜を処刑するために5人の兵士を送り出した。

 日本に上陸する前に捨てたと言っていた元日本軍兵士が、戦時中の日記を公開してくれた。中国人を虐殺したのは、ほとんどが日本市民の下士官や一般兵であった。上司の命令は絶対的なものであり、良心の呵責に苛まれている。(南京大虐殺を記録した皇軍兵士たち―第十三師団山田支隊兵士の陣中日記、大月出版、1996年)




2022年1月10日月曜日

沖縄戦が終結直前の1945年6月16日に、アメリカ軍が難民収容所の民間人を強制的に死体の埋葬を命令して、壕を掘って土葬させた。

沖縄戦が終結直前の1945年6月16日に、アメリカ軍が難民収容所の民間人を強制的に死体の埋葬を命令して、壕を掘って土葬させた。沖縄戦が終結した6月22日後でも、飢餓による栄養失調と病気に対する手当が困難となって死亡した。。沖縄戦の終結後でも多くの沖縄住民が死亡した。各収容所では、アメリカ軍により、収容民への物資の配給、住居建設作業の手配、軍命令の伝達、収容地区内の治安維持などに当たった。民間人は、畑に残った作物の収集や残存家屋の解体、移動予定地での住宅建設などに当たり、特に男子に限り死体の処理やDDT散布などの作業に駆り出された。収容所は、物資は沖縄南部から補給され、沖縄北部になるほど待遇は厳しくなり、収容者は次々と死亡した。さらに北部の収容所への強制移住が実施され、北部の収容所は当時の人口の約6割が集中する過密状態となった。

 沖縄住民はアメリカ軍に強制的に難民収容所に連行されて、食糧不足、飢餓と栄養失調、伝染病やマラリアのために多くの人々が死亡した。沖縄戦中は、戦争による外傷・栄養失調・マラリア等の病気によって多くの方が死亡した。アメリカ軍の難民収容所にて死亡した沖縄住民の死体は、共同墓地に埋葬された。民間収容所に収容された者の多く沖縄住民は、老人、婦人、子供であった。日本軍兵士や働き盛りの若い男性の多くは、捕虜収容所に入所された。難民収容所では、土葬するために墓穴を掘る作業は、老人や子供が主体となった。埋葬の際に、アメリカ軍は1つの墓穴に1人を埋めるように命令した。作業は老人や子供が担っていたため、集積される多数の死体の数量に埋葬が間に合わず、仕方なく1つの墓穴に2人以上から多いときは4~5人を埋葬した。難民収容所で亡くなった方の多くは、老人、婦人、子供であった。宜野座村の指定文化財となった古知屋共同墓地および福山共同墓地の死亡者名簿には、合計で約1,029名の被埋葬者名が記載された。

 アメリカ軍は沖縄戦の捕虜を日本軍兵士と非戦闘員に区別した。各地域の住民を収容するために、占領した所に難民収容所を作り、住民を排除した隔離した。敵対的な地域の適切な管理のために、沖縄住民は敵国民に扱われた。沖縄住民を登録し、尋問し、監査するための収容所となった。難民収容所での食糧は、限られた配給を受けても不足した。収容所内でもアメリカ軍兵士による若い女性に対するレイプ事件が多発した。アメリカ軍に生存した日本軍兵士の捕虜は、1945年12月までに約16,346人となっている。アメリカ軍は6月10日からハワイの日系人収容所施設に捕虜を移送した。1945年7月19日付に、アメリカ軍は今後90日以内に約130,000人の沖縄住民を様々な区域から退去させることを突如に内定した。しかし、沖縄住民のための避難所や衛生設備は皆無であった。




2022年1月9日日曜日

ユーゴスラビア人民軍等によりヴコヴァルでクロアチア人の約264人の男性と1人の女性が大量虐殺された死体が家屋に並べられた。

クロアチアの東の端でヴコヴァルの戦いの終末期に、1991年11月20日から11月21日にヴコヴァルの虐殺が勃発した。ユーゴスラビア人民軍とセルビア人民兵によりヴコヴァルのクロアチア人が大量虐殺された。約264人の男性と1人の女性が虐殺されて、そのうち約194人だけが特定された。約200体の死体がヴコヴァルの家屋に並べられて、そのほとんどがクロアチア人市民であった。ユーゴスラビア人民軍が、ヴコヴァルの包囲中に、何百人ものクロアチア人市民が救護を求めてヴコヴァルの病院に避難した。1991年11月18日にヴコヴァルが陥落した後に、ユーゴスラビア人民軍とセルビア準軍事組織によって、少なくとも約400人の非セルビア人が連れ出された。約250人以上が南東のオヴチャラ農場に強制連行されて、激しい暴行と虐待を受けた。その後、捕虜は約10人から20人のグループに分けられて銃殺で処刑されて、近くの共同墓地に埋葬された。集団墓地は1992年10月に発見され、国連保護軍によって保守された。1996年に旧ユーゴスラビア国際刑事裁判所(ICTY)の捜査官によって200体の遺体が発掘された。

 ヴコヴァルの戦いは、重装甲と大砲を装備した36,000人ものJNA兵士とセルビア人民兵に対し、約1,800人の軽装のクロアチア国民衛兵(ZNG)と民間志願兵によって防御された。戦闘中、砲弾とロケットが1日最大12,000発の割合で町に発射されて、ヴコヴァルは崩壊した。1991年11月18日にヴコヴァルが陥落した時に、数百人の兵士と民間人がセルビア軍によって虐殺されて、少なくとも約2万人の住民が追放された。ヴコヴァルの大部分は非セルビア人から民族的に浄化されて、未承認のセルビア・クラジナ共和国の一部となった。ヴコヴァルの戦いの犠牲者は、約3,6000人のユーゴスラビア軍は約1,103人が戦死、 約2,500人が戦傷して、ヴコヴァル側は、クロアチア人の約879人戦死、約770人が戦傷した。ユーゴスラビア人民軍は犠牲で疲弊して、クロアチア独立戦争の転機となり、数週間後には停戦が宣言された。

 1995年にクロアチアのセルビア人反乱軍が支配する地域の中で、唯一クロアチア軍の占領を免れた地域となった。ヴコヴァルは1998年にエルデュット協定が締結されてクロアチアに再統合された。その後、再建されたものの、人口は戦前の半分以下で、多くの建物には戦いの傷跡が残存した。2つの主要な民族コミュニティは依然として深く対立しており、かつての繁栄を取り戻すことはできていない。




2022年1月8日土曜日

広島原子爆弾により、爆心地から約1kmで被爆して、窓のガラスが爆風で粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びて、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。

広島原子爆弾により、青年の被爆者が爆心地から約1kmで被爆した。青年は窓際から約3mから4m離れて上半身を裸で立っていた。窓のガラスが爆風によって割れて粉砕されて飛び散った無数のガラス破片を上半身に浴びた。ガラス破片は皮膚から突き出し、激しい痛みを生じた。ガラス破片が、上半身だけで約165個も皮下に侵入した。ガラス破片によって、特有な動脈瘤を発生した。その他に軽度の原爆症を合併した。小さな腫瘤のように浮き出て盛り上がって触ると可動性を伴った。猛烈な爆風によってガラスがこまかく砕くだけて、ガラス破片が無数に身体に突き刺さった。さまざまな大きさのガラスの破片が、強烈な爆風に煽られて体に突き刺さって、体の中に深く入り込んだ。その他に、木片や鉄の破片なども突き刺さった。ガラスの破片と火傷で血だらけになった。被爆後に生涯にわたりガラスの破片が残存した被爆者もいた。

 長崎原子爆弾は、長崎医科大学と大村海軍病院により約8,000人にも及ぶ被爆者の被害状況が、1945年10月から12月に調査された。爆風が人体に加えた二次的に起った外傷では、最も多かったのはガラス傷(約60%)で、小さな破片が無数に身体体にささり、大きなガラス破片で末梢神経を切断したり、頭蓋骨を貫いて脳内に入った被爆者もいた。次に多かったのは打撲傷(約20%)や挫創(約13%)で、幸に骨折は少なかった(約2%)が、その中には腰推骨折を起して、起きれない被爆者もいた。

 原子爆弾が炸裂した爆風は、大地震のような震動を生じ、家が倒れた。一抱えもある大木が折れ、あるいは根こそぎ倒れた。病院の煙突は斜めに曲り、長崎医科大学正門の門柱は幅約1m, 高さ約1.5mで土台はコンクリートで固めるも、約30度ほど傾いて斜めの傾斜になった。長崎市内ではガスタンクの鉄塔も工場の鉄柱も、圧壊されて飴のように曲った。墓石が全部倒れた。約40cm程伸びていた甘藷の茎が、根こそぎちぎれて、甘藷が地面に露出した。山王神社の有名な二の鳥居が、爆風により1本足鳥居が残存した。窓のガラスは約10km以上の遠い所までも粉砕して割れ、瓦も飛び散った。




2022年1月7日金曜日

太平洋戦争のニューブリテン島のグロースター岬の戦いにて、1943年12月27日に日本軍兵士が砲台の側で殺害されて、死体が密林のジャングルの中に横たわっていた。

太平洋戦争のニューブリテン島のグロースター岬の戦いにて、1943年12月27日に日本軍兵士が砲台の側で殺害された。死体が密林のジャングルの中に横たわっていた。アメリカ軍とオーストラリア軍の艦艇によるグロスター岬の日本軍陣地への砲撃から戦闘機による地上攻撃が行われた。その後に1943年12月26日から、アメリカ軍とオーストラリア軍はニューブリテン島のグロースター岬に上陸して、日本軍を1944年4月22日まで侵攻した。その直前の12月15日にはニューブリテン島の南西のマーカス岬からも上陸して日本軍を侵攻した。

 1942年1月23日から日本軍はニューブリテン島に侵攻して、ニューブリテン島とグロスター岬を1942年2月9日に占領していた。日本軍はグロスター岬に2つの飛行場を設置していた。アメリカ軍がソロモン諸島に侵攻した際に、ニューブリテン島を再占領して、飛行場を利用してニューギニアの他の地域を占領するために、グロスター岬の飛行場も含まれた。ニューブリテン島に日本の主要基地があるラバウルを爆撃した。ニューブリテン島とニューギニア島の往来を可能になった。グロースター岬に上陸した直後にアメリカ軍は隊は、日本軍兵士の約100人から野蛮な自殺するようなバンザイ攻撃を受けた。戦闘は日本軍が降伏するまで続き、その後にグロスター岬は安全になったと宣言した。

 12月27日の夜に、日本軍はアメリカ軍の上陸地点に対して激しい反撃を開始した。この攻撃は失敗に終わり、日本軍は少なくとも約200人の死者を出した。12月28日の正午に、アメリカ軍はより強固な日本軍の防御陣地と戦闘となり、アメリカ軍は死者約人、負傷者約36人、日本軍は少なくとも死者約266人を出した。日本軍は12月30日に再び姿を現して、アメリカ軍の攻撃中に飛行場の南側に避難して、今度はバンザイ攻撃を仕掛けてきた。完全に失敗し、生存者は半島中央の山に逃げ込んだ。アメリカ軍には1943年1月14日に再び攻撃を行い、迫撃砲の支援から丘の頂上に到達した。日本軍は周囲のジャングルに退却を余儀なくされ、日本軍が道路封鎖に遭遇した。その後、小競り合いが数日続き、1月16日の夜明け直後に、日本軍は丘への最後のバンザイ攻撃を行った。日本軍は、最終的には大きな損失を出して撃退された。この戦いで、アメリカ軍は約50人の死傷者を出したが、日本軍は約200人の死者を出した。グロースター岬の戦いで、連合軍は総計で約310人が戦死して、約1.083人が戦傷して、日本軍は約1,000人が戦死した。 




2022年1月6日木曜日

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイで、日本軍の神風特攻攻撃で殺害された乗組員の死体は厚地の平織りの白布に包まれて海への投入の埋葬を待機した。

アメリカ軍の攻撃輸送艦のキャラウェイ(Callaway)の乗組員である沿岸警備隊員が神風特攻で殺害された。その死体は、死体を包む厚地の平織りの白布に包まれて重くなっており、海への埋葬する投入を待っている。彼らは、フィリピン・ルソン島のリンガエン湾に侵攻した際に、1945年1月8日に日本軍の神風特攻隊の自爆突撃を受けて、29人が死亡したアメリカ軍水兵人の死体群である。その他22人が戦傷した。太平洋戦争で海の勝利の代償を払ったアメリカ軍水兵たちの墓には、白い十字架の列はない。深海で死んだ者は、深海で死体から眠っている。

 フィリピン・レイテ湾の戦いでは、神風特攻機が初めて登場した。1944年10月19日に、大西瀧治郎副司令官はフィリピンのマバラカット戦闘機の基地で上級司令官と会談して、「戦闘機の数が少ないので、特攻でなければ成功を保証できない。一機の戦闘機に約250kgの爆弾を搭載して、片道の燃料で空母の甲板に不時着させなければならない」。これが神風という特攻の起源である。神風の言葉は、中世に日本を侵略しようと出撃したモンゴル軍の艦隊を吹き飛ばした台風のことを指している。

 空母タフィー3号が日本海軍と戦っている間に、10月25日にその近隣の護衛空母サンティーが特攻機の攻撃を受けた。これが神風による最初の神風の突撃墜落船となった。午前7時40分、すぐに別の神風が同じ勢いで午前8時4分にスワンニー号に命中した。護衛空母軍(タフィー3は損傷を数えていた午前11時前に、特攻攻撃を受けた。5機の神風は撃墜されて空母に軽微な損傷を与え、6機目の神風は10時47分に護衛空母セントローの飛行甲板を突き破り、爆弾と魚雷の爆発を起こして、セントローが沈没したのである。日本群は後に最も恐ろしい兵器の一つとなる特攻初めて試行した。

 神風特攻隊員たちは、執拗なまでに執拗な特攻攻撃を行った。この時から戦争が終わるまで、日本軍の若い飛行士の間では、この片道飛行に志願することは大きな特権とされていた。パイロットたちが家族に宛てた別れの手紙が集められている。ある手紙にはこう書かれている。「私のことを親切に思ってくれて、立派なことができたのは幸運だったと思ってください」。別の手紙には、「人は誰でも運命づけられている。"人は皆、やがて自分の道を歩む運命にある "と。また、あるパイロットは日記の最後のページをこう結んでいる。"春の桜のように、私たちは清らかに輝きながら散っていこう。" いずれも20代前半であった。

 神風特攻は戦争の流れを変えることはできなかった。艦船と連携したアメリカ軍の対空砲火の攻撃によって大量に撃墜された。神風特別攻撃は、その後に硫黄島や沖縄で大きな被害をアメリカ軍にもたらした。1945年8月15日に太平洋戦争が終わるまでに、神風特別攻撃隊は約300隻以上のアメリカ軍の艦船を撃沈または損傷させて、アメリカ軍水兵の約18,772人(死者約8064人、負傷者は10,708人)の死傷者を出した。日本側の特攻戦死者は、(公財)特攻隊戦没者慰霊顕彰会」によると海軍約2,531人、陸軍約1,417人、計約3,948人であった。




2022年1月5日水曜日

アフガニスタンの首都カブール近郊で、2001年11月13日に北部同盟の兵士らはタリバン軍兵士の死体を戦車上から横目に見下した。

アフガニスタンの首都カブールの北約3kmにまで接近した道路上で、2001年11月13日に北部同盟の兵士らはタリバン軍兵士の死体を戦車上から横目に見下した。反タリバンの北部同盟の部隊は、タリバン軍が首都カプールから逃げ出した後に、11月13日にカブールに入り、カブール市民に迎えられた。アメリカ軍は2001年10月17日にアフガニスタンに侵攻し、北部同盟軍に支援してタリバンとの約2ヶ月間の戦いを経て2001年12月22日に暫定政府を樹立した。

 北部同盟(Northern Alliance)は、タリバンが首都カブールを占領した後に、1996年末から2001年にかけて軍事活動した軍事同盟であった。当初はタジク人が多く含まれたが、2000年までに他の民族の指導者が北部同盟に参加した。北部同盟はタリバン政権に対して防衛戦を展開した。タリバンが、パキスタン軍から支援を受けて、北部同盟は周辺諸国とアメリカ・ロシアなどから支援を受けた。2001年までに北部同盟は国土の10%以下で、北東部に追い詰められ、バダフシャン州を拠点にした。アメリカはアフガニスタンに侵攻し、北部同盟軍に支援してタリバンとの約2ヶ月間の戦いを行って2001年12月に勝利した。タリバン政権が排除されて、北部連盟が新しいアフガン暫定政権を支持した。2021年に首都カブールが陥落する中で、かつての北部同盟の指導者やその他の反タリバンが、アフガニスタン民族抵抗戦線として再編成されている。

 タリバン(Tariban)は、自らをアフガニスタン・イスラム首長国と称した。タリバンは、アフガニスタンにおけるイスラム原理主義者、過激派イスラム主義者、ジハード主義者の政治軍事組織であった。タリバンはアフガニスタンを事実上支配している。タリバンは、違法な麻薬取引、恐喝、身代金の誘拐などで内部資金を得て、2010年代半ばには前政権下で違法だった鉱山事業を掌握した。1996年から2001年まで、タリバンはアフガニスタンの約4分の3を支配して、イスラム法の厳格な解釈を施行した。タリバンは、1994年にアフガニスタン内戦から派閥が登場して、主にイスラム学校で教育を受けたパシュトゥーン地域の学生で構成され、ソビエト・アフガン戦争で戦った。タリバンは、アフガニスタンの大部分に広がり、ムジャヒディーンの軍閥から権力を奪った。1996年には全体主義的なアフガニスタン・イスラム首長国が設立され、首都はカンダハルに移転した。9.11テロ後の2001年12月に、アメリカ主導のアフガニスタン侵攻で転覆した。北部同盟が暫定的なアフガニスタンを継続として、ほぼ国際的な承認を維持した。タリバンはその後、アフガニスタン戦争にて、アメリカの支援を受けたカルザイ政権やNATO主導の国際治安支援部隊(ISAF)と戦う反政府運動として再編成された。アメリカ軍の撤退により、2021年8月15日のカブール陥落の後に、タリバンはアフガニスタンの支配権を取り戻した。

 2021年のカブール陥落により、アフガニスタン・イスラム共和国は崩壊した。2021年5月に始まったタリバン軍は攻勢して、2021年8月15日に首都カブールをが占領した。2001年から2021年のアフガニスタン紛争を終結させる2020年2月に締結された和平合意に基づき、アフガニスタンからアメリカ軍を撤退させる中で占領された。占領前に、アフガニスタンの州都はタリバンの攻勢で相次いで陥落した。2021年8月14日から8月31日までに、アメリカとNATOは、中央政府の崩壊後にカブールのハミド・カルザイ国際空港から空輸で、約123,000人以上を避難させた。8月31日のアメリカの撤退後に、約1,000人のアメリカ市民とその他のビザを持つアフガニスタン人が、タリバンによって閉鎖された。国連の制裁などで、アフガン中央銀行の在外資産が凍結されて、経済は破綻状況でアフガン市民は飢餓状態に陥っている。



2022年1月4日火曜日

日中戦争が勃発した直後に1937年7月に天津の川に中国人の死体が浮かんだ戦争写真に、掲載が不許可であるX印が書き込まれた。

日中戦争が1937年7月7日に盧溝橋から勃発した直後に、1937年7月に天津の川に中国人の死体が浮かんだ。7月25日には、北京と天津間の廊坊でも、7月26日に北京の広安門で、7月28日から一斉に日本軍と中国国民党軍が交戦した。日本軍は7月31日までに、永定河の東海岸を制圧して、北京に入城した。中国国民党軍は北京と天津間からも敗退した。

 日本軍の検閲により、中国人の死体を撮影した写真の掲載が不許可であるX印が写真上に書き込まれた。戦場における戦傷者を撮影した写真は、戦意喪失、厭戦反戦気分を煽るものとして「不許可」となった。日本軍に従軍カメラマンは、日本軍兵士の死体をほとんど撮っていない。敵軍兵士の死体の写真を多数撮影して、許可・不許可・保留の裁定を受けた。戦場から新聞社に到着した原稿や写真は、黒字で検閲の内容を記載されて、許可の場合は検閲済、不可の場合は不許可、未定は保留の判子を捺印された。戦争に勝利するために、大本営の意向を市民に伝える媒体になった。

 陸軍・海軍・内務省・情報局の検閲を受けると不許可写真となり廃棄処分となった。毎日新聞は第2次上海事変から日中全面戦争の写真を秘蔵した。日本にて唯一の残存した歴史史料写真となり、毎日新聞社編、一億人の昭和史 (10) 不許可写真、 1997年3月発行に掲載された。明治政府の新聞紙法から出版法などの検閲で、言論の自由が奪われた。太平洋戦争下ではほぼ全ての報道の自由が奪われた。報道機関は、日本政府と日本軍のプロパガンダの宣伝紙に変貌した。新聞の検閲は、官憲の意向で解釈されて発禁から事業の廃止まで厳罰に処せられた。1942年2月には、新聞社の整理統合が断行され、ページ数も次第に減少して、16頁から敗戦直前には1頁まで圧縮された。各新聞社には、大本営の許可したるもの以外は禁止され、取材もなく大本営の発表のみ掲載した。1945年8月15日に敗戦になってから新聞社は市民に初めて太平洋戦争と大本営の真実と新聞社の虚偽を掲載した。

 第二次世界大戦中は、アメリカ軍の検閲は戦争情報が市民に届かないようにした。特に重要な検閲が、戦争写真であった。戦争情報局は、政府の検閲官やメディアの自己検閲を通じて、戦線での戦闘の写真を検閲した。第二次世界大戦の最初の2年間は、写真の検閲が継続されて、アメリカ人の死傷者の写真は完全に禁止された。数年後の1943年には、写真の検閲が緩和された。死者の顔がはっきりせず、血まみれの恐ろしいものではなく、比較的穏やかな死体ならば、兵士の死体を見せることができた。犠牲を示すことで、戦争に疲弊した国内の市民を奮い立たせると考えた。戦闘地域で撮影された写真は、公開前に徹底的に審査される。検閲の対象は、アメリカ軍の砲撃による民間人の犠牲者や残虐行為を行ったアメリカ軍下士官や、衛生兵が治療している敵兵などである。結局は、戦場での恐怖や戦闘員の精神的苦痛などさまざまな戦争情報が隠された。




2022年1月3日月曜日

アメリカ軍の無名の兵士は、すべての戦争を終わらせるはずの戦争で殺害され、無名の戦死者は棺桶の中で担がれて、軍隊方式で葬儀された。

アメリカ軍の無名の兵士は、すべての戦争を終わらせるはずの戦争で殺害された。1921年11月11日にアメリカ軍の無名の戦死者は、棺桶を多数のアメリカ軍兵士に担がれて、軍隊方式に葬儀された。8人の棺桶の担ぎ手の一人として、名誉勲章を受章したサミュエル・ウッドフィル(Samuel Woodfill)が加わった。無名の戦死者は、アーリントン国立墓地に埋葬されて、第2次世界大戦中の不安な時代により良い世界を求めるアメリカの名誉の象徴にした。名誉勲章は戦争後には無援となり無意味となった。

 棺桶の担ぎ手になった名誉勲章のウッドフィルは、第一次世界大戦の末期に、フランスでの戦闘に従軍した。1918年9月26日から勃発したアルゴンヌの森の攻勢は、突如に休戦協定が11月11日に発効して第一次世界大戦が終結した。約47日間繰り広げられ、約100万人以上のアメリカ軍兵士が参加した史上最大の血戦となった。犠牲者の数も異常であり、長期な戦いとスペイン風邪により、アメリカ軍兵士は約2万6千人以上の兵士が死亡して、ドイツ軍兵士は約2万8千人の兵士が死亡して、フランス人を含めて約35万人以上もの死傷者に及んだ。当時のアメリカ軍兵士たちは、射撃の訓練を受けていなかった。多くの兵士は戦闘になるまで武器を撃ったことすらなかった。本質的な狙撃兵でなった農家のウッドフィルが戦闘状況に入ったとき、戦闘能力が格上で、最終的に名誉勲章を受賞された。名誉勲章は無援となり、無一文となり孤独死した。

 アメリカ軍は10月12日にフランスのクーネル付近で、ドイツ軍の機関銃の掃射を受けて釘付けになった。濃霧の中で、ウッドフィルはドイツ軍の陣地に向かって侵攻した。ドイツ軍の銃声の方向を確認して、偵察して、機関銃の巣を探索して、ドイツ軍の約23m以内に侵入した。彼は3人のドイツ軍兵士を発見して、3発の射撃で殺害した。残りの4人目のドイツ軍兵士は、ウッドフィルに襲いかかるも、白兵戦で殺害された。その他にもドイツ軍陣地に命がけで侵攻して、同じ手順により多くの白兵戦となり、手に汗握る戦いが続いた。ドイツ軍の大砲が発射したマスタード・ガスの影響も出始めて、ボルドーに入院した。第一次世界大戦中はそれ以降の戦闘には参戦しなかった。卓越した技術、発揮した勇気、多くの兵士の命を救った英雄的な軍事行動の活躍が注目された。小柄で地味な農家の少年が、持ち前の機知と技術を駆使して、強大なドイツ軍兵士を殺害した英雄として称賛されて、陸軍省は1942年の第2次世界大中にウッドフィルを再入隊させた。名誉勲章は退役後は無援と裁定されて無一文となって1951年10月10日に孤独死した。




2022年1月2日日曜日

長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された。顔面から両方の上肢に被爆して火傷とケロイドを受傷した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。長崎原子爆弾に被爆した若者が、原爆症により長崎市内ののローマ・カトリック教会で救護された(日時は不詳)。顔面から両方の上肢に被爆して火傷を受傷した。火傷の傷口からケロイドが発生していた。仮設の救護所で手当を受けて、ふとんの中で毛布をかけて床に横たわっていた。生き残った被爆者には、外傷や放射線障害を伴っていた。

 1945年8月30日に、日本に最初に上陸したアメリカ人調査チームは、マンハッタン計画の科学者たちであった。広島と長崎に行き、原子爆弾の多方面を評価した。残存する放射能を測定し、原爆の影響を調査して、将来の核開発に役立てようとした。死傷者数の推定もその一つであった。導き出された数字が混乱の大きくなった原因の一つは、日本人自身が何の情報も正確なデータも持っていなかった。どちらの都市の人口も事前に知れなかった。何人の人が生き延びたか、何人が街に戻ってきたか、ほとんど知る方法がなかった。死亡率などの数字を入手するはずの医療班を率いていたが、推測以上の決定的な数字を得れなかった。調査2ヶ月目の終わり、10月初めに得られた唯一の実際の事実は、長崎で4万体の焼却と火葬を記録したことだった。焼け跡に埋もれたり、焼かれたりして、さらに2万から3万はあったと推定された。

 広島原子爆弾のデータも同様に不十分で、死亡率や死傷者の総数は正確な数字を出す方法はなかった。推測以上と言えるような明確な数字を出せなかった。1946年に出されたマンハッタン計画の報告書は、民間施設の広範囲な破壊、爆発直後の完全な混乱状態、被爆前の実際の人口に関する不確かさのために、調査を行うことは非常に困難であった。広島では、被爆前の人口25万5千人のうち6万6千人が死亡し、6万9千人が負傷したと推定した。長崎原子爆弾では、空襲前の人口19万5千人のうち、死者3万9千人、負傷者2万5千人であった。長崎原子爆弾の数字は低いと考えていた。




2022年1月1日土曜日

日本軍の神風特攻が1945年3月11日に航空母艦ランドルフの飛行甲板直下の右舷後部に命中して、火災等で死亡した約25人のアメリカ軍兵士の黒焦げの死体を検死して照合した。

アメリカ軍の航空母艦であるランドルフ(CV-15)が西カロリン諸島のウルシー停泊していた1945年3月11日午後8時7分に、神風特攻がランドルフの飛行甲板直下の右舷後部に命中した。アメリカ軍兵士は、艦内の格納庫デッキで映画を見ていた。約4時間後に消火して、3月12日の午前6時に鎮火した。アメリカ軍は約25人が死亡して、そのうち約4人は行方不明、約5名は病院船リリーフに移送された後に死亡して、約105人が戦傷した。火災等で死亡した約25人のアメリカ軍兵士の死体を検死して照合した。戦後の調査により、ランドルフに突入したのは特別攻撃隊の福田幸悦と判明した。ランドルフ同乗していたアメリカ軍兵士のロバート・フランクリン・クライムズは、神風特攻で戦死した。彼の息子のトムは、榴散弾となった金属片で父親は死亡して、その裏側に血痕が付着したと証言した。

 日本軍の梓特別攻撃隊は、横須賀のP1Y1(フランシス)と呼称された爆撃機に約800kgもの爆弾を搭載した。出陣前に、連合艦隊は航空隊に対して、諸君、前進せよ! 傲慢な敵を確実に破壊し、敵に突っ込むことで、我々の聖地を守ることを誓うのだと伝言した。九州の鹿屋基地から約24機が発進して、約6機は鹿屋に引き返し、約12機が目標に到達せずに海に投棄され、約3機は迷子でヤップ島に到着した。残りの約2機がウルシーに到着して、日没後に1機の梓特別攻撃隊の銀河が、低空で潜航して奇襲にて、ランドルフの飛行甲板後部に突入した。突撃直前に、銀河は攻撃成功と無線連絡した。ウルシーのもう1機の銀河は、ソーレン島の倉庫に墜落した。神風特攻により、発生した火災が発生して、格納庫甲板、航空機エレベーターの骨組み、飛行甲板の支持部を構成する鋼鉄が、歪んだり破壊された。ランドルフの損傷は真珠湾での修理能力を超えており、アメリカ海軍が行った海上での最も大規模な修理となった。ウルシーでの修復後、ランドルフは4月7日に沖縄攻略部隊に参戦した。

 アメリカ軍が1994年6月15日にサイパン島に上陸して、6月19日のマリアナ沖海戦で日本軍は圧倒な敗戦に至った。急遽に6月25日に、皇居で特殊の兵器による特攻が公式に承認された。10月13日に海軍令部から、神風隊攻撃の発表を指令した。10月20日に体当たりの神風特攻の部隊が編成されて、特攻は10月21日に離陸した。特攻が最初に激突したのは10月25日午前7時40分にアメリカ軍の護衛空母のサンティーに急降下して体当たり爆撃した。6月25日には全部隊は特攻に指定されて、反対するものは叩っ斬る、批判は許さんと厳命された。日本軍の特攻による犠牲者は、日本海軍が約2,525人に及び、その内約1,727人は予科練で大半は18歳から20歳の若者であった。日本陸軍は、約1,388人であり、大半は1943年以前に入隊した少年飛行兵であった。