2022年1月16日日曜日

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナで第3次ハリコフの戦いで、ドイツ軍とソ連軍が戦闘して、ドイツ軍の戦車の側で殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわっていた。

第二次世界大戦の東部戦線にてウクライナで第3次ハリコフ(Kharkov)の戦いで、1943年2月2日から3月18日までドイツ軍とソ連軍が戦闘した。ドイツ軍の戦車の側で殺害されたソ連軍兵士の死体が横たわっていた。その死体からはブーツが略奪されていた。大雪と寒さで気温がマイナス30度以下になったソ連軍の攻撃に、雪解け水と泥の中でドイツ軍が反撃した。双方に多大の犠牲を伴った。生き残ったロシアの戦車が煙と焔で崩壊して生き残ったソ連軍の乗組員をドイツ軍が掃討しました。

 1943年2月16日に、ソビエト軍はソビエト連邦で4番目に人口の多い都市であるウクライナのハリコフ市を、ドイツ軍から奪還した。ドイツ軍は、2月2日にスターリングラードの戦いでの敗北により、ドイツ南軍の東部戦線全体が崩壊の危機に陥った。3月2日にはドイツ軍は、南軍グループに所属するSSパンツァー3個師団を率いてハリコフ市への攻撃を開始して、第3次ハリコフの戦いが勃発した。3月11日から数日間、激しい市街戦が繰り広げられた。雪に覆われた裸の草原は、反撃するドイツの戦車にとって理想的な訓練場と化した。ソ連にはわずかな避難所も喪失した。ソ連軍が退却する軍隊は、最大20kmの距離でドドイツ軍砲兵の標的になった。ソ連軍が再占領したハリコフの街は、約70%が廃墟と化して、数万人の住民が犠牲となった。ドイツ軍の死傷者数は約11,500人、ソ連軍は約86,569人(戦死約45,219人と戦傷約41,250人)に及んだ。ドイツ軍の中で最も被害が少なかったのは第1SS戦車師団で、ソビエト軍に約4万もの死傷者を出したにもかかわらず、約4,500人の死傷者にとどまった。ハリコフ市民は、約21,000人が殺害された。約35,000人の市民が難民として流出した。

 ハリコフを3月14日に再占領したドイツ親衛隊員が最初に行ったのは、病院にいた負傷者約200人を虐殺して病院に焼却した。ドイツ軍によるスターリングラードの復讐だった。第3次ハリコフの東部戦線でのドイツ軍の最後の反撃となった。ドイツ軍はクルスクの戦いの後、8月までハリコフを保持していた。第4次ハリコフの戦いで、 1943年8月6日にはベルゴロドが陥落し、ハリコフも次第に包囲されつつあった。8月21日に、ヒトラーの命令に反して撤退命令を出して、ドイツ軍は撤収を始めた。8月23日には、ハリコフの街は、最終的にソ連軍が再奪還した。その後にハリコフ約20,000人の市民とそのうち約4,000人の女性がドイツ軍協力者として処刑された。 その他に、市民を強制収容所に強制連行した。ハリコフの15歳から45歳までの男性約15,000人が強制的に軍隊に入隊されて、大半が戦死した。