2020年1月31日金曜日

ベトナム戦争後からのボート難民の子どもたちは、香港の抑留収容所の金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。

1980年代から90年代に、ベトナム戦争後からのボート難民は、香港ではホワイトヘッド抑留収容所に拘留された。1995年には、ベトナムからのボート難民の子どもたちは金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。何千人ものベトナム難民の子どもたちが、この収容所で長期にわたり拘留されて過ごした。特に、戦争の後遺症に起因した弱者である難民の子ども達に対する身体的と精神的虐待が抑留収容所内で頻発して密かに横行した。
 オーストラリアからのナウル・ファイルによれば、太平洋の孤島にあるオフショア難民収容所から虐待や暴力による多数の子どもの犠牲が漏洩された。ナウル・ファイル(Nauru Files)とは、オーストラリアのオフショア難民収容所から漏洩された最大の秘密情報である。ナウルにある収容所にて2013年5月から2015年10月までの約2,000以上の事件の報告書であった。太平洋の島の警備員、ケースワーカー、教師によって記述された。彼らは島での報告可能なすべての事件を提示した。事件の半分以上は移民した子どもに関連して、自傷行為、性的暴行、児童虐待、ハンガーストライキ、暴行および負傷が含まれた。事件の文書は2016年8月10日にガーディアンが公開されて、その他の報道機関も報告した。記録にはオーストラリアの悪名の高い沖合拘留収容所での長期の拘禁による犠牲の全容が詳細に記載された。
 1975年以降に難民が流出したのは、ベトナム・カンプチア・ラオスで約30年間の戦争の後遺症から、共産党政権による何百万人に達する民間市民が虐殺された。都市の粉砕、農地の破壊、森林のはげ山化、水源の汚染、無数の地雷などが放置された。直面する経済と環境上の悪化を招いた。1980年から1986年の間は、ベトナムからのボート難民の流出は、第3国で再定住者よりも少なかったが、1987年からはボート難民の人数は再び急上昇し始めた。当時の目的地は、主に香港とタイであった。1988年6月15日から約半年だけで、約18,000人以上のベトナム人難民が香港に到着した。香港当局は、すべての新規の難民を拘留センターに入れた。第3国に再定住できるまで拘留センター閉じ込めた。ボート難民は刑務所のような拘留センターに抑留された。特に、子どもに対する教育やその他のプログラムは廃止された。東南アジアの受け入れ国も、新しく到着したベトナムからボート難民の受け入れを、香港と同様に否定的であった。
 亡命国と第3国の再定住の受入国は、より新しいボート難民の多くが政治的弾圧から逃れる難民の地位を疑った。1989年6月にジュネーブの国際難民会議では、すべての新しい難民を選別して、本物の難民を判断することを要求した。ボート難民の移民を減少させる包括的行動計画(CPA)を作成した。難民の資格を与えられない人々は、自発的または非自発的にベトナムに送還された。1989年には、約5万人のインドシナ系難民が東南アジアの5か国と香港に到着した。1992年から難民数は激減して、ベトナムのボート難民が故郷から逃げる時代は完全に終わった。ベトナム人で混血となったアメラジアンの子供たちの再定住は特別に再教育収容所で継続された。


2020年1月30日木曜日

サイパンの戦いで壮絶なガラパンの市街戦が勃発して、日本軍兵士がアメリカ軍の猛烈な砲撃に吹き飛ばされて殺害された。

太平洋戦争において1944年6月15日からのサイパンの戦いにて、6月28日には最大都市でもあったガラパンで壮絶な市街戦が勃発した。日本軍兵士がアメリカ軍の猛烈な砲撃に吹き飛ばされて殺害された。日本軍兵士は、仰向けに叫びながら口を開けたままに倒れて戦死した。日本軍兵士は市街戦で肉弾攻撃から白兵突撃を繰り返しても、武器から食糧も飲料水も枯渇して3日間も飲まず食わずで6月30日には日本軍兵士はほぼ全滅した。
   ガラパンが戦場となって、ガラパン全域をアメリカ軍が占領して、日本軍は崩壊して7月3日に北部に退散した。7月4日にはガラパン近辺のタナバク港には日本軍兵士の死体が重なり埋まった。日系民間市民もサイパン島のタナバク周辺に避難して、北端の悲劇のバンザイ・クリフとなるマッピー岬に追い詰められた。日本軍司令部は、7月7日にはサイパン島北端までの撤退を拒否して、サイパン島を太平洋の防波堤にすると全軍の全員が全滅する玉砕を敢行することを厳命した。7月7日午前3時に手榴弾、銃剣とナイフで最大のバンザイ攻撃の白兵突撃をした。事前に察知していたアメリカ軍は、多量の照明弾を打ち上げて、実弾演習の如くに集中攻撃をして、戦場は死の谷となり7月7日のお昼頃には日本軍兵士はほぼ全滅した。日本軍の組織的な抵抗は7月9日に終結した。
 日本軍司令部は、民間市民と軍隊の区別はもはやない、捕まえるよりも、竹の槍で攻撃に参加することや自殺を奨励した。民間市民は洞窟や隠れるべき家や穴すら見当たらなかった。読売新聞は、マッピー岬の崖から約80m下に飛び降りて自殺した女性らを「日本の女性の誇り」と称賛して、「昭和の最高の行為」とまで喧伝した。東京大学は朝日新聞で「100から1,000の勇気が輝かしい光の閃光を発した歴史上の行為であった」と称賛した。アメリカ軍の犠牲は、約71,000人のうち約3,426人が死亡して、約10,364人が戦傷した。日本軍の犠牲は、約31,000人のうち、約24,000人が戦死して、約921日が捕虜となり、約5,000人が自殺した。


2020年1月29日水曜日

フランス人女性がライフルを掲げて、ドイツ軍と紛争を継続するようにフランス人の男性市民に呼びかけた。

ナチス・ドイツ軍が、1940年5月からの電撃戦にてフランス軍を蹂躙して、わずか約6週間の瞬く間にパリを6月14日に占領した。抵抗するにもパリ市民には、ほとんど武器は枯渇していた。ドイツ軍に抵抗して殺害されたフランス人男性の身体が路面に横たわった。その身体からライフルをかき集めたフランス人女性が、ライフルを掲げてはドイツ軍と紛争を継続するようにフランス人の男性市民に呼びかけた。ノルマンディー上陸作戦までは、積極的な抵抗者であるレジスタンスは、ごく少数であった。本来のレジスタンスとしての抵抗者の主体は、移民、学生、スペイン内戦後の共産主義者で構成されていた。レジスタンスの抵抗を誇示してフランス市民を煽動する写真などが大量にばらまかれた。地下新聞の発行、妨害活動、情報収集に関与したフランス人は、約2%未満に過ぎなかった。静観しながらチラシを読み、フランスの伝統文化を守る受動的なフランス人でもわずか約8%未満であった。
 フランスは国民全体は想外の敗北の屈辱から、集団的な心的外傷後ストレス障害(PTSD)により衰弱していた。ナチス・ドイツ軍の思想を受け入れて傀儡となったヴィシー政権は、数千人ものユダヤ人を強制収容所に送り込んで大量虐殺にも加担した。フランス人の特権階級や資産家らは完全にナチス・ドイツ軍に取り込んで完全に無抵抗者となった。特にフランスの北東部のドイツ軍の占領地域で、屈辱的な虐待や虐殺を受けて追い込まれたフランス人が抵抗者となった。レジスタンスでは非現実的に興奮して不満を解消できずに、実際はナチス・ドイツ軍から残忍な虐待と虐殺を受けた。最も差し迫った恐怖は、身内の裏切りであった。抵抗運動を高めるほど、裏切りによる壊滅に逼迫した。レジスタンスの主体を果たしたのは、第1次世界大戦後にフランスに移民した外国人と、ナチス・ドイツ軍から逃避してきた東部戦線からの難民らであった。特にポーランド系ユダヤ人、多彩な東ヨーロッパの共産主義者、スペイン内戦でファシズムに対抗した共和党勢力のスペイン人であった。フランス人の指揮下で、非常に危険な都市ゲリラ戦に従軍した。パリにおける外国人ユダヤ人は、1942年7月16日から17日だけで、約13,000人が東ヨーロッパ強制収容所に強制連行された。ナチス・ドイツ軍は数千人のレジスタンス戦闘員と数千人の民間人が虐殺されて、ノルマンディー上陸作戦に関与できなかった。上陸後になってから、フランス全土にわたる強力で積極的なナチス・ドイツ軍との悲惨な対立の突風につながった。1944年8月25日になって連合軍がパリを開放した。


2020年1月28日火曜日

太平洋戦争の沖縄戦にて、アメリカ軍は戦車に向けて爆弾を抱えて肉弾攻撃をした日本軍兵士を直ちに殺害した。

太平洋戦争の沖縄戦において、1945年5月に日本軍兵士がアメリカ軍の戦車に向けて爆弾を抱えて肉弾攻撃をした。直ちにアメリカ軍兵士により、射撃されて殺害された。アメリカ軍の戦車は何も無かった如く通り過ぎて行き、戦死した日本軍兵士の死体がそのままに仰向けで放置された。アメリカ軍に比較して、圧倒的に兵力が劣る日本軍は、若年兵士らを爆弾を抱えさせ、戦車に向けて戦車への斬り込み攻撃する特攻をさせて自滅させた。多く日本軍兵士はアメリカ軍の戦車にたどり着く前に、射殺された。その他に塹壕に爆弾を抱えて潜伏して、アメリカ軍の戦車に飛び出して体当たりするタコツボ攻撃も取らせた。1台の戦車に対して数名が斬り込み攻撃もした。爆薬を詰め込んだかばん攻撃の自爆によって支援された日本軍歩兵が直接に洗車攻撃した。
 潜入して戦死した日本軍兵士と倒れた海兵隊員の死体は、5月の豪雨で取り戻せずに頻繁に放置された。腐った死体と肥大したうじ虫で一杯になった死体はゆっくりと腐敗した。日本軍の間では、沖縄戦の最後の数日間に自殺の発生が急増した。日本軍の死体の検死の結果、降伏するのではなく、多くの日本人が手榴弾を腹部に当て、戦争を個人的手段で終わらせていた。多数の切断された腕と脚が散乱した。死体群の一部の頭部はニヤリとしていた。頭蓋骨の肉から腐敗し、歯はむき出しになった。沖縄戦はにアメリカ軍とって勝利でしたが、その非常に大きな犠牲と大虐殺は軍事戦略家とアメリカ市民に衝撃を与えた。
  1945年3月23日に義勇兵役法を成立させて、徴兵対象を拡大する新たな徴兵制度を構築した。日本軍は15歳以上〜60歳以下の男子および17歳以上〜40歳未満の女子に義勇兵役を課して、国民義勇戦闘隊に編入できた。交付と施行は6月23日に執行されたが、既に沖縄戦は終結していた。沖縄戦では、日本国の法律の施行する前に、陸軍省令の通知で、14歳から17歳の少年兵を召集した。少年兵は鉄血勤皇隊、少年護郷隊に召集されて自滅させられた。召集は、日本軍からの指令で、指定の場所に期日内に出頭が義務付けられて、召集に違反すると罪人となった。罪人には、懲役刑に処せられて戦場の前線で突撃させ、3親等内の家族は失職して、兵役逃れは不可能であり社会的に追放された。



2020年1月27日月曜日

フランス軍はアフリカから黒人兵を投入して、ナチス・ドイツ軍の侵攻の途上で、特に捕虜の黒人兵を処刑して虐殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1940年に第二次世界大戦の西部戦線から電撃戦にてフランスへ侵攻した。ドイツ軍は1940年6月5日から、ソンム川からセーヌ川にかけて侵攻した。フランス軍は、ソンム川の防衛のために、アフリカから有色人種として黒人兵を投入して戦力を増強した。ナチス・ドイツ軍は急速なる進撃を黒人兵らは妨げた。ナチス・ドイツ軍の侵攻の途上で、特に有色人種の黒人兵は捕虜になっても、処刑されて虐殺された。ナチス・ドイツ軍の敵部隊であるフランス軍は、すべて排除されるか後退を強いられた。特に有色人種である黒人兵を排除するために、無差別で無法な私刑を加えて虐殺した。アンジェストの街にて、虐殺された多数の黒人兵の死体が散乱した。フランス軍の黒人兵である場合には容赦なく残虐行為を加え、多くを射殺した。黒人兵はフランス軍の植民地兵、主にアルジェリアやモロッコ出身の黒人兵であった。フランス軍にはかなりの割合で黒人兵士達による部隊があった。ナチス・ドイツ軍は捕虜に対する虐待に直面しても、ジュネーブ条約の規制を保持しなかった。アメリカ軍、フランス軍、イギリス軍であった黒人兵士は、強制収容所または捕虜収容所で虐待と虐待により死亡した。投獄されなかった黒人は、親衛隊またはゲシュタポにより即座に虐殺された。黒人捕虜は、白人捕虜よりも厳しい虐待と虐殺を受けて、食料も少なく、ほとんどの白人捕虜は投獄されても、黒人兵士の多くは、虐殺か処刑まで強制労働した。
 1940年6月のフランス軍の敗戦中に、ナチス・ドイツ軍はボワ・デレイン近くで捕らえたアフリカ人兵士と白人の将校を虐殺した。さらに約10人のフランス軍アフリカ人がリヨン近くで殺害された。6月にエルキビレ近くで捕虜にしたアフリカ人黒人兵士を虐殺した。ナチス・ドイツ軍は、「劣等な人種はドイツ人の文明人種との戦いに値しない」と喧伝した。1940年の西部戦中に、ナチス・ドイツ軍はフランス軍から数千人のアフリカ黒人捕虜を殺害した。殺害を命令または容認するドイツ軍は、伝統的な有色人種である黒人男性の軽蔑した。ドイツ国民は解き放たれたフランス軍の黒人兵士に対する大規模な宣伝によって殺害を承認した。しかし、この「プロパガンダによる許可」は大きな矛盾を含んでいた。ソ連軍兵士に対する東部戦線に対して殺害が横行したように、ナチス・ドイツ軍と親衛隊は「生存が望ましくない」囚人の殺害のために特定の命令が必要であったと結論付けた。ヴィシーフランス政権に対抗して樹立された自由フランス軍も,フランス人兵士よりも,セネガルなどアフリカ出身の黒人兵士が多かった。自由フランス軍はフランスに亡命した黒人兵士が主流であると装われた。自由フランスの黒人兵士と植民地兵士は,連合国の中でも過小に卑下された。
   

2020年1月26日日曜日

広島逓信病院にて2人の中学生の被爆者は、 帽子で保護された髪毛は残り、髪毛の線の下は燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がった。

広島逓信病院にて、1945年10月8日に原爆症を治療中の2人の被爆者は、中学生のように見える。 帽子で保護されていた髪毛は残っている。しかし、髪毛の線の下で燃えた皮膚が、痂皮に垂れ下がっていた。広島原子爆弾の熱線と爆風の強度を証明している。手術室で応急的な治療室を兼用していた。黒く壊れた手術用の無影灯が天井からぶら下がっていた。時計が午後6時を過ぎても、治療室の外では被爆者が待機して列を並んだ。
 鉄筋コンクリートの2階建ての広島逓信病院は、爆心地から東北約1.4kmで猛烈な爆風を受けた。病院職員は、死亡は約5人、院長を含めて重症は約7人に及んだ。午前9時頃から西端の薬品倉庫から出火して、広島逓信病院の2階と逓信局の3階に火災が拡がった。消火により1階の病院には火災は及ばなく残存した。この時点で、重症な被爆者は約200人と火傷の被爆死やは約700人が殺到した。疎開していた広島逓信局の約100枚の畳を、直ちに収容被爆者のベッドの代用とした。収容患者は約平均220名で、8月6日から8月15日までの約10日間で約60人が被爆死した。
 広島逓信病院は、広島原子爆弾に被爆する約1月前の1945年7月頃に、空襲の対象を避けるために、全ての入院患者は退院させ疎開させた。周辺の施設、軍隊、軍司令部、学校などは被爆で壊滅して焼土となった。爆風で広島逓信病院の窓枠は吹き飛んだ。爆心地から約2kmで病院として残存していたのは、広島日赤病院と広島逓信病院のみであった。被爆者に対して、広島逓信病院内で一日中にわたり懸命で厳しく可及的な救護がされた。
 蜂谷道彦院長は約56日間の被爆治療を記録した『ヒロシマ日記』(朝日新聞社, 1955年)を刊行した。"Hiroshima Diary" Michihiko Hachiyama (North Calorina University Press, 1955, 約18国で翻訳済み。田辺剛造岡山大名誉教授(整形外科)は証言する。「私は岡山医大の三年生、広島が大変だということで二十日ごろ、医師二人、学生二人、看護師三人で救援活動に行き、広島逓信病院で蜂谷院長に会いました。全身傷だらけでしたが、元気に診療されていました。白血球を勘定してみいと言われ、原爆症の特徴を教えてくださいました」。


2020年1月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟の視聴回数 360,000回

2020年1月25日土曜日

ソマリアの父親は、娘が回復するように目前で、イスラム教の経典コーランを暗唱した。

ソマリア国境から炎天下を歩いて移動して、2006年に約80kmのケニア北東部のソマリアのダダーブ難民キャンプにたどり着いた。4歳の娘であるカリージャは、ソマリアの飢餓状態から慢性的な下痢で痩せて栄養不良となり重態となった。38歳の父親のハッサン・アダンが付き添って救護所にたどり着いた。父親は、娘が回復するように娘の目の前で、イスラム教の経典コーランを暗唱していた。父親には、娘にイスラム教のコーマン経典を祈り続けるしかなかった。
 アフリカ大陸の北東の角といわれるソマリアは、紅海をはさんでアラブ世界とアフリカが接して交錯する地域である。1960年にイタリアから独立して、近年に至るまで政権争いが絶え間なく繰り返された。1969年に、クーデターで政権を奪取したバーレ大統領は、敵対する部族を徹底的に弾圧した。1991年に、諸部族が蜂起してバーレを追放した。その後、アイディド将軍派とマフディ暫定大統領派の勢力争いが激化して、ソマリア全土が残忍な内戦状態に陥った。内戦と干ばつで約30万人以上が餓死し、約100万人以上が難民として近隣アフリカ諸国に流出した。1992年に、国連はこの事態を国際平和に対する脅威と見て、人道的介入を開始した。アメリカ軍などによる第1次、第2次の国連ソマリア活動(UNNOSOM)に加え、統合機動部隊(UNITAF)を投入して、史上初の人道上の理由による武力介入を行った。この武力介入は、一定の成果をあげたもののソマリア当事者の反発を買って、派遣軍兵士に犠牲者が出た。国連平和維持軍と現地武装勢力の戦争状態にも陥った。1994年2月に、国連安保理は強制介入を停止して、人道的介入は失敗に終わった。それ以来も、ソマリア内戦は継続的に泥沼化し、首都モガディシオをはじめ主要な都市は完全な廃虚となった。国際社会やアメリカが介入して、結局は放棄したソマリアは、残酷な内戦のまま見捨てられて情報も一切途絶えた。3つに分裂した地域では、2002年にもソマリア政府軍と反政府勢力が抗争を繰り返している。この数年の空白の間に、国際テロ組織アルカイダの影がソマリアにも潜伏した。
 2006年12月に、エチオピアがソマリア暫定政府を支援して軍事介入して首都モガディシオを占領した。2007年1月にはアメリカ軍が直接に介入して空爆して、エチオピア軍は南部のキスマユも制圧した。対抗する反政府勢力であるイスラム法廷は中部や南部でゲリラ化して、2009年にはイスラム過激派のアッシャバーブが集結して、暫定政府に対抗した。2011年には最悪の干ばつが、ソマリアからケニアとエチオピアなどを襲った。ソマリアが最も深刻で、7月の約10日間だけで約2万人が餓死と病死した。過激派のアッシャバーブらは、国連の世界食料計画(WFP)を非難して活動を阻止した。2013年5月に、国連食糧農業機関(FAO)は、2010年10月から2012年4月までに、ソマリア飢饉で約25万8000人が死亡した。そのうち5歳未満の子どもは約半数の約13万3000人が死亡した。さらに2011年5月から8月まで、毎月に約3万人もの餓死が発生した。


2020年1月24日金曜日

沖縄戦でアメリカ軍により、亀甲墓の入口で殺害された日本軍兵士の死体の側に芋や洗面器が散乱した。

沖縄戦において、1945年5月に日本軍兵士は亀甲墓に潜伏していた。アメリカ軍の掃討によって、亀甲墓の入口付近で殺害されて、死体の側に食料にしていた芋や洗面器が散乱した。亀甲墓に捕らえられた日本人は、アメリカ軍兵士からの繰り返しの呼び出し後に出ることを拒否すると、入口を封印してダイナマイトを仕掛けた。駆逐するのに火炎放射器を装備した戦車を導入した。アメリカ軍はドリルで亀甲羅墓の入口に穴を開けて火炎放射器を注ぎ込んだ。投降を呼びかけるも応じなければ一転して、容赦無い攻撃による殺害を続けた。
    1945年4月からの沖縄の戦いで、多くの沖縄の民間人から日本軍兵士まで、祖先の亀甲墓の中にアメリカ軍の砲撃や射撃から避難を求めて潜伏した。独特の形をした沖縄の亀甲墓は、墓の形が亀の殻に似ているために呼ばれた。死後に母親の子宮に戻るという信念から生まれた女性の子宮を表現していた。墓への入口は母親の子宮を示唆して、木々などで墓を隠蔽した。祖先崇拝を信じる沖縄では、墓は休息の場であるだけでなく、生活の精神的な場にも貢献した。病気や死亡は、家族の墓を適切に管理せず、先祖に十分な儀式を行っていないと信じた。日本軍は沖縄戦で、既存の亀甲墓または自然の洞窟であったガマを防空壕に適合させるように指令した。多数の天然の洞穴や、沖縄特有の墓である亀甲墓が、堅牢な構造からトーチカ代わりに日本軍陣地の一部となった。山頂にある一連の洞窟には、多くの簡易ベッド、ゴミ、その他の医療品が含まれて、日本軍の防空壕を示唆した。沖縄戦では、首里・那覇にあった多くの亀甲墓が甚大な犠牲を被った。


2020年1月23日木曜日

スペイン内戦の緒戦にて、セビリアのトリアナ地区で共和党派市民を大量虐殺して死体と出血が街路に散乱した。

スペイン内戦の緒戦において、反政府軍がセビリアで1936年7月18日に軍事クーデターを蜂起した。1936年7月21日に約4,000人の反乱軍は、デ・リャノ指揮官が政府軍を拘留して、セビリアのトリアナ地区を占領した。反乱軍は大量虐殺を命じられて、共和党派の市民を殺害して、その死体と出血が街路一面に散乱した。1936年7月にスペイン内戦が勃発すると、セビリアはアフリカ大陸に近いスペイン南部の大都市であり、7月中にはフランシスコ・フランコを主導者とする反乱軍に占領された。労働者らは、トリアナ地区にわずかな武器を持ってバリケードに潜伏した。反乱軍は、地域の女性と子供らを人間の盾として虐殺した。摘発した全ての男性はナイフで刺殺して流血の弾圧をした。労働者階級を中心として市民による抵抗も行われたが、反乱軍による厳しい報復措置による投獄と処刑を受けた。反乱軍は、7月25日にセビリアを完全に征服した。反乱軍は、8月2日からセルビアから各地を掃討しながらエストレマドゥーラを経由して、首都のマドリッドに侵攻した。
 1936年7月に、スペイン人民戦線政府に対抗してフランシスコ・フランコ将軍が反乱を起こして、スペインは内戦状態に陥った。9月21日にフランコが最高司令官となった反乱軍に対して、ドイツ、イタリアのファシズム政権は軍事援助を提供した。一方で、人民戦線側もソ連とメキシコから公式に武器を供与された。第2次世界大戦の前哨戦と言える近代兵器による戦争が、スペイン人同士の内戦が勃発した。人民戦線側には反ファシズムを支持する知識人であるアメリカのアーネスト・ヘミングウェイやイギリスのジョージ・オーウェルらによって組織された国際義勇軍が加わった。武器量に勝るフランコ側が有利に戦いを進め、1939年3月28日にはマドリードが陥落して、3月31日に全てのスペイン領土を占領して、内戦はフランコ側の勝利に終わった。スペイン内戦で、約190,000から約500,000が死亡した。内戦時には、共和党派によるレッド・テロにより約38,000人以上が殺害された。内戦から第2次世界大戦の終戦までに、反乱軍の民族主義派によるホワイト・テロで約100,000以上の大量死刑で殺害された。


2020年1月22日水曜日

ワルシャワ・ゲトーでユダヤ人の姉が路上で飢死しようとしている弟の面倒を見ていた。

1941年9月19日頃に、ポーランドの首都ワルシャワにおけるユダヤ人の強制居住区のゲットーにおいて、ユダヤ人の姉が路上で飢死しようとしている弟の面倒を見ていた。一見大きな人形のように見えるものを保持している歩道上の若い女の子がいた。彼女の抱えているのは、死んでいるか死にかけている彼女より若い子供の体であった。ナチス・ドイツ軍によって封鎖されたワルシャワのゲットーは、食物も希望もなく、強制収容所にユダヤ人を監禁した。ナチス・ドイツ軍が、ゲットーへの通行を阻止しているため、多くの女性や子供らは食料や水が手に入らなかった。
 ワルシャワのゲトーの写真は、43歳のドイツ国防軍のハインリッヒ・ヨースト(Heinrich Jost)軍曹が、ワルシャワのゲットーへ無許可に訪問して撮影した。ゲトーの壁に沿って横倒れの死体に出会った残酷な悲劇は、彼を驚嘆させ悲嘆させた。混沌とした不衛生な生活環境、飢餓、ナチス・ドイツ軍からの暴力の継続的な虐待による病気だけでも、1941年の夏だけで約16,000人近くの命を奪った。ホテルのオーナーであったヨーストは、ウクライナの首都キエフの占領日であり誕生日であった1941年9月19日に、ワルシャワに駐留している部隊から休暇を取った。1941年7月頃からユダヤ人の検疫のためにゲトーの撮影を禁止していた。ヨーストは命令に逆らって、カメラを持ってゲットーに侵入して、終日に写真撮影の探索をした。おそらく1日だけでは十分ではなかったので、彼は複数回ゲトーにでかけて、複数の場所で約160枚の写真を撮影した。終戦後から誰にも見せずに保管しました。彼の死の1年前の1982年になってヨスートはドイツのスターン誌のグンター・シュバルベルグ記者に写真を渡した。彼はイスラエルのヤド・ヴァシェムにもそのコピーを渡した。
 1939年9月1日にはドイツ軍はポーランドへ進攻して、ワルシャワはドイツ軍に占領された。1939年10月4日に秘密警察が、ユダヤ人居住区を占拠した。ユダヤ人評議会が、ユダヤ人居住区を監督した。ユダヤ人居住区ではチフスが流行して隔離が必要となった。1939年11月7日に、ワルシャワのユダヤ人居住区をゲットーにしてユダヤ人を封鎖した。ドイツ軍司令官はユダヤ人居住区に立ち入り禁止区域を設営した。1940年11月16日からゲトーは封鎖されて、自由な通行は不可能となった。1941年に、ゲットー全住民の約10分の1にあたる約4万3000人が病死と餓死した。1942年には更に死亡率が急増して、1942年7月に強制移送が始まるまでには総計で約8万3000人が死亡していた。


2020年1月21日火曜日

グルジア共和国の大統領支持派は、支持者派の集会に発砲した反体制派の容疑者に拳銃を口唇部に当て尋問した。

グルジア共和国のズヴィアド・ガムサフルディア大統領の支持者は、1992年1月3日に首都のトビリシで大統領支持者派の集会に発砲した容疑者に拳銃を口唇部に当て尋問した。1992年1月1日に、武装野党勢力は首都トビリシの放送塔を占領し、1992年1月2日に武装野党は軍事評議会の設立を宣言した。軍事評議会はすべての抗議を禁止する新しい命令を発した。しかし、約3,000人から4,000人のガムサフルディア大統領の支持者の集会は、戦場から数マイル離れた駅から出発して、1月3日12時頃にデモ隊を組織した。主に中年の男性と女性を含む抗議者は、ガムサフルディア大統領の肖像画を持ち、彼の名前を唱えてルスタヴェリ通りに向かって歩いた。わずか15分後に、ムヘドリオーニの仮面の男を運ぶ車が群衆に煙爆弾を投げた。直後に、約8人〜約10人のマスクで覆面した男性のグループがサングラスを着用して身元を隠して潜伏した。抗議デモ参加者の前に列を作り、群衆を解散させるために空砲を撃ち始めた。数分後に、実弾が抗議デモ参加者に発砲され、激しく混乱して分散して、一部は車両の後ろに避難した。約2人の抗議デモ参加者が即座に殺され、数人が負傷した。数日後にはさらに約2人が死亡した。
   グルジアは、ソ連連邦が崩壊後に、1991年4月9日に独立宣言をして、5月26日の総選挙でガムサフルディア大統領が選出された。グルジア民族主義者であった独裁政権の大統領となった。首都トリビシで反対勢力を弾圧して、非常事態を宣言した。少数民族の南オセアニアとアブハジアに民族紛争と民族浄化が勃発した。1992年1月3日の事件は、双方の間の緊張を高めた。軍事評議会は、すべてのデモを追放するために、デモ隊を暴力的に解散する決定を直接に下した。虐殺を「正当」と呼び、首都トビリシの住民が議会の命令に違反し続けると弾圧命令を繰り返すと脅した。1992年1月6日にクーデターより、大統領はグルジアから追放されて、チェチェン・イチケリア共和国に逃亡した。


2020年1月20日月曜日

アフリカのルワンダで1994年4月6日から7月4日までフツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。

アフリカのルワンダにおいて、1994年4月6日から7月4日まで、フツ族とツチ続の怨念が爆発してルワンダ大虐殺が勃発した。大虐殺に勃発しても、現地の国際平和維持軍や支援者らが介入するのに数ヶ月も遅れた。そのために数百万人のルワンダ人が難民となり、約百万人が虐殺された。1994年にわずか3ケ月間で、ルワンダでフツ族の過激派が、約80万人ものツチ族を無差別に非人道的な大量虐殺した。ツチ族の犠牲者のほとんどは在住した村や町で殺害された。多くは虐殺を強制させられた隣人や仲間の村人らによって殺害された。特にツチ族とフツ族が隣り合わせで生活した農村部では、フツ族がツチ族の隣人を見つけては殺害の標的にした。フツ族の戦闘員は、教会や学校の建物に隠れているツチ族犠牲者を探して掃討した。フツ族の民間人を募集したフツ族の民兵は、ツチ族の犠牲者をマチェット山刀やライフルで殺害した。川や湖は虐殺された死体で溢れ、道端に積み上げられ、殺害現場に放置された。性暴力も蔓延して、約25万人以上の女性がレイプされた。
 人口の約85%はフツ族が占めるルワンダを、少数派のツチ族が支配していた。1959年にフツ族勢力が、ツチ族君主制を打倒して、約33万人ものツチ族が近隣諸国に逃避した。1962年7月に公式にルワンダ共和国が独立した。難民となったツチ族は、反フツ族のルワンダ愛国戦線(RPF)を結成して、1990年から1993年までルワンダに侵攻した。1994年4月6日に首都のキガリで、フツ族勢力の大統領らの飛行機が撃墜されて暗殺された。フツ族の過激派がRPF の容疑として、フツ族勢力は報復のためにツチ族市民らの大虐殺が勃発した。ツチ族のルワンダ愛国戦線が戦闘を再開してルワンダ内戦が勃発して、7月7日に首都キガリを占領して、大虐殺は終結した。逆にフツ族の約200万人がコンゴや近隣諸国に逃避した。大虐殺の終結後に、フツ族とツチ族の合意による連合政府が樹立された。


2020年1月19日日曜日

広島原爆に被災した福屋百貨店ビルに、被爆直後から一時的な救護所を急設されて、兵士が背中に重度の火傷の痂皮の処置を受けた。

広島原子爆弾が1945年8月6日に投下されて炸裂して、広島市内は壊滅した。その焼け野原の中で、コンクリート製の建物が一部残存した。爆心地から約710メートルにある八丁堀の福屋百貨店のビルも被災した。ビルは残存して、市内53箇所に急設された被爆直後の一時的な救護所となった。そこに多数の被爆者が殺到した。8月12日に一人の日本軍兵士が、背中に重度の火傷を受傷した。その背中の痂皮の処置を受けた。被爆直後から各フロアを病室に充てた。八丁堀本店の福屋百貨店の南側には、臨時火葬場が仮設された。膨大な死体までの処理は困難であり、市内の焼やけ跡あとの至るところで火葬が行われた。
 1938年に、地下2階と地上8階の福屋百貨店が開店した。当時はまだ珍しい冷暖房設備を備えた近代的な建物で、多くの人で賑わった。しかし、すでに時代は戦時体制となり、1945年には陸軍や統制会社などが強制使用することになり、休業状態に陥っていた。広島原爆の炸裂を一撃の大閃光と大轟音から「ピカドン」と呼んだ。福屋の近くで原爆の直撃を受けた。しばらくしても室内は真っ暗で何も見えなかった。爆風で飛散した粉塵で光が遮られた。粉塵も静まると周囲はだんだん明るくなった。室内は、天井は落下して、机、椅子、ついたて等は飛散した。渦巻く黒煙と火焔に包まれた。各地から、うめき声や助けを求める悲鳴が発生した。極めて大きな爆風を受けて、機材が飛散して散乱した。



2020年1月18日土曜日

ナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村民の全員を無差別に大虐殺した。

1944年6月10日にナチス・ドイツ軍の親衛隊がフランスのオラドゥール村を無差別に大虐殺した。最初の救助者は、保護するものが何もないく、凄まじい恐怖を感じた。男性は撃たれて、女性と子供たちは村の教会で生きたまま燃やされて、その身体にはしわが寄って、時には灰になった。リモージュ司教によってオラドゥール虐殺の翌日に死体が送られた神学校で、集めて特定しようとした。 しかし、特定できた犠牲者の人数は不明のままである。身元確認ができた死体は犠牲者全体約642人のうちわずか約8%のみであった。
 オラドゥール・シュル・グラヌは、フランスのパリから南南西約400kmにあるヌーヴェル=アキテーヌ地域圏オート=ヴィエンヌ県の村である。1944年6月10日土曜日に、ナチス・ドイツの占領下であった村で、ナチス武装親衛隊が大規模な虐殺を行った。村にいた村民のほぼ全員の約642人が殺され、村は一日にしてゴーストタウン化した。ナチス・ドイツ軍親衛隊は、オラドゥールを包囲して、村民に身分証明書の検閲のために、村の中心部の広場に集合するように命令した。集まった村民のうち、女性と子供たちは教会に連行された。しばらく経ったのちに、男性は6つの納屋に連行されたが、納屋で機関銃で射撃された。まず下肢を狙って発砲して、寝たきり状態で焚き付け身体を包み、納屋に火をつけた。男性の生存者はわずかに約5人で、約197人が死亡した。その後に、教会の女性と子供たちの中に放火して銃撃した。女性は約240人が死亡して、子供は約205人が虐殺されて、女性1人のみが避難できた。
 1944年6月6日に連合軍がノルマンディーに上陸した。迎え撃つナチス・ドイツ軍のダス・ライヒ隊は、フランス南西部のモントーバンで、潜伏したフランスのレジスタンスに襲撃された。その報復で、チュール町からゲレ町を掃討した。レジスタンスを撃退するために、約200人のナチス・ドイツ軍親衛隊がオラドゥール・シュル・グラヌへ6月10日に侵攻した。レジスタンスは皆無であるために、身代わりに村民全員を無差別に殺害した。戦後の1945年に、シャルル・ドゴール首相はオラドゥール村を訪問して、大虐殺の村を再建せずに遺跡に保存することを決定した。2013年9月4日にドイツのヨアヒム・ガウク大統領がオラドゥール村を劇的な訪問は、歴史的転換の平和訪問となった。


2020年1月17日金曜日

中国の第二次国共内戦で、国民党は路上で共産党を卒塔婆に縛って後頭部から銃殺した。

1949年5月13日金曜日に上海の共産主義者が処刑された。処刑された5人の中国人は、共産党軍の侵攻から都市を守る準備をしていた上海において、破壊的な政治活動をする重罪を犯した。犯罪人の腕が有罪判決を受けた犯罪を記載された紙に記載された卒塔婆に縛られて、死刑囚を後ろから射殺する旧来の処刑方法に従った。中国の第二次国共内戦の中で、国民党は路上で共産党を直接に銃殺した。
 北伐の過程にて、1927年4月に中華民国は上海でクーデターを指揮して、中国共産党を弾圧した。中華民国は1927年4月に南京へ遷都して、「共産党を片付ける」ことを決定した。これは、国民党と共産党の国共が初めて崩壊したことを意味した。明確な方針は、国民党が共産党を排除するだけでなく、完全に消滅することでもあった。それ以来、国民党と共産党は10年間互いに殺害し合った。 1924年から1927年の間は国民党と共産党との国共合作の間は、国民党内において共産党の組織活動は秘密裏に行われた。蒋介石が明確な方針を命じたとき、いくつかの明確な目標を除いて、最大の難しさは「共産党」が誰であるかを伝えることが最大の難関であった。1927年4月から1928年前半まで、約2万7000人以上の共産党員を含む「清党」の名の下に約310,000人以上が虐殺された。
 台湾の中華民国において白色テロは、二・二八事件以降の戒厳令下において、国民党政府が共産党などの反体制派に対して政治的弾圧をした。1947年2月27日に台北市で闇タバコを販売していた台湾人女性に対し、取締の役人が暴行を加える事件が起きた。2月28日には台湾人による市庁舎への抗議デモが行われた。しかし、憲兵隊がこれに発砲して、ニ・ニ八事件の抗争はたちまち台湾全土に広った。1987年に戒厳令が解除されるまでの期間、反体制派とみなされた多くの市民が投獄や処刑された。約140,000人が投獄されて、そのうち約3000人以上が死刑にされた。



2020年1月16日木曜日

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。

ウクライナにてソ連による大飢饉の犠牲となり、農婦は病院で寝たきりの餓死に陥った。 ウクライナのヴォルガ地域の大飢饉の写真がソ連からノルウェーに流出した。農業の集団化よる恐ろしい結果の1つは、農民間の大飢餓となった。 ソビエト当局によって長い間否定されてきた1932年〜3年の大飢饉は、約400万人以上の犠牲者の大半はウクライナに住んでいた。「ウクライナの悲しみの収穫("The harvest of sorrow", Robert Conquest, 1986) 
 ホロドモール(Holodomor)は1932年から1933年にかけてウクライナ人が住んでいた地域で、ソ連の恣意的な飢餓により餓死させた大虐殺であった。ソ連により穀倉地帯であったウクライナの独立を阻止するために、ウクライナ人は強制移住さられて、農地や家畜も奪われて、約700万人が餓死したと国連は共同声明した。ソ連によるウクライナ民族を消滅させるジェノサイドとウクライナ議会は2006年に認定した。第一次世界大戦後に、1917年11月にウクライナとソビエト、1918年に西ウクライナとポーランド、1918年にクリミアとソビエトと戦争が勃発した。ソビエト軍の勝利により、1922年12月からウクライナはソ連に併合された。ソ連によるウクライナの農業集団化は1930年台から自発的から強制的に執行された。ソ連の農地共有化政策である農業集団化により減産に陥り、厳しい徴収による食料の枯渇や強制労働などで大飢饉が発生した。反対者や欲求不満から容疑者まで、強制的に虐待と虐殺された。食料が枯渇したウクライナ人は、食べれるものは生物から人肉までも食べ尽くした。地域には餓死した死体が散乱して放置され山積みされた。1932年8月11日にスターリンは、ウクライナを占領するために、弾圧し、農産物の強制生産を命じた。
 国際的承認を得ようとしたソ連は、ウクライナのホロドールの大飢饉による大虐殺を認めなかった。飢饉の被害はウクライナ人だけでなくロシア人やカザフ人にも広く及ぶとしてウクライナを否定した。1985年3月からソ連の再構築(ペレストロイカ)から、1986年4月のチェルノブイリ原発事故を受けて、ソ連は情報公開(グラスノスチ)が開放された。1987年12月に、初めてウクライナからホロドールが提訴された。ソ連の崩壊により、1990年8月にウクライナは独立した。ウクライナ領土であったクリミアに、ロシア軍武装勢力が潜行と侵攻して占領して、2014年3月18日にロシア連邦に併合された。



2020年1月15日水曜日

フィリピンのルソン島の戦いでアメリカ軍兵士が、戦死した日本軍兵士の死体を1体から1体とひとつずつ検死した。

フィリピンのルソン島の戦いで、第25師団第35歩兵大隊のアメリカ軍兵士が、戦死した日本軍兵士の死体を1体から1体とひとつずつ検死した。日本軍兵士の軍票を剥奪して、日本軍兵士であることを確認した。所持品を確認して、武器等を検証した。
 4つのアメリカ陸軍師団とマッカーサーが1945年1月9日にルソン島に上陸して、マニラへの攻撃を開始した。最終的に、10のアメリカ師団と5つの独立連隊がルソン島で戦い、太平洋戦争の最大の戦争となったた。それは、米国が北アフリカ、イタリアまたは南フランスで参戦したよりも多くの軍隊を巻き込んだ。ルソン島の戦いの間に、米軍は1942年の日本軍のよる侵略と残酷なるバターン死の行進以来に捕虜となっていた数千人の連合国捕虜を解放した。2月3日から3月3日まで、フィリピンの首都でマニラの戦いが勃発した。マニラの戦いで、日本軍兵士の死者は約12000人、連合軍の犠牲は戦死者は約1000人、戦傷者は約5500人に達したほか、約10万人以上のマニラ市民が犠牲となり、マニラ中心街は廃墟と化した。3月中旬までに、マニラは公式に連合国の支配下に戻った。組織化された日本軍の抵抗は、遠隔地の山岳拠点から続いたが、それは1945年6月下旬までにほぼ終結した。ルソン島での連合国の勝利は多くの理由で起点となったが、日本軍の降伏の始まりとなった。
 1945年1月9日から8月15日まで戦ったルソン島の戦いは、第二次世界大戦中のアメリカ、フィリピン、および日本帝国軍に対する同盟国による太平洋戦線の陸上戦闘でした。この戦いの結果、米国とフィリピン人が勝利しました。連合国は1945年3月までにルソン島のすべての重要な場所を支配していたが、日本が最後に降伏するまで日本の抵抗の山が山に残った。アメリカの歴史上では死傷者は最高ではないが、ルソン島の戦いいは、アメリカ軍が第二次世界大戦で戦った最高の死傷者の戦いであった。アメリカ兵士軍は約175,000人において約8,310人が死亡して、戦傷者は約29,560人に達した、約140,000人のフィリピンの民間人が死亡した。日本軍兵士の約250,000人におて、約192,000から205,000人の日本軍が死亡して、主に飢餓と病気に起因した。1945年9月1日に日本軍は公式に降伏した。


2020年1月14日火曜日

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。

アテネ工科大学にて、ギリシア軍の侵攻を受けて重態となった学生を、ギリシア市民が救護して運搬した。ギリシアにてアテネ工科蜂起が、ギリシア軍事政権に対する大規模な学生デモがアテネ工科大学で発生した。蜂起は1973年11月14日に始まり、反軍事的反乱に激化して、11月17日の早朝に軍事政権の戦車が、アテネ工科大学の門を突破して侵攻して、学生の悲惨な流血で終結した。デモに参加した学生と市民の死者は約80人と負傷者数百人、逮捕者が約700人がでる犠牲になった。1973年11月17日午前3時頃に、軍事政権の戦車がアテネ工科大学の鉄門を突破した。アテネの街の明かりは消灯されて、大学の発電機によるキャンパス内の照明のみであった。不明瞭な映像では、戦車が人々がしがみついた大学構内への主要な鉄門を打倒した。無線伝送記録において、建物の周囲の軍事政権の兵士に命令に反して、「兄弟の抗議」と叫び戦わないようにと必死に求める若者の声が聞こえた。感情的な発声に続き、ギリシャ国歌の歌詞を暗唱して、戦車がアテネ工科大学に突入する時点で、送信が停止した。
 ギリシアは、1967年4月21日から軍事政権の支配下にあり、市民権を廃止し、政党を解散し、政治的信念に基づく政治家と市民を追放、投獄、拷問した独裁政権となった。アメリカは、軍事独裁政権を擁護・支援した。1968年8月13日に暗殺未遂から、秘密警察によるギリア市民の監視と検閲などによる言論統制を強化、政権に反対する政治家や共産主義者の容疑者を逮捕して拷問して国外追放あるいは孤島に収監した。1970年代に入ってギリシャの国内経済が悪化すると、軍部の独裁政権に対するギリシア市民の不満が増大し、学生による大規模なデモなどの抗議行動が活発化した。アテネ工科大学蜂起に反発したアテネ軍が、1973年11月25日に軍事政権を打倒する反クーデターが勃発して、新たな軍事政権に転換した。ギリシア軍事政権のキプロス政権の打倒が失敗して、1974年7月15日にトルコによるキプロスの侵攻を招いて、軍事政権は破綻した。1974年11月11日の国民投票からギリシアが民生移管してギリシア共和国が成立した。


2020年1月13日月曜日

日本軍による南京事件の過程で、公開で中国人を日本刀で斬首して、道端から多数の日本軍兵士が興味深く見学した。

日本軍による南京事件の過程で、南京を侵略した日本軍が、公開で中国人を日本刀で斬首した。日本軍兵士が中国兵士を残酷に殺害するのを、道端から多数の日本軍兵士が興味深く見学した。写真の正面からは、少なくとも3人のカメラマンが首斬を撮影している。
 日中戦争において日本軍は1937年12月13日に、当時の中華民国の首都であった南京を占領して、中国人兵士と住民に対して残酷な虐待と虐殺の南京事件を引き起こした。日本軍は南京を占領して、南京とその周辺の中国人を約40日間以上にわたり、射殺、生きた埋葬、斬撃、焼却という残忍な殺害で処刑した。南京事件の間、日本軍の上官と兵士は、中国人の囚人を虐殺するために無差別に殺害した。南京事件が発生した要因として、日中戦争当初からの中国軍から受けた戦闘などの被害への報復のために、日本兵が中国軍人などを人道的に扱わなかったとする記録もある。中国軍側には、防衛戦の誤り、指揮統制の放棄、民間保護対策の欠如なども指摘されている。
 残虐写真が流出すると利害作用に気が付いた関東軍上層部は、1938年10月24日付で「軍人軍属寫眞撮影製作取締規定」により、撮影禁止令を発した。首が刎ねられる瞬間を撮影した7枚以上の写真は、その場所の同一性と内容の検証が議論されている。斬首により、首からの血しぶきの放出も写っている。取り囲んだ約100人を超える兵士達は、赤い出血の凄惨な情景を見られて興奮している。この写真には、3人のカメラマンも写っている。これらの写真を写したカメラマンを含めると、カメラマンは最低4人以上いることになる。同じ日の同じ場所での公開処刑の首斬りの同一性が議論されている。撮影者が多人数であれば、多数の写真は、さまざまなルートで写真が流布する。カメラマンが4名以上いたならば、南京の写真館以外に、上海の写真館にも、そこから漢口へ写真が流出したというルック誌(Look Magazine, 1937年2月創刊)の記事とも整合する。


2020年1月12日日曜日

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。

広島原子爆弾に被爆した少女は、背中の凹凸に応じて軽度から重度の火傷を受けた。9月下旬の広島赤十字病院に救護された。発後数時間以上生存し、医師の診察を受けた患者の火傷の発生率は95以上%と報告している。
火傷は熱線に直接に面していた部分に主に生じて、爆心地から約3.5km離れたところでも、皮膚の部分には火傷を受傷した。原子爆弾の炸裂と同時に爆心地の温度は摂氏約100万度を超えたた。空気中に発生した火球は、約1秒後には最大直径約280mと暴発した。火球から四方に放出された熱線は、炸裂後の約100分の1秒から約3秒間、地上に強い影響を与えて、爆心地周辺の地表面の温度は、瞬間に摂氏約3,000から4,000度にも達しまた。原爆からの強烈な熱線によって焼身された被爆者は重度の火傷を受傷して、膨大な人が被爆死した。爆心地から約600m以内の屋根瓦は、表面が溶けて泡状になった。樹木への着火も多く、爆心地から約3km以内では木材、樹木、電柱などが黒焦げになった。熱傷の後に、傷面の修復のため形成される瘢痕組織が過剰に増生し、皮膚面に不規則な隆起を生ずるケロイド状態になった。被爆後約4ヵ月頃より発生し、約6ヵ月~1年2ヵ月後に最も顕著となった。爆心地から約2km前後で被爆した人に多かった。
 広島日赤病院は、爆心地から南方約1.5kmに設置されていた。広島原子爆弾の落下から炸裂によって、鉄筋コンクリート3階建であった日赤病院は 原子爆弾の強烈な爆風により外郭だけを残して全壊した。当時は日赤病院の一部は 広島陸軍病院分院としても併用された。地下室に保管していたレントゲンフィルムがすべて感光化していた事から、特殊爆弾が原子爆弾であることが立証された。被爆した直後から 生存した医師・看護婦は、救護を求めて集合してきた被爆者にわずかな医療機材を用いて診断と治療を続けた。広島日赤病院は、広島原爆の投下と炸裂により壊滅的な被爆を受けた広島市にて、倒壊や焼失を免れた数少ない医療機関の1つであった。被爆直後から負傷者が殺到した。 設備や備品は破壊され、薬品も治療材料も直ちに底をつく状況で、生存した医師や看護婦たちは、昼夜を分かたず被爆者を救護した。

2020年1月11日土曜日

日中戦争において日本陸軍第731部隊は、中国人の子供を生体解剖して生物実験をした。

日中戦争において、日本陸軍7312部隊は、中国人の子供を生体解剖して生物実験をした。生体解剖が始める時に、子供が生きているか死んでいるかは不明である。731部隊は、日本軍が支配する満州国最大の都市であったハルビンの南約100kmの平方地区に1938年から1945年まで約17年間に駐留していた。731部隊は石井四郎部隊長によって1936年4月23日に組織され、その10年の間に、約3,000人の中国人を多数の実験と野外実験を行った。実験は、1925年ジュネーブ議定書に反する生体解剖から凍傷テスト、強制妊娠や武器テストにまで及んだ。731部隊は8つの部門に分かれて、各部門には保守や補給品から実験、強制滅菌までのさまざまな任務が割り当てられた。日本軍の資金提供により、3.2平方kmの巨大な敷地の城壁内に約150を超える建物を設置し、最大約400人の囚人を収容できた。人類史上で、人間に対する最も衝撃的で残酷な実験を執行した。731部隊は、犠牲者を人間ではなく、木材の「丸太」と呼称した。恐ろしい医学的検査で死者を拷問した後に、遺体は灰まで焼かれた。731部隊は、ナチス・ドイツ軍の強制収容所の生物実験と異なり、実験された囚人はすべて殺害されて証拠隠滅された。
 終戦後に戦争犯罪から逃げた石井四郎は、1946年にアメリカ軍占領軍に尋問された。アメリカ軍は、731部隊の生物兵器の生物実験データの収集とロシアに秘密流出の防止を司法取引して、極東国際軍事裁判から免責された。ソ連軍の捕虜となった約12人は、1949年12月のハバロフスクでの戦争犯罪裁判で裁判にかけられた。1956年に自殺した1人を除き11人は日本の国立公文書館は、2018年4月に日本陸軍第731部隊の約3,607人の構成員の名前を開示させられた。約52人の外科医、約49人の技術員、約38人の看護婦、約1,117人の衛生兵が関与した。日本国内では、731部隊は慰安婦や南京大虐殺のように、論争の的となる多くの大量虐待と大量虐殺は、国粋派によって否定されている。


2020年1月10日金曜日

太平洋戦争のビアク島の戦いで、海岸に日本軍兵士の死体が太陽の灼熱で、悪臭を発する腐乱した白骨化した死体が散在した。

太平洋戦争におけるビアク島の戦いで、ニューギニア領ビアク島の海岸で、日本軍兵士の死体が、約2週間の太陽の灼熱にさらされた。悪臭を発する腐乱した白骨化した死体が散在した。日本軍兵士は食糧も飲料水も枯渇して、わずかな乾パンと鍾乳石の地下水で飢えと渇きをしのいだ。洞窟内は感染症から糞尿と腐敗した死体から発する悪臭で充満した。アメリカ軍は6月20日頃から火炎放射器では到達しない洞窟の入口から、火のついたガソリン缶を投げ込んで爆発させた。トンネルの床に散乱した日本軍兵士の死体。脳と腹部の破裂によって吹き飛ばされた死体。死んだ日本軍兵士の耳、鼻、口、目から流れる血。死にたいと思った日本軍兵士の集団自殺の死体。
 太平洋戦争のニューギニア戦線で、ビアク島の戦いが1944年5月27日から8月20日まで勃発した。アメリカ軍は、マリアナ諸島に侵攻するため、飛行場の確保などを目的としてニューギニア北西部のビアク島へ上陸した。日本軍の守備兵士は「北のアッツ、南のビアク」と呼称される玉砕の死闘を繰り返した。ビアク島は非常に強力な日本軍の防衛陣地であった。サンゴ島で、平らではなく、高い崖、丘、無数の巨大な洞窟があった。南海岸はサンゴ礁で防御され、約760mの高さの崖が並列した。平坦な地面は島の南端に向かって、日本軍は脅威となる東にモクマー飛行場、中央にボロケ飛行場、西にソリド飛行場を設置していた。
 日本軍とアメリカ軍は、ビアク島の占領のため戦闘したが戦略的に無意味となった。日本軍の守備隊は、アメリカ軍がマリアナ諸島の侵略を断絶するために、アメリカ軍からビアク飛行場の使用を排除していた。ビアク島の戦いでアメリカ軍は、侵攻することで飛行場が日本艦隊作戦を支援することを妨げた。しかし、両軍の司令部は、変化する戦術的および運用上の状況が提示されても、元の計画を実行するように判断した。両軍の司令部は、しばしば何が起こっているのか不明瞭となり、本部司令部からの制約の下で戦い、誤った評価に基づいて行動し、矛盾した命令を出した。アメリカ軍は自らの配分で活動き、攻撃を加速するために、繰り返し指示された方針には従わない。日本軍は、すべての命令に従い、それが意味をなさなかった。アメリカ軍は勝利して、日本軍は敗北して多大な犠牲を出した。日本軍兵士は約14,900人のうち、約10,000以上が戦死して、生存した生還者はわずか520人であった。アメリカ軍は約30,000人のうち約471人が戦士して、戦傷者は約2,433人で、戦病者は約7,200人に及んだ。


2020年1月9日木曜日

ベトナム人青年は、ダナンの南ベトナム解放戦線と断定されて、南ベトナム政府軍により公開死刑を執行された。

ベトナム戦争において、1965年にベトナム中部の港町であるダナンで公開死刑が執行された。ベトナム人青年を、ダナン市民に紛れ込んだ南ベトナム解放戦線の容疑者と断定して、南ベトナム政府軍は公開の銃殺刑で死刑を執行した。ベトナム人青年は目隠しをして土嚢の壁の前の柱に縛り付けられた。8人のベトナム軍兵士が至近距離から狙う打ちして同時に銃撃した。後方の立て看板には、「このベトコンは、ダナンの善良な市民を虐殺した。」と記載した。公開の銃殺刑が完了して、直ちに死亡して転倒した死体からベトナム人青年の検死を確認した。南ベトナム政府軍兵士は、大型のトラックを横付けして、青年の死体を処刑現場から運搬して持ち去った。
  最後の正式な公開処刑は、1868年にイギリスで、1936年にアメリカで、1939年にフランスで執行された。シリア、アフガニスタン、イエメンからイスラム国なとでも公開処刑が執行された容疑がある。アメリカおよび西ヨーロッパは20世紀初頭に、死が一般大衆の視界からますます遮られた。究極の公開死刑により、政権は政治的敵に対する優位性を大衆に示して、抑止力を保持した。アメリカの最後の公開処刑は、1936年に37歳の黒人男性のレイニーベテアが、70歳の女性のレイプと殺人に対する有罪判決を受けて、ケンタッキー州オーエンズボロで、保安官であるトンプソン・リニーが、女性として最初で最後の公開の絞首刑を執行した。最後の公開処刑には、約15,000人以上もの一般大衆が集合して目撃した。イギリスは、1968年の死刑改正法で公開処刑が禁止されて、刑務所内でのみ執行された。フランスでは、1939年6月17日に31歳男性の6回の殺人犯であるオイゲン・ワイドマンが、ヴェルサイユのサンピエール刑務所の外にて、ギロチンで公開処刑された。
 ベトナム戦争の際に、1965年3月8日に朝鮮戦争以来のアメリカ軍海兵隊の戦闘部隊が初めてベナナムに上陸して、ダナン国際空港の付近に大規模な米軍基地を建設した。ベトナム戦争中、ダナン国際空港は、南ベトナムおよびアメリカ空軍が使用する主要な空軍基地となった。上陸した浜辺の誰も、後に続く長くて曲がりくねったベトナム戦争を全く想定しなかった。年末までに、ベトナム戦争が激化するにつれて約185,000人の軍隊が配備された。10年後に、南ベトナムが陥落し、アメリカ軍米兵が最終的に撤退したとき、約270万人のアメリカ人がベトナムで従軍して、約58,000人以上が殺害された。約200万人の民間ベトナム人市民を含む約300万人ものベトナム人が死亡した。数十万人が重傷をって障害者になった。農地は、約4300万リットルもの枯葉剤の曝露によって汚染された。地方には約1400万トンもの兵器が潜在して、その大部分は不発弾となった。何百万人ものベトナム人が避難して、飢饉と病気が蔓延した。


2020年1月8日水曜日

37歳黒人男性のルービン・ステイシーは、フロリダ州で白人女性に危害を加えたとして首吊でリンチされた。

アフリカ系アメリカ人の37歳男性のルービン・ステイシーは、1935年7月19日にフロリダ州フォートローダーデールで白人女性に危害を加えたとして首吊でリンチされた。ジョージアを去って、日雇い農民からホームレスとなったルービン・ステイシーは、食物を求めて物乞いに、フォートマリオン・ジョーンズ家のドアに来た。彼女は悲鳴を上げて、5歳の男子が助けを求めた。2日後に住民の苦情が殺到して、保安官が彼を逮捕して勾留した。南部の白人暴徒が勾留された刑務所から、彼を連れ去りジョーンズ家の付近でリンチを執行した。ルービン・ステイシーは、快適に歩いて白人の家に近づき過ぎてリンチされた。ステイシーの死体に、数人の白人の子供を含む群衆が集合した。リンチの特別な瞬間に、笑顔の若い白人の少女の視線さえも見られた。リンチを執行した白人集団は刑事起訴されなかった。
 リンチは超法規的行為として集団による殺人の執行である。アメリカのリンチは、奴隷の解放に続いて、19世紀後半の南北戦争の後、リンチの数が増加して、1930年代から減少した。ほとんどのリンチは、アメリカ南部などのアフリカ系アメリカ人男性であったが、女性と黒人以外もリンチされた。黒人に対する白人のリンチは、20世紀の黒人の南部から北部への移住により、アメリカ中西部および国境の州でも発生した。アメリカ南部の黒人のリンチの目的は。白人の優位を強制し、人種テロリズムを通して黒人を脅迫した。大部分のリンチされた被害者は殺人または殺人未遂で告発されていた。レイプまたはレイプ未遂は、2番目に多く告発された。告発により、人種的差別するジム・クロウ制度の法体系に違反した黒人や白人との経済的競争に関与した黒人を、リンチする口実となった。1930年代には、リンチの犠牲者の約3分の1が誤って告発された。全米有色人種協会(NAACP)は、リンチ防止法案を支持するも、フランクリン・デラノ・ルーズベルト大統領は拒否権を発動した。特定のカテゴリーに属する人々に対する偏見または憎悪による犯罪であるヘイトクライム(Hate Crime)も、近年に社会問題化したが、連邦法てはなく各州の様々な州法として立法化された。




2020年1月7日火曜日

イギリス軍は、ベルゲン・ベルゼン強制収容所でドイツ人女性の親衛隊監督に、囚人の死体を集団墓地に運搬して埋葬させた。

イギリス軍は、1945年4月28日にベルゲン・ベルゼン強制収容所で肥満したドイツ人女性の親衛隊監督に、トラックから囚人の犠牲者の死体を集団墓地に運搬して埋葬させた。それをナチス・ドイツの元親衛隊に、女性監督の埋葬を監視させた。解放の数週間前に収容所に到着したばかりのドイツ人女性親衛隊の一部は肥満していたが、生き残った囚人の多くは痩せ細り飢えていた。特に1945年2月に発疹チフスの流行が混在して、ベルゲン・ベルゼン収容所の状況は壊滅的となった。アンネ・フランクと妹のマーゴットは、1945年 3月に発疹チフスで病死した。病死した死体は、ベルゲン・ベルゼンの集団墓地に投げ込まれた。ドイツ軍親衛隊は保護手袋なしで素手で病気の体を扱って、約80人の親衛隊のうち約20人が病死した。疹チフスの流行は収容所で暴発し、イギリス軍は無慈悲にブルドザーで死体を集団墓地に投げ込んだ。4月21日から生存した収容者を近くの旧ドイツ陸軍兵舎に移動させて、収容所の木製の兵舎を焼き払った。
 イギリス軍が、1945年4月14日にベルゲン・ベルゼン強制収容所を解放した。イギリス軍がついにベルゲン・ベルゼン強制収容所を占領とき、笑顔で健康な囚人が出迎えてくれ、約500人の子供たちの一部が声援を送って手を振った。しかし、収容所にさらに進むと、約10,000人以上の埋葬されていない裸の体の死体に驚愕して、 恐怖は人間の想像を超えた。重病人である約6万人もの囚人が収容所に、数千体ものユダヤ人や囚人の死体が構内に放置されていた。毒ガス室はなくても、極悪な生活環境により、約50,000人の囚人が死亡した。解放後の約2ケ月間にも、約1万3,000人の重病人が病死した。腐敗した死体の悪臭は凄まじく、イギリス軍兵は後に約16kmも離れた場所から悪臭が漂った。1945年4月18日から、死体の埋葬が始まった。イギリス軍の囚人となったドイツ人監督に、遺体を埋める仕事を強制した。イギリス軍は伝染病で死亡した囚人の死体を扱うために、親衛隊に意図的に素手のみで作業を強制した。イギリス軍は、死体に触れて感染しないように、ブルドーザにより大量の死体を無慈悲にも塹壕に押し込んだ。ベルゲン・ベルゼン強制収容所で撮影された写真とビデオは、第2次世界大戦後に世界中に大量虐殺の戦争の真実を人類に提示した。


2020年1月6日月曜日

ドイツ軍の空挺部隊兵士は、殺害された連合軍兵士とクレタ島住民の散乱した死体群を通り過ぎた。

ナチス・ドイツ軍は、1941年5月20日から大規模な空挺部隊によって、地中海に面したギリシアのクレタ島にパラシュートやグライダーに侵攻した。ドイツ軍の空挺部隊兵士は、殺害された連合軍兵士とクレタ島住民の散乱した死体群を通り過ぎた。ドイツ軍空挺部隊が5月20日にクレタ島に侵攻して、6月1日にクレタ島を占領して、連合軍は撤退した。連合軍の激しい銃撃の中で、パラシュート部隊に甚大な犠牲を伴った。クレタ島は、ドイツ軍空挺部隊の墓場となった。約12日間の戦闘で、約31,700人のドイツ軍は、約4,041人が戦死して、約2,640人が戦傷する甚大な犠牲を伴った。約40,000人の連合軍も、約4,000人が戦死して、約1,900人が戦傷して、約17,000人が捕虜になった。
 ギリシアのイギリス連邦軍は、1941年4月にドイツ軍を主体とする枢軸国軍に敗退して、クレタ島に避難した。第ニ次世界対戦当時に、クレタ島の住民は生まれて始めて、空からパラシュートで降下するドイツ軍に侵略された。激怒したクレタ島の住民は、連合軍に参戦した。侵入したドイツ軍の空挺部隊に対して、大切なオリーブ畑に落下したドイツ軍空挺部隊を、囲板に巻き釘付けて、武器や農機具などで容赦なく殺害した。クレタ島の住民は、武装して、ナイフや鎌などの武器で、戦闘にも参加した。クレタ島の住民は、ドイツ軍空挺部隊を鎌や刀で首を切断したり、刺殺したり、棍棒で打殺した。ドイツ軍は、民間市民による広範な抵抗を初めて受けて、クレタ島の住民に激しい敵意を持って報復した。ドイツ軍は、クレタ島の住民を軍人あるいはゲリラとして無差別に集団的な虐殺をした。ドイツ軍は、戦闘服を着用しないクレタ民兵はハーグ陸戦条約から除外して、約1,000人を問答無用で銃殺した。ドイツ軍は6月1日に南部戦線のクレタ島を占領して、6月22日の東部戦線のソ連侵攻の起点となった。


2020年1月5日日曜日

サイパンの戦いにて、アメリカ軍により日本海軍の少年兵が首都ガラパンで射殺された。

太平洋戦争におけるサイパンの戦いにて、アメリカ軍により日本海軍の少年兵が射殺された。サイパン島の首都であるガラパンの市街戦に巻き込まれた。左下肢や左手に銃撃を受けて、日本海軍の少年兵は自ら駆血帯をして止血していた。日本海軍の少年兵が水筒の蓋を開けて、水を飲んでいる際に射撃されて殺害された。絶望的な戦闘に巻き込まれて虐殺された。6月28日にアメリカ軍は、サイパン最大の市街地ガラパンに攻撃を開始した。日本軍は、起伏が多い地形を活用して、市街地の建築物を利用した市街戦で肉薄攻撃と白兵突撃を駆使した。食糧も飲料水もない戦いとなり、日本軍の守備隊の主力はほぼ全滅した。
 日本軍は、6月15日にサイパン島に上陸したアメリカ軍に首都ガラパンからしばしば夜襲をかけていた。アメリカ軍は夜襲に対抗して陣地の周囲に鉄条網とトタン板で日本軍兵士を察知しては射殺した。1944年6月28日に日本軍は瓦礫となった首都ガラパンに侵攻した。アメリカ軍は、侵攻に対して地雷を敷設して、粉砕されたコンクリートの壁に銃座を設置していた。生存していた日本軍兵士や水を求める民間人も含めて、廃墟の中で市街戦が約5日間も引き続いた。7月2日に日本軍の本部も崩壊してほとんど壊滅して、首都ガラパンにて多数の日本軍兵士の死体が散乱した。7月3日の夜明けにサイパン島の北部へ撤退した。北部のタナパクに向かって北上して、日本軍兵士と民間市民が、北端のマッピー岬の崖からの飛び降りる自決に追い込まれる悲劇が待ち受けていた。サイパンの戦いの犠牲者は、日本軍約31,629人のうち約30,000人が戦死して、生存者の約921人が捕虜となった。民間市民は約10,000人程度が巻き添えで死亡した。アメリカ軍は約66,799人のうち約3,441人が戦死して、約11,685人が戦傷した。


2020年1月4日土曜日

第2次世界大戦にて、ドイツ軍のダンケルクへの侵攻に抵抗した3人のイギリス遠征軍兵士がベルギーの国境の付近で殺害された。

第2次世界大戦にて、1940年5月にナチス・ドイツ軍のダンケルクへの侵攻に抵抗した3人のイギリス遠征軍(BEF)兵士がベルギーの国境の付近で殺害された。殺害された3人のイギリス遠征軍兵士の死体が路上に散乱した。イギリス遠征軍とフランス軍は、フランス最北端のダンケルクに追い詰められる過程で、膨大な犠牲を伴った。ダンケルクから西部約40kmのカレーで包囲されたイギリス遠征軍は、ドイツ軍を引き寄せるも、救出はされず壊滅した。イギリス遠征軍だけでも、フランス遠征中に約68,000人が犠牲となった。
 ナチス・ドイツ軍は、1939年にポーランドでの勝利を西部戦線で攻撃することを計画したが、悪天候のために攻撃計画は延期された。1940年1月にドイツの飛行機が中立のベルギーで落下して攻撃命令のコピーが残り、再考を余儀なくされた。フランス軍のマジノ線に、ドイツ軍は直接に侵攻しないで、オランダとベルギーを介したアルデンヌ森を介してフランスに侵攻した。ベルギーとフランスの国境にある丘陵地であり、森林に覆われた地域であり、連合軍は脅威となる電撃戦を予期してなかった。
 1940年5月10日に、ナチス・ドイツ軍が電撃攻撃でオランダ、ルクセンブルク、ベルギーに侵入した。ドイツ軍は5月10日にルクセンブルク、オランダは5月14日に、ベルギーは5月28日に占領した。5月14日からマジノ線ではなく、アルデンヌの森を通り、ソンム渓谷に沿ってイギリス海峡に向かって着実にフランスを侵攻した。ドイツ軍は、連合軍を北部沿岸のダンケルクに追い詰めた。ダイナモ作戦で、5月27日から6月4日までに約338,226人のイギリス軍兵士約215,000人とフランス軍兵士約123,000人がイギリス本土へ救出された。フランス軍は崩壊して、6月13日にパリを占領されて、6月21日に降伏した。


2020年1月4日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 350,000回

1. 日本 295,000
2. アメリカ合衆国 23,400
3. ドイツ 4,900
4. ウクライナ 4,100
5. ロシア  3,400
6. 不詳国 2,200
7. 韓国 1,600
8. トルクメニスタン 1,500
9. アラブ首長国連邦 1,100
10. フランス 1,000

2020年1月3日金曜日

日中戦争の徐州会戦で、日本軍は多数の中国人市民を虐殺した死体で溝は一杯となった。

日中戦争において、1938年に中国の徐州にて、日本軍は、多数の中国人の市民を虐殺した。その死体で溝は一杯となり、それを日本軍兵士が見下した。日本軍は1938年4月7日から6月7日まで徐州会戦が勃発した。日本軍が南京を1937年12月に攻略して、中国軍は黄河作戦で敗退して徐州周辺に集結した。対抗する日本軍は1938年4月中旬から徐州に侵攻を開始した。北から、青島から、そして南の南京から徐州包囲を行った。日本軍は5月12日に、中国軍前に渡河を敢行して、大会戦となった。
 日本帝国の戦争犯罪は、帝国主義時代、主に第二次日清戦争から第二次世界大戦中に、多くのアジア太平洋諸国で日本帝国によって犯された。戦争犯罪は、アジアの大量虐殺と非難された。一部の戦争犯罪は19世紀後半の明治時代に、日本軍人により犯された。ほとんどの日本帝国の戦争犯罪は、日本帝国の無条件降伏まで、天皇に治世が与えられた明治・大正・昭和時代に犯された。日本帝国の戦争犯罪は、日本帝国陸軍と日本海軍を巻き込み、何百万人もの死者を出した。日本帝国の戦争犯罪に起因する死亡数の推定値は300万人からの1400万に達した。さらに大量虐殺、人体実験、飢餓、および強制労働、直接的に犯されたり、日本帝国と日本軍が直接的に犯して容認した。一部の日本軍兵士は、これらの戦争犯罪を犯したことを認めた。日本帝国陸軍と日本海軍の航空隊員は、第2次世界大戦前または第2次世界大戦中には、空中戦の違法行為を禁止する特定的な国際人道法がなかったために、戦争犯罪者として含めていない。帝国日本陸軍は、第2次日中戦争および第2次世界大戦中に、敵国市民に対して化学的および生物学的攻撃を実施して、戦争にその武器の使用は、ハーグ条約(1899年と1907年)を含む日本帝国が署名した国際協定で一般的に禁止されていた。戦争における毒または毒兵器の使用を禁止されていた。
 戦争犯罪は、東京裁判によって「法律または戦争慣習の違反」として定義された。敵の戦闘員および非戦闘員に対する犯罪が含まれる。戦争犯罪は、意図的な攻撃を含め、中立状態の非戦闘員の市民及び財産の攻撃を含めた。日本帝国と日本軍は、日本帝国主義時代に多くの戦争犯罪を犯して非難または有罪判決を受けた。日本帝国は、19世紀後半から20世紀半ばまで、東アジアおよび西太平洋地域全体で、民間市民および戦争捕虜に対する一連の人権侵害を犯したと非難された。これらの戦争犯罪は、1937年から1945年までの第2次日中戦争と第2次世界大戦のアジア太平洋地域の侵略の間に最高犯罪に達した。日本の市民および軍人に、日本帝国の強制的に致し方なく韓国人と台湾人らは、日本帝国軍の一部として戦争犯罪を犯した。


2020年1月2日木曜日

アメリカ軍が沖縄本島に造成した墓地で膨大なアメリカ軍兵士の死体を埋葬して、十字架を並べた。

アメリカ軍が沖縄本島の読谷村に造成した墓地でアメリカ軍兵士の膨大な死体を埋葬した。1945年20年5月頃には、午前と午後に1回ずつ、トラックが沖縄戦の南部戦線で戦死したアメリカ軍兵士の死体を積んで運搬してきた。5月頃の沖縄の暑さで、死体からはものすごい悪臭が漂った。死体は身元を確認した後に、アメリカ軍兵士によって埋葬された。墓地には死体を埋める深さ約2メートル弱ほどの穴が掘られて、埋葬後には白く塗られた十字架が整然と並んでいた。捕虜となった日本人は埋葬作業ではなく、通路の縁石を整える作業に従事した。日本人の捕虜生活は7月頃まで続いた。 沖縄戦の南部戦線では多くの日本人同級生が15~16歳頃で死んでいった。沖縄本島の中部西海岸に位置する読谷は、1945年4月1日にアメリカ軍が、沖縄本島への最初の上陸地点であった。
 約12,000人を超えるアメリカ軍兵士が、沖縄島を占領した地上と神風特攻隊の攻撃を受けた艦船で死亡しました。 アメリカ軍の戦闘ならびに非戦闘による戦死傷者の合計は約72,000人に達した。約7万6,000人の軍事訓練を受けた日本軍の防御兵士の戦死数とほぼ同数であった。多くの日本人の一般市民が沖縄戦に巻き込まれて約9万4000人が死亡した。日本軍が沖縄南部に追い詰められてから、特にアメリカ軍の無差別な攻撃に、日本軍兵士も、沖縄市民も次々と戦死傷した。沖縄戦だけは、日本軍兵士よりも多くの市民が戦死した。沖縄市民は県内外に疎開をが思うように進まず、約50万人の市民が取り残された。沖縄戦の兵士と市民の戦死者総数の割合は約25%以上に達した。
 戦死した要因は、(1) 戦闘に巻き込まれた戦死。(2) 間接的な戦死。(3) 戦闘以外の戦死。(1) 戦闘に巻き込まれた戦死には、1. アメリカ軍による直接的な殺害 2. アメリカ軍による間接的殺害 3. 日本軍による直接的な殺害 などの要因による。(2) 間接的な要因には、1. 戦闘時の事故死 2. 戦傷・栄養失調・衰弱など病死 3. 自殺・ 中毒・精神・不明死 などの要因による。(3) 1. 日本軍よる直接的殺害(刺殺・銃殺・絞殺・斬殺・毒殺などの虐殺) 2. 日本軍による間接的殺害(塹壕から追出虐殺・殺害強要虐殺・自決・集団自決の強要虐殺死など) 3. アメリカ軍による直接的殺害 (暴行虐殺・投薬虐殺・戦犯射殺など) 4. アメリカ軍による間接的殺害(レイプ・間接虐殺・不発弾死など) などの要因による。激しい戦闘の中で、沖縄住民の死体は、砲弾穴・畑・道の側、あるいは壕(ガマ)の内外に放置されて腐敗していた。 


2020年1月1日水曜日

翌日に広島本通から西方を遠望すると、以前として煙を吐き出し、中央右より後方に原爆ドームの産業奨励館が映し出された。

広島原子爆弾の炸裂による火災が、広島市内の各所で発生した。火災の炎が広範囲に広島市内を襲った。爆心地から半径約2km以内のコンクリート製のビル以外は、跡形もなく燃え尽きた。広島原爆が1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した被爆当日の午前10時頃から午後15時頃まで火災がピークに萌え続けた。火災の終焉には、およそ8月8日まで約3日間を要した。8月7日に広島市の現本通りから西方を遠望すると、煙が以前として残って煙を吐き出した。中央右より後方に原爆ドームとなる産業奨励館が映し出された。破壊された広島市に白い煙がくすぶった。広島市で最もにぎやかな通り、本通は一瞬にして破壊された。広島原爆の爆心地の近くの原爆ドームは、残っている建物の間に見れた。残存したビルは、安田銀行の広島支店、大林組の広島支店、三和銀行、住友銀行、中央芸備銀行である。鉄筋鉄筋コンクリートの建物を除き、本通商店街の裏地にある店舗は爆風と火災により完全に破壊され焼失した。鉄骨とコンクリートの建物はほとんど爆弾に耐えたが、ガラスと木などの備品は溶けて燃焼した。レンガ造りの建物は大きな被害を受け、木造の建物は火事で完全に焼滅した。 
 広島市は当時には約35万人が居住して、1945年12月末までに約14万人が原爆死した。被爆により人口は約8から13万人と激減した。爆心地から半径1.5kmから2kmの木造の建物は、ほぼ全壊して全焼した。2kmから3kmまでは、木造の建物は、ほぼ半壊と半焼した。被災戸数は、約6万7,860戸全壊と全焼を免れたコンクリート製のビルは、外壁だけでを残して内部は焼き尽くされた。
 アメリカ軍の「エノラ・ゲイ」と故障されたB-29スーパーフォートレス爆撃機は、1945年8月6日早朝にテニアン島から離陸し、約4,000kg(8,900 lb)の「リトル・ボーイ」と呼称されるウラン型原子爆弾爆を運搬した。午前8時15分に、リトルボーイは広島市の上空の約9,400m(31,000フィート)から落下して、57秒間はパラシュートで自由落下した。一連の複雑な炸裂は、地上約600m(2,000フィート)の目標の高度で炸裂した。炸裂の瞬間に、小さな爆発物が約64kg(141lbs)のウランで超臨界量を越えて核分裂を引き起こした。その約64kgのうち、わずか約0.7kg(1.5lbs)だけが核分裂し、その質量のうち、わずか600ミリグラムがエネルギーに変換された。その核分裂が、数km内のすべてを焼き尽くす爆発的なエネルギー暴発した。猛烈な火災が覆って、すべての生物に致命的な放射線を浴びせた。