1980年代から90年代に、ベトナム戦争後からのボート難民は、香港ではホワイトヘッド抑留収容所に拘留された。1995年には、ベトナムからのボート難民の子どもたちは金網の窓枠に押し込められて監禁されていた。何千人ものベトナム難民の子どもたちが、この収容所で長期にわたり拘留されて過ごした。特に、戦争の後遺症に起因した弱者である難民の子ども達に対する身体的と精神的虐待が抑留収容所内で頻発して密かに横行した。
オーストラリアからのナウル・ファイルによれば、太平洋の孤島にあるオフショア難民収容所から虐待や暴力による多数の子どもの犠牲が漏洩された。ナウル・ファイル(Nauru Files)とは、オーストラリアのオフショア難民収容所から漏洩された最大の秘密情報である。ナウルにある収容所にて2013年5月から2015年10月までの約2,000以上の事件の報告書であった。太平洋の島の警備員、ケースワーカー、教師によって記述された。彼らは島での報告可能なすべての事件を提示した。事件の半分以上は移民した子どもに関連して、自傷行為、性的暴行、児童虐待、ハンガーストライキ、暴行および負傷が含まれた。事件の文書は2016年8月10日にガーディアンが公開されて、その他の報道機関も報告した。記録にはオーストラリアの悪名の高い沖合拘留収容所での長期の拘禁による犠牲の全容が詳細に記載された。
1975年以降に難民が流出したのは、ベトナム・カンプチア・ラオスで約30年間の戦争の後遺症から、共産党政権による何百万人に達する民間市民が虐殺された。都市の粉砕、農地の破壊、森林のはげ山化、水源の汚染、無数の地雷などが放置された。直面する経済と環境上の悪化を招いた。1980年から1986年の間は、ベトナムからのボート難民の流出は、第3国で再定住者よりも少なかったが、1987年からはボート難民の人数は再び急上昇し始めた。当時の目的地は、主に香港とタイであった。1988年6月15日から約半年だけで、約18,000人以上のベトナム人難民が香港に到着した。香港当局は、すべての新規の難民を拘留センターに入れた。第3国に再定住できるまで拘留センター閉じ込めた。ボート難民は刑務所のような拘留センターに抑留された。特に、子どもに対する教育やその他のプログラムは廃止された。東南アジアの受け入れ国も、新しく到着したベトナムからボート難民の受け入れを、香港と同様に否定的であった。
亡命国と第3国の再定住の受入国は、より新しいボート難民の多くが政治的弾圧から逃れる難民の地位を疑った。1989年6月にジュネーブの国際難民会議では、すべての新しい難民を選別して、本物の難民を判断することを要求した。ボート難民の移民を減少させる包括的行動計画(CPA)を作成した。難民の資格を与えられない人々は、自発的または非自発的にベトナムに送還された。1989年には、約5万人のインドシナ系難民が東南アジアの5か国と香港に到着した。1992年から難民数は激減して、ベトナムのボート難民が故郷から逃げる時代は完全に終わった。ベトナム人で混血となったアメラジアンの子供たちの再定住は特別に再教育収容所で継続された。