2021年5月31日月曜日

ベトコン・ゲリラが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃して、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

アメリカ軍がベトナム戦争に参戦した直後に、ベトコンが南ベトナムの首都サイゴンから北10kmある村を襲撃した。ベトコン・ゲリラは、南ベトナム人の多数の子供たちを無差別に殺害した。

 ジョンソンがアメリカ大統領に再選された1964年11月には、南ベトナム政府では不安定な内乱が相次ぎ、南ベトナム解放戦線(ベトコン)はゲリラ戦から大規模な通常戦へ移行した。アメリカ軍はより厳しく1965年3月に、アメリカ軍はダナンに上陸して、北ベトナムに対して持続的な空爆攻撃を開始した。南ベトナム政府の指導者たちが即時攻撃を求め始めたら、南ベトナム側の改革と引き換えにアメリカ軍は北ベトナムへの空爆の見返りを提供した。アメリカ軍はラオスでの北ベトナムの侵入ルートに対する攻撃を強化して、北ベトナム沿岸でのアメリカ海軍による秘密作戦を敢行した。南方での北ベトナム軍の略奪に対する報復として、アメリカ軍と米南ベトナム軍は合同で北方への空爆をした。
 南ベトナム軍人たちの無責任な行動が、南ベトナムの安定を前提としたすべての軍事計画を頓挫させた。1964年12月24日午後、サイゴンに住む多くのアメリカ人がクリスマスイブを祝う準備をしている最中に、ベトコンはサイゴンのビジネス街に近いアメリカ軍将校の宿舎であるブリンクホテルを爆撃した。この爆撃は、ベトコンのテロ行為の中でも最も影響の大きいものの一つで、2人のアメリカ人が殺害され、アメリカ人と南ベトナム人が51人負傷した。
 1965年1月17日、南ベトナムは陸軍の徴兵制を拡大する法令を発布した。仏教徒が街頭で反乱して、内乱は瞬く間に南ベトナムの都市から都市へと広がり、フエのアメリカ情報機関の破壊や、17歳の少女の焼身自殺にまで発展した。サイゴンでの政権転覆して、一方で首都周辺の地方では激しい戦闘が続いて、ベトコンが徐々に優勢になった。武装したベトコンはサイゴン近郊の海岸沿い人口約6,000人のビンジア村を4日間占領して、約6人のアメリカ軍兵士と約177人の南ベトナム兵を殺害した。戦況を打開するためには、1月下旬に北ベトナムへの報復空爆をした。
 1965年2月7日朝に、ベトコンが中部高原のプレイク近郊にあるアメリカ軍のホロウェイ基地と滑走路を攻撃して、約9人のアメリカ軍兵士の約9人が殺害されて、100人以上の負傷者を出した。同日にアメリカ軍の約49機の戦闘機が、非武装地帯の上にあるベトコンのドンホイ兵舎を攻撃して、翌日に南ベトナム政府軍は、ベトコンのヴィン兵舎を攻撃した。2月10日にベトコンが、クイニョンのホテルを爆破して、建物の崩壊で瓦礫に閉じ込められて約23人の兵士が殺害され、多数が負傷した。2月12日に北ベトナムへローリング・サンダー作戦を決定した。3月2日に、アメリカ軍と南ベトナム政府軍の戦闘機が、北ベトナムの弾薬庫と海軍基地を爆破した。2月26日に北爆のためにダナンの空軍基地を強化して、3月8日上陸した。ダナンの到着は、アメリカ軍の軍事過程にてベトナム戦争の参戦が取り消せない段階となった。



2021年5月30日日曜日

アメリカ軍はサイパンの洞窟にいる日本軍兵士を掃討するために、海辺の崖の上から爆薬を下げて切り立った岩壁の洞窟の開口部に振り下ろした。海辺の崖の上には爆発して殺害された日本軍の狙撃手の死体があった。

太平洋戦争において、アメリカ軍はサイパンの洞窟にいる日本軍兵士を掃討するために、海辺の崖の上から爆薬を下げて切り立った岩壁の洞窟の開口部に振り下ろした。その崖の洞窟中に隠れているかもしれない日本軍兵士と民間人をも吹き飛ばして殺害した。海辺の崖の上には爆発して殺害された日本軍の狙撃手の死体があった。ほんの数分前までは、海辺でアメリカ軍兵士や民間人を狙撃していたのに、アメリカ軍の狙撃手によって日本軍兵士自らも射殺されてしまった。最も悲惨なのは、島の北端にある断崖絶壁からの飛び降り自殺であった。日本人がマッピ岬の北面の崖から飛び降りていた。アメリカ軍兵士たちが拡声器を使って、日本人に危害を加えないと説得したが、明らかに無駄だった。
 サイパン島の戦いでは、多くの日本軍兵士と民間人は、降伏も生存もできなかった。降伏するためには、銃撃と砲火の中に逃げ込まなければならない。日本人は死を覚悟して降伏することを禁じていた。アメリカ軍に降伏する者は、日本軍兵士によって殺害される危険にさらされた。最後に洞窟に生存した日本軍兵士は、大きな日本刀を持って、誰か日本人がアメリカ側に降伏しするなら、喉を切り裂くと脅した。日本軍兵士も、アメリカ軍に降伏しようとして味方に処刑されるよりは、自決を選んだ。
 残存した日本軍兵士は7月6日の日没後間もなく、全滅して玉砕する万歳攻撃のために集結し始めた。歩けない、武器を持たない、負傷したほとんどのの日本軍兵士は、日本軍司令官の命令の下で殺害された。7月7日の午前4時55分に、最初に日本軍の将校が来て、頭上で刀を振りかざし、万歳と叫び声を上げ、続いて数千人の日本軍兵士が突撃した。太平洋戦争で最大の万歳攻撃が全滅するまでに約12時間継続して、合計約4,311人の日本軍兵士が殺害された。アメリカ軍は、約406人が戦死して、約512人が戦傷した。アメリカ軍は1944年7月9日にサイパンを占領して安全宣言をして、侵攻開始から3週間以上が経過していた。
 7月7日の午前4時55分に、最初に日本軍の将校が来て、頭上で刀を振りかざし、万歳と叫び声を上げ、続いて数千人の日本軍兵士が突撃した。万歳攻撃が全滅するまでに約12時間継続して、合計約4,311人の日本軍兵士が殺害された。アメリカ軍は、約406人が戦死して、約512人が戦傷した。
 サイパンは第一次世界大戦以来に日本軍に占領されて植民地化された。約127,000人ものアメリカ軍が1944年6月15日から侵攻したとき、サイパン島には約26,000人の日本軍と約6,000人の海軍要員ならびに約30,000人の民間人がいた。日本軍兵士は約24,000人が戦死して約5,000人が自殺した。日本軍兵士は約912人の捕虜まみが生存した。民間日本人は約22,000人が死亡した。アメリカ軍は、約3,426人が戦死して、約10,364人が戦傷した。

 


 

2021年5月29日土曜日

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。

原子爆弾による熱傷は、炸裂時に放出された閃光が直接に身体に面した箇所だけに発症した。被爆時の姿勢、方角、位置などにより、広島原子爆弾が炸裂した爆心地に熱傷面が面していた。被爆者は、広島湾から沖合に約3kmの似島に陸軍似島検疫所に護送された。広島原子爆弾が炸裂した直後から、被爆者を収容所して救護した。8月12日からは野戦病院に転換した。被爆地における野外病院を野戦病院と呼称して、負傷者を野外で治療する大規模な移動式施設となった。その後には救護所として機能した。当初に収容された被爆者は、一部は宇品で仮手当を受けては、宇品港から海上輸送された。多くの重度の被爆者は、治療の甲斐もなく約7割は原爆死した。 
 原子爆弾による熱傷は、従来の空襲による焼夷爆弾や火災とは異なる。炸裂時に放出された閃光に直接に身体に面した箇所だけに発症した。陸軍軍医学校の調査報告では、広島原子爆弾が炸裂時に、陸軍船舶通信隊の一員は、爆心地から南に約1.8kmの千田町国民学校の校庭で整列していた。裸体あるいは半裸体で校庭に隊列を組んでいた。気をつけから休めの姿勢で、船舶通信隊の幹部からの訓話を拝聴していた。隊列の前方に対して、左側から強烈な閃光を浴びた。瞬時に、隊員はその場にうつ伏せあるいは防空壕に避難した。校庭で整列していた隊員らは、主に左側面のみに熱傷を受傷した。
 1945年8月6日に広島原子爆弾が炸裂して,日本陸軍船舶司令部である通称「暁部隊」が,重傷被爆者を救護する拠点として似島検疫所を選定した。似島検疫所は臨時野戦病院となり,被爆者を収容した。8月6日午前10時頃から広島市内で被爆した負傷者が、船で続々と似島に運ばれた。暁部隊の兵士や少年特攻兵等と似島の島民による必死の救護が24時間行われた。最大収容者数は約1万人余に達した。証言や発掘された遺骨数から,収容された被爆者のうち,約7割が原爆死したと推計された。1945年9月頃に検疫所職員等が馬匹検疫所構内の遺骨を集めて、千人塚の供養塔が建立された。その後,1955年7月に,似島の遺骨の約2,000体が,広島平和記念公園内の広島市戦災死没者供養塔に合祀された。
 似島検疫所は、日清戦争以後に海外の戦場から帰国してきた戦傷兵士を伝染病などの予防のために検疫した。日清戦争開戦前の1894年6月10日に山陽鉄道が広島まで延長され,日清戦争の宣戦布告後には8月4日に軍用宇品線が完成した。9月15日に大本営を東京から広島に移転して,明治天皇が広島に到着し,10月18日に臨時帝国議会が開催され,正式に遷都して広島が臨時首都となった。日本軍が広島に集結して、宇品から出兵した。広島への帰還兵も同様に多数となった。地勢的に似島が宇品と対峙する近距離にあった。似島には山水が確保できて、伝染病などを予防する検疫業務に利便性が伴った。


 

2021年5月28日金曜日

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。

ナチス・ドイツ軍は、多数の降伏したソ連軍の捕虜を大量虐殺した。ソ連軍兵士の捕虜を、塹壕の中に追い込んでは殺害した死体が積み重なった。ナチス・ドイツ国防軍の殲滅作戦は戦争犯罪であった。この時期に、クルト・ワヒナー(Kurt Wafner, 1918-2007)は、ナチス・ドイツ軍が行った残虐行為の写真を目撃しては収集した。ドイツ国防軍は親衛隊SSや警察と同様に残虐な行為を行っていた。1941年11月だけで約6,000人〜10,000人のロシア人やユダヤ人が粛清された「ミンスク・ゲットーの避難」の後に、自分の目で地獄を見に行った。割れたガラス、衣類、殺害された人々の体の部分、ラットにかじられた死んだ赤ちゃんなどが散乱した。
 クルト・ワフナーは、1939年に徴兵されて陸軍に入り、労働奉仕活動に従事した。工学系学校の入学が兵役で頓挫した。1939年夏、視力の低下を理由に兵役から解放された。その後に覆されて、フランクフルトの砲兵隊に所属して、目の病気が悪化し、事務職に就いた。1941年には、ベルリンでフランス軍の捕虜を守護すために派遣された。善良なる兵士の戦術を用いて、戦争に貢献しなかった。ナチス・ドイツ軍による東欧侵攻で状況は一変し、東部戦線に駆り出された。部隊の中で2人の共産党員に出会った。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣された。彼らはミンスクでロシア軍の捕虜を警護するために派遣されていた。共産党員の1人が、「死んだように酔っ払った」と言い訳して、何人かの捕虜を逃がして、憲兵隊に逮捕され、行方不明となった。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍が暗転するにつれて、クルト・ワヒナーは、病人リストに載るための努力を重ねて、シーメンス社の物理学研究所で、地下活動を続けた。第二次世界大戦後に東ドイツの体制下で、彼は民兵や共産党に参加したが、無政府主義的な考えを持ち続けた。1947年に、彼は秘密警察に協力を要請されたが、これを拒否した。結核を患い、民兵を辞めた。図書館員として訓練を受けて、1950年に彼は共産党を脱退した。出版編集者、週刊連載小説を発行する「ロマン・ツァイトゥング」の責任者、ラジオ劇の作者、ジャーナリストなど、さまざまな仕事をした。常に国家の検閲の弾圧を意識した。共産党の方針に従わなかったために、ソビエト・ドイツ友好協会の出版社の仕事を失った。1989年にベルリンの壁が崩壊すると、ドイツのアナーキスト運動と接触し、自らの体験と写真を記事にした。2000年には自叙伝『My Life as a Book Lover and Anarchist』を出版し、2007年3月10日に死去した。
 ナチス国家社会主義の敗北後に、軍隊の幹部や参謀たちは「クリーンなドイツ国防軍」の伝説を集めて喧伝した。隊員たちは、ヒトラーやナチス政権とは距離を置いて、良識と尊厳を持った軍人の義務を果たした。ヒムラーのアインザッツグルッペンが行った残虐行為は、事後的にしか知らされなかった。重大な犯罪の加害者や共犯者は、自分に罪はないと語ることができた。しかし、ドイツ国防軍は、全体組織としてナチスの戦争犯罪に積極的に参加したことを認めない組織である。ユダヤ人の絶滅、捕虜の大量殺戮、民間人に対するテロという3つの大きな犯罪に軍が加担したが記録していた。国際法を逸脱し、あらゆる戦争のルールを超えて行われた戦争犯罪は、何よりも対ソ戦の残虐性を決定づけた。バルカン半島やイタリアなど、他の地域でも同じように戦争犯罪が執行された。戦争に対する政治の優位性は、もはや当てはまらない。ナス知国家社会主義者の絶滅戦争では、政治的目標と戦争目的は区別できなくなった。
 1945年以降に、何千人もの加害者と何十万人もの共犯者がドイツ国内に戻ってきた。彼らは、戦後のドイツ社会に身を置き、何が起こったのかを雄弁に語った。その後に、解明や告発への関心が薄れた、雑誌や文献でどのような霧のベールが作られた。

 

2021年5月27日木曜日

第二次世界大戦にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であったソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。

第二次世界大戦の東部戦線にて、北極圏に近いフィンランドの雪道で、ソ連軍兵士が積雪の上で凍りついて戦死した。フィンランドの戦いでロシア軍の軍服は、ヨーロッパ史上で最も厳寒の約−43°Cとなった冬季にもかかわらず、不適切なほど薄い軍服であった。日光が数時間しか続かず、厳寒で雪に覆われた森で、猛吹雪と吠える風で露出した身体は凍傷になり、死体の山は数分で凍り、レンガの壁の堅固さを獲得した。凍死は、震えが止まり、低体温症に陥った後に、居眠りするまで臓器がゆっくりと停止する。死体はしばしばレンガの固さに凍りついた。
  ヒトラーのナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻から、次の一撃を待っている間に、スターリンのソ連軍は自らの手でフィンランドに一撃を加えることにした。冬戦争と呼称されたソ連・フィンランド戦争は、第二次世界大戦の勃発から3か月後の1939年11月30日にソビエトがフィンランドに侵攻したことから始まった。約3か月半後に1940年3月13日にモスクワ講和条約で終結した。スターリンのソ連は、1939年11月30日の早朝に、戦闘機と戦車隊をフィンランドに侵攻して、その翌日の12月1日には辺境の町に、フィンランドの傀儡政権を樹立した。意外なことに、ソ連の赤軍の作戦は、電撃的なものではなかった。気まぐれな独裁者であるスターリンは、二流の軍隊と装備で、フィンランドを侵略できると考えた。約2ヶ月以上の戦闘の期間に、すべての連合軍は、約400万人の小さな国であるフィンランドが、約1億8千万人の超大国のソ連に勇敢に立ち向った。連合軍は、1940年3月31日にフィンランド軍は悲劇的な犠牲を伴って、あたかも戦勝したかのような戦況に興奮して歓声を上げた。フィンランド軍の犠牲は、約24,923人が戦死、約43,557人が戦傷、約1,000人が捕虜となった。ソ連軍の犠牲は、約126,875人が戦死あるいは行方不明、約26,4908人が戦傷、約5,600人が捕虜となった。
 連合軍には、フィンランド軍を助ける現実的な戦略を持っていなかった。ソ連の赤軍がついに本格的な攻撃が勃発したときには、フィンランド軍は、冷酷な効率性で粉砕された。1940年2月に、ソ連軍は最大の砲撃に続けて猛攻撃を再開して、カレリアン地峡で、フィンランドの防御を突破した。フィンランド軍は弾薬が少なく、危機に瀕して、3月の和平条件に合意した。しかし、ヒトラーのナチス・ドイツ軍は、この約2ヶ月間にソ連軍の無能ぶりを、フィンランドの森の悲劇的な幕間に目の当たりにした。ソ連軍の実力を過小評価して、ナチス・ドイツ軍にとってソ連に侵攻する東部戦線は悲惨な結果を招いた。冬戦争から休戦期間の約15か月後の1941年6月22日に、ナチス・ドイツはバルバロッサ作戦を開始して、フィンランドとソ連の冬戦争が継続された。

 


 

2021年5月26日水曜日

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺して、銃弾が当たった瞬間に撮影された。

ナチス・ドイツ軍に協力したフランス人を、フランス解放した後に、1944年11月21日にレンヌで、フランス警察の銃殺隊が銃殺した。銃弾が当たった瞬間に撮影された。死刑にされる直前に処刑台に縛られた紐が飛び散った。
 法的粛清(épuration légale)は、第二次世界大戦にてフランスがナチス・ドイツ軍から解放とヴィシー政権の崩壊に引き続いて行われた一連の公式裁判である。裁判は主に1944年から1949年にかけて行われ、その後の法的措置は数十年にわたって続いた。フランスは1944年8月25日にパリで最後のドイツ軍が連合軍に降伏して解放された。
 ニュールンベルグ国際軍事裁判とは異なり、フランス国内だけで行われた法的粛清であった。約30万件の事件が調査されて、ナチス・ドイツ協力者であったヴィシー政府の最高幹部にまで及んだ。半分以上は起訴されずに終結した。1944年から1951年までに、フランスの公式裁判所は、反逆罪などで約6,763人に死刑判決を下した。そのうち欠席裁判の判決は3,910人であった。実際に死刑が執行されたのは、約791に達した。膨大だったのは、国家堕落罪で、約49,723人が市民権を喪失した。
 ナチス・ドイツからの解放直後のフランスでは、野生の粛清と呼称されて、ナチス・ドイツ協力者の容疑者の有罪判決、処刑、公開屈辱暴行、拘束が相次いだ。この時期は、フランス臨時政府が先立って樹立されて、ナチス・ドイツの占領統治した。フランス解放の前後を問わず、約10,500人が判決処刑されたと推定された。司法裁判所は、約6,763件の死刑判決を下した。そのうち3,910件は欠席裁判であり、約2,853件は被告人の立ち会い裁判で判決された。このうち約2,853人の約73%はシャルル・ドゴールによって減刑され、さらに約767人が減刑された。軍事法廷では約770人に死刑執行が命じられた。解放の前後に処刑された人の総数は約10,500人で、その中には特に軍事組織の幹部や指導者も含まれた。アメリカ軍は、解放後の略式処刑の数を約8万人と推定した。1945年3月のフランス内務大臣は、処刑された人数は約10万5千人と主張した。
 当初の粛清は、1944年8月25日のパリの解放前後から、フランス市民の怒りは、ナチス・ドイツの協力者に向いた。逮捕後の刑罰には、殴打、拷問による尋問、および即決処刑が含まれた。ほとんどの協力者の女性は頭を剃られ、一部の女性は額に卍が刻まれた。ナチス・ドイツ協力者には3種類の裁判があり、1つ目は反逆罪を非合法化し、敵と情報を共有するフランス刑法第75条に違反を、刑事裁判所で判決された。2番目は、特定の法律に違反しないも、行動が愛国心がないと見なされた容疑者はは、公民裁判所で判決された。3番目は世論により、特定の有名人に対する一般市民の憤慨により、反逆罪で裁判にかけられて処刑された。 

 

 


 

2021年5月25日火曜日

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍歩兵は小川を渡るときに、殺害したナチス・ドイツ軍兵士の浮かんだ死体を追い越した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍歩兵は小川を渡るときに、殺害したナチス・ドイツ軍兵士の死体を追い越した。死体は、ドイツ国内の小川に仰向けに浮かんだ。1945年4月10日に、アメリカ軍は、22師団で東部への攻撃を再開した。 ハルツ山地では、ドイツ軍から深刻な組織的抵抗に遭遇した。ドイツ軍は急いで約1万人の兵士を集めて軍隊を再編成して、最初はルール地域に突入した。 それが失敗して、次いでチューリンゲン地域に突入した。 これも失敗して、ドイツ軍は、最後の小さな軍隊がアメリカ軍に包囲されて壊滅した。

  第二次世界大戦の中央ヨーロッパでの西部戦線は、1945年3月22日にアメリカ軍部隊がライン川を越えて、レマゲン地区に到着してドイツ軍との戦闘が勃発した。3月22日から23日の夜までに、アメリカ軍部隊はオッペンハイムでライン川を渡河した。ライン川を渡河すると、アメリカ軍はボンからノイスまでのライン川西岸の地域を占領した。3月26日には、アメリカ軍はワームの南北でライン川を渡河して、川岸でドイツ軍から激しい抵抗を受けた。抵抗を突破して橋頭堡を拡大した。アメリカ軍はヴェーゼルの南を、イギリス軍はヴェーゼルの北を横断した。連合国の空挺軍のパラシュート部隊は、ライン川の東側に降下した。 連合軍が、ライン川の東側に向けて侵攻して、ドイツの広大な工業地帯であるルール地方を包囲して、ドイツ軍の防衛部隊を捕獲した。ドイツ国内に向けて侵攻は継続されて、散在した地域でドイツ軍の反抗を受けた。

 ソ連軍は東部戦線からドイツ国内に侵入した。ソ連軍の捕虜から逃れようとしたナチス・ドイツ軍は西側の連合国軍に何千人も降伏した。ドイツ北部のアメリカ軍、イギリス軍とカナダ軍部隊は、ソ連軍と遭遇すると思われるラインに到達すると、侵攻を停止した。アメリカ軍は、チェコスロバキアとオーストリアへの侵攻を継続して、ソ連軍との合流を果たした。ドイツ東部のエルベ川の沿岸のザクセン州トルガウの南約20Kmの小村シュトレーラで、1945年4月25日11時25分に1人のソ連軍兵士に出会った。その後にアメリカ軍偵察隊とソ連軍親衛隊が出会った「エルベの誓い(Elbe day)」と呼称した。
  1945年5月2日に、イタリアのドイツ軍は降伏した。その2日後、アメリカ軍部隊は、イタリアから来たアメリカ軍部隊とブレンナー・パスで合流した。1945年5月9日、すべてのドイツ軍が降伏が実効となり、ヨーロッパでの第二次世界戦争が終結した。エルベの誓いは、結果的にアメリカ・ソ連連合軍の最後の象徴となり、次第に国際協調関係が悪化して、冷戦の端緒になった。

 


 

2021年5月24日月曜日

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人を弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。

日本帝国の侵略に抵抗した三・一独立運動に参加した朝鮮人などを弾圧するために、朝鮮総督府は国事犯として公開の絞首刑に処した。1910年に日韓併合された朝鮮半島において、三・一革命の独立運動が1919年3月に勃発した。朝鮮半島の各地に独立運動が発生した。独立万歳事件は約618ヶ所にて、総回数は約847回も発生した。日本帝国の軍隊、憲兵や巡査らが検挙した朝鮮人は、約587,641人にも達した。その中で、有罪判決されたのは約7,816人であった。独立万歳事件にて、殺害された犠牲者は約553人であり、負傷者は約1,499人にも達した。朝鮮人にとって、三・一独立運動は民族解放のための独立運動であり、植民地化された朝鮮人の自由を回復することでもあった。日本帝国の弾圧に対して、朝鮮人は原始的武器から投石棟による対抗暴力が増悪した。日本人巡査や朝鮮人巡査補に対して虐待や虐殺をした。朝鮮人は日本の植民地支配と日韓併合を象徴する機関を襲撃や放火した。 

 約33人の宗教指導者らが集って、現在はソウルの京城の中心部にて、現在はタプコル公園であるパゴダ公園にて、1月22日に死亡した大韓帝国の初代皇帝の李太王の葬儀に合わせて、3月3日に独立宣言を読み上げることを計画した。天道教が15人、キリスト教が16人、仏教が2人で構成した民族を代表して33人の宗教指導者は、3月1日午後に変更して、仁寺洞の泰和館にて独立宣言を朗読して、万歳三唱をした。「吾らはここに、我が朝鮮が独立国であり朝鮮人が自由民である事を宣言する。これを以て世界万邦に告げ人類平等の大義を克明にし、これを以て子孫万代に告げ民族自存の正当な権利を永久に所有せしむるとする。」と独立宣言をした。その発端となった民族代表33人は朝鮮総督府に逮捕された。3月3日にて李太王の葬儀により、事前に独立宣言をする予定であったパゴダ公園には、数千人もの朝鮮人学生が集合して、太極旗を掲げてソウル市内を独立万歳の示威運動をした。3月10日には南朝鮮地域から、その後に朝鮮全土に拡大して、4月11日に上海に大韓民国臨時政府が樹立された。独立万歳と叫ぶ学生運動に、朝鮮人市民も参加して、数万人規模に達した。4月上旬には、農民から労働者など様々な階層が合流して朝鮮半島全土に暴動が拡散して、警察署・役場・小学校などが襲撃されて、虐待と虐殺も拡大した。三・一宣言以後に、約3カ月間にわたり示威運動が展開された。

 日本帝国は、独立宣言の直後は首謀者を逮捕して群衆を解散させた。軍隊の使用は朝鮮将来の統治に悪影響を及ばないなるべく区域を限定していた。3月10日以降から、軍隊の使用を積極的に区域外にも及ぼした。4月4日には、日本帝国政府は歩兵6大隊、憲兵約65人と補助約350人を朝鮮に派遣した。次第に日本帝国政府は、軍隊ならびに憲兵や巡査を増強して、三・一独立運動を厳しく弾圧した。5月末までに約200万人を超える参加者の内、朝鮮人の犠牲者は約7,509人が殺害されて、約15,961人が負傷して約46,948人が囚人となった。 

 

2021年5月23日日曜日

日中戦争にて日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにして放置した。

日中戦争が勃発すると、日本軍は偉大な強者として中国の各地で狂気で鼓舞して、戦争犯罪の汚点となった大虐殺など様々な蛮行を繰り返した。日本軍は、中国人は非征服民であるので、特別の考慮などを願う権利を無視した。日本軍は、中国人農民を農具で腹部を割いて虐殺した死体に、農具を刺したままで農地に串刺しにした。難民は泥酔した日本軍兵士に、しばしば銃剣で刺殺された。各地では、強姦、虐殺、略奪などの狂乱となった。避難民のために南京政府が設定していた国際難民区に、約20万人以上の難民で密閉された。日本軍は、強制収容所として、数千人の中国人を引きずり出して大量虐殺した。銃剣の練習台とされ、生贄として石油を浴びせて焼死させた。

 日中戦争は1937年7月7日の盧溝橋事件から勃発して、日本軍は武力で直ちに中国軍を圧倒した。中国軍は、多数の予備軍まで投入して犠牲が拡大した。日本軍を、海岸戦から内陸部へ引きずり込む前に大損害を受けた。中国軍は予備軍も枯渇して、反撃すらできない戦況に陥った。中国軍には、日本軍は固定陣地においても撃退できずに、南京などの大量虐待と大量虐殺の惨劇が勃発した。日本軍は、中国軍の前線を突破して、侵攻が南京にまで達した。南京の中国軍は、上海からの退却する中国軍を収容する暇もなかった。退路は塞がり、司令部も混乱した。日本軍にとって、軍師的や経済的な価値を与える建物や工場も破壊も中国軍はできなかった。

 日本軍は、南京に1937年12月12日に入城した。南京からは約50万人以上もの住民や兵士が自ら逃避して、長い退却をした。勝ち誇った日本軍は、南京にて縦横無尽に略奪ならびに虐待と虐殺をした。唯一残存した南京城の城門を抜けて、揚子江の北岸に逃避した数百人の中国軍や文官が、日本軍の機関銃に掃討されて水没した。数百人の中国人が、下関門に伸びている陸路で掃討されて、死体が累々と積重なった。約12,000の商店と家屋が略奪して、略奪品を上海に搬送した。日本軍は、南京大量虐殺することで、南京の占領を中国人に歓迎させる秩序回復を強要した。南京にあるアメリカ・イギリス・ドイツの大使館や外国人の建物も略奪した。南京の国際救済委員会は100日間の調査にて、日本軍は南京だけでも少なくとも約42,000人を虐殺して、その中に約22,490人もの多くの婦人と子供が膨れた。上海から南京までの侵略中には約30万人の中国人が虐殺されたと推定した。南京の損害額は、約2億4600万中国ドルに掃討して、約1%が軍事損害、残りは主として略奪と放火であった。


2021年5月22日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂して、22歳の女性工員が被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、大村海軍病院に護送されて原爆病死した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、22歳の女性工員が被爆した。被爆して約11日後に重度の原爆症に陥って、長崎県の大村市の大村海軍病院に護送されて、8月20日に入院した。第十二病舎に収容されて、顔面熱傷、左右上肢熱傷、左右膝関節熱傷、左右足背部熱傷と診断された。顔面から両上肢、両膝、両側足背に第二度の熱傷を罹患した。その熱傷の全面が、黒い色の痂皮により覆われた。その傷口のほとんどから膿汁が流出した。その膿汁の悪臭が漂っていた。

 入所して、直ちにまず破傷風の血清500CCの皮下注射をした。その後に毎日25%のブドウ糖200mlにビタミンBとビタミンCを加えて、静脈注射をした。全身状態が衰弱して、9月8日には白血球数が約4,700個/mmliにまで減少した。その後の経過の医療記録は特記されていなない。近日に原爆病で死亡したと推定された。

 原子爆弾の炸裂により放出された放射能のガンマー線が照射されて、身体の細胞を破壊された。熱傷を受傷すると必ずガンマー線の照射を受けれていた。原爆病をや誘発して血液が消化ギイされて出血素質と免疫不全となり、血便などを出して早期に死亡した。若い婦人でも、老年顔貌となり、頭髪は剥げた。可及的に一部の被爆者の惨状と写真が記録された。

長崎県大村市は、日中戦争が勃発して、大規模な海軍航空隊が新設された。戦闘機の大量製造と特攻隊などの基地になった。太平洋戦争が勃発して、海軍病院が新設された。病舎を十七棟を有する、約1,700人を収容する大病院となった。1945年8月9日に午後三時頃に、警察から長崎市内に多数の死傷者が発生した通知を受けた。直ちに救護隊を派遣した。午後五時頃に、大村市から、長崎市の死傷者は無数であり、鉄道沿線の大村海軍病院に約1,000人を収容する依頼が津市された。重度の被爆者は、長崎市の浦上から別仕立の汽車で大村駅に護送された。午後八時頃に大村駅に到着してから消防自動車などで病院まで搬送した。一度に約758人もの被爆者を収容した。さらに長崎県内の救護所の重度の被爆者が次々に大村海軍病院に護送された。


2021年5月21日金曜日

中華人民共和国で、銃殺刑が執行すめために、容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。

1989年11月に中華人民共和国で、銃殺刑が執行された。容疑者の囚人を膝まずかせて、囚人の背中側から、死刑を執行する中国人の警察がライフルを突きつけた。まさに銃殺刑が執行する直前である。その後に囚人は銃殺されて死亡した。2019年は中国を除いて、全世界の死刑執行数の約86%は、イラン(251人)、サウジアラビア(184人)、イラク(100人以上)、エジプト(32人以上)、アメリカは(約22人)で執行された。ベトナムと北朝鮮などの死刑執行総数は全く不明である。

 中華人民共和国では、約10万人以上の人々が、政府にとり不都合な事由にて、裁判もされること無く拘禁や処刑された。特に、少数民族に対しては厳しく弾圧して、反政府的運動をする中国北部のカトリック教徒やチベットの僧侶も拘禁されて処刑された。1989年の民主化運動によって、中国人の学生や市民らも逮捕されて拘禁された。囚人の多くは、起訴や裁判も無く拘禁された。不合理な不公平な裁判を強要されて刑罰で拘禁された。1990年代半ばに広まった反政府活動を、相次ぐ死刑執行で牽制した。

 中華人民共和国では、政治的な弾圧により、数千人が殺害された。アムネスティ・インターナショナルの調査では、1991年だけで約1,510人以上が死刑を執行された。約1,650人が死刑を宣告された。中華人共和国の死刑執行数は、全世界の死刑執行数の合計よりも多い。正確な人数は厳重な極秘の国家機密である。1990年代に中国の国営新聞で報道された約18,194件の死刑執行数であり、1999年だけでも約1,263件だった。死刑は、中国の文学や伝統に目には目が溢れている。中国共産党の利益を忖度する司法は、大きな影響を政府から受けている。

 2006年6月、中国の上海で死刑が執行された囚人の邱宣明の死体は、処刑場から火葬場に到着した。近距離で背中を撃たれた頭は、白色のガーゼで包んでいた。衣服は約1時間前に公聴会での最後の法廷で着ていたものと同一であった。シャツには大量の血が付着して、腹は切り裂かれ、腸がこぼれ落ちていた。後頭部への銃撃により死後から数分で、臓器が摘出された。(The New York Times, March 11, 2001) 中国政府は1984年に「死刑囚の死体または臓器の使用に関する暫定規定」という通知を発表し、死刑囚は銃殺で処刑することを定めた。「次の分類の死刑囚の死体または臓器は、家族が死体の回収を拒否した場合、死刑執行前に囚人が死体を志願した場合、または家族が同意した場合に利用できる」とした。中国は、2020年にコロナウイルス関連の死刑執行を行った最初の国となった。











2021年5月20日木曜日

エルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。

中央アメリカ中部のエルサルバトル内戦により、民族解放戦線のゲリラ部隊の若者が、エルサルバトル軍事政権の死の部隊によって殺害された。特に農村地域での暗殺部隊と民間人への無差別攻撃を含む、すべての反政府勢力に対する軍事政府の大量虐待と大量虐殺がされた。無差別暴力がゲリラの反乱を煽り、本格的な内戦に入った。第三世界の経済が困窮すると、大多数の市民の間で貧富の格差が拡大する。エルサルバドルでは、耕作可能な土地の77%は人口の0.01%に属した。一握りの特権階級が実権を支配する。経済の困窮により、社会的不安が深刻化して、社会体制の再編成や武力鎮圧にまで深刻化する。一部の特権階級が、既得権を保持するために、社会的動揺を弾圧するために武力で市民を弾圧した。特権階級が支配する政府は先進国から多額の武器を輸入する。先進国との産物の取引により、ますます輸入が超過すると、通貨レートが悪化して、先進国から貸借を重ねる。社会的不安が極度に市民らの動揺して内乱に陥る。その内乱を弾圧するために、軍事的武器を輸入超過に至る軍事クーデターにより軍事政権が樹立する。

 エルサルバドル内戦は、1979年10月15日から1992年1月16日まで、軍事政権であるエルサルバドル政府とファラブンド・マルティ民族解放戦線(FMLN)との間で勃発したエルサルバドル内戦である。1979年10月15日に起きた軍事クーデターは、軍事政権による反クーデター派の反抗者の殺害、ゲリラによる軍事体制派の殺害を経て、内戦が始まった。1979から1981年に政府軍が支援する右翼の死の部隊によって約3万人が殺害された。1980年3月24日に人権保護家オスカルロメロ大司教の暗殺した。1981年3月15日、エルサルバドル軍は、ホンジュラス国境近くのエルサルバドル北部のカバニャス県で無差別の掃討作戦を執行した。1981年12月11日には、モラサン県エルモゾデで、女性や子供の約146人を含む約733以上の非武装の民間市民を、無差別にエルモゾテ虐殺を実行した。

 悲惨な内戦は約12年間以上継続した。アメリカで訓練された軍事政府の死の部隊(Death Squad)による意図的なテロにより民間人を標的として、カトリック教会の聖職者の暗殺、組合指導者・活動家・学生・教師の殺害、児童兵の徴用など、主に軍事政権による人権弾圧による虐待と虐殺が行われた。FMLNゲリラは1970年代に革命を増長するために誘拐、爆撃、銀行強盗を行った。1980年代には、FMLNは数人の市長、情報提供者、裏切り者を殺害した。多数の市民が行方不明になった一方で、国連はエルサルバトル内戦によって1979年から1992年の間に約75,000人以上が死亡したと報告した。内戦の結果、約100万人近くが、エルサルバドルの国内で強制的な避難、中米、メキシコ、アメリカなどに難民となった。内戦は、1992年1月16日にチャプルテペック和平合意によって終結した。

 アメリカ政府は、エルサルバドル軍事政府に1日あたり約100~約200万ドルの軍事援助を行って、必要な軍事訓練を提供して、内戦では軍事政権に加担した。サルバドル軍事政府は、冷戦下でアメリカから友好的同盟国と見なされた。1983年5月までに、アメリカ軍将校がエルサルバドル軍の幹部の地位を占めて、重要な決定を下し、内戦を操作していた。対内戦戦術はしばしば無差別に民間市民を対象とした。国連は内戦中の市民への暴力行為のうちFMLNゲリラの要因は約5%であり、エルサルバドル軍と暗殺部隊の要因は約85%と推定した。1990年から、国連はエルサルバトル内戦の和平交渉を開始して、国際連合エルサルバドル監視団を派遣した。最終合意であるチャプルテペック和平協定がメキシコシティで署名されて、内戦が公式には終結した。



2021年5月19日水曜日

湾岸戦争にてクウェートが開放された直後に、焼け焦げて小物が散乱したイラク軍兵士の死体の前で、クウェート軍兵士が機関銃を掲げて気取った態度を取った。

1991年2月24日に、アメリカ連合軍の大規模なクウェート侵攻で、クウェートは解放された。解放された翌日に、イラク軍兵士の死体がクウェート中に散乱した。クウェート軍兵士が、焼け焦げたイラク軍兵士の死体の前で、機関銃を掲げて気取った態度を取った。イラク軍は、撤退前までに約600基の油井が炎上して、その巨大な炎が地平線を焦がしていた。クウェートの首都が煙に巻かれた。自然の遺産までもが破壊された。炎は数十メートルの高さまで燃え上がった。風向きが変わると、濃い煙が空を覆って、白昼の夜となった。

  湾岸戦争では、アメリカ軍兵士は約148人が戦死して、約457人が戦傷した。その他の同盟国の戦死は、砂漠の嵐作戦で約100人程度であった。イラク軍側の犠牲者数は公式には発表さないが、少なくとも約25,000人のイラク軍兵士が殺害されて、約75,000人以上が戦傷したと推定された。湾岸戦争に直接起因する戦死傷や十分な水・食料・医療品の不足により、約10万人のイラク市民が死亡した。その後の国連安保理の制裁により、約100万人以上のイラク人が死亡した。

 湾岸戦争は1990年8月2日にイラク軍が隣国の石油資源国のクウェートに侵攻して勃発した。クウェート軍は突如に圧倒されてサウジアラビアに退却した。数時間のうちにクウェート市は占領されて、イラク人は暫定州政府を樹立した。クウェートを併合して、イラクは世界の石油埋蔵量の約20%を支配した。同日8月2日に、国連安全保障理事会は全会一致で、侵略を非難し、イラクのクウェートからの即時撤退を要求した。8月6日に全世界にイラクとの貿易を禁止した。

 8月9日に、ペルシャ湾に到達したアメリカ軍は、サウジアラビアを砂漠の盾作戦で防衛した。一方で、イラク軍はクウェートの占領軍を約30万人に増強した。11月29日に国連安全保障理事会は、1991年1月15日までに撤退しない場合、イラク軍に対する武力行使を認める決議を採択した。イラク軍はクウェートからの撤退を拒み、アメリカ軍を中心とした約70万人の32カ国の連合軍が、中東に集結して武力行使した。1991年1月16日に、連合軍の空母から最初の戦闘機が発進し、大規模な砂漠の嵐作戦のイラク攻撃が開始された。爆撃機は、イラクの首都バグダッドとその周辺を標的として攻撃した。衛星放送で戦闘がテレビに生中継された。連合軍はその後約6週間にわたり、イラク国内の軍事・民間施設に対して集中的に空爆した。イラクの地上軍は無力で、イスラエルとサウジアラビアにスカッド(SCUD)ミサイルを発射して報復した。

 2月24日に、連合軍の大規模な地上攻撃が勃発して、イラクの旧式で補給不足の軍隊は急速に圧倒された。同日にイラク軍は崩壊して、約1万人のイラク軍兵士が捕虜となり、クェートは解放された。イラク軍の大部分は降伏するか、イラクに退却して壊滅した。2月28日に、アメリカ軍は停戦を宣言した。4月3日に、国連安全保障理事会は紛争を正式に終結させる決議687を採択した。停戦は正式となり、制裁の一部は解除され、イラクが国連の監視下で大量破壊兵器を廃棄するまで、イラクの石油販売禁止は継続された。4月6日に、イラクは国連決議を受け入れ、4月11日に安保理は687決議の発効を宣言した。その後の約10年間、イラク軍は和平合意をたびたび破り、同盟国は空爆と国連の制裁が続けた。



2021年5月18日火曜日

1920年代中頃に、上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力を銃殺による死刑を執行した。

1920年代中頃に上海工部局警察のイギリス人警察は、上海公共租界における中国人の武装勢力に対して銃殺による死刑を執行した。上海人の問題行動、武器密輸、過激主義などの過激な中国人勢力を鎮圧して、人種的偏見によりアジア人種を徹底的に弾圧した。鉄製の檻に入れた中国人の囚人に首枷をつけて竹の棒で打たせるなどの虐待と虐殺した。

 上海工部局警察(SMP)は、イギリスの植民地警察として上海公共租界で騒ぎを起こす過激活動家を取り締まった。上海市議会である工部局が警察を管理していたが、1854年から香港警察や軍隊から雇い入れた英僑だけの少人数と外国人を混成して大規模な海外の他人種に組織化された。日本人部局は、上海公共租界内の北部の虹口地区で拡大していた。外国人部局は、無気力で怠惰になるアジア人組織を徹底的に管理して、ヨーロッパ人を頂点とする人種的な序列に従って組織化された。上海公共租界の外国人住民が、上海工部局警察の組織と活動を管理していた。上海工部警察に雇われた中国人とインドのシーク教徒を奴隷化した。上海公共租界の外国籍の住民は他国の領事の管轄下となった。上海の巡回区では、中国人と外国人、シーク教徒や日本人の門前でのやり取り振る舞いは、騒動の挑発行為となった。

 上海では1913年以降に犯罪率が急上昇して、上海工部局警察は危機的水準に達した。特に、国民党軍が1913年7月12日から袁世凱を打倒する辛亥革命を蜂起するも、8月13日に鎮圧された残党が上海に潜伏した。1914年から上海では、武装した国民党の残党兵士らが、商店や民家を襲撃した事件が約98件も発生して、1916年には約196件にも増悪した。

 イギリスは、第一次アヘン戦争(1839年~1842年)で清国に勝利して1842年の南京条約により、中国の清国における香港島を割譲して、外国人が支配できる条約港である広州、福州、廈門、寧波、上海の5港の開港を保持できた。その中で、上海公共租界が、清国の橋頭堡で最大規模であった。上海工部局警察が治外法権で法律と秩序を支配した。1863年に、イギリスとアメリカの租界が正式に合流し、上海公共租界が成立した。日本は第一次世界大戦中の1915年から、日本は上海に最も多くの日本人の外国人居住者を抱えた。1930年代の上海事変により、日本人が急速に上海で治外法権の外国人の約80%を占めた。太平洋戦争が勃発した1941年12月8日と同時に日本軍が上海市に突入して占領して、上海公共租界は消滅した。太平洋戦争後に中華人民共和国が設立された1949年以降は、市政府である工部局は中国共産党の上海市長の支配下となった。(香港: 1997年7月1日にイギリスから中華人民共和国への返還、2020年7月1日に香港国家安全維持法を施行。)


イギリス上海工部局警察による中国人武装勢力に対する死刑の執行前


中国人武装勢力の死体は刑場に放置された。


2021年5月17日月曜日

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にパレスチナ自治政府のラマラで、壁の前のパレスチナ市民を選別して死刑を執行して、死体を運び出した。

イスラエル軍兵士による即決裁判により、2002年3月31日にラマラで、パレスチナ市民を選別して死刑を執行した。処刑されたパレスチナ人の死体が、壁に向かって座っているパレスチナ人の列から運び出された。残ったパレスチナ人は、壁を前に死刑を選別する尋問を受けた。パレスチナ人を集団処刑するために、イスラエル軍兵士が銃口を向けて後手をロープで繋がれた。即決裁判で壁の前で銃撃された。処刑を免れて生存したパレスチナ人は、強制収容所に連行されて拘禁されて尋問を受けて虐待や虐殺を受けた。

 パレスチナ暫定自治政府は、2002年3月31日にラマラで約30人のパレスチナ人が、イスラエル軍によって殺害されたと公表した。ラマラで、16歳から45歳の男性を掃討して検挙したパレスチナ人を、即決裁判により死刑者と拘束者に分離して処刑した。イスラエル軍は、3月31日にはラマラを閉鎖軍事地域と宣告して、パレスチナ人以外の外国人を排除して、極秘の言論統制を引いた。外国の報道機関を、支局から追い出して事務所を占領して情報統制を敷いた。

 ラマラでは、3月29日からイスラエル軍は外国の報道機関に向けても銃撃した。車に乗車して生後9ヶ月の男児を抱えていた21歳のパレスチナ人女性を射殺した。ラマラは、パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区中部に位置する都市である。エルサレムの北10kmに位置して、パレスチナ暫定自治の首都である。1967年の第三次中東戦争で、イスラエル軍がヨルダン川西岸とガザを占領した。占領されたラマラは、1987年12月の第一次インティファーダと2000年9月の第二次インティファーダの闘争場となった。2002年にイスラエル軍がパレスチナ自治区に軍事侵攻して、分離壁を設置した。

 1967年から鎮圧されていたパレスチナのガザ地区で1987年12月にパレスチナ人の2台の車に、イスラエル軍の2台のトラックが追突して、4人が死亡して7人が重傷となった。パレスチナ人の若者が、イスラエル軍兵士に対して投石を始めた。一気にパレスチナ市民にまで抵抗運動が拡大した。インティファーダは、アラビア語で占領を振り落とすことを示唆した。イスラエル軍は若者などのパレスチナ人を1993年までに約1,000も殺害した。2000年9月に、エルサレム旧市街のイスラム教の聖地を、イスラエル軍が占領した。第二次インティファーダが勃発して、パレスチナ人の若者が投石して、武装集団が小武器やロケット砲で攻撃をして、イスラエル軍が銃撃や砲撃をした。




2021年5月16日日曜日

エルサレムでのバス爆破事件は、2002年6月18日にハマスが実行したエグドバスに対する自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。

エルサレム南部のパット交差点でのバス爆破事件(Patt Junction Bus bombing)は、2002年6月18日にエルサレムでハマスが実行したエグドバスにおける自爆テロで、19人が死亡、74人以上が負傷した。その死者のうち17人はギロ地区の住民で、通学途中の高校生も乗車していた。
 2002年6月18日午前7時50分に、ベツレヘム出身のパレスチナ人自爆テロリストが、エグドライン32Aバスにギロ地区から乗り込んだ。その直後にエルサレムのアラブ地区であるベイト・サファファに停車した時に、バスの正面から爆発した。彼の爆弾ベルトには、死傷者を最大化するために榴散弾用の金属球が含まれていた。
 パレスチナのイスラム教組織ハマスが犯行声明を出した。自爆テロの犯人は、ナブルスのアンナジャ国立大学のイスラム法専攻に通う22歳の学生、ムハンマド・アルゴウル・ハッザーと判明した。彼は、釘を詰めた爆薬を体に装着し、ギロからエルサレム中心街に向かう小学生や通勤者が行き交う朝のラッシュアワーにバスに乗り込んだ。爆発によってバスは地面から浮き上がり、屋根が剥がれ落ち、窓から死体が飛び散った。東エルサレム郊外のジャベル・ムカバーの住民2人が、自爆テロ犯を移送した罪で裁かれて、有罪判決を受けた。6月30日に、ナブルスでのコマンドを襲撃した際に、イスラエル軍兵士はハマスの上級爆弾製造者であるムハニド・タヘルを殺害した。イスラエルによれば、彼はこの攻撃やその他の攻撃の背後にいた人物とした。
 このバスの黒焦げの残骸は、イスラエルの救援・遺体回収団体ザカ(Zaka)の主導でアメリカに輸送され、ニューヨークで隔年開催されるユダヤ人エキスポ・フェアで展示された。ザカは、ボランティアが爆弾の現場から血や肉の断片をかき集め、ユダヤ教の法律に則って埋葬する活動を行っている。ザカは、自分たちの活動に対する認識を高め、自爆テロの影響を示すことを目的とした。
 自爆テロのムハンマド・アルゴウルは「わたしの爆弾の破片が敵を殺し、自らも死ぬことはどんなに素晴らしことでしょう。殺人がしたいからではなく、パレスチナ人が他の民族と同じように生きることを望んでいるからです。次の世代のために死ぬのです。神が望むならば、不正義は消え、勝利はわれわれのものになる。」と3日前に遺書に記載した。イスラム教では、神のために自らを犠牲いる殉教者として戦うことがジハード(聖戦)と称賛している。パレスチナ人は、命を捧げる宗教的な新年から、不正義で追い詰めるイスラエル人を殺害することが正義となる聖戦とした。現場視察したイスラエルのシャロン首相は、パレスチナのテロにあらゆる手段で戦う」と宣告して202年6月18日深夜からパレスチナの西海岸に大規模なパレスチナ侵攻を決行した。

 



 

2021年5月15日土曜日

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日早朝に、カトリック中町教会の周囲は崩壊して焼失した。僅かに条件良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。

長崎原子爆弾が炸裂した1945年8月9日の翌日の8月10日早朝に、カトリック中町教会の周囲は、被爆後に崩壊して焼失した。長崎原子爆弾の爆心地から南南東に約2.5mの地点であった。その地域は2度目にわたる火事で全焼して一面は焼土と化した。原子爆弾の熱射線により、可燃物に火がついて再燃して、大火に発展した。カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。
 長崎市街の状況は他の空襲とは異なり、一瞬にして全市が爆風と、火災で焼土と化していた。火災の消火作業も、救援の為の医療班の活動も混沌とした。時間の経過を待つうちに、僅かに、立地条件の良く助かった長崎市民が集散して、身内と民家を探察していた。長崎原子爆弾は1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂して、約120,820人が死傷して、約18,409戸が火災を受けた。
 1945年8月9日午前11時2分、長崎原子爆弾の炸裂により聖堂の窓という窓は壊れ、内部は 爆風によって崩壊した。数時間後の火災のため聖堂の屋根は焼け落ち、残ったのは十字架の立つ尖塔と聖堂の外壁だけであった。爆心地から南南東へ約2.6kmの距離あった中町教会は、フランス人女性の寄付をもとに、1981年8月から建築に着手して、1897年9月8日に、26聖人の殉教の300年祭を兼ねて献堂式を行った。聖堂はレンガ壁にセメント塗りの広壮なロマネスク様式の建物で、正門に尖塔の4面外部壁間に各1個ずつの大時計が設置された。
 カトリック中町教会は1945年8月9日の長崎への原子爆弾の投下により、外壁と尖塔を残して焼失した。1951年10月、その外壁と尖塔をそのまま生かして再建されました。そのため、貴重な被爆遺構として長崎市の指定を受けており、教会の門の側に銘版が設置されています。長崎市は長崎市中町周辺で殺害された方々のご冥福をお祈りし、二度とこのような惨禍が繰り返されないことを願って、銘板を設置した。
 陸軍司令部の報道部員であった山端庸介(1917-1966)は、8月1日に東京から8月6日に福岡市に赴任した。8月6日に新型爆弾の原子爆弾が投下されて炸裂した広島市を前日の夜に通過した。8月9日お昼頃に長崎市内の報道写真を命令された。8月10日午前3時に長崎市の北方の道ノ尾駅に到着した。長崎市に約12時間ほど滞在して約115枚の写真を記録した。8月12日に現像処理して、同僚の火野葦平から軍部が隠滅すると助言を受けて、そのまま東京に持ち帰った。敗戦後に9月9日にGHQは報道に厳しい検閲をかけた。約7年間も封印して保管して、1952年4月28日に対日講和条約が発効して、1952年8月6日にアサヒグラフ8月6日号に原子爆弾写真が公開された。

2021年5月14日金曜日

江戸時代から、日本の切腹には儀式を伴って、見物人の前で武士は白装束に身を包み、日本刀で切腹が終わっても即死しないと、介錯者に首を切断してもらった。

第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。江戸時代から、日本の切腹には詳細な儀式を伴った。戦場での切腹だけでなく、見物人の前で切腹が行われた。武士は風呂に入り、白装束に身を包み、最後の食事やお酒の盃をして、日本刀と布は別の三方に置かれ、武士に渡される。日本刀を前に置き、武士は死の直前に辞世の句を書いて、切腹に望んだ(切腹の様子を色付け写真で再現した)。
 日本では、切腹(Seppuku)は武士の名誉を守るための最後の自殺の儀式と考えられていた。武士は、主君を守れなかったとき、主君を汚させてしまったとき、家の中で重大な不祥事を起こしてしまったときなどに、切腹で命を絶つことを選択する。日本人は、自分の人生に汚点を持つ侍は、侍の名に値しないと考え、その人生を終わらせるには切腹するのが一番だと考えていた。切腹は武士の罪滅ぼし、悔い改め、羞恥心を解消し、他人を冒涜し、忠誠心を証明する手段となった。切腹は重罪であったが、切腹を許して名誉を保持させた。
 平安時代から江戸時代にかけて、日本人の武士が他人の剣で捕らえられたり、死んだりするのは恥ずかしいことだと考えていた。平安時代の988年に貴族の藤原保輔が盗賊として逮捕されて、切腹で獄中で切腹で自殺したのが最初の記録である。腹切り(Harakiri)とも呼ばれる切腹は一般的な自死行為であった。切腹は、武士の忠誠心、親孝行、勇気など、最高の美徳を示す手段として、日本社会で広く認識されていた。明治時代以降の軍国主義の時代では、切腹は日本の大和魂の核心と美化された。切腹は、1873年(明治6年)に切腹は司法処分から廃止された。1882年に出された「軍人勅諭」の第一条には、兵士は必要に応じて自殺しなければならないと規定されていた。
 腹切りには、一本・二本・三本・十字の4種類の切方と、立ち腹・座り腹の2種類の肢位がある。最も一般的な切腹は、腹を切ることから始まり、切腹して出血しても即死しないと、自死しない切腹者は、首を伸ばして介錯者に首を切断してもらった。通常、首を切ることで最終的な死を実現する介錯者が協力して行った。切腹の核心は、早死にすることではなく、痛みを耐えることである。切腹までの複雑な手順を踏むことで、より儀式的な意味合いが強くなる。切腹の前に、武士は通常、白い着物に着替えて、好きな酒と料理を目の前に置いてから、切腹の儀式のすべてを自ら実行する。日本では、武士の自殺以外にも、女性も切腹を求められたことがある。多くは、夫が死んだときや、自分が重大な悪事を働いたときに起こる。彼女たちが切腹に使った包丁の多くは、結婚の際に自分の父親や新郎の父親から贈られた。
 日本人は愛国的な忠誠心を示す行為として切腹を選択した。明治天皇の埋葬の日である1912年9月13日に、日本陸軍大将であった乃木希典とその妻である乃木静子は、天皇への忠誠心を示すために、ともに自宅で切腹することを選択した。日本人はこの行為を偉業と呼んで狂喜して、明治時代には乃木希典を軍神として、また武士道の象徴として崇めた。第二次世界大戦中から昭和天皇による終戦の詔書まで、一部の日本軍兵士が切腹の自殺を選択した。日本政府が武士道としての切腹を正式に禁止したのは、1968年のことである。1970年には三島由紀夫らが市ヶ谷の自衛隊駐屯地で切腹した。日本の地下組織の裏社会では切腹が未だに潜伏している。

 


 

2021年5月13日木曜日

ペリリュー島の戦いにて、日本軍からの砲撃により、アメリカ軍兵士が飛行場の北側で殺害されたアメリカ軍兵士の死体は、右下肢が付け根から吹き飛ばされた。

ペリリュー島の戦いにて、日本軍からの砲撃により、アメリカ軍兵士がペリリュー島の飛行場の北側で殺害された。殺害されたアメリカ軍兵士の死体は、右下肢が付け根から吹き飛ばされた。

 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年9月15日に、西太平洋のパラオ諸島のペリリュー島に上陸した。日本軍の猛烈な抵抗により甚大な犠牲を伴って、最終的に11月27日にアメリカ軍は島を占領できた。ペリリュー島への攻撃は、水陸両用の上陸時に、アメリカ軍史上最も多くの死者を出した。
 ペリリュー島には岩石でできた洞窟の連携があり、日本軍はトンネルでつなぎ、要塞として機能させた。日本軍は、アメリカ軍が侵入してきたときに、洞窟の真上から、真下にいるアメリカ軍に最大限の損害を与えた。
 ペリリュー島には、長さ6マイル、幅2マイルの火山島で、1万人以上の日本軍が駐留した。この島には飛行場があり、この脅威を無力化する水陸両用攻撃で侵攻した。1944年9月15日の朝に、アメリカ軍はペリリュー島の南西端に上陸した。上陸に先立ち、空母艦載機による空襲と爆撃が行われた。波状的に上陸し、島の海岸に集まり、内陸部に押し寄せた。
 しかし、日本軍は何日もかけてアメリカ軍の侵入を阻止し、大量の死傷者を出した。ペリリュー島には多くの洞窟があり、トンネル網が結び、日本軍は連合軍の砲撃からほとんど無傷であった。日本軍は、4日間もペリリュー島の南西部にある滑走路を防御した。
 アメリカ軍が北上して侵攻を開始すると、途中で鼻血の尾根(Bloody Nose Ridge)と呼ばれたウムブルゴル・マウンテンの岩肌に掘られた洞窟から、日本軍の重砲と小銃の一斉射撃の標的となった。その後の8日間で、アメリカ軍は太平洋戦争の中でも最も悲惨で犠牲の多い戦闘を行い、約50%の死傷者を出した。
 一方、アメリカ軍は、派遣された援軍が、9月24日に西側から鼻血の尾根を再攻撃した。連合軍は山上の日本軍の陣地を包囲できた。日本軍は持ちこたえて、10月中に多くの流血を経てようやく退却した。さらにアメリカ軍の援軍が到着し、11月25日に尾根はついに占領して、日本軍は降伏を拒否し、ほぼ全員が死亡した。
 ペリリューの戦いでは、アメリカ軍史上で水陸両用作戦で最も高い死傷率を出した。参戦した約28,000人のアメリカ軍兵士は、実に約40%が死傷し、戦死者1,800人、負傷者8,000人で合計約9,800人が犠牲になった。一方で、アメリカ軍は、ペリリュー島の攻略から、フィリピンの奪還と日本本島への侵攻という目的を達成した。

 


 

2021年5月12日水曜日

イスラエルとパレスチナは2021年5月12日に激しい攻撃を応酬して、パレスチナのガザ地区では約30人が殺害され、イスラエルのテルアビブで1人が殺害された。

イスラエルとパレスチナは2021年5月12日に激しい攻撃を応酬した。パレスチナのガザ地区では約30人が殺害された。イスラエルのテルアビブに対して、パレスチナから多数のロケット弾が発射された。現地メディアは1人が殺害された。イスラエル側はさらなる報復を加える体制である。中東のエルサレムでは、イスラム教の断食月ラマダンである4月中旬から、イスラエルの治安部隊と聖地を訪れるパレスチナ人との衝突が継続した。その衝突が、ガザ地区を実質的に支配するイスラム原理主義組織のハマスとイスラエルの間による攻撃が応酬された。ハマスは5月11日夜に、イスラエルのテルアビブの周辺に、約130発のロケット弾を発射した。多数のロケット弾はイスラエル軍が迎撃するも、その一部がテレアビブに被爆した。イスラエル人の女性1人が殺害され、複数人が負傷した。イスラエルのネタニヤフ首相は、全力で攻撃を続けて、ガザ地区のハマスなどに悲惨に報復すると宣告した。
 5月10日から偉大に攻撃の応酬は激化した。5月11日には、ハマスはイスラエル南部に約500発ものロケット弾を発射して、イスラエル市民2人が殺害された。イスラエル側も爆撃機による空襲などで対抗して、ガザ地区では子どもを含む約30人が殺害され、約200人が負傷した。アラブ連盟はイスラエルを非難して、トルコはイスラム圏が連帯してイスラエルを国際的に圧迫した。一方でアメリカは、イスラエルの自衛権を支持して、ハマスを非難した。イスラエルと将来のパレスチナ国家が共存する2国家共存して恒久的な平和を支持した。


ガザ地区からのロケット攻撃に応戦し、イスラエル軍が空爆を実施した(MAHMUD HAMS/AFP/Getty Images)

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、元山第2飛行場の南西の砂の荒野に悲惨な死体が散在した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、日本軍兵士がアメリカ軍に殺害されて、元山第2飛行場の南西の砂の荒野に悲惨な死体が散在した。殺害された死体は、仰向けに倒れ込み、周辺に脱げたヘルメットがあり、両膝は屈曲して両上肢が抱きつけて死後の硬直をしていた。アメリカ軍は、2月27日までに元山第2飛行場を奪取した。日本軍は、人工と自然の防御で埋め尽くされた硫黄島の戦場で防衛した。昼間は大砲でアメリカ軍を砲撃して、夜間にアメリカ軍の背後に回り込み、進路に地雷を仕掛け侵攻を妨害した。アメリカ軍は、大規模で圧倒的な攻撃と火炎放射器、梱包爆薬、手榴弾などで突破して掃討した。
 硫黄島の戦いは、第二次世界大戦中、日本の国土で行われた最初の大規模な戦闘であった。アメリカ軍には極めて激烈で甚大な犠牲を伴う戦闘となった。上陸してから約5日間の間に、毎日約1,200人もの戦傷者を伴った。上陸した約3分の1ものアメリカ軍兵士が戦死傷の犠牲を伴った。特に、アメリカ軍は、1945年2月19日の午前9時に海岸に上陸してから約50時間で約3,000,人を越えた犠牲を伴った。3月26日に、硫黄島の海岸の近くのアメリカ軍に対して、日本軍兵士はバンザイ突撃して全滅した後に、硫黄島はアメリカ軍が征服した。捕虜になって生存した日本軍はわずか約216人で、それ以外は全員が戦死した。
 硫黄島の戦いは、アメリカ軍側が日本軍側よりもより多くの犠牲を伴って、上陸部隊のうち約7,000人が戦死して、約19,000人が戦傷した。36日間にわたる硫黄島の戦いの戦死傷者数の詳細は次のように示唆された。硫黄島の戦いに参戦したアメリカ軍兵士数は約110,000人であり、その約19%未満の日本軍兵士数は約20,530人であった。アメリカ軍の戦死者数は約6,821人であり、日本軍兵士の戦死者は約19,900人に及んだ。アメリカ軍の戦傷者は約21,865人であり、日本軍の戦傷者は約1,033人であった。合計の戦死傷者の総計は、アメリカ軍が約28,686人であり、日本軍は約20,933人の犠牲を伴った。太平洋戦争でアメリカ軍側が、全体で約7,753人ほど犠牲者数が日本軍側よりも上回った太平洋戦争となった。硫黄島の死傷者数はアメリカ国民に衝撃を与えた。血まみれで野蛮な戦闘を非難する時間は与えずに、沖縄戦の侵略は硫黄島が陥落して4日後に始めた。硫黄島の戦いの先には、日本列島全体に大空襲を加えて、長く血なまぐさい復讐戦が、市民を無差別な悲惨な犠牲に巻き込んだ。




2021年5月11日火曜日

第一次世界大戦で、1915年6月30日にフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。

第一次世界大戦で、1915年6月30日にドイツ国境に近いフランス北東部のマシジュの塹壕にてフランス軍が、ドイツ軍の攻撃と砲撃を受けた。フランス軍兵士が塹壕の中で戦士したフランス人兵士の死体を、布にくるんで運搬していた。塹壕の中を前進すると、不毛な戦いでボロボロに疲れて負傷して倒れたフランス軍兵士が現れた。
 フランス軍だけでも、1914年から1918年の間に1日に約900人近くが死亡して、ドイツ軍は約1,300人が死亡した。その死亡者の約86%は戦場で、約14%は病気や捕虜に起因した。戦場にて、自力で帰れない戦傷者は、疲労や新たな傷、圧迫などにより、ほぼ確実に死に至る運命となった。胸部、胃部、頭蓋骨への銃弾の貫通などで悲惨な戦死傷であり、戦傷者の一人は、下顎を砕かれて血の玉のような顔となった。傷口には血液を固定するヨウ素が塗られた。静脈内輸液や輸血も処置されなかった。傷口を洗浄した後に、大きな既製の軍用包帯が巻かれた。泥だらけの手を洗うための水もろくになかった。
 戦傷者の多くは、夜間にしか救護できない。フランス軍の陣地近くにいた戦負傷者の一部を連れ戻すにも、約4日間の夜と多大な負担が必要であった。塹壕に取り残されたほとんどの兵士は既に死亡していた。
 兵士たちは約30キロの弾薬と食料を抱えて、夜中に音もなく第一陣で塹壕を登った。何時間もかけて行軍した後に、数キロに渡って塹壕が伸びて繋がった。塹壕は砲弾で穴だらけとなり、戦傷者の泣き声と爆弾の悲鳴が漂った。敵の塹壕の前で何の前触れもなく道に迷うと、機関銃に頭や胴体、足を差し出すことになった。
 塹壕の中でフランス軍兵士の主要な武器は小銃であった。銃剣付きで1.80メートルの銃剣は、陣地戦の狭い塹壕の中ではとても実戦的でなかった。兵士に最も恐ろしい試練である徒手格闘では、銃剣で撃てと命令が鳴り響くと、恐怖に慄いた。塹壕に到達したとき、歩兵たちは銃剣を操作することは至難であった。銃剣は手だで持って使えないので、兵士たちは塹壕用のシャベルと鉄木製のヘッドブレーカーで代用した。銃弾が飛び交う平原を横断しなければならない。敵に近づき、ひどい手打ちの戦いが始まった。ライフルはもう役に立たないので、シャベルで攻撃した。千鳥足となり、見覚えのない男たちの渦に飛び込み、もう聞き取れない。鼻と耳から血が出て、頭がおかしくなり、もう危険も見境なく、何も考えられなくなり、自分の生命を差し出しては途絶えた。

 


 

2021年5月10日月曜日

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。

ベトナム人の青年が、1964年8月にベトコンが敷設した地雷で、乗っていたトラックが爆破されて殺害された。ベトナム人の母親は、死亡した息子の死体に涙して慟哭した。その頃に、アメリカと南ベトナムは、北ベトナムに宣戦布告を準備していた。

 ジョンソン大統領は、1964年8月5日に「北ベトナムの攻撃には慎重に対応し、戦争を拡大するつもりはない」と発表した。空母タイコンデロガと空母コンステレーションからの戦闘爆撃機が、北ベトナムの4つの海軍基地と石油貯蔵庫を空爆した。推定25隻の魚雷艇が破壊されて、ヴィンの石油貯蔵施設の約90%が炎上した。アメリカ軍戦闘機2機が、北ベトナムの対空砲火に撃墜されて、2機が損傷した。北ベトナムの戦闘機の空中戦には遭遇しなかった。
 トンキン湾決議と北ベトナムの海軍基地の空襲は、南ベトナムの士気を高めたが、テイラー大使は国務省に、この効果は一時的なもので、カーン軍事政権を維持する可能性は少ないと警告した。1964年8月16日に、南ベトナムのカーン軍事政権は自分の政治的基盤が不安定であるために、独裁的な権限を得る新憲法を公布した。新設された軍事革命評議会は承認されたが、仏教徒には政治的野望に脅威を感じ、ベトコンのシンパや反体制派の学生たちに後押しされて、さらなる暴動を起こした。都市部の不満が農村部にも波及し、民衆の反感を買ったカーン軍事政権は、大統領職を辞し、憲法を破棄して、反体制派たちはすぐに軍事クーデターを起こしたが、反乱軍の陣地を爆撃すると脅して軍事クーデターは頓挫した。
 アメリカに独自性がなければ、南ベトナムの状況はさらに悪化すると考えた統合参謀本部は、トンキン湾事件により、北ベトナムの米軍への攻撃を意図的に誘発した。アメリカは北ベトナムへの空爆を開始する理由もできる。統合参謀本部は、共産主義者たちの軍事行動が、北ベトナムの破壊の度合いを決定した。ジョンソン大統領は、北ベトナムに圧力をかける限定的な措置を承認し、北ベトナムがアメリカ軍を攻撃する際には、一触即発の空爆を行うことに同意した。ジョンソン大統領は、北ベトナムがアメリカ軍部隊を攻撃した場合に、空襲で対応するを同意した。
 北ベトナムへの攻撃を開始した。ジョンソン大統領は、トンキン湾事件以来に中断していた哨戒活動を再開した。ジョンソンの警戒心とは裏腹に、北ベトナム沿岸でアメリカ海軍の哨戒活動や秘密工作が再開されると、すぐに新たな問題が発生した。9月18日の夜、トンキン湾を航行中の駆逐艦モートンとパーソンズは、レーダーから魚雷艇らしきものを発見したと報告した。両艦は約40分ほど操船していたが、追手から逃れることができず、発射した砲撃が命中した。敵と思われる船の映像はレーダー画面から消えた。さらに2回、レーダーに映った映像は、砲撃を受けて消えた。モートンとパーソンズの両艦は、合計で約200発以上の127mと100発の76.2mmの砲弾を発射した。レーダーに映った魚雷や砲撃は爆発していない。ジョンソン大統領はこの攻撃を疑問視して、北ベトナムには報復爆撃を行わなかった。ジョンソン大統領は、トンキン湾の状況が微妙になっと判断し、再び哨戒活動を停止して、南ベトナムの北ベトナム海域での海上活動の再開を延期した。10月4日には、厳重に管理された秘密の対北ベトナム作戦を継続することを許可した。
 ジョンソン大統領は自制して、その2日後にはトンキン湾事件が政治的にも功を奏して、大統領選で61%という空前の得票率でゴールドウォーターを破った。しかし、この勝利には暗い側面もあった。アメリカ国民はジョンソン大統領に強い支持を与えた。しかし、投票日に世論調査会社であるルイス・ハリスが行った調査では、ベトナム戦争への対応を大統領に高い評価を与えた人は42%にも満たなかった。12月初旬には、ベトナム戦争の評価の数字は38%にまで下がった。アメリカ国民は、ジョンソン大統領が、ベトナム戦争に勝つために決定的な軍事行動をとるのか、ベトナムから撤退するのかは定かではなかった。ジョンソン大統領が、ベトナムで軍事行動を起こさなければ、戦争に負けると疑問に思った。





 

2021年5月9日日曜日

ニュルンベルク襲撃後のイギリス軍のハリファックス爆撃機が、その途上のデルメンホルスト近くのスティックグラスで墜落した機体の瓦礫と乗務員の死体が散乱した。

ニュルンベルク襲撃後のイギリス軍のハリファックス爆撃機が、その途上のデルメンホルスト近くのスティックグラスで撃墜されて墜落した。イギリス軍兵士の乗組員が死亡した死体と残骸が周辺地域に散乱した。この悲惨な戦場の残骸と死体を、ドイツ軍が撮影して公表した。1944年3月30日のニュルンベルグ空襲で、英国空軍(RAF)の795機の爆撃機が戦災に巻き込まれて、約95機が損失した。これは交戦した爆撃機の約11%以上にあたる。さらに多くの機体が戦闘機の砲撃や爆風で損傷しながら墜落した。イギリス軍の545人のイギリス人兵士が死亡し、約150人以上が捕虜となり、多数の負傷者の数は行方不明となった。ニュルンベルク空襲は、イギリス爆撃機が1回の作戦で失った航空機の最大の損失となった。目標としていたニュルンベルグの被害は比較的軽微であった。
 イギリス軍は、軽量の爆撃で、夜間に空襲爆撃をした。都市や町を目標にて、大量の爆発物で崩壊した。軍需産業や軍事施設は損害を受けたが、ドイツ人の戦意を喪失させるための民間人へ無差別のテロ爆撃であった。ドイツ軍のイギリスに対する電撃戦への復讐でもあった。1944年3月までに、イギリス軍の爆弾はドイツの都市に大量に投下された。マンハイム、ケルン、首都ベルリンなどの都市がすでに標的となって、煙を上げた瓦礫が大量に残され、多くの民間人が犠牲になった。
 約15万人の都市ニュルンベルクには、確かに軍需目標であったが、ドイツ軍の重要な戦力となる軍事都市ではなかった。戦前にヒトラーの有名な集会所として、ナチズムの精神的中心とみなした。ニュルンベルグ空襲は、近未来のノルマンディー上陸作戦前に、英国空軍による大規模な都市空襲の最後となる予定であった。
 ドイツ軍は、イギリス爆撃機がベルギー海岸上にくると、月明かりに照らされ、飛行機雲もからはっきりと確認した。ドイツ軍の200機以上の戦闘機が緊急発進して迎撃して、イギリス空軍は事実上の待ち伏せをされた。ドイツ軍の戦闘機は、イギリス軍の爆撃機の下から攻撃した。ドイツ軍の戦闘機により、爆弾を積んだイギリス軍の爆撃機の胴体を銃撃して、重い燃料を積んだ両翼を引き裂いた。ドイツ軍の夜間戦闘機は、イギリス軍の爆撃機を撃墜し続けた。目標を見失って雲の中に消えた。陣形が崩れ、横風により経路を外れた。近郊のラウフの農村地帯に一部が撃墜された。約150機の爆撃機が、搭載した爆弾を野原に捨てた。地上からの激しい対空砲火の下で、多くの爆撃機が街から離れた場所に墜落した。復路でも、イギリス軍の爆撃機は、ドイツ軍の戦闘機や対空砲の標的にされ続けた。編隊はバラバラになり、爆撃機は大きく散らばった。途上でいくつかの爆撃機が、戦闘による損傷か燃料切れで墜落した。
 ニュルンベルクの都市被害は、死者約133名(市内約75名)、負傷者約412名、全壊家屋は約198棟、損壊家屋は約3,804棟、ホームレスは約11,000名の犠牲とドイツ軍は記録した。火災の発生件数は、大規模火災は約120件、中・小規模火災は約485件で、産業被害は、鉄道が寸断され、3つの大工場が大きな被害を受け、約96の工業用建物が破壊され、軽微な被害を受けた。
 ニュルンベルグの最大の被害は1945年1月2日の空襲で発生し、約521機のイギリス軍の爆撃機が、約6,000発の高爆発性爆弾と約100万発の焼夷弾を市内に投下した。人口の約1,800人以上の死者を出し、約10万人が家を喪失した。ニュルンベルクの旧市街はほぼ完全に破壊され、街全体がひどく被害を受けました。1945年4月11日に空襲は終結して、4月20日にアメリカ軍がニュルンベルグを占領した。


 

2021年5月8日土曜日

アメリカは史上初の水中にて核爆発させるベーカーの核実験により、長崎原子爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾による核爆発を、ビキニ環礁で1946年7月25日に実施した。

1946年7月25日に、アメリカは史上初の水中で原子爆弾の核爆発を実施した。太平洋のビキニ環礁で爆発したベイカー核実験は、これまでに行われた約2,000回を超える核爆発実験の中で5番目であった。これらの核実験の内では、わずかのベイカー核実験などは、主に船舶や潜水艦の被害を評価するために水中爆発で核実験された。1962年のスターフィッシュ・プライム核実験などの宇宙空間での少数の核実験を除いて、主に核実験の約4分3は地下で行われ、残りは大気中で行われた。
 ベイカー核実験の装置は、船舶の下から海面下の約30メートルに吊り下げられた。TNT火薬で約23キロトンに相当する原子爆弾を爆発させた。ベーカー核実験は、1946年7月1日の大気中のエイブル核実験に引き続き、どちらも長崎爆弾と同型のプロトニウム原子爆弾を使用した。水中爆発による船舶の艦隊と動物に対する核爆発の影響を評価した。ベイカーとエイブルの両方の核実験では、約42,000人の人員、約242隻の船舶、約156機の飛行機、およびビキニ環礁からの約162人の居住者全員の退去を伴う「クロスロード作戦」の一部であった。
 ベイカー核実験では、船に乗ったすべての豚とほとんどのネズミは、爆風または放射線被曝で死亡した。約57隻の標的船のうち、約8隻は爆発の直接の影響で沈没または転覆して、甚大な被害を受けた。残りの船のほとんどは高放射能を浴びた。甲板を拭き取りスプレーなどの除染にもかかわらず、高放射能が残存した。ベイカー核実験は、エイブルよりもかなり多くの放射能を発生した。残存した船のほとんどは、その後に過高熱で操作できず、沈没を余儀なくされた。
 ベーカー核実験とエイブル核実験の翌年の1947年になって、科学者と技術者の調査団がビキニ環礁での科学的再調査を実施した。明らかに放射能が太平洋の食物連鎖に入った。プランクトンは写真の乾板上で輝いた。それを食べた魚の腸管も同様であった。ビキニ環礁がエイブル核実験前の生態学的バランスに戻るかどうかは、短期的な調査では不詳となった。実験して約50年を経た半世紀後の1998年に、国際原子力機関(IAEA:International Atomic Energy Agency)は、23回の核実験が行われたビキニ環礁は、特別な放射能除染しない限り、再定住は困難であると勧告した。核実験と放射能汚染したビキニ、エニウェック島、ロン毛ラップ、ウトリック島の住民は、1980年代にアメリカ政府に損害賠償請求訴訟を提訴した。1986年の自由連合協定によって、核実験による健康と環境への影響に対して、アメリカ政府に補償請求されている。



Operation Crossroads (Baker Event 1946)

2021年5月7日金曜日

ソビエト軍の赤軍兵士が狙撃した直後に、挙上して右手からライフルを投げ出し死にゆくドイツ軍兵士を、ソビエト軍のカメラマンによって戦死の写真が撮影された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ソビエト軍の狙撃兵によって、ドイツ軍兵士は立位で射撃された。死にゆくドイツの兵士は、両上肢を挙上して右手からライフルを投げ出した。東部戦線の最前線でドイツ軍兵士は、人生を終わらせる弾丸を受け取って戦場に倒れ込んだ。ソビエト軍の赤軍の狙撃兵がライフルを発射した直後に、ソビエト軍の最前線のカメラマンによって戦死の写真が撮影された。
 第二次世界大戦でナチス・ドイツ軍の最大の侵略戦となったバルバロッサ作戦が1941年6月22日に始まった。ソ連の国境を越えたドイツ軍は、約60万台の車両と約75万頭の馬に支えられた約400万人のドイツ軍兵士が、長さ約3,000キロに及ぶ最前線を攻撃した。侵略から最初のわずか7日間で、ナチス・ドイツ軍は、ソビエト領土に約300kmも侵攻して、モスクワまでの約1/3の距離を侵略した。電撃戦は当初は順調であり、ナチス・ドイツ軍の攻撃は、ソビエト軍は脅威で圧倒されて、初期のソビエト軍の損失は壊滅的であった。最も悲惨なのは人的損失であった。1941年12月までに、ソビエト軍は軍隊全体で約270万人の兵士が殺害されて、約330万人が捕獲された。失った損失は、ドイツ軍兵士1人につき、ソビエト軍兵士は約20人も損失した。ソ連侵攻した最初のわずか9日間で、ドイツ空軍は、空中戦で約1,400機、地上戦で約3,200機のソ連空軍全体で約40%の戦闘機を損失した。ナチス・ドイツ軍が損失した戦闘機は、わずかに約330機であった。さらに1941年8月中旬までに、ソビエト軍は約3,300両の戦車を崩壊したのに対して、ナチス・ドイツ軍はわずか約220両のみを損失し、驚くべき約15:1の損失の比率であった。

 1941年末からソビエト軍は、ナチス・ドイツ軍の電撃戦から回復して、彼らの抵抗力は固まり、ドイツの損失が次第に積み重なった。1941年8月までにナチス・ドイツ軍が約46,000の損失が、1941年12月までに約25%が戦死傷した。1941年11月までは、ソビエト軍は極度に悲惨な状況となった。ナチス・ドイツは戦争に勝利したと喧伝していた。約200万人のソビエト軍兵士の捕虜、約22,000個の大砲が押収されて破壊され、約18,000台の戦車が破壊され、戦闘機14,500機が撃墜された。ナチス・ドイツ軍は首都モスクワからわずか約16kmの距離に迫った。ソビエト軍にはわずか約9万人の兵士と約150両の戦車が残存していた。首都モスクワの陥落は目前と見なして、1941年11月7日に、スターリンはモスクワの赤の広場で軍事パレードを挙行した。

 1941年12月に入り、気温は-35度にまで急降下した。ロシアでも通年よりも異常に極寒となった。ドイツ軍は極寒の準備が不十分となり、凍傷・飢餓・病気などの13万人もの死傷を伴って、最前線のナチス・ドイツ軍の軍隊を弱体化させられた。1942年1月から補給と設備されたソビエト軍の軍隊は、疲れ果て弱体化したナチス・ドイツ軍を約100kmから200kmも西部に押し戻した。第二次世界大戦で、ナチス・ドイツ軍が被った最初の大敗と撤退となった。最も血なまぐさい戦いとなったモスクワの戦いで約100万人のドイツ軍兵士が命を落とした。

2021年5月6日木曜日

ロシア内戦において白軍は、赤軍を編成している労働者と農民らの民間市民を大量虐待と大量虐殺した。赤軍と白軍は約700万から約1,200万人の死傷者を出した。

ロシアで1917年の十月革命後に、赤軍と白軍とのロシア内戦(Russian Civil War)が勃発した。白軍は、赤軍を編成している労働者と農民らを虐殺した。ロシア帝政時代に農奴として虐げられた農民らは、白軍によって再び以前の帝政が戻ることを警戒した。内戦中に推定約700万から約1,200万人の死傷者があり、そのほとんどが民間市民であった。ロシア内戦中は、赤軍と白軍、両軍の手により多くの民間市民は難民となり一家離散を余儀なくさた。片方の軍が残虐行為を働くと、もう片方もそれに劣らない報復行為に及んだ。さらに赤軍には、1917年12月に誕生した秘密警察チェーカーが、令状も無く無制限に市民を逮捕して、無実の罪で処刑した。
 白軍は、1917年十月月革命以降のロシア革命期における革命側の赤軍に対する反革命側の旧体制派軍隊の総称である。ロシア内戦において白軍と赤軍は戦闘を繰り広げた。白軍は、レーニンが率いたボリシェヴィキによる十月革命に対抗した。白軍の内訳は旧ロシア帝国軍であり、白軍派コサック軍から成り、共和制派が多く、各地に共和国を建国して、イギリスとフランスから支援されてソビエト共産主義者の赤軍に対抗した。1920年11月にペレコープ=チョーンガル作戦で敗れ、多くの白軍兵士と市民は、フランスやアメリカ合衆国などに亡命した。
 赤軍は、レーニンが率いたボルシェビキにより、トロツキーが1918年1月に労働者と農民で編成した。ドイツ帝国に広大な領土を割譲して、多額の賠償金を支払う条件を呑んで、1918年3月にブレスト・リトフスク条約に調印した。多くの旧体制の反対派らは、1918年7月にロシア・ドイツ大使を暗殺して蜂起した。1918年8月30日にレーニン暗殺未遂事件が発生した。レーニンが、モスクワの工場の集会での演説を終え、自動車に乗りかかったとき、3発の銃声が轟き、うち2発が肩と肺に当たった。ボリシェヴィキは、これを起因に1918年9月5日から赤軍による「赤色テロル」の内戦を布告して、多くの旧体制の反対派への大規模な弾圧と処刑を開始した。
 ロシア内戦を赤軍が終結させた後に、赤軍のボリシェビキがロシアの国土を再統一できたものの、荒廃と破壊の極致にあった。1920年から1921年の旱魃でさらに困窮した。市場経済廃絶のために飢餓地域から逆に食料を強制的に徴発して、多くの餓死者を出した。十月革命の勃発からわずか数年の内に、およそ約800万人の民間市民が死亡した。ロシア内戦の残虐行為により、民間市民は非人間的行為に巻き込まれて大量虐待と大量虐殺された。


 

2021年5月5日水曜日

イギリス軍のブリストル複葉機の戦闘機が、1916年の空中戦中にドイツ軍のフォッカー戦闘機と激突して、両機ともに墜落した写真が1931年に偽造された。

イギリス軍のブリストル複葉機の戦闘機が、1916年の空中戦中にドイツ軍のフォッカー戦闘機と激突して、両機ともに墜落して戦死した写真が偽造された。1931年に、グラディス・モード・コックバーンランゲ将校は、第一次世界大戦でイギリス空軍のパイロットとして空中戦の衝撃的な写真を発表した。航空記録の中で最も鮮やかにリアルと称賛された。飛行機に取り付けたカメラから撮影したとされた。写真は1932年以降に、空中戦での戦死-パイロットの戦闘日誌として、空中戦の写真がイギリスの新聞等に掲載された。一部の画像はブックカバーにも使用され、多くの人が驚異的な画像を購入し熱狂した。イギリスでは戦闘機のパイロットは第一次世界大戦の騎士として描かれて、多くが人気のあるヒーローになった。しかし、1984年に至って、アメリカのスミソニアン国立航空宇宙博物館が、死亡した友人から空中戦の画像の寄付を受け取って、それが偽造であることが発覚した。
 第一次世界大戦から戦闘機が至近距離の空中戦(dog fligt)で戦闘した。1913年にメキシコ革命で最初に空中戦が実戦された。第一次世界大戦で、航空機は初期は偵察用であった。次第に至近距離での航空戦の空中線の戦闘が頻発した。さらに、敵機に対して、機関銃などで銃撃を始めた。第一次世界大戦における最初の航空機による空中戦は、1914年8月にオーストラリア=ハンガリー帝国がセルビアとのツェルの戦いで発生した。
 第一次世界大戦において、1914年10月にフランス軍が複葉機の翼に初めて機関銃を装備した戦闘機が、フランスの上空でドイツ軍の航空機を撃墜した。第一次世界大戦中の1915年7月にはドイツ軍の機首に機関術を装着したフォッカー戦闘機が猛威ををふるってフォッカーの懲罰と呼称された。
 連合軍は、1916年1月に新型戦闘機によって再び制空権を確立し、ソンムの戦いに間に合わせ、フォッカーの懲罰も終結した。1916年8月までにドイツ軍は専門の戦闘機隊を編成して、再び制空権を得た。1917年4月にはイギリス陸軍航空隊が、甚大な犠牲を伴って血の4月と呼ばれた。次第に、連合軍は航空戦力を量と質ともにドイツ軍を圧倒したが、終戦までドイツ軍はエンジンの軍需産業により最新鋭の戦闘機の開発競争では優位にたった。


 

2021年5月4日火曜日

第二次世界大戦に連合軍のカッセルに対する無差別大空襲により、ドイツ人住民の犠牲者の死体は広場や街路に集積して配置された。

第二次世界大戦にてドイツ中部のヘッセン州カッセルに対して、1942年2月から1945年3月にかけて連合軍は約40回もの戦略爆撃攻撃をした。大空襲によるカッセル住民の犠牲者の死体は広場に配置された。通りや廃墟の地下室からすべてのカッセル市民の死体を、街路に集積するのに数週間もかかった。アメリカ軍は、1945年4月3日にカッセルを占領した。カッセルには1939年には人口約23万6000人が、約5万人しか残存していなかった。旧市街の中心部の少なくとも90%が廃墟になった。ドイツ国民の士気をくじく名目の無差別の集中爆撃は、テロ爆撃であると戦後に非難された。爆撃された建物と爆撃されていない建物への広範囲にわたる掃討により荒廃した。
 特に1943年10月22日から23日のイギリス軍による大空襲が最悪の襲撃で、カッセル市内中心部の大部分が破壊されるも、都市の工業地帯は残存していた。標的の犠牲になったのはカッセル市民だけであった。約15万人の住民が爆撃されて、少なくとも約10,000人が死亡した。最も激しい空襲により火災が約7日間も燃え上がった。約569機の爆撃機が、カッセル市内の旧市街に約80分間にわたり、約1,800トンの爆弾と約460,000本のマグネシウム製の焼夷弾を投下した。
 爆発の圧力波により、屋根、窓、ドアが引き裂かれた。多くは木製の建物は、空から降り注ぐ爆弾により、約15分以内に炎上した。カッセルには、火が広がりやすい狭い道があった。最高の気温は約1500度にも達し、風速は約160km/hに達した。すべての酸素が空気から吸い出され、地下室の最初の安全に到達した住民はすぐに窒息死した。ほとんどの住人は、居住していた建物の地下室に逃げ込んでいた。換気ポンプが逆に外界の火炎や煙を吸い込んだ。多くの住民は地表への出口を見つけれず、迷った狭い部屋や廊下で混沌とした地獄状況をもたらした。

2021年5月3日月曜日

第一次世界大戦中にドイツ軍の潜水艦Uボートにより撃沈されたイギリス船籍のルシタニア号の大惨事の犠牲者の葬儀が、アイルランドのクイーンタウンの墓場で施行された。

ドイツ軍の潜水艦Uボートにより撃沈されたイギリス船籍のルシタニア号の大惨事の犠牲者の葬儀が、1915年5月10日にアイルランドのクイーンタウンの墓場で施行された。ルシタニア沈没は、アイルランド近海のキンセルで撃沈した犠牲者の内、大西洋から引き上げられた約120の遺体が、集団墓地に埋葬された。多数の棺桶で満たされた集団墓地の周囲を、司祭・軍隊・警官ならびに何千人もの関係者と大衆が参集した。1915年5月7日に、ドイツ軍の潜水艦Uボートが、イギリス所有の蒸気船ルシタニア号を魚雷で沈没させた。約128人のアメリカ人を含む約1,195人を殺害した。この大惨事は、アメリカが第一次世界大戦に参戦する一連の出来事の起因となった。
 ルシタニアの大惨事は、やがて中立のアメリカが反ドイツ感情を煽られ、最終的にアメリカは第一次世界大戦に突入した。第一次世界大戦が1914年に始まった後に、イギリスは客船ルシタニアを密かに輸送艦に改造していた。イギリスは商船などを武装させて、アメリカからヨーロッパに乗客だけでなく武器と物資を輸送していた。1915年2月に、ドイツ軍はイギリス周辺海域を、戦争地域に宣告して、ドイツの潜水艦は国際条約に反して商船に対する警告を無視した。連合軍は、アメリカからの武器と物資の輸送に支障を来した。
 ドイツ大使館は1915年4月20日に、アメリカに対してイギリスと戦争下にあり、イギリス国旗の船舶は攻撃対象と宣告していた。その後の5月1日にニューヨークからリバプールに向かったルシタニアは、ドイツ軍のUボートから警告なしに魚雷を受けて、約20分後に沈没した。乗客は救命ボートに乗る暇もなく水没死した。遠洋定期船のルシタニアの悲劇的な運命が、1915年5月18日に新聞に掲載された。直ちに、イギリスはドイツ軍の民間人に対する攻撃に対する非難と怒りを強調して喧伝した。イギリス人の集団が、ロンドンでドイツに対して復讐する暴動が勃発した。
 ドイツ軍のUボートは、さらに1915年8月にもイギリス船舶のSSアラビックを沈没した。相次ぐ事件が、アメリカとドイツ間に憎悪の緊張が高まった。アメリカ政府は、理由もなく船舶に攻撃した場合に、ドイツとの国交を断絶して、第一次世界大戦のイギリスに参戦すると警告した。ドイツは1915年9月には船舶を攻撃する前に警告することを公表していた。イギリスの諜報機関が1917年初頭にドイツがメキシコと中央同盟して無差別な船舶攻撃を再開するジマーマン電報の傍受して、新聞が3月1日に公表した。ドイツ軍が本格的な潜水艦による無差別攻撃を2月3日から再開した直後に、1917年4月6日にアメリカ議会は、中央同盟国に対して宣戦布告して、第一次世界大戦の連合国に参戦した。

 


 

2021年5月2日日曜日

リンカーン大統領の暗殺に関与した4人の共謀者が、特別軍事法廷による裁判の判決後に、北軍が閲覧する絞首台で死刑が執行された。

リンカーン大統領の暗殺に関与した4人の共謀者が、北軍が閲覧する絞首台で死刑を執行された。特別軍事法廷による裁判の判決後に、デビッド・E・ヘロルド、ジョージ・A・アドゼロット、ルイス・ペイン、初めて女性であるメアリー・E・サラット(Mary E. Surratt, 写真は左端)夫人が絞首刑に処せられた。サラット夫人は、共謀者が出会ったワシントンの下宿の管理人であった。共謀者として逮捕された8名の裁判は軍法会議の形で行われて、8名全員が有罪となった。絞首刑は、1865年7月7日にワシントンのマクネア砦内にある刑務所で行われた。その他に、マイケル・オラウフリン、エドワード・スパングラー、サミュエル・アーノルド、ブースの骨折の手当をしたサミュエル・A・マッド博士は、陰謀で有罪判決を受けて、終身刑を言い渡された。オラウフリンは軍事刑務所で死亡した。その他のものは後に減刑された。
 約4年間にわたる南北戦争は、1861年4月12日から1865年5月9日に北軍の勝利で終結した。その5日後に、エイブリハム・リンカーン大統領が暗殺された。南北戦争を戦い抜いて、奴隷を解放して“キリスト以来の偉人”とまで讃えられたリンカーンは、1865年4月14日午後10時頃に、ワシントンD.C.のフォード劇場で『われらがアメリカのいとこ(Our American Cousin)』という喜劇を観劇中に暗殺された。南部出身の俳優であったジョン・ウィルクス・ブース(John Wilkes Booth)が、リンカーンの後頭部をピストルで銃撃して暗殺した。暗殺して劇場から脱出した後に追跡されて射殺された。アメリカ史上初の大統領の暗殺事件となった。
 フォード劇場の2階8号室の特等席にて、リンカーンの背後に近寄って、ブースは至近距離から拳銃で後頭部に銃撃した。南部の復讐と叫けび、約4m下の舞台に飛び降りた。暴君は死んだと叫んで駆け抜けて脱走した。銃撃されたリンカーン大統領は、翌日4月15日午前7時22分に56歳で死亡した。
 ブースは単独犯ではなく、他には6人の共謀犯人が逮捕された。ブースはアナコスティア川を船に乗って脱走して、3人の南軍兵士がブースの逃亡を手助けした。納屋に潜んでいたブースと共謀者を、放火して逮捕する際に、ブースは頸部に銃撃されて殺害された。一緒に納屋に立て籠もったヘロルドは逮捕された。軍事裁判ではブースの共犯者6人のうち、4人が絞首刑、2人は終身刑となった。

 


 

2021年5月1日土曜日

広島原子爆弾の炸裂で家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場から逃避した。

はだしのゲン「第1巻 青麦ゲン登場の巻」で、1945年8月6日にアメリカ軍により、広島市に原子爆弾が投下されて炸裂した。直後に家屋が崩れて燃え上がり、一緒に埋まって動けない父親、姉と弟は、一気に焼死した。原子爆弾が炸裂した後に残されたはだしのゲンとお母さんは、熱傷に苦痛する被爆者と焼き場となった爆心地周辺から逃避した。その後に、生まれたばかりの赤ん坊の新生児を抱えたお母さんと一緒にはだしのげんは逃避した。戦後から、さまざまな苦難の日々を過ごした。
 「ばだしのゲン」の作者である中沢啓示は自らの小学校1年生の広島原子爆弾の被爆体験を源泉として「少年ジャンプ」に連載したマンガの長編で、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の厳しい被爆者の厳しい生活を描いた。太平洋戦争の末期にて、広島原子爆弾を舞台にして、小学校2年生の中岡元が主人公のはだしのゲンは掲載された。下駄の絵付けの製造に従事している中岡家はとても貧しかった。5人の子供たちは健やかに戦中に育った。しかし、父親が太平洋戦争に批判的な発言をもらして、非国民として疎外と差別されて、村八分に追い込まれた。 
 やがて、戦後に日本軍の予科練に志願して入隊していた長男の中岡浩二と、学童疎開していた次男の中岡昭とめぐり会った。焼死した弟の中岡進次とよく似た孤児の隆太も加わった。生活は一層にふくらみを持って展開されが、このマンガのポイントは、被爆者たちの悲惨な生活の実態を通じて、戦争の残酷と悲惨が描き出された、
 戦後の若い世代は、戦争の大量虐待と大量虐殺を全く体験もなくて無知である。テレビ・映画・アニメ・ゲームなどのゆがんだ戦争感で洗脳されている。戦争の恐怖と困窮は、原子爆弾の炸裂や戦場で射撃や空襲を受けるだけでない。戦争に対して批判や反対、積極的に戦争に協力しない者は、全て差別されて村八分になり虐待と虐殺むされる。しかも、それらの後遺症は、戦争後にも及び悲痛な傷口が開いている。
 はだしのゲンは、そのような戦中と戦後の世の中の境遇に決して諦めないで、這いながら生きた。はだしのゲンと呼ばれた少年が主人公となり、広島原子爆弾が炸裂した戦中から戦後の悲惨な被爆者の生活をより痛切に描写した。中岡家は、戦中は非国民の一家として周囲から避難されて、戦後にもよそ者として疎外された。戦争の残酷さや悲惨さを全く無関心で無知である戦後に生まれた世代に、はだしのゲンのまんがが、小さな軽くやさしく戦争と平和を描いている。
 2005年に少なくとも「はだしのゲン」の英語版、フランス語版、ドイツ語版、イタリア語版、韓国語版、ロシア語版、スペイン語版、インドネシア語版、タイ語版、エスペラント版、ノルウェー語版、ポーランド語版が既に刊行された。
 作者の中沢啓治は、はだしのゲンを次のように談話した。原子爆弾を主題にしてまんがを描くのはしんどいが、子どもらは、素直に何が真実がを見極めてくれます。ですから肩を張るのではなく、リラクスしながら、子どもが作品の中にはいっていけるように念じつつ描き続けました。その中から、ほんとうのものをつかんで、原子爆弾とは何かをわかっていただけれ本望です。