2021年10月31日日曜日

プリンス・ティーウィアは27歳黒人男性で、イラク戦争で2005年12月29日に、イラク首都バグダッドで時限爆弾により殺害された。

プリンス・ティーウィア(Prince Teewia)は27歳の黒人青年男性で、イラク戦争にて、2005年12月29日に、イラクの首都バグダッドで時限爆弾により殺害された。ノースカロライナ州ダーラム出身である家族への通知後に、国防総省から戦死が公表された。葬儀はデラウェア州ニューアークで2006年1月に挙行された。父親が、アメリカ国歌に覆われた息子の死体が入った棺桶に向かって泣き叫んでいる。周囲の親族や関係者も同情しながら葬儀に参列した。葬儀場には、アメリカ軍の白人将校が無表情に立ち会った。

 プリンス・ティーウィアは、教育費を捻出する奨学金ためにアメリカ陸軍に入隊した。入隊前に1年間の大学生活を終えていた。ティーウィアはガソリンスタンドで働いて、ノースカロライナ・セントラル大学に入学した。彼の父親は、息子がアメリカ軍に入隊したのは経済的なメリットで、以前から兵役を希望していた。1998年にリベリアの政情不安から避難して、すでにアメリカにいる家族と合流するためにリベリアを離れた。アメリカ軍は、中間・貧困層の若者に向けて、大学、お金、旅、愛国心が手に入ると募兵して、約137万人にも達する。

 バグダッドでの戦闘行動中に即発爆発装置がハンビーの近くでの道路脇に設置された爆弾が車輌の下で爆発して死亡した。アメリカ南部のテネシー州とケンタッキー州の境界にあるフォート・キャンベル陸軍基地の第101空挺師団第4旅団戦闘チーム第1歩兵連隊506大隊に所属した。アメリカ軍の不朽の自由作戦中に戦死した。イラク戦争にて2010年5月14日時点での有志連合の殺害された戦死者数は次の通りである。アメリカ人4,402人、オーストラリア人2人、アゼルバイジャン人1人、イギリス人179人、ブルガリア人13人、チェコ人1人、デンマーク人7人、オランダ人2人、エストニア人2人、フィジー人1人、グルジア人5人、ハンガリー人1人。イタリア人33人、カザフスタン人1人、ラトビア人3人、ポーランド人22人、ルーマニア人3人、サルバドール人5人、スロバキア人4人、韓国人1人、スペイン人11人、タイ人2人、ウクライナ人18人に及んだ。各国政府が死亡を報告した兵士、海兵隊員、航空隊員、水兵隊員、沿岸警備隊員の名前である。14人のアメリカ国防総省の民間人職員も含まれている。アメリカ国防総省によると、少なくとも31,810人のアメリカ軍兵士が戦闘で負傷した。

















2021年10月30日土曜日

日本陸軍兵士の22歳男性が広島爆心地から約1.1kmで被爆した。被爆後に頭髪部は完全に脱毛して、点状出血と発熱が出現して、8月31日に死亡した。

広島原子爆弾が1945年8月6日に炸裂した時に、日本陸軍兵士の22歳男性が広島市内で被爆した。被爆地点は爆心地から約1.1kmで、中島国民学校付近の土手で休息中に被爆した。その周辺に10数名の兵士は同様な原爆症を発症した。被爆後に21日目から脱毛が始まり、頭髪部は完全に脱毛した。その次に点状出血と発熱が出現した。視力障害も伴って、頭部の皮下溢血斑点が顕著になった。被爆者は仁保の病院から、8月28日に陸軍宇品病院に転送された。23日目に白血球数は3,300個(4,000〜9,000個)まで若干低下した。写真は死亡する前日の8月30日に撮影された。8月31日に急変して25日目に死亡した。死亡時には、白血球数は45まで低下して白血球は消失した。その他に赤血球数は約230万個(基準値は男性435-555万個、女性386-492万個)で、出血時間は28分まで延長した。東京第一陸軍病院に、症例H-6176-U,剖検キー23にて死体の病理解剖標本が保管された。

 予後について、同程度の線量の電離放射線を受けた患者の間でもかなりのばらつきがあった。脱毛による予後に対する評価はかなり高いが、絶対的なものではない。一般に早期に脱毛した被爆者は予後不良であったが、数日以内に脱毛した生存者も多数いた。脱毛は潜伏期間を終了させて、急性症状の発現を予告する最も一般的な症状であった。早期に脱毛した患者は、通常より重篤な症候群を有していた。脱毛と同時に大部分の患者は発熱した。脱毛前に下痢や発熱があった場合に、それらが増悪することが多かった。しかし、死亡時にも脱毛をしていない被爆者も少なからずいた。第3週目から第6週目までに病理解剖された症例では、86%が頭皮の脱毛を認めた。広島原子爆弾では94件の剖検のうち、48件が頭皮、8件が腋窩、6件が陰毛、4件が眉毛、2件がひげに脱毛があった。完全に脱毛していても、必ずしも予後が悪化とは相関していなかった。逆に、第4週目頃に放射線障害で死亡した被爆者の14%は、脱毛をしていなかった。

 紫斑は、出血性傾向の最も一般的な臨床症状である。脱毛と同様、放射線障害の特異的な症状である。紫斑の原因は他にもあるが、電離放射線13の範囲を超えていた被爆者では比較的まれな症状であった。また、脱毛の場合と同様に、受けた線量と発生率には密接な相関があった。紫斑病には、出血性紫斑病のような出血性症状も含まれる。生存者では典型的に小さな出血領域が見られた。より大きな領域が見られることは少ない。無顆粒球症の場合と同様に、壊死した病変はすぐに感染して大きくなった。皮膚の紫斑の分布は様々であるが,大部分の患者では上半身に発生し,特に頭部と顔面,上腕の屈筋面,前胸部に発生した。



2021年10月29日金曜日

ボリソフから撤退する直前に、ナチス・ドイツ軍は強制収容所の囚人となっていたソ連軍兵士の捕虜を銃殺して大量虐殺した。

第二次世界大戦の東部戦線で、ソ連軍のミンスク攻勢により、ナチス・ドイツ軍はベラルーシのボリゾフから敗退した。ボリソフから撤退する直前に、ナチス・ドイツ軍は強制収容所の囚人となっていたソ連軍兵士の捕虜を銃殺して大量虐殺した。ボリソフ周囲に建設された6つの強制収容所では、約33,000人以上が虐殺された。大量処刑されたロシア人の囚人の写真は、ドイツ軍兵士から発見された。

 1944年6月23日から、ソ連軍はナチス・ドイツ軍が占領したベラルーシの解放するバグラチオン作戦が8月19日まで勃発した。ソ連軍は約120万人の兵力で、約80万人のドイツ軍と対峙した。戦闘が本格化すると、両軍で約400万人以上の兵力、約6万2千門の大砲、約7,500台の戦車・自走砲、約7,100機以上の爆撃機が参戦した。ソ連軍は、前線の6つの地点で、ドイツ軍の防御を突破して、ドイツ主力軍は大敗を喫して、ソ連のベラルーシの首都ミンスクで包囲されて壊滅した。

 パルチザンがソ連軍を後方支援した。1943年8月3日に、ドイツ軍の鉄道インフラを破壊して、約21万5000本の鉄道路線と数十本の橋梁が破壊され、約1000本以上の列車が脱線し、東部戦線におけるドイツの輸送交通量は約40%も減少した。ソ連軍の攻勢によってソ連軍はウクライナとバルト海で攻勢をかけた。 

 1944年8月22日にバグラチオン作戦が終了するまでに、ドイツ軍の約17個師団が完全に破壊され、約50個師団の半数以上の兵力を失った。ソ連軍は2ヶ月以上にわたる攻勢で350マイル以上侵攻して、ベラルーシ、ラトビア、リトアニア、ポーランドの広大な地域を解放した。ソビエト軍はポーランドのワルシャワに近づき、ケーニヒスベルクからナチス第三帝国の中心地へと侵攻した。バグラチオン作戦で、ソ連の赤軍は約18万人の兵力を損失したが、ドイツ軍の犠牲は約40万人から約50万人にのぼり、ナチス・ドイツ軍史上最悪の軍事的敗北となった。6月23日のソ連のバグラチオン作戦は、第二次世界大戦の東部戦線の終結の起点となった。






2021年10月28日木曜日

ベトナム戦争中期の1965年3月30日に、南ベトナムのサイゴンにあるアメリカ大使館前で、ベトコンによるテロ爆発事件が起きた。

ベトナム戦争中期の1965年3月30日に、南ベトナムの首都サイゴンにあるアメリカ大使館前で、ベトコンの工作員によるテロ爆発事件が起きた。サイゴンのアメリカ大使館前に駐車していた車の中で爆弾が爆発した。ベトナム人19名、アメリカ人2名、フィリピン人1名が死亡して、183名が負傷した。負傷したベトナム人は路上に倒れて手当を受けた。背後の残骸からは煙が上がった。CIAの速記者バーバラ・A・ロビンスが、最初の殉職したアメリカ人女性となった。ベトナム戦争中に、67人のアメリカ人女性(8人の軍人女性と59人の民間人女性)が戦争で死亡した。

 1965年3月30日深夜に、サイゴン川の近くにある5階建てのアメリカ大使館内にあるCIAサイゴン支局の外の路上に、シトロエンの車がボンネットを上げて停まっていた。警察官とシトロエンの運転手と口論を始めていた。運転手は退去を命じられ、拒否すると警官が発砲した。スクーターに乗った別のベトナム人が、運転手のそばにモーターで近づき、警察官に向かって撃ち始めた。数人のCIA職員が、が副支局長室に駆けつけて窓の外を覗いていた。ロビンスは鉛筆を持ち、薄緑色のスカートと黄色のブラウスを着ていた。その数秒後に、ロビンスは即死した。シトロエンに積まれていた約300ポンドのプラスティック爆弾が爆発した。大使館の建物は実質的に破壊された。鉄格子と窓がナイフのようにオフィスに入ってきた。

 1965年6月25日にはベトコンによる2回のテロ爆発が勃発した。首都サイゴンの暖かい金曜日の夜、数十人の人々が、サイゴン川の岸辺にある人気の水上レストランマイ・カン・カフェで夕食を楽しんでいた。サイゴンの繁華街の中心にあり、アメリカ大使館の近隣で、ベトナムの民間人やアメリカ軍人、外国の大使や国際ジャーナリストなどが利用していた。午後8時15分頃に、耳をつんざくような爆発音が響き渡り、ダイニングルームに破片が飛び散った。常連客のほとんどは多くの女性や子供を含む民間人であった。恐怖におののく生存者たちが出口に向かった時、2つ目の爆弾が爆発し、川岸に続く桟橋にも爆弾が落ちた。ベトナム戦争中のテロ爆発の中でも最も大きな被害をもたらした。13人のアメリカ軍人を含む約30人以上が死亡し、183人が負傷した。2回目のテロ爆発が、水上レストランの近くの川岸にあったタバコ屋の横で別の爆弾が爆発した。この爆発で少なくともアメリカ人女性1人が死亡した。既に首都サイゴンは戦場であり、テト攻勢の以前から都市戦争は熱を帯びていた。




2021年10月27日水曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。

朝鮮戦争にて、北朝鮮地域の咸興で北朝鮮軍により虐殺された民間人の死体が井戸から引き上げられた。咸興虐殺事件は、1950年10月に、咸興で起きた集団虐殺である。金日成の指示によって北朝鮮軍により咸鏡南道の咸興市で起きた民間人の虐殺事件である。犠牲者は約1万2千人余り(拉致および行方不明者を除く)と推定された。主に銃殺、井戸生売場、透析を通じて虐殺したが、盤龍山の防空窟の場合には、爆死をさせた。咸興刑務所で約700人、忠寧塔地下室で約200人、政治保衛部がある3つの地下室で300人、徳山のニッケル鉱山で約6,000人、半龍山防空洞で約8,000人以上と推定された。

 米国国立公文書によると、1950年9月15日~1950年9月28日の仁川上陸作戦以後、北朝鮮軍は北方に撤退して、北朝鮮地域でも多くの虐殺事件を行った。1950年6月25日から勃発した朝鮮戦争で、北朝鮮軍は南方の韓国に侵攻する時に、北朝鮮地域内の反抗者を選別するために政治保安部が無差別に予備検属(豫備檢束)をした。北朝鮮軍は、アメリカ軍と韓国軍が北方に圧迫して侵入すると、容疑者を虐殺した。1950年10月16日に、咸興改革派の共産党員は、すべての政治犯を殺害し、遺体を井戸に投棄した。識別を困難にするために、約4リットルの酸を井戸に注いだ。死体は井戸から引きずり上げられ、親族が死体を判別できるように横並びにした。

 朝鮮戦争初期の南側で韓国軍警が同様な選別したように、北朝鮮政治保衛部と内務署などが、万歳デモや蜂起が起こる前に、予備検属者を虐殺した。黄海道新川では反対の状況が起き、韓国軍の反共治安隊が、北朝鮮当局の関係者と家族を先制的に虐殺したり拘禁した。以後、北朝鮮軍と韓国軍の双方で血の報復が大量に行われた。特に占領地行政と治安の空白が目立った一部の北部地域は銃が法になり、恐怖と報復が繰り返された。朝鮮戦争期間中に、北朝鮮の人民軍と左翼によって虐殺された民間人は総約122,799人、北朝鮮に拉致された拉致北者は約84,532人、朝鮮戦争中に死んだ民間人が約244,633人と推定された。




2021年10月26日火曜日

第二次世界大戦における連合軍の空襲により、ドイツの街路には民間人の殺害された黒焦げの死体が散乱した。

第二次世界大戦における連合軍の空襲により、街路には民間ドイツ人の殺害された黒焦げの死体が散乱した。空襲から逃げ惑うも、街路の周辺で火災に巻き込まれた。1942年7月26日と27日夜間に、連合軍の約403機の爆撃機がハンブルグを空襲した。被害は広範囲に及んだが、その多くは港湾や工業地帯ではなく、住宅地や準商業地域であった。少なくとも約800件の火災が発生し、そのうち約523件は大規模なものであった。約823の家屋が破壊され、約5,000以上の家屋が損傷した。約14,000人以上がの民間人が空襲を受けて、約337人が死亡して、約1,027人が負傷した。連合軍の約403機のうち約29機の爆撃機が失われ、約7.2%の損害となった。 

 第二次世界大戦中の持続的な戦略爆撃キャンペーンの一環として、ゴモラ作戦と名付けられた1943年7月最終週の攻撃は、第二次世界大戦中にイギリス空軍とアメリカ陸軍航空隊が起こした最大級の火炎旋風を引き起こした。ハンブルクでは推定約37,000人の民間人が死亡し、約180,000人以上が負傷し、市内の住宅の約3分の1が破壊されて、街の大部分が事実上破壊された。ハンブルク空襲の前は、しばらく雨が降っておらず、すべてが非常に乾燥していた。異常に暖かい天候と良好な条件のおかげで、爆撃は意図した標的の周囲に非常に集中し、超高熱の空気の渦と渦巻く上昇気流を作り出し、高さ約460メートルの竜巻状の火災旋風が発生した。特に1943年7月27日の空襲では連合軍の約787機の爆撃機が空襲して、大きな火災が周辺の酸素をすべて消費した。炎に向かう吸引効果が生まれ、風速約240km/hの火風が発生して、高温で道路のアスファルトが燃えた。空襲の防空壕や地下室からも酸素が吸い取られ、その夜だけで約3万人が死亡した。連合国側は終戦までにハンブルクに約200回以上もの空襲を行い、約440機の爆撃機を失った。

 ハンブルグは北海に面して、造船業や重工業が集中しているため、連合軍の空襲の格好の標的となった。第二次世界大戦中の連合軍によるハンブルグ空爆では、民間人や市民のインフラへの攻撃が数多く行われました。大都市であり産業の中心地でもあったハンブルクの造船所、Uボート基地、ハンブルク・ハールブルク地域の石油精製所は、戦争中ずっと攻撃されていました。この空襲により、ハンブルグのドイツ軍の兵器生産に大きな損害を受けた。第二次世界大戦中の連合軍によるハンブルク空襲は、ドイツの長崎と言われ、原子爆弾が投下された長崎を象徴した。



 

2021年10月25日月曜日

日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。

日中戦争にて、湖南省で中国民間人が日本軍に虐殺された。身体を縄で縛って、罪人の罪状を記した木札を付けて殺害された。アグネス・スメドリー(Agnes Smedley)の『中国の歌ごえ(Battle Hymn of China,Jan.1943)』に写真が掲載されて、1929年から1941年までの日本軍の中国侵略の歴史が掲載された。日中戦争期を契機に、中国共産党が国際世論工作を展開した。中国共産党は日中戦争勃発前の1936年6月から10月に,アメリカ人記者のエドガー・スノー(Edgar Snow)をソビエト地区に招いて取材に応じた。スノーは,毛沢東を初めとする共産党の首脳を取材し『中国の赤い星,Oct.1937』をイギリスで発表して、反響は大きく中国共産党が世界に認知される契機となった。

 日本軍により、江南殲滅作戦(1943年5月5日から6月10日)の第一期に、湖南省北東部にある洞庭湖の北辺に位置する廠窖で引き起こされた事件が廠窖大虐殺(廠窖惨案; Changjiao massacre)が勃発した。1943年5月9日から11日までの3日間で中国軍兵士と民間人の約30,000人余が殺害された。その犠牲者の内訳は、中国軍敗残兵約5,000人、地元住民約7,000人、近郊住民約6,000人、他地域からの避難民約12,000人に及んだ。その他に、負傷者は約3,000人、焼失家屋約3,000、焼失舟艇約2,500艘、強姦された女性は約2,000人人以上などの被害が発生した。大虐殺事件現場の湖南省益陽市南県廠窖鎮には、避難民が乗る多数の船舶が爆撃され大量の犠牲者の血で水が赤く染まった血水河遺跡や、大量の遺骨が発見された千人坑遺跡などを遺跡としている。外国の駐在機関や報道機関もなく、住民の目撃証言か被害者の身体に残る傷跡と記憶、地中に埋まった犠牲者の遺骨が事件を証明する手段しかない。中国考古学者らによる遺骨の発掘調査は今も継続しはている。

 湖南省廠窖で発生した廠窖虐殺事件について、日本側史料をもとに検証した。戦後に編纂された作戦部隊の部隊史によると、廠窖事件の起きた期間、日本軍機による空襲、敗残兵の掃討、軍服を脱ぎ便衣となった中国兵との市街戦、民間船の焼却など、事件生存者の証言と符合する記述は散見された。しかし、中国側が主張する死者約3万人を証明まで至らなかった。廠窖事件で日本軍の暴行は資料的裏づけが取れるが、死者数は歴史史料上では確定できない。




2021年10月24日日曜日

ドイツ軍は、ネムマースドルフにて民間人の犠牲者のほとんどの女性と子供の死体を並べて、ソ連軍の残虐性を示す撮影をした。

第二次世界大戦の東部戦線で1944年10月22日ソ連軍が一時的に東プロイセンのネムマースドルフを占領して、約48時間後にドイツ軍がこの地域を再占領した。ソ連軍は市民を拷問し、納屋の扉に釘付けにして銃殺した。大勢の女性が強姦されて、銃殺された。ドイツ軍は、民間人の犠牲者のほとんどの女性と子供の死体を並べて、ソ連軍の残虐性を示す撮影をした。ソ連軍兵士は、約50人ほどのフランス人やベルギー人捕虜も射殺した。ドイツ軍は10月24日にネムマースドルフに再占領したが、多くの民間人が殺されていた。ドイツ軍兵士は、喉をピッチフォークで穿たれ、全身が納屋の扉にぶら下がっている老人を発見した。目撃した恐ろしい光景のすべてを説明できないと日記した。他にも、住民がソ連軍の戦車に踏み潰されたり、町の外に出る橋で市民が機関銃で殺された証言もある。

 ソ連軍は、1944年10月22日に、ドイツ東プロイセンの辺境にあるネムマースドルフ村の近くに移動し、近くのアングラパ橋を占領した。反撃するドイツ軍の空襲の際に、一部のソ連軍兵士はネムマースドルフの住民約14人が作った防空壕に逃げ込んだ。ソ連軍兵士が住民を射撃して、防空壕を占領した。村の中では他の部隊も防衛陣を敷いた。日没後に、ソ連軍は橋を渡って撤退し、橋頭堡を放棄した。征服された人々は、両軍によって多くの残虐行為に受けた。両軍共に、復讐への血の欲望が高く、民間人に対するテロの残虐行為も奨励した。

 ドイツのプロパガンダ機関は、虐殺の証拠を公表して、ソ連軍の残虐行為を宣伝した。ドイツ国内では、プロパガンダの効果は二極化して、ドイツ軍部隊への志願者が集まった一方で、東ドイツの住民は、残虐な運命を避けるために西側へ大量に逃亡した。ドイツ軍はネマーズドルフの住民約653人のほとんどが虐殺されたと主張した。ソ連軍側の記録では約20~30人の殺害であった。一般的には、ドイツ軍が死者の数を誇張して、他の残虐行為の証拠で大虐殺を誇張したり、民間人が殺される状況をソ連軍が作り出したとも考えられいる。逆に、ドイツ軍がアングラパ橋への攻撃の際に、民間人を盾にしていた。ソ連は国家の公式記録であっても殺害数は怪しく、実際の死者数は、その中間と想定されている。




2021年10月23日土曜日

広島日赤病院に外来受診した若い女性は、爆心地の南1.7kmの南大橋で、顔面から上腕に火傷を被爆した。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となった。

広島赤十字病院は、1945年8月6日に広島市に原子爆弾が投下された直後から救護活動を実施した。外来受診に母親の荷車で通っていた若い女性(陸田さん)は、爆心地の南1.7kmの南大橋で被爆した。顔面から上腕にかけたや火傷を被爆しいた。外来には大勢の被爆者が参集して満杯となり、被爆者は並んで火傷の治療を次々に受けた。医師は診察して火傷の患部にガーゼ処置などをした。看護婦は、ガードを渡したり、ヘラで火傷部に軟膏を塗って、包帯を巻く救護をした。 

 1945年10月18日にアメリカ進駐軍の医療等原爆患者調査のために、広島日赤病院に立ち寄り、記録映画を撮影した。広島原子爆弾が炸裂してから、約1月後の9月頃から、連合国最高司令官総司令部(GHQ)の監督後援のもとに、アメリカ戦略爆撃調査団の映画計画に参画した日本映画社によって原爆被災記録映画の撮影が9月23日から行われた。旧日本学術研究会議原子爆弾災害調査特別委員会の研究を日本映画社が撮影した。その途上で、それらはアメリカ軍によって全てが接収され所有権はアメリカ軍に移管された。12月18日にGHQにより原子爆弾に関する全てのフィルムと原爆の影響(Effect)記録映画が接収された。1946年5月16日にビキニ核実験前に価値ある広島長崎フィルムがワシントンに移管されたことが公表された。

  爆心地から南西約1.5kmの広島日赤病院は被爆して1945年9月頃から建物の修復工事をするも、爆風により鉄製の窓枠は内側へ押曲げられて、窓ガラスは砕くだけ散ったままであった。広島日赤病院の病室の窓際から、壊滅した広島市内を撮影した。10月25日にも広島市の南方から大勢の被爆者が広島日赤病院に入所した。被爆して収容された子どものウメキ声で周囲の入院患者の一部は入眠困難となった。10月26日には被爆した子どものウメキ声が、さらに強烈となり、とても可哀想であった。広島赤十字病院は、主な建築物は、鉄筋コンクリート3階建てで焼失は免れた。しかし鉄の窓枠は破壊されガラスは飛散した。内部も天井は落ち壁は崩れ椅子や机は倒れた。










2021年10月22日金曜日

イギリス軍のパラシュート大隊員に襲撃されてドイツ軍のフリードリヒ・クーシン将校と運転手は車内で射殺されて、車外に死体が飛び出した。

第二次世界大戦の西部戦線のオランダのアーネム(Arnhem)にて、1944年9月17日の16時から17時の頃に、ドイツ軍のフリードリヒ・クーシン将校と運転手が灰色のシトロエン車に乗車していた。イギリス軍のパラシュート大隊員に襲撃されてフリードリヒ・クーシン将校と運転手は車内で射殺されて、車外に死体が飛び出した。ドイツ軍将校は銃弾で引き裂かれ、バッジと襟章は略奪され、ドアから身を乗り出した死体が放置された。 1944年9月17日にイギリス軍とポーランド軍のパラシュート大隊がアーネムに降下して、ライン川にかかる橋に侵攻したが、その後に増援が続かず撤退した。クーシン将校は、連合軍のパラシュート隊の動向を偵察中に銃殺された。何の前触れもなくクーシン将校が現れたので、分岐点の先頭部隊の兵士が、ステンスやライフルで銃撃して、露出した車の側面を銃撃して車から死体をなぎ倒した。写真は非常に印象的であり、戦争の非常にリアルな恐怖を伝えている。

 連合軍は1944年6月6日のD-Dayにノルマンディに上陸してから数週間後に、フランス、ベルギー、ルクセンブルグ、オランダを侵攻する中、ドイツ軍は一斉に撤退を開始した。しかし、1944年9月になると連合軍は、第二次世界大戦が始まって以来、強固に守られてきたジークフリードラインに沿って、ドイツ軍の手ごわい防衛線に接近していた。連合軍のパラシュート大隊とグライダー大隊がオランダに降下して、ライン川を渡河すめために重要な領土と橋を侵攻した。

 イギリス軍とポーランド大隊のパラーシュート部隊の約1万人のイギリス人とポーランド人の部隊は、アーネムのライン川の最北端の橋を侵攻するために、イギリス軍とポーランド大隊のパラーシュート部隊の約1万人が9月17日に降下したが、アーネムの橋よりも約13kmも離反した。連合軍はライン川を渡河したが、3日以内にドイツ軍の猛烈な攻撃を受けて崩壊した。甚大な犠牲を伴ってライン川を引き渡った。アーネム周辺に上陸した1万人のイギリス空挺部隊のうち、約1,130人が死亡、約6,450人が捕虜となった。それ以外にアメリカ軍の約4,000人と約3,600人のオランダ市民が殺害された。アーネムの戦いで、ドイツ軍兵士は約1,300人が戦死して、約2,000人が戦傷した。戦場の兵士は、銃弾で引き裂かれ、略奪され、放置されるも、連合軍政府もドイツ政府が狂喜乱舞した。



 

2021年10月21日木曜日

満州事変の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で約8人の関東軍将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、気取ったポーズで写真撮影をした。

1931年9月18日の満州事変(九・一八事変)の直後から関東軍が占領した奉天にて、10月17日に奉天郊外で関東軍の約8人の将校らが殺害した約1人の中国人兵士の前で、日本刀を捧げて気取ったポーズで写真撮影をした。九・一八事変以降に、関東軍は奉天などで放火、殺人、売春、略奪などの戦争犯罪を行った。9月18日の夜に、関東軍は北大営を砲撃し、火薬庫は廃墟と化した。奉天市和平区の住民の多くの家が砲撃され、家が焼失した。被災した住民は、郊外に集まって避難して、家を出て関州に逃げた。奉天(現在の瀋陽)は、東北地方の最大規模の都市であり、東北地方の経済・文化・交通および商業の中心地であった。関東軍は吉林省の紅頂山に侵攻し、戦闘機が兵舎や民家を爆撃し、火の海が広がった。関東軍は、施設、学校、店、家などを焼き払った。

 満州事変は、1931年9月18日22時20分に、関東軍の約7人の日本軍兵士が、柳条湖の南満州鉄道の一部を爆破した。この爆発を合図に、関東軍は、直後に中国の東北軍の駐屯地である北大営に攻撃を開始した。9月19日午前0時20分、関東軍に、東北各地を攻撃する指令を出した。東北地方の関東軍は、素早く集中して瀋陽市を攻撃する命令をした。9月19日午前6時30分に、日本軍は奉天を占領した。9月19日には長春が、9月22日には吉林が陥落した。

 満州事変は、九・一八事変、奉天事変、柳条湖事変とも呼ばれる。1931年9月18日に、日本の関東軍が中国東北部を武力侵攻するために、奉天を突撃した。関東軍が意図的に起こして中国を武力で征服する中国への侵略戦争が勃発した。1932年2月には、中国東北部はすべて関東軍に陥落した。 その後、日本は中国東北部に満州国の傀儡政権を樹立して、約14年間にわたる中国東北部の植民地支配を確立した。中国東北部の約3,000万人以上の中国人は傀儡国家の奴隷としての辛酸をなめた。 

 九・一八事変は、中国の対日抵抗戦争の出発点であり、第二次世界大戦の太平洋戦争への起点となった。九・一八事変以降に、中国人民の抵抗戦争は、世界の反ファシズム戦争の初発となった。1931年の九・一八事変以降、国民党は無抵抗政策を続け、深刻な国難と救国の抗日運動が全国で展開された。国民党の指導の下、全国の学生、労働者、農民は、ストライキ、市場ストライキを行った。国民党政府に反対する請願やデモを行って、国民党政府の方針転換を要求した。




2021年10月20日水曜日

チェピエルフの近くの森では、ポーランド軍第74歩兵連隊の約250人以上のポーランド人捕虜を、ドイツ国防軍が大量虐殺した。

チェピエルフ(Ciepielów)の虐殺は、ポーランド侵攻中のドイツ国防軍が、1939年9月8日に捕虜を虐殺した戦争犯罪である。チェピエルフの近くの森では、ポーランド軍の第74歩兵連隊のポーランド人捕虜が、ドイツ国防軍により大量に虐殺された。虐殺された死者の数は約250人以上と推定された。9月1日にドイツ国防軍のポーランド侵攻から第二次世界大戦が勃発して、9月3日にイギリスとフランスが宣戦布告した。

 ポーランド軍がドイツ国防軍の約14人のドイツ軍兵士を待ち伏せして殺害して、ドイツ軍が約450人のポーランド軍兵士が捕らえられた。約250人のポーランド軍兵士に軍服を脱がせて、身分証明書を取り上げて、パルチザンの容疑者とした。兵士ではなくパルチザンとして即刻処刑を正当化した。チェピエルフ近郊のダブロワ村近くの人里離れた場所に強制連行した。約200人を機関銃で銃殺して死体を道路の溝に埋めた。その他の約50人を屋敷に強制収容して装甲車で砲撃された。反ポーランド主義(Antypolonizm)が、ポーランド人とポーランドに対する文化否定、偏見、差別および反動を形成して、第二次世界大戦の残虐行為を正当化した。

 1950年8月に、ミュンヘンのポーランド領事館に匿名の手紙が届いた。ドイツ軍兵士の目撃者のメモと2枚の写真が入っていた。手記を書いた匿名の著者は、銃声を聞いてこの場所に到着し、溝の中に300人ほどの死体を数えたという。同じドイツ軍連隊は、9月8日から数日間、チェピエルフとその周辺で、捕虜やポーランド人、ポーランド系ユダヤ人の民間人など、他にも数十人を殺害したとした。虐殺者数はポーランドの歴史学で広く受け入れられた。最も有名なワルシャワの「無名戦士の墓」にも記録されている。しかし、死体数が必ずしも捕虜の処刑だけでなく、誇張されていると、虐殺事件は近年さらに議論が混乱している。

 その他に、ポーランド人兵士が捕虜となった後に虐殺された事件は、約252人の捕虜が射殺されたシュラトフ、約300人の捕虜が殺されたチェピエルフ、さらに300人の捕虜が殺されたザンブルフなど、数多く存在する。ユダヤ人出身のポーランド人捕虜は日常的に選択されて、その場で射殺された。1942年にナチス・ドイツのヒトラーの命令は、軍服の着用に関わらず、敵の兵士を射殺する正当性を規定した。





2021年10月19日火曜日

ルソン島に上陸したアメリカ軍兵士は、1945年1月26日にフィリピンのジャングルで待ち伏せしていた8人の日本軍兵士を射殺した。

ルソン島に上陸したアメリカ軍兵士は、1945年1月26日にジャングルで待ち伏せしていた8人の日本軍兵士を射殺した。アメリカ軍は、山岳地帯に逃避した日本軍兵士に対して攻撃を続けた。激しい空襲により、日本軍の陣地付近にある森林は焼け野原となった。アメリカ軍はブルドーザーを使って軍道を建設して戦車も侵攻させた。

 アメリカ軍は1945年1月9日にはルソン島の北西部のリンガエン湾に上陸した。ルソン島に上陸するアメリカ軍に対して、日本軍の神風特攻の猛烈な自爆攻撃に遭遇した。護衛空母オマニーベイが神風特攻で破壊され、1月3日から1月13日までに神風特攻により合計約47隻が損傷して、4隻が沈没した。1月23日にクラーク・フィールド飛行場に到達したとき、ルソン島に上陸後に初めて日本軍による猛烈な攻撃に遭遇した。それから約1週間以上、日本軍は侵攻するアメリカ軍に対して頑強な戦いを続けた。アメリカ軍が飛行場を占領したのは2月2日であった。クラークフィールド飛行場は、占領前の数十年間アメリカの飛行場であった。

 太平洋戦争にて、ニューギニア島から南方戦線に、中部太平洋から東方戦線が、交差したフィリピンの戦いが勃発した。アメリカ軍は1944年10月17日にレイテ島に上陸した。日本軍の連合艦隊が10月20日にレイテ沖海戦に突入するも、アメリカ軍の猛攻で10月25日に壊滅した。日本軍は劣勢を挽回するために自爆攻撃である特別攻撃隊(特攻)が編成して10月25日から突入を繰り返した。

 ルソン島に上陸後には、首都マニラに向けて南方に迅速に侵攻した。マニラは掃討と焦土により、日本軍兵士だけでなく多数のマニラ市民が巻き沿いとなり甚大な犠牲を伴った。アメリカ軍は1945年3月4日までにルソン島のすべての重要な拠点を占領した。マニラ以外で生存した日本軍兵士は、北部と南東部の山岳地帯に逃避して補給もなく餓死や病死を伴いながら終戦後まで徘徊して持久戦に耐えた。ルソン島の戦いで、日本軍兵士は約217,000が戦死あるいは戦病死した。アメリカ軍は戦死が約26,310人と戦傷が約29,560人の犠牲を伴った。マニラ攻防により、民間フィリピン人が約150,000人が虐殺された。




2021年10月18日月曜日

日清戦争において旅順口の椅子山の要塞で、日本軍の攻撃で第3砲台の周辺に清国軍の兵士の死体と兵器が散乱した。

日清戦争において旅順口の椅子山で、日本軍の攻撃で第3砲台の周辺に清国軍の兵士の死体と兵器が散乱した。日本軍兵士の約15,000人と清国軍の約13,000人が、1894年11月21日早朝から旅順口で戦闘が勃発した。砲兵隊は案子山の砲台へ集中攻撃を加えた。清国軍の砲台も激しく応戦したが、日本軍が突撃して占領した。日本軍は、椅子山、松樹山、二龍山、東鶏冠山の砲台も集中砲火と突撃して翌日に陥落した。日本軍は、11月22日には清国軍の旅順要塞を占領した。

 清国軍は満州人による旧来の軍事組織である八旗を正規軍としていた。日本軍の犠牲は約40人が戦死して、戦傷者は約241人、行方不明は約7人であった。清国軍は、約4,500人が戦死して、捕虜が約600人に及び旅順要塞を撤退した。その後に近代化された日本軍は、終始優勢に侵攻を展開して遼東半島を占領した。1894年7月25日から1895年11月30日の日進戦争にて、日本軍の戦死者は約1,417人、戦病死者は約11,894人、戦傷病者は約3,758人であった。清国軍は戦死傷者が約35,000人に及んだ。

 しかし、タイムズ(1894年11月28日)とニューヨーク・ワールド(1894年12月12日)が、日本軍による旅順虐殺事件を報道した。旅順要塞が陥落した直後の11月23日から11月26日にかけて、日本軍は清国軍兵士の掃討中に、無差別に非戦闘の民間人、女子、幼児などを虐殺した。タイムズは日本軍は約200人の民間人、ニューヨーク・ワールドは約2,000人を虐殺したと報道した。ニューヨーク・ワールドは、「日本軍は11月21日に旅順入りし、冷酷にほとんど全ての住民を虐殺した。無防備で非武装の住人達が自らの家で殺され、その体は言い表すことばもないぐらいに切り刻まれていた。」と「3日間の虐殺によりわずか約36人の中国人のみ生存した」と記者のクリーマンが衝撃的に誇張して、国際世論を扇情する報道をした。国際的な世論は、次第に旅順虐殺事件は戦争ではつきものであって、欧米でも虐殺例があると風に変化した。1895年2月5日にアメリカ上院で不平等条約改正が批准されて、4月17日に下関条約が締結された。




2021年10月17日日曜日

ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察はロストフ・オン・ドンで、ソ連のパルチザンと共産党の幹部とて、約400人を獄中で処刑して虐殺した死体を集積した。

ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察はロストフ・オン・ドンで、ソ連のパルチザンと共産党の幹部であると容疑して、約700人のソ連の民間人を逮捕し、1942年8月2日までに約400人を獄中で処刑して虐殺して死体を集積した。1942年から1943年にかけて、ナチス・ドイツ軍の親衛隊の特殊行動部隊(Einsatzkommando)によって、約27,000人のユダヤ人の民間人が、ロストフ・オン・ドンの渓谷で虐殺された。ユダヤ人が大量虐殺された蛇の渓谷は、ロシア語でズミエフスカヤ・バルカ(Zmievskaya Balka)と呼称された。ズミエフスカヤ・バルカは、ロシアで最大のホロコースト犠牲者の埋葬地となった。

 ドイツ軍はバルバロッサ作戦でロシアに侵攻する最中に、ドイツ国防軍は1941年7月23日にソ連の赤軍から東ヨーロッパ平原南東部のロストフ・オン・ドンを再占領した。ドイツ国防軍の特殊行動部隊と秘密軍事警察は、ソ連のパルチザンと共産党の幹部であると容疑して、約700人のソ連の民間人を逮捕し、1942年8月2日までに約400人を獄中で処刑して虐殺した。

 さらにナチス・ドイツ軍の特殊行動部隊は、残存していた約2,000人のユダヤ人を、1942年8月11日午前8時にロスト・オン・ドンに集結させた。8月11日から8月13日にかけて、ロストフのユダヤ人男性を郊外の谷間にあるズミエフスカヤ・バルカに強制行進させた。アンザックはユダヤ人男性を砂岩の採石場と近くの果樹園で虐殺して、その死体をズミエフスカ・バルカ渓谷の巨大な穴や溝に埋めた。女性・子供・老人は、トラックで強制連行して、毒ガスで処刑して、死体を同じ蛇の渓谷に埋めた。その後にも、少なくとも約15,000人ものユダヤ人が大量虐殺されて、その後も1943年2月までロストフ・オン・ドンで虐殺は継続されて、約27,000人が虐殺された。ロスト・オン・ドンの約53,000人の民間人が強制労働のためにドイツに強制連行された。ロストフ・オン・ドンは1943年2月14日にソ連の赤軍によって解放された。

 ソ連当局は、ウクライナのキエフでのバルビヤール渓谷の大量虐殺は喧伝したが、反ユダヤ主義のためにロストフ・オン・ドンの大量虐殺は秘密裏にされた。戦後、ソ連当局はズミエフスカヤ・バルカをゴミ捨て場にして無視した。1949年に、ユダヤ人コミュニティが行った毎年恒例の追悼式は禁した。1975年5月9日なって、ナチス・ドイツによる犠牲者の記念碑がズミエフスカヤ・バルカに建立された。1990年代から2000年代に、記念碑と博物館は機能せず、小道のアスファルト舗装が崩壊して、永遠の火にガスが供給されなんかった。2009年になり修理と修復作業が始まり、2009年11月末までに復元された。




2021年10月16日土曜日

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれ、半裸で胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。

長崎原子爆弾の被爆により息もたえだえの被爆者の青年は、全身が焼きただれて、半裸のままに胸部から両上肢の火傷にガーゼを当たられた。被爆者はほとんど全裸のままで、衣服はちぎれて、熱傷をうけた皮膚ははがれて真っ赤な肉芽が露出し、全身がやけこけて、胸部の肋骨が浮き出た。1945年9月23日頃には、窓もなく猛暑の中で、床の上に足の踏み場もない位に被爆者が横たわっていた。消毒薬さえなく海水を汲んできては煮沸して使用した救護に携わった医療関係者が証言した。特設救護病院となった新興善国民学校に重度の原爆症の被爆者を、トラックから降ろしては、担架で病室に運んだ。

 長崎原子爆弾の爆心地から約3kmの新興善国民学校の教室が、直ちに救護所の病室として使用された。被爆直後から救護所となり、8月10日午後に針尾海兵団救護隊約249人が来院して宿舎にした。被爆後に日を追って被爆者が急増して、各地から医療関係者が派遣されて、1945年9月16日に特設新興善救護病院となった。特設救護病院として10月初旬まで使用されて、10月6日に新興善国民学校に、長崎医科大学の移管決定して10月23日に移設した。

 長崎市内の新興善国民学校(後の新興善小で、1996度末に閉校)は長崎市内でも強固な小学校の一つだった。長崎県庁から市役所へとつながる中心市街の近くの高台に位置した。その一帯は長崎原子爆弾による爆風、熱線など、新興善国民学校はにその直接的被害は避けられた。しかし、長崎原爆により発生した2次火災により広い範囲にわたり類焼するも、同校は鉄筋コンクリートで堅固だったため類焼から免れ、原爆直後から救護所として活用された。教室を診察室や入院患者の病室、被爆者の生活の場として使用された。

 本格的に救護所として使用することに伴って校舎での授業が一時閉鎖となり、新興善小学校の机や椅子を運び出すために校舎内から運動場に移設された。同校の学童は長崎公園(上西山町)での青空授業から、後には晧台寺(寺町)を教室にして授業が始まった。元の新興善国民学校の校舎で本格的に授業が再開されたのは1951年12月から再開された。1997年3月31日に新興善小学校は、統廃合により閉校した。2008年1月に、新興善小学校の校跡地に長崎市立図書館が開館して、救護所メモリアルを再現した。










2021年10月15日金曜日

アメリカ軍からの砲火により、沖縄住民の母親と子供が大火傷した母親は、必死に疼痛を辛抱して、子供を防御して避難した。

沖縄戦争にて、アメリカ軍が沖縄本島に1945年4月1日午前8時30分に上陸した。上陸したアメリカ軍からの砲火により、沖縄住民の母親と子供が大火傷した。重度の火傷に傷ついた母親は、必死に疼痛を辛抱して、子供を防御して避難した。アメリカ軍に救護されて担架の上で、アメリカ軍第10軍の衛生兵が、母親と子供の火傷の手当を受けた。上陸する6日前から連合軍艦隊は沖縄島に到着し、空と海から砲撃を開始した。沖縄本島への上陸作戦で、アメリカ海軍砲艦は海岸地帯にロケット砲を撃ち込んだ。海岸地帯での日本軍の抵抗を排除するため、上陸に先立って沖合の戦艦や巡洋艦から約45,000発の艦砲射撃を浴びせ、ロケット弾約33,000発、迫撃砲約23,000発を撃ち込んだ。空母から飛び立った艦載機による銃爆撃も行い、鉄の雨を降らせた。

 第10軍は沖縄本島の中央南部を比較的容易に掃討し、上陸から数時間以内に嘉手納と読谷の空軍基地を占領した。日本軍の抵抗が弱いので、沖縄北部の占領直ちに進めた。主な上陸作戦は、4月1日に第24軍は沖縄西海岸の渡具知海岸に上陸した。第2軍は南東海岸の港川海岸にて、日本軍を欺いて予備軍の参戦を遅らす示威活動を行った。アメリカ軍は4月18日までに沖縄北部で日本軍に勝利したが、南部で猛烈な戦闘が続いた。沖縄戦では、沖縄の住民約94,000人、沖縄出身者もふくむ日本軍約94,136人、アメリカ軍約12,520人が戦死した。

 沖縄戦(1945年4月1日から1945年6月22日)は、第二次世界大戦における最後の大規模な戦闘であり、最も血なまぐさい戦闘の一つとなった。1945年4月1日(イースターサンデー)、アメリカ海軍と約18万人以上のアメリカ軍の部隊が、日本本土への最後の攻撃となった太平洋の沖縄島に上陸した。この侵攻は、沖縄を含む琉球列島への侵攻と占領を目的とした。結果的には連合軍の勝利となったが、神風戦闘機や雨天、陸海空での激しい戦闘により、双方と沖縄民間人に多くの犠牲者が出た。

 4月1日に約1,500隻近い艦船と延べ約54万人のアメリカ軍兵士により沖縄本島に上陸を開始した。4月1日の夜明けを迎えると、日本軍の防衛力を弱体化するために、アメリカ軍の第5艦隊が軍隊の上陸を支援するための史上最大の砲撃を開始した。日本軍は、約13万人の兵力で沖縄を防衛して、不特定多数の徴兵された沖縄民間人や非武装の防衛隊も含まれた。




2021年10月14日木曜日

ダッハウ強制収容所には、望楼、電気柵、約3mの有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。

ナチス・ドイツのダッハウ強制収容所には囚人の逃亡を防ぐために、収容所内には見張りのいる望楼、約3mもの電気柵や有刺鉄線などが設置されて、逃亡ようとした女性囚人が銃殺された。夜は柵が照らされ、囚人が電気柵に近づくとすぐに、親衛隊は警告なしに望楼から射撃した。収容所管理局に登録された少なくとも約32,000人の囚人がダッハウ強制収容所で死亡した。名前がわからない数千人の不明の犠牲者もあり、死者の数は約41,500人以上にのぼると推定された。1933年3月22日から1945年4月29日まで、ナチス政権のほぼすべての約12年間、最も長く運営された強制収容所となった。

  1933年3月22日に、バイエルン州の政治警察長であり、ミュンヘンの警察総裁であったハインリッヒ・ヒムラーの命令により、ミュンヘン近郊北西約20kmのダッハウ近郊に、捕虜の強制収容所(KZ)が設立された。1933年6月からは、テオドール・アイク(1892-1943)の管理下に置かれ、火薬工場の跡地にある強制収容所をモデル・プロトタイプ収容所として設置した。設計したダッハウの建物の配置、サービス、収容所の規則、管理、司令官室などの建設見本は、その後のすべての強制収容所のモデルとなった。ダッハウの最初の囚人は、共産主義者、社会民主主義者、労働組合員、時には自由主義や保守主義の政治家など、ナチス政権に抵抗する反対勢力であった。その後は、ユダヤ人、犯罪者、エホバの証人、抵抗キリスト教徒、シンティ・ロマ、同性愛者が収容された。

 1938年11月9日、10日のポグロムの夜だけで、シュッツバッフェル(SS)は約1万人のユダヤ人捕虜をダッハウに強制連行した。1939年3月にチェコスロバキアが崩壊した後に、1939年9月に第二次世界大戦が始まると、主に外国人の捕虜がダッハウに強制連行された。1939年10月末から1940年2月中旬まで、ダッハウ強制収容所は親衛隊(SS)部隊の訓練のために閉鎖された。囚人たちはこの期間は、他の強制収容所に分散された。1941年10月からは、約数千人のソ連軍の捕虜がダッハウ強制収容所に強制連行されて、そこで銃殺された。1942年の冬に、ダッハウ強制収容所の親衛隊(SS)医師たちは、囚人を対象とした医学人体実験を始めた。毒薬を試すために人工的に痰を出させ、負圧、高度飛行、低体温などの実験も行われた。1942から1943年に、親衛隊(SS)はダッハウ強制収容所の火葬場に毒ガス室を設置した。ダッハウ収容所内のすべてのユダヤ人囚人は、ヒムラーが親衛隊(SS)総統として出した命令に基づいて、1942年10月5日以降はアウシュビッツ強制収容所に送還された。

 ダッハウ強制収容所の約170の支部収容所は、第二次世界大戦の開戦前は、囚人たちは主に親衛隊(SS)が経営する手工業、道路建設、砂利採取、湿原の耕作などに強制労働された。1942年以降は、主に軍需品の生産に強制労働された。ドイツ軍による空爆の増加に伴って、1944年の夏に、ダッハウ強制収容所の監督者は戦闘機の生産を地下に移設した。そのために、東欧の強制収容所からユダヤ人を中心とした約3万人以上の囚人が、ダッハウ強制収容所に強制連行された。バイエルン州東部のランツベルクとミュールドルフにある2つの大規模な支部収容所では、強制収容所の囚人たちが巨大な地下工場の建設を始めた。

 連合軍の接近によるダッハウ強制収容所の解放を隠滅するために、収容所の監督者は1945年4月26日に約7,000人の囚人を死の行進で南下させて、2日後には強制収容所を出た。1945年4月29日に、ダッハウ強制収容所はアメリカ軍によって解放された。1933年から1945年の間に、約18,800人以上の人々がダッハウ強制収容所に投獄された。連合軍は解放後に、アメリカ軍は1948年のダッハウ戦争犯罪裁判が終わるまで、親衛隊(SS)隊員を収容した。 その後、元囚人の収容施設は数年間、難民や避難民の避難施設として使用された。1960年に閉鎖されて、旧火葬場の建物に暫定的な博物館が開設され、5年後には博物館付き記念館が開設された。




2021年10月13日水曜日

硫黄島の戦いで1945年3月9日にアメリカ軍兵士は、機関銃座が崩壊されて戦死した日本軍兵士の死体のそばで、戦場の狙撃手や潜伏者を慎重に監視した。

太平洋戦争の硫黄島の戦いで、1945年3月9日にアメリカ軍により日本軍の機関銃座が崩壊された。アメリカ軍兵士が、火炎放射器により焼き殺されて戦死した日本軍兵士の死体のそばで、硫黄島で日本軍の狙撃手や潜伏者がいないか、慎重に前方の地形を監視した。日本軍兵士は多大な犠牲を伴ってアメリカ軍基地に突撃して、突入した各所で白兵戦が勃発した。

 日本軍は地下陣地をトンネルでつなぎ、思わぬ場所から攻撃を仕掛けてアメリカ軍を苦しめた。穴は非常に広いが、日本軍兵士が出入りするために残した地下壕の穴は非常に小さく、日本軍がアメリカ軍に忍び寄るのを容易した。アメリカ軍は地下壕の穴の弱点を突いて、穴に隠れていた日本軍兵士を一掃した。トンネルの建設に使われたコンクリートは、地下壕のトンネルの入口を塞ぐためにも使われた。さらにアメリカ軍は各洞窟の中に、火炎放射器、手榴弾、海水などを流し込み、あるいは大量のガソリンを入れて放火して、最終の仕掛けを始めた。満員になった洞窟に手榴弾が投げ込まれ、洞窟は一瞬にして燃え上がり、残っていた日本軍兵士のほとんどを消し去った。アメリカ軍は砲撃では破壊できないので、地下壕の穴をすべて塞いで、日本軍兵士に空気の流入せずに窒息死したり、物資の支援を受けられずに生きたまま餓死した。

 1945年2月19日から、日本軍とアメリカ軍の間で硫黄島の戦いが勃発した。硫黄島の戦いが始まった5日後の1945年2月23日、6人のアメリカ軍兵士が、摺鉢山の頂上に星条旗を掲げるも、3人は戦いの終結までに戦死した。アメリカでは、毎日学校で国歌を歌ったり、国旗の前で直立したり、忠誠の誓いをすることもある。逆説的に戦争の最中は敵であった人々は、戦争が終わったら、神格化した国旗と国歌に仲間意識と強制迎合が生まれた。戦争により国旗と国歌なども個々人の思想にまで介入し強制して、人民である限り一人の人格を踏みつぶす生命の危険を伴った。1945年3月26日未明に、栗林忠道は自ら約350人の日本軍兵士を率いて、飛行場周辺に駐留したアメリカ軍兵士に最後の全滅する攻撃を仕掛けた。日本軍は捕獲された約1,023人を除いて、散り散りになっても日本軍兵士の中には、全滅するまでより多くのアメリカ兵を殺すためには何でもする日本軍兵士もいた。




2021年10月12日火曜日

イラク軍はアマラーバスラ戦線にて、1984年2月24日にバスラ近郊のバイーダ村を襲撃して、塹壕にいたイラン軍兵士を殺害した。

イラク・イラン戦争にて、イラク軍はアマラーバスラ戦線にて、1984年2月24日にバスラ近郊のバイーダ村を襲撃して、塹壕にいたイラン軍兵士を殺害した。イラン軍は、イラク軍の防衛網を越えて、石油が豊富なマジュヌン島を占領した。バスラ近郊では、イラン軍によって繰り返し攻撃され多くの激しい戦闘が勃発した。イラク軍は1984年3月6日から、マジュヌン諸島で大量の硫黄マスタードと神経ガスの毒ガスを使用して大規模な生物化学攻撃を開始した。それ以降、イラク軍の化学兵器は、イラン軍と一般市民に対して1988年8月20日の終戦まで使用された。

 イラン軍は、1984年2月14日から3月19日までのへイバル作戦(Operation Kheibar)で、イラン・イラク戦争のイラク南部のバスラ近郊の湿地帯の戦い(Battle of the Marshes)にてイラン軍が攻勢した。イラク軍は、イラン軍のバスラへの大攻勢が失敗に終わった後に、ハウィゼ湿原の湖畔に戦線を張り、バスラへの攻撃の場を確保した。イラン軍は経済制裁を受けて、アメリカやイギリス製の軍装備品が深刻に不足して、多くの犠牲者を出した。イラン軍はパスダランとバシジの熱狂的な軍隊を有したが、十分な量の砲兵、航空支援、戦車で後方支援されなかった。

 イラン軍は、1984年2月14日からイラク軍の防衛網をかいくぐり、石油資源の豊富なマジュヌーン島に乗り込んだ。カイバル作戦は、イランにとって初めての戦略的攻勢だった。イラン空軍の戦闘出撃の回数は、1日平均約100回と不十分であった。イランは戦闘機が不足して、戦闘ヘリコプターで部隊を支援した。最終的には、イランはハウィゼ湿地帯を制圧して、イラク軍をマジュヌーン諸島から撤退させて、イラク軍に大きな打撃を与えた。イランは、湿原の戦いの最後の攻勢を開始した。イランは新たな攻撃を開始して、約25万人のイラン軍が、ハウィゼ湿地帯から西のアルクルナ方面から南のバスラ方面に向かって侵攻した。戦闘機の後方援を受けられず、装甲や砲兵も不足した。イラク軍は、イラン軍の非常に弱体化した装甲・機械化部隊による大規模な攻撃を撃退できた。イラク軍はイラン軍をハウィザ湿地帯に封じ込めた。

 最終的に、イランは湿原の戦いで約4万人の犠牲者を出し、イラクには約1万2千人の犠牲者を出した。人口の少ないイラク軍にとっては、1万2千人でも甚大な犠牲者であった。湿地帯の戦いの後に、イランはバドル作戦で、バグダッドとバスラの高速道路を奪おうとしたが、失敗に終わった。湿地帯の戦いでは、イラクは化学兵器による攻撃を併用してマジュヌーン島からイラン軍を追放した。

 アメリカとイランは、1979年にホメイニが主導する宗教革命が勃発し、イランがパーレビ王朝を倒して反米反西欧国家を樹立して以来、ずっと対立した。イランの台頭は、イランと伝統的に領土や宗教で対立してきたイラクに大きな危機をもたらした。イラクの指導者サダムは、アラブと欧米の両陣営の支援を得れると確信して、イランがまだ革命後の不安定な状態であった1980年に奇襲攻撃をかけた。約8年間もの石油取引が不安定となり過酷なイラン・イラク戦争が勃発した。1980年代の冷戦時代で悲惨なイラン・イラク戦争は、塹壕戦、兵員の戦死傷、毒ガス戦、血の山、特攻など犠牲をもたらした。1980年9月22日から1988年8月20日まで勃発したイラン・イラク戦争にて、イラク軍は約750,000人以上が戦死して、イラク軍側は約375,000人以上が戦死した。




2021年10月11日月曜日

ザールブリュッケン橋頭堡の戦いにて、ランパデンで砲撃されたアメリカ軍の戦車は、装甲に弾穴が残存して戦車の前方に2人のドイツ軍兵士の死体が散乱した。

第二次世界大戦の西部戦線にて、アメリカ軍の戦車が、1945年3月9日にザールブリュッケン橋頭堡の戦いで撃破された。ランパデン都市で砲撃された戦車の装甲の前面シートには砲弾による2つの弾穴が残存した。その戦車の前方に死んだ2人のドイツ軍兵士の死体が散乱していた。その戦車の側面から、アメリカ軍兵士が2人のドイツ軍兵士を狙撃して殺害した。ドイツ軍が要塞化した国境の防衛戦線を突破して、ライン川の下流域に迫った。3月9日にアメリカ軍によるサーブリュッケン橋頭堡の戦いで、戦車が2発の砲弾が貫通して戦車が破壊された。アメリカ軍将校がランパデンの街路の隙間を侵撃した。

 アンダートーン作戦とは、第二次世界大戦中の1945年3月に、連合軍のドイツ侵攻作戦の一環として行われた大規模な攻撃であった。ドイツのザールブリュッケンからフランスのハゲナウ南東の地点までの約75kmの区間を並行して攻撃した。ライン川に沿ってアルザス地方北東端のラウターブールに至る狭い地域であった。主力はカイザースラウテルンの回廊の中央部に設置された。ザール・プファルツ州を占領するだけでなく、マインツとマンハイムの間のライン川に橋頭堡を築いた。アメリカ軍第3軍は、左翼を守るためにモーゼル川を越える陽動攻撃に限定された。

 アメリカ軍第3軍が3月9日にドイツの通信線を蹂躙して、アンダートーン作戦は3月17日からドイツ国防軍の防衛線を突破して、戦線をカールスルーエ周辺のライン川まで押し上げた。アメリカ第3軍の迅速な侵攻により、ドイツ国内のライン川西岸までの連合軍の進撃は完了した。その後に、ライン川を越えてドイツに向かい、ニュルンベルク、そしてミュンヘンを占領した。アンダートーン作戦は3月8日から3月24日まで勃発した。連合軍は、約3,540人が死亡して、約13,680人が戦傷して、ドイツ軍は約22,000人が戦死傷した。



2021年10月11日  Japan No War NGO  日本平和市民連盟
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2021年10月10日日曜日

韓国人の家族と親族は、朝鮮戦争中の1950年9月から10月に大田の集団墓地から発掘された悲劇の身内の死体を悲しみ探索した。

韓国人の家族と親族は、朝鮮戦争中の1950年9月から10月に大田の集団墓地から発掘された悲劇の身内の死体を泣きながら探索した。韓国軍と警察はの刑務所を空にし、韓国人の収容者を並べて頭を撃ち、死体を急ごしらえの集団墓地に捨て、廃坑や海にも投げ込まれた。アメリカ軍は、韓国軍による大規模な処刑の機密情報の写真を撮影した。大虐殺を撮影した写真は、アングルや構図から虐殺の大きさと細部を捉えた。男性の死体群が平行に横たわっていた。カメラの距離から、撮影者は、カメラのの焦点距離から死体に数メートル以内に近づいた。横たわった死体は、顔面を激しく殴られ、両手を縛られていた。韓国軍と国家警察が背後から歩み寄り、後頭部にライフル銃を向けて発砲した。丘の中腹に散らばった数多くの虐殺された死体が撮影された。浅い溝や急いで掘った集団墓地の中に直立した死体が無残な姿で撮影された。

 朝鮮戦争にて1950年7月初旬に、韓国の中央部に位置する大田で、韓国軍が数千人の政治犯の容疑である韓国人を即決で処刑した。大田の大虐殺により、約1,800人から約7,000人も殺害された。ソウルが北朝鮮軍に陥落した後の1950年7月に、アメリカ軍の監視下で、韓国軍は大田周辺で数千人を虐殺した。犠牲者の多くは、約30万人もの文盲の農民を入会させて、左翼思想に洗脳する全国的な再教育組織である民族指導連盟の会員であった。1950年6月下旬に、北朝鮮軍が首都ソウルを占領し、民族指導連盟の会員を拘束してから、韓国軍による大量処刑が勃発した。アメリカ軍は、国連軍司令官ダグラス・マッカーサー元帥が共産主義者が行った残虐行為を選択的に強調して、韓国軍が行った虐殺を黙認した。大田を奪還していたアメリカ軍は、1950年9月に北朝鮮軍による右翼思想の政治犯の処刑を公表して、アメリカ軍は北朝鮮軍による虐殺事件に転嫁した。韓国軍の戦争犯罪を写真や証言の報道をアメリカ軍の検閲と糾弾して、保有する証拠記録をすべて機密扱いにした。半世紀の間、アメリカ軍の公式見解は大田の虐殺をすべて北朝鮮の仕業とした。戦後の韓国政府は、遺族や目撃者に恐ろしい事実を隠蔽した。

 2000年初頭になり、AP通信が老斤里でのアメリカ軍による民間人殺害を報じた。アメリカ国立公文書館で機密解除されたアメリカ軍の記録から、韓国が大田で政治犯の容疑者の韓国人を即時処刑したわずかな証拠資料が出てきた。その後10年以上にわたり、韓国真実和解委員会(SKTRC)などによる調査が行われ、韓国政府が行った過剰な無差別殺戮の実態であった。調査委員会は、韓国の人口約2,000万人の内で、少なくとも10万人が処刑されたと推定した。




2021年10月9日土曜日

被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となり、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋で、次々と病理解剖された。

 被爆して救護所で死亡した被爆者の死体は、原子爆弾の影響を調査研究する対象となった。草津国民学校救護所に救護所に臨時病理解剖所が設置された。1945年10月13日に、京都府立医科大学の荒木教授により、夏日で蝿が回って悪臭が漂う不潔な木造の仮設の小屋などで、次々と病理解剖された。死体を仰向けにして、胸部から腹部から下腹部まで切開して、肝臓などの内蔵を包丁などで摘出しは、病理解剖標本を作成した。顔面には、タオルを掛けて表情を伏せた。半強要した回収した約200人を超す死体の病理解剖した結果は14冊の報告書に集積された。被爆者の解剖標本は、ワシントン郊外にあるアメリカ陸軍病理学研究所に、原爆に関する調査資料が収集された。既に病理的調査が終了した病理解剖標本は、その一部が1973年に日本の広島大学医学部と長崎大学医学部に返還されて保管された。

 アメリカ原爆調査団長のフォターソン大佐は、原爆の医学的影響として6冊の報告書を報告した。政治的な配慮から機密解除は遅延した。第6巻に、子供に対する原子爆弾の影響を記録した。日本人の医療関係者が集積した約17,000人もの被爆した子供のデータ(広島と長崎の児童被爆者)が集積された。爆心地からの距離と死亡率を示した死亡率曲線を導いていた。原子爆弾の驚異的な殺傷能力を実証して、極めて重大な軍事機密情報となった。原子爆弾の影響に基づいて、アメリカ軍は原爆攻撃の効果を検証した。モスクワなら約6発、スターリングラードは約5発、ウラジオストックなら約3発の原子爆弾で崩壊すると予想していた。

 東京大学教授の都筑正雄が、世界で初めて原子爆弾症をカルテに1945年8月24日に記載した。文部省学術研究会議の原子爆弾災害調査特別委員会の医学部門長として8月30日に広島に赴任した。GHQは1945年11月から原爆に関する研究報告と情報の共有も禁止した。調査団の調査資料は全てかせアメリカ軍に没収された。被爆者に対する人体実験と生体変化も最大限に実施された。















2021年10月8日金曜日

日本軍は平津作戦後に平津から南進して、日本軍の工兵隊はトーチカを含めて爆破して、1937年9月14日に殺害された中国国民党軍兵士の多数の死体が平津地方に散乱した。

日本軍は日中戦争にて、平津作戦から1937年9月14日に北支那方面軍が、北平(現在の北京)・天津の平津地方からより南進の侵攻を開始して、保定を攻略した。日本軍は平津作戦後に平津から南進して、中国国民党軍を追撃した。中国国民党軍の一部は撤退に遅延して、日本軍の工兵隊によって、トーチカを含めて爆破された。1937年9月14日に殺害された中国国民党軍兵士の多数の死体が平津地方で散乱した。

 日中戦争は、1937年7月7日に、盧溝橋の発砲事件から勃発した。関東軍は、7月11日に華北に派兵を命令された。平津作戦により、日中戦争初期の北支事変にて、日本軍は1937年7月28日から7月30日に中国国民党軍に対して戦闘した。7月30日までに、天津地方を占領して一時的に停戦した。日本軍は盧溝橋事件の停戦協定の締結後に、北支一帯に駐屯する軍隊を増強した。一方の中国国民党軍も小競り合いを繰り返し、両軍に緊張状態が高まった。7月25日に夜に日本軍の一部が廊坊に侵入し、7月26日には廊坊を占領した。1937年7月26日に北平(現在の北京)で広安門事件で、中国国民党軍が日本軍を攻撃を加え、日本軍は総攻撃を決定した。

 平津作戦により、日本軍は直ちに7月28日に北平(現在の北京)を陥落した。1937年7月29日には、北京の西の通州で、支那人部隊が数百人の日本人居留民を虐殺した通州事件が勃発した。平津作戦により、日本軍は北京と天津にわたる平津地方を占領して、次第に本格的な日中戦争が中国にて全面的に勃発した。日本軍は7月28日に北平を、7月30日に天津を占領した。日中戦争が非公式に勃発した1937年には、中華民国の金融・軍事拠点であった都市は北京とは呼称されず、中国語で北の平和である北平の名称であった。




2021年10月7日木曜日

イランのハマダンで反ホメイニ派のイラン人は、1982年にクレーンで高度に吊り上げた絞首刑による死刑を執行された。

イランのハマダンで反ホメイニ派のイラン人は、1982年に絞首刑による死刑を執行された。警察官が 政治犯として首に縄をかけて、クレーンで高度に吊り上げた。1979年に政権を奪取して以来、イスラム共和国はイランで死刑を執行し、何千人もの政治的反体制派や支配に抵抗するイラン人を拷問して殺害した。1982年から1986年に、約11,000人以上の政治犯や囚人が、イランの刑務所で銃殺や拷問により殺害された。1978年1月7日の預言者への罵倒などの屈辱とイスラム教の冒涜から反イラン王朝革命が勃発して、1979年2月1日にアヤトラ・ホメイニー師がテヘランに戻って終結した。

 イランでは長年にわたり死刑制度が普及して、1979年のイラン革命以降に、死刑数は急激に増加した。革命直後、イスラム共和国の新政府は、イスラム教の宗教指導者であるシャーに対して人権問題への批判を支持したイラン人たちが、次々と死刑を執行された。革命後の最初の1979年には、国外に逃れられなかった旧政権の政治家や将軍、秘密警察が多数処刑された。イスラム革命後の2年間は、死刑執行数は数百人程度であったが、1981年に野党派に血なまぐさい弾圧と、6月には治安部隊と野党集団(特にPMOI)との衝突して、死刑数は急激に増加した。1981年には約2,616人の死刑執行が記録された。裁判は略式で、被告は弁護士を選任できず審議もなかった。1981年の犠牲者には、多くの少年と多くの女性が含まれた。

 イラン・イスラム共和国(IRI)は現在、死刑執行数では中国に次いで世界第2位、一人当たりの死刑執行数では世界第1位となっている。世界死刑反対連合によると、イランでは2007年に少なくとも3172人の死刑が執行され、2006年の約2倍、2005年の約4倍となった。2008年には、少なくとも346人の死刑執行が記録されて、2009年1月から3月末までに、アムネスティ・インターナショナルが記録した死刑執行件数は120件である。

 イランでは、様々な犯罪が死刑の対象となっている。その範囲は、多くの性犯罪から、飲酒、窃盗、麻薬密売、殺人、その他の特定の犯罪、人や神への冒涜、地上の腐敗など、武装強盗から政治犯罪や経済犯罪もスパイ活動まで多岐にわたる。イスラム共和国には、国内外で執行した超法規的処刑の長い歴史がある。1998年秋までの数年間にイラン国内で処刑の数は、約80~140件にのぼり、海外での死刑執行も含めると、最低でも約400に達する。刑務所に拘束中の死亡は、イラン・イスラム共和国では非常に深刻な人権侵害である。




2021年10月6日水曜日

アンツィオの戦いが勃発して、泥だらけの街中で、連合軍兵士たちは殺害された連合軍兵士の死体を処理するために担架に乗せた。

第二次世界大戦のイタリア戦線にて、アンツィオの戦いが勃発して、泥だらけのアンティオの街中で、連合軍兵士たちは殺害された連合軍兵士の死体を処理するために担架に乗せた。このひどい戦闘の期間は、アメリカ軍は約17%の死傷者を出し、イギリス軍は27%の犠牲を伴った。連合軍は約7,000人が殺害されて、約36,000人が戦傷あるいは行方不明となった。ドイツ軍は、約5,000人が殺害されて、約30,500人が戦傷あるいは行方不明となり、約4,500人が捕獲された。アンツィオの戦いは、1944年1月22日から1944年6月4日まで勃発した。連合軍は1943年9月3日にイタリア本土南部に上陸していたが、遅々として侵攻できなかった。ドイツ軍は防衛線を軸に、連合軍を巧妙に遅延させた。1943年12月までに、連合軍はイタリアの首都ローマの南に位置するグスタフ・ラインに到達するも、突破できなかった。

 1944年1月22日に連合軍は約36,000人の兵士と3,200台の車両をアンツィオに上陸して集結した。初日の連合軍の死傷者は過小であり、連合軍は死者約13人、負傷者約97人、ドイツ軍は約200人が捕虜となった。ドイツ軍は素早く反応して、アンツィオ周囲の道路を防御した。イタリアの後方地域を強化するために、1月24日までに約4万人以上のドイツ軍兵士が集結した。その4日後の連合軍の侵攻はいずれも頓挫した。2月3日にドイツ軍は全面的な攻撃をして、2月4日にはカンポレオーネ付近の連合軍の前線が崩壊してドイツ軍に包囲された。ドイツ軍は数日間にわたる激しい砲撃戦して、2月7日に新たな攻撃をした。2月11日に連合軍は反撃を開始するも、ドイツ軍の防御で失敗した。2月16日にドイツ軍は、連合軍をアンツィオ海岸近くまで追い込んだ。連合軍は2月20日までにドイツ軍の進撃を止めた。この4日間だけで、アンツィオでの連合軍の死傷者は約3,500人、ドイツ軍は約5,400人に達した。2月22日からはドイツ軍はアンツィオの戦線を親衛隊の下に戦うイタリア軍で強化して、戦線は停滞した。

 1944年5月中旬には、アンツィオにおける連合軍の戦力は約15万人に達した。5月23日に連合軍砲兵がドイツ軍の戦線を砲撃し、アンツィオから連合軍が突撃した。初日の攻撃は双方にとって甚大な犠牲を伴って、特にドイツ軍は50%の死傷者を被り致命的となった。連合軍はアンツィオ海岸沿いに侵攻して、5月25日にチステルナを攻略して、ドイツ軍部隊は崩壊した。5月30日には、ドイツ軍はイタリアのルート6道路に沿って撤退できた。ヒトラーはドイツ軍はローマに留まる理由がないと6月2日に撤退を命令して、さらに北部の防衛線の補強に回した。アンツィオを攻略した後に、連合軍は6月4日にイタリアの首都ローマを解放した。




2021年10月5日火曜日

ブナ・ゴナ地区にて、1942年12月16日に日本軍兵士が、パブアサ戦場で自殺するために縄を身体に巻きつけたままで死亡していた。

太平洋戦争のニューギリア戦いでブナ・ゴナ地区にて、1942年12月16日に日本軍兵士が、パブアサ戦場で自殺するために縄を身体に巻きつけたままで死亡していた。ブナ地区とゴナ地区での日本軍兵士は、全員が死ぬまで戦闘する玉砕の戦場となった。日本軍兵士は死ぬまで抵抗をやめることなく、そのために連合軍は多くの損害を出しつつあり。日本軍側が完全にゼロになるまでは勝負はつかぬ様相を呈した。厳しい戦闘に遭遇して、地形、重火器の不足、補給物資の不足によって、困難な状況はに落った。死地で戦う日本軍によって、11月19日から戦況が悪化して、後2週間にわたり攻防を繰り返した連合国軍側はほとんど進展せず、死傷者の増加にも直面した。

 ブナで見つかった日本軍兵士の日記には、12月1日から「過去4日間、援軍を待っていた」「私の体はニューギニアに埋葬され、ブナの土壌の肥料になる」「今、私たちは死を待つだけです。」と悲壮感に満ちた。オーストラリア軍兵士は、「原始的な沼地、じめじめとした静かな雑草、大量の犠牲者、日本軍の戦意の固さ、日本軍兵士はとって死が唯一の結末であった。恐怖の戦いを、不本意ながらも戦争中の最も過酷な悪夢を思い出した。」とある。1942年12月5日から、デュロパ農園から連合軍の攻撃が始まり、木の狙撃兵、爆発物を持った歩兵、木の切り株を掃討した。連合軍は迫撃砲による激しい砲撃を受けて、ブナ村を占領した。12月15日から18日までに、アメリカ大隊軍は、前線を越えて日本軍に対して侵攻した。オーストラリア軍も約3分の1が死傷者になった。ブナだけでも、約2,000人の日本軍のうち、約1,450人が戦死あるいは行方不明となり、ジャングルや海でさらに多数が戦死した。連合国兵士の約620人が死亡して、アメリカ軍は353人、オーストラリア軍は267人であり、さらに約2,065人が戦傷し、約132人が行方不明となった。

 日本軍は、ブナ地区に1942年7月21日に日本軍が上陸していた。オーストラリア軍と日本軍の連合軍は、ニューギニア島のブナの南東約16kmのオロ湾に1942年11月16日に上陸した。その後11月中旬から、オーストラリア軍とアメリカ軍がブナ地区とゴナ地区へ向けて侵攻した。ゴナ地区の付近のバサブア地区において日本軍と激突した。連合軍は攻勢を強めて、12月8日にパサブア地区の日本軍兵士は、全員が玉砕して戦死した。さらに1943年1月2日には、連合軍によりブナ地区の日本軍兵士も全員が戦死した。最後に残ったブナ地区とゴナ地区の中間のギルワの日本軍兵士は、玉砕を避けてクムシ河口に撤退した。南海支隊のブナ地区に上陸以降の一連の地上戦闘により、参戦した日本軍兵士約1万1,000名のうち約7,600人が戦死あるいは戦病死した。ブナ、ゴナ、ギルワ地区の戦いにて、連合軍による日本軍兵士の捕虜数はわずか約250人程度の残存兵となった。ブナ・ゴナの戦いで、連合軍側は約1,991人が死亡して、約12,300人が戦傷あるいは戦病の犠牲を伴った。日本軍は、約4,000人が戦死して、約3,000人が病死し、約1,200が戦傷して、約250人が捕獲された。




2021年10月4日月曜日

モンテ・カッシーノの戦いはカッシーノ修道院が墓場となり、悲惨な戦場で埋もれた瓦礫から兵士の死体の右手と右腕が飛び出した。

第二次世界大戦のイタリア戦線でのモンテ・カッシーノの戦いで、カッシーノ修道院は、多くの勇士の墓場となった。埋もれた瓦礫から飛び出したドイツ軍兵士の死体の右手と右腕は、モンテ・カッシーノ戦いの悲惨な戦場を象徴した。モンテ・カッシーノの戦いだけで、連合軍の死傷者は約5万5千人と過大であり、それに対してドイツ軍の死傷者は約2万人で過小であった。

 イタリア戦線は、1944年6月8日に連合軍がノルマンディーに上陸したことで、ほとんど注目されなくなった。長く、辛く、血なまぐさいイタリア戦線は、ドイツ軍がフランスのドイツ軍隊を強化するために使う部隊を拘束した。イタリア戦線が、ノルマンディ上陸作戦を支えた。その後のイタリア戦線が長引くにつれ、連合軍の兵士たちは忘れ去られたように感じた。

 その最中に、イギリスの貴族のレディ・アスター夫人が、イタリアの部隊を「D-Day Dodgers(巧妙者)」と呼んでいるという噂が隊員たちの間を駆け巡った。毒舌家のアスターは、イギリス議会に選出された2人目の女性であり、議会に着席した最初の女性である。1944年6月8日のD-Dayにノルマンディに上陸した連合軍の兵士たちがフランスの西部戦線で猛烈な戦闘をしている間に、イタリア戦線の兵士たちは楽をしていたという噂である。1944年11月に、ドイツで人気のあるラブソング「Lili Marleen」に合わせた替え歌は、すぐにイタリア戦線の部隊の間で大人気となった。この曲はイタリア戦線に対する皮肉が込められている。

We're the D-Day Dodgers, our in Italy,Always on vino, always on spree,Eight Army skivers and Yanks,We go to war, in ties like swanks, We are the D-Day Dodgers, in sunny Italy. 

(我々はイタリアのD-Day Dodgersだ。いつもワインで、いつも酒で。第8軍のサボリ人とヤンキー。俺たちは戦争に行く、見せびらかしのようなネクタイで。俺たちはD-Day Dodgers、晴れたイタリアで。)連合軍は1943年9月9日にイタリア本土に上陸した。1943年12月に、イギリス第8軍のバーナード・モンゴメリー司令官は、ノルマンディー上陸に備えてイギリス本土に戻っていた。

 イタリア戦線で最大の犠牲を伴ったモンテ・カッシーノの戦いの第一次攻撃は1944年1月17日に開始され、ドイツ軍の防御が山腹に組み込まれて、大量の犠牲を受けた連合国軍は2月11日に撤退した。連合国軍は、ドイツ軍が丘の上の修道院を軍事基地として、1944年2月15日に第二次攻撃に爆撃した。爆撃で約250人の女性、男性、子供が死亡した。3月15日、北側から第3次攻撃が行われ、大規模な空爆の後、連合軍はカッシーノの町を侵攻した。防御は厳しく、双方に大きな損害を被って、連合軍は後退した。第4次攻撃として、1944年5月11日の夜に開始され、5月17日にポーランド軍団はドイツ軍の防衛線を突破して、5月18日モンテ・カッシーノの頂上にある修道院を占領した。モンテ・カッシーノの戦いは終わり、連合軍はウィンターラインを突破して、1944年6月4日に、連合軍はイタリアの首都ローマを攻略した。ローマは解放されたが、モンテ・カッシーノの激しい戦いは空虚な戦闘に陥った。この戦いには大量の犠牲を伴って、連合軍(オーストラリア、カナダ、自由フランス、モロッコ、イタリア王国、インド、ニュージーランド、ポーランド、南アフリカ、イギリス、アメリカ等)の死傷者は約5万5千人を超え、それに対してドイツ軍の死傷者は約2万人だった。イタリア全戦線で連合国の死傷者は合計約313,000人で、ドイツ軍の死傷者は約336,000人に及んだ。




2021年10月3日日曜日

南北戦争で死亡した南軍の兵士の死体が荒野に放置されて横たわった付近で、北軍兵士は北軍歩兵兵中尉が埋葬された墓を見詰めた。

南北戦争で死亡した南軍の兵士の死体が横たわった付近で、北軍兵士は第7ミシガン歩兵中尉ジョン・クラークが埋葬された墓を見詰めた。殺害された南軍の兵士の死体は、荒野に放置されたままであった。アンティータムの戦いから約10カ月近く経っても、マサチューセッツ州アンティターム郊外の荒野や森林の周辺は悲惨な傷跡のままだった。急いで埋葬された兵士の骨が地面から突き出た。見るからに気持ち悪い頭蓋骨が周辺に出没した。ナップザック、帽子、銃弾、砲弾、靴、ブーツ、ハーバサックなどの戦争の残骸も野原や森林に散らばった。最も激しい戦場であった白亜のダンカー教会は、銃弾と砲撃で跡形もなかった。

 スコットランド生まれの写真家、アレキサンダー・ガードナーは、アンティータムの戦いの2日後の1862年9月19日に現地入りした。ステレオ湿板のカメラを設置し、死体が散乱した田園地帯の写真を何十枚も撮り始めた。倒れた兵士の死体、埋葬者、塹壕の墓などを記録した。平和な社会の中で、初めてアメリカで記録された戦争犠牲者の映像を公開した。人の顔が判別できるほど鮮明であり、戦死者の犠牲が、戦争を急に生々しく身近に感じさせた。1865年までに多くの人命を奪う南北戦争の犠牲をアメリカ人に認識させた。戦場では、顔の見えない他人ではなく、息子、兄弟、父親、いとこ、友人も犠牲になった。ガードナーが撮影したアンティータムの戦いの写真は、あらゆる戦争の報道に痛烈な視覚的先例を作り、永遠の戦争遺産となった。

 アンティータムの戦い(Battle of antietam)は、1862年9月17日、南軍のバージニア軍と北軍のポトマック軍との戦闘で、メリーランド州のシャープスバーグとアンティータム付近で行われたアメリカ南北戦争の戦いである。アメリカ南部では、シャープスバーグの戦いとも呼称された。南北戦争の東部戦域にて、北軍の地域で行われた最初の戦闘であった。死者、負傷者、行方不明者合わせて約22,717人もの膨大な犠牲を伴うアメリカ史上最も流血の戦いとなった。

 南軍をメリーランド州まで追撃した北軍は、アンティータムの小川の背後で守備した南軍に対して攻撃が勃発した。9月17日の明け方から、北軍は南軍の左翼を強力に攻撃した。ミラーズ・コーンフィールドで攻撃と反撃が繰り返され、ダンカー教会では戦闘が展開された。サンクンロードに対する北軍の攻撃は、最終的に南軍の中央部を貫いたが、北軍の優位性は追随でなかった。午後に北軍が参戦し、アンティータムの小川に架かる石橋を奪って南軍の右翼に進撃した。その時、南軍が到着して北軍に奇襲をかけて、バーンサイドに追い返して戦いは終結した。南軍は、兵数の上では2対1と劣勢だったが、全軍を投入し、北軍は4分の3以下の兵力で、南軍は北軍との戦いを膠着させた。両軍は戦線をさらに強化して、壊滅的な死傷者が出した。南軍は9月18日の間に、北軍の小競り合いを続けて、ポトマック川の南に防御した。




2021年10月2日土曜日

24歳の日本軍兵士は、広島原子爆弾の爆心地から約1kmで被爆し宇品病院で体温約40.3度に上昇し白血球数は約1,300に低下した。

爆心地から約1kmの兵舎で日本軍兵士の沖田博(24歳男性)が被爆して宇品病院に収容された。ほとんど医療は受けれずに検査ばかりが継続された。一時期に約40.3度まで体温が上昇して、白血球数は約1,300まで低下した。その時点で、頭皮や口腔内、歯肉の写真(下記)が撮影された。原子爆弾による早期からの脱毛の一部は軽快して生存できた。口腔内、歯肉からは出血傾向にあった。

 太平洋戦争の終戦直後から、GHQ司令部から約1,300人にも及ぶ大規模な原爆調査団が被爆地に派遣された。ほとんどの被爆者は治療を受けれずに、原爆症の被爆者の実態調査データを徹底的に収集された。原爆調査団は報告書を英語に翻訳して、1945年11月30日に第1東京軍事病院から提出された。約2年間にもわたる膨大な原爆調査記録の181冊が、GHQのアメリカ陸軍・オーターソン大佐が回収した。それらはワシントンにあるアメリカ国立公文書館に保管されていた。約200人の死体からの病理検査データも回収されていた。調査対象者となった被爆者は、約20,000人にも及んだ。被爆者は、動物実験のように人体の影響が無慈悲に調査された。

 最初の原子爆弾の実態調査は、陸軍省医務局が1945年8月8日から旧陸軍宇品病院で、新型爆弾による原爆症の被爆調査を指揮して実施した。その調査結果は、1945年11月30日に「原子爆弾二依ル 廣島戦災醫學的調査報告書」(Medical Report of the Atomic Bombing in Hiroshima)として、陸軍軍醫學校東京第一陸軍病院から報告された。敗戦国の日本は、第二次世界大戦の戦争犯罪から逃れるためにも、GHQから原子爆弾の威力と影響を求められるに先立って提出した。

 アメリカ軍からの原爆調査団は、戦後の約2ケ月後なってから派遣された。その時からアメリカ軍の調査団に、東京帝国大学の放射線医学の都築正男教授など学識者が調査に惨禍した。広島市内の約70箇所にわたる約17,000もの子供に対して原子爆弾が及ぼす原爆症と原爆死を調査した。爆心地から約0.8kmでは560人が全員の子供が死亡して、約1.3kmでは132人中50人の子供が死亡した。 







2021年10月1日金曜日

日本軍の前線指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃して、日本軍兵士は入口で爆死した死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗した。

ガダルカナルの戦いで、日本軍の前線指揮所は、コカンボナ海岸に近い大きなガジュマルの木の幹の中にできた洞窟の中に置かれた。その指揮所にアメリカ軍の砲弾が直撃した。日本軍兵士は、入り口から半身を乗り出した地点で爆死した。その死体には、直後から蝿が群がり、蛆虫が湧いて、悪臭がして腐敗していた。ガジュマルの中の前線指揮所の洞窟の中には、枕、敷布団、鍋、端、衣服などが散乱した。周囲には、レースの縁のテーブルクロスも残存していた。ガジュマルは、全体的に楕円形の葉を持つ熱帯性の大木で、熱帯雨林、川縁、海岸、沼地、マングローブなどに生息する。

 1942年秋にガダルカナル島のマタニカウ川の戦いが勃発した。アメリカ軍と日本軍が、甚大な犠牲を伴う猛烈な攻防戦となった。日本軍はヘンダーソン飛行場を攻略する陣地を築こうとした。アメリカ軍は、ヘンダーソン飛行場の周囲を十分に拡張して、日本軍が同飛行場を攻撃できないようにした。

 日本軍は1942年10月初旬に、アメリカ軍にマタニカウ川右岸付近で急襲さてれ、大損害を被ってマタニカウ左岸に撤退した。アメリカ軍はさらに11月1日に、マタニカウ川の数箇所を渡河して左岸に侵攻した。海岸沿いに侵攻して、日本軍をコカンボナ付近まで打撃した。その後アメリカ軍の主力部隊がマタニカウ川西岸で攻防した。兵力が増大したアメリカ軍は、1943年1月10日以降に猛撃して、飢餓に苦しむ日本軍をガダルカナル島の西方に追い詰めた。アメリカ軍は11月1日にマタニカウ川を渡り、11月2日に日本軍の残党を取り囲んだ。11月3日に、大砲、迫撃砲、半装軌車から日本軍に発砲した。日本軍は、約28人の将校と約201名の日本軍兵士が殺害され、別の日本軍部隊も全滅した。アメリカ軍は日本軍を突撃して追跡は、山岳地帯や前人未踏の地区に30日間つづけられ、約12回の戦闘で、約400人以上の日本軍兵士が殺害された。

 ガダルカナル島の戦いは、圧倒的な物量を誇るアメリカ軍との戦いで、日本軍兵力の逐次犠牲を繰り返し、飢餓と想像を絶する悪環境下で半年にわたり戦線をが継続した。弾丸と同じくらいジャングル戦争でマラリアの犠牲者となった。長期間にわたる精神的および肉体的な緊張、戦闘、不十分な食糧などに苦悩した。アメリカ軍に制空権を奪われ、ガダルカナル島に補給が絶たれて困窮の果てに、飢島と呼称された。