ラベル イラク戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示
ラベル イラク戦争 の投稿を表示しています。 すべての投稿を表示

2024年3月11日月曜日

2006年に公開されたアブグレイブ刑務所の写真には、フードを被った数人の裸のイラク人が写っている。そのうちの一人の腰には "I'm a rapeist"(私はレイプ魔だ)と足に書かれている。

2006年に公開されたアブグレイブ刑務所の写真には、フードを被った数人の裸のイラク人が写っている。そのうちの一人の腰には "I'm a rapeist"(私はレイプ魔だ)と足に書かれている。

 写真を撮影したのは、アブグレイブ刑務所で憲兵として勤務していたアメリカ軍兵士だった。あるアメリカ軍兵士が友人からこれらの写真を入手し、指揮官に渡したことから2004年4月下旬に始まった。テレビ番組の60 Minutes IIには、写真のうち12枚を掲載して、さらに多くの写真があることを報道した。軍服を着た男女のアメリカ人が、裸のイラク人囚人と一緒にポーズをとっている写真もあった。

 2004年4月に公開されたアブグレイブ(Abu Ghraib)刑務所での拷問の写真は、世界中に怒りを巻き起こした。糞便にまみれ、鎖につながれ、殴られ、切られ、裸にされ、頭に袋を被せられ、屈辱的な姿勢で立たされている囚人の写真。軍の看守は笑いながら親指を立てている。頭に袋をかぶせられ、ワイヤーにつながれ、箱の上に立たされた囚人の写真は、アブグレイブで加えられた拷問の代名詞となった。箱の上に立たされた囚人たちは、動けばワイヤーが引っ掛けられ、感電死させられると言われた。

 アブグレイブの町にあるアブグレイブ刑務所は、サダム・フセイン政権時代のイラクで最も悪名高い刑務所のひとつだった。アメリカ軍は侵攻後に、改修して軍事刑務所にして、約約7490人の囚人を収容した。

 赤十字が2004年に発表した報告書によれば、 囚人の約70〜90%は誤って収容された。アブグレイブ刑務所は、2003年から2006年までアメリカ軍が捕虜となったイラク人を収容していた刑務所である。虐待は刑務所内の独房棟1Aと1Bで行われた。2003年のイラク侵攻に先立つ数ヶ月の間にアメリカ司法省によって、外国人抑留者に対する特定の強化された尋問技術を許可された。アブグレイブ疑惑に関連した罪で11人のアメリカ軍兵士が軍法会議で有罪判決を受けた。そのうち7人はメリーランド州に拠点を置く第372憲兵中隊の兵士であった。他の多くの軍人は起訴されなかったが、懲戒処分を受けた。



2023年12月12日火曜日

アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して呼吸は停止した。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。

イラク戦争が2003年3月20日に開戦する直前に、アメリカ軍は当時は地上戦は開始せずに、空爆を繰り返していた。アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。瓦礫の山に駆け寄ったイラク人の運転手は、その下を覗き込むや泣き出した。瓦礫の下に埋まったイラク人の死体を見てしまった。午前7時頃の暗闇に死体が浮かび上がって、イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して、呼吸は停止していた。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。アメリカ軍は、殺害された人間の顔を見ないで、ミサイル攻撃をしていた。開戦前であるので、イラク戦争の犠牲者第一号であろう。あるいは第二号も第三号も、瓦礫の下に埋まっているかもしれない。

 イラク人の運転手のすすり泣きが続いた。外に飛び出していた一人のイラク人が後ろから死体を覗き込んだ。その犠牲者の親戚であったイラク人は、泣き続ける運転手を指さして、「死体は運転手の兄なのだ」と言った。報道写真家が乗って来た車の運転手が、イラク戦争の開戦直前の犠牲者第一号の弟であった。一刻も早く、この場から立ち去らねばならない。すでに誤爆の証拠映像はフィルムに収めて、カードに記録した。物騒な現場に長居は禁物である。しかし、肝心の車の運転手は悲劇で運転不能となった。やがてイラク人の警察官まで現れて、当地にイラク軍の情報部が駆けつけたら、怒り狂って逮捕されるかもしない。

 2003年3月20日午前5時34分(バグダット時間)に、奇襲的なイラクへの軍事侵攻が開始された。宣戦布告はなかった。約24万8000人のアメリカ軍兵士、約4万5000人のイギリス軍兵士、約2000人のオーストラリア軍兵士、特殊部隊GROMから約194人のポーランド軍兵士が派遣された。連合軍は、約7万人以上のイラクのクルド人民兵部隊も支援された。2003年3月20日に、サダム・フセインに対するイラク撤退の最後通告が期限切れを迎えて、アメリカ軍と同盟軍は本格的なイラク侵攻を開始した。




2023年5月29日月曜日

湾岸戦争でイラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。

湾岸戦争にて、イラクの首都バクダットの空襲により、顔中に重度の火傷を受傷したイラク人の重態の子供が、バグダットのサダム小児科病院に1991年2月20日に救護されていた。サダム小児科病院内では緊急時以外は、自家発電も保育器も停止して、停電していた。母親は、寒さをしのぐために、ろうそくなどをかざしていた。湾岸戦争の1991年のイラク爆撃は、イラク軍のクウェート侵攻に対抗して1991年1月17日から2月23日まで大規模な空爆が執行した。アメリカ軍が主導して、湾岸戦争連合は約10万回以上の出撃を行い、約88,500トンの爆弾を投下し、軍事・民間インフラを広く破壊した。 

 国連安全保障理事会は1990年11月29日に決議678号を採択し、イラクに1991年1月15日までに、クウェートからの撤退を認めた。その期限後にイラクをクウェートから撤退させるために、あらゆる必要な手段を用いる権限を連合国に与えた。国連安全保障理事会決議678で定められた期限の1月15日の翌日から、連合軍は大規模な航空作戦を開始した。1日に約1000回以上の出撃が行われた「砂漠の嵐作戦」の総攻撃を開始した。

 最初のバクダット攻撃は1991年1月17日午前2時38分に、イラク・サウジアラビア国境付近のイラクのレーダーサイトの破壊から総攻撃が勃発した。1月17日午前3時、EF-111の3隻編隊に守られた10機のアメリカ空軍F-117ナイトホークが、イラクの首都バグダッドを爆撃した。最初の総攻撃から約5時間後に、イラクの国営ラジオは、サダム・フセインと名乗る音声を放送した。「偉大なる決闘、すべての戦いの母が始まった。この偉大な対決が始まれば、勝利の夜明けは近い。」と宣言した。

 アメリカ海軍のBGM-109トマホーク巡航ミサイルが、1月17日の総攻撃に同期して、イラクの首都バグダッドの標的を攻撃した。他の連合軍の爆撃機もイラク全土の標的を攻撃した。政府庁舎、テレビ局、飛行場、大統領官邸、軍事施設、通信回線、補給基地、石油精製所、バグダッド空港、発電所、イラク軍装備の製造工場などが、連合軍の大規模な空爆とミサイル攻撃で破壊された。

 湾岸戦争の終了時、アメリカ当局は、イラク市民の推定死者数は約2,278人、負傷者約5,965人と報告した。1991年2月13日に、アメリカ空軍 (USAF) の戦闘機がバグダッドのアルアミリヤ地区の空襲用シェルターに向けてレーザー誘導ミサイルを2発発射して、そこに避難した約408人の民間人が死亡した。アメリカ当局は、シェルターはイラク軍の通信センターと主張した。




2023年5月3日水曜日

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmのアル・マハウィルの集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰り、無残な遺体を抱きながら泣いた。

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmにて、アル・マハウィル(Al-Mahawil)の集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、見つかった身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰った。イラク人男性は、無残な遺体を抱きながら泣いた。1991年のシーア派の蜂起が鎮圧されて以来、行方不明になっている人々の親族は、トラクターや素手で土を掘り起こしながら、親族の遺体を必死で探した。

 イラク戦争が2003年5月1日のアメリカ軍の戦闘終結宣言した後から、イラクの法医学チームは2003年5月14日に、バグダッドの南約90kmのアル・マハウィル近郊の農場近くの集団墓地に埋められた推定約1万5000体もの死体を発掘し始めた。アル・マハウィルの集団墓地には、行方不明のイラク人が数百人集まり、親族の死体を探した。湾岸戦争が1991年3月1日に終結した直後の3月5日から4月5日までサダム政権に対するイラク蜂起が勃発した。1991年3月に首都バグダッドにいたフセイン大統領は、シーア派の反乱を鎮圧するために、イラク南部の地方に分散した決死隊を南部に素早く集結させた。サダム・フセイン政権は、ヘリコプター、長距離砲、装甲地上部隊を集結して暴動に残忍に反撃した。南部で約30,000~約60,000人のシーア派イラク人、北部で約20,000人のクルド人を殺害した。イラク人権省は、アメリカ軍主導の侵攻以来に約3年間に登録した約200の集団墓地の大半は南部にあったと公表した。

 犠牲者は、1991年3月頃に、フセインがイラク南部で起きたシーア派の反乱を鎮圧した際に殺害された。イラクの裁判所は、1991年の弾圧で少なくとも約10万人、おそらく約18万人のシーア派が殺害された文書証拠と目撃者の証言を持っていた。イラクの1991年の殺人者たちは、蜂起の責任者を追い詰めるのに時間をかけず、戦闘年齢に達した若者を無作為に捕らえて、裁判なしで死刑を執行して、恐怖政治であった。犠牲者たちは、後ろあるいは横に投げ出され、互いの上に倒れ、足が下敷きになり、銃弾が胸部や腹部を打った跡が、衣服の裂け目から検証できた。銃撃で足の骨が粉々になり、死体は身を寄せ合って横たわった。出土した死体の多くは、手首の骨が背中で合わせ結ぶためのロープや布の破片が土にまみれた骨に混じった。







2023年4月5日水曜日

2003年5月下旬に、イラク中央のムサイブ(Musayyib)で数百の死体の束が検死を受けた。死体のほとんどは1991年3月からのシーア派の反乱後に、サダム政権により処刑したイラク人であった。

2003年5月下旬に、イラク中央のムサイブ(Musayyib)で数百の死体の束が検死を受けた。死体のほとんどは1991年3月からのシーア派の反乱後に、サダム政権により処刑したイラク人であった。イラク南部の都市アルヒラでは、シーア派が多いイラク南部にて、何万人ものイラク人が、1991年3月頃にイラク政府の拘束下で逮捕されて失踪していた。1991年3月1日から4月5日に、湾岸戦争末期のシーア派蜂起後に、イラクのシーア派イスラム教徒が バスラ、カルバラ、ナジャフ、ナシリヤ、アマラ、アルヒラなどの地域で、数万人の兵士や市民を殺害された虐殺事件が勃発した。

 約12年以上経った2003年5月16日に集団墓地の発掘調査で、腐敗した死体から身分証明書が発見された。アルヒラの北約20kmに位置するアルマハウィル軍事基地の付近では、2つの膨大な集団墓地が発見された。1つは空き地にあり、約2,000体以上の死体を含むアルマハウィル(al-Mahawil)集団墓地が発掘された。もう1つは約5km離れた廃レンガ工場裏に、数百体の死体を含むアルマハウィル(al-Mahawil)レンガ工場集団墓地があった。その他に第3の集団墓地は、軍事基地の敷地内に存在が疑われた。アルヒラ(al-Hilla)の南、イマーム・バクル(Imam Bakr)村には少なくとも1つの集団墓地があり、蜂起時に約40体の死体が埋葬された。集団墓地では、死体は個々の区画ではなく、互いに集積して一括に埋葬された。集団墓地は、集団残虐行為や自然災害が示唆された。

 アル・ヒラやアル・マハウィル周辺の集団墓地が無秩序で発掘された。行方不明者の多くの死体を正確に確認できない。国際的な支援がない中で、イラク人は自力で集団墓地を掘り起こし、無数の死体を切り裂き、遺骨は混ぜ合った。アル・マハウィル墓地の1,000体以上の遺骨は、身元が確認できず、再び埋葬された。

 集団墓地から死体を回収された人々は、1991年のシーア派蜂起の失敗の後に、サダム・フセイン大統領のイラク政府によって実施された弾圧、逮捕、処刑の組織的作戦の犠牲者であった。サダム・フセイン大統領のイラク政府による数十年の大量殺人を示唆した。集団墓地の近くに住む農民は、1991年3月期にイラク軍による毎日の処刑と埋葬を目撃した。アル・マハウィルレンガ工場で処刑場にて奇跡的な生存者が証言した。1991年3月にアル・ヒラ地区で数千人が逮捕されて、近くのアル・マハウィル基地に収容された。2003年5月にアル・ヒラやアル・マハウィルの周辺での集団墓地を発掘して、死刑が執行された死体が共同埋葬された。

 イラク占領国はイラク人の死体の発掘を支援しなかった。過去20年間にイラク政府によって失踪したイラク人は約29万人にのぼった。失踪者の多くは、イラク全土の集団墓地から死体が発掘された。死者を回復し尊厳を取り戻したいイラク人の圧倒的な感情的欲求があった。アメリカ当局は、イラク政府の弾圧や他の紛争後の状況から、被害者を特定し、犯罪の証拠を保存して、発掘を強調する効果的な広報、地元当局に呼びかける努力はしなかった。




2023年2月15日水曜日

バクダットの戦いで2003年4月初旬に、アメリカ軍は父親のファールークさんを銃殺して殺害した。布を顔に巻いた息子のゼイドさんは、毛布で死体を少しずつはがし露出して、父親の死体の全身を棺の中に収めた。

イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、バグダッドの戦い(Battle of Baghdad, 4月3日〜4月9日)にて、2003年4月5日早朝は最初にアメリカ軍は、浄水場近くを通る国道8号を通って、西方のサダムフセイン国際空港に侵攻した。二度目のバクダット侵攻は、4月7日に国道8号から共和国宮殿に侵入した。4月9日には、パレスチナホテル前のサダム像を倒壊して、サダム・フセイン政権は崩壊した。

 数日後に、国道沿いに止めた乗用車の横で、2人のイラク人男性が黙々と、毛布を右側のドアから中に入れ、毛布で死体をつかんで引き出した。無数のハエが激しく羽音を立て飛び回った。手前に内側に白布を敷いた木棺が置かれた。死体から凄まじい腐臭が漂って、湧いたハエが飛び出した。白布で鼻と口を覆った2人の男性が死体を引っ張ると、全身が棺の中に収まった。

 アメリカ軍のバクダットの戦いを知った夫のファールーク・アブルカーシム(65歳)さんは、数日前の朝に、妻がアメリカ軍が侵攻する国道沿いの実家に帰った。戦闘に巻き込まれる前に、妻を連れ戻すために夫はドーラの自宅を飛び出し、車で国道を北に向かった。既にバクダットに侵攻したアメリカ軍に、夫のファールークの頭と腹は撃ち抜かれた。左の後部座席のシートやドア、運転席の背もたれに多数の穴が開いた。全速で通り抜けた車を、アメリカ軍は追いかけて銃撃した。

 布を顔に巻いた父親の息子であるゼイドさん (24歳)は、毛布を少しずつはがしながら、ペットボトルに入れた白い液体を父親の背中にかけた。消毒液で、吐き気をもよおす腐臭が薄らげた。右脇から腰にかけて赤黒い血がこびりついた父親のファールークさんの死体が露出した。死体の腰、尻が不自然に膨らんで、死後に数日が経って、腐敗で膨張した。息子のゼイドさんは、切断しかけ地面に落ちた父親の左足を持ち上げ、右足に重ねた。ゼイドさんは、黙々と父親を棺に収める作業をした。父親の死体を布で覆い、棺の蓋を閉めた。棺の付近に直立し、広げた両手の平を捧げて祈った。イスラム教の儀式で、聖地に向かってコーランの言葉を暗唱した。




2023年2月13日月曜日

ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害した映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

イスラム国(ISIS,ISIL)が、1914年6月中旬にイラクのティクルート由来の画像により、捕虜となったイラク政府関係者の大量虐殺を示唆した。ISISが投稿した動画からの静止画の大量虐殺の場面を描出した。処刑はイラクのサラエディン州で行われ、イラク民間人の服を着た数十人のイラク治安部隊員を、群がったトラックから地面にうつ伏せにさせた。その後に浅い溝で、銃やライフルで、武装したISIS武装勢力が射殺さした様子を映し出した。

 国連の人権事務所は、イラクで大量虐殺の報告の裏付けを発表した。ISISと呼称されるイスラム反政府勢力が、捕虜となったイラク政府の兵士や治安当局者の約1,700人を銃殺したと公表した。反政府勢力であるISISは、殺害したとされる映像や静止画を2014年6月14日に公開した。

 非営利団体ヒューマン・ライツ・ウォッチは、映像を検証した。ISISは、宗派間紛争を引き起こすも、偽証の演出を示すものは見当たらない。画像はティクリート市から由来した。ISISに拘束された人々が、近くの処刑場に強制連行される模様が映し出された。衛星画像とティクルートの地域の特徴を照合して、強制連行され拘束そされた人々の写真が、撮影された場所とティクリットの処刑場を特定できた。ティクルートの都市は、6月12日にISISの武装勢力に陥落した直後であった。インターネット上で再度に流通した過去の類似の宗派間の暴力事件で撮影された画像ではなかった。衛星画像から、銃殺して殺害された犠牲者の死体が並べ、銃撃された実際の塹壕の場所を特定した。

 現地での目撃者も探索した。映像の技術は、第一次湾岸戦争後のシーア派の反乱の失敗の余波から、死刑が執行された1991年の大量処刑と非常に類似した。人々は処刑場までトラックで運ばれ、ブルドーザーで事前に掘られた溝があり、人々は並べられて処刑された。1991年にイラクの治安部隊が、執行した大量虐殺に類似した。ISISがシリアで執行した大量処刑とも異なった。イスラム過激派がティクリートで家々を回り、地元の家族が隠している政府軍兵士を掃討した。




2023年2月10日金曜日

イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマーを嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれた。

2007年9月16日に、イラクの首都バグダッドの北東約60kmのバクーバで、一家の車が何者かの武装集団による銃撃に巻き込まれた。イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマー(Dhiya Thamer)を嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。ディヤの10歳の兄貴のクサイ(Qusay)は攻撃を受けて負傷した。弟のディヤが、小学校1年生になる予定の小学校に、子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれて、タマー兄弟が死傷した。(写真:Adem Hadei/AP Photo via The Atlantic/ Last Touch, Award of Excellence, POYI) イラク人の母親は、子どもを守ろうと思っても、守り切れなかった。イラク戦争では、貧乏なイラク人、末端のイラク人たちがみんな犠牲になった。

 イラク戦争が2003年3月20日に開戦後から5月1日に終結宣言後も、イラク人市民の流血は続いた。世界保健機関(WHO)の調査によると、2003年3月から2006年6月までの間に、毎日平均約120人のイラク人が暴力的に殺害された。医学調査研究(NEJM)では、イラク人の半数以上が首都バグダッドで殺害されたと明記され、約15歳から約59歳の男性の死因のトップが、暴力事件であると強調した。2006年に、医学雑誌ランセット(Lancet)に掲載されたアメリカ人医師による調査研究では、イラク戦争と占領によって死亡したイラク人は約65万5千人に上ると推定された。2007年末にアメリカ外交協会(AFSA)が、アメリカ国務省職員約1万1000人のうち約4000人を対象に調査研究を行った。イラク駐在を希望しない外交官の約48%が、アメリカのイラク政策に反対を表明し、それが拒否する理由の一つであると強調した。

 同日2007年9月16日に、アメリカ軍はイラクのアンバル州でアルカイダ系の反乱軍に対抗する地元勢力を組織した部族指導者を殺害した容疑者のイラク人らを捕獲したと発表した。同日9月16日にイラク警察は、バグダッド西部のスンニ派が多い地区にて、警備請負業者が発砲して、少なくとも約9人の民間イラク人が殺害され、アメリカ大使館は、国務省の請負業者が発砲事件に巻き込まれたと発表した。警備請負業者は自分たちを守るために武力をエスカレートさせた。同日9月16日には、バグダッド中心部のマンスール地区で、米国務省の車列が正午に攻撃を受けた。車列の近くで爆発があり、車列を警備していた警備業者が街頭で発砲した。9月16日には、イラク全土で54人の死亡または発見された。宗教が混在する町トゥズ・ホーマトで、ブービートラップを仕掛けた自転車が爆発し、少なくとも約5人が死亡、約19人が負傷した。その他、ディヤラ州のバグダッド北東にあるバロール村で武装集団が襲撃し、約14人が死亡、約7人が負傷した。




2023年1月31日火曜日

2004年4月3日から第一次ファルージャの戦いにて、数千人のアメリカ軍兵士がファルージャの武装勢力を封鎖作戦に出撃した。2004年4月8日にイラク武装組織との戦闘にて、アメリカ軍の戦車が砲撃されて炎上した。

イラク戦争の2003年5月1日の終結宣言後にアメリカ軍の占領政策が頓挫した。2004年4月3日から第一次ファルージャの戦いにて、数千人のアメリカ軍兵士がファルージャ(Falluja)の武装勢力を封鎖作戦に出撃した。2004年4月8日にイラク武装勢力との戦闘にて、アメリカ軍の戦車が砲撃されて炎上した。










 アメリカ軍戦車の砲塔で、戦傷した砲弾の装填兵士を救出した。その戦闘では、アメリカ軍が約300人の武装勢力を殺害した。アメリカ軍は、4月11日からは大規模な空爆を開始し、さらに多くの住民を殺害した。ファルージャの侵攻により、戦闘でアメリカ人約39人が死亡して、約90人が負傷した。イラク人住民の犠牲者は、約730人が殺害されて、約2,800人が負傷した。殺害されたイラク人住民の犠牲者の約25%は女性で、約25%が子どもであった。



イラク中部の三角地帯でスンニ派のモスクの街であるファルージャにて、シーア派の反アメリカ指導者のムクタダ・サドルが主導して騒乱が勃発した。2004年3月31日に、ファルージャで民間軍事会社であるブラックウォーター(Blackwater)社の警備員の民間アメリカ人の4人が襲撃されて虐殺されたのが起因となった。装甲四輪駆動車にロケット推進手榴弾(RPG)が命中して、燃え盛る車両や脇に横たわる死体、橋に吊るされた黒こげの死体の衝撃的な映像が世界中で報道された。

 イラク国内の反アメリカ感情により、対立関係であったイスラム教のシーア派とスンニ派が連帯を促した。アメリカ政府は、2004年6月末の主権移譲の日程を固持していた。武装勢力を圧倒するために、アメリカ軍を約1万人の増員を投入した。ファルージャの惨状から、イラク各地で反アメリカ活動、世界中から非難が殺到して、5月1日に撤退した。第一次ファルージャの戦いは、 市民を保護する都市の課題を示した。都市部の戦場には常に民間人が存在する。軍には、民間人、重要なインフラ、保護された場所への危害を防ぐことが求められる。都市部での戦闘には、民間人の避難を連絡し、促進する積極的な計画が求められた。

 イラク戦の最大の激戦となった第二次ファルージャの戦いが、2004年11月7日から12月23日まで勃発した。アメリカ軍とイラク軍の連合軍は11月10日までにファルージャの約70%を支配した。市街地は包囲されたが、武装勢力は数週間にわたり潜伏して市街戦が勃発した。武装勢力は「異教徒に降伏するより、死んで天国に行く方がましだ」と絶叫した。アメリカ軍兵士は約51人が死亡して、約425人が負傷して、イラク軍は約8人が死亡して、約43人が負傷した。武装勢力は、約1,200人から1,350人が犠牲となった。

2023年1月20日金曜日

イタリアの国営テレビ局RI24は2005年11月8日に、イラク戦争にてアメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたファルージャのイラク軍兵士や民間人の遺体など、凄惨な映像を放映した。

イタリアの国営テレビ局RI24(Radiotelevisione Italiana)は2005年11月8日に、アメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたイラク軍兵士や民間人の遺体、電気ドリルで穴を開けられた男性の遺体、負傷した個人への砲撃など、凄惨な映像を放映した。RAIのビデオでは、空から発光物質が降ってきた。内側から溶けた死体が映し出した。元アメリカ軍兵士が、イランのファルージャの住民に白リン(White Phosphorous)弾を使用したと証言した。ヘリコプターからの白リン散布作戦の映像が映し出された。イタリア人ジャーナリストのスグレナさんらは、アメリカ軍から残虐行為の報道を阻止された。

 白リン弾は、自然燃焼して、燃焼時に酸素を奪う国際禁止兵器である。大量の水がなければ、白リン弾の消火は実質不可能である。白リン弾は開かれた場所でも、隠れた兵器にも効果があり、兵器を破壊する。白リン弾が人体の中まで焼き尽くした。リン燃焼で形成された窒息性ガスは、火による死を免れても毒ガス死した。兵器・戦争手段に対する史上初の禁止は、1899年にオランダ・ハーグ開催の第1回万国平和会議で宣言された。その後に、禁止リストは常に拡大した。

 2005年3月3日に、イラク保健省は、アメリカ軍が2004年11月にファルージャ市をほぼ壊滅させた攻撃で、マスタードガス、神経ガス、燃焼剤などの化学兵器を使用したと公表した。アメリカ軍の攻撃の間に、逃げ惑う住民が、溶けた死体を見たと語った。アメリカ軍が死体を溶かすポリスチレンと航空機燃料の毒性化合物であるナパーム弾を示唆した。その他、マスタードガスや神経ガスが使用された証拠も発見した。毒ガスによって死んだ野良犬、猫、野鳥を何百匹も発見した。記事を掲載したアメリカメディアは、1つのウェブサイト上だけであった。アメリカ軍の重大な国際条約違反の報道を無視した。国防総省は、2004年12月の時点ですでに守勢に回った。イスラムのウェブサイトでの告発や、ファルージャに対する白リン爆弾、プロパン爆弾、ナパームの使用を宣伝するGIブログや事後報告によって劣勢となった。白リンは照明用と使用したと主張した。

 イラク戦で、アメリカ軍が国際的に使用が禁止されている白リン弾や濃縮ウランなどを使用した。致命的な破壊兵器により、約150万人以上のイラク人が暗殺され、100万人以上が行方不明になった。戦争中の真っ只中の避難民は約700万人を超えた。イラク侵攻後の悲惨な人道状況は世界最悪です。劣化ウラン感染やその他の化学物質汚染により、先天性欠損症やがんが増加して、毎年5歳未満の子供約4万人が死亡した。




2023年1月6日金曜日

イラク戦争にて、ファルージャにてテロとの戦いで、イラク人テロリストが殺害された。多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、イラク軍政府軍兵士はテロリストのイラク人に襲撃された。

イラク戦争にて、イラク中部の都市ファルージャにおけるテロとの戦いにて、イラク人のテロリストが殺害された。4人のイラク住民らが、テロリストの死体を運搬させられた。死体は、収納する運搬袋に封入した手提げ袋を4人のイラク住民らが搬送した。死後に数日も経過して、死体からの悪臭が漂って、4人のイラク住民はマスクを装着して防臭した。



 テロとの戦いにて、広大な戦場から、都市部の戦闘に移行した。都市部における軍事作戦に戦闘の形態が変遷した。都市部の場合は、一般市民や住民も戦闘に巻き込まれた。非戦闘員が武装民兵組織に所属したり、自らの地域や民族を防衛するために民兵に変身した。地の理を生かして、都市部の障害物を活用して徹底抗戦した。都市部では、複雑な迷路となり、視界も遮り、武器の使用も制限された。大量の武力でも、各建物をそれぞれに掃討する必要がある。民間人が居住する地域には、戦争犯罪の防止から、爆撃や砲撃などを無差別に侵攻することが国際法で制限されている。

 2003年3月20日に勃発したイラク戦争では、逆に反政府テロリストやゲリラは、国際法を無視して、戦争犯罪の攻撃も執行した。イラク政府軍だけでなく、アメリカ軍を含む多国籍軍も、攻撃対象となった。イラク政府軍に敵対する勢力は、テロリストよりも、暴徒が主体であった。多国籍軍主導のイラク政府の運営に対して、不平と不満が高まって非協力となり、反対勢力に支持が高まった。さらに、国外からテロリストがイラクに侵入して、都市部の戦闘は混迷を極めた。

 報道機関が、民間人の犠牲者や崩壊した建物を公表すれば、逆に反対派勢力に同上が集まった。圧倒的な武力を保持する多国籍軍は、非難の対象となる。都市の郊外のゲリラには、地域の作戦範囲が広大となり、戦闘期間も長期化した。治安維持と軍事作戦の境界が曖昧となり、暴徒だけでなく多くの民間人が巻き込まれた。自爆テロリストは、事前に察知できなければ、あたかも民間人として接近して、直後に自爆攻撃を挙行する。

 ファルージャでのテロとの戦いにて、イラク政府軍兵士は、多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、突如としてテロリストのイラク人に襲撃された。この襲撃で、多国籍軍兵士の1人が殺害されて、約40人が戦傷して、民間イラク人は約8人が殺害された。襲撃されて瀕死のイラク政府軍の兵士は、アメリカ軍の衛生兵から救護する手当を受けた。



2022年12月26日月曜日

イスラム国(ISIS, ISIL)戦士によりクルド人女性兵士が斬首された。ISIS戦士がクルド人の女性の頭を無残に切り落とし、とても誇らげに頭部を掲げた。

イスラム国(ISIS, ISIL)戦士によりクルド人女性兵士が斬首された。ISIS戦士がクルド人の女性の頭を無残に切り落とし、とても誇らげに頭部を掲げた。ISISは剣やナイフを使い、拷問を復活させてゆっくりと殺害した。ISISはクルド人勢力との戦闘にて、クルド人女性兵士である23歳のリハナ(Rehana)さんを斬首して殺害した。クルド人防衛隊(YPG)内に女性部隊(YPJ)が2012年に編成された。ISISのイスラム教の禁止行為では、男性によって殺害されば天国に行ける。逆に、女性によって殺害されると天国の楽園にいけない。

 クルド人女性のリハナさんは、SNSやテレビなどを通じて発信していた。2014年8月に、スウェーデン人の写真家が、シリアとトルコとの国境のコバニで、創設された女性部隊のリハナさんの写真をTwitterに掲げた。リハナさんは、SNSやプログでコバニの天使(Angel of Kobani)と一躍に有名となった。さらに彼女は100人以上ものISIS兵士を殺害した屈強のクルド人女性兵士と誇張された。

 突然に2014年10月5日に、サウジアラビア在住の女性が、Twitterでリハナと呼称され斬首された若い女性の頭部が掲載された。ISIS兵士が、切断したリハナさんの頭部を髪の毛で持ち上げた。SNSの騒動後に、ISISはコバニに侵攻して占拠した。リハナは本名でなく、生存あるいは死亡の情報が錯綜して、依然として行方不明のままである。

 2004年にアブー・ムスアプ・アッ=ザルカーウィ(Abu Musab al Zarqawi)によって設立されたアルカイダの分派で、イラクのアルカイダ(AQI)の残党から設立されて、2013年6月29日にISIS(Islamic State of Iraq and Syria)に改称された。2015年1月20日にイスラム国(ISIS)は、オレンジ色の服を着た日本人囚人の2人をネット上に公表した。2014年8月にシリアで行方不明となった民間軍事会社の湯川遥菜と2014年10月にシリアで行方不明となったフリージャーナリストの後藤健二であった。2017年10月17日にISISの最後の拠点ラッカが陥落した。 




2022年11月9日水曜日

湾岸戦争の砂漠の嵐作戦よって、1991年2月にアメリカ軍兵士は燃える油井を背景に、クウェートとバスラを結ぶ死のマイル上でイラク軍兵士の死体処理した。

湾岸戦争の砂漠の嵐作戦よって、1991年2月に殺害したイラク軍兵士の死体を検死した。アメリカ軍兵士は燃える油井を背景にして、クウェート北部のクウェートとバスラを結ぶ死のマイル(Mile of Death)上で、イラク人の死体処理した。炎上して黒焦げで殺害されたイラク軍兵士の死体を砂漠上で処理した。砂漠の嵐作戦により、イラク軍兵士は約2万人から約10万人(推定)の戦死者と約7万5千人以上の戦傷者と約8万人もの捕虜による大規模な犠牲を払った。アメリカ軍は約697,000人が参戦して、わずか299人が戦死した。

 国連とアメリカは、イラク軍の侵略を止めることで合意して、1991年1月15日をイラク軍のクウェートからの撤退期限と定めた。その期限が過ぎた翌1月16日から、アメリカ軍は「砂漠の嵐」作戦を展開して、イラク軍を小さな公国クウェートから撤退させた。

イラク軍をクウェートから追放する戦争は、1月17日に、空と海からの砲撃で始まって約5週間続いた。この後に2月24日からの地上攻撃により、クウェートを解放して、イラク領内に侵攻した連合軍には決定的な湾岸戦争の勝利であった。地上作戦の開始から約100時間後に、連合軍は侵攻を停止して、停戦を宣言した。連合軍の空と地上からの戦闘は、イラク、クウェート、サウジアラビア国境沿いの地域に限定された。湾岸戦争では、アメリカのCNNを中心に、前線からの生中継が紹介された。

 湾岸戦争(1990年8月2日〜1991年2月28日)は、イラク軍によるクウェート国への侵攻と併合に対して、アメリカ軍を中心とした34カ国の国連公認の連合軍が、イラク共和国と戦闘した。アメリカ軍の軍事的対応の作戦名から「砂漠の嵐作戦」として周知された。湾岸戦争の発端は、1990年8月2日のイラク軍のクウェート侵攻である。その後の数カ月間、アメリカ軍と他の連合軍はサウジアラビアに兵力と武器を送った。イラク軍はクウェートの陣地を固めた。アメリカ軍と同盟軍は、約100時間の地上戦に先立つ約6週間で約116,000回以上の戦闘航空出撃を行って、約88,500トンの爆弾を投下した。湾岸戦争では、アメリカのCNNを中心に、前線からの生中継が紹介された。




2022年10月18日火曜日

イラン・イラク戦争にて、1982年の戦闘にて、イラク軍はイラン軍と悲惨な戦闘の後に、殺害したイラン軍兵士の死体を、荒野の戦場に積み重ねた。

イラン・イラク戦争にて、1982年の戦闘にて、イラク軍はイラン軍と悲惨な戦闘の後に、殺害したイラン軍兵士の死体を、荒野の戦場に積み重ねた。

 1980年代に長期化したイラン・イラク戦争は、1980年9月22日にイラク軍が、イラン軍の奇襲を受けて、クゼスターンに侵攻して勃発した。イラク軍はホラムシャール市を占領した。1980年12月にはイラク軍はイランの予想外の抵抗に遭遇して、戦線は停滞した。1981年9月にはイラン軍がカルーン川を越えてイラク軍を押し返した。

 イラク軍は1982年5月に、ホラムシャールを奪還した。占領したイラン領からイラク軍を撤退させ、イランとの和平協定を模索したが、イラン軍は強硬な戦闘を継続した。7月に、イラン軍はイラクのアルバーラー県に侵攻して、イラク軍は防御を固め、国境沿いに戦線を張って、膠着状態に陥った。イラン軍の非武装の徴用工や少年は、人海戦術の歩兵攻撃で多大の犠牲となった。イラク軍の優れた火力と航空戦力により撃退された。

 空爆やパイプラインの遮断により、両国の石油輸出能力は著しく低下し、両国の経済はほぼ停止状態に陥った。イラク軍の戦費は近隣のアラブ諸国が公然と出資して、アメリカとソ連が黙認した。イランの主要な同盟国はシリアとリビアだけであった。

 1987年に、イラク軍側に有利になり始めた。イラク軍は約100万人の軍隊を育成して、フランスとソ連から最新鋭の兵器を手に入れた。イラク軍は生物兵器や核兵器を含む他の大量破壊兵器(WMD)のにも多大な資源を投入した。1987年7月に、国連安全保障理事会は、境界線まで軍を撤退させて解決する決議598を全会一致で採択した。

 1988年初頭に、イラン軍はイラク北東部のクルド人と協力して、キルクークからトルコ国境までを威嚇し、ハージュ・ウムラーンやハラブジャまで侵攻した。イラク北部では1988年3月に、イラク軍は戦争犯罪の化学兵器を使用し、ハラブジャ周辺で約5,000人ものクルド人市民を殺害した。1988年のアンファールの作戦で、約5万から約10万のクルド人がイラク軍に殺害された。1988年4月に、イラク軍はイラン軍にも化学兵器を使用し、ファウ半島を奪還した。サラムチャやマジュヌン地区を解放し、7月には再びイラク軍がイランの奥地まで侵攻した。戦意喪失したイランは、7月20日に国連決議598を受け入れて、8月20日に両軍は停戦を実施した。

 双方の戦闘員の総数は不明で、両国とも全動員されて戦力化された。死傷者の数も膨大で不詳である。死傷者の総数は、約100万人から約200万人と推定された。両軍の死者数は約50万人で、イラン軍がより大きな犠牲を被った。




2022年9月2日金曜日

イラク・イラン戦争にて、イラク軍がアメリカ軍のナパーム弾によって、イランの首都テヘランの通りの塹壕を襲撃した。塹壕内は血まみれとなったイラン軍兵士の死体が散乱した。

イラク・イラン戦争にて、イラク軍がアメリカ軍のナパーム弾によって、イランの首都テヘランの通りの塹壕を襲撃した。塹壕内は血まみれとなったイラン軍兵士の死体が散乱した。みすぼらしい荷車に死体を積載した。テヘランの通りでは老いも若きイラン人は狂信的にアメリカ国旗への憎悪を叫んだで戦意を高めた。

 イラン・イラク戦争(1980年から1988年)は、1980年代にイランとイラクの間で長期化した軍事衝突であった。1980年9月22日、イラク軍機がイランの航空基地10カ所を空爆し、8年間続く残忍な戦争が始まった。イラクは9月4日、イラン軍が多くの国境基地を砲撃して、戦争が勃発したと主張した。1988年の停戦により戦闘は終結した。1990年8月16日の正式な和平協定調印で、外交関係の再開と軍の撤退をした。

 1987年夏、イランがペルシャ湾内に機雷を敷設し、石油タンカーによる燃料供給への脅威は、欧米でも痛感された。アメリカ軍は、戦闘機を伴って空母をを派遣して、航路の自由を確保した。フランス海軍も、イギリス海軍も参加した。イラク軍は、イランの都市や石油基地への爆撃を再開して、イラン軍からの即時報復を引き起こした。1987年10月初旬には、イラン軍は、イラクの首都バグダッドへのミサイル攻撃で数百人の死傷者を出した。イラク空軍がイランの原油を運ぶタンカーを空襲するなど、戦争は再び激しさを増した。イラン軍は、アメリカ軍の警告にもかかわらず、クウェートの石油タンカーを攻撃した。アメリカ軍は報復として、3隻をロケットで撃沈し、石油プラットフォームを破壊した。

 イラク軍は、フランス、ソ連、ブラジル、エジプトから武器を買った。多くの国から公式に排斥されたイランは、中国、北朝鮮、シリア、リビアが活動する闇市場で賄った。武器売却上に初めて、イラクはイランにまで武器を売却した。イランと戦闘中にアメリカ製のイラン戦車が回収された。スペアパーツを持たないイラクは、それを使うことができず、どうせホメイニのイランが他で買ってくる前提で、外貨獲得のためにテヘランに武器を売り込んだ。



2022年9月2日  Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    閲覧回数 580,000    投稿数 2,208


2022年8月30日火曜日

イラク北部のキルクークで、クルド人の自爆テロ犯が爆発物を積んだ車が警察署に突入して、大爆発して大炎上し、イラク人警官は約7人以上が死亡して、約35人が負傷者が出た。

2004年2月23日に、イラク北部のキルクークで、自爆テロ犯が爆発物を積んだ車が警察署に突入して、大爆発して車や店舗が大炎上した。イラク人警官約7人が死亡して他と併せ約10人が死亡して、約35人が負傷者が出た。この自爆は、キルクークのクルド人地区で発生した。負傷者の中には、近くの学校の少年と少女4人が含まれた。

 イラク戦争が2003年3月20日に勃発して、ドナルド・ラムズフェルド国防長官は、イラクの治安状況を確認のためにバグダットを訪問した直前に、キルクークで自爆テロが発生した。テロ犯人は警察署が最も無防備になる午前8時45分に、ラヒマワ駅の外に約20人の警官が、命令を受けるために集合した交代時間帯に爆発した。警官たちが車列を組んで出勤すると、民間人の車が追いかけて、車列の最後の車に突っ込んで爆発した。

 テロ実行犯は、警官を監視して、警官のシフトの手順を知っていた。周辺の建物にも大きな損傷を与え、車による自爆テロであった。自爆テロ犯が、車を警察詰所の門に突っ込んで爆発した後に、血の池の塊で覆われた。自爆犯人の足や手の一部が警察署内に散乱した。キルクークの病院関係者によると、少なくとも10人が死亡し、約45人が負傷した。

 ラムズフェルド国防長官がイラクの首都バグダッドに到着し、アメリカ軍からイラク人への政権移譲を前に治安を見直す直前にに、爆弾テロが起きた。イラクの士官候補生たちに、イラクに駐留するアメリン軍と他の連合軍の兵力が約13万人と告げた。警察察、国境警備隊、民間防衛隊を含むイラク軍は、合計20万人以上である。

 アメリカ政府は2004年6月30日にイラク軍に政権を譲る準備を進めるが、クルド人は、将来のイラク政府下で、クルド人民兵による北部の自治を維持するよう圧力をかけた。アメリカ政権は、いかなるクルド人の地方民兵の自治にも反対した。アメリカ軍の空軍力に守られて、クルド人はサダム政権の最後の10年間は、イラクの北部国境に沿った地域でほぼ独立を享受した。イラク統治評議会は、クルド人居住区の自治権に意見の相違が生じた。クルド人はキルクークの都市部をクルドの中心地とみなした。アラブ人、トルコ人などの住民も含まれ支配権と主導権を争っている。




2022年6月8日水曜日

イギリス軍の爆撃に巻き込まれ、バスラで殺害された13歳のイラク人少年の死体を埋葬した墓の上で、チャドルの服装をしたイスラム教徒の母親が、息子の死亡を嘆き慟哭した。

イラク戦争にて、イラク南部の都市バスラにてイラク軍兵士が、アメリカ軍と多国籍軍に戦闘した。イラク軍と戦闘した地域の周囲一帯に、イギリス軍が爆撃した。イギリス軍の爆撃に巻き込まれて、13歳のイラク人の子供が殺害された。殺害された少年の死体を埋葬した墓の上で、チャドルの服装をしたイスラム教徒の母親が、墓の上で息子の死亡を嘆き慟哭した。イスラム教の聖典コーランでは、「女性は、両手と顔以外の美しい部分を隠せ」と記載されている。

 イラク戦争のバスラの戦いは、2003年3月21日に勃発して、イギリス軍がバスラ市内の中心部に侵攻した4月6日に終結した。3月23日までに、バスラ市外の空き地でわずか約3日間の戦車戦の後に、バスラの周辺地域はイギリス軍に包囲された。約3週間に、バスラ郊外で待機していたイギリス軍は、約3週間後の2003年4月6日ついにバスラを占領した。イギリス軍は、バスラの人口密集地内でイラク軍と交戦した。もしイギリス軍がバスラ市外に留まれば、民間イラク人とイラク軍兵士の両方の命は救われていた。イギリス軍は、主にバスラの人口密集地から軍事目標に砲撃と空爆をして、クラスター爆弾など爆発兵器が使用された。

 イギリス軍はバスラの戦闘中に 約9,153発の最大級の155mm砲弾を発射した。高性能の砲弾でも、射程が長く、広範囲に拡散するため、人口密集地では、砲弾が目標に届かず、大きく外れて、住宅や産業地帯に着弾して、民間人を無差別に巻き添えの犠牲が発生した。バスラ市内に残存したイラク軍は、戦車や武装車両を3月27日にバスラ市外に出撃させて迫撃砲した。イラク戦争開始後約1カ月間の空襲で、約29,199発の弾薬が投下された。より大型の武器が使用されて、多くの市民の命が失われた。2003年3月20日から4月9日の間にバスラで連合軍によって、最低約448〜593人の民間人が殺害され、少なくとも約1000人のイラク人が負傷した。アメリカ軍とイギリス軍は、イラク戦争の初期に、空と地上からクラスター弾を発射した。クラスター弾には、広範囲を無差別に殺害する小型の爆薬が含まれた。2008年からクラスター爆弾禁止条約が発行された。日本は2009年・イギリスは2010年に批准して、アメリカ・ロシア・中国等は未だに批准していない。




2022年5月13日金曜日

1991年のイラク動乱により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害して死体を見つめた。

1991年のイラク動乱(Iraqi uprisings)により、イラク・クルディスタン地方の中心都市のエルビルで、クルド人の反乱軍は、イラク共和国軍の防衛隊員を殺害した。そのイラク人の防衛隊員の死体を見つめた直後に、クルド人の反乱軍はすぐにその殺害現場から撤退した。イラク反乱軍は、捜索したバース党の役人をすべて殺害し、政府の役人の家族や親戚までを虐殺した。

 湾岸戦争は、アメリカ軍が主導する多国籍軍が1991年1月17日に参戦した。砂漠の嵐作戦により、イラク軍は圧倒的に壊滅して2月28日に終結した。イラクのサダム・フセインのバース党政権が弱体化に対する1991年のイラク動乱が、主にイラン・イラク戦争と湾岸戦争の敗戦から勃発した。湾岸戦争終結後の終結後から、1991年のイラク動乱は3月1日から4月5日まで、サダム・フセイン政権に対するシーア派とクルド人が主導したイラクの民族・宗教の反乱となった。1991年のイラク動乱は、イラクの人口と経済に壊滅的な打撃を与えた。

 最初の2週間で、イラクのほとんどの都市と地方が反乱軍に陥落した。蜂起の参加者は、軍の叛乱者、シーア派アラブ・イスラム教徒、クルド人民族主義者、クルド人イスラム教徒、極左集団など、民族、宗教、政治的所属が多様に混ざり合った。最初の勝利後、革命は内部分裂と、期待していたアメリカやイランからの支援の欠如によって、継続的な維持は困難に陥った。ブッシュ政権は、イラクのレバノン化、イランの支援を受けたシーア派がバグダッドで権力を握る、もう一つのベトナム、反乱軍に何の支援も行わなかった。サダム・フセインのスンニ派アラブ人が支配するバース党政権は、首都バグダッドの支配を維持して、まもなくイラク共和国防衛隊が先導して、軍隊による残忍な大量虐待と大量虐殺により、イラク反乱軍をほぼ制圧した。

 わずか1ヶ月の短い騒乱の間に、イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク南部で約3万〜6万人のシーア派、イラク北部で約2万人のクルド人を殺害した。数万人が死亡して、約200万人近くの難民が避難した。イラク政府軍は、反波乱軍と同等に残虐であった。イラク動乱後に、イラク政府はマーシュ・アラブ人に組織的強制移住とチグリス・ユーフラテス川流域のメソポタミア湿地の排水を事前に強制した。湾岸戦争連合軍はイラクの北部と南部に飛行禁止区域を設定して、クルド人の反政府派はイラク・クルディスタンにクルド人自治共和国を設立した。




2022年3月27日日曜日

ハラブジャ大虐殺は、イラン・イラク戦争中にイラク北部の約5,000人のクルド人を、イラク軍が化学兵器の毒ガスで大量虐殺した。

ハラブジャ大虐殺(Halabja massacre)の事件は、イラン・イラク戦争中にイラク北部のクルド人に対してイラク軍が化学兵器を執行した。1986年から1988年にかけて、ハラブジャ大虐殺の都市で毒ガス攻撃が行われた。イラク北部で1986年から1988年にかけて、サダム・フセインの反乱を鎮圧する作戦の一環であった。サダム・フセインは、イラク軍の北戦線の司令官であるアリ・ハサン・アル・マジッド・アル・ティクリティ中尉に、イラン軍の侵攻を阻止するために、毒ガス爆弾を使用してイラン軍の前進を阻止するように指示した。事件は1988年3月16日に発生した。ハラブジャの町は、有毒ガス爆弾を搭載した8機のミグ(MiG-23)戦闘機によって爆撃された。この事件で、約5000人が毒殺されて命を落とし、約7000人以上が負傷したと予測された。国連から委託された健康調査の結果、マスタードガスと種類が不特定の神経ガスが攻撃に使用された。科学兵器により、約3,200人から5,000人が命を落とし、約1万人から7,000人の民間人が負傷し後遺症を残した。しかし、サッダ政権は一貫して、事件はイランの仕業と関与を否定した。イラン・イラク戦争にてスンナ派諸国、欧米諸国などの多くがイラク側を支持して、ハラブジャ大虐殺は黙殺される状況になった。

 毒ガスの発生後に、空気の匂いが変わり、腐ったリンゴの匂いがした。ある子供たちの一人は、「お母さん、リンゴの匂いがやってくる!」と言い残した。咳をして地面に倒れた人は、二度と起き上がれなかった。地面に横たわった人の口から泡が出ていた。毒ガスは重く、地下室に避難して、よけいに多くの民間人が虐殺された。毒ガスを吸入した子供や大人に、合併症や様々な病気から遺伝性不妊症などが発生した。ナチス・ドイツのユダヤ人大量虐殺で使用されたシアン化水素化合物(青酸ガス)、マスタードガス、サリン、VXガスなど複数の種類が極めて大量に用いられたと推測された。化学兵器(CW)とは、化学物質の毒性を兵器として利用する。大量破壊兵器(WMD)と見なされ、化学兵器の使用は国際人道法により禁止されている。旧サダム・フセイン政権のために化学兵器を調達したオランダ人のフランス・ファン・アンラートはが逮捕され、15年の禁固刑を受けた。

 サダム・フセインがハラブジャ虐殺でクルド人に対して大量虐殺の裁判にかけられるも、死刑の求刑は暗殺未遂の容疑として約148人のシーア派イラク人を殺害したデュセイル虐殺の人道に対する罪のみで有罪判決を受けて、2006年12月30日に絞首刑に処刑された。ハラブジャ大虐殺をしたアンファル作戦を率いたイラク高官のアリ・ハッサン・アル・マジッドは、ハラブジャ大虐殺を命令して有罪となり、2010年1月25日に死刑が執行された。イラク最高刑事裁判所は、2010年3月1日にハラブジャ虐殺を大量虐殺の行為と認定した。



























(Ref. : https://tr.glbnews.com/03-2022/1341065622/)

2021年11月19日金曜日

アメリカ人の請負業者の4人が乗った車が2004年3月31日に、イラク戦争後のファルージャにて、待ち伏せ攻撃を受けて炎上した。

アメリカ人の請負業者の4人が乗った車が2004年3月31日に、イラク戦争後のファルージャにて、待ち伏せ攻撃を受けて炎上した。逃げようとした4人のアメリカ人は、銃撃されて虐殺された。イラク人らはのリンチにより焼かれた死体を切断して、公共の場所に吊るされた。イラクでアメリカ人の労働者4人がイラク人に虐殺された。虐殺されたアメリカ人は、ブラックウォーター社の契約者4人である。ファルージャで殺害された4人は、連合軍と協力している請負業者である元海軍特殊部隊員の傭兵がファルージャに派遣された。スコットン・ヘルベンストン(38歳)、ジェリー・ゾフコ、(32歳)、マイケル・ティーグ(38歳)、ウェスリー・バタロナ(48歳)であった。

 ファルージャの住民は「ファルージャはアメリカ人の墓場だ」と唱えながら、2台の四輪駆動の民間車を炎上させた。アメリカクー人が悲惨な襲撃を受けた後に、歓声を上げた。「我々はイスラム教のために血と魂を犠牲にする」と唱えたイラク人もいた。一人のイラク人男性が金属棒で黒焦げの焼死したアメリカ人の死体を殴って一部を粉砕した。黄色いロープを黒焦げの死体に結びつけて、車に引っ掛けて町中を引きずり回した。一部の群衆が、死体を吊るせと叫んだ。ユーフラテス川に架かる緑色の鉄橋に、黒焦げでぐちゃぐちゃになった2つの死体が吊るされた。

 請負業者のブラックウォーター社から派遣された傭兵たちの任務は、食品供給会社(ESS)のトラックを保護することだった。トラックは、アメリカ軍に厨房機器を輸送すめために、傭兵を乗せたトラック3台とSUV2台の車列であった。車列が通過するのを隠れて待って、発射された銃撃で車両を攻撃して、傭兵を虐殺した。イラク人らは傭兵の死体を車から降ろし、ガソリンをかけて炎上した。その攻撃の4日後に、アメリカ軍はファルージャへの本格的な攻撃を行って、2004年4月4日から5月1日にかけて、第一次ファルージャの戦いが勃発した。それに対して、傭兵の親族は、待ち伏せ攻撃は計画されたものである。あまりにも巧妙であり、反乱軍ではなく、第一次ファルージャ攻撃するための特別に用意された罠だと訴えた。

 ファルージャ事件は、燃え盛る車両や脇に横たわる死体、橋に吊るされた黒こげの死体の衝撃的な映像が、アメリカから世界中で報道された。アメリカ軍は犯人を司直の手に委ねることをファルージャ側に要求したが受け入れられなかった。アメリカ軍を基幹とする連合軍は、ファルージャの市街地を包囲する広範なアンバール地域において侵攻を開始した。