2021年4月30日金曜日

イギリス軍の無差別の大空襲により崩壊したハンブルクの廃墟から、民間ドイツ市民らは死体と爆弾を瓦礫から除去する作業をした。

イギリス軍の無差別の大空襲により崩壊したハンブルクの廃墟から、民間ドイツ市民らは死体と爆弾を瓦礫から除去する作業をした。瓦礫の中に頭から突っ込んで爆死した民間ドイツ市民の死体が散乱した瓦礫に埋まっていた。民間ドイツ市民は、瓦礫から身内や死体を探索した。
 1943年夏の11日間だけで、連合国の爆撃機は、ドイツ第2の都市であるハンブルクの約175万人の市民に対して、6回の大規模な無差別の空襲を行った。ドイツ軍の軍需工場を攻撃だけでなく、戦意の士気を低下させるために、人口10万人を超える全ての都市のドイツ人労働者とその家族を標的にした。イギリス空軍(RAF)は、民間ドイツ人をドイツの戦争機械の一部であると狂気した。唯一の防御は攻撃であり、自国を救うために、より早く多くの敵国の女性と子供を殺害した。ハンブルグの都市のドイツ市民は、死の大惨事(die Katastrophe)と呼称した。悪名の高い危険な無差別な大空襲が、ハンブルグを空爆して約280,000万棟の建物が崩壊した。建物が粉砕されて、放火されて、道路が封鎖されて、水道管が破裂して、窓や屋根を吹き飛ばした。熱風は最大約240km/時に達して、気温は約800度に達して、住民は火炎に吸い込まれた。約17,000機もの爆撃機が、約90,000トン以上も空爆した。長崎原子爆弾の犠牲者の半数に相当する約34,000人から43,000人のドイツ人市民が殺害された。
 1943年7月24日から、イギリス軍の爆撃機が、ドイツのハンブルクを夜中のゴモラ作戦で大襲撃した。イギリスは、ドイツ空軍の7月の爆撃だけで、約167人のイギリス市民が殺害されていた。7月24日の夕方から、イギリス軍の約791機の爆撃機がハンブルクにわずか数時間で約2,300トンの焼夷弾を投下した。最初のイギリス軍の大空襲で、約1,500人以上のドイツ民間市民が殺害された。一方で、アメリカ空軍(USAAF)は日中のハンブルグに2回の空襲から、大空襲週間(Blitz Week)にドイツ北部から広範囲な空爆した。第二次世界大戦が終結するまで、ベルリンやドレスデン、その他数十の都市を一掃する戦略を継続した。

2021年4月29日木曜日

韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭して泣き崩れた。

韓国のベトナム戦争で戦死した韓国人兵士を埋葬するソウルの公園に韓国軍墓地がある。記念公園の韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭した。1966年1月1日の正月に花々を埋けながら息子の墓に泣き崩れる母親を、身内の女性が支えた。ベトナム戦争記念公園には、無数の戦死した韓国人の墓が立ち並んで、さらに今後の韓国人戦死者のための広大な墓地が整備されていた。かつては、多くの韓国人家族は、ベトナム戦争派兵結団式で我が子と最後の面談をした。韓国軍幹部から閲兵されて、釜山港から南ベトナムに派兵される我が子を見送っていた。
 韓国軍は、ベトナム戦争の1965年から本格的に参戦して、1973年に撤退した。のべ約40万人以上の韓国人兵士が、南ベトナム政府軍とアメリカ軍側の戦争で戦うために、南ベトナムに派遣された。猛虎(メンホ)、白馬(ペンマ)と青龍(チョンヨン)の精鋭の軍団が参戦して、南ベトナムに常時約4万人が駐在した。ベトナム戦争に参戦する韓国人兵士らは、韓国各地の基地から続々と釜山港に送り込まれて、南ベトナムに出港した。ベトナム戦争中に、韓国人兵士は約5,300人が殺害された。先史時代以来、韓国人兵士が海外に出て戦ったのは初めてだった。白衣の民族であった韓国は、迫害されても他国を迫害しなかった歴史を破った。
 アメリカからベトナム戦争への参戦の要請であった。韓国軍事政権の朴正熙大統領は、1961年5月16日に軍事クーデターで、国家権力を掌握して1963年に大統領となった。漢河の奇跡となる爆発的な経済成長、アメリカ同盟、韓国軍力の強化を求めて、ベトナム戦争に参戦した。政敵や民主化運動を弾圧して、財閥と癒着して腐敗した。1979年10月26日に、宴会で側近の中央情報部(KCIA)の金載圭により射殺された。


 

2021年4月28日水曜日

ビルマ戦線において、イギリス軍とインド軍に殺害されて、仰向けの日本軍兵士の死体が、ビルマ北部のシュエリー川を漂った。

大東亜戦争のビルマ戦線において、1945年2月にイギリス軍とインド軍に殺害されて、仰向けの日本軍兵士の死体が、ビルマ北部のシュエリー川(Shweli River)を漂った。イギリス軍とインド軍はシュエリー川の流域で日本軍に対して、最も激しい空爆と陸爆が行われた。その後にイギリス軍とインド軍は、シュエリー川を越えてマイトソン村への爆撃機が横断して空爆と陸爆を強行した。シュエリー川はイギリス軍とインド軍がビルマ中央部に侵攻するのを妨げられた最後の川であった。日本軍は渡船の横断に猛烈に抵抗した。イギリス軍とインド軍は、1945年2月1日にシュエリー川を渡った後に、ジャングルを通ってマイトソン村に侵攻した。
 シュエリー川は、ビルマと中国雲南省との間の境界の一部を形成した。日本軍は1942年初頭に、ビルマ南西部のラングーンから、鉄道で北にラシオに移動して、ビルマ道路を経由して中国との国境を越えた物資の補給路を遮断した。日本軍がビルマを占領して、1942年にビルマ道路を閉鎖して、陸路による連合軍から中国の国民党軍の補給が途絶えた。連合軍は、ビルマ道路に到達するために、ビルマ北部のシュエリー川の上流に部隊を派遣した。ビルマ道路にて、連合軍と中国軍の侵攻に、日本軍は激しく抵抗した。連合軍兵士は、深い谷から雲の上の山頂までの狭い道を進んで、ミッチーナーから南の険しい山々を通ってシュエリー川まで侵攻した。1945年1月初旬に、ビルマ道路を見下ろす坂道から、日本軍を駆逐した。大砲と迫撃砲により、ビルマ道路に発砲し、地雷を敷設して、日本軍は壊滅して撤退して遁走した。
 1941年12月26日に、アウン・サンがビルマ独立義勇軍を設置して、日本軍とイギリス統治下のビルマに侵攻した。日本軍の占領下で、ビルマ国が1943年8月1日から1945年3月27日まで独立した。日本軍がインパールで1944年7月に敗戦後に、1945年3月27日にアウンサンのビルマ国民軍が、日本軍による占領を奪還した。1947年7月19日にアウンサンが暗殺された戦後まで、イギリスが再占領した。1948年からビルマ連邦としてイギリスから離脱するも、1958から軍事政権に転換した。1989年以降にビルマ軍事政権は、ビルマの公式の名称は、ミャンマー(Myanmar)に転換された。2011年からアウサン・スーチーらの与党・国民民主連盟(NLD)が文民政権に移行した。突然に2021年2月1日に国軍がクーデターで権力を掌握し、ミン・アウンフ・ライン最高司令官がミャンマー国家の権力を掌握した。



2021年4月27日火曜日

バングラデシュの西ディナジプールの難民キャンプで、重篤のコレラにて瀕死の身内の身体を、親族が両腕で抱えて護送した。

1971年3月26日から12月16日に終結するまでバングラディッシュ解放戦争が勃発した。バングラデシュの西ディナジプールの難民キャンプで、バングラディッシュ人の旦那が、劣悪な環境で、重篤のコレラにて衰弱して死にかけた女性の家内の身体を、両腕で抱えて救護を求めて運搬した。パキスタン軍は、抵抗に加わる可能性が特に高い人々を探索して、特に若者を掃討した。バングラディッシュの若者の死体が、野原や川に浮かくで散乱した。

 西パキスタンにより1971年3月26日に東パキスタンでバングラデシュ大虐殺が突発した。西パキスタン軍の兵士と軍事組織の民兵が、バングラディッシュのジェノサイドに軍事介入した。西パキスタンの軍隊は首都ダッカの歩道で視界にいる人々を襲撃して、途上で建物を破壊した。戦車はダッカの通りを砲撃して、人々や建物を無差別に爆破した。集落の人々の群れも撃ち殺して火を放った。戦車が大通りで轟音を立て大砲が炸裂した。特にダッカ大学やヒンズー教施設が標的にされた。貴重品を略奪して、女性を強姦して、武装していない民間人を大量虐殺するジェノサイドを執行した。
 西パキスタンの軍事弾圧によって、東パキンスタンと呼称されたバングラデシュでの大量虐殺が1971年3月26日に勃発した。3月27日には、対抗するバングラディッシュが独立宣言をした。約9ケ月に及ぶバングラディッシュ解放戦争中に、西パキスタン軍とイスラム主義民兵が、ベンガル人民族主義を粉砕して約200,000人から約3,000,000人を殺害した。さらにバングラディッシュのベンガル人女性を、約200,000人から約400,000人を大量強姦した。バングラディッシュの主にヒンズー教徒の約800万人から1,000万人が、隣国に難民として避難した。約7,000万人のうちで約3,000万人のバングラディッシュ住民が難民となった。ベンガル人は、ウルドゥー語のビハリス人を、約1,000人から約150,000の人種的な大量虐殺をした。
 アメリカは、西パキスタンを冷戦下の同盟国とした。インドは12月16日までに、西パキスタンを無条件降伏に追い込んで、バングラディッシュは独立を達成した。1948年国連のジェノサイド犯罪条約で、国、民族、人種、または宗教の集団を、全体的または部分的に破壊する大量虐待と大量虐殺と定義していた。 

 

2021年4月26日月曜日

ギリシア内戦にて、迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。

ギリシア内戦下にて、アンダンテのゲリラに襲撃されたギリシア民主国民軍(GNA)は、カスタニア村に向けて迫撃砲を打ち込んだ。迫撃砲が民家の開いた窓の外側で炸裂した。住民は頭部の左側を吹き飛ばされて即死した。爆死したアンダンテのゲリラの死体が横たわっていた。家族ならびに近隣の住民の夫人らが死体を取り囲んだ。その死体の胸の上には花束と、あの世に渡る代金である2ドル相当の1万ドラクマ札を供えていた。ゲリラの死体を取り囲み慟哭しながらキリスト教の唱歌を唱和した。ギリシアのゲリラの拠点であったカスタニア村は、第二次世界大戦中にナチス・ドイツ軍の占領によって、約280戸のうち約260戸が破壊された。その後は約600人のギリシア人の住民が潜伏した。ギリシアのゲリラは、アンダンテと呼称された。1946年9月頃にアンダンテがゲリラ活動を再開すると、ピンダス連山の一帯に潜伏したゲリラを捕獲できずに、ギリシア政府軍の憲兵が立ち去った。
 憲兵は、ゲリラ活動に対して厳重な経済封鎖で対抗した。ピンダス連山一帯の地域住民に対する食料から衣類など全ての日常用品の持ち込みを封鎖した。経済封鎖のの最大の犠牲者は地域住民であり、買い出しに近隣のカラバダ村に買い出すと、アンダンテのゲリラと容疑されて虐待と虐殺される危険性を伴った。
 ナチス・ドイツ軍がギリシアを占領中に、ギリシア人民解放軍(ELAS)に参戦したアンダンテのゲリラらはレジスタンス運動をした。ギリシアの占領が解放されると、左翼のレジスタンス運動から共産主義の烙印を押された。地元では、その経歴から排他されて無職に陥った。逆に、対ドイツ協力派を含むギリシア民主国民軍(GNA)は、ELASを捕獲するため、ギリシア政府から武器を支給された。追い込まれたアンダンテのゲリラは、ピンダス連山一帯に致し方なく潜伏した。アンダンテのゲリラ部隊は、分裂して独立した個別集団となった。

 ギリシャ政府軍は、1946年から1949年までに約48,000人の死傷者を出した。武装した反政府勢力はおそらくその死傷者の約半分を被った。しかし、両側の死の部隊は、数千人の民間市民を殺害して、さらに多くの人々が残虐行為、病気、飢餓で死亡した。内戦の結果として、約158,000人のギリシャ人が死亡したと推定された。ギリシャはほとんど経済的荒廃に陥った。
 ギリシアからイタリア軍は1943年夏に、ドイツ軍は1944年9月に撤退した。共産主義系の民族解放宣戦(EMA)とゲリラ部隊である人民解放軍(ELAS)、国民共和ギリシア連盟(EDES)が占領に対抗した。1944年12月に、ギリシア国軍(GNA)は、イギリス軍の支援を受けて、EAMとELASを打倒した。EAMは地下に潜伏して、ELASはゲリラ戦のために山地に後退した。GNAは、アメリカから大量の軍事物資の供給を受けて優位に立った。

 ギリシャが枢軸国軍から解放されて亡命政府が帰還した。1944年12月3日に十二月事件が勃発して、共産主義左派(EMA/ELS)と王党派右派(EDES)の間で対立が先鋭化して、1946年にはギリシャ内戦が勃発した。ソ連と隣国ユーゴスラビアに支援された共産勢力が、ギリシャ民主軍(DAG)というゲリラ部隊を組織した。戦後の財政難に苦しむイギリスに替わってアメリカ合衆国が、マーシャル・プランで王党派右派政府の全面的な支援に乗り出した。さらに1948年以降にユーゴスラビアとソ連が対立して、ギリシャの共産勢力はソ連を支持したため、ユーゴスラビアからの援助が失われ、内戦は1949年に共産主義勢力の敗北によって終結した。 


2021年4月25日日曜日

スペイン内戦中に左派の共和党派の民兵による赤色テロで、バルセロナのカトリック教会の修道院で埋葬された尼僧の棺桶と死体を、修道院前で公然にさらして冒涜した。

スペイン内戦中の1936年9月から10月にかけて、左派の共和党(ロイヤリスト)派の民兵が、バルセロナのカトリック教会を襲撃した。修道院で埋葬されていた尼僧の棺桶と死体を掘り起こして、カトリック教会の修道院前に尼僧の死体を棺桶を開いて、公然とさらして冒涜した。教会の墓が開かれ、聖人、司祭、尼僧の死体が通りで発掘されて、展示して冒涜された。
 スペイン内戦の1936年から1939年の間に、左派の共和党派(ロイヤリスト)による赤色テロで、スペインの約6,800人以上のカトリックの聖職者と宗教者が殺害された。約13人の司教、約4,172人の司祭と神学校、約2,364人の僧侶と修道士、さらに283人の尼僧が犠牲となり、約2万もの教会が破壊された。19世紀から20世紀に、カトリック教会はスペインの君主制を支援した。スペイン内戦の中で、共和党派は、反道者としてカトリック教会を虐待と虐殺した。西洋史にて暴力的で残酷なカトリック教会の甚大な迫害となった。

 当時スペインでは貴族らが、自分の支配地で専制君主であり、全能絶対の支配者として、農民や市民達の生活のすべてを支配した。カトリック教会の司祭達は貴族らと結びその支配を助け利益を得た。教会は堕落したカトリック教会の牙城となり、宗教会を支配した。まずカトリック教会から政治的支配権を奪うために、スペインの新興の農民と市民には、赤色テロで貴族と結びついたカトリック教会が宿敵に至った。
 スペイン内戦中に、戦闘戦線での死と破壊は、その背後での殺人と弾圧と一致していた。スペイン内戦の最初の数か月間の死者のほとんどは戦死ではなく、赤テロあるいは白テロの政治的処刑よる執行であった。民間人と戦闘員の区別を曖昧になり、社会的および政治的な敵に対して残虐行為が横行した。赤色テロの犠牲者数は、約38,000人から約72,344人と推定された。赤色テロは、主要都市で反乱が失敗した後に、反政府勢力の殺害から始まった。右翼またはカトリック教会に対する大規模な逮捕と処刑に拡大した。
 スペイン内戦に勝利した反乱軍(ナショナリスト)のフランコ主義者たちは、共和党派の血なまぐさい赤色テロが、膨大な仲間の市民の絶滅を主導したと喧伝した。ナショナリスト派で死亡した犠牲主は、正当かつ高貴な理由で殉教者として奉られた。共和党派は犯罪者および反スペイン人として非難されて、大部分は無印の墓に埋葬された。1987年からカトリック教徒の総本山であるバチカンで、殉教者として約1,916が列福と約11人が列聖された。



2021年4月24日土曜日

広島原子爆弾により24歳の被爆者は、母親の胎内で被爆を受けて、頭囲が著しく小さい小頭症による重度の知的障害を伴った。

広島原子爆弾によって、胎内被爆した24歳の小草信子さんが、1946年3月7日に誕生した。原子爆弾の炸裂によって、母親の胎内で約2月程度の胎児が、放射能による遺伝子障害を受けた。小頭症は頭囲が著しく小さい。爆心地より近距離からの早期の被曝による小頭症と、1967年9月7日に原爆症に認定された。重度の知的障害を伴って、児童程度の知能に留まって、日常生活活動と社会活動に支障を伴う。重複障害を伴って、先天性奇形により、生後から右足関節の機能全廃の障害を受けた。知的精神障害だけでなく、重度の身体障害も伴っている。24歳の女性であるが、身長は小学生程度の発育にとどまっている。
 広島市中局私書箱第119号に、原子爆弾の胎内被爆で原爆小頭症を受けた子供を持つ親達の18人と支援者らがきのこ会を結成している。アメリカが占領期に設置した原爆傷害調査委員会(ABCC)は、1952年には原爆小頭症を伴った16人の障害児を論文発表していた。広島における胎内被爆児の小頭症について調査と研究したABCCは、原爆小頭症を患う子の親には、妊娠中の栄養失調が原因であると説明していた。1957年の原爆医療法の対象から除外されていた。当事者らが広島研究会の調査により、1965年に原爆小頭症の科学的根拠である1952年の学術英語論文を発見した。1965年に、18人の原爆小頭症を患う子と親のきのこ会が結成された。きのこ会の関係者らの社会運動によって、1967年に日本政府は原爆小頭症と原子爆弾の因果関係を認めて、被爆者手帳を交付した。
 きのこ会の名称の由来は、「きのこ雲の下で生まれた命。たとえ日陰で暮らしいようとも、落ち葉をおしのけ成長するきのこのようにすくすくと育ってほしい」と親子と支援者の願いであった。原爆小頭症のきのこ会は、被爆者と障害者であることに対する二重の差別に苦悩した。

 


 

2021年4月23日金曜日

日露戦争の奉天会戦中に、李官堡の戦いにて殺害されて累々と散乱した軍隊兵士の死体を通り過ぎながらロシア軍を追撃した。

日露戦争の奉天会戦中に、1905年3月7日の李官堡(りんかんほ)の戦いにて、殺害された軍隊兵士の死体が累々と散乱した。その多数の死体を通り過ごしながら、日本軍兵士らはロシア軍を追撃した。日本軍は、奉天から西方に約120kmに位置する李官堡から、直路にて奉天城に迫った直後に、李官堡から北方にロシア軍を侵攻した。李官堡は、ロシア軍を迂回して包囲する中心軸をとなっていた。李官堡の戦いで、ロシア軍は日本軍の中心軸となる李官堡を襲撃した。
 猛烈な戦場となった李官堡の東方約2kmの干洪屯とその南側の3軒屋において、ロシア軍の包囲攻撃で、日本軍は崩壊して追い詰められていた。李官堡の戦いの三軒屋で戦死した吉岡友愛、日本軍の危機を報告できず自決した大越兼吉、遼陽会戦で武功した市川紀二の戦死が、ロシア戦争後に壮烈無比の忠勇美談を国民に浸透させて語り継がせた。
 しかし、一部のロシア軍は既に3月7日の早朝に李官堡から渾河まで撤退を開始していた。日本軍は、一部撤退を始めたロシア軍に対して追尾をして攻撃した。連日の戦闘で、日本軍は著しい損害を受けて、補給も不足して、寒気と過大な消耗で、疲労困憊した。3月8日も、ロシア軍から猛烈な攻撃を受けた日本軍は甚大な損害を受けて壊滅して混乱した。日本軍の総司令部は、追い詰められた日本軍を緩慢な長蛇の列と批判して、奉天付近のロシア軍に迅速で果敢な追撃を要求した。3月10日に、ロシア軍は、背後から日本軍に襲撃されて分断されて、奉天城の付近は大混戦に陥った。ロシア軍は、3月10日から本格的に北方に撤退を開始するも、失墜した日本軍はロシア軍に対する北方追撃は困難となった。 
 日露戦争にて、日本軍は旅順を陥落して、ロシア軍を追撃した。1905年2月21日から、中国満州の奉天(瀋陽)で、日本軍約25万人とロシア軍約35万人が、日露戦争で最も犠牲を伴った奉天会戦が勃発した。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、甚大な損失を伴ってロシア軍の追撃は困難となった。3月10日に、日露戦争の最大の犠牲で最後の奉天会戦は、ロシア軍が撤退して、日本軍が奉天城を占領して終結した。日本軍の死傷者は約7万(うち戦死者は約1万5000)。ロシア軍の死傷者は約6万(うち戦死者約9000、行方不明者約8000)、捕虜2万800にも達した。奉天入城した3月10日を祝勝する陸軍記念日なった。


 

2021年4月22日木曜日

ゲティスバーグの戦いで、リトルラウンドトップの近辺の「虐殺ペン」と呼称された地域にて、北軍に殺害された南軍兵士の死体が散在していた。

アメリカの南北戦争のゲティスバーグの戦いで、リトルラウンドトップ(Little Round Top)の近辺の「虐殺ペン」と呼称された地域で、北軍に殺害された南軍兵士の死体が散在していた。ゲティスバーグの近くの丘の中で、4人の南軍兵士が戦死していた。
 リトルラウンドトップは、ペンシルベニア州ゲティスバーグの南にある2つの岩だらけの丘のうち小さい方である。ビッグラウンドトップという名前の隣接する背の高い丘の同類である。北軍と南軍の双方は強烈な銃撃を続け、繰り返しの突撃と反撃を行った。南北戦争中のゲティスバーグの戦いの第2日目である1863年7月2日に、南軍による北軍の左翼への攻撃が失敗した戦場であった。
 リトルラウンドトップの戦いは、北軍の軍団によって首尾よく防御された。大佐は戦闘中に致命傷を負い5日後に死亡した。チェンバレンが指揮した北軍のメイン州志願歩兵連隊は、南軍に対して血なまぐさい会戦を戦った。弾薬が枯渇して、固定銃剣で反撃を命じられて、劇的な下り坂から降りて銃剣で南軍に突撃して、混乱した南軍はリトルラウンドトップから降伏に追い込まれた。リトルラウンドトップを保守した北軍の戦いは、ゲティスバーグの戦い中で、南北戦争全体の中で最も重要な交戦の1つになった。南軍がすでに消沈した北軍を打ち砕き、北軍政府を南北戦争の和平交渉のテーブルに押しやる可能性が消滅した。
 リトルラウンドトップで北軍に従軍していた約2,996人のうち、約134人が戦死、約402人が負傷、約29人が行方不明となった。南軍の犠牲は、約4,864人のうち、約279人が戦死、約868人が負傷、219人が行方不明となった。


2021年4月21日水曜日

ウクライナの首都キエフにて、ソビエト赤軍が撤退した後に、赤軍によって虐殺されたチェーカーの犠牲者の大量の死体が、サドーヴァ街5番地で掘り出された。

ウクライナの首都キエフにて、1919年にソビエト赤軍が撤退した後に、赤軍によって虐殺されたチェーカーの犠牲者の大量の死体が、サドーヴァ街5番地で掘り出された。その地区は、ボリシェヴィキによるテロルの拠点であった。ソビエト赤軍は、ウクライナのボルシェヴィキは、プロレタリアを独裁者の敵として虐殺した。ウクライナのボルシェビキによる犠牲者らは、裸にされて切断されて虐殺された死体を土中に埋められていた。
 1917年12月から1921年11月にかけてウクライナの支配を巡って、首都キエフであるウクライナ人民共和国と、ソビエトおよびその傀儡政権ウクライナ社会主義ソビエト共和国との間で、ソビエト・ウクライナ戦争が勃発した。ロシア革命後に起こった紛争で、ソビエト赤軍派の勝利で終わった。戦争中にはウクライナ人が著しい虐待と虐殺を受けて、約10人に1人が殺害された。1922年12月にウクライナ社会主義ソビエト共和国は、ソビエト連邦に取り込まれて支配された。
 第一次世界大戦中に、1917年の2月革命にてロシア帝国が崩壊した。その後に1917年7月に,ウクライナでは中央ラーダ政府が誕生した。ロシアは10月革命を経て、革命左派により臨時政府が樹立した。中央ラーダ政府は1917年11月に「ウクライナ人民共和国」の建国を宣言した。ロシアの臨時政府と中央ラーダ政府は、ウクライナの自治領域の拡大を巡って対立した。ロシア・ソビエト政権はウクライナ人民共和国を認めず、1917年12月ウクライナにソビエト赤軍を派遣した。それ以後約4年間にもわたるウクライナ・ソビエト戦争に突入した。
 ウクライナの首都キエフを放逐された中央ラーダ政府は、1918年4月にドイツ帝国が介入して締結して抵抗した。1919年2月から1921年3月までのポーランド・ソビエト戦争に対するリガ平和条約により,ウクライナ人民共和国の領土は、ポーランドとソ連に分割・解体されて支配された。
 一方で,ロシア・ソビエト政府の支援の下で,1919年第3回全ウクライナ・ソビエト大会で、ウクライナ社会主義共和国が成立した。1922年12月に,ソビエト連邦を構成する共和国となった。また,クリミアにおいても,1917年12月にクリミアのタタール人を中心とする世俗国家「クリミア人民共和国」の建国を宣言するも、1918年1月にロシア・ソビエト政府により占領されて滅亡した。

2014年3月16日に、ウクライナにおけるクリミア半島のクリミア自治共和国は、「共和国政府」による違法な「住民投票」を実施をした。ロシア編入をクリミア住民の約96.6%も支持したと誤報した。ロシア軍は2014年3月18日にクリミアを「併合」した。ウクライナ政府はこれをロシアの武力による違法占拠とし承認していない。その後、東部でも情勢が不安定化し、武装勢力等が地方行政府各施設を占拠したことを受け、ウクライナ政府軍と武装勢力の戦闘が開始された。クリミア危機とウクライナ東部紛争は現時点も継続している。

2021年4月20日火曜日

アメリカ軍が最初に解放したオーアドルフ強制収容所で、連合軍司令部はアメリカ軍幹部に多数の囚人の死体を視察させた。

アイゼンハワー連合軍総司令官は、1945年4月4日にアメリカ軍が最初に解放したオーアドルフ強制収容所で、多数の囚人の死体を4月12日に視察した。ナチス・ドイツのホロコーストの認否を防ぐために、軍関係者を含む近隣のすべての連合軍の要員に対して強制収容所を通過して視察するように命じた。
 アメリカ軍兵士はナチス・ドイツの残虐行為の恐怖を免れなかった。アメリカ軍が最初に解放したナチスの強制収容所は、ブーヘンヴァルト強制収容所の支部であったオーアドルフ(Ohrdruf)強制収容所が1945年4月4日に解放された。アメリカ軍によって解放された後に、4月12日に連合軍総司令官であるドワイト・D・アイゼンハワーがオーアドルフ収容所を視察して、近隣のすべてのアメリカ軍幹部にオーアドルフ強制収容所の視察を命令した。1937年から1945年の間に約25万人が、ブーヘンヴァルト強制全収容所に投獄されて、恐らく約11,000人のユダヤ人を含む少なくとも約56,000人の囚人が虐殺された。
 アメリカ軍はさらに4月11日になって、オーアドルフ強制収容所部の本部であるドイツのワイマール州にあるブーヘンヴァルト(Buchenwald)強制収容所を解放した。強制収容所に到達した時には、取り巻く厚い有刺鉄線の柵を突破した。囚人が恐ろしい死の収容所から逃げるのを防ぐ柵は電気で熱くなっていた。柵を突破すると、予期せぬナチス・ドイツ軍兵士は退散していた。強制収容所を偵察すると、火葬場となった大きな煙突のある複数の建物を目撃した。収容所の建物に近づくと、やっかいな目付きをした囚人を横切った。囚人らは極度の飢餓で皮膚と骨であった。収容所を通り抜けるとき、ホロコーストの犠牲者の集団墓地にて恐ろしい光景に遭遇した。集団墓地は、高さ約1.5mの裸の死体の山、悪臭と恐ろしい臭いが充満していた。死体は薪のように積み上げられ、強制収容所の全域に散らばっていた。毒ガス室に連行されて殺害した方法にアメリカ軍兵士はショックを受けた。
 アメリカ軍がブーヘンバルト強制収容所を解放した時には、約21,000人の衰弱して飢えた囚人と死体の山を発見した。アイゼンハワーは、「雌犬の息子が、これは決して起こらなかったと言う日が来るだろう」と思い込み、できるだけ多くの兵士に強制収容所を視察されたいと思った。軍人にその恐怖を目撃するように命じた。強制収容所の犠牲者にはユダヤ人だけでなく、非ユダヤ人の囚人にも残虐行為があった。その他のナチス強制収容所が解放された時、多くのアメリカ軍兵士は 目撃した恐怖に感情的な心的外傷後症候群を負わされた。涙、悲鳴、否定、そして憎しみが含まれた。死の強制収容所で、囚人が扱われ、殺され、埋葬された野蛮な方法は、非人道的であった。囚人の解放は、ホロコーストの壊滅的な影響の一部を和らげても、悲劇的な出来事は永遠に悩まされる。

2021年4月19日月曜日

イギリス艦隊は、旧式のアレクサンドリアの要塞に砲撃して爆破して、エジプト軍兵士が要塞で殺害されて多数の死体が散乱した。

エジプト軍は、イギリス艦隊に対して旧式のクルップ砲でアレクサンドリアの防御を強化した。イギリスの地中海艦隊は、1882年7月11日から13日にかけて、要塞化したエジプトのアレクサンドリアを砲撃した。イギリス艦隊は、時代遅れの要塞に向けて砲撃して爆破した。多数のエジプト軍兵士が砲撃された要塞内で殺害されて、多数の死体が散乱した。イギリス艦隊からの砲撃が、アレクサンドリアの都市部に命中して、民間市民を殺傷した。多くの建物を損傷して、地域に火災を引き起こした。火災が発生して、大混乱して、略奪、放火により、都市部は燃え尽きた。(アレキサンドリアの砲撃を約50ページのアルバムで記録した) 
 スエズ運河が1859年から1869年にかけて開通した以降に、イギリスにとってエジプトの重要性は劇的に高まった。イギリスとインドの移動時間が約半分に短縮された。1805年以降は、エジプトをオスマントルコ帝国が支配していた。エジプトは多額の投資で財政破綻に陥り、1875年にスエズ運河会社の株式をイギリスに売却した。エジプトのウラービー陸軍大臣が、1882年1月にクーデターでエジプトを軍事政権に転換した。エジプト軍事政権は、スエズ運河を占領するイギリス艦隊に対抗するために地中海沿岸のアレクサンドリアを要塞化した。1882年6月11日に、ロバの運賃をめぐる争いがアレクサンドリア市内で暴動を引き起こした。約50人の外国人を含む数百人が殺害された。
 イギリス軍は7月13日にアレクサンドリア砲撃した直後に上陸した。スエズ運河の利益を保持して、ウラービー反乱によるアレクサンドリアの無政府状態を鎮圧した。アレクサンドリア上陸から9月6日までに、イギリス軍約24,000人とインド人部隊約7,000人がエジプトに集結した。アレクサンドリアとスエズ運河の間のテルエルビルで、エジプト軍と戦闘が9月13日に勃発した。イギリス軍が9月14日にカイロを占領して、イギリス軍は、ウラービー革命を鎮圧した。エジプトは1914年から1922年までイギリスの保護領となった。1936年にエジプトは独立したが、第二次世界大戦後もイギリスにスエズ運河は支配された。エジプトはスエズ運河を1956年7月26日に国有化して、スエズ危機が勃発した後に支配下に置いた。


 

2021年4月18日日曜日

湾岸戦争の終結の直前にイラクの南東部の死のハイウェイの砂漠の路上にイラク軍兵士の仰向けに死体が残存した。

湾岸戦争にて1991年2月25日から26日にイラクの南東部で、イラク軍兵士が殺害されて、砂漠の路上に仰向けに死体が残存していた。1991年2月25日から26日に、死のハイウエイを撤退するイラク地上部隊を標的に攻撃した。クウェート市外約8kmからイラク国境のすぐ手前の約80kmまでくすぶった約1,800台の車両から残骸と死体が放棄された。約10,000人のイラク軍兵士が攻撃されて、数千人のイラク人が死傷した。
 湾岸戦争は1990年8月2日から1991年2月28日まで勃発して、イラク軍に対して約30カ国の連合軍を率いるアメリカ軍が戦闘をした。クウェートがイラク国境を越えて石油を不法に掘削したイラクの主張に続いて、1990年8月2日にイラクがクウェートに侵攻した。戦闘は、イラク、クウェート、およびサウジアラビアの国境地帯に限定された。イラク軍は、クウェートの女性、子供、障害者を含む約1,082人の民間非戦闘員を殺害した。
 国連安保理決議が11月29日に可決した決議678で、イラクに1991年1月15日の撤退期限を与え、決議660ですべての武力手段を承認した。1991年1月12日、アメリカ議会はイラクをクウェートから追い出す軍事力を承認した。撤退期限直後に、砂漠の嵐作戦の空中作戦を執行し、1991年1月17日の早朝から1日あたり1,000回以上の出撃を開始した。
 ペルシャ湾岸戦争は、甚大な殺傷力を保持する精密誘導爆弾、クラスター爆弾、BLU-82、巡航ミサイルなどが空中作戦で使用された。1月23日に、イラクの石油タンカーが攻撃されて約100万トンの原油がペルシャ湾岸に流出した。劣化ウラン(DU)は、湾岸戦争で初めて対戦車砲として戦場で使用された。DUは、腎毒性および催奇形性もたらす重金属および化学毒物であった。湾岸戦争の退役軍人は先天性欠損症の子供が1.8(父親)から2.8(母親)倍に高まった。1991年2月13日、レーザー誘導された2つのスマート爆弾が民間イラク人が住宅地帯に投下されて犠牲となった。2月26日からイラク軍は国境を超えて撤退して、アメリカ軍はクウェートのすぐ西のイラク軍に装甲攻撃を開始して、イラク南部の無防備な砂漠地帯に大規模な空襲をした。アメリカ軍は2月27日にクウェートが解放されたと宣言した。 
 アメリカ軍における湾岸戦争空軍力調査(1993年)では、推定で約10,000人から約12,000人のイラク人が死傷した。さらに約2,300人の民間イラク人が湾岸戦争に巻き込まれて死傷した。アメリカ商務省の国勢調査局は、連合軍によって殺害されたイラク人男性は86,000人、女性は39,000人、子供は32,000人と推定した。約2,000人のイラク軍軍隊が降伏した。しかし、1991年2月24〜25日の2日間の暴動中に数千人のイラク兵を生き埋めにした。湾岸戦争は大々的に放映され、世界中の人々が初めてミサイルが標的に命中し、戦闘機が空母からの離陸を生放送してアメリカ国民は興味本位で興奮した。
  1990年8月にイラクがクウェートに侵攻した後に、アメリカ軍は南西アジアで大規模な軍事力の動員を行った。大規模な参戦とペルシャ湾岸戦争の短期間の終結により、アメリカ軍の軍事的犠牲者はイラク軍に比較して極小であった。アメリカ国防総省により構築された世界的な死傷者システムから、死傷者数を抽出した。アメリカ軍の死傷者数は219人(男性が212人と女性が7人)のうち、154人が湾岸戦争の戦闘で死亡した。65人が戦闘以外の原因で死亡した。戦闘による死亡のうち35人は、同士討ちの結果であった。全死傷者の83%は白人であり、全死傷者の平均死亡年齢は26.9歳であった。
 
 

2021年4月17日土曜日

4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが左顔面と両手に後遺症が残った16歳の少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成するために、16歳時に広島原爆病院に入院した。

広島原子爆弾が1945年8月日午前8時15分に投下されて、炸裂によって膨大な広島市民が被爆した。4歳の少女が広島市内で被爆して、熱傷とケロイドが、左顔面と両手に後遺症が残った。 被爆した少女は、残存する瘢痕の後遺症を形成してもらうために、1957年5月12日に16歳時に広島原爆病院に入院した。入院してから、熱傷とケロイドを、大腿部からの植皮の手術によって形成した。

   金時さんというニックネームの少女は、約4歳の時に、爆心地から約2kmの広島市福島南の自宅で、縁側に腰掛けた時に被爆した。意識を失って、他の家の下敷きになった。近所の知り合いに助け出された。1957年5月12日に、広島赤十字原爆病院に入院して形成手術を受けた。左頸部、左前頸部、右肘関節の瘢痕など合計9回の形成手術を受けた。10月21日の大腿部から患部への皮膚の植皮術後には、絶対安静が必要なので、帯紐でベッドに縛り付けられた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。両方の大腿の皮膚を移植のために皮膚を引剥いで、その傷跡が残存して、醜くなった。少女が大人になるに従い、瘢痕や傷跡な人知れず悩むことが手紙に示唆された。12月14日に少女はまずは退院した。

 広島原爆病院は1954年に、1955年度のお年玉くじ付き年賀はがきの利益の一部が配当された。広島赤十字病院の構内に、広島原爆病院が設置された。1956年9月20日に開院した。長崎にも、1958年5月に、お年玉年賀はがきの利益の一部の配当で、原爆病院が設置された。  1957年当時は、病院の内科病棟には白血病の患者、外科病棟には瘢痕の形成手術を受ける若者も多かった。1967年頃になると、内科病棟が担当する悪性腫瘍や癌の患者が多くなっていた。
 

2021年4月16日金曜日

ベトナム戦争で、アメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の水しぶきの出血で覆われた。

ベトナム戦争の戦場で、1966年10月頃にアメリカ軍に狙撃されて殺害されたベトコン兵士の頭と顔には、朱色の明るい水しぶきの出血で覆われた。アメリカ軍兵士は即座に彼の腕を固定して、中国製の軽自動小銃を奪った。アメリカ軍兵士が激しく戦闘したベトコン兵士を首をつかんで引き上げた。ベトコン兵士は頭から血がにじみ出ていた。彼は息を切らして、すぐに気を失って、その直後に彼は死亡した。アメリカ軍兵士は彼を溝に蹴り出した。
 水田地帯を横切って、アメリカ軍の戦車部隊は砂丘に広がる薄い森に入って、無線で部隊とヘリコプターと連絡を取り合った。空中から砲撃している爆撃機から偵察すると、南ベトナム解放戦線(NLF:National Liberation Front)が隠れていた地域をかなり近隣に見えた。ベトナムの薄い森は、杉と広葉樹の椿で構成された。アメリカ軍兵士はすでに戦闘の中心的な領域にかなり深く入っいた。銃声はかすかに聞こえて、戦車の轟音に圧倒された。
 ほぼ同時に、自動小銃の弾丸の跳ね返りが、戦車から聞こえた。ゴムボールのように戦車に跳ね返った。ベトコンによる攻撃により、アメリカ軍兵士が戦車から転落した。ベトコンが木々の上から発砲した。アメリカ軍兵士は、必死に機関銃で射撃して、加熱された薬莢が周辺に散らばった。木々から狙撃された直後に、不用意には外を覗けなかった。前日には戦車が、ロケット砲弾に襲われて、戦車内に留まったアメリカ軍兵士が殺害された。時々に立ち上がっては、ベトコンを覗き見した。継続的に機関銃を撃ち続けて、戦車部隊は薄い森に広がる農地まで達した。そこには3つの孤立した農家があった。主婦のベトナム人女性が通り過ぎて、戦車を冷酷に見つめた。悲惨な一戸建ての小屋があった。アメリカ軍兵士とベトコン兵士たちが混乱の中で、戦場は並外れた悲惨な光景であった。5つの戦車は分散しながら、ベトコンを砲撃した地域に多数の色付きの煙の殻が落下していた。戦車は標的に向かって、機関銃の射撃を行った。砲手の座席は、戦車の外側にあり、厚い鋼板で保護された。戦車の中は日焼したアイロンの灼熱で、スチームバスでたっぷりと汗をかいた。武装したベトコンを射撃するために、戦車は地面に止まった。アメリカ軍兵士たちは戦車から飛び降りた。手前の約5mに農場と歩道の間の溝に、2人のベトコンが上下に転倒していた。彼らはまだ生存して、お腹を上にして転倒した。アメリカ軍兵士が近づいて、自動小銃を彼らに向けると、1人のベトコンがふらつき不安定に立ち上がった。
 黒人のアメリカ軍兵士はもう一人の重傷を負ったベトコン兵士を助け、彼に治療を施した。戦車の中で唯一の黒人であった。負傷したベトコン生存者を腕に抱いて戦車に戻した。血を大まかに拭き取った後に、戦車に入れるのを手伝おうとした。しかし、警官であるPIOは拒否し、負傷した身体を戦車の端に置くように命じた。黒人の兵士は命じられたとおりに行動した。端の幅はわずか約60cmで、土嚢で覆われた。ベトコン兵士は横になって、頭部から血が流れ続けた。淡い表情で、目が空いていた。彼は15歳か16歳の無実の少年であった。司令部から、より強力なベトコン部隊が近くで発見されたと報告された。戦車部隊は、重傷を負った少年兵士が端に横たえてサトウキビ畑を駆け抜けた。黒人のアメリカ軍兵士はベトナム人の少年の腕を持って脈を取って、救急箱から包帯を取り出して、「まだ生きている!」と言った。出血が戦車に滴り始めて、男子の真下に座っていると、すぐに帽子と腕に血が飛び散った。

 


 

2021年4月15日木曜日

セーヌ川とオワーズ川の北部流域マニーで検挙したレジスタンス4人のフランスの若者を、ナチス・ドイツ軍は後頭部から銃殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1942年11月11日にフランス全土を占領してから1945年5月にナチス・ドイツの降伏まで、フランス国内でレジスタンス指導者らを検挙しては、後頭部から銃殺した。フランス愛国者(Patriots)が、フランス中西部に流れるセーヌ川とオワーズ川の北部流域のマニーにおいて検挙されたレジスタンスの4人のフランス人の若者が、ナチス・ドイツ軍によって後頭部からの銃殺刑を執行された。
 1940年6月18日午後6時に、シャルル・ド・ゴールがロンドンのBBCで、約6分間の演説から自由フランス運動が始まった。ヴィシー政権のペタンとナチスドイツとの休戦を熱烈に拒否して、世界大戦を喧伝した。フランス全土で、1940年後半から1941年に、ドゴールとは無関係に、互いに独立して、草の根グループのレジスタンスが誕生した。1940年12月に民間軍事組織(CMO: Organisation Civile et Militaire)がパリで生まれ、中産階級の市民と予備役から構成されて、ナチス・ドイツ軍に対する反抗と連合国軍への内部支援する地下準軍事組織が潜伏した。1942年11月11日に、ナチス・ドイツ軍がフランス全土を占領した。1943年5月に自由フランスの背後でレジスタンスが団結した。ナチス・ドイツ軍のレジスタンスに対する虐待と虐殺が激化した。容疑者は約21,600人のフランス人が強制収容所に強制送還された。イギリスBBC放送を妨害して、レジスタンスを投獄した。1942年の間に、約300万人のフランス人が自由フランスに同調した。影のレジスタンス軍隊は常に少数派の象徴であり、1945年の人口約3,960万人のうち30万人から50万人の男性と女性がレジスタンスに参戦した。1939年にフランコ政権から逃亡した約12万人のスペイン人の多くが、反ファシスト闘争の継続からレジスタンスに参戦した。
 フランス北部では、レジスタンスの標的はナチス・ドイツ軍のみであったしたが、南部ではヴィシー政権はドイツ軍と同様に標的となった。最初のレジスタンス運動は、フランス北部で、1940年末までに挙行され、6つの地下新聞が北部で定期的に印刷された。1941年6月までに、レジスタンス運動はより組織化された。1940年7月に設置さつれたイギリスの特殊作戦執行部(SOE: Special Operations Executive)の指令により、レジスタンスと協調して、危険な諜報活動をした。1943年1月から1943年9月までに、鉄道線路などに対する約530回の妨害行為を挙行した。1943年から1944年の間にフランスの約150の工場に対して妨害行為を挙行した。連合軍は1944年6月6日のノルマンディ上陸から1944年8月末にパリの解放をして、1945年5月8日にナチス・ドイツ軍を全面無条件降伏させた。


 

2021年4月14日水曜日

朝鮮戦争の戦線の後方には、仮設墓地が設置されて、韓国軍兵士の死体のみが仮設墓地に埋葬され、アメリカ軍兵士の死体はアメリカ本国に送還された。

朝鮮戦争の戦場から遠く離れたアメリカ軍兵士の軍事墓地への死体の運搬は、とても困難な危険を伴った。戦闘の緊急性により移動できない死体は、迅速な埋葬を可能にする任意な軟弱な地面に急いで埋葬された。戦線の後方には、仮設墓地が設置された。韓国軍兵士の死体のみが、仮設墓地に埋葬された。戦死したアメリカ軍兵士の死体は、棺桶に入棺して、アメリカ本国に送還された。孤立した墓地は常に保守できずに、粗い指標の多くが失われたり、住民または北朝鮮軍によって抜去されたり、戦闘で破壊された。
 1950年6月25日に勃発した朝鮮戦争が激化して、アメリカ軍兵士の死亡が​​増加するにつれ、各戦闘部隊が独自の墓地を設立して運営する必要が生じた。韓国で最初の一時的な国連記念墓地は、1950年7月9日にアメリカ軍が大田に設立した。しかし、大田はその後まもなく北朝鮮軍に占領された。約46もの埋葬地がある墓地は放棄された。その他の仮墓地は、クワンウイ、クムチョン、シンドンにも設立されたが、国連軍が釜山の境界まで撤退して、北朝鮮軍の支配下に占領された。
 独自の墓地を設営する時期に困難な戦況に直面して、戦闘部隊が墓を掘るのを避けれなかった。戦闘地域からの脱出する朝鮮人が難民となり、町や村を放棄したため、民間人の墓地設営の労働力の使役は不可能となった。墓地が掘られて記録の作成まで死体を保持する遺体安置所が設置された。不利な戦況のために、釜山周辺への国連軍の撤退に伴って、他に一時的な国連墓地が設営された。アメリカ軍が仁川に上陸して逆襲して、1950年9月8日に仁川に一時的な国連軍事墓地を開設した。北朝鮮軍から奪還された地域で、分化あるいは劣化しやすい死体の捜索と回収作業を直ちに開始して、死体は墓地へ集積された。
 崩壊する北朝鮮軍を強化するため1950年10月25日から中国軍の膨大な大軍の北朝鮮への参入は、国連軍が緊急的な撤退に追い込まれた。退地域のすべての一時的な墓地は、興南から郊外にある墓地を含め、さらに平壌も共産主義の管理下に置かれた。国連軍の最高司令官は、すべてのアメリカ軍の死者の死体は日本への輸送のために準備されて、国連軍事墓地に集積された。仁川に集積した国連軍の死体は、1950年12月28日に積載船が仁川港を出港した。アメリカ軍の死体は、日本の小倉に設立されたアメリカの墓登録施設に1951年1月3日から避難した。挑戦戦の敵対行為の最中に死亡したアメリカ軍兵士の約16,000人の死体をアメリカ本国に返還する決定した。

 


 

2021年4月13日火曜日

沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得は、アメリカ軍に土地を奪われたうえに爆死した。

沖縄周辺の伊江島の農民であった38歳の比嘉良得さんは、1959年9月6日に、アメリカ軍に土地を奪われたうえに、爆死した(沖縄県学生会編『祖国なき沖縄』1970年)。比嘉良得さんはアメリカ軍に土地を奪われて、仕方なく畑に落下した爆弾を拾ってスクラップに出して暮らしていた。その爆弾を解体中に爆死した。阿波根昌鴻が、1950年代の伊江島の市民が、アメリカ軍と闘争する多数の写真を撮影した。1953年4月からアメリカ軍による伊江島の強制土地接収が開始された。1954年にアメリカ軍は、伊江島の住民に立ち退き通告した。1955年3月に伊江島真謝地区から約300人の武装したアメリカ軍兵士による強制的な土地の取り上げた。1956年から伊江島ぐるみ土地闘争が盛り上がった。
 沖縄県伊江島は、かつての沖縄戦の激戦地であった。アメリカ軍が占領した後は、伊江島の約6割が、爆弾の投下や落下傘部隊の降下等の演習地として使用された。伊江島の農民らは肥沃な土地で、農耕に生きるはずであった。アメリカ軍は、伊江島の農民たちから、農地を取り上げて、家屋を取り壊された。伊江島の農民らは、致し方なくアメリカ軍を相手に必死の闘争に立ち上がった。沖縄戦後も苦難に満ちた生き方を負わされた伊江島の農民らは、長く粘り強くアメリカ軍と闘争した。しかし、伊江島は、沖縄本島から北西約9kmと近い場所にあるとはいえ、やはり離島であるために、アメリカ軍との闘争は秘密裏に処分された。 

 太平洋戦争後のアメリカ軍の施政権の下に、各地で半ば強制的に基地や施設を建設した。アメリカ軍兵士による悪質な事故や殺人を含む事件が頻発して、沖縄県民の死傷者も相次いだ。沖縄県民はアメリカ軍の施政に幻滅して日本本土復帰を訴えた。沖縄県民有志は島ぐるみ闘争などの抵抗運動を起こした。アメリカ軍がベトナム戦争から1973年3月31日に完全撤退を控えて、沖縄返還は1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本国に返還されて、沖縄は本土に復帰した。


 
 
 2021年4月13日 Japan No War (NGO)
日本平和市民連盟 視聴回数 480,000回

2021年4月12日月曜日

日米安保闘争で1960年6月15日に重態の樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送され、警察病院で死亡と診断された。

樺 美智子(かんば みちこ、1937年11月8日生まれ1960年6月15日没)学生運動家として、日米安全保障(安保)闘争で死亡した東京大学3年生の女子学生である。安保闘争で1960年6月15日に重態となった樺美智子さんは、雨の中を国会構内から運び出し護送された。死亡した当日は、淡いクリーム色のカーディガンに白のブラウス、濃紺のスラックス姿だった。護送された警察病院で死亡と診断されて、学生らは国会構内で、樺美智子さの死に黙祷を捧げた。
 学生や労働者や市民が安保反対・岸内閣退陣を要求して国会議事堂を十重二十重に取り囲んだ。1960年6月15日のデモで全学連主流派が、国会の衆議院南通用門から国会に突入した。その中で警官隊と衝突した際に、22歳で死亡した。警察病院の検死では死因は、胸部圧迫及び頭部内出血とされた。警察側は樺美智子さんの転倒が原因の圧死と主張した。デモ隊が国会敷地内に突入後、折り重なり倒れた人々の下敷きになって胸腹部が圧迫され、呼吸困難で死亡したと結論付けた。鑑定結果が遺族にも開示されず、学生側は機動隊の暴行による死亡と主張した。
 1957年に東京大学文科二類(現在の三類)の文学部国史学科に入学した。イギリスの水爆実験に反対するデモで、アメリカ軍立川基地の拡張に反対する砂川闘争に参加した。歴史研究会に所属して、歴史を動かす原理の探求を目指した。東大文学部の自治会副委員長となった。迫りくる安保闘争に向けて日本共産党に入党した。教員に対する勤務評定に反対する日教組の勤評闘争や警察官の権限を強化する警職法の反対闘争をした。1958年12月に、共産党の学生党員らが脱党して、より先鋭的な思想・方針を掲げて結成した前衛党・共産主義者同盟に加盟した。全学連主流派として羽田事件で逮捕されるなど過激な闘争をした。激越な言葉は人を熱狂させるが、熱狂は冷めやすく、分裂しやすい。
 1960年5月20日未明に、新安保条約案を衆院本会議で強行採決した。在日米軍として、アメリカ軍の日本駐留を引き続き認め、憲法に抵触する集団的自衛権を認めた。新安保条約案が自然成立を迎える6月19日まで安保闘争が一気に熱狂した。1960年6月16日には,予定されていたアイゼンハワー大統領の訪日が中止された。その1ヶ月後の7月15日には、新安保条約を強行採決した岸内閣が総辞職した.樺美智子の死亡は日本社会に重大な影響を及ぼした事件となった。
 「最後に」(1956年 樺美智子作) 誰かが私を笑っている、向うでも こっちでも、私をあざ笑っている、でもかまわないさ、私は自分の道を行く、笑っている連中もやはり、各々の道を行くだろう、よく云うじゃないか、「最後に笑うものが、最もよく笑うものだ」と、でも私は、いつまでも笑わないだろう、いつまでも笑えないだろう、それでいいのだ、ただ許されるものなら、最後に、人知れずほほえみたいものだ (樺家之墓には、美智子の詩が掲げられている)



Japan No War (NGO) 日本平和市民連盟
2021年4月12日Blogger投稿数は1,700回に達した。

2021年4月11日日曜日

アメリカ軍による圧倒的な軍事力により、日本軍兵士は全滅して死体がクェゼリン島の砂浜上に散乱した。

太平洋戦争のマーシャル諸島にてクェゼリンの戦い(Battle of Kwajalein)にて、アメリカ軍による圧倒的な軍事力により、日本軍兵士は全滅して死体がクェゼリン島の砂浜上に散乱した。アメリカ軍兵士は、日本軍兵士の死体群の周りから見てはほっとして微笑んでいた。日本軍はわずか8,000人程度に対して、アメリカ軍は約41,000人にも達した。
 クェゼリン環礁の占領するために、アメリカ軍は標的と世論に時間を置いた。日本軍の戦車は軽量で装甲が不十分で、乗組員の保護は皆無であった。クェゼリン環礁がアメリカ軍に陥落するまでに、日本軍は約8,122人を損失した。飛行場の滑走路を持っていた南部のクェゼリン島と北部のロイ島とナムル島は、マーシャル諸島で最初に奪還された島であった。主な戦闘の目的は、ほとんどの諸島にある滑走路を占領することであった。滑走路は爆撃機用に改造されて、東京大空襲への踏み台になった。
 太平洋戦争にて1944年1月31日に、アメリカ軍はマーシャル諸島の中心部にあるクェゼリン環礁に対して水陸両用の攻撃を行った。1944年2月1日に、クェゼリン環礁の戦いの前に、日本軍に対して約2ケ月間にわたり最も集中した砲撃の標的となった。近くの小島からの艦艇と地上砲から、約3万6千発もの砲弾がクェゼリン環礁を襲った。アメリカ軍のB-24爆撃機が島を空中から爆撃して崩壊した。クェゼリン環礁に配備された約8,782人の日本軍兵士(韓国人の強制徴集者も含む)のうち、約7,870人の日本軍兵士が殺害された。約90%の死亡率で、わすが917人が生き残った。1943年11月21日から11月23日に中央太平洋のギルバート諸島の小さなタラワ環礁で、日本軍を壮絶な犠牲を伴って血なまぐさく全滅させた。その後の太平洋戦争は、日本軍兵士を最後まで殲滅する前兆となった。
 マーシャル人の多くは戦闘直前にカヌーで島から逃げたが、戦闘中に約200人が死亡した。塹壕に避難したマーシャル人は、手榴弾によって避難所が破壊されて殺害された。1944年2月6日に、クェゼリン環礁は、マーシャル諸島の他の地域とともに、アメリカ軍の下で国連の信託統治領として指定された。

 


 

2021年4月10日土曜日

CP-1原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。

CP-1(Chicago Pile 1)原子炉は、人類歴史上初めて1942年12月2日に、シカゴ大学の実験炉にて臨界点に達して核分裂の連鎖反応を引き起した最初の原子炉となった。CP-1原子炉により、原子爆弾の材料となるプルトニウム239を生成する原子炉となった。その4周年記念日である1946年12月12日に、シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で、CP-1の原爆科学者らは原子爆弾に寄与して栄光の勝利を得た集合写真を撮影した。アメリカは1942年8月3日からニューヨークのマンハッタンに拠点を設置して、科学者のグループと軍隊が秘密裏に協力して原子爆弾を実験し始めていた。その直後にCP-1は、マンハッタン計画の原子爆弾開発に組み込まれた。
  核兵器時代は、1945年7月16日午前5時30分に始まった。ニューメキシコ州アラモゴード近くのトリニティで核兵器が炸裂した。日本の降伏を余儀なくさせて、第二次世界大戦を終結させた広島と長崎への原爆投下の前奏曲となったトリニティ実験は、科学者、民間企業、アメリカ軍による原子核分裂を引き出す脅威的な悪魔の集大成であった。第二次世界大戦中に、ナチス・ドイツが、もし最初に原子爆弾を設計できたら、連合国の勝利もほとんど失われる。アメリカのマンハッタン計画は、世界初の原子爆弾を設計するために、世界大戦から地球大戦までも巻き込んだ。オークリッジ、ハンフォード、ロスアラモスでの秘密裏の核兵器の起源から、アメリカ軍が枢軸国の勝利を奪い、日本に勝利した日まで、マンハッタン計画が展開された。
 核兵器の歴史の頂点に立つマンハッタン計画は、アルバート・アインシュタインの有名な方程式 E = MC2 を驚異的な専制国家に対して炸裂させた。アインスタインは1907年に、エネルギー(E)= 質量(m) × 光速度(c)の2乗 質量とエネルギーの等価性の方程式を仮設した。つまり、どのような物質からも光速度の2乗もの無限で膨大なエネルギーを生み出すことを証明した。宇宙空間の無限で膨大なエネルギーから物質の誕生を示唆した。原子爆弾を生み出したマンハッタン計画は、科学者のロバート・オッペンハイマーが率いて、1945年7月16日に実戦的な核兵器を実現した。そのプロジェクトは、実際にはアインシュタインとレオ・シラードの手紙からルーズベルト大統領が発現された。マンハッタン計画は、核連鎖反応を引き起こした最初のプロジェクトであり、原子核が分裂し続けて炸裂する地球の存在を脅かした。

シカゴ大学のバーナード・A・エックハートホールの前で行われたCP-1(Chicago Pile 1)原子炉のパイオニアが4周年記念で再会した。後列、左から右:ノーマン・ヒルベリー(Norman Hilberry)、サミュエル・アリソン(Samuel Allison)、トーマス・ブリル(Thomas Brill)、ロバート・G・ノーブルズ(Robert G. Nobles)、ウォーレン・ナイアー(Warren Nyer)、マーヴィン・ウィルケニング(Marvin Wilkening)。中段:ハロルド・アグニュー(Harold Agnew)、ウィリアム・シュトルム(William Sturm)、ハロルド・リヒテンベルガー(Harold Lichtenberger)、レオナ・W・マーシャル(Leona W. Marshall)、レオ・シラード(Leo Szilard)。前列:エンリコ・フェルミ(Enrico Fermi)、ウォルター・H・ジン(Walter H. Zinn)、アルバート・ヴァッテンベルク(Albert Wattenberg)、ハーバート・L・アンダーソン(Albert Wattenberg)。

 


2021年4月9日金曜日

朝鮮戦争にて韓国側の巨済島の捕虜収容所にて、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発し、連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。

韓国の巨済島の捕虜収容所において、1953年6月に、北朝鮮軍兵士の捕虜による暴動が勃発した。連合軍は北朝鮮軍捕虜を射殺して暴動を鎮圧した。射殺された北朝鮮軍兵士の多数の死体は、収容所内に並列して安置された。雑誌LIFEには、死者の顔は撮影しない内規があったが、写真には多数の死体から多量の出血が流出して、全裸とされて下半身だけを毛布等で覆われた。もう1ケ月もすれば、韓国軍とアメリカ軍が、北朝鮮と休戦協定により、捕虜収容所は解放される予定であった。
 巨済捕虜収容所(Geoje-POW Camp)は、朝鮮戦争当時に、捕らえた朝鮮人民軍と中共軍捕虜を収容するために1951年2月に巨済市を中心に巨済島の一帯に設置されて、1953年7月まで運営された捕虜収容所である。韓国の南端の巨済島に位置した朝鮮戦争当時の捕虜収容所は、1951年2月末までに朝鮮人民軍捕虜約15万人、中国軍捕虜約2万人など、最大約17万千人もの捕虜を収容した。1953年6月18日に、連合軍の管理下にあった巨済捕虜収容所の北朝鮮への強制送還を拒否する反共捕虜の約27、389名を李承晩大統領が釈放させて、7月27日の停戦協定の調印に合意して収容所は閉鎖した。
 休戦会談の最大の障害となったのは捕虜問題であった。国連軍の持つ捕虜は適正に管理されるが、北朝鮮の共産軍の捕虜数は半分以下しかない。中国と北朝鮮は、捕虜の全面的な交換を求めた。共産軍は捕虜を虐殺して、さらに捕虜を自軍に編入して戦闘に強要した。共産軍側はソウルやその他の都市を占領した時に、占領地域で多くの若者を強制徴募して北朝鮮軍に編入した。そのため捕虜の朝鮮人は、捕虜交換で北朝鮮に送還されるのを拒否した。中国軍兵士も含めて過半数が北朝鮮に帰還するのを拒否して、問題は複雑になった。巨済捕虜収容所では統制が緩いため、共産と反共産の捕虜が分離していない集団の中で多数の暴力事件が発生した。
 1952年5月7日、共産捕虜は巨済捕虜収容所所長のアメリカ陸軍のFTドッド准将を拉致した。その釈放の条件として捕虜の処遇改善、自由意思による捕虜の送還方針の撤回、捕虜の審査を停止し、捕虜の代表委員団認定などを提示した。この暴動は、洛東江戦線にて、アメリカ軍1騎兵師団に降伏したイハクグらが主導した。アメリカ軍は交渉を拒否して対立して、アメリカ軍が発砲して捕虜が約70人死亡し、140人余りが負傷した。
 共産捕虜は拷問・暴行・虐待などを拒否し、平壌からの指示に基づいて、1952年6月20日を期して全捕虜収容所で一斉に蜂起する反乱計画を立てた。新た国連軍司令官に任命されたマーク・クラークは、暴動事件を防ぐために捕虜の分散収容を決定して、HLボート准将を捕虜収容所長に任命した。6月7日から10日に釜山捕虜収容所で共産捕虜がガードに反抗している途中に1人が殺害された事件をきっかけに、改めて暴動が起きた。ボートナー准将は6月10日にドッド准将を救出しながら捕虜を分散収容し始めたが、その過程で105人の反共捕虜が共産捕虜によって殺害された。


 

2021年4月8日木曜日

太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。

太平洋戦争の末期に、アメリカ軍による焼夷爆弾による無差別な絨毯爆撃を、1945年5月29日昼間に横浜市街は被爆して壊滅した。焼夷弾により黒焦げになった焼死体が散乱していた。その焼死体をかき集めて、トタン板で覆って収容した。多数の横浜市民が周囲に立ち尽くして、身寄り親族を探索した。
 横浜大空襲(Bombing of Yokohama)は、第二次世界大戦末期の1945年5月29日の昼間にアメリカ軍によって横浜市中心街に対する無差別爆撃である。B-29爆撃機の約517機とP-51戦闘機の約101機による焼夷弾攻撃により、約14,157人の横浜市民の犠牲を出した。横浜市の旧市街地に無差別の約2,570tの焼夷弾の爆撃とP-51により銃爆撃されて壊滅した。約79,017戸の家屋が破壊されて、市街地の約42%が焼失した。
 連合軍は第二次世界大戦中に日本に多くの空襲を行って、都市部を大規模に無差別に破壊して、約333,000人が死亡して、約473,000人の日本人市民が負傷あるいは行方不明となった。太平洋戦争の戦略的爆撃は1944年6月から始まり1945年8月15日の終戦まで続いた。マリアナ諸島の航空基地が利用可能になった1944年11月頃から大幅に拡大された。アメリカ陸軍航空軍のカーチス・E・ルメイは、1945年3月初旬に、選択された標的に対する昼間の精密爆撃から、日本の都市の夜間の焼夷弾攻撃に切り替えを決定した。日本軍の武器製造する多くが小さな工房や自宅に対して、爆撃機は都市部に対する低高度の夜間の焼夷弾の投下に切り替えた。日本の軍事防衛は連合国の空襲を止めれず、戦闘機と対空砲は不十分であり、頻繁に運用されるB-29爆撃機の高度に到達するのが困難であった。
 日本の都市部は木造建造物が多く、焼夷弾攻撃に対して脆弱であり、消防訓練と装備が不足して、民間市民のための防空壕は乏しく、深刻な犠牲が出た。都市部は人口が密集しており、ほとんどの建物は紙や木などの可燃性の高い材料で建造されていた。都市部の産業および軍事施設は、人口密度の高い住宅地帯に囲まれていた。アメリカ軍が火炎放射器や焼夷弾に使用したナパーム弾の生産量は、1943年の約0.23ktから1944年には約3.6 ktに増加した。ナパーム弾の多くはアメリカの9つの工場から爆弾組立工場に移転された。焼夷弾による無差別爆撃は、標的の精密爆撃からの逸脱の戦争犯罪であり、アメリカ軍は戦争を迅速な終結する必要性と犠牲を喧伝して戦争を正当化した。

 


2021年4月7日水曜日

数えきれないほどの義和団だと疑われた中国人市民を義和団の乱の最中やその後に、八カ国連合軍が公開処刑した。

数えきれないほどの義和団だと疑われた中国人市民が義和団の乱の最中やその後に、公開処刑された。多数の中国人の民衆の中に、イギリス軍兵士も混じって、清国役人が義和団の容疑者を取り押さえて斬首するのを興味深く見守った。八カ連合軍は兵員数の多い順から、日本(約20,840人)、ロシア(約13,150人)、イギリス(約12,020人)、フランス(約3,520人)、アメリカ(3,420人)、ドイツ(約900人)、オーストラリア=ハンガリー帝国(約296人)、イタリア(約80人)の八カ国から約45,000人の軍隊で構成された。
 義和団と一部の清帝国軍により、1900年6月20日から8月14日までの約55日間、東交民巷にある北京公使館の外交官と外国人市民の約900人を包囲した。八カ国連合軍は1900年8月14日に北京に侵攻して、9月15日に占領した。いくつかの合戦で清帝国軍の武偉軍団を打ち負かして、義和団を包囲して、義和団の乱をすぐに終結した。清帝国の西太后、皇帝および政府高官は、北京の紫禁城から西安まで逃走した。北京から中国北部の田園地帯に掃討した時に、八カ国連合軍は義和団の容疑者と疑われた未知の数の中国人を殺害あるいは断首した。懲罰遠征中に、八カ国連合軍の兵士によって無差別な殺害が頻繁に行われた。八カ国連合軍は、義和団の容疑者の中国人女性を強姦して虐殺した。八カ国連合軍は野蛮で残忍となり、しばしば不幸な無実の中国市民を人間以下として標的にした。
 八カ国連合軍は北京に駐屯している間に、北京の文化遺産、古書、芸術を略奪した。文化遺跡などから、金や青銅の芸術品を剥奪した。略奪品を本国で競売にかけていた。略奪された芸術品の一部は、ロンドンとパリの美術館の管理下である。1901年9月7日に、八カ国連合軍と清帝国は北京議定書の和平協定を締結した。1902年1月7日に西太后らが西安から北京の紫禁城に戻り、清帝国の統治が復活した。


 

 

2021年4月6日火曜日

第二次世界大戦中の元ハンガリー首相のバールドッシ・ラースローは、跳弾を防ぐ土嚢を積んだレンガ壁に向かって刑務所内の中庭で銃殺された。

第二次世界大戦中の元ハンガリー首相のバールドッシ・ラースロー(LászlóBárdossy)は、跳弾を防ぐ土嚢を積んだレンガ壁に向かって刑務所内の中庭にいた。ほっそりとした体格で直立して、自制して銃殺隊と向き合った。「神よ、これら無法者からハンガリーを護り賜え」と発して、銃殺された死体が土嚢からはじき倒された。銃殺された後に、司祭が駆け寄って冥福した。
1940年11月20日にハンガリー王国は枢軸国に加盟した。3月25日に枢軸国加に加盟したユーゴスラビア王国が、3月27日のクーデーターで反ドイツ王国となった。ナチス・ドイツにバンガリー王国の通過権を求められたテレキ・パール首相が4月3日に自殺した。テレキは、ハンガリーは死体の強盗になるほど最も忌々しい王国となると遺書に記載した。直後に右派のバールドッシ・ラースローが、1941年4月から1942年3月7日まで摂政のニコラス・ホルティ提督から首相を任命されて、親ドイツ政権に転換した。枢軸国のナチス・ドイツ軍が4月6日から4月17日のユーゴスラビア侵攻により、ユーゴラビア王国は侵略された。4月11日からハンガリー王国も、ユーゴスラビアに侵攻した。6月には、ロシアに対して宣戦布告した。1941年12月6日にイギリスに対して宣戦布告した。12月6日に真珠湾攻撃を受けたアメリカは連合軍側に参戦した。12月15日にバールドッシ・ラースロー首相はアメリカに対しても宣戦布告した。
 バールドッシ・ラースローは、トリアノン条約で損失した領土を取り戻し拡大するため親ドイツ政策を追求して、枢軸国のユーゴスラビア侵攻を支援して、ハンガリーを戦争に巻き込んだ。トリアノン条約の講和条約により、連合国に敗戦したハンガリー王国は、スロバキア、クロアチア、トランシルヴァニアを損失した。1941年8月に、第三ユダヤ法により、ハンガリー系ユダヤ人の経済的、社会的、およびその他の基本的権利を剥奪した。反共産主義と反ユダヤ主義の法律の制定につなげた。ユーゴスラビアを占領した領土から非ハンガリー人を国外追放して、数千人のユダヤ人を虐殺した。第二世界大戦が終結後に、プタペストの人民法院により戦争犯罪と民族主義で有罪となり、死刑を宣告された。1946年1月10日に銃殺隊によって死刑が執行された。


 

2021年4月5日月曜日

日露戦争において旅順口の北端土城子村にて、日本海軍の重砲隊の隊列が、旅順包囲戦で損失した大量の重傷者を護送した。

日露戦争において旅順口の市外の北端土城子村にて、1904年9月24日午後2時27分に日本海軍の重砲隊の隊列が、旅順包囲戦で損失した大量の重傷者を護送した。旅順包囲戦で日本軍の死傷者は約の犠牲者の痛ましさと戦争の残酷さを示唆した。日本軍兵士は、常に突撃の命令一下に、巧を争うように銃剣をかざしてロシア軍陣地に突撃した。その時に日本軍兵士が初めて接したロシア軍の機関銃の連続音とともに、日本軍兵士が次々に戦死傷して荒野に倒れて、死体や重態者が散乱した。
 ロシア軍に対する日本軍の旅順包囲戦において、1904年8月19日〜8月24日まで、第三軍司令官の乃木希典の下で 第1回旅順総攻撃を開始した。1904年10月26日〜10月31日まで、次いで第2回旅順総攻撃をした。1904年11月26日に第3回旅順総攻撃をして、ロシア軍の要塞と機関銃により、約15,000人の死傷者を伴った。11月30日に第三軍は、ロシア軍の二〇三高地を一時的占領した。12月1日に児玉総参謀長が第三軍司令部に合流した。12月5日に第三軍は、二〇三高地を再占領した。約155日もかけて多大な大量の犠牲を払って、日本軍の死者は約65,000人とロシア軍の死者は約30,000人を損失して、ロシアの極東で最大の陣地である旅順を攻略した。1905年1月2日に旅順は陥落して、陸軍省は二〇三高地の激戦後に旅順開城したことを発表した。 
 1904年2月10日にロシアと日本は相互に宣戦を布告して、日露戦争が勃発した。1904年8月19日から旅順包囲戦で死傷者は約59,000人、遼陽会戦で死傷者は約23,000人と膨大な犠牲を伴った。1904年3月1日から3月16日の奉天会戦で日本軍約240,000人は、ロシア軍約320,000人に対して奉天大会戦で辛勝した。日本軍は兵員、兵器、弾薬など全てが欠乏しし、ロシア軍は帝国の危機な情勢から停戦に至る。アメリカの調停により、1905年9月5日にポーツマスにおける講和条約で、日露戦争は終結した。日露戦争の戦死者は、日本軍が約7万人とロシア側は約9万人にも及んだ。

 



 

2021年4月4日日曜日

パリの解放にて、クータン地域の街路での戦闘にて、多数のレジスタンスのフランス人が殺害されて、道端に死体が散乱した。

パリの解放にて、クータン地域の街路での戦闘にて、多数のレジスタンスのフランス人が殺害されて、道端に死体が散乱した。第二次世界大戦にて1944年6月6日に、連合軍はフランスのノルマンディーに上陸した。連合軍はドイツ侵攻を優先して、パリを迂回して自爆と崩壊を回避した。パリを保持する自由フランス軍がパリの解放することを8月16日に認知した。1944年8月19日から8月25日まで、パリを1940年6月22日から占領したナチス・ドイツ軍と戦闘をした。8月25日に、ナチス・ドイツ駐屯軍はオテルムーリスのホテルで降伏の調印をした。
 ナチス・ドイツ軍が降伏する1944年8月25日まで、自由フランス軍のルクレール将軍はドイツ軍が反撃する地域を減らすために必要な武力をレジスタンスに提供した。かなり頻繁に、自由フランス軍の反乱軍とレジスタンスが武力を合わせて、時には激しい戦いをドイツ軍と繰り広げた。ナチス・ドイツ軍の親衛隊が占領していたパリのフランス上院議事堂があったリュクサンブール宮殿、レピュブリック広場の兵舎、外務省、海洋省などで戦闘した。パリ解放のために、自由フランス軍部隊は約130人の死者と329人の負傷者が犠牲となった。レジスタンス反乱軍は数千人が殺害されて、民間市民の約2,000人が巻き込まれて殺害された。ナチス・ドイツ軍の損失は、約2,800人が死亡したと推定された。シャルル・ド・ゴールは、「すべてのフランス、戦うフランス、唯一のフランス、本物のフランス、永遠のフランスの支援と助けを借りて、その人々によって解放された!」とパリの戦争省で8月25日に演説した。フランスが唯一勝利者であることを主張した。8月26日に自由フランス軍は、シャンゼリゼ通りからコンコルド広場まで、まだ屋上から潜伏したドイツ軍兵士の狙撃を受けながらも行軍して、ノートルダム大聖堂で祝賀した。8月29日に、アメリカ軍がシャンゼリ通りをパリを完全解放した行軍をした。




2021年4月3日土曜日

広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が殺到して収容された。

広島赤十字病院と併設した陸軍病院の分院における病院救護所に、多数の被爆者が収容された。人数は不詳であるが、大量の負傷者が殺到した。1945年8月6日の広島原子爆弾の炸裂によって、重度な火傷を受傷した被爆者らは、8月10日には死の瞬間を迎えようとしていた。顔面や身体を火傷して、衣服も着けれない瀕死の被爆者があふれた。うめき声が広い部屋に充満して、枕元の水すら自力では手に取ることができなかった。
 1945年8月6日の原子爆弾の炸裂によって、広島赤十字病院と併設した陸軍病院分院は、爆心地より南方に約1.6kmに位置した。構造3階建ての病棟は外郭を残して大破したが、消火活動によって火災は免れた。本館等は外郭だけが残り、強烈な爆風により窓ガラスは吹き飛ばされ、室内も廊下などは残骸が散乱して悲惨であった。広島赤十字病院が保管したレントゲンフィルムが、被爆によりすべて感光して、原子爆弾の炸裂による放射能が立証された。広島市内は空襲対策には備えていたが、原子爆弾の炸裂という空前絶後の事態には、市内中心部は潰滅して、救護機能は困難となった。広島周辺部の半壊あるいは小破の被害を受けた国民学校や寺院あるいは民家などに救護所を設置した。
 炸裂した直後から、広島赤十字病院に押し寄せた大量の被爆者に治療が開始された。比較的に被害が少なく、診療機能が残存していた広島日赤病院と広島逓信病院が、市内中心部の救護所の拠点となった。その後に広島原爆病院は、1954年度と1955年度のお年玉付き年賀はがきの利益配分金の約6,500万円で、広島市中区千田町の広島赤十字病の構内に、広島原爆病院が設置されて、1956年9月20日に開院した。

 


 

2021年4月2日金曜日

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。古い建物の入口で、額に狙撃されて頭部に穴が空いて殺害された死体が散乱していた。狙撃兵の気まぐれの射撃により多数の市民が犠牲になった。1994年1月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、セルビア人の武装勢力によって包囲されて、砲弾と銃弾を撃ち込まれた。サラエボ市内には、セルビア人の武装勢力の狙撃兵が侵入して、市民を無差別に狙撃した。特ににイスラム教の共同体の民族であったボスニア人を標的にした。旧ソビエト連邦が崩壊した衝撃がバルカン半島まで襲った。クロアチアが独立宣言した時には、反発したクロアチア領土内のセルビア人が内乱を起こした。内乱に対して連邦宗主国のセルビア連邦軍がクロアチアに軍事介入して内戦が勃発した。 
 1992年4月にボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。1995年までの数年間に、ボスニアのセルビア軍は、ユーゴスラビア軍の支援を受けて、セルビア人が支配するイスラム教徒のボスニアクとクロアチアの民間人に対して凶悪な犯罪を犯して、約10万人を粛清した。そのうちの約80%はイスラム教に改宗したボスニアクが殺害された。1984年に平和の祭典である冬季オリンピックを開催したサラエボのスタジアムは、ボスニア戦争の内戦に巻き込まれた死者の墓地となった。
 バルカン諸国は第二次世界大戦の余波で、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニアは、チトーが主導するユーゴスラビア連邦人民共和国に併合された。1980年1月20日にチトーが死亡してから、民族主義が台頭して連邦が崩壊し始めた。1991年に、スロベニア、クロアチア、マケドニアは独立宣言した。セルビア人が支配するユーゴラビア軍は、クロアチアと残忍に衝突した。第二次世界大戦では、逆にクロアチア人がセルビア人を大量虐待と大量虐殺して、その復讐の怨念が潜伏していた。
 1992年3月3日に国民投票によりボスニア・ヘルチェゴビナは独立宣言した。ボスニア系セルビア人が、セルビアとの併合を求めた。1992年5月にセルビア系ユーゴスラビア軍が、ボスニアの首都セルビアの攻撃が勃発した。複数の民族が共存した地域では、民族主義が台頭して大量虐待と大量虐殺が繰り返された。
 セルビア人武装勢力による首都サラエボの包囲は1992年4月から1996年2月まで継続した。その包囲戦により、約12,000人以上が殺害されて、約5万人以上が戦傷し、犠牲者の約85%はサラエボ市民であった。多くの共存していた民族が、紛争が勃発すると、民族浄化の嵐を巻き起こした。1995年8月から9月にNATOがセルビア人武装勢力に対して激しい空爆をした。アメリカの仲介により、1995年12月にボスニア・ヘルツェゴビナ和製合意が成立した。

 

2021年4月1日木曜日

アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁のペティオ島を占領した後に、弾丸の破片と多数の死んだ日本軍兵士の死体が海岸の砂場に散乱した。

タラワの戦いで、アメリカ軍は太平洋のタラワ環礁のペティオ島を占領した後に、弾丸の破片と多数の死んだ日本軍兵士の死体が海岸の砂場に散乱した。タラワの戦いは、アメリカ軍はギルバート諸島内の日本軍が占領した領土を奪還した。より大きなアメリカ軍の大群が侵略した。1943年11月20日に勃発して、アメリカ軍がまずタラワ島の北約160km以上のマキン島に上陸した。マキン島での日本軍の防御が弱くアメリカ軍の損失は少なかった。
 次いでアメリカ軍がタラワ環礁内のベティオ島に上陸した。ベティオ島ではしっかりと固着した日本軍の防御は、タラワの戦いを犠牲ょ伴った1943年11月20日から11月23日に約76時間もの戦闘となった。ペティオ島の約4,690人の日本軍の守備隊は、堅固な要塞の後ろから頑強に反撃した。アメリカ軍は、空中爆撃と艦砲射撃により、日本軍の防御陣地を1つずつ絶滅した。アメリカ軍は1943年11月22日から23日の夜に日本軍の最後の反撃を打倒した。最後の日本軍の防御を排除するまでに、タラワの戦いで、約1,000人以上のアメリカ軍兵士の命を奪い、その2倍もの負傷者を出して、約400人のアメリカ軍は行方不明となった。日本軍は事実上は玉砕して全滅した。アメリカ軍はタラワの戦いで多数の犠牲者を伴って、恐怖のタラワ(terrible Tarawa)あるいは悲劇のタラワ(Tragic Tarawa)と呼称された。
 日本軍はペティオ島で約3,000人以上の死者を伴った。推定1,000人の韓国人労働者も死亡した。これらの死体は、倒れた場所、または爆裂火口や既存の塹壕に埋葬された。多くの場合は、死傷者数には日本軍と韓国軍の死者と混ざり合っている。タラワでの戦いでは、4,690人の日本軍兵士の部隊から、わずか1人の日本人将校、約16人の兵隊、約1,200人のうち約129人の韓国人労働者だけが生き残った。アメリカ軍の犠牲は、約978人が戦死して、約2,188人が戦傷した。1943年12月4日のワシントン・ポストとニューヨーク・タイムズに、紙面のトップページに「アメリカ軍兵士は、日本軍のタラワ環礁を占領して称賛する代わりに、至る所に多数の両軍の死体が散見された」と掲載された。アメリカ軍の死傷者数の多さは、直ちにアメリカ国民の間で、アメリカ軍に対する怒りも引き起こして、広範囲な無差別な戦闘に転換された。