2021年4月2日金曜日

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。

ボスニア戦争によりサラエボの廃墟に潜伏するセルビア人の狙撃兵が、特にボスニア系市民らを無差別に殺害した。古い建物の入口で、額に狙撃されて頭部に穴が空いて殺害された死体が散乱していた。狙撃兵の気まぐれの射撃により多数の市民が犠牲になった。1994年1月にボスニア・ヘルツェゴビナの首都サラエボは、セルビア人の武装勢力によって包囲されて、砲弾と銃弾を撃ち込まれた。サラエボ市内には、セルビア人の武装勢力の狙撃兵が侵入して、市民を無差別に狙撃した。特ににイスラム教の共同体の民族であったボスニア人を標的にした。旧ソビエト連邦が崩壊した衝撃がバルカン半島まで襲った。クロアチアが独立宣言した時には、反発したクロアチア領土内のセルビア人が内乱を起こした。内乱に対して連邦宗主国のセルビア連邦軍がクロアチアに軍事介入して内戦が勃発した。 
 1992年4月にボスニア・ヘルツェゴビナは、ユーゴスラビアからの独立を宣言した。1995年までの数年間に、ボスニアのセルビア軍は、ユーゴスラビア軍の支援を受けて、セルビア人が支配するイスラム教徒のボスニアクとクロアチアの民間人に対して凶悪な犯罪を犯して、約10万人を粛清した。そのうちの約80%はイスラム教に改宗したボスニアクが殺害された。1984年に平和の祭典である冬季オリンピックを開催したサラエボのスタジアムは、ボスニア戦争の内戦に巻き込まれた死者の墓地となった。
 バルカン諸国は第二次世界大戦の余波で、ボスニア・ヘルツェゴビナ、セルビア、モンテネグロ、クロアチア、スロベニア、マケドニアは、チトーが主導するユーゴスラビア連邦人民共和国に併合された。1980年1月20日にチトーが死亡してから、民族主義が台頭して連邦が崩壊し始めた。1991年に、スロベニア、クロアチア、マケドニアは独立宣言した。セルビア人が支配するユーゴラビア軍は、クロアチアと残忍に衝突した。第二次世界大戦では、逆にクロアチア人がセルビア人を大量虐待と大量虐殺して、その復讐の怨念が潜伏していた。
 1992年3月3日に国民投票によりボスニア・ヘルチェゴビナは独立宣言した。ボスニア系セルビア人が、セルビアとの併合を求めた。1992年5月にセルビア系ユーゴスラビア軍が、ボスニアの首都セルビアの攻撃が勃発した。複数の民族が共存した地域では、民族主義が台頭して大量虐待と大量虐殺が繰り返された。
 セルビア人武装勢力による首都サラエボの包囲は1992年4月から1996年2月まで継続した。その包囲戦により、約12,000人以上が殺害されて、約5万人以上が戦傷し、犠牲者の約85%はサラエボ市民であった。多くの共存していた民族が、紛争が勃発すると、民族浄化の嵐を巻き起こした。1995年8月から9月にNATOがセルビア人武装勢力に対して激しい空爆をした。アメリカの仲介により、1995年12月にボスニア・ヘルツェゴビナ和製合意が成立した。