日露戦争の奉天会戦中に、1905年3月7日の李官堡(りんかんほ)の戦いにて、殺害された軍隊兵士の死体が累々と散乱した。その多数の死体を通り過ごしながら、日本軍兵士らはロシア軍を追撃した。日本軍は、奉天から西方に約120kmに位置する李官堡から、直路にて奉天城に迫った直後に、李官堡から北方にロシア軍を侵攻した。李官堡は、ロシア軍を迂回して包囲する中心軸をとなっていた。李官堡の戦いで、ロシア軍は日本軍の中心軸となる李官堡を襲撃した。
猛烈な戦場となった李官堡の東方約2kmの干洪屯とその南側の3軒屋において、ロシア軍の包囲攻撃で、日本軍は崩壊して追い詰められていた。李官堡の戦いの三軒屋で戦死した吉岡友愛、日本軍の危機を報告できず自決した大越兼吉、遼陽会戦で武功した市川紀二の戦死が、ロシア戦争後に壮烈無比の忠勇美談を国民に浸透させて語り継がせた。
しかし、一部のロシア軍は既に3月7日の早朝に李官堡から渾河まで撤退を開始していた。日本軍は、一部撤退を始めたロシア軍に対して追尾をして攻撃した。連日の戦闘で、日本軍は著しい損害を受けて、補給も不足して、寒気と過大な消耗で、疲労困憊した。3月8日も、ロシア軍から猛烈な攻撃を受けた日本軍は甚大な損害を受けて壊滅して混乱した。日本軍の総司令部は、追い詰められた日本軍を緩慢な長蛇の列と批判して、奉天付近のロシア軍に迅速で果敢な追撃を要求した。3月10日に、ロシア軍は、背後から日本軍に襲撃されて分断されて、奉天城の付近は大混戦に陥った。ロシア軍は、3月10日から本格的に北方に撤退を開始するも、失墜した日本軍はロシア軍に対する北方追撃は困難となった。
日露戦争にて、日本軍は旅順を陥落して、ロシア軍を追撃した。1905年2月21日から、中国満州の奉天(瀋陽)で、日本軍約25万人とロシア軍約35万人が、日露戦争で最も犠牲を伴った奉天会戦が勃発した。日本軍は3月10日に奉天を占領したが、甚大な損失を伴ってロシア軍の追撃は困難となった。3月10日に、日露戦争の最大の犠牲で最後の奉天会戦は、ロシア軍が撤退して、日本軍が奉天城を占領して終結した。日本軍の死傷者は約7万(うち戦死者は約1万5000)。ロシア軍の死傷者は約6万(うち戦死者約9000、行方不明者約8000)、捕虜2万800にも達した。奉天入城した3月10日を祝勝する陸軍記念日なった。
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