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2023年6月15日木曜日

鄭南榕は平然と編集室で焼身自殺を図り、台湾国民党政府に徹底した最後の抗議を執行した。鄭南栄は編集長室のテーブルの下にガソリン3樽を置き、テープに緑色のライターを貼り付け、雑誌の内外に要塞を築いた。

1989年4月7日午前7時30分に、台湾国民党政府の警察当局は、鄭南榕を逮捕作戦を実施するために、多数の人員を『週刊フリーダム・タイムズ』誌の出版事務所に派遣した。鄭南榕は平然と編集室で焼身自殺を図り、徹底した最後の抗議を執行した。鄭南栄は編集長室のテーブルの下にガソリン3樽を置き、テープに緑色のライターを貼り付け、雑誌の内外に要塞を築いた。4月7日早朝に、国民党軍が厳しく包囲して、軍と警察が実弾で雑誌を取り囲んだ。鄭南栄が引き返して編集長室に入ると、燃え盛る炎が上がった。1989年5月19日の鄭南榕の葬儀日に、台北の総統府ビル前で、詹益樺(Chan I-hua)が同じように焼身自殺した。 
















 鄭南栄は台湾国民党政府によって課された38年間の戒厳令に抗議して、台湾の民主主義と独立を主張した。1947年2月28日に台湾の台北市で抗議デモが発生したニ・ニ八事件が勃発して、その後に台湾全土の戒厳令下で国民党軍による台湾人の武力弾圧が広がった。1988年12月10日に、台湾の鄭南栄(Cheng Nang-rong)は、徐世凱博士の『台湾民国新憲法草案』を自身が創刊した雑誌『自由時報週刊』に掲載した。40日後、台湾高等検察庁は「反乱の疑い」で召喚状を発行した。鄭南栄は出廷を拒否して、「国民党は私の国民を逮捕できない。国民党が逮捕できるのは私の体だけだ」と大胆に宣言した。「自己投獄」を雑誌に71日間掲載した。

 1984年3月12日に、完全なる言論の自由を目指して、自由時報週刊誌(Liverty Times Weekly)シリーズを創刊した。自由時報週刊誌は鄭南栄の焼身自殺から半年後まで刊行されて、5年8か月で302号を発行した。国民党の言論弾圧にも関わらず、政治的暴露し、客観的かつ忠実に報道し、発禁・発行停止回数の最多記録を樹立した。




2022年11月22日火曜日

台湾で1947年2月28日に勃発した二・二八事件の記念行進に参加した梁金鐘は、看板を持って人工死体を引っ張って、看板には「お母さん、どこにいるの?」と書かれた。

台湾で1947年2月28日に勃発した二・二八事件の記念行進に参加した梁金鐘は、看板を持って人工死体を引っ張った。看板には「お母さん、どこにいるの?」と書かれた。

 二・二八事件(Feburay 28 incident)、国民党率いる中華民国政府によって暴力的に弾圧された台湾における反政府蜂起である。南京で国家と中国大陸の内戦を指揮していた総統の蒋介石と台湾省長の陳儀によって指示され、1947年2月28日から数千人の民間人が殺害された。虐殺された民間人の死者数は約18,000人から28,000人と推定された。

 高雄の血祭が、二・二八事件蜂起の際に、寿山の軍事基地を除き、高雄市周辺の政府機関はすべて国民革命軍の占拠下にあった。1947年3月5日に、基地司令官の彭孟致は、民衆を恐怖に陥れるために砲撃を行った。3月6日、高雄市長の黄忠武が率いる5人が彭に交渉に行ったが、その場で逮捕された。午後に、彭は軍隊を下山させ、見つけ次第殺せと命令すると同時に、鳳山駐屯の軍隊に援軍を要請して、市内で虐殺が勃発した。虐殺は3月8日まで続き、街には悪臭と血生臭い死体が山積みとなった。

 鳳林の悲劇が、張志朗と三人の息子、張宗仁、張儀仁、張国禎は、台湾東海岸の花蓮の小さな町である鳳林で、1947年4月4日に、理由もなく息子3人とともに逮捕された。張儀鈞は軍医を証明する書類を携帯して助かったが、他の3人は町外れに連れ出され、銃殺された。未亡人が4月6日の夜明け前に、牛車で3人の死体を運んだ。

 1945年、第二次世界大戦末期の日本の降伏に伴い、連合国は台湾の行政権を中華民国に譲り、約50年にわたる日本の植民地支配を終結した。台湾では、国民党による私有財産の恣意的な差し押さえ、経済的な不始末、政治的な排除など、強権的で腐敗しがちな行政に住民の不満が高まった。1947年2月27日、台北で国家専売局員が、密輸入のタバコを売ったと疑われた台湾人未亡人を殴打したのが発端となった。2月28日に、国民党軍兵士がデモ隊に発砲した。ラジオ局がデモ隊に占拠され、反乱が台湾全島に放送された。国民党知事となった陳儀は、増援した国民革命軍によって反乱を鎮圧した。2年後から約38年間、台湾島は戒厳令下に置かれ、白色テロ時代となった。白色テロでは、国民党は反体制派を迫害し、二・二八事件はタブー視されて議論できなかった。李登輝総統は1995年の事件記念日に初めて二・二八事件を公に議論した。



2022年10月25日火曜日

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。

浙江大学の学生会会長の23歳の于子三(Yu Zisan)が、浙江省治安司令部にて1947年10月29日に虐殺された死体が拘置所に安置された。学生死亡事件である于子三事件は、国民党政府が長江デルタ地域の学生運動を組織的に弾圧した一連の虐殺事件であった。犠牲者の于子三は、浙江大学農学院農学部の4年生であった。国民党政府に秘密裏に逮捕されて、獄中死した。逮捕される前に、于子三は浙江大学学生会会長を務めて、新民主青年会華家池支部と新潮会の学生会の活動、浙江学生会と全国学生連合会の連携も担当した。

 于子三は10月25日に同窓生の結婚式に出席するために杭州に入り大同ホテルに一泊した。10月26日午前2時に、国民党中央委員会浙江部は数名の工作員を送って、彼の他に3人の学生とともに密かに逮捕した。浙江省保安司令部の刑務所に強制連行した。国民政府支配地区の学生運動を壊滅させる目的で、中国共産党地下組織の手がかりを得るために、厳しい拷問を受けた。10月29日午後6時頃に、于子三は獄中で虐殺されて息を引き取った。国民党側は、杭州市を封鎖して、事件の拡大を阻止した。他方、共産党側は于子三事件を最大限利用して、学生運動を拡大した。

 于子三が虐殺された死後に、国民党政府は于子三はガラスで喉を掻き切って自殺したと主張した。10月31日から杭州市全域に戒厳令を敷いた。中華民国教育部は、浙江省の学生によるストライキを阻止した。1947年11月20日に、裁判所は他の3人の学生の陳建新、黄志民、李伯錦の3人に7年の懲役を言い渡した。11月3日に銭英が率いる中国共産党上海局青年部は、闘争規模を拡大して、連帯して学生運動を展開した。1948年8月下旬までに、全国20都市以上で累計10万人以上の学生がストライキを行い、約15万人以上が集会やデモ行進、連帯活動に参加した。

 日中戦争の終結後に、国民党軍が1946年6月26日に共産党軍に全面侵攻する国共内戦が勃発した。1947年3月には戦況が不利となり、国民党軍の蔣介石は全面侵攻から重点攻撃へと方針を転換した。共産党軍が盛り返して国民党軍が後退し始めた。最終的に1949年12月7日に国民党軍は内戦に敗戦して台湾に撤退した。