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2023年12月31日日曜日

イスラエルにて、2023年10月7日朝にガザ地区近郊のノヴァ・フェスティバルの砂漠の音楽祭で、イスラム・テロ組織ハマスがイスラエルのパーティー参加者に発砲して、大量虐殺した。救助隊により音楽祭会場で、少なくとも260人の死体が発見された。

イスラエルにて、2023年10月7日早朝にガザ地区近郊のノヴァ・フェスティバルの砂漠の音楽祭で、イスラム・テロ組織ハマスがイスラエルのパーティー参加者に発砲して、大量虐殺した。2023年10月8日に救助隊により音楽祭会場で、少なくとも260人の遺体が発見された。民間イスラエル人を中心に約1,200人が死亡した10月7日に、約4,400人がイベントに参加していた。救急隊員は現場を大虐殺と呼称した。ガザ地区からの殺人的な大量テロ攻撃によってイスラエルに強要された戦争は、10月7日午前6時頃に勃発した。ガザとイスラエルの国境に近い農村地帯で開催されたフェスティバルで、ハマスの武装集団が逃げ惑う参加者に発砲し、他の参加者を人質に取った。

 ハマスが最初に狙ったのは、ガザ地区からわずか5kmしか離れていないキブツ・ベエリ近郊で開催されたノヴァ音楽祭だった。10月7日夜明けに空襲警報のサイレンが鳴り響き、国際的なフェスティバルの参加者たちは恐怖に怯えて初めて異変に気づいた。その後、ハマスのテロリストたちは電気を止め、ロケット弾を発射し、会場に乗り入れたジープから発砲した。参加者の集団は、イスラエルの防御を突破して、パラグライダーやバイクでフェスティバルを襲撃し、虐殺し、参加者を人質にとった。10月7日は、ユダヤ教徒にとり贖罪のヨム・キプールでもあった。

 ハマスがイスラエル国内の町々で暴動を起こして、民間人の男性、女性、子どもたち、約700人を殺害し、さらに数百人のイスラエル人の人質を拉致した。警察は、ハマスのテロによる死者数を270人から、警察官17人を含む364人に修正した。誘拐された音楽祭の参加者の数は40人であった。1987年に発足したハマスはイスラエルを一切認めない強硬な武力闘争を掲げて自爆テロなどを行った。その一方で、パレスチナ市民に対する福祉活動も行い、市民の支持を得た。穏健派のファタハとの武力闘争をへて、2007年からはガザ地区を実効支配した。

 イスラエル安全保障内閣は10月7日、基本法第40条に基づき、戦況のための重要な軍事的措置を承認した。安全保障内閣は一連の作戦決定を下した。ハマスとイスラム聖戦の軍事・統治能力を破壊して、イスラエル市民を脅し攻撃する能力と意欲を崩壊される。















Warning: Victims of a brutal massacre at the Tribe of Nova music festival are seen under a tent in Israel. (New York Post, Oct. 8, 2023)

2023年11月15日水曜日

トルコのエルズルムのグレゴリアン墓地に、会葬者たちが見守る中で、1895年10月30日に虐殺されたアルメニア人の犠牲者の死体が共同墓地に11月2日に埋葬された。

トルコのエルズルム(Erzeroum)のグレゴリアン墓地に、会葬者たちが見守る中で、1895年10月30日に虐殺されたアルメニア人の犠牲者の死体が共同墓地に11月2日に埋葬された。アルメニア人が、重荷を背負って深い塹壕に到着し、死体を仲間に手渡した。大きな共同墓地の四方には、不安そうな顔で墓の墓を見つめるアルメニア人の群衆がいた。約350人のアルメニア人の死体を埋葬するために大きな溝の共同墓地が掘られた。葬儀はまったく行われなかった。

 エルズルムのアルメニア人墓地にある集団墓地に埋葬されたアルメニア人の虐殺犠牲者の死体の列ができた。4人の男が死体を地面に安置して、シャベルを持った他の男たちが立ち止まった。共同墓地には弔問客が列をなし、背後には高い木々が見えた。北側の壁に沿って、幅約6m、長さ約45mの列をなして、虐殺されたアルメニア人の死体321体が横たわった。

 エルズルムの虐殺は、オスマントルコ軍兵士によって勃発して、地元のイスラム教徒も虐殺に加わった。トルコ軍兵士は、トルコのエルゼロウムと周囲で、アルメニア人の虐殺に積極的に執行した。アルメニア人の商店や家屋は略奪された。約6万人以上のアルメニア人が虐殺された。エゼロウムだけでなく、トレビゾンド、、エルジンギアン、ハッサンカレ、その他多数の場所で、キリスト教徒のアルメニア人は、ブドウの実のように押しつぶされた。

 ウィリアム・サハトルベンは虐殺の余波を目撃し、アルメニア人墓地で犠牲者の写真を撮影した。虐殺に3通の長く詳細な手紙を書き、11月16日と27日と12月9日に、ロンドン・タイムズ紙に無署名の特派員として掲載された。ハミディアンの虐殺は、アルメニア人の虐殺とも呼ばれ、1890年代半ばにオスマン帝国にて勃発したアルメニア人の虐殺である。犠牲者の推定は約10万人から30万人で、約5万人の孤児を出した。虐殺は主にアルメニア人を狙ったが、ディヤルベキルの虐殺など、無差別の反キリスト教のポグロムに展開して、約25,000人のアッシリア人も殺害された。




2023年9月22日金曜日

北東アフリカのスーダンにて1899年11月25日のウム・ディワカラートの戦いは、イギリスのエジプト遠征軍がマフディスト軍と信奉者を残忍に大量虐殺して、約1,000人以上の死体が散乱してマフディスト国家は滅亡した。

北東アフリカのスーダンにおける1899年11月25日のウム・ディワカラート(Umm Diwaykarat)の戦いは、マフディスト国家の最終的な滅亡を示した。カリファとして知られるアブダッラーヒ・イブン・ムハンマドが指揮下したマフディスト軍の残党が撃破された。マフディスト軍と信奉者らは残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死体が散乱した。マヒディ国家の後継者であったハリファとして知られるアブダラヒ・イブン・ムハンマドの死体も含まれていた。

 首都オムドゥルマンから撤退したマフディスト軍は、後継者のハリファと約1万人の残りの信奉者たちは、追撃してきた約8000人のウィンゲート将軍の指揮したエジプト遠征軍と立ち向かうことを選択した。武装していたマフディスト軍は残忍に大量虐殺されて、ウム・ディワカラートの戦いが終わるまでに約1,000人以上の死者が出た。

 その1年前の1989年9月2日に、スーダンの首都オムドゥルマン(Omdurman)の戦いで、イギリス軍のキッチナー卿が指揮下したエジプト遠征軍に、マフディスト軍は同様に悲惨な敗北を喫した。約52,000人のマディスト軍は、約12,000人が戦死して、約13,000人が戦傷して、約5,000人捕虜になった。約25,800人のエジプト遠征軍は、約48人が戦死して約382人が戦傷して、近代的装備で圧倒した。

 マフディストの反乱軍はオスマン・エジプト政権を打倒し、オムドゥルマンを首都とする独自のイスラム・国家を1885年1月26日に樹立した。イギリスは1898年にスーダンを再征服して、植民地としてスーダンを統治した。イギリスの首相に2回なったウィンストン・チャーチルは、イギリス陸軍の将校として、キャリアアップのために戦闘の経験を求めてオムドゥルマンの戦いに参戦した。チャーチルは、電信、鉄道、新世代の兵器の使用による戦争の機械化を詳しく述べた『河川戦争The River War:スーダン再征服の歴史的記述(1899年)』を敢行した。




2023年5月3日水曜日

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmのアル・マハウィルの集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰り、無残な遺体を抱きながら泣いた。

2003年5月にバグダッドから南へ約90kmにて、アル・マハウィル(Al-Mahawil)の集団墓地で約3000人の死体が発見された。シーア派のイラク人男性は、見つかった身内の遺体をビニール袋に入れてバスで持ち帰った。イラク人男性は、無残な遺体を抱きながら泣いた。1991年のシーア派の蜂起が鎮圧されて以来、行方不明になっている人々の親族は、トラクターや素手で土を掘り起こしながら、親族の遺体を必死で探した。

 イラク戦争が2003年5月1日のアメリカ軍の戦闘終結宣言した後から、イラクの法医学チームは2003年5月14日に、バグダッドの南約90kmのアル・マハウィル近郊の農場近くの集団墓地に埋められた推定約1万5000体もの死体を発掘し始めた。アル・マハウィルの集団墓地には、行方不明のイラク人が数百人集まり、親族の死体を探した。湾岸戦争が1991年3月1日に終結した直後の3月5日から4月5日までサダム政権に対するイラク蜂起が勃発した。1991年3月に首都バグダッドにいたフセイン大統領は、シーア派の反乱を鎮圧するために、イラク南部の地方に分散した決死隊を南部に素早く集結させた。サダム・フセイン政権は、ヘリコプター、長距離砲、装甲地上部隊を集結して暴動に残忍に反撃した。南部で約30,000~約60,000人のシーア派イラク人、北部で約20,000人のクルド人を殺害した。イラク人権省は、アメリカ軍主導の侵攻以来に約3年間に登録した約200の集団墓地の大半は南部にあったと公表した。

 犠牲者は、1991年3月頃に、フセインがイラク南部で起きたシーア派の反乱を鎮圧した際に殺害された。イラクの裁判所は、1991年の弾圧で少なくとも約10万人、おそらく約18万人のシーア派が殺害された文書証拠と目撃者の証言を持っていた。イラクの1991年の殺人者たちは、蜂起の責任者を追い詰めるのに時間をかけず、戦闘年齢に達した若者を無作為に捕らえて、裁判なしで死刑を執行して、恐怖政治であった。犠牲者たちは、後ろあるいは横に投げ出され、互いの上に倒れ、足が下敷きになり、銃弾が胸部や腹部を打った跡が、衣服の裂け目から検証できた。銃撃で足の骨が粉々になり、死体は身を寄せ合って横たわった。出土した死体の多くは、手首の骨が背中で合わせ結ぶためのロープや布の破片が土にまみれた骨に混じった。







2023年2月10日金曜日

イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマーを嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれた。

2007年9月16日に、イラクの首都バグダッドの北東約60kmのバクーバで、一家の車が何者かの武装集団による銃撃に巻き込まれた。イラク人母親が、殺害された6歳の息子のディヤ・タマー(Dhiya Thamer)を嘆き悲しみ慟哭した。母親は、死亡した息子の死体を腕に抱き上げた。ディヤの10歳の兄貴のクサイ(Qusay)は攻撃を受けて負傷した。弟のディヤが、小学校1年生になる予定の小学校に、子供たちを入学させた後に、タマー家が戻ってきた帰りに車が銃撃戦に巻き込まれて、タマー兄弟が死傷した。(写真:Adem Hadei/AP Photo via The Atlantic/ Last Touch, Award of Excellence, POYI) イラク人の母親は、子どもを守ろうと思っても、守り切れなかった。イラク戦争では、貧乏なイラク人、末端のイラク人たちがみんな犠牲になった。

 イラク戦争が2003年3月20日に開戦後から5月1日に終結宣言後も、イラク人市民の流血は続いた。世界保健機関(WHO)の調査によると、2003年3月から2006年6月までの間に、毎日平均約120人のイラク人が暴力的に殺害された。医学調査研究(NEJM)では、イラク人の半数以上が首都バグダッドで殺害されたと明記され、約15歳から約59歳の男性の死因のトップが、暴力事件であると強調した。2006年に、医学雑誌ランセット(Lancet)に掲載されたアメリカ人医師による調査研究では、イラク戦争と占領によって死亡したイラク人は約65万5千人に上ると推定された。2007年末にアメリカ外交協会(AFSA)が、アメリカ国務省職員約1万1000人のうち約4000人を対象に調査研究を行った。イラク駐在を希望しない外交官の約48%が、アメリカのイラク政策に反対を表明し、それが拒否する理由の一つであると強調した。

 同日2007年9月16日に、アメリカ軍はイラクのアンバル州でアルカイダ系の反乱軍に対抗する地元勢力を組織した部族指導者を殺害した容疑者のイラク人らを捕獲したと発表した。同日9月16日にイラク警察は、バグダッド西部のスンニ派が多い地区にて、警備請負業者が発砲して、少なくとも約9人の民間イラク人が殺害され、アメリカ大使館は、国務省の請負業者が発砲事件に巻き込まれたと発表した。警備請負業者は自分たちを守るために武力をエスカレートさせた。同日9月16日には、バグダッド中心部のマンスール地区で、米国務省の車列が正午に攻撃を受けた。車列の近くで爆発があり、車列を警備していた警備業者が街頭で発砲した。9月16日には、イラク全土で54人の死亡または発見された。宗教が混在する町トゥズ・ホーマトで、ブービートラップを仕掛けた自転車が爆発し、少なくとも約5人が死亡、約19人が負傷した。その他、ディヤラ州のバグダッド北東にあるバロール村で武装集団が襲撃し、約14人が死亡、約7人が負傷した。




2023年1月19日木曜日

1979年10月31日にフィリピン南部ミンダナオ島にて、旧市庁舎に配属されたフィリピン軍第6IB兵士は、ナタンコップ・ロマプナットと彼の家族全員の7人を銃剣で虐殺した。

1979年10月31日午前0時に、フィリピン南部ミンダナオ島にて、マラウィ(Marawi)にある家は、旧市庁舎に配属されていたフィリピン軍第6IBの兵士に囲まれた。彼らは居住者に降りてくるように命じた。ナタンコップ・ロマプナット(Natangcop Romapunut)と彼の家族を除いて、全員が降りてきた。兵士達は家に上がり、7人の家族全員を銃剣で虐殺した。殺されたのはロマプヌットさん(60歳)、妻のカリモダンさん(58歳)、未亡人の娘ラヤマンさん(45歳)、娘のベドリ・サリックさん(21歳)、その夫サレム・サリックさん(24歳)と若い夫婦の子供2人(4歳と生後7カ月)であった。11月には、ラナオ地方で反政府勢力の活動が活発化すると、軍は報復に出た。反乱軍に入り込めないので、イスラム社会全体を対象にした弾圧作戦であった。

 ラナオ(Lanao)のマラナオ(Maranaos)族は、ミンダナオ島のイスラム教徒が受けた最も残虐なマルコス政権下の軍事行動の犠牲者であった。虐待に関する資料を入手することは困難である。部外者は軍とイスラム教徒の両方から疑いの目で見られている。マラナオ族はラナオの街の人口のほとんどを占めている。彼らは明るくカラフルなマロンを着て通りを歩いている。市場はいつも混雑している。マラナオの少年たちはメロディーを歌いながらアイスドロップを売っている。しかし、重装備の兵士が通りを歩いたり、戦車に乗ったりして、その光景はしばし崩れ去った。1978年10月4日に、またしてもフィリピン軍の奇襲作戦が行われた。マラナオ人約58人が拘束され、中には反乱軍と認める書類にサインさせるために拷問を受けた者もいた。ボールペンで両目をつぶされた人もいた。

 1978年末、マラナオ族からフィリピン軍による弾圧の報告書が届き、助けを求めるようになった。マラナオ族の報告書の最後には、助けを求める言葉があった。私たちマラナオ族の一人一人は、自分が次の犠牲者になる恐怖を常に抱きながら生きている。誰もが心の中に重い不安を抱えている。誰も家から出られなくなった。事件は、世間に知られないようにされている。私たちが軍の手によって苦しめられていることを知ることはできない。

 マラナオ族は、フィリピン南部ミンダナオ島中西部の南ラナオ州のラナオ湖周辺を居住地とする集団で、その大多数はイスラム教徒である。マラナオ語を母語として、人口は約86万9000人で、フィリピン全人口の約1.27%を占める。暴動やテロに1972年9月21日に,マルコス大統領は戒厳令を施行した。ミンダナオ地方西部では、イスラム教徒を含む先住民族(モロ族)による政府への抵抗運動を背景として、1960年代後半に分離主義運動が活発化した。1968年頃に設立したモロ民族解放戦線(MNLF)は、1972年以降に、独立運動からフィリピン軍に対する武力攻撃を繰り返した。さらに1977年から、イスラム国家の設立を掲げるハシムらが離反してモロ・イスラム解放戦線(MILF)を設立した。