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2024年3月20日水曜日

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦後に、夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦が終結して、戦場の夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。1963年7月頃には、ベトナムでは反政府ゲリラによるゲリラ戦が勃発していた。アメリカから派遣された軍事顧問団や政府軍は、ベトコンとの戦闘を繰り返した。

 1963年初頭までに、ベトナムに駐留するアメリカ軍兵士の数は、数百人から数年のうちに1万人以上に増えていた。朝鮮戦争が勃発して停戦してから10年も経ていない。地球の裏側のベトナムで起こった紛争に、アメリカ軍が直接に関与する影響は、アメリカ国民の話題の一部であった。1963年当時は、ベトナムにおけるアメリカ軍の役割の拡大は、まだ包括的で分裂的な問題にまで発展していなかった。

 1963年1月25日に『LIFE』誌が「We Wade Deeper Into Jungle War」の強烈な表紙と記事を掲載して、カラー写真を添えて注目された。LIFEの写真が1963年以前から、ベトナム戦争中も『LIFE』誌などやアメリカの主要マスメディアは、紙面でもテレビでも、生々しく不安を煽るベトナム戦争を定期的に掲載し放送した。1964年6月12日号『LIFE』に岡村昭彦の「醜いベトナム戦争(9ページ)」の特集が掲載され写真に反響を呼んだ

 雑誌に掲載される写真は、恐ろしいほど拡大する紛争を鮮明に記録して、戦争の生々しさを示唆した。ぼろぼろに切断された手足、放火された死体、内臓で覆われた壁などは、生弱なアメリカ人には動揺が大きすぎた。大手マスメディアに慣れ親しんだアメリカ人には、大衆週刊誌にベトナム戦争の陰惨な写真が日常的に掲載された。




2023年11月9日木曜日

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコンゲリラの死体が積み上げられた。

ベトナム戦争のテト攻勢直後の1968年2月1日に、南ベトナムの首都サイゴンのタンソンニャット空軍基地周辺に、アメリカ軍と南ベトナム軍に殺害されたベトコン(南ベトナム解放戦線)ゲリラの死体が積み上げられた。   

 北ベトナム軍とベトコンのテト攻勢は、1968年1月31日に勃発した。テト(ベトナムの正月)は、爆竹の爆発音が銃声を覆い隠し、ベトコンの攻撃に奇襲の要素を与えた。南ベトナム解放民族戦線(ベトコン, NLF)軍とベトナム人民軍(北ベトナム軍)が、ベトナム共和国(南ベトナム)軍、アメリカ軍、およびその同盟国軍と戦闘した。1968年1月31日に、ベトコン(VC)は南ベトナム全土でアメリカ軍と南ベトナム軍の陣地を攻撃するテト攻勢を勃発した。首都サイゴンがテト攻勢の中心地だった。首都サイゴンの完全占領は意図できず実現は不可能であった。ベトコン(VC)の35個大隊がサイゴンを攻撃して一時的に攻勢したのは、タンソンニャット国際空港近くの南ベトナム共和国陸軍(ARVN)統合参謀本部、独立記念宮殿、アメリカ大使館、タンソンニュット空軍基地、ロンビン海軍司令部、国家ラジオ局の6地点だった。

 ベトナム空軍(RVNAF)とアメリカ空軍(USAF)第7空軍の司令部があったタンソンニャット空軍基地への攻撃は、1968年1月31日未明に発生した。タンソンニャット空軍基地は、南ベトナム国内での攻撃的な航空作戦と、アメリカ陸軍とベトナム共和国陸軍(ARVN)の地上作戦を支援する主要な空軍基地のひとつであった。ベトコン(VC)とベトナム人民軍(PAVN)部隊による攻撃は、テト攻勢の最初の数日間のサイゴンへのい主要な攻撃の一つであった。テト攻勢はベトコンとベトナム人民軍(VC/PAVN)に大きな損害を与えて撃退した。6地点には表面的な損害しか与えられなかった。




2023年10月9日月曜日

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

カンボジアにてプノンペンの戦いで1975年に戦死した夫の遺体を、カンボジア人妻が抱きしめた。戦死した夫の死体に抱きかかえて、若い未亡人は苦悶しながら嘆き悲しんだ(@ Don McCullin)。カンボジア人の夫は、左派過激派のクメール・ルージュに殺害された。

 1975年4月17日にプノンペン陥落して、クメール・ルージュによってクメール共和国(現在のカンボジア)の首都プノンペンが占領されて、カンボジア内戦は終結した。1975年4月初旬に、クメール共和国に残された最後の砦であったプノンペンは、クメール・ルージュに包囲されて、ポチェントン空港からの空中補給に完全に依存した。クメール・ルージュの制圧が目前に迫り、アメリカ政府は1975年4月12日に、アメリカ国民と同盟国のカンボジア人を避難させた。4月17日のうちに、プノンペン周辺の最後の防衛線は制圧されて、クメール・ルージュがプノンペンを占領して、クメール共和国政府は崩壊した。

 捕らえられたクメール共和国軍は、オリンピック・スタジアムに連行され、そこで処刑された。政府や軍の幹部は、処刑前に自白書を書かされた。クメール・ルージュはプノンペン住民に強制退去を命じて、4月30日までフランス大使館に避難した国外居住者を除き、プノンペンは空っぽになり、タイに移送された。外国人はフランス大使館の敷地内に押し込められた。約2週間後には外国人たちはタイ国境までトラックで運ばれ、追放された。外国人が去り、カンボジアのクメール・ルージュによる民主カンプチアで始まった恐怖政治の唯一の外部目撃者を失った。

 クメール・ルージュは、プノンペンを支配下に置いて、約200万人のプノンペン住民を地方の農村部に強制移住を強行した。家や学校で銃を突きつけられ、直ちに移動しなければ発砲された。病院でも患者は路上に追いやられた。家族はバラバラになり、子供たちは混乱の中で両親を見失った。首都プノンペンから続く道路は大渋滞となり、何千人もの人々が死亡した。友人や親族は死体を置き去りにし、わずかな持ち物を担いで足早に移住を強制された。




2023年8月24日木曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍兵士がベトコンの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコンの戦死者の死体の横を通り過ぎた。ブー・トップの戦いで、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の第1歩兵師団第1旅団兵士がベトコンなどの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコン(VC: 南ベトナム解放戦線)の戦死者の死体の横を通り過ぎた。同日真夜中にブー・トップ地区での激しい戦闘で、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。アメリカ軍のブー・ドップ(Bu Dop)基地は、1963年11月に設置されて、ベトナムとカンボジアの国境に近いビンフオン県ブードップ地区に位置した。

 1967年11月29日午前0時頃に、ベトコンは要塞化されたアメリカ軍のブ・ドック地区を攻撃した。11月29日午後10時頃には、ベトコンの迫撃砲とロケット弾がブ―・ドップ基地に飛び込んだ。ロケットは掩蔽壕に直撃し、アメリカ軍兵士の4人全員が死亡した。数百人のベトコン兵士が、砲撃が終わると、滑走路の東側から突撃して、森から約200m横切ってブ―・トップ基地を突撃した。アメリカ軍は榴弾砲を、突撃したベトコンに撃ち込んで、強行突撃する多くのベトコン部隊を倒した。アメリカ軍の戦闘爆撃機F-100がベトコンが潜伏する森に、爆弾と大砲で攻撃した。ベトコンの突撃は挫折し、すぐに森の中に撤退した。アメリカ軍の死傷者は死者約7人、負傷者11人、ベトコンの戦死者は、31人の死体が残存した。

 その後に1週間も、アメリカ軍はブー・ドップ周辺のベトコン部隊と衝突を続けて、毎晩迫撃砲弾が着弾した。ブ―・ドップ基地に対する2度目の大規模なベトコン攻撃に対抗して、アメリカ軍は12月4日にブー・ドップ滑走路の基地を強化した。その2日後に、アメリカ軍はベトコンの侵攻が目標としたブー・トップの南東に射撃基地を設置した。12月8日午前1時頃に、アメリカ軍はベトコンの陣地を攻撃し、主力突撃隊がロケット砲下で侵攻した。アメリカ軍の砲兵隊は、非常に短い交戦距離下で、高火力砲弾でベトコン部隊を切り裂いて、基地の外線への到達を阻止した。アメリカ軍の空爆、武装ヘリコプター、迫撃砲で、ベトコンはさらなる損害を受けた。その後に、ベトコンは12月8日午前3時頃にブ―・トップ地区から撤退した。アメリカ軍は翌日の12月9日に、ベトコンの死者の約49死体と、軍の死者は4体を検死した。その後に、ブ―・トップ基地は1970年12月31日に南ベトナム軍に移管された。




2023年8月14日月曜日

ベトナム戦争において、1963年に殺害された多数の南ベトナム政府軍兵士の死体が、並べられて草ぶき小屋に安置された。南ベトナム政府軍兵士の死体は、アメリカ軍のポンチョに包まれた。

ベトナム戦争において、1963年に殺害された多数の南ベトナム政府軍兵士の死体が、並べられて草ぶき小屋に安置された。南ベトナム政府軍兵士の死体は、アメリカ軍のポンチョに包まれた。ベトコンの強固な拠点でる集落地域に対する作戦では、部隊の上陸や移動に先立つ長時間の空爆や砲撃によって、奇襲性は失われた。罪のないベトナム人女性、子供、老人が砲撃の矢面に立たされた。1963年3月の1ヶ月間に、ベトコンの攻撃は約1,861件と過去最高に達し、攻撃の規模が大きくなり、広範囲に分散した。

 1959年には約1,000人弱だった軍事顧問を、1961年1月20日にアメリカ大統領に就任したジョン・F・ケネディは1961年11月に、南ベトナムに対するアメリカ軍の軍事援助の大幅な増大を決定した。1961年12月に、USS空母コアは35機のヘリコプターとサイゴンに到着した。1962年半ばまでに、ベトナムには約12,000人のアメリカ軍の軍事顧問団が駐留していた。特別戦争と戦略的小村の政策により、サイゴン政府の南ベトナム軍は1962年に押し返すことができた。1963年にはベトコンが軍事的主導権を取り戻した。ベトコンは1963年1月に、アプバックの戦いで南ベトナム軍に対して初の軍事的勝利を収めた。アメリカ軍の軍事顧問団は、1964年までに約23,000人に達した。ケネディ大統領は、7月17日に南ベトナムからの撤退は、東南アジアの崩壊を意味するから、アメリカ軍は南ベトナムに留まると会見した。11月22日に、ケネディ大統領はテキサス州ダラスで暗殺された。

 1961年から1963年にかけて、約4万人の共産主義兵士が南ベトナムに潜入した。ベトコンが急速に成長して、1962年初頭までに推定30万人の兵士が解放協会に登録された。1963年1月2日にアプバックの戦いは、ベトコンが、南ベトナム軍とアメリカ軍に対して最初の大勝利となった。ベトコンと南ベトナム政府軍兵士の比率は、1961年の1対10から、1年後の1962年には1対5に跳ね上がった。共産主義側は最大限の軍事的拡大の準備を整えて、北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)の兵力は、1963年末に約17万4,000人に及んだ。





2023年7月19日水曜日

ベトナム戦争にて、47歳女性の戦争写真家であったディッキー・シャペルは、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、1965年11月4日に爆発した地雷によって死亡した。

ベトナム戦争にて、47歳の戦争写真家であったディッキー・シャペル(Dickey Chapelle)は、南ベトナムで戦闘中のアメリカ軍を取材中に、爆発した地雷によって死亡した。1965年11月4日に、チューライ基地近くで、南ベトナム解放戦線のベトコンの地雷が炸裂して、その破片が身体を射殺した。彼女はベトナム戦争で殉職した最初のアメリカ人女性特派員となった。「私が死ぬときは、アメリカ海兵隊のパトロール中でありたい」と彼女は語っていた。彼女の最期の死亡は、"起こるべくして起こった "と伝えらた。




 ディッキー・シャペルは、1965年11月4日午前8時頃にクアンガイ省チューライの南16kmで海兵隊小隊とパトロール中のブラックフェレット作戦中に戦死した。海兵隊によるチュウライ近郊での捜索・殲滅作戦であった。シャペルの頸部に破片を受けて、頸動脈を切断して、間もなく死亡した。彼女の最期の瞬間はアンリ・ユエ(Henri Huet)の写真に収められた。彼女の死体は6人の海兵隊員からなる儀仗兵とともに送還されて、海兵隊により丁重な埋葬が行われた。海兵隊は彼女に軍務上の栄誉を与えた。

 ディッキー・シャペルは、太平洋戦争の硫黄島の戦いの写真を撮った。米海兵隊のウィリアム・フェントン(William Fenton)伍長は、硫黄島の浜辺のすぐ近くに停泊していたUSSサマリタン病院船の中で、重傷を負って担架に横たわり、治療を待っていた。シャペルは、551人の重傷の海兵隊員がその船に乗船し、彼らの命を救おうとしたと説明している。硫黄島は第二次世界大戦中、最も激戦となった戦いのひとつで、海兵隊の死者6,821人、負傷者19,217人、日本軍は死者約21,000人、捕虜はわずか216人だった。



 ディッキー・シャペルは、第二次世界大戦にて女性戦場特派員の創世記の一人である。シャペルは、病院船から沖縄の無人島に向かい、大規模な攻撃で負傷者を救助する海兵隊員たちを取材した。海軍は喜ばず、彼女は銃を突きつけられて沖縄戦争から追い出された。戦争写真は手に入れて、そのうちの2枚は、沖縄の野戦病院で、14パイントの輸血を受ける前と後のジョニー・フッド(Johnny Hood)海兵隊員の写真で、血の川の献血に拍車をかけた。

 

2023年7月12日水曜日

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュにより首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。

1975年4月にカンボジアのクメール・ルージュによりカンボジアの首都プノンペンが空爆された。生存したガンボジア人が、絶望しながらも崩壊した瓦礫や死体をふるいにかけた。4月17日に、クメール・ルージュは勝利を収めて首都プノンペンに入城した。数時間以内にカンボジアを、国家への奉仕する農村社会に変革して崩壊させた。住民約200万人を田舎へ強制退避させる命令を下した。在留した外国人がタイ国境に追放されて、民主カンプチアにおける大量虐殺の目撃者を失った。1975年から1979年の間の犠牲者のうち約50万人から約150万人は、クメール・ルージュが引き起こした強制労働と飢餓が死因となった。

 1968年1月にニクソンがアメリカ大統領に就任したとき、ベトナム戦争から名誉ある終結を公約した。北ベトナムからの軍隊や物資が、カンボジアを経由して南ベトナムに流入していた。北ベトナム軍に対抗するために、ニクソンは前任のリンドン・ジョンソン大統領が始めたカンボジア空爆作戦を劇的に拡大させた。1969年3月に、ニクソンは北ベトナムの補給路を寸断するため、カンボジア東部で大規模な爆撃作戦をアメリカ空軍に密命した。1970年4月に、アメリカ軍と南ベトナムの地上軍がカンボジア東部に侵攻して、共産主義者の聖域を攻撃した。一方、北ベトナム軍はカンボジアの奥深くへと侵入して、クメール・ルージュのために農村の大部分を占領し始めた。ニクソンはその後に、北ベトナム軍の補給路を断つため、カンボジアへの地上侵攻を開始した。

 カンボジアはベトナム戦争の当事者ではなかったが、アメリカ軍のカンボジア爆撃は、第二次世界大戦中にアメリカが投下したすべての爆弾の総トン数を上回ったと推定された。アメリカ軍の爆撃機は、カンボジアの約113,000以上の地点に約270万トン以上の爆弾を投下し、戦闘員と民間人に多大な犠牲をもたらした。カンボジア空爆作戦で何万人ものカンボジア人が死亡し、何百万人もの人々が難民化した。大量爆撃の投下による破壊と1970年のアメリカ軍の部分的な占領により、その後に大量虐殺を執行する共産主義のクメール・ルージュ政権の台頭を促して、クメール・ルージュの政権は、約200万人のカンボジア人を虐殺したと推定された。




2023年5月11日木曜日

北ベトナム軍のイースター攻勢により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入し、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミス病院で、治療を受けるのを待機した。

北ベトナム軍のイースター攻勢(Easter Offensive)により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入して、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミスの病院で、治療を受けるのを待機した。戦闘が続く中で、北ベトナムのベトナム人民軍から絶え間ない砲撃にさらされ、何度も戦車に突撃された。毎日の砲撃で瓦礫と化した町には、腐敗した死体の臭いが充満した。

 北ベトナム軍の1972年3月30日からのイースター攻勢により、南ベトナムの最北中部沿岸のクアンチー市北部の戦線が崩壊した。南ベトナム(ARVN)軍と市民が国道1号線に殺到しパニックに陥った。ドンハの住民はほぼ全員が逃げ出し、デビッド・エリオットは廃墟と化した。大量の難民がフエに到達すると、フエの住民もパニックに陥った。ハイヴァン峠の南方のダナンに避難するために国道1号に住民が流入し始めた。1966年4月6日に、ベトナム人民軍(PAVN)部隊はロック・ニンを占領して、サイゴン北部のアンロックに攻め込んだ。サイゴン市内に残存した予備軍は、攻勢に対応するため国道13号線を急行した。サイゴンのアメリカ軍ラジオは、爆撃機の戦闘機をカンザスからベトナムに派遣することを発表した。

 北ベトナム軍のイースター攻勢は、ベトナム戦争中の1972年3月30日から10月22日まで、北ベトナム正規軍(PAVN)が南ベトナム正規軍(ARVN)とアメリカ合衆国軍に対する軍事攻勢である。北ベトナム軍は、3つの戦線を同時に攻撃した。規模と激しさに南ベトナム防衛側はバランスを崩した。北ベトナム軍が、1968年のテト攻勢以来初めて南ベトナムに侵攻した。北ベトナム軍は約1ヶ月に及ぶ第一戦線で、南ベトナムの防御陣地を制圧し、クアンティ市を占領した。その後に南下してフエの占領を攻勢した。北ベトナム軍は第ニ戦線で辺境防衛部隊を排除して、州都コンツムに侵攻した。サイゴンの北東の第三戦線で、北ベトナム軍はロック・ニンを制圧し、ビン・ロン州の州都アン・ロックを侵攻した。

 北ベトナム軍が侵攻の4月、停滞の5月、6月から7月は南ベトナム軍の反撃、9月のクアン・チ市の奪還に達した。3つの戦線で、北ベトナム軍は多くの死傷者と無能な戦術により頓挫した。イースター攻勢の結果、1968年11月以来、アメリカ軍は初めて北ベトナムに持連続的な北爆が開始された。南ベトナム軍はイースター攻勢による北ベトナムの侵攻を阻止した。北ベトナムは、装甲や装備の多くを失い、約10万人もの兵力を失う。南ベトナムの死傷者は約43,000人、うち約10,000人が死亡した。アメリカ軍兵士は、約10,000人が戦死して、33,000人が戦傷した。イースター攻勢の結果、約25,000人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。




2023年4月18日火曜日

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。フォンニ(Phong Nhi)村にて、ベトナム人の母親レディン・ディエン(34歳)は、赤坊のレ・ ディン・マンを抱いたまま、韓国軍の銃によって撃たれて殺害されて倒れた。母親ディエルの上着がめくれたまま、胸がむき出しになったまま死亡した。母親より死体の上方にも、ベトナム人の村人グエン・ティ・トが韓国軍に殺害された。赤ん坊を抱いて韓国軍の銃撃によって死亡したディエンは、生前に所持していた市民証を保持していた。

 赤坊は、うつ伏せのまま死んだ母親を仰向けにすると現れた。母親の血が付着して、赤ん坊は傷ひとつなく生存していた。額に汗まで流し、ディエンの赤ん坊は眠り続けて、母親が死亡して生死の見分けもできず、た悲しみを知らない。家や村が燃え、母も、祖父も、おばも失った。赤坊は、眠りから覚めてにこにこ笑ったり泣いたりしてた。

 父親レディン・トゥク(40歳)は、生活のために南ベトナム民兵隊員として働いた。自宅から約2km離れたキエムル哨所のそばに家を建て、夜を過ごした。わずかに支給される給料で、4人の子供に食事を食べさせていた。子供たちを戦災から逃れさせた。妻ディエンの死体を見て号泣した。祖父と姉まで死んでいた。家族を失った村の住民たちが、妻ディエンの死体を背負ってキエムル哨所に駆けつけた。アメリカ軍と村を守る南ベトナム軍の一人として、韓国軍の虐殺に憤った。

 兄弟の兄レディン・ムクは、父親がいるキエムル哨所でふざけながら遊んでいた兄。フォンニ村に鳴り響いた銃声に、無感覚となった。耳が銃声の音にとても慣れた。ベトコンと南ベトナム軍が、また撃ち合ったとやり過ごした。まさか母が末っ子の赤ん坊を残した死亡は想像もできなかった。母とおばと祖父の死の前で、兄はようやく生と死の境界を理解するようになった。

  韓国は1964年から1973年の間に約320,000人の韓国軍をベトナム戦争に派遣し、共産主義の北朝鮮に対抗して南ベトナムを支援して、アメリカに次ぐ最大の外国軍を派遣した。アメリカ軍は、1968年3月16日に、アメリカ軍がソンミ(The Mỹ Lai massacre)村で民間人のベトナム人347人を虐殺した。




2023年3月22日水曜日

ベトナム戦争にて1965年2月7日から勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムでは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の多数の死体が散乱した。

ベトナム戦争にて1965年2月7日に勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の死体が散乱した。

 アメリカは、インドシナ問題に関する1954年ジュネーヴ協定を破壊して、南ベトナムで特殊戦争を進めて、北ベトナムに対する挑発と破壊を強めた。その典型的なものは、1964年8月5日の空軍を使ったトンキン湾攻撃であった。重大な侵略行動は、北ベトナム軍と人民から激しい攻撃と非難を受けた。1964年8月5日のトンキン湾事件から1965年2月7日の北爆開始までに、アメリカは世界の世論の反対を受けても、20数回にわたり戦闘機や軍艦を派遣し、北ベトナムの北爆を加え、ラオスの戦争を拡大すると同時に、カンボジアの領土を絶えず侵略した。

 ジョンソン大統領は1965年2月7日午後2時に北爆の命令を下した。アメリカの戦闘機は東海(東シナ海)上に停泊するアメリカ第七艦隊の航空母艦から何回も発進し、ドンホイ市とクァンビン省のその他の地区およびヴィンリン地区のコンコ島に攻撃を加えた。ドンホイの病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加え、同地の人民の生命、財産に損失を与えた。人民の生命、財産を守り、ベトナム民主共和国の領土の保全を守るため、現地の軍隊と人民は断固たる反撃を加え、敵機4機の撃墜、多数を撃破した。

1965年2月7日にアメリカ軍が空軍を使って攻撃を加えた北爆は、ベトナム民主共和国に対する重大な新たな戦争行為でとなった。国際法およびベトナム問題に関する1954年のジュネーヴ協定に対する違反であった。アメリカ政府は南ベトナムにアメリカ軍事力の増派を決定した。

  アメリカ軍は、南ベトナムの苦境を挽回するために、ベトナム民主共和国に対して北爆をしかけた。南ベトナムにアメリカの軍事力を強化し、戦争を南ベトナム以外の地区に拡大した。インドシナおよび東南アジアの戦争の危機が増悪した。北ベトナムは、アメリカ軍の新たな戦争行為と南ベトナムに対する軍隊および兵器の増派した。



2023年2月2日木曜日

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。

ベトナム戦争のフエ攻防戦では、フエの血みどろの街路戦で殺害されたアメリカ軍兵士のビニールシートを一部かぶせた死体から死臭が満ちて、膨大な蝿が死体に集った。負傷者がおろおろと歩き、何ヵ所にもつくられた仮霊安所では引きとり手のない死体に、たえまなく線香の煙が包んだ。フエ攻防戦は、近代の市街戦の悲惨を証明した。

 テトの祝日である1968年1月31日未明から、約6000人以上ものベトコン解放勢力の大部隊が、 ロケット弾からフエ攻撃に移った。旧正月の古都フエは眠っていた。飛行場など目ぼしい軍事施設は、たちまち北ベトナム軍と解放勢力の手中に陥ちた。サイゴン政府軍の約1000人以上は旧正月の休暇をとって、残る兵士も不意打ちに狼狽して、半数以下にまで縮減した。アメリカ軍はフエ市内の顧問団本部に小規模配備のみであった。

 北ベトナムのベトナム人民軍(PAVN)とベトコン(VC)は、短期間でフエの大部分を占領した。その後に、アメリカ軍とベトナム共和国軍(ARVN)は、激しい一軒一軒の市街戦で、徐々に追い詰めた。日中にできるだけ多くの家屋を奪って、防御態勢に入り、翌朝に家屋間の戦闘を再開した。連合軍は3月2日にフエを奪還した。フエ攻防戦で、約3,000人が殺害されて、北ベトナム軍とベトコンは約2,000人の民間人を処刑した。北ベトナム軍とベトコンの死者は約5,133人、連合軍はの死者は、約668人と負傷者は約3,707人に及んだ。

 ベトナム戦争のテト攻勢で解放民族戦線側は約6万7,000人以上が参加して、サイゴン、ダナン、フエの他に南ベトナム44省の内34の省都、64の地方都市、アメリカ軍基地とサイゴン軍基地が攻撃された。その後のテト攻勢の犠牲者は、アメリカ軍は約3,895人、南ベトナム軍は約4,900人、解放民族戦線は約5万8,373人であったとアメリカ軍は公表した。アメリカ軍の1968年のベトナム戦争の死者が1万2,000人で、その約30%余りがテト攻勢のわずかな期間に失った。




2022年12月8日木曜日

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。

ミシュラン・ゴム農園でベトコンと戦って殺害された南ベトナム政府軍兵士とアメリカ人顧問の死体の前を通るとき、南ベトナム政府軍の死体運搬の担架手は臭いから身を守るためにフェイスマスクを装着した。連隊の大部分と数人のアメリカ人顧問が死亡した後に、約100体以上の死体が回収された。1965年11月下旬に南ベトナムの首都サイゴンから北西約72kmのミシュラン・ゴム園(Michelin Rubber Plantation)にて、4日間も露営していた南ベトナム政府軍の約500人の第7連隊が崩壊した。警戒が疎かになって、南ベトナム民族解放戦線(ベトコン)が夜中に忍び寄って、夜明けとともに熾烈な突撃をした。ゴムの木々間から。突如にベトコンが波状に攻撃した。その後も、アメリカ軍第25歩兵師団や第1師団が投入されて戦闘が勃発して多くの戦死傷者の犠牲を伴った。ミシュラン・ゴム園は、1925年にミシュラン社によって設立され、約12,400ヘクタールとベトナム最大のゴム農園であった。

 ベトコンは、南ベトナム軍の侵攻拠点にヒット・エンド・ラン攻撃した。戦場では、士気が衰えて敵前逃亡しない南ベトナム軍兵士が殺害された。ゴムの木々の間から、突如にベトコンが突撃した。11月27日の早朝に連隊長が殺害されて、アメリカ軍顧問も塹壕付近で殺害された。午前7時に、アメリカ軍顧問は「もう、ここから出ていかねばならない。店じまいだ。」が最後の無線となり殺害されていた。南ベトナム政府軍の機関銃手などの死体が、塹壕の中で倒れてうずくまった。ベトコンの射撃によって、機関銃手の頭部がぶち抜かれた。

 ベトコンは「降伏せよ」とベトナム語で宣告して、約10人の南ベトナム政府軍が降伏して立ち上がった。歩き始めた直後に、ベトコンの機関銃により一気に全員が殺害された。南ベトナム政府軍の死体は、深い塹壕や朽ちた木々の枝の間などに散乱していた。さらに、殺害された南ベトナム政府軍の死体は、首と頭も致命的に撃ち抜いた。塹壕の中には、ベトコンの死体は皆無であり、すべての戦死傷者は運び去っていた。ベトコンには、北ベトナム軍の砲兵隊にも援護された。正午になってから、アメリカ軍の武装ヘリコプターが集結して、第七連隊の生き残りを救護した。ヘリコプターが着陸するたびに、林の中から戦死傷者がぞろぞろと集結した。




2022年12月7日水曜日

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、劣悪な環境で切断手術を受けて、5日後に死亡した。

カンボジア軍兵士のヒアン・ボウンは、1991年12月1日に地雷で下肢を挫滅して、当日の夕方にバッタンバンの軍病院で、切断手術を受けた。ボウンは、病院のベッドに横たわるボウンには、物資も乏しく、非衛生的で劣悪な環境であった。ボウンは地雷で受傷してから約5日目に敗血症で死亡した。左大腿切断されるも、右足は切断せずに患肢温存して、重篤な感染症を引き起こした。左下肢だけでなく、右下肢の切断が必要であった。地雷の犠牲者の多くは、民間人の非戦闘員であった。

 カンボジアのラタナ・モンドル西部のトレン・コンミューンで、ヒアン・ボウンは、12月1日にカンボジア政府軍の分隊と通常のパトロールに出た。12月1日の昼前に地雷を踏んで、約3時間後にバッタンバンの軍病院に移送された。戦傷したカンボジア軍兵士は、旧式ソ連製のトラックの後方に載せられた。幌をかける棒に結びつけた血だらけのハンモックに載せて運送された。

 地雷によってボウンの左下腿は破壊されて、左足は薄皮の皮膚のみで繋がっていた。左足には傷はなく、左大腿の下から突き出た。病院に搬送されて入所してから、約1時間半後に医療関係者に診察を受けた。約5時間後にボウンの左大腿切断の手術が開始された。しかし、病院には、物資が不足して、薬品・酸素・輸血用の血液、医療資源、発電機などが不足していた。約40,000人が四肢切断者として生活していた。

 カンボジア内戦は、1967年にラタナ・モンドルの丘陵地帯で勃発した。カンボジアに対する軍事干渉は、アメリカ軍特殊部隊が1960年代に、南ベトナムからカンボジアに潜入して、地雷を敷設した。1975年にカンボジアを掌握したポル・ポト政権は、地雷による人民の戦闘を奨励した。地雷原となった地域の住民は、強制連行されてクメール。ルージュにより虐殺された。カンボジア地雷対策センター(CMAC)は、1,150万人の人口で約500万の地雷を推定した。1979年以来、約64,000人を超える死傷者と約25,000人を超える切断者が記録された。1997年に地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)がノーベル平和賞を受賞して、オタワ条約が調印された。




2022年11月7日月曜日

1960年代に北ベトナム軍の基地があるドンホイにて、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射により、多数の北ベトナム市民が殺傷されて犠牲者が出た。

1960年代に北ベトナム軍の基地があるドンホイにて、アメリカ軍の戦闘機による機銃掃射により、多数の市民が殺傷されて犠牲者が出た。ドンホイはベトナム中部の港湾都市で、クアンビン省の省都である。空襲によりドンホイの現場に大きな損害を与え、未知数の北ベトナム軍兵士とベトコンのゲリラが死傷した。

 1965年2月7日午後2時、ジョンソン・アメリカ大統領の命令により、アメリカ軍の戦闘機が、アメリカ第七艦隊の空母から何回も発進して、北ベトナムのドンホイ(Dong Hoi)市とクアンビン州に攻撃を加えて、ドンホイ病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加えて多くの犠牲者を出した。大統領特別補佐官のマクジョージ・バンディは、北ベトナムに対する報復攻撃のためには、空と海からの行動が不可避的であると結論づけ、1965年2月7日にリンドン・ジョンソン大統領に対して北爆に関するバンディ覚書を提出して、公式に北ベトナムに対する北爆が指令された。ジョンソン大統領は、フレイミング・ダート作戦を命じて、アメリカとベトナム共和国空軍の戦闘機により、ドンホイ付近の約49回の報復出撃は、ドンホイ近くの北ベトナム人民軍基地を標的とした。

  1964年8月5日に、ワシントンは北ベトナムに対する破壊作戦を開始して、鉄製ボール弾、ナパーム弾、黄燐弾など禁止された武器を使用した。アメリカ軍は、ハノイやハイフォンを含めて、北ベトナムを繰り返し爆撃した。特に、ドンホイ、ニンビン、フーリー、バックザン、イエンバンイ、ソンラが大きな破壊を受けた。面積3平方kmのクアンビン省都、ドンホイは約1129回の空襲を受けて、数百回は夜襲であった。特にパイナップル弾数千発が投下された。

 ケネディ暗殺後、アメリカ大統領に就任したジョンソンは1964年8月に、トンキン湾事件でアメリカ軍艦艇に対する北ベトナム軍の攻撃を利用して、アメリカ議会の戦争拡大支持を取り付けた。1965年2月7日に、17度線北方のドンホイ爆撃をもって、北ベトナム爆撃する北爆に踏み切った。ドンホイにある兵員集結地などの北ベトナム中枢への報復爆撃をした。




2022年10月4日火曜日

ベトナム戦争にて、1966年6月19日に南ベトナムの首都サイゴンの市内にて、南ベトナム解放戦線(ベトコン)の手榴弾が爆発して、3人の民間ベトナム人が無差別に殺害された。

ベトナム戦争にて、1966年6月19日に南ベトナムの首都サイゴンの市内にて、南ベトナム解放戦線(ベトコン)の手榴弾が爆発して、3人の民間ベトナム人が無差別に殺害された。爆死した死体が、街路に吹き飛ばされた。警察官が、3人の死体を検死して捜査した。

 1966年4月〜5月のバーミンガム作戦で、約5,000人以上のアメリカ軍が大量のヘリコプターと装甲車に支援されてサイゴン北部のベトコンを掃討した。両軍の小規模な戦闘もあったが、3週間で約100人のベトコンを殺害したのみであった。戦闘はベトコンに左右されて、ベトコンはなかなか捕まらず、ベトコンの捜索は困難であった。

 ベトナム戦争では、アメリカ軍兵士は1964年に約24,000人であった。1965年に約180,000人から、1966年9月には約325,000人にも激増した。ベトナム戦争の戦況が泥沼化した。1967年からアメリカ軍は、サイゴン北方の鉄の三角地帯のベトコンの拠点を撲滅して、北爆により北ベトナム軍を追い詰めた。ベトコンと北ベトナム軍は、多大な犠牲を伴いながら粘り強く抵抗した。アメリカ合衆国内の反戦運動の激化によって、アメリカ軍の士気と勢力が減弱した。

 サーチ・アンド・デストロイ(索敵殺害)作戦で、アメリカ軍はその後に、最盛期で一度に約50万人もの地上軍を投入して、ヘリボーン作戦や森林戦を展開した。村や森に紛れた北ベトナム軍兵士やベトコンのゲリラを掃討して壊滅する索敵殺害作戦により、ヘリコプターや戦闘機から投下されたナパーム弾などにより、農村部への無差別攻撃や、韓国軍兵士による村民への虐待と虐殺を引き起こした。アメリカ軍は、当初は蔡命新が率いる韓国軍の対ゲリラ戦術に対して批判的であるも、後には韓国軍のゲリラ戦術を採用した。

 1966年には、ベトナムに駐留するアメリカ軍は約385,000人に達して、さらに約60,000人の水兵が海外に駐留した。1966年は、約6,000人以上のアメリカ軍兵士が戦死して、約30,000人が戦傷した。ベトコンの死者数は推定で約61,000人であり、ベトコン兵力は約28万人以上であった。




2022年8月12日金曜日

南ベトナムのケサン付近の881高地で、19歳の海軍衛生兵バーノン・ワイクは、戦死した海兵隊員ロックに寄り添った。ロックの胸に左手から耳を当て心臓の鼓動の停止から死体を検死して、置き去り退避した。

1967430日に、南ベトナムのケサン付近の881(海抜881m)高地で、19歳の海軍衛生兵バーノン・ワイク(Vernon Wike)は戦死した海兵隊員に寄り添った。最初に負傷したロックの胸に左手を当てて、次いで胸に耳を当てて心臓の鼓動の停止から死体を検死した。ワイクは、死んだ直後にロックとヘルメットを置き去りにして退避した。ベトナム戦争は、おそらく歴史上最も緊密に撮影された戦争である。倒れた仲間の遺体にひざまずき困惑する海兵隊員であるワイクの写真で、フランス人の女性写真家であるキャサリン・ルロイ(Catherine Leroy)19674月に撮影した。南ベトナムと北ベトナムの国境に近いヒル881での血生臭い戦いを撮影した。2005年、ルロイがワイクに会ったとき、ベトナム戦争から帰還して、重荷を背負っていた。4回結婚して、口もきかない2人の娘がいて、1カ月325ドルの年金で細々と暮らた。58歳のワイクは、肉体的な傷はないが、極度の心的外傷後ストレス症候群に苦しみ、毎晩のように悪夢にうなされた。腕には死んだ仲間の名前の刺青がある。

 ワイクにとって、戦時中にリロイが撮った写真と、その呪われた記憶は、心理的なスパイラルとして絡み合っていた。1967年春の「ヒルファイト」は、海兵隊の前哨基地ケ・サーン付近で海兵隊と北ベトナム軍との間で行われた戦闘である。リロイは、補給ヘリで戦闘服に身を包み、髪に白いハンカチをかぶって戦場に到着した。爆撃された地形を通って突撃する海兵隊中隊について行き始めた。地盤がゆるんで歩きにくくなり、戦闘の音が耳障りになった。砲撃で身動きがとれなくなったとき、約4メートル先に負傷した海兵隊員を見つけた。誰かが 「衛生兵、衛生兵!」と叫んだ。もう一人の海兵隊員が負傷者に駆け寄り、心臓に耳を当てた。衛生兵のワイクは完全に苦悶の表情を浮かべた。ドーンという音がして、塹壕から頭を上げると、プエルトリコ出身のロック(Rock)がいた。ロックの体が落ち始めて、ワイクは身を投げ出した。ロックの心臓の鼓動が少しずつ消えていった。銃弾はロックの胸に当たった。先頭の突撃隊にいたワイクは、死んだ兵士であるロックのライフルを拾って、海兵隊の第二部隊の中に消えた。死んだ直後に仲間とヘルメットを置き去りにして退避した。

 1968年、テト攻勢の最中に、リロイは北ベトナム軍に捕獲された。脱出して、北ベトナム軍の戦闘の様子を撮影し、ライフ誌の表紙を飾った。ワイクさんはベトナムから体に傷はなく、悩みを抱えたまま帰国した。2003年、ズボンのポケットに入れた拳銃で誤って自分を撃った。2004年、住んでいた家が全焼した。火災後に小さなアパートに引っ越した。引越しの2日後、脳卒中で倒れ、半身不随となり、視力を失った。中西部の姉妹の家に転がり込んだ。




2022年7月27日水曜日

1978年からベトナム軍の侵攻により、カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

約12万人のベトナム軍が1978年12月25日に、カンボジアに侵攻した。1979年1月7日には、首都プノンペンが陥落した。1978年12月に結成された親ベトナム派のヘン・サムリン議長の救国民族統一戦線が、カンボジア全土の制圧を公言した。それに対抗して、ポル・ポト議長の民主カンボジア政府軍は、カンボジアの国境沿いで徹底抗戦のゲリラ戦を継続した。その戦火に追われた民間カンボジア難民が、1979年1月頃から続々とタイ国境を集団で越え始めた。

 タイ軍は、カンボジアの共産主義勢力がタイ国内に流入を阻止した。そのため民間カンボジア難民は、国境線上で銃剣と地雷で追い返された。4月頃になると、国境地帯は雨季に入り、ジャングルに迷入したカンボジア難民は、栄養失調とマラリアなどの感染症で多数の死者が発生した。カンボジアから逃避した衰弱して餓死した難民の子供の死体は、タイ国境周辺のジャングルの空き地の中に見捨てられ放置され散乱した。

 1979年10月11日に約1万人のカンボジア人の難民集団が逃避して国境周辺のクロンワー村に到着した。その道端には、多数の歩行困難となった重病の難民が転がった。その自由病の難民は見捨てられて、絶命後の死体が散乱した。10月2日には、国境周辺で激闘が展開された。森の道端には、多数の瀕死の難民が横たわり、やがて生命が途絶えた。クロンカイテェムの山林には、新たに約2万人の難民が出没した。山地から下る難民は、タイ軍が流入を阻止するバリケードを避けて、越境をした。

 タイ・カンボジア国境約800キロには、川の国境もある。広いところで約20m、狭いところでは約10mに満たない。この地域が平和であった頃は、両国の国籍を持つ人々は何の苦もなく川を渡っていた。タイ語とカンボジア語を喋り、川の向こうとこちら側で 親戚同士も珍しくなかった。カンボジアの2度にわたる政変は、国境の1本の線に、多くの生命に意味を付与した。1975年4月、アメリカに支援されていたロン・ノル政権が倒れると、カンボジア政府軍の敗残兵らが難民となり、川を渡って、国境地区に住み着いた。次いでポルポト派の民主カンボジア政府軍が、ベトナム正規軍と数千人のヘン・サムリン軍に追われ、いま国境を越えて追い出された。カンボジア難民は大量で、悲惨で、複雑であった。

 ポル・ポト派の正規軍兵士もいれば、家族を殺されたとホル・ポト派に恨みを持つと同時にベトナム軍の支配を嫌う者もいた。軍人が常に家族を伴って、難民と兵士の区別をいっそう困難なものにした。一部の例外を除き、難民が疲れ、飢え、病んでいることは明白であった。難民の約80%が熱帯性のマラリアにかかり、ウイルス性肝炎、結核も多く、毎日毎日彼らは死んでいった。

  1979年10月24日、国境の村のクロンワーからサケオのキャンプへの移動が始まった。総数3万人のうち1万人は、キャンプ行きを拒否してカンボジアへ帰って行った。どちらの行動もとれない約500人の病人が置き去り放置された。1日に20人くらいが息を引き取っている。1979年末には、カンボジア難民の数は約68万人となり、カンボジア領の国境沿いに約100万人の難民が集結した。チュイ・ポンはカンボジア語で助けてという意味だが、国境でこの声を聞かない日はなかった。




2022年7月7日木曜日

アメリカ大使館側の自動車がベトコンによる爆弾テロで大爆発して、南ベトナム人は全身血まみれで殺害された死体が散乱した。

アメリカ大使館側の自動車が、南ベトナム解放戦線のベトコンによる爆弾テロリズムによって、1965年3月30日午前10時50分に大爆発した。その周辺では、大爆発に巻き込まれて全身血まみれの南ベトナム人の死体が散乱した。ベトナム戦争にて、南ベトナムの首都サイゴンにあったアメリカ大使館の側に駐車していた車が、大爆発した。ベトコンの攻撃は、南ベトナムの警官が大使館の前に駐車した車の運転者と口論を始めた。運転者が立ち去るのを拒否し、別のベトコンの一員が車に並走して警官に発砲した。短時間の銃撃戦の後に、約136kgのプラスチック爆弾を積んだ車が大使館前で大爆発した。

 その大爆発によって、アメリカ大使館は崩壊して、ベトナム人は約19人、アメリカ人は2人ほか、フィリピン人が1人が殺害されて死亡して、約183人以上が負傷した。CIA速記官のバーバラ・A・ロビンス、海軍二等書記官マノリート・W・カスティーヨが死亡して、ロビンズはわずか21歳で、CIA秘書職務中に死亡した最初の女性CIA職員であった。1965年3月30日の朝、バーバラは窓の外から大きな銃声が聞いた。急いで窓の外に出ると、大使館に近づいた車を止めようとした警官の発砲だった。警官が発砲すると、スクーターに乗った別の男が車の横に乗り込み、警官を撃った。車内に仕掛けられた約136kgの爆弾が大爆発し、窓辺にいたベトナム人群衆が吹き飛ばされた。爆風で窓ガラスやエアコン、鉄の窓枠も投げ出され、アメリカ人は女性のバーバラと男性のマノリートが死亡した。

 アメリカ軍が介入してのベトナム戦争は1965年3月8日に、アメリカ軍海兵隊がダナンに上陸したときが公式の勃発であった。南ベトナムの敗北の脅威は十分に大きくなり、ダナンのアメリカ空軍基地と港を防衛するために、ジョンソン大統領が最初の地上戦闘部隊をベトナムに派遣した。その直前の1965年2月7日に北ベトナム領内に対する爆撃を開始していた。アメリカ議会は3月30日の爆弾テロによるアメリカ大使館の再建のために約100万ドルをすぐに計上した。アメリカ軍の指導者の中には、北ベトナムへの特別報復の空襲を主張したが、リンドン・B・ジョンソン大統領は特別報復は拒否した。ベトナム政策見直しの後に、1965年7月9日に本格的なアメリカ遠征軍の派遣を決定した。






















2022年7月7日  Japan No War NGO  (JNWN)

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2022年6月21日火曜日

アメリカ軍の北爆により父親のレ・バン・ヒュンは被爆して重症となり、2人の息子は空襲で殺害され、長男の死体は横たわり、次男の死体は父親に抱えられた。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の空襲による北爆で、北ベトナムの首都ハノイの西約57kmにあるハイズオン市郊外のモイ村は廃墟に陥った。モイ村の住人であるレ・バン・ヒュンさんの住宅も崩壊した。北爆によって父親であるレ・バン・ヒュンさんは被爆して重症となって、2人の息子は空襲で殺害された。長男の死体は横たわり、次男の死体は、父親であるレ・バン・ヒュンさんが抱えて慟哭して悲嘆した。

 1964年8月にアメリカ軍はトンキン湾事件が勃発して、それを根拠にして8月から北ベトナムに対する軍事介入を開始した。それ以降に1973年1月まで隙間なく連続的に北ベトナムに空爆して炸裂した。連続爆撃、大量の爆弾の集中投下、奇襲、無差別攻撃をした。特に、病院、堤防、学校、住宅地域に対する北爆により、北ベトナムにおける死傷者数が急増して、北ベトナムの市民は恐怖に陥った。

 1965年2月7日にアメリカ軍事顧問団基地が解放戦線によって攻撃されて、アメリカ軍が北ベトナム領内に対する爆撃である北爆が本格的に勃発した。ローリング・サンダー作戦による北爆が、1965年3月2日から1968年11月2日までベトナム戦争への本格介入に踏み切った。アメリカ軍は、戦闘爆撃機が北爆を行って、地上軍も投入して共産主義勢力の一掃を目指して、ベトナム戦争は泥沼化し、日に日に疲弊した。1967年12月31日にアメリカ国防総省は北爆のローリングサンダー作戦中に、約864,000トンのアメリカ製爆弾が北ベトナムに投下されたと発表した。朝鮮戦争全体では約653,000トン、第二次世界大戦中の太平洋戦争では約503,000トンより膨大な北爆をした。

 CIAは北ベトナムに与えた損害は総額5億ドルに上り、非公開で犠牲者を推定した。1967年4月までに、作戦の結果として北ベトナムにて約2,1000人の死亡を含む約5,2000人の死傷者が発生したと推定した。死傷者の約75%は民間人を含む軍事または準軍事活動に関与したと推定した。1965年の死傷者の約45%は北ベトナムの民間人と後方支援従事者であり、1966年には約80%に上昇した。1967年6月には、北ベトナムで約13,000人から17,000人の民間人の死者を含む約19,000人から約26,000の北爆によって殺害された。1967年末には、約27,900人の軍人と約48,000人の民間人の死傷者と推定した。アメリカ政府は作戦によって合計約30,000人の民間人が殺害されたと推測した。

 アメリカ軍は、空軍506機、海軍397機、海兵隊19機が北ベトナム上空または付近で損失した。作戦中に、撃墜された約745人の乗員のうち、アメリカ空軍は約145人を救助するも、約255人が死亡して、約222人が捕獲されて(うち23人は拘束中に死亡)、約123人は行方不明となった。アメリカ海兵隊の死傷者数は非公開にされた。約44ヶ月の期間中に、約454人の海軍飛行士が北ベトナムとラオスでの複合作戦で死亡、捕獲、行方不明になった。北爆の作戦は、東南アジアにおける他のアメリカ軍の作戦と同様に、機能不全の餌食となった。




2022年5月17日火曜日

ベトナム戦争にて南ベトナム軍とアメリカ軍は、村落の村民を一様にベトコン容疑者として捕獲して、その一部を池の周辺で射殺し、散乱した死体を見回して検死した。

ベトナム戦争は1965年7月頃に、南ベトナムの村落にて現れた村民を、南ベトナム政府軍とアメリカ軍は一様にベトコン容疑者として捕獲した。その一部のベトコン容疑者として、池の周辺で射殺して、死体が散乱した。南ベトナム政府軍とアメリカ軍兵士らは、死体から発生する悪臭で鼻を押さえながら、見回して検死していた。その後に村落は、証拠隠滅のためにブルドーザーで全く排除して焼却して消滅した。同じベトナム民族同士の憎しみ合いにより、残虐な虐待と虐殺する戦争犯罪に結びついた。

 ベトコンは、南ベトナムのほとんどの地域で、地下組織に潜伏して、しばしば幽霊軍団と表現された。ベトコンには制服や徽章はなく、普通の南ベトナム人と見分けが困難であった。公式のベトコン本部もなく、幹部がいる特定の地域もなく、指揮系統に沿って伝達された。1960年に、ベトコンは共産主義的な反乱軍に成長した。北ベトナム政権の承認を得て、ベトコンは南部でテロ活動を活発化した。1961年10月には、ベトコンによる爆弾テロが約150件も発生した。

 南ベトナムのディエム政権の腐敗と残虐行為により、南ベトナム人は疎外され、土地を奪われ、ベトコンに入隊して戦闘した。女性、子供、老人など戦えない者は、食料、安全、南ベトナム軍とアメリカ軍に関する情報を提供して、他の方法で支援した。仏教僧、宗教団体、離散した農民や都市労働者などもベトコンに参戦した。

 しかし、ベトコンの支援の流れは双方向となり、爆撃、破壊工作、暗殺は、かなりの南ベトナム人の反発を生んだ。外国や南ベトナム政府を標的にしたが、しばしば罪のない民間ベトナム人を殺害して、私有地を破壊し、事業を中断させた。その結果、ディエム政権だけでなくベトコンも支持しない南ベトナム人も多くいた。

 1965年にアメリカ軍兵士はベトナムに派遣の増員後に、ベトコンの撲滅が最大の攻撃目標となった。ベトコンはアメリカのマスコミで、悪者扱いされ、共産主義革命家、冷酷なテロリスト、南ベトナムのあらゆる殺戮行為者として喧伝された。ベトナム在留のアメリカ軍兵士は、ベトコンに憎悪と恐怖から驚異が入り混じった。西側諸国の戦争の慣習に従わず、公開戦闘を拒否して、奇襲、待ち伏せ、雷撃、狙撃、トンネル戦、地雷などが戦術となった。ベトコン兵士は、民間ベトナム人の間に隠れて、深いジャングルの中に避難し、真夜中にのみ移動した。ベトナム戦争に、世界最強の軍事大国のアメリカが、見分けのつかないベトコンと民間ベトナム人の戦争に巻き込まれた。





















Japan No War NGO (JNWN) 日本平和市民連盟 2022年 5月17日に, Blogger投稿数は2,100回に達した。