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2024年4月25日木曜日

1953年6月23日に、西ドイツのシェーネベルク市庁舎前で、6月16日から勃発した東ドイツ蜂起のソ連軍による民間犠牲者が葬儀され、西ドイツ側でしか追悼できなかった。

1953年6月23日に、西ドイツのシェーネベルク市庁舎前で、東ドイツ蜂起のソ連軍による犠牲者が葬儀された。蜂起の犠牲者は西ドイツ側でしか追悼できなかった。1953年6月16日の建築現場の労働者のデモから東ベルリンから勃発した東ドイツ蜂起で殺害された犠牲者は、西ドイツ側でしか追悼できなかった。東ベルリンでの蜂起は6月17日には、東ドイツ政府と社会主義統一党に対する広範な蜂起に発展し、全国約700の地方で100万人以上が参加した。東ベルリンの蜂起は、東ドイツ在留のソ連軍の戦車と東ドイツ陸軍憲兵隊によって6月17日に暴力的に弾圧と鎮圧された。ソ連軍は6月17日午前10時にベルリンに到着し、ドイツ民主共和国の他の地域では6月17日正午から午後に到着した。ソ連軍の戦車の到着で東ドイツ蜂起が急速に勢いを失った。

 1953年3月5日のヨセフ・スターリンの死後に、1953年の東ドイツ蜂起は自由の代わりにソ連軍から弾圧を受けて、団結の代わりに東西ドイツ分裂だけが深まった。連行された東ドイツ民主共和国の市民は、4年から10年の懲役刑が言い渡された。ソ連の軍事法廷によって下された判決の結果、どれだけの市民が警務所の塀の中で虐殺されたかは、まだわかっていない。

 蜂起関係者の多くにとって、最も痛烈な失望は西側の無策だった。連合国は火に油を注ぐようなことを避けた。ソ連軍の戦車が東ベルリンを走り抜けても、アメリカ軍、イギリス軍、フランス軍は、誰ひとりとして指一本触れなかった。アメリカ政府のドワイト・D・アイゼンハワー大統領とジョン・フォスター・ダレス国務長は、「ソ連軍を封じ込めるのではなく、追い返す」の宣言は、少なくとも東ドイツ民主共和国には無策であることが判明した。

 第3次世界大戦への恐怖から、誰もが麻痺状態に陥った。6月17日にウィーンにいたエルンスト・ロイター西ベルリン市長は、西ベルリンに戻るのに、アメリカ軍機の搭乗する座席さえ拒否された。西ベルリンでは、連邦全ドイツ問題担当大臣のヤコブ・カイザーが、東ベルリン市民に冷静さを保つよう呼びかけた。警察部隊は西側地区の境界線を守り、西ベルリン市民がデモに参加するのを防ごうとした。その時、西ドイツがいかに無力であったかを示唆した。





2024年3月20日水曜日

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦後に、夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。

ベトナム戦争にて、1963年に戦場で激戦が終結して、戦場の夜が明けると解放戦線(ベトコン)兵士の死体が横たわった。重機関銃で銃撃されて、死体はまるで蜂の巣のように撃ち抜かれた。1963年7月頃には、ベトナムでは反政府ゲリラによるゲリラ戦が勃発していた。アメリカから派遣された軍事顧問団や政府軍は、ベトコンとの戦闘を繰り返した。

 1963年初頭までに、ベトナムに駐留するアメリカ軍兵士の数は、数百人から数年のうちに1万人以上に増えていた。朝鮮戦争が勃発して停戦してから10年も経ていない。地球の裏側のベトナムで起こった紛争に、アメリカ軍が直接に関与する影響は、アメリカ国民の話題の一部であった。1963年当時は、ベトナムにおけるアメリカ軍の役割の拡大は、まだ包括的で分裂的な問題にまで発展していなかった。

 1963年1月25日に『LIFE』誌が「We Wade Deeper Into Jungle War」の強烈な表紙と記事を掲載して、カラー写真を添えて注目された。LIFEの写真が1963年以前から、ベトナム戦争中も『LIFE』誌などやアメリカの主要マスメディアは、紙面でもテレビでも、生々しく不安を煽るベトナム戦争を定期的に掲載し放送した。1964年6月12日号『LIFE』に岡村昭彦の「醜いベトナム戦争(9ページ)」の特集が掲載され写真に反響を呼んだ

 雑誌に掲載される写真は、恐ろしいほど拡大する紛争を鮮明に記録して、戦争の生々しさを示唆した。ぼろぼろに切断された手足、放火された死体、内臓で覆われた壁などは、生弱なアメリカ人には動揺が大きすぎた。大手マスメディアに慣れ親しんだアメリカ人には、大衆週刊誌にベトナム戦争の陰惨な写真が日常的に掲載された。




2024年1月31日水曜日

ドイツ民主共和国軍兵士は、ベルリン北部のザクセンハウゼン特別収容所のオラニエンブルク近郊の集団墓地から、囚人の人骨群を発見した。1945年から1950年にソ連の内務人民委員部による囚人の犠牲者と考えられた。

ドイツ民主共和国(東ドイツ, GDR)軍兵士は、ベルリン北部のザクセンハウゼン特別収容所のオラニエンブルク近郊の集団墓地から、いくつかの囚人の人骨群を発見した。1945年から1950年にかけてソ連の秘密情報機関である内務人民委員部(NKVD)によるザクセンハウゼン特別収容所の囚人の犠牲者と考えられた。ナチスの幹部が収容され、政治犯やソ連軍事法廷の判決を受けた収容者も収容された

 ザクセンハウゼン強制収容所は1936年にナチス親衛隊によって設立され、最初の囚人を1938年から受け入れた。1945年の終戦までに、ザクセンハウゼン強制収容所には約11,000人のユダヤ人が収容された。ソ連軍によって1945年4月22日に解放されたナチスドイツのザクセンハウゼン強制収容所は、1945年8月から1950年3月まで、ソビエト軍政の特別収容所として転用された。ドイツのオラニエンブルク近郊にあったナチスの強制収容所は、1936年5月からナチス・ドイツの敗戦直前の1945年4月まで使用された。政治犯やソビエト軍事裁判によって判決を受けた収容者と同様に、ナチスの幹部も特別収容された。

 連合国の非ナチ化政策の一環として、ソ連軍は、国家社会主義政権の軍事的敗北後に、ソ連軍の占領地域に10の特別収容所を設置した。ザクセンハウゼンの第7特別収容所(1948年から第1)は、約60,000人の被収容者を収容して、特別収容所の中でも飛び抜けて多かった。1945年から1950年の間に、約12,000人が飢えと病気で死亡した。1946年から1947年の飢餓の冬にて、わずかな配給が削減されて、多くの死者が出た。

 残忍な尋問と仮収容所での状況を経て、ほとんどの被収容者は、ザクセンハウゼン特別収容所の建物はより良い宿泊施設を提供したが、バラック小屋は過密状態であった。被抑留者はむき出しの木板の上に詰め込まれた。破滅的な衛生状態、食糧や医薬品、衣服、暖房用燃料の不足は、病気や伝染病を引き起こした。死亡率は高く、1947年には最高に達した。収容者は外部との接触を一切許されず、特別収容所は、沈黙の収容所とも呼ばれ、強制労働収容所ではなかった。

 特別収容所で死亡した囚人たちは、匿名で集団墓地に埋葬された3つの集団墓地が、ベルリン崩壊後に発見されて公開された。ドイツ民主共和国建国から数ヵ月後の1950年3月に、ソ連軍の特別収容所が解散した。ゼクセンハウゼン特別収容所から約8000人の囚人が釈放され、少数の囚人はソ連に連行された。最後の被抑留者は、7,000人以上のソ連市民とロシア移民、捕虜のソ連人、元強制労働者、犯罪を犯した赤軍兵士であった。




2024年1月26日金曜日

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった射殺事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。

1971年9月5日の正午ごろ、ドイツ民主共和国(旧東ドイツ)のクロイツベルク区境で起こった事件である。脱走に失敗して射殺された逃亡者を、国境警備隊が引き戻した。東ドイツ国民を無制限に支配するドイツ社会主義統一党(SED)国家の主張は、国境制度にて最も明確かつ残酷に示された。ドイツ民主共和国当局の稀有な許可なしに国外に脱出する者は、健康や生命を危険にさらされた。

  冷戦下の1961年8月13日からベルリンの壁が建設されると、東ドイツ当局は自由な西ベルリンと管理下の地区を壁で分離した。公式発表によると、1989年までに国境を超えようとして射殺された東ドイツ市民の数は約1,245人に上る。そのうち1989年までにベルリンの壁を越えようとして約136人が殺害された。1989年に、エーリッヒ・ホーネッカーがベルリンの壁は50年後、あるいは100年後も存在するだろうと述べた時に、すでに少なくとも130人が国境警備隊の銃撃によって殺害されていた。最初の犠牲者は、1961年8月22日早朝、女性のアイダ・ジークマンは脱出を試みて、4階のアパートの窓から飛び降り、歩道に落ちて重傷を負って、ラザロ病院に向かう途中で死亡した。最近では、壁が崩壊する9カ月前の1989年2月に、20歳のクリス・ゲフロイが射殺された。彼がドイツの国境の壁の最後の犠牲者となった。1989年11月9日の夜に、ベルリンの壁は崩壊しして、東西ドイツの国境が開通した。

 多くの人々が、東ドイツの障壁をくぐり抜けて西側に逃亡した。東ドイツ当局は、国境を強化する措置をとった。壁に沿って10mおきに見張り塔が建てられた。東ドイツの国境警備隊の兵士たちは、カメラを渡され、国境の壁が建設される地域を1m単位の記録を命じられた。撮影された約1200枚のネガは、ポツダムの軍事文書館に保管されち段ボール箱の中から偶然に発見された。国境警備中の兵士が軽犯罪を犯すと、厳しく罰せられた。東ドイツ政府は、1973年10月に西ドイツに脱国者を処理する国境警備隊に射殺命令を出した。逃亡が成功して国境を越えて西ドイツに入った場合には、国境侵犯とドイツ民主共和国からの脱走を防げなかった国境警備隊には懲戒処分が下された。




2024年1月12日金曜日

1956年11月11日に首都ブダペストは、ソ連軍が侵攻した占領軍によってハンガリー動乱は弾圧された。ブタペスト市内には、殺害された反乱軍のブタペスト市民やソ連軍兵士の死体が路上に散乱した。

1956年11月11日に首都ブダペストは、キニータ・フルシチョフ書記長によるソ連軍が侵攻した占領軍によってハンガリー動乱は弾圧された。ブタペスト市内には、殺害された反乱軍のブタペスト市民やソ連軍兵士の死体が路上に散乱した。ブタペスト市民は、無気力になり、無残な死体を見回した。

 1956年10月23日に、首都ブダペストで市民が民主改革を求める大規模な平和デモを行った。デモ隊はブダペストのラジオ局を訪れて、要求を公表するよう要求した。ハンガリー政権は軍隊に群衆への発砲を命じた。ハンガリー軍兵士はデモ隊にライフルを渡して、デモ隊はビルを占拠できた。1956年のハンガリー革命の発端となった。デモ隊は、イムレ・ナジをハンガリー首相に任命することを要求した。ハンガリー労働人民党の中央委員会は同日夜、これを承認した。10月23日から11月11日まで続いた反ソ反乱の蜂起が勃発した。ナジがハンガリーはワルシャワ条約を脱退し中立国になると宣言した。その直後に、ソ連軍の戦車と軍隊がハンガリーに侵攻して、反乱を鎮圧した。その戦闘は11月11日まで続いて、約2,500人以上の死者を出した。

 ハンガリー動乱は、1956年10月23日に勃発して、蜂起は約12日間続いた。1956年11月4日にソ連の戦車と軍隊によって鎮圧された。数千人が死傷し、約25万人近くのハンガリー人が国外に逃亡した。ハンガリー蜂起の弾圧によって約2,500人のハンガリー人と約700人のソ連軍兵士が死亡し、約200,000人のハンガリー人が海外に逃亡した。11月4日午前3時、ソ連軍の戦車はドナウ川のペスト側に沿ってブダペスト市内に侵入した。ブダペストでは約1万5千人のレジスタンス戦闘員が戦って、最も激しい戦闘はドナウ川沿いの労働者拠点であるツェペルで起こった。反乱軍の多くは、武器は主に反乱軍の側に立ったハンガリー軍によって提供された。ソ連軍も民間人居住区で攻撃を受け、無差別に発砲した。ブダペストは流血の矢面に立たされ、約1,569人の市民が死亡した。死者の約53%は労働者で、30歳未満であった。ソ連軍側では、約699人が死亡し、約1,450人が負傷し、約51人が行方不明となった。赤軍がナチス・ドイツからハンガリーを1945年4月4日に奪取した後に、ソ連による軍事占領が1991年まで続いた。1949年に、ハンガリーは共産主義人民共和国となった。共産党新政権は、ブダペスト城のような建物を旧政権の象徴とみなし、1950年代に宮殿は解体され、内部はすべて破壊された。




2023年12月7日木曜日

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。クール・ルージュが包囲したカンボジアの首都プノンペンへのロケット攻撃後に、1970年4月頃にプノンペンの通りには多数の死体が散乱した。軍事情勢は、クメール・ルージュがプノンペンの北西わずか約10kmにある重要なカンボジア陸軍司令部を大規模に攻撃して悪化した。

 クメール・ルージュに繋がる1967年3月11日のサムラウト蜂起から、カンボジア内戦が勃発した。一方には、アメリカと南ベトナムの支援を受けたカンボジア国王ノロドム・シアヌーク政府があった。反対側には北ベトナムの支援を受けたカンプチア民族統一戦線があった。しかし、アメリカの支援は共産主義者との戦いでは役に立たなかった。1973年3月から7月だけで、約25万トンの爆弾がカンボジア領土に投下された。しかし、これは共産主義者を止めるのには役立たなかった。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンはクメール・ルージュの支配下に入った。クメール・ルージュの指導者はポル・ポトであった。

 クメール・ルージュの主な支持者は文盲の若い農民であった。彼らの憎悪と復讐は、都市住民にも及んだ。国民の下層階級の間でクメール・ルージュが絶大な人気を与えた。ベトナムを敵視するという考えが盛んに広められた。クメール共和国の打倒後、クメール・ルージュは代表者の物理的破壊と射殺であった。次のステップは都市からの人々の立ち退きだった。4月18日に、プノンペン住民は、クメール・ルージュに即時退去命令を受けた。住民全員が72時間以内に市から立ち退かされた。人々はあらゆる権利を剥奪された。拒否者は、敵として殺害された。困難な障害者や高齢者も殺害された。道路沿いでは数万人の住民が銃撃された。途中で体力の低下と飢えから多数の人々が死亡した。4月23日、ポル・ポトは空虚な首都プノンペンに入った。

 クメール・ルージュは、カンボジアに共産主義社会を構築する革命実験を開始した。以前の国家は事実上清算された。法令と政府文書以外の読み書きは禁じた。統治の最初の年に、ポル・ポトの指導下のクメール・ルージュは前国家の経済を完全に破壊した。カンボジアにおける正確な犠牲者数は判明していない。クメール・ルージュが権力を掌握して、内戦は終結した。カンボジアの全人口は1,000万人未満であり、死者数は約100万人から約300万人と推定した。

 1978年末、ベトナムはカンボジアへの本格的な侵攻を開始した。1979年2月7日、プノンペンが占領されました。1979年半ばまでに、ベトナムはカンボジアの主要都市をすべて占領した。クメール・ルージュは党派的な立場に転じ、80年代を通じて対ゲリラ戦を実施しなければならない重要な勢力の代表となった。しかし90年代までにこの組織は衰退したが、その残党は今もジャングルで強盗を続けている。 




2023年11月29日水曜日

朝鮮戦争にて1951年9月24日に、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

朝鮮戦争において、1951年9月23日に、国連軍は朝鮮半島の38度線の北に数km前進し、約3週間にわたって北朝鮮軍と交戦した。9月24日、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

 1951年9月13日に「ブラッディ・リッジ」の北隣の尾根である「ハートブレイク・リッジ」の戦いは、38度線の北側でアメリカ軍第2歩兵師団によって開戦した。約30日間にわたる戦闘の末、1951年10月15日に、3745人の死傷者を出しながら、この地域はアメリカ軍によって確保された。両軍とも多大な損害を被ったため、朝鮮戦争で国連軍が行った最後の大規模な攻撃となった。

 1951年4月11日にトルーマン大統領は、マッカーサー元師を解任した。朝鮮戦争は膠着状態が続いて、朝鮮半島の領土の交換はほとんど行われなかった。1951年7月10日に、国連軍と北朝鮮軍は開城で休戦交渉を開始することに合意した。休戦交渉は8月22日に共産党軍によって打ち切られた。その後、アメリカ軍の第8軍の防御態勢を改善するため、一連の限定的な目標攻撃を開始した。朝鮮半島の中東部のアメリカ軍の第X軍団と韓国軍の第1軍団は、カンザス線への攻撃を有利にする陣地から、北朝鮮軍を追い出すため、カンザス線から約8km〜約11km上方の地形目標(ブラッディーリッジやハートブレイクリッジなど)を目指して戦った。1951年10月最終週までに、これらの目標は確保された。朝鮮半島の38度線沿いで血みどろの膠着状態が続く中で10月25日に、板門店の新しい場所で共産党代表団と国連代表団による休戦交渉が再開された。




2023年9月5日火曜日

フランス軍の外人部隊の空挺部隊は、インドシナ紛争で1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケで、ベトミンのゲリラ部隊を掃討し殺傷した。

フランス軍の外人部隊の空挺部隊の兵士たちは、インドシナ紛争にて1951年3月23日から3月28日に、ベトナムのハノイ近郊のマオ・ケ(Mao Khê)で、ベトミンのゲリラ部隊を掃討して殺傷した。ベトミンは約2,000人から約3,000人が殺害され、フランス軍は約40人が殺害され、約150人が戦傷した。ベトナム人ゲリラの死体が、マオ・ケの野原に散乱した。1949年にフランス人徴集兵の海外派遣が禁止されて、外国人部隊はナチス・ドイツ親衛隊(SS)などの退役軍人などで構成された。元親衛隊員は、第二次世界大戦の東部戦線にて、パルチザンと戦った経験があった。フランス領インドシナでは効果的な戦闘員となったが、但し外国人部隊はフランス本国では政治的には受け入れられなかった。

 ベトナム沿岸部では、膨大な数のフランス軍兵士がゲリラ部隊の待ち伏せの多い道路や河川で命を落とした。空からの補給が不可欠となり、フランス軍はAAC-1輸送機で、1952年以降はアメリカ軍から供与された輸送機に頼った。ベトミンとベトナム人民軍がより高性能の対空兵器を手に入れると、補給源も危険で頼りなかった。

 フランス軍には、対反乱戦の経験者はほとんどいなかった。フランス軍の戦術は、敵地を碁盤の目状に分割し、正方形に攻撃部隊をかき集めた。フランス軍は、北部一帯に、1951年にド・ラトル線を形成する数百の鉄筋コンクリート製の要塞を建設した。戦術の問題点は、ベトミンは土地にも縛られず、後退したり攻撃した。防衛要塞は、孤立した脆弱な場所に大勢のフランス軍兵士を縛り付けた。フランス軍には、陸軍と海軍の河川突撃師団や空挺コマンド集団は、迅速な展開戦術を駆使した。優秀な軍団兵士と空挺部隊は、戦闘が最も激しい戦場で精鋭として継続的に活用された。

 ベトミン(Vietmin)は、1941年5月19日に結成され、フランスによる植民地支配からの独立を求めて、第一次インドシナ戦争で戦闘に従事したベトナムの独立運動組織である。ベトミンは通常の軍隊として建設され、PAVNの拡大は急速で、1951年までに約154個大隊が編成された。ベトナムの地形と人民を熟知して、人民の支持を得れた。フランス軍は致命的に失敗し、ベトナム人民軍は限られた資源で生き延びて、戦うことができた。何千人もの志願兵がいて、物資は確実に戦闘員に手渡しで運ばれた。政治的意思や戦略的大胆さを弱めずに、膨大な数の死傷者を吸収できた。フランス軍の失敗を指摘する際に、ベトミンは革命軍であった。ベトナム人民軍(PAVN)は、後にベトナム戦争では、対アメリカ軍とのベトナム戦争中は、北ベトナム軍(NVA)と呼称された。




2023年8月24日木曜日

ベトナム戦争にて、アメリカ軍兵士がベトコンの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコンの戦死者の死体の横を通り過ぎた。ブー・トップの戦いで、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。

ベトナム戦争にて、アメリカ軍の第1歩兵師団第1旅団兵士がベトコンなどの戦傷者を担いで、1967年12月8日にベトコン(VC: 南ベトナム解放戦線)の戦死者の死体の横を通り過ぎた。同日真夜中にブー・トップ地区での激しい戦闘で、約49人のベトコンが戦死して、アメリカ軍兵士は4人が戦死した。アメリカ軍のブー・ドップ(Bu Dop)基地は、1963年11月に設置されて、ベトナムとカンボジアの国境に近いビンフオン県ブードップ地区に位置した。

 1967年11月29日午前0時頃に、ベトコンは要塞化されたアメリカ軍のブ・ドック地区を攻撃した。11月29日午後10時頃には、ベトコンの迫撃砲とロケット弾がブ―・ドップ基地に飛び込んだ。ロケットは掩蔽壕に直撃し、アメリカ軍兵士の4人全員が死亡した。数百人のベトコン兵士が、砲撃が終わると、滑走路の東側から突撃して、森から約200m横切ってブ―・トップ基地を突撃した。アメリカ軍は榴弾砲を、突撃したベトコンに撃ち込んで、強行突撃する多くのベトコン部隊を倒した。アメリカ軍の戦闘爆撃機F-100がベトコンが潜伏する森に、爆弾と大砲で攻撃した。ベトコンの突撃は挫折し、すぐに森の中に撤退した。アメリカ軍の死傷者は死者約7人、負傷者11人、ベトコンの戦死者は、31人の死体が残存した。

 その後に1週間も、アメリカ軍はブー・ドップ周辺のベトコン部隊と衝突を続けて、毎晩迫撃砲弾が着弾した。ブ―・ドップ基地に対する2度目の大規模なベトコン攻撃に対抗して、アメリカ軍は12月4日にブー・ドップ滑走路の基地を強化した。その2日後に、アメリカ軍はベトコンの侵攻が目標としたブー・トップの南東に射撃基地を設置した。12月8日午前1時頃に、アメリカ軍はベトコンの陣地を攻撃し、主力突撃隊がロケット砲下で侵攻した。アメリカ軍の砲兵隊は、非常に短い交戦距離下で、高火力砲弾でベトコン部隊を切り裂いて、基地の外線への到達を阻止した。アメリカ軍の空爆、武装ヘリコプター、迫撃砲で、ベトコンはさらなる損害を受けた。その後に、ベトコンは12月8日午前3時頃にブ―・トップ地区から撤退した。アメリカ軍は翌日の12月9日に、ベトコンの死者の約49死体と、軍の死者は4体を検死した。その後に、ブ―・トップ基地は1970年12月31日に南ベトナム軍に移管された。




2023年8月8日火曜日

朝鮮戦争にて、1950年9月27日に全州で北朝鮮の朝鮮人民軍に銃殺されて殺害された父親の死体の前で、その妻と家族が共に慟哭した。北朝鮮の朝鮮人民軍が全州から撤退する際に、民間人を大量虐殺して埋葬した。

朝鮮戦争にて、1950年9月27日に全州で北朝鮮の朝鮮人民軍に銃殺されて殺害された父親の死体の前で、その妻と家族が共に慟哭した。北朝鮮の朝鮮人民軍が全州から撤退する際に、民間人を大量虐殺して埋葬した。右側もすでに死体となり、でゴザで覆われた。北朝鮮の朝鮮人民軍により、韓国の首都ソウルから南方に約230kmに位置する全州で、北朝鮮の大量虐殺の犠牲となった父親の死体を囲み、韓国人家族が悲しんだ。全州は、朝鮮人民軍に1950年7月に占領された。

 朝鮮戦争のアメリカ軍第10軍は1950年9月17日に、韓国の仁川の月見島から水陸両用で上陸した。9月20日に漢江から北東に侵攻した。9月26日に、平沢と烏山でアメリカ軍の第2騎兵師団と米7歩兵師団が合流した。従軍記者は、水原城を経てソウルに奪還に入る過程を主に撮影した。朝鮮戦争で戦場で戦争をする緊迫した瞬間から、涙を誘うような犠牲者の悲惨な瞬間の姿をほとんど写真に収めた。従軍記者が撮った写真は、なんと約4万枚に達した。アメリカ軍と韓国軍が、1950年9月27日に韓国の首都ソウルを北朝鮮の朝鮮人民軍から奪還して占領した。

 1950年6月25日に、約135,000人の北朝鮮の朝鮮人民軍が、韓国の国境を超えて侵攻して、約98,000人の大韓民国軍が防衛した。6月28日には、朝鮮人民軍は韓国の首都ソウルを、7月20日に大田を占領した。8月8日から北朝鮮の朝鮮人民軍は、釜山に侵入をするも、アメリカ軍と韓国軍に撃退された。国連軍の仁川上陸作戦により戦局が一転すると、朝鮮人民軍は敗走を重ねて、一時はソウルと平壌も喪失した。その後、1950年11月1日に中国人民志願軍の攻撃により、平壌を奪還してソウルも一時は再び陥落して奪還された。戦線が膠着状態に陥り、1953年7月27日に休戦協定が締結された。




2023年8月7日月曜日

アフガニスタンに侵攻したソビエト軍が、1988年7月22日にパンジシール州でアハメド・シャー・マスードが組織したアフガニスタン人抵抗組織としてを殺害した。虐殺されたアフガニスタン住民の死体が散乱した。

アフガニスタンに侵攻したソビエト軍が、1988年7月22日にパンジシール州でアハメド・シャー・マスードが組織したアフガニスタン人抵抗組織としてを殺害した。虐殺されたアフガニスタン住民の死体が散乱した。ソビエト軍は空襲と装甲者の地上攻撃で、問題のある地域の村落、家畜、農作物を破壊した。ソビエト軍は、ゲリラがソビエト軍の輸送隊を攻撃した近くの村や抵抗勢力を支援した村を爆撃した。

 ソビエト連軍が、アフガニスタン傀儡の共産主義政権を支えるために、1979年12月24日にアフガニスタンに侵攻した。戦争が、アフガニスタン人を苦しめて、1989年にソビエト軍が撤退するまで、アフガニスタン人の約180万人が殺害され、約550万人が難民となった。ソビエト軍の公式戦死者数は約14,453人、戦傷者は約53,753人、病人が約415,932人に達した。

 アフガニスタンはソビエト連軍の撤退と同時に内戦状態に陥り、1992年にソビエト連が支援したモハンマド・ナジブラ大統領が失脚した。その後の約4年間、ムジャヒディン派が権力をめぐって争って、内戦が繰り返された。1996年からのタリバン政権が覇権した。それに対抗して、アフマド・シャー・マスードの北部同盟は、約5年間の抵抗を促した。2001年9月11日にニューヨークで同時多発テロが勃発して、10月7日に開戦したアフガニスタン戦争は、11月3日にタリバン政権が崩壊した。アメリカ軍にとってタリバンに奪還された2021年8月15日まで史上最長の戦場となった。

 パンジシール渓谷は、アフガニスタンの故司令官アフマド・シャー・マスードが、1980年代にはソビエト軍を、1990年代にはタリバンを食い止めた場所である。それ以来、パンジシール渓谷で、タリバンの陣地に対するレジスタンスの攻撃を報じた。アフマド・シャド・マスード政権下のパンジシールは、1996年から2001年までタリバンがアフガニスタンを支配した時代に、唯一の抵抗勢力であった。少なくとも、タリバンに抵抗するための拠点を維持するできた。北部同盟は1990年代後半から2000年代前半にかけてタリバンとの戦いで、アフガニスタンの北東部地方は2004年から2021年の大統領共和国時代にかけてアフガニスタン軍隊の屋台骨を支えた。

 2021年8月15日にタリバンがアフガニスタンの首都カブールを急襲して制圧した。6月にはタリバンの陣地へ攻撃しては、何十人もの民間人が殺され、何人かの民間人は一斉逮捕で投獄された。しかし、9月までに、息子のアフマド・マスードは他のレジスタンス司令官とともに隣国のタジキスタンに逃亡した。現在はパンジシールは、タリバンに占領されて無力化した。アフガニスタン全体を見れば、反対勢力は非常に弱体化した。タリバンはイスラム原理主義者であり、和平交渉を信じたことはなく、より過激になり、より抑圧的になった。




2023年7月14日金曜日

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。母親の視線は、何かを警戒して、朝鮮戦争中の不安で緊迫しながら周囲を見渡した。北朝鮮から韓国までの数日間にわたり長距離の避難して、一人の幼い韓国人少女は、疲れ果てて栄養失調で、母親の足下に座り込んだ。疲れ果てた朝鮮人の娘は、もはや自らの体を支えることができずに意識を失った。朝鮮戦争から避難した母親は、荷物をたくさん抱えながらも、諦めずに朝鮮人の娘の名前を呼び続けながら、娘の体を引き起こした。

 アメリカ軍の従軍記者らは1950年9月17日に、韓国仁川月尾島に上陸した後に、平沢と五山でアメリカ第2装甲師団と第7歩兵師団に合流して、水原性を経てソウルに入る過程にて写真撮影をした。国際赤十字委員会(ICRC)の東アジア代表処を通じて入手した写真には、遠い道を去る避難民の苦しい姿と負傷者の治療現場、混乱の中で子どもを預かる親の悲惨な姿などが生々しく収められている。戦争写真を通じて戦争の惨状を直接見て、なぜ戦争がこの地から消えなければならず、なぜ平和の世界が来なければならないのかを感じる展示となった。

 朝鮮戦争は、ソ連の支援により軍事力を増強した北朝鮮軍が、1950年6月25日に38度線の全域から南侵して、勃発した。わずか3日間で、首都ソウルを占領した。アメリカ主導で、国連安全保障理事会で、国連軍が派遣された。国連軍が9月15日に仁川上陸作戦で、ソウルを奪還して、鴨緑江まで侵攻した。中国軍が朝鮮戦争に介入して、再び首都ソウルが略奪された。1953年7月27日に休戦協定で一次的に終結した。朝鮮戦争の避難民の総数は、約1,041万人で人口の半数に相当した。朝鮮戦争の犠牲者(戦死者と行方不明者)数は、韓国軍が約98万7000人、民間人約143万人で、北朝鮮軍は約92万6000人、民間人約200万人が犠牲となった。国連軍は約15万人と中国志願軍は約18万3000人、民間中国人が約72万人が犠牲となった。




2023年6月13日火曜日

第二次国共内戦にて1946年12月22日から1947年1月16日に、人民解放軍は山東省の居野、晋郷、玉台地区で、国民党軍に対して巨大金魚の戦いが勃発した。約16,000人以上の国民党軍が死亡、負傷、捕虜となった。

第二次国共内戦にて1946年12月22日から1947年1月16日に、人民解放軍は山東省の居野、晋郷、玉台地区で、国民党軍に対して巨大金魚の戦いが勃発した。約16,000人以上の国民党軍が死亡、負傷、捕虜となった。国民党軍の平安鉄道の開通計画を完全に打ち砕いた。

 1946年11月に、国民党軍は総兵力30万人以上を結集して、河南省の華西、安陽から山西・河北・陸虞解放区へ攻撃をした。国民党軍に約20日間以上に人民解放軍は対戦した。12月18日に人民解放軍の山西・河北・山東・河南野戦軍の司令官の劉伯成と政治委員の鄧小平は、防御が手薄な南西部に南下して、国民党軍を殲滅した。

 12月22日に、人民解放軍は聊城へ攻撃して、12月31日に居野を包囲して総攻撃をした。1947年1月1日に居野と聊城を解放し占領した。1946年12月31日から1947年の元旦まで、人民解放軍は、晋郷市の国民党軍に対して数回の攻撃をして、晋郷市の国民党軍は一時的に城を守ったが、多大な死傷者を出した。

 1947年1月6日、再編された国民党軍が玉台付近に集結し、金郷に向けて侵攻した。人民解放軍は、玉台付近の国民党軍を攻撃した。錦郷の国民党軍の包囲を継続した。1月7日、国民党軍は玉台市の北西部と晋郷市の南東部で、人民解放軍と交戦した。1月8日、国民党軍は、玉台北西の胡家海子、揚庄、松家巌地区で、人民解放軍に包囲されて、激戦は1月9日未明まで続いた。1月8日夜から9日朝に、人民解放軍は金郷南東部と玉台近郊で、約9,000人以上の国民党軍の増援軍を全滅した。

 金郷南東部と玉台付近で人民解放軍が連勝して、国民党軍の戦力は急激に低下した。 1月10日、人民解放軍は西進して、1月12日夜に、人民解放軍に攻撃された国民党軍は、敗北して成武県へ逃亡した。1月14日、文上池付近の国民党軍は勢いが低下して、南鹿基付近から西方に追撃され、西泰寺地区で包囲された。約2日間の激しい戦闘の末に、1月16日に国民党軍は全滅した。1月16日夜、人民解放軍は成武県を包囲し、わずか2時間で国民党軍の兵站大隊と警備連隊を全滅して、巨大金魚の戦いは終結した。

 約20日間以上続いた巨大金魚の戦いでは、山西、河北、山東、河南の野戦軍が、国民党軍の後方約956km以上深くまで侵攻した。継続的な機動作戦で、国民党正規軍の治安連隊を全滅した。巨大金魚の戦いで9県が解放され、濮陽と大明の国民党軍は侵攻を停止し、支援部隊が撤退した。





2023年5月11日木曜日

北ベトナム軍のイースター攻勢により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入し、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミス病院で、治療を受けるのを待機した。

北ベトナム軍のイースター攻勢(Easter Offensive)により、ベトナムの中部高原地域のバナール人の少年が、爆発による破片が傷口に迷入して、傷口から出血した。心配な母親が付き添って、パット・スミスの病院で、治療を受けるのを待機した。戦闘が続く中で、北ベトナムのベトナム人民軍から絶え間ない砲撃にさらされ、何度も戦車に突撃された。毎日の砲撃で瓦礫と化した町には、腐敗した死体の臭いが充満した。

 北ベトナム軍の1972年3月30日からのイースター攻勢により、南ベトナムの最北中部沿岸のクアンチー市北部の戦線が崩壊した。南ベトナム(ARVN)軍と市民が国道1号線に殺到しパニックに陥った。ドンハの住民はほぼ全員が逃げ出し、デビッド・エリオットは廃墟と化した。大量の難民がフエに到達すると、フエの住民もパニックに陥った。ハイヴァン峠の南方のダナンに避難するために国道1号に住民が流入し始めた。1966年4月6日に、ベトナム人民軍(PAVN)部隊はロック・ニンを占領して、サイゴン北部のアンロックに攻め込んだ。サイゴン市内に残存した予備軍は、攻勢に対応するため国道13号線を急行した。サイゴンのアメリカ軍ラジオは、爆撃機の戦闘機をカンザスからベトナムに派遣することを発表した。

 北ベトナム軍のイースター攻勢は、ベトナム戦争中の1972年3月30日から10月22日まで、北ベトナム正規軍(PAVN)が南ベトナム正規軍(ARVN)とアメリカ合衆国軍に対する軍事攻勢である。北ベトナム軍は、3つの戦線を同時に攻撃した。規模と激しさに南ベトナム防衛側はバランスを崩した。北ベトナム軍が、1968年のテト攻勢以来初めて南ベトナムに侵攻した。北ベトナム軍は約1ヶ月に及ぶ第一戦線で、南ベトナムの防御陣地を制圧し、クアンティ市を占領した。その後に南下してフエの占領を攻勢した。北ベトナム軍は第ニ戦線で辺境防衛部隊を排除して、州都コンツムに侵攻した。サイゴンの北東の第三戦線で、北ベトナム軍はロック・ニンを制圧し、ビン・ロン州の州都アン・ロックを侵攻した。

 北ベトナム軍が侵攻の4月、停滞の5月、6月から7月は南ベトナム軍の反撃、9月のクアン・チ市の奪還に達した。3つの戦線で、北ベトナム軍は多くの死傷者と無能な戦術により頓挫した。イースター攻勢の結果、1968年11月以来、アメリカ軍は初めて北ベトナムに持連続的な北爆が開始された。南ベトナム軍はイースター攻勢による北ベトナムの侵攻を阻止した。北ベトナムは、装甲や装備の多くを失い、約10万人もの兵力を失う。南ベトナムの死傷者は約43,000人、うち約10,000人が死亡した。アメリカ軍兵士は、約10,000人が戦死して、33,000人が戦傷した。イースター攻勢の結果、約25,000人のベトナム民間人が死亡し、約100万人が家を失った。




2023年4月26日水曜日

1960年のコンゴのベルギー植民地からの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、ベルギーの白人市民は虐殺に巻き込まれた。

1960年のコンゴのベルギー植民地からの独立とベルギーの過剰な撤退に伴って、コンゴで州間戦争により、ベルギーの白人市民は虐殺に巻き込まれた。1960年6月30日に独立した旧ベルギー領コンゴが、冷戦の舞台となった。1960年7月5日に、コンゴ共和国軍兵士たちは、ティスヴィル基地でベルギー系白人指揮官に対して反乱を起こた。反乱はすぐに他の基地にも拡大して、コンゴ全域で暴力事件が発生した。数千人のベルギー人らが逃げ出し、白人に対する残虐な行為が勃発して、世界中に公開された。1950年代後半から1970年代半ばにサハラ砂漠以南のアフリカに脱植民地化が勃発した。新たに独立した非同盟諸国をめぐり、米ソの代理の冷戦が何度も勃発した。

 独立までの数ヶ月の間に、コンゴ国民は大統領ジョセフ・カサブブ、首相パトリス・ルムンバを選出した。アメリカは、コンゴ共和国が親欧米政府を期待したが、新しく独立したコンゴ共和国は混乱に陥った。先住民のコンゴ国民軍(CNA)を支配できないベルギーは、カサブブやルムンバの許可を得ずに軍隊を投入した。コンゴ政府は、国連に兵力提供を直訴し、ベルギー軍の撤収を要求した。7月13日に、国際連合は介入部隊のコンゴ民主共和国機構(ONUC)の創設を承認して、ベルギー軍の撤退を決議した。その2日前には、カタンガ州が、8月には南カサイ州もコンゴ共和国から独立を宣言した。

 アメリカは国連を支持したが、コンゴ危機からソ連の介入を懸念して、危険な外交を模索した。7月下旬に、ルムンバをワシントンに招き、穏健な影響を期待した。CIAの報告では、コンゴ共和国を典型的な共産主義の買収と表現した。ソ連圏の技術者や物資の到着から、国家安全保障チームは、ルムンバの排除を確信した。ルムンバを失脚するアメリカ外交が活発化して、ルムンバを暗殺計画も練らした。9月5日に、カサブブはルムンバを政権から解任した。ルムンバは勅令を無視して、カサブブを罷免した。コンゴ内外のルムンバの支持者は激怒して、ルムンバの復職を支持した。内戦を避けるため、コンゴ国民軍(CNA)のジョセフ・モブツ大佐は、9月14日にクーデターを起こしてソ連の国外退去を命じた。モブツは親欧米政権を支持し、軍部の繋がりから、9月18日にモブツは暗殺計画を知らされた。暗殺計画の責任者としてルムンバは逮捕され、最終的に1961年1月17日に死刑が執行された。

 その後4年間、コンゴ共和国が次々と首相が交代する中で、アメリカは親欧米派の候補者の票の買収や資金援助をした。モブツもまたコンゴ国民軍(CNA)の忠誠心を高めて、組織内の反乱を回避する資金を得た。国連軍撤退後の不安定な状況を懸念したケネディ政権は、コンゴ共和国との二国間軍事協定を結び、1963年5月31日にモブツがケネディ大統領と面会した。コンゴ共和国への支援は、ジョンソン政権も続けた。1964年8月4日にスタンリービル(キサンガニ)が反政府軍に陥落した。アメリカの軍事援助は劇的に増加した。国防省はコンゴ共和国軍は、近隣アフリカ諸国、ソ連圏、中国共産党の支援で強固になる反政府勢力に対抗した。アメリカはアフリカ統一機構(OAU)にも働きかけ、コンゴ共和国への支援を取り付けた。10月下旬にスタンレーヴィルの状況は悲惨となり、10月28日に反乱軍司令官は、その地域の全ての西洋人を軟禁した。反乱軍の支配下の他都市でも、相当数の人質が拘束された。11月下旬に人質救出作戦(ドラゴンルージュ作戦)は成功するも、ツォンベ首相はカサブブとモブツ双方から無能とみなされた。1965年10月にツォンベ首相は罷免されて、再び内戦の危機に瀕した。

 モブツは1965年11月25日に再びクーデターを起こし、大統領と首相を解任し、コンゴ政府を掌握した。モブツは1990年代半ばまでコンゴ(1971年にザイールと改称)を支配した。定期的な反乱を起こるも、コンゴ共和国を支配した。モブツは、アフリカの共産主義侵攻に対抗する強固な同盟者と証明された。モブツはアメリカからの資金、物資、政治的支援を受け、サハラ以南のアフリカで地位を高めた。ジョンソン政権からレーガン政権まで、モブツ政権にしばしば便宜を図った。




2023年4月10日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、反体制派の粛清のために、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。

1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。銃殺の処刑場にて、一人ずつ杭に縛られた。約39人は、全員が共産主義を信奉した容疑にて、韓国政府によって逮捕され、裁判もなく処刑された。韓国軍憲兵は囚人の目を目隠しで覆った。身体には銃殺する射撃の標的である心臓の部分を特別にマークを付けた。処刑者は、二列になっている銃殺の行列を形成した。処刑現場には約200人の韓国軍と警察官、6人のアメリカ軍将校がいた。アメリカ軍は、自ら処刑を行わず、監視のような役割を担った。指揮官が発砲命令を出すと、処刑人のライフル銃が一斉に発砲した。韓国憲兵は政治犯に近づき、一人ずつ検死した。その場で一度に殺害されなかった者は、2度目の銃殺が行われた。韓国の憲兵が囚人を縛る縄を解いて、囚人たちの死体を、次々と棺桶に入れた。


 1945年8月15日の日本の降伏後に、朝鮮半島は38度線に沿って2分割された。北はソ連が占領して、南はアメリカが占領した。1948年8月に南部に大韓民国、9月には北部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立した。その後、アメリカが軍事顧問団を韓国に残した以外は、アメリカ軍とソ連軍は、朝鮮半島から撤退していた。北朝鮮でも韓国でも、反体制派の粛清が執行された。韓国では、親北の共産主義者が大量に逮捕され、銃殺された。その2か月後の1950年6月25日早朝に、北朝鮮軍が南方に奇襲攻撃を仕掛け、朝鮮戦争が勃発した。

 1945年8月15日の日本降伏後に、朝鮮半島の朝鮮戦争の前後から、組織的で意図的な大量虐殺(Genocide)や集団虐殺(Massacre)が勃発した。1948年5月10日に、韓国のみ総選挙され、それに対抗して左翼勢力が武装闘争が勃発した。左翼は、韓国だけの総選挙に対してニ・七救国闘争で敵対した。1948年の済州島四・三事件にて、大韓民国の李承晩政権は大討伐作戦を強行した。1948年11月から1949年3月まで、焦土作戦が本格化した。討伐軍は、中山間地域の約100地域を焼き払って無差別に戒厳令下で虐殺した。済州島では、武装勢力は約500人だけでなく約3万人も集団虐殺した。鎮圧軍による住民全体の民間人集団虐殺が発生した。1949年1月10日に、韓国陸軍は、反乱軍の軍事裁判は、2817人に対して約410人が死刑を受けた。1948年12月1日に、国家保安法が制定されると、弾圧された左翼は武装闘争に移行した。朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、敵味方の区別が困難な内戦に至った。韓国軍とアメリカ軍は、北朝鮮が活動する地域の民間人も含めて無差別に殺害した。





2023年3月22日水曜日

ベトナム戦争にて1965年2月7日から勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムでは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の多数の死体が散乱した。

ベトナム戦争にて1965年2月7日に勃発したアメリカ軍による北爆に対して、翌日にベトナム民主共和国は抗議の声明を公表した。北ベトナムは、アメリカ軍の北爆を受けて犠牲者の死体が散乱した。

 アメリカは、インドシナ問題に関する1954年ジュネーヴ協定を破壊して、南ベトナムで特殊戦争を進めて、北ベトナムに対する挑発と破壊を強めた。その典型的なものは、1964年8月5日の空軍を使ったトンキン湾攻撃であった。重大な侵略行動は、北ベトナム軍と人民から激しい攻撃と非難を受けた。1964年8月5日のトンキン湾事件から1965年2月7日の北爆開始までに、アメリカは世界の世論の反対を受けても、20数回にわたり戦闘機や軍艦を派遣し、北ベトナムの北爆を加え、ラオスの戦争を拡大すると同時に、カンボジアの領土を絶えず侵略した。

 ジョンソン大統領は1965年2月7日午後2時に北爆の命令を下した。アメリカの戦闘機は東海(東シナ海)上に停泊するアメリカ第七艦隊の航空母艦から何回も発進し、ドンホイ市とクァンビン省のその他の地区およびヴィンリン地区のコンコ島に攻撃を加えた。ドンホイの病院と住民の住宅に爆撃と掃射を加え、同地の人民の生命、財産に損失を与えた。人民の生命、財産を守り、ベトナム民主共和国の領土の保全を守るため、現地の軍隊と人民は断固たる反撃を加え、敵機4機の撃墜、多数を撃破した。

1965年2月7日にアメリカ軍が空軍を使って攻撃を加えた北爆は、ベトナム民主共和国に対する重大な新たな戦争行為でとなった。国際法およびベトナム問題に関する1954年のジュネーヴ協定に対する違反であった。アメリカ政府は南ベトナムにアメリカ軍事力の増派を決定した。

  アメリカ軍は、南ベトナムの苦境を挽回するために、ベトナム民主共和国に対して北爆をしかけた。南ベトナムにアメリカの軍事力を強化し、戦争を南ベトナム以外の地区に拡大した。インドシナおよび東南アジアの戦争の危機が増悪した。北ベトナムは、アメリカ軍の新たな戦争行為と南ベトナムに対する軍隊および兵器の増派した。



2023年1月26日木曜日

第一次国共内戦にて、1930年7月27日に中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。中国共産党軍が残虐に虐殺した国民党軍や民間人の死体が、長沙の路上に散乱した。

第一次国共内戦にて、国民党軍と地方軍閥間に1930年5月11日に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日に、中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。湖南省の長沙にて、中国共産党軍が残虐に虐殺した死体が、繁栄していた市場に散乱してすべてが焦土と化した。

 1930年8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。湖南省長沙で約1万人以上の共産主義の容疑者が逮捕されて処刑された。さらに、最初の1カ月間の戦闘は残忍を極めた。湖南省だけでも約38万人以上の民間人が殺害された。国民党の残虐行為は限りがなかった。1928年には、約31万人以上の民間人が国民党軍の命令で殺害された。国民党軍も中国共産党軍もさまざまな残虐行為を執行した。相手が誰であれ、同情することもなく、両軍はしばしば罪のない民間人を殺し、大規模な処刑を執行した。

 中国共産党は1927年7月13日に対時局宣言を発して、国民党との国共合作の終了を宣言した。中国共産党は武力闘争を開始して、8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返した。国民党軍は、第一次国共内戦にて共産党軍を鎮圧した。共産党が引き起こした武装闘争の内戦は局所的であり散発的であった。1928年10月10日に、中華民国の南京国民政府主席に就任した蔣介石は、中国の近代化を推進する改革を行った。国民党軍の北伐は継続されて、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒した。

 南京国民政府でも、反日世論が高まっていたが、蔣介石は日本との国力の差を考慮した上で、中国国内統一による国力増強を最優先目標とした。反共主義の立場から、抗日政策より、中国共産党との戦いを優先した。1931年11月7日に中国共産党が瑞金に江西省ソビエト共和国を樹立した。

 1930年5月11日には反蔣介石連合運動との内戦の中原大戦が起こり、両軍合計100万の軍勢で約30万の死傷者が出た。国民党軍と地方軍閥間に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日には、中国共産党軍が約1万の兵力で湖南省長沙を占拠し、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。8月15日に閻馮軍から済南を奪回した。9月18日に、張学良が蔣介石支持の態度を表明して、東北軍の関内進駐によって蔣介石軍が勝利して、蔣介石の勢力は強化された。毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下で、農村を中心として支配領域を広げ、1931年11月7日に江西省に中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)を樹立した。




2022年9月4日日曜日

2022年9月3日に、ロシア・モスクワのノボデヴィチー墓地で行われたゴルバチョフ元大統領の葬儀で、娘のイリーナ・ビルガンスカヤは最後の別れを告げた。

2022年9月3日に、ロシア・モスクワのノボデヴィチー墓地で行われたゴルバチョフ元大統領の葬儀で、娘のイリーナ・ビルガンスカヤは最後の別れを告げた。2022831日に91歳で死亡したミハイル・ゴルバチョフ(Mikhail Gorbachev)元ソ連大統領の告別式が、93日にロシア・モスクワのクレムリン近郊の労働組合の家のピラーホール内で挙行された。ゴルバチォフの死体は棺に入れらた。ゴルバチョフは、告別式の後に、モスクワのノボデビチー墓地で妻のライサさんの隣に埋葬される。

 元ソ連指導者のミハイル・ゴルバチョフは、第二次世界大戦後の冷戦を終結させて、ペレストロイカ(共産主義経済と経済の再構築)とグラスノスチ(情報の公開)により、ソビエト連邦の崩壊を促した大胆な改革を行った。数千人の弔問客が、敬意を表して列を作った。東ヨーロッパからソ連の核兵器を撤退させた。アフガニスタンからソ連軍を撤退させた。ソ連に複数政党制の選挙を認可して、共産主義を崩壊して民主主義を導入した。1990年にノーベル平和賞を受賞した。

 クレムリンの国葬拒否は、ゴルバチョフの遺産に対する不満を反映している。鉄のカーテンを崩壊させて、世界中から崇拝される一方で、ロシア国内ではソビエト崩壊と経済崩壊で貧困に陥れた。ゴルバチョフは、近年のプーチン政権に批判的でウクライナ侵攻に失望した。プーチン大統領は国葬に出席しないように、ゴルバチョフの国葬を宣言しなかった。プーチン大統領は、91日にゴルバチョフが亡くなったモスクワの病院の棺に私的にバラの花を供えた。クレムリンによると、大統領は都合で葬儀には出席しない。

 弔問客は、開いた棺のゴルバチョフの横を通り、儀仗兵が厳かな音楽を奏でながら、花を手向けた。棺のそばには、ゴルバチョフの娘イリーナさんと孫娘二人が座っていた。シャンデリアと柱が並ぶ大広間は、皇帝時代には貴族の舞踏会が開かれ、ソ連時代には国葬や高貴な会議・大会が開かれた。弔問客は、ゴルバチョフが満面の笑みで立っている大きな写真を横目に、建物内に入った。2時間の予定が3時間半に及んだ。

 2007年に行われたソ連崩壊後初の指導者であるボリス・エリツィンの豪華な国葬とは対照的であった。プーチンは、ソ連崩壊を「今世紀最大の地政学的大惨事」と嘆いた。NATOの東方拡大を排除する確約書を西側から得られなかったと繰り返し非難している。224日にロシアのプーチンがウクライナに侵攻した。



2022年5月9日月曜日

1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲され射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開された。

済州4・3事件にて南朝鮮労働党の武装蜂起が1948年4月3日に勃発した。1949年6月7日16時頃に、済州島の人民遊撃隊の主導者であった李徳九(Lee Deok-gu,이덕구)は、韓国政府の討伐隊によって華北地区で包囲されて射殺されて、6月8日に死体を済州庁舎の前で公開した。死体を晒して一般市民に見せしめにした。済州市関徳町広場に李徳九(29歳)の死体が見せしめにされた磔の死体の写真が日本の新聞に掲載されて残存した。

 1949年6月4日から5日にかけて、李承晩政府の粉砕・無辜の人民虐殺反対・国連韓国委員団反対・朝鮮人民共和国万歳のビラが、済州島に配布された。韓国政府は、韓国軍の第二連隊と第一独立大隊などを動員して、攻撃して弾圧した。李徳九らはゲリラ隊を式して、山岳地帯で韓国軍を翻弄した。李徳九は銃弾を浴びて射殺されて捕獲された。韓国軍は、李徳九の死体に、アルコールをかけて看板を掲げて、旧済州島庁舎の前に十字架に縛られて磔にされた。執行人が、李徳九の前胸のポケット見にスプーンを差し込んだ。梅雨時期に吊り下げられて夕方には死臭が発生して、1日過ぎると死体を引き下げて山地川南水閣の近くで火葬した。

 1948年4月3日に、済州島で南朝鮮労働党(南労党)主導で武装した約350人の住民が一斉蜂起して、警察署を襲撃した。1948年2月に国連で南北別々の選挙が決定され、5月10日に南側で南北分断する単独選挙が行われる前に蜂起した。済州4.3事件までの約1年間に約2500人余りが逮捕・拘禁され、済州島民の間に不満が高まる中での武装蜂起が勃発した。その起因には、1947年3月1日に警察が3月1日の独立記念日の済州島大会に参加した群衆に銃を発砲し6人の民間人を殺害していた。

 1948年8月15日に韓国政府が、1948年9月9日に北朝鮮政府が樹立された。韓国政府の李承晩は、1948年10月に北朝鮮に加担する済州島の武装勢力を鎮圧して済州島を戒厳令下で大虐殺して焦土化した。1949年5月に再選挙が強行されて、その直後に6月7日に李徳九が射殺されて、武装蜂起が鎮圧された。

 1950年から1953年までの朝鮮戦争にて、済州島では韓国政府による再度の大虐殺が執行された。約95%が焼失して、島全人口の約1割の約25,000人から約30,000人が虐殺された。1954年9月に、済州島の漢拏山の入山規制が解除されるまで、約7年7ケ月を、済州4.3事件と呼称した。