2023年1月31日火曜日

2004年4月3日から第一次ファルージャの戦いにて、数千人のアメリカ軍兵士がファルージャの武装勢力を封鎖作戦に出撃した。2004年4月8日にイラク武装組織との戦闘にて、アメリカ軍の戦車が砲撃されて炎上した。

イラク戦争の2003年5月1日の終結宣言後にアメリカ軍の占領政策が頓挫した。2004年4月3日から第一次ファルージャの戦いにて、数千人のアメリカ軍兵士がファルージャ(Falluja)の武装勢力を封鎖作戦に出撃した。2004年4月8日にイラク武装勢力との戦闘にて、アメリカ軍の戦車が砲撃されて炎上した。










 アメリカ軍戦車の砲塔で、戦傷した砲弾の装填兵士を救出した。その戦闘では、アメリカ軍が約300人の武装勢力を殺害した。アメリカ軍は、4月11日からは大規模な空爆を開始し、さらに多くの住民を殺害した。ファルージャの侵攻により、戦闘でアメリカ人約39人が死亡して、約90人が負傷した。イラク人住民の犠牲者は、約730人が殺害されて、約2,800人が負傷した。殺害されたイラク人住民の犠牲者の約25%は女性で、約25%が子どもであった。



イラク中部の三角地帯でスンニ派のモスクの街であるファルージャにて、シーア派の反アメリカ指導者のムクタダ・サドルが主導して騒乱が勃発した。2004年3月31日に、ファルージャで民間軍事会社であるブラックウォーター(Blackwater)社の警備員の民間アメリカ人の4人が襲撃されて虐殺されたのが起因となった。装甲四輪駆動車にロケット推進手榴弾(RPG)が命中して、燃え盛る車両や脇に横たわる死体、橋に吊るされた黒こげの死体の衝撃的な映像が世界中で報道された。

 イラク国内の反アメリカ感情により、対立関係であったイスラム教のシーア派とスンニ派が連帯を促した。アメリカ政府は、2004年6月末の主権移譲の日程を固持していた。武装勢力を圧倒するために、アメリカ軍を約1万人の増員を投入した。ファルージャの惨状から、イラク各地で反アメリカ活動、世界中から非難が殺到して、5月1日に撤退した。第一次ファルージャの戦いは、 市民を保護する都市の課題を示した。都市部の戦場には常に民間人が存在する。軍には、民間人、重要なインフラ、保護された場所への危害を防ぐことが求められる。都市部での戦闘には、民間人の避難を連絡し、促進する積極的な計画が求められた。

 イラク戦の最大の激戦となった第二次ファルージャの戦いが、2004年11月7日から12月23日まで勃発した。アメリカ軍とイラク軍の連合軍は11月10日までにファルージャの約70%を支配した。市街地は包囲されたが、武装勢力は数週間にわたり潜伏して市街戦が勃発した。武装勢力は「異教徒に降伏するより、死んで天国に行く方がましだ」と絶叫した。アメリカ軍兵士は約51人が死亡して、約425人が負傷して、イラク軍は約8人が死亡して、約43人が負傷した。武装勢力は、約1,200人から1,350人が犠牲となった。

2023年1月30日月曜日

イラン立憲派軍は、トルクメン人部隊の首領の首を、藁に詰められててイランの首都テヘランにまで持ち込んだ。トルクメン人らは、ペルシャのイラン立憲派軍との戦いで殺害された。

イラン立憲派軍は、トルクメン人部隊の首領の首を、藁に詰められててイランの首都テヘランにまで持ち込んだ。トルクメン人らは、ペルシャのイラン人に恐れられ、嫌われて、イラン立憲派軍との戦いで殺害された。トルクメン人らは、ムハンマド・アール・シャー・ガジャール(Mohammad Ali Shah Qajar)が、イランの王位に返り咲くための主要な戦力を構成していた。イラン政府軍の兵士らは、アルシャド・アル・ダウレ(Arshad al- Dowleh)が率いたトルクメン人の武装派を殺害して、その首を並べて掲げてポーズを取って写真撮影をした。

 ペルシャ憲法革命が王朝の借金を返済する関税に抗議して1905年に勃発した。1907年1月に父ムザファルディン・シャーの死後に、ムハンマド・アリー・シャーのイラン治世は始まった。1909年7月に蜂起した立憲派がイランのテヘラン占領して、彼は7月16日にロシア大使館に亡命してイランから追放された。イランの立憲派の国民評議会は、1911年7月29日に、退位したムハンマド・アリー・シャーを逮捕するか、その首を持ってきた人物には約10万トマンの報酬を決定した。退位してイランから追放されたムハンマド・アリー・シャー・カジャールは、ロシアのトルキスタンにて、数千人のトルクメン人らを動員した武装派を率いて、1911年にイランのアスタラーバードに帰還して戦闘するも敗北した。1911年12月に、ロシア軍がイラン北部に侵攻して、イラン立憲革命は消滅して無政府状態に陥った。レザー・パフラヴィー(Reza Shah)が軍事クーデターを挙行した。

 1905年にイランの悲惨な一律の租税の徴収によって、イラン少女がトルクメン人への人身売買が発生した。『コーチャン(Quchan)の娘たちの売却物語』が、困窮したコーチャン地方のイラン人の娘たちの約250人は、トルクマン人のハニン・トルクマンに人身売買された悲劇を公表した。政治的貧困と不正犯罪に対するイラン市民の怒りを呼び起こし、イラン立憲革命に最も影響を与えた。




2023年1月29日日曜日

ウクライナのチェルニヒフのウクライナ軍の傷病兵病棟で2023年1月11日に、64歳の父親のセルヒイ・シュメイさんが、アヴディエフカの戦いで頭部を2022年8月25日に戦傷した息子の34歳のヴィタリイに話しかけた。

ウクライナのチェルニヒフ(Chernihiv)にて、ウクライナ軍の傷病兵の病棟で、64歳の父親のセルヒイ・シュメイ(Serhii Shumei)さんが、2023年1月11日に何時間も頭部を戦傷した息子の34歳のヴィタリイ(Vitalli Shumei)に話しかけた。元軍人の父親は、戦争に志願した息子を叱ったことはない。砲弾の爆発で脳を損傷した息子を、父親のセルヒーさんは約5ヶ月間、常に息子の側で介護をした。

 息子のヴィダリイさんは2022年8月25日、ドンバス州のバフムートの南約70kmにあるアドヴィフカ(Avdiivka)で負傷した。34歳の長距離対空ミサイル司令官であった息子は、激戦地のウクライナ東部のドンバス州で負傷した。息子の壕を襲ったロシア軍の砲弾は、他の爆弾も爆発させた。爆発でヴィタリイの頭蓋骨には、メロン半分ほどの深さと幅の頭蓋口ができた。息子の脳の損傷はひどく、再び意識を取り戻すか不明であった。ヴィタリィはまばたきをして、飲み込みできるも、身体はほとんど動かせない。時折にヴィタリィの頬を涙が伝う。






 




Warning: Serhii Shumei, 64, talks to his son Vitalii, 34, a Ukrainian officer heavily wounded in a battle with Russian forces, in a city hospital in Chernihiv, Ukraine, Wednesday, Jan. 11, 2023. Vitalii, a long-range anti-aircraft missile commander, was wounded in the Donbas region of eastern Ukraine that has become synonymous with horrific losses in ongoing fighting for both Ukraine and Russia. (AP Photo/Efrem Lukatsky)


  アヴディエフカの戦い(Battle of AVdiivka)は、ドンバス州にあるアヴディフカで交戦した。戦闘は、ロシアがドネツク人民共和国を承認した2022年2月21日に、再び戦闘が勃発した。2月24日にロシア軍がウクライナに侵攻して、最初に攻撃された戦場の1つであった。2022年4月18日~7月27日に、ロシア軍は東ウクライナへの侵攻を再開し、アヴディフカを激しく砲撃と攻撃した。ロシア軍は、6月1日主要な高速道路を、6月6日にカミアンカ付近を制圧し、6月12日にコーク工場、6月21日には学校が破壊された。7月7日にロシア軍は24時間にわたりアヴディフカを砲撃した。7月28日から、民主共和国軍とロシア軍はアヴディフカの攻勢を開始した。7月31日にロシア軍がカミャンカとピスキー周辺で侵攻して、不特定のロシア部隊がアヴディフカ周辺で部分的制圧を収めた。8月24日、ロシア軍とドネツク民主共和国軍(DNR)軍はピスキーを占領した。9月初旬に、分離主義者の部隊が、ピスキー付近の広いアヴディフカ地域で攻撃を開始した。ウクライナ軍がアヴディフカを防御的であり続けた。10月10日にロシア軍がアヴディフカでの攻勢を続けて、街を包囲した。死傷者数は、ウクライナ侵攻開始以来、約50人の民間人が死傷した。

 ロシア軍とウクライナ軍の両陣営はドンバスの拠点を占領・防衛するために兵力と資源を投入し、数ヶ月に及ぶ消耗戦の末、血生臭い膠着状態に陥った。ドンバス州のバフムトとソレダルの町は、地獄絵図の狂気と化して、完全に破壊され、死体と爆弾穴が散乱し、ほとんど生命が残っていない。ヴィタリイさんは今のところ病室で一人だが、しかし、ドンバス州の戦闘の激しさから、周りのベッドが戦傷者ですぐに埋まるだろう。












Warning: Serhii Shumei, 64, talks to his son Vitalii, 34, a Ukrainian officer heavily wounded in a battle with Russian forces, in a city hospital in Chernihiv, Ukraine, Wednesday, Jan. 11, 2023. Vitalii, a long-range anti-aircraft missile commander, was wounded in the Donbas region of eastern Ukraine that has become synonymous with horrific losses in ongoing fighting for both Ukraine and Russia. (AP Photo/Efrem Lukatsky)


2023年1月28日土曜日

1945年9月16日に、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近で、廃墟の中で仮設の建物の屋外で、即席の野外コンロで調理する母親と子どもの姿が見えた。

1945年9月16日、長崎原子爆弾の爆心地から北へ約1.4kmの長崎市家之町付近でアメリカ軍が撮影した写真である。屋外で調理する人々の姿が見える(写真提供:アメリカ国立公文書記録管理局)。長崎原子爆弾の爆心地付近の廃墟で、母親と子どもが生活していた。中央の壁がない仮設の建物の下で眠り、即席の野外コンロで調理していた。

 多くの被爆者が避難し、田舎や離島でより困窮しない生活を求めて、何日も何週間も歩き続けた。遠い親類縁者との生活に耐えかねて、同じ苦悩をする被爆者に囲まれた長崎市に戻る人もいた。ホームレスの被爆者は、薄っぺらな小屋に住み、土間や瓦礫の中の畳の上で寝た。家具もない一部屋に約15人も住むこともあった。水道は不全で、山から湧き水を汲んで、雨水を溜めて沸かして飲んだ。トイレもなく、小屋の外に穴を掘って、木の板で覆った。浴槽もなく、大きなドラム缶でお湯を沸かし、立ったまま入浴した。冬の風に、家族は衣類や毛布をたくさん重ね着し、傘をさして薪ストーブを囲み、屋根から落ちる雨やみぞれ、雪を防いだ。真っ暗な夜、廃墟を歩く被爆者は、ガラスの破片、古い釘、木片、割れた瓦などで足を切った。

 長崎市内の福祉施設はまだ稼働せず、多くの孤児が路上生活を余儀なくされた。カトリックのノートルダム修道院の修道士らが約100人以上の孤児を引き取り、秋月博士の第一浦上病院などが無料の医療を提供した。救護班が身元不明の赤ん坊を養子にした。行き場のない少女たちは売春をし、孤児となった少年たちは、数ヶ月から数年間、一人または二人で駅や橋の下に住み、物乞い、盗み、食物を探し、鉄道当局や地元の警察から厄介者扱いされながら、地域を徘徊した。妊婦は、胎内で被曝して死ぬ、奇形児が生まれるという噂におびえ、医師や助産婦の手を借りずに廃墟の中で出産した。実際に、子宮内被曝児の死亡率は高かった。爆心地から約500m以内の妊婦は約43%の確率で自然流産、死産、乳児突然死を起こした。




2023年1月27日金曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いで、バギオの日本軍病院もアメリカ軍に爆撃され、4月27日に病院外に放置された約48体の日本軍兵士の死体がアメリカ軍兵士により探索された。

太平洋戦争のフィリピンの戦いで、バギオの日本軍病院も、アメリカ軍に爆撃された。4月27日に病院の外側に、放置された約48体の日本軍兵士の死体がアメリカ軍兵士によって探索された。日本軍のバギオ総合病院は激しい砲撃と爆撃を受けて、病院本館は大きな被害を受けた。バギオ地区では日本軍が4月下旬までアメリカ軍の北進を阻止した。西海岸からナギリアン経由で迂回して侵攻されて、4月26日にバギオは陥落した。その直前に日本軍の方面軍司令部はカガヤン渓谷へ脱出し、ホセ・ラウレル大統領らも日本本土へ避難した。

 バギオの戦い(Battle of Baguio)は、1945年2月21日から4月26日に、第二次世界大戦末期の連合軍のフィリピン解放における大ルソン作戦の一部である。アメリカ軍とフィリピン軍はルソン島の都市バギオを日本の占領軍から奪回した。フィリピン攻略戦の最後の戦車戦の1つが行われた。バギオは、ルソン島北部のコルディリェラ中央山脈に囲まれた標高約1,400mに位置する都市である。

 1945年2月下旬から4月上旬に、アメリカ軍と連合軍は、ゲリラ部隊の支援を受けながらバギオに侵攻した。3月末にはアメリカ軍の大砲の射程内に入った。バギオ攻略のための大規模な攻勢は4月中旬になり、マニラ駐留軍と、西と南からバギオへの日本軍に突撃を開始した。連合軍が西からバギオに向かう途中で、イリサン峡谷とイリサン川で約6日間の戦車戦が行われた。バギオの戦いで、日本軍兵士は約2,000人以上が戦死した。

 4月中旬に、外国人を含む民間人約7000人がバギオからアメリカ軍の戦線に向かった。  4月22日に、山下司令官からバギオ防衛を任された宇都宮能方少将が、バギオからの撤退を指示した。4月24日に、連合軍のパトロール隊がバギオに進駐した。太平洋戦争の終戦後の1945年9月3日に、バギオの基地へと移動した山下奉文大将はマッカーサー元帥と共に降伏文書調印式に参加して降伏文書に署名した。バギオで、1945年9月3日にフィリピンにおける日本軍の最終降伏の舞台となった。







2023年1月26日木曜日

第一次国共内戦にて、1930年7月27日に中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。中国共産党軍が残虐に虐殺した国民党軍や民間人の死体が、長沙の路上に散乱した。

第一次国共内戦にて、国民党軍と地方軍閥間に1930年5月11日に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日に、中国共産党軍が1万の兵力で湖南省長沙を占拠して、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。湖南省の長沙にて、中国共産党軍が残虐に虐殺した死体が、繁栄していた市場に散乱してすべてが焦土と化した。

 1930年8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。湖南省長沙で約1万人以上の共産主義の容疑者が逮捕されて処刑された。さらに、最初の1カ月間の戦闘は残忍を極めた。湖南省だけでも約38万人以上の民間人が殺害された。国民党の残虐行為は限りがなかった。1928年には、約31万人以上の民間人が国民党軍の命令で殺害された。国民党軍も中国共産党軍もさまざまな残虐行為を執行した。相手が誰であれ、同情することもなく、両軍はしばしば罪のない民間人を殺し、大規模な処刑を執行した。

 中国共産党は1927年7月13日に対時局宣言を発して、国民党との国共合作の終了を宣言した。中国共産党は武力闘争を開始して、8月1日の南昌蜂起を皮切りに各地で武装蜂起を繰り返した。国民党軍は、第一次国共内戦にて共産党軍を鎮圧した。共産党が引き起こした武装闘争の内戦は局所的であり散発的であった。1928年10月10日に、中華民国の南京国民政府主席に就任した蔣介石は、中国の近代化を推進する改革を行った。国民党軍の北伐は継続されて、1928年6月9日には北京に入城し、北京政府を倒した。

 南京国民政府でも、反日世論が高まっていたが、蔣介石は日本との国力の差を考慮した上で、中国国内統一による国力増強を最優先目標とした。反共主義の立場から、抗日政策より、中国共産党との戦いを優先した。1931年11月7日に中国共産党が瑞金に江西省ソビエト共和国を樹立した。

 1930年5月11日には反蔣介石連合運動との内戦の中原大戦が起こり、両軍合計100万の軍勢で約30万の死傷者が出た。国民党軍と地方軍閥間に勃発した中原大戦の隙をねらって、1930年7月27日には、中国共産党軍が約1万の兵力で湖南省長沙を占拠し、湖南省ソビエト政府樹立を宣言した。8月5日に中国国民党軍が、共産党の紅軍から長沙を奪回した。8月15日に閻馮軍から済南を奪回した。9月18日に、張学良が蔣介石支持の態度を表明して、東北軍の関内進駐によって蔣介石軍が勝利して、蔣介石の勢力は強化された。毛沢東ら中国共産党はソ連支援の下で、農村を中心として支配領域を広げ、1931年11月7日に江西省に中華ソビエト共和国臨時政府(瑞金政府)を樹立した。




2023年1月25日水曜日

シオン広場冷蔵庫爆破事件が1975年7月4日に、イスラエルの首都エルサレムのシオン広場にて、パレスチナ人のPLOテロリストが仕掛けた冷蔵庫が大爆発して、イスラエル市民約15人殺害され、約77人が負傷した。

シオン広場冷蔵庫爆破事件(Zion Square refrigerator bombing)が1975年7月4日に、イスラエルの首都エルサレムにて、シオン広場にてパレスチナ人のPLOテロリストが仕掛けた中古の冷蔵庫が大爆発した。1975年7月4日、エルサレム中心部のシオン広場にある家電量販店で、パレスチナのテロリストが、約5kgの迫撃砲弾を仕掛けた冷蔵庫を爆発させた。イスラエル市民約15人が殺害されて、イスラエル市民約77人が負傷した。救急車に、多量の死傷者を担架で搬送した。

 パレスチナのPLO(パレスチナ解放機構)司令部から過激派組織が「我々の祖国の地に暮らす奴は皆敵だ。イスラエルに住んでいる者は全員殺す。」と犯行声明を出した。テロ攻撃はタームス・アヤ出身のアラブ系アメリカ人のアーメド・ジャバラ(Ahmed Jabara, 別名アブ・スカー)が執行した。ジャバラは、ナブルスのバスセム・タビラ(Bassem Tabila)により共謀して、タビラは逮捕される前にヨルダンに逃亡した。イスラエル治安機関(ISA)とイスラエル警察の捜査後に逮捕された、1977年6月に軍事法廷で裁判にかけられ、有罪判決を受けて、終身刑と30年懲役刑を追徴された。

 2003年に、アーメド・ジャバラは、イスラエル政府は、ヤセル・アラファトに対する思惑として、27年間服役した後に釈放された。釈放後に、ジャバラはベツレヘムの集会で、イスラエル軍兵士による誘拐を訴えた。その後に、アラファトはジャバラを囚人問題担当顧問とした。ジャバラは2013年7月17日ラマラで心臓発作のため78歳で死去した。

 1975年11月13日にアラブ武装勢力により、再びシオン広場アイスクリーム店爆破事件(Zion Square ice cream shop bombing)が勃発した。午後7時にアイスクリーム店で爆発して、少年3人と少女3人の約6人が殺害され、約42人が負傷した。PLOのヤセル・アラファト議長の国連の演説日と一致させた。




2023年1月24日火曜日

ドイツ民族自衛部隊の準軍事組織の男性が、第一次世界大戦の東部戦線の地域で、ドイツ軍の占領地域で身体を斬り付けられ、悲惨にも目をくり抜かれて残虐に殺害された。

ドイツ民族自衛部隊 (Selbstschutz)の準軍事組織の男性が、第一次世界大戦の東部戦線で、ドイツ軍の占領地域で残虐に殺害された。身体を斬り付けられて、悲惨にも目をくり抜かれていた。埋葬する前に死体が死後処理された。

第一次世界大戦にて、ロシアとブレスト・リトフスク条約締結後に、ドイツとオーストリア・ハンガリーが占領された地域で、ドイツ国外に住むドイツ系民族のために準軍事組織であるドイツ民族自衛が結成された。地元のドイツ系民族の地域組織を保護し、ウクライナ南部にてドイツの安全保障と利益に寄与させた。ドイツ民族自衛部隊が反復してシレジアでも設立され、ポーランドの再興に伴って、ポーランド人の居住地をドイツへの返還も目的となり、1921年にはドイツ民族自衛部隊はポーランド人の第三次シレジア蜂起に参戦した。

 1918年に、ドイツ帝国軍とオーストリア・ハンガリー帝国軍はウクライナを占領した。ドイツ軍の占領当局は、ウクライナ南部の多数のドイツ系民族からドイツ民族自衛部隊の設立を支援した。1918年3月にはベラルーシのブレストで、ブレスト・リトフスク条約が締結されれて、ロシアはポーランド・バルト海沿岸からウクライナなどを大喪失した。ドイツ民族自衛軍は、ロシアにて教会共同体も含まれ、モロッチナからチョルティツァの教会共同体からも徴集して、ドイツ軍から訓練と武器の提供を受けた。占領が終わって撤退する直前に、ドイツ軍はドイツ民族自衛部隊の創設を監督して、武器、弾薬、指揮する数人の将校を残した。モロツナの若者たちは、隣接するルター派ドイツ人の占領地も含めて、約20個中隊を編成して歩兵約2700人、騎兵約300人を構成した。ロシア内戦にて、当初は1919年3月は、無政府主義者のネストル・マフノの軍勢を抑えた。マフノのパルチザンが赤軍と同盟を結び、赤軍が強化されると、ドイツ民族自衛軍は最終的に圧倒されて、撤退・解散を余儀なくされた。ロシア内戦が進むと、一部の教会共同体がロシア義勇軍の民族大隊に組み込まれた。

 教会共同体は伝統的な無抵抗主義の教えから逸脱して、多くの占領地出身者を否定した。政府の権威が失墜して、教会共同体の地域組織に対して、無政府主義者は残虐行為が強化された。ドイツ民族自衛部隊は、教会共同体の地域組織を残虐行為から守り、住民が白ロシア軍の支配地域に逃れる猶予を与えた。無抵抗主義の放棄は、非常な分裂を引き起こした。ドイツ民族自衛活動が、教会共同体の民間人に対する無政府主義者の残虐行為に火をつけた。その後に教会大会や代表団は、ドイツ民族自衛部隊の重大な過ちを公式に非難した。




2023年1月23日月曜日

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された人民解放戦線である2人の兄の死体を見守り慟哭した。

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された2人の兄の死体を見守り慟哭した。2人の兄は、人民解放戦線(Janatha Vimukthi Peramuna, JVP)兵士であり、スリランカ政府軍に殺害された死体には、無残な拷問の傷跡が残存した。

 スリランカでは1987年4月15日から1989年12月29日まで勃発したJVP反乱(1987–1989 JVP insurrection)は、マルクス・レーニン主義によるスリランカ政府に対する武装反乱であった。1987年から1989年の暴動は、1971年のJVPの暴動と同様に、失敗した。JVP反乱軍は、破壊活動、暗殺、襲撃、軍や民間の標的へ攻撃した。スリランカ政府軍は、JVP反乱軍を鎮圧する作戦で対応した。約41,813人が死亡あるいは行方不明となった。JVP反乱軍は約6,577人を殺害して、スリランカ政府軍は約34,014人を殺害した。

 JVPの軍事部門であった反乱ゲリラ部隊は、1988年に頂点に達し、すべての民間人のスリランカ市民にまで被害を及ぼした。親政府系のゲリラによる市民への攻撃が、スリランカ内戦の停戦からインド平和維持軍の追放後に、すぐにスリランカ政府軍による大量殺戮が勃発した。多くのスリランカ市民と複数のインド人駐在員が殺害された。インド平和維持軍(IPKF)が、1987年から1990年に、スリランカ内戦の民族紛争に介入して撤退した。

 JVPは、敵であったスリランカ自由党(SLFP)から支援を受けた。しかし、JVPとタミール・イーラム解放の虎(LTTE)が公然と拒否した地方選挙にSLFPが参加したので、同盟は決裂した。スリランカ政府は1987年、JVPとSLFPに選挙参加を期待して禁止令を解除したが、結局失敗に終わった。約2年以上にわたり、若者や労働者の集団武装化、大量処刑、レイプ、襲撃が見られた。反JVP民兵も、左翼の人民革命赤軍(PRRA)を含めて暴力を引き起こした。LTTEが主にスリランカ北部を拠点にして、JVPは南部のジャングル地帯を拠点とした。

 1989年、スリランカ政府軍はコンバイン作戦(Ops Combine)を開始した。JVPの軍事部門であるDJVの暴動が激化した。DJVは、トリンコマリーのLTTE占領地域でも、スリランカ政府軍とIPKFに対抗して攻撃した。DJVは、タミル人武装勢力から支援を受けた。多くの小さな反政府組織の武装闘争を、DJVは1989年12月に断念した。スリランカ政府側だけでなく、反政府勢力であるLTTEが、多くの市民を虐殺した。約2,000人以上の市民を捕獲して、約30人以上を処刑した。




2023年1月22日日曜日

ウクライナ東部ドネツク州のリマンが解放された後の2022年10月6日に、リマンの通りで散乱して放棄されたロシア軍兵士の死体の側を、リマンの地元住民が通り過ぎた。

ウクライナ東部ドネツク州のリマンが解放された後の2022年10月6日に、リマンの通りで散乱して放棄されたロシア軍兵士の死体の側を、リマンの地元住民が通り過ぎた。急いで撤退したロシア軍は、兵士の死体から公文書、軍用車両などを放棄していた。逃げ惑うロシア軍に同行した戦場記者たちは、包囲され、恥辱の監禁を受ける危険が大きくなり、ロシア軍は撤退する決定を下した。虚ろな目で意気消沈したロシア軍兵士たちが、命からがらリマンを脱出した。ロシア軍兵士は部隊から離れ、小集団で周囲の森に逃げ込み無秩序に撤退し、多くが殺害うあるいは捕獲された。

ドネツク州のリマンから撤退するロシア軍は、膨大な量の弾薬と物資を跡に残した。ロシア当局にとって屈辱的な撤退で、ロシア国防省は10月1日に、リマンの町を掌握してから約3カ月後に、軍隊を撤退させることを発表した。前日の9月30日にテレビ中継されたクレムリンの式典で、プーチン大統領は、不当な住民投票に基づき、ドネツク州とウクライナの他の3州の部分占領地域の知事に、ロシアに永遠に属するとロシア当局が根拠なく主張する文書に署名した。10月2日に、ゼレンスキー大統領が、リマンの完全掌握を宣言した。

 ドネツク州のロシア側陣地は、ウクライナ軍が9月上旬に北方に隣接するハリコフ州で大規模な反攻を開始して危険にさらされた。ウクライナ軍の東部攻勢で約3,000平方km以上が解放され、リマンのロシア軍への北部補給路を断った。その後、ウクライナ軍はライマン周辺の村々に進出し、町の三方を包囲し、出口を大砲で叩いた。

 しかし、ロシア軍の脱出はあまりに遅すぎた。脱出を開始した時には、北東のトルスケ村への道を除いて、リマン市街地から出る道はウクライナ軍がすべて遮断された。リマンに向かう林道には空爆の跡が散見された。ロシア軍の約7台の車列が一直線に焼け焦げた。破壊された運搬車から散乱した数百発のAK-47弾や、制服、医療用ドレッシング、消臭剤などの物資も山積みになった。ロシアが部隊を撤退させた10月1日には約5000人以上のロシア軍兵士が残存した。















Warning: Local residents pass by the dead bodies of Russian soldiers on a street in Lyman on October 6, 2022, shortly after the town was liberated.(Anastasia Vlasova,EPA-EFE)

2023年1月21日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。

長崎原子爆弾の爆心地から、南南東約2.5kmの地点である翌日1945年8月10日早朝に長崎市西中町において長崎市民らが、肉親を探索して徘徊していた。中央に映る十字架は、中町天主堂であり、その周辺は悲惨にも崩壊していた(山端康介: 撮影)。

 1945年8月9日11時2分に、長崎市松山町上空で炸裂した原子爆弾による猛烈な爆風が、約2.5キロ離れた中町教会を襲撃した。爆風によって天井が崩落し、柱も傾いた中町教会に港側から炎上して、瞬時に火達磨となった。西中町天主堂(現在の中町教会)は、十字架の尖塔と外壁だけを残して焼け落ちた。中町は二次火災による焼失地域で、長崎原子爆弾の熱線が可燃物に引火して、直後に自然発火して大火災が勃発した。長崎市内は原子爆弾の投下して炸裂後に、何日間も砂埃と灰に覆われたが、広島市内のような放射性降雨の黒い雨は降らなかった。

 明治時代に、長崎市街地には大浦天主堂の他にカトリック教会がなかった。初代の島内要助神父は殉教の歴史の長崎に、日本人のための教会を建てるために、1889年の暮れにキリシタン大名大村純忠ゆかりの大村藩蔵屋敷跡である中町に設立した。1891年8月に建設に着手し、1897年9月8日にカトリック中町教会が完成した。長崎原子爆弾に被爆して崩壊した中町教会は、献金や信徒たちの奉仕により、1951年10月にその外壁と尖塔をそのまま生かして再建した。

 1945年8月9日に、西部軍報道部員の山端庸介は、命令を受けて福岡県福岡市から原子爆弾が投下して炸裂した長崎市に向った。8月10日未明に、長崎市内に入るとまず長崎地区憲兵隊本部に向かった。長崎市内の状況を把握して、撮影の許可を憲兵隊から受けて、被爆翌日の8月10日から長崎原子爆弾の約100枚もの写真撮影がはじまった。西部軍司令部は、1940年から1945年まで中国・四国・九州地方の防衛のために、福岡県福岡市などに設置された大日本帝国陸軍で、軍管区内の軍隊を指揮・統率した。





2023年1月20日金曜日

イタリアの国営テレビ局RI24は2005年11月8日に、イラク戦争にてアメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたファルージャのイラク軍兵士や民間人の遺体など、凄惨な映像を放映した。

イタリアの国営テレビ局RI24(Radiotelevisione Italiana)は2005年11月8日に、アメリカ軍の白リン弾で内部が溶けたイラク軍兵士や民間人の遺体、電気ドリルで穴を開けられた男性の遺体、負傷した個人への砲撃など、凄惨な映像を放映した。RAIのビデオでは、空から発光物質が降ってきた。内側から溶けた死体が映し出した。元アメリカ軍兵士が、イランのファルージャの住民に白リン(White Phosphorous)弾を使用したと証言した。ヘリコプターからの白リン散布作戦の映像が映し出された。イタリア人ジャーナリストのスグレナさんらは、アメリカ軍から残虐行為の報道を阻止された。

 白リン弾は、自然燃焼して、燃焼時に酸素を奪う国際禁止兵器である。大量の水がなければ、白リン弾の消火は実質不可能である。白リン弾は開かれた場所でも、隠れた兵器にも効果があり、兵器を破壊する。白リン弾が人体の中まで焼き尽くした。リン燃焼で形成された窒息性ガスは、火による死を免れても毒ガス死した。兵器・戦争手段に対する史上初の禁止は、1899年にオランダ・ハーグ開催の第1回万国平和会議で宣言された。その後に、禁止リストは常に拡大した。

 2005年3月3日に、イラク保健省は、アメリカ軍が2004年11月にファルージャ市をほぼ壊滅させた攻撃で、マスタードガス、神経ガス、燃焼剤などの化学兵器を使用したと公表した。アメリカ軍の攻撃の間に、逃げ惑う住民が、溶けた死体を見たと語った。アメリカ軍が死体を溶かすポリスチレンと航空機燃料の毒性化合物であるナパーム弾を示唆した。その他、マスタードガスや神経ガスが使用された証拠も発見した。毒ガスによって死んだ野良犬、猫、野鳥を何百匹も発見した。記事を掲載したアメリカメディアは、1つのウェブサイト上だけであった。アメリカ軍の重大な国際条約違反の報道を無視した。国防総省は、2004年12月の時点ですでに守勢に回った。イスラムのウェブサイトでの告発や、ファルージャに対する白リン爆弾、プロパン爆弾、ナパームの使用を宣伝するGIブログや事後報告によって劣勢となった。白リンは照明用と使用したと主張した。

 イラク戦で、アメリカ軍が国際的に使用が禁止されている白リン弾や濃縮ウランなどを使用した。致命的な破壊兵器により、約150万人以上のイラク人が暗殺され、100万人以上が行方不明になった。戦争中の真っ只中の避難民は約700万人を超えた。イラク侵攻後の悲惨な人道状況は世界最悪です。劣化ウラン感染やその他の化学物質汚染により、先天性欠損症やがんが増加して、毎年5歳未満の子供約4万人が死亡した。




2023年1月19日木曜日

1979年10月31日にフィリピン南部ミンダナオ島にて、旧市庁舎に配属されたフィリピン軍第6IB兵士は、ナタンコップ・ロマプナットと彼の家族全員の7人を銃剣で虐殺した。

1979年10月31日午前0時に、フィリピン南部ミンダナオ島にて、マラウィ(Marawi)にある家は、旧市庁舎に配属されていたフィリピン軍第6IBの兵士に囲まれた。彼らは居住者に降りてくるように命じた。ナタンコップ・ロマプナット(Natangcop Romapunut)と彼の家族を除いて、全員が降りてきた。兵士達は家に上がり、7人の家族全員を銃剣で虐殺した。殺されたのはロマプヌットさん(60歳)、妻のカリモダンさん(58歳)、未亡人の娘ラヤマンさん(45歳)、娘のベドリ・サリックさん(21歳)、その夫サレム・サリックさん(24歳)と若い夫婦の子供2人(4歳と生後7カ月)であった。11月には、ラナオ地方で反政府勢力の活動が活発化すると、軍は報復に出た。反乱軍に入り込めないので、イスラム社会全体を対象にした弾圧作戦であった。

 ラナオ(Lanao)のマラナオ(Maranaos)族は、ミンダナオ島のイスラム教徒が受けた最も残虐なマルコス政権下の軍事行動の犠牲者であった。虐待に関する資料を入手することは困難である。部外者は軍とイスラム教徒の両方から疑いの目で見られている。マラナオ族はラナオの街の人口のほとんどを占めている。彼らは明るくカラフルなマロンを着て通りを歩いている。市場はいつも混雑している。マラナオの少年たちはメロディーを歌いながらアイスドロップを売っている。しかし、重装備の兵士が通りを歩いたり、戦車に乗ったりして、その光景はしばし崩れ去った。1978年10月4日に、またしてもフィリピン軍の奇襲作戦が行われた。マラナオ人約58人が拘束され、中には反乱軍と認める書類にサインさせるために拷問を受けた者もいた。ボールペンで両目をつぶされた人もいた。

 1978年末、マラナオ族からフィリピン軍による弾圧の報告書が届き、助けを求めるようになった。マラナオ族の報告書の最後には、助けを求める言葉があった。私たちマラナオ族の一人一人は、自分が次の犠牲者になる恐怖を常に抱きながら生きている。誰もが心の中に重い不安を抱えている。誰も家から出られなくなった。事件は、世間に知られないようにされている。私たちが軍の手によって苦しめられていることを知ることはできない。

 マラナオ族は、フィリピン南部ミンダナオ島中西部の南ラナオ州のラナオ湖周辺を居住地とする集団で、その大多数はイスラム教徒である。マラナオ語を母語として、人口は約86万9000人で、フィリピン全人口の約1.27%を占める。暴動やテロに1972年9月21日に,マルコス大統領は戒厳令を施行した。ミンダナオ地方西部では、イスラム教徒を含む先住民族(モロ族)による政府への抵抗運動を背景として、1960年代後半に分離主義運動が活発化した。1968年頃に設立したモロ民族解放戦線(MNLF)は、1972年以降に、独立運動からフィリピン軍に対する武力攻撃を繰り返した。さらに1977年から、イスラム国家の設立を掲げるハシムらが離反してモロ・イスラム解放戦線(MILF)を設立した。




2023年1月18日水曜日

朝鮮戦争の勃発直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配して、当初約140万人いた人口が膨大な戦死者や餓死者などで3分の1まで減った。

朝鮮戦争が勃発した直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配した。当初ソウルに約140万人いた人口が3分の1まで減った。悲惨で残国な北朝鮮はソウル市民を支配した。膨大な戦死者、餓死者、その他に政治的理由で避難者、食料を求め地方に移り住んだソウル市民が出た。

 北朝鮮に支配されたソウル市民の感情は徐々に悪化した。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などがソウル市民に虐待と虐殺を招いた。北朝鮮軍は同時に、到着した翌日の6月29日から当地の学生を自治隊と動員し、各家庭へ調査した。食料保有量調査で、学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けた。各家庭ですべての食料を提出させた。占領中の北朝鮮軍兵士に渡した。没収された食料は全くソウル市民の元には戻らず、朝鮮労働党だけに配給された。その結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

 北朝鮮によるソウル占領で、徴兵やメディア統制も強制された。ソウルの若者を召集して、義勇軍を結成して、北朝鮮に戦争協力させ、戦地動員令を発令した。対象年齢は19歳から37歳で、より若い中学生も強制的に動員された。後に金日成は、韓国で約40万人を動員したと公言した。当然、朝鮮戦争の戦死者が出る。家族の不満は高まった。新聞では、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の約200人が徴収された。アメリカや大韓民国に敵愾心を燃やさせ、義勇軍を支持させ、志願後にすぐに出陣させた。北朝鮮の体制に反抗者の人民裁判や新聞の発行禁止、北朝鮮体制の機関紙に切り替えた。

 6月25日午前4時に朝鮮戦争が勃発して、ソウル市を包囲していた北朝鮮の朝鮮人民軍は、6月28日11時30分からソウルの中心部に侵攻した。6月28日を境に当時約140万人いたソウル市民は大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国の市民になった。3日前の北朝鮮側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣りソウルは占領され、撤退して、水原市に遷都した。北朝鮮軍がソウルに侵入した時に、ソウル市民の約半分は街に出て、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台に北朝鮮国旗を掲げた。北朝鮮の戦車は西大門刑務所に向かい、監獄の中にいた左翼の政治犯などを解放した。大韓民国の右派政治家たちは、3日前の6月25日に北朝鮮軍の南下の噂から、すでにソウルから避難していた。

 北朝鮮が侵攻する情報が6月25日に伝わるや、ソウルから避難した市民ら約40万人が避難した。その人数の約8割は以前は、北朝鮮で共産主義の恐怖から混乱期に南のソウルに避難した難民だった。その他は北朝鮮から要注意の右派政治家、資本家などだった。ソウルに残っていた市民は当初は、意外と冷静だった。ソウルに、北朝鮮の人民軍が、ミアリ峠を超え、恵化門に膨大な北朝鮮の戦車、車や馬車、兵士が溢れた。北朝鮮人は、北西地方の方で、言語、風習、血統は同族であった。当初は、ソウル市民は敵兵だと考えず、遠方の兄弟が故郷に帰ったと感じた。ソウル市民は、赤い旗を振り、北朝鮮軍に付いて回り、仕事を手伝うソウル市民が最も多かった。

 朝鮮戦争は前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦で巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回した。北朝鮮のソウル市は、9月25日にアメリカ軍と国連軍の仁川上陸作戦で戦況が逆転した。ソウルは9月28日に大韓民国側に奪還された。逆に10月19日に、韓国軍側は平壌を占拠した。




2023年1月17日火曜日

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の副党首のホセ・カルボ・ソテーロを暗殺した。

1936年7月13日未明に、スペインの首都マドリッドで、スペイン社会主義労働者党の武装集団が、親ファシストで君主主義政党の創設者で指導者であった副党首のホセ・カルボ・ソテーロ(José Calvo Sotelo)を暗殺した。その犯罪首謀者は、社会主義指導者のインダレシオ・プリエトの護衛の1人であったルイス・クエンカ・エステバスであった。殺人犯は、共和国突撃警備隊のラ・モトリザダ旅団の一員であった。カルボ・ソテーロは、旅団所属のトラックで移動した分隊に捕獲されて、頭部で射殺して暗殺された。カルボ・ソテーロの暗殺は、前日7月12日の突撃警備隊のホセ・カスティーヨの暗殺に対する復讐であった。

 警察車両の乗員は東方墓地に行き、死体安置所のドア付近に、カルボ・ソテーロの死体を投げ込んだ。家族は警察に逮捕を報告して、7月14日朝7時頃から捜索を開始した。カルボ・ソテーロの死体は午前中に発見された。7月14日には、カルボ・ソテーロの葬儀が挙行された。その後の出来事は、暴力のスパイラルを助長した。突撃隊と呼ばれる都市警察の部隊と社会党(PSOE/UGT)の活動家の数名によるカルボ・ソテーロの殺害は、スペイン内戦の勃発に大きく影響した。

 カルボ・ソテーロの暗殺を起点に、クーデターが7月17日午後に、モロッコのメリリャ、セウタ、テトゥアンで守備隊が蜂起した。フランシスコ・フランコ(Francisco Franco)将軍は、カナリア諸島に左遷される予定だった。アフリカ軍の第19戦線のドラゴン・ラビードに乗り込んだ。フランコは7月19日にメリリャに革命本部を設置して、モロッコを拠点にスペイン本土に攻め上がった。7月18日から19日に、他の部隊が反乱を起こした。戦争状態を宣言して、権力の行使を主張し、左翼当局を逮捕あるいは暗殺した。7月20日にスペインは、2つに分割されて、29州が反乱を起こし、21州が共和党側に属した。フランコは、9月29日反乱軍の総司令官兼元首に選出された。翌10月1日には総統に就任した。革命政府の政綱の中で、全体主義に基づいて権威国家を建設する方針を打ち出した。




2023年1月17日  
Japan No War NGO  (JNWN)
日本平和市民連盟    
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2023年1月16日月曜日

1983年12月に、アルゼンチン当局が民主化後の数週間に、自治体職員や人権活動家たちは、各都市や多くの町の墓地で、軍事政権の軍隊による犠牲者たちの集団墓地を発見した。

1983年12月に、アルゼンチン当局が民主化後の数週間に、自治体職員や人権活動家たちは、各都市や多くの町の墓地で、軍事政権の軍隊による犠牲者たちの集団墓地を発見した。しかし、見つかった遺骨は、約1万1千人余りの犠牲者のごく一部に過ぎない。その大半は、プレート川河口や海上の飛行機やヘリコプターから投下された遺骨であった。

 汚い戦争(Dirty War)が、アルゼンチンの軍事政権または独裁政権は、1976年から1983年にかけて、コンドル作戦(Operation Condor)の一環としてアルゼンチンで勃発した。国家テロのために、軍と治安部隊、アルゼンチン反共連合(AAA)による右翼、死の部隊は、あらゆる政治亡命者や社会主義、左翼 ペロニスト、モントネロス運動と容疑者を追い詰めて虐殺と虐待した戦争である。アルゼンチン軍の独裁政権が呼称した用語である。

 コンドル作戦は、アメリカ合衆国が支援する政治弾圧・国家テロ作戦であった。アメリカが支援した政治弾圧と国家テロの作戦で、情報操作や反抗者の暗殺も含んだ。約9,000人から約30,000人が殺害または失踪したと推定された。多くは国家テロにより、正式に記録は不可能だった。コンドル作戦に参加した他の多くの南アメリカ諸国と同様に、主要標的は共産ゲリラや左翼共鳴者だった。学生、戦闘員、労働組合員、作家、ジャーナリスト、芸術家、ペロニストゲリラを含む左翼活動家、容疑者の市民も、コンドル作戦の標的となった。失踪者は、独裁政権には政治的や思想的な脅威の人々、新自由主義経済政策に反抗的な人々も含んだ。社会・政治的反対勢力を黙らせる独裁政権が殺害した。

 国家再編成プロセスにて、軍事独裁政権は1976年から1983年までアルゼンチンを支配して、1982年までアメリカから支援された。1976年3月26日にフアン・ペロン前大統領の未亡人のイサベル・ペロン大統領を失脚して、アルゼンチン軍が政治権力を掌握した。議会と民主主義は停止され、政党は禁止され、市民の権利は制限され、自由市場と規制緩和の政策が導入された。アルゼンチンの大統領と閣僚は軍人の中から任命されて、ペロン派と左派は迫害された。軍部は、拷問、超法規的殺人、組織的な強制失踪を伴う反対派に対する国家テロ作戦を執行した。汚い戦争が勃発して、犠牲者の多くは民間人であった。市民権侵害と経済危機の悪化による国民の反発は、1982年3月19日にフォークランド諸島への侵攻を引き起こした。3月19日から6月14日にイギリスとのフォークランド紛争が勃発した。アルゼンチンは敗北して撤退した後に、軍事政権は崩壊し始めた。1983年にラウル・アルフォンシン大統領が選出され、ついに軍事政権は解放された。



2023年1月15日日曜日

ドネツク州のバフムト周辺の前線に近いウクライナ軍の24時間体制の医療安定化センターに、2023年1月9日に負傷した兵士が搬送され、緊急手術するも戦傷が重態で死亡した。

ドネツク州のバフムト周辺の前線に近いウクライナ軍の24時間体制の医療安定化センターに、負傷した兵士が緊急治療のために搬送された。医療関係者は兵士を救うために、2023年1月9日に約30分間ほど緊急手術したが、戦傷が重すぎた。ウクライナ軍兵士は破片がヘルメットを貫通し、頭部を負傷していた。














Warning: Ukrainian military medics carry an injured Ukrainian serviceman evacuated from the battle field into a hospital in Donetsk region, Jan. 9 2023. The serviceman did not survive.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)

バフムト周辺の激戦地から、2023年1月9日に戦傷した重態のウクライナ軍兵士をドネツク州の病院に、ウクライナ軍の衛生兵は緊急搬送した。直後から、ウクライナ軍医らが戦場から転送された戦傷兵士に、点滴を確保して全身麻酔をして緊急手術をした。緊急治療をするも、ウクライナ軍人は死亡した。その後に、その戦死者の死体を担架に乗せて運搬して死後処置をした。











Warning: Ukrainian military doctors treat their injured comorade who was evacuated from the battlefield at the hospital in Donetsk region, Ukraine, Monday, Jan, 2023. The serviceman did not survive.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)

 

 ロシア・ウクライナ戦争にて、ロシア軍は、破壊されたドネツク州のバフムト周辺のウクライナ軍陣地に対する猛攻撃を加速した。ロシア軍によるウクライナ侵略の一部である東ウクライナの支配権をめぐる数カ月間の猛烈な戦闘で、死者と荒廃の新たな悲惨な段階に達した。2023年1月9日深夜に、ドネツク州のバフムト周辺と塩の採掘と加工の都市ソレダールの戦況をウクライナ当局は訴えた。すべてが完全に破壊された。生命はほとんど残っていないソレダール付近の土地全体が、ロシア軍兵士の死体や空爆の傷跡で覆われている。狂気の沙汰である。

 1月10日深夜に、ロシアの民間軍事会社であるワグネルの代表であるドミトリー・プリゴジンは、ロシアのソーシャルメディアに音声を投稿した。ワグネルが、ソレダールを制圧して、中心部で戦闘を続けたと主張した。ウクライナ軍当局はワグネルの主張には関与しなかった。イギリス国防省は、ロシア軍とワグネル民兵が一緒にソレダールまで侵攻し、大部分を支配したと公表した。バフムトの北約10kmにあるソレダールの奪取が、ロシア軍の当面の軍事目標となった。ウクライナ軍は防衛線を深く保持し、補給路を制御した。ワグネルはロシア軍の戦争の補欠から、主要な構成要素になった。ワグネル兵士が、ロシアの戦闘員の約4分の1も占めた。

 10カ月半前にウクライナを侵略したロシア軍は、何度も撤退に見舞われ、勝利に飢えている。ロシア軍は2022年9月にドネツクと他のウクライナの3つの州を不法に併合して、戦況は膠着した。2022年11月にウクライナ軍が南部の都市ケルソンを奪還した後に、バフムト周辺で戦闘が激化した。ロシア軍は、自軍兵士の死体の上を侵攻して、大砲、ロケットランチャー、迫撃砲を大量に使ってウクライナ軍を攻撃した。

2023年1月14日土曜日

広島逓信病院の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、病室前で撮影された。

広島原子爆弾が1945年8月6日土曜日午前8時15分に投下され炸裂して、広島逓信病院(広島市中区東白島町)の蜂谷道彦院長は、約300m離れた自宅で被爆した。ガラスなどの破片が身体に突き刺って血だらけになりながら病院へ駆けつけた。自ら被爆患者として治療を受けながら、被爆者治療の陣頭指揮を取った(ヒロシマ日記、法政大学出版会)。焼け落ちたヒロシマ逓信病院の病室前で、蜂谷道彦院長は撮影された。8月11日に抜糸して、蜂谷道彦院長はヒロシマ逓信病院内を動けるようになり、さっそく院内回診、被爆患者の病床録作りを始め、症状、臨床所見を記録するように指示した。

 1945年8月6日土曜日の朝、突然と周囲が明るくなり、強い光がすうすうと二度つづけて強い光が差し込んだ。右太腿に棒切れが突き立った。血が胸を伝って流れ出し、右首に刺さったガラスを引き抜いた。頸動脈の付近から血が吹き出した。頸動脈ならもう駄目と観念した。丸裸になって屋内から飛び出した。自宅が、土煙をたてて倒壊した。

 広島逓信病院に避難するも、右下肢が重く、喉がかわき、息切れがした。近くの街角で、兵隊からタオルを貰って腰に巻き、家内のエプロンを取って前にかれてふんどしにした。全身が血みどろになった。右大腿の肉の塊が引きちぎれて出血した。無我夢中に、薄明かりでコンクリート建て広島逓信病院に辿りついた。幽霊のような姿の被爆患者がうろうろしていた。周囲には無言の死体が散乱していた。玄関の待合には、無数の被爆患者が詰めかけた。無理やり担架に載せられて小遣い室の部屋に搬送された。

 静寂の凄惨が、俄然に一変して、現実が阿鼻叫喚となった。病院内が、戦場のように騒々しく唸った。熱風と火の粉が落ちて寝衣が炎上した。四階建ての広島逓信病院の窓から火が吹き出した。渦を巻いて風が一変した。道を隔てて向こうは火の海となった。広島逓信病院のコンクリートの鉄の窓が、焔の中で真赤に揺れた。見通しのきく北側や東側は見渡す限り焼け野原となった。8月6日夕暮れに硬い台上で、身体を次々と約30ヵ所縫合された。



2023年1月13日金曜日

太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれて荒涼たる瓦礫の中で、1945年5月に那覇市の路上で身体が不自由な老女が逃げ遅れて、アメリカ軍に射殺され倒れて死亡した。

太平洋戦争の沖縄戦に巻き込まれて荒涼たる瓦礫の中で、1945年5月に那覇市の路上でアメリカ軍に射殺され倒れて老女が死亡した。肢体が不自由なために逃げ遅れた老女は、那覇市にてアメリカ軍に射殺された。西海岸の那覇市から首里を経て東海岸の与那原に至るまで、高度に要塞化された日本軍の戦線は、数多くのアメリカ軍の攻撃を撃退していた。5月12日に、アメリカ軍は那覇市郊外に侵入し、家から家へと掃討しながら那覇市内に侵攻した。

 沖縄戦にて、1945年5月から日本軍の抵抗が激化しながら次第に崩壊した。アメリカ軍は沖縄南部の主要な人口密集地に向かって侵攻した。特に那覇市と首里で最も激しい抵抗に遭遇した。日本軍は非常に粘り強い戦闘で、アメリカ軍ならびに沖縄市民には多くの犠牲者を伴った。那覇と首里地域を日本軍は約60,000人で防衛して、5月1日までに日本軍は沖縄南部の約230平方kmに集結した。日本軍は沖縄の洞窟や亀甲墓などに潜伏して、アメリカ軍の大量砲撃の避難所となった。

 アメリカ軍は武器の優れた量と質に大きく依存した。日本軍の陣地に正面攻撃を行って、アメリカ軍は大砲の強力な砲撃の援護を受けて、日々波状に侵攻した。火炎放射器や 戦車が歩兵を率いて、日本軍が保有する洞窟を次々と破壊した。夜間の地上活動は哨戒活動と砲撃に限定された。日本人は捕虜として捕獲されることも、降伏を申し出ることも拒否した。沖縄での接近戦は野蛮であり、最後に死ぬまで執行された。

 沖縄戦の猛烈さは、首里への参道を守る要塞化された日本の陣地で勃発した。約40mのシュガーローフ(52高地)に5日間で3回戦闘した。そのたびに奪還と撤退を繰り返した。約6時間の間に、陸砲と海軍の砲弾が約30,000発の砲弾で丘を覆った。爆撃機がさらに大量の高性能爆薬を浴びせた。アメリカ軍は、日本軍の要塞を個別に破壊して、危険で多大な犠牲を伴った。52高地の片側だけでも、日本軍は地下拠点に約500の入口があり、開口部をダイナマイトで爆発した。52高地は5月16日にアメリカ軍に制圧された。首里は6月1日に陥落した。日本軍抵抗勢力は弱まらず、守備隊はしぶしぶ南端部に撤退した。日本軍の人員と資源は急速に枯渇して、6月中旬までに摩文仁の守備隊の大部分が戦死した。6月21日、主要な組織的戦闘は集結した。




2023年1月12日木曜日

アメリカ南北戦争の末期に、ピーターバーグにて1865年4月2日に、北軍が南軍のマホーン砦を襲撃した。多数の尖った杭が設置された塹壕の中で、南軍の兵士が殺害された。

アメリカ南北戦争の末期に、ピーターバーグにて1865年4月2日に、北軍が南軍のマホーン砦を襲撃した。塹壕の中で、南軍の兵士が殺害された。塹壕の壁上に、多数の尖った杭が設置されていた。南軍の反撃を食い止めるために、尖った杭は北軍が前線から運び入れて積み上げていた。 

 1865年4月2日の第3次ピーターバーグの戦い(Third Battle of Petersburg)は、包囲戦の最後の戦いとなった。北軍の勝利により、リー将軍はピーターバーグとリッチモンドから撤退を余儀なくされた。リッチモンドで4月3日に降伏した。リーの北バージニア軍は、疲労、病気、飢餓、脱走により致命傷を負った。約1週間も戦い続けて、アポマトックス・コートハウスの戦いで敗れて、ロバート・E・リーは1865年4月9日に、ユリシーズ・S・グラント将軍に降伏した。残存する南軍の降伏が始まり、アメリカ南北戦争が終結した。

 第3次ピーターバーグの戦いは、4月1日のファイブフォークスで南軍は敗北した。北軍は4月2日にピーターズバーグ戦線への総攻撃をした。一握りの南軍兵士によるグレッグ砦の悲惨な防衛により夜まで北軍はピーターズバーグに侵入できなかった。日没後に、南軍のリー将軍は、ピーターズバーグとリッチモンドからの南軍の全面退去を命じた。北軍は、主要な軍事目標の一つであるピーターズバーグ占領を達成して、南軍の首都であるリッチモンドを陥落させた。死傷者は北軍が約3,936人、南軍が約5,000人の犠牲を伴った。

 アメリカ史上最長期の包囲戦は、1864年6月にユリシーズ・S・グラント将軍がリッチモンドを守る南軍ロバート・E・リー軍に対する約6週間の正面攻撃を中止した。ピーターバーグに撤退した後から包囲戦が勃発した。南北戦争は長期戦に突入し、最終的にはリッチモンド郊外からピーターズバーグ郊外までの約48Kmに及ぶ塹壕が掘られた。包囲戦は約9ヵ月半も続き、北軍と南軍との間で約12の主要な戦闘が勃発した。兵士たちは塹壕を掘り続け、長い包囲戦の間に、人命を犠牲にしても、ほとんど戦術的目標を達成できない戦闘が繰り返された。ピーターバーグの戦いは、まるで第一次世界大戦の塹壕戦を予見していた。




2023年1月11日水曜日

日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士は、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

中国東北部の奉天郊外の柳条湖にて、日本の関東軍が南満州鉄道を爆破した満州事変(9・18事件)が1931年9月18日に勃発した。1934年3月9日には農民が武装蜂起した土竜山事件などから関東軍が抗日ゲリラを武装討伐をした。日本軍はトラックで満州の抗日ゲリラを追って、中国東北部の三江平原を横断した。中国人の抗日ゲリラを殺害した日本軍兵士らは、死体の周囲に並んで誇らしげに記念撮影をした。

 9・18事変後に、日本軍は中国東北の白山黒水地域などを侵略した。中国人住民を弾圧して、住民は生活の糧を挫いて、三江平原の中国人は義憤を抱いた。1934年3月9日に、土龍山地区の農民約700人が暴動を起こして、土竜山事件が勃発した。農民武装部隊は警察署を占拠し、傀儡商人の武装団体を没収して、満洲の日本軍兵士の約19人を戦死した。農民武装部隊は、翌日の3月10日には、土龍山西白家溝にて、依蘭から鎮圧に赴いた日本軍を待ち伏せて攻撃した。関東軍兵士ら約45人、満洲国軍の約3人を射殺した。土竜山事件は、国内外に広く知られ、関東軍は3月末に撤退した。

 土竜山事件は、依蘭事件(事変)または謝文東事件とも呼称された。1934年1月に、関東軍は日本人武装移民を入植させ、依蘭・樺川・勃利各県など6県で、可耕地の大規模な強制買収を始めた。強制買収に抗して、地券を出し渋る農民を弾圧した。土竜山の謝文東を総司令として、東北民衆軍を編成して武装蜂起した。総数約6,700人もの大軍の抗日ゲリラとなった。3月9日、東北民衆軍の農民は日本人移民団を包囲し、警察も武装解除させた。

 翌3月10日に日本軍約19名が戦死した。3月末に、土竜山区から撤兵した関東軍は、威嚇と利益誘導、大群で包囲攻撃をする二面作戦から、農民民衆軍を孤立、分化、瓦解させた。7月下旬には民衆軍は約800人まで縮小した。日本の満州移民政策を見直させて、満州の抗日統一戦線の契機になった。1935年7月に満州国政府が、土竜山事件を受けて、日本人移民の政策実施に参与した。

 土竜山事件後に、満州国政府は買収工作、関東軍は武装討伐を行った。1936年9月に、謝らは中国共産党系の東北抗日連軍に合流して第8軍を編成した。1939年3月に、謝らは関東軍の赦免状により、日本軍に謝罪し帰順した。終戦後は国民党に就いて国民党軍中将として中国共産党軍と対決した。1946年末に逮捕されて、漢奸匪賊として依蘭にて斬首刑に処せられた。






2023年1月10日火曜日

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。ブナ、ゴナ、サナンダ分岐点の日本軍は、数百の塹壕壕と深く整備された機関銃で構築された。日本軍兵士には食料が欠乏して、日本軍は死者の埋葬を管理する気力も能力も低下した。ブナ地域の多数の日本軍兵士の死体が放置されていた。

 パプア・ニューギニア島の北部の海岸平野にあるブナは、日本軍がココダ・トレイルに沿って進攻する際の主要な拠点であった。ブナ地域に日本軍が最初に上陸したのは、1941年7月21日にブナの東にあるゴナで、その後にブナは日本軍歩兵部隊に占拠された。8月21日にブナで大規模な上陸が行われた。日本軍の存在は、ブナで基地を構築する連合国自身の計画を妨げた。ブナ地域は西から東に、ブナ村、ブナ政府基地、そして数km東にある2つの滑走路に囲まれた。

 ブナで大きな戦闘が起こったのは、日本軍がココダ・トレイルに沿って侵攻して、後退した後であった。アメリカ軍は1942年11月16日にまずブナに迫り、南からブナ村に向かって攻撃し、別の1つが東から滑走路に向かって侵攻した。日本軍の要塞化された壕を前にほとんど頓挫した。オーストラリア軍が、12月中旬にミルンベイから移動してアメリカ軍を援護した。当時はブナ村は日本軍に占領されたが、日本軍は飛行場と政府庁舎周辺に鎮座した。オーストラリア軍の最初の攻撃は、12月18日朝に飛行場周辺へ攻撃した。日本軍の塹壕を一つ一つ破壊して掃討した。連合軍は12月23日までに飛行場と海岸の間の地域の掃討を達成した。

 オーストラリア軍は、12月24日から29日に日本軍の抵抗の中心である旧地区のブナ西端周辺の陣地を攻撃した。最小限の砲兵支援のみで、日本軍の塹壕を侵攻して、不十分な攻撃に振り回され、大きな犠牲を伴った。1943年1月1日朝に攻撃し、日没までに日本軍陣地の大部分を破壊した。アメリカ軍はブナ村から東に攻撃し、ブナ政府局を確保し、1月2日に旧地区から西を占領した。1月22日に日本軍の組織的抵抗は終結した。ブナでの戦闘で連合軍は約2,870名の死傷者を出した。初めてアメリカ国民はアメリカ軍の死体の映像に直面した。日本軍の死者は約1,400人近くに上ったが、破壊された壕の中で死亡したり、生き埋めになり、日本軍の死者数はもっと多かったと想定された。




2023年1月9日月曜日

シリア内戦において首都ダマスカスの郊外のザマルカにて、2012年9月17日にアサド政権のシリア政府軍の爆撃で瀕死の重症を追った子どもが緊急の手当を受けた。

シリア内戦において首都ダマスカスの郊外のザマルカ(Zamalka)にて、2012年9月17日にアサド政権のシリア政府軍が爆撃した。多数のシリア人の住民が死傷した。爆撃で瀕死の重症を追った子どもが緊急の手当を受けた。両足の下腿が粉砕して、一部が切断されていた。政府軍は、地上軍がゲリラ攻撃を受ける反体制派が潜伏する都市部に、重火器による無差別攻撃、戦闘機による爆撃をして、甚大なる一般市民の犠牲が発生した。

 2011年3月15日に、チュニジア、エジプト、リビアで成功した「アラブの春(Arab Spring)」の 反乱に触発されたデモ参加者が、シリアに結集して、自国の抑圧的な政権の終結を訴えた。民衆の反乱や武装蜂起に直面して、シリアのアサド大統領は、最初の抗議行動の数日後に、シリア軍兵士がデモ隊に発砲して、数十人が死亡した。内務省総合治安局(アムン)と警察機動隊がデモ隊に実弾で弾圧した。政権派の民兵(シャビーハ)が一般市民に無差別の虐殺を執行した。シリア内戦は、アサド大統領と反乱軍が対立しただけでなく、アメリカ、イラン、ロシア、トルコなどを複雑な代理戦争を巻き込んだ。その過程で、民族や宗派の対立が生まれ、過激派武装組織「イスラム国」の台頭を促して、数百万人のシリア市民が避難し、ほとんどは民間市民の数十万人の死者が出た。シリア人権監視団は、シリア内戦の戦闘を避けて約1,200万人以上超が国外に流出し、うち約660万人は難民となり、死者は約60万人を超えた。

 シリア内戦が勃発した2011年3月から2012年月19日までに、シリアでは約28,000人以上が殺害された。内訳は、シリア政府軍兵士が約7,095人、反体制派兵士が約1,148人、非戦闘員の一般市民が20,755人が殺害された。政府軍の圧倒的な武力に対して、反体制派が都市ゲリラ戦で対抗して、都市部では攻防を繰り返した。シリア政府軍の装備は、旧ソ連・ロシア製であり、地中海のシリアのタルトゥース港がロシア海軍には唯一の拠点である。ロシア軍は、2015年9月から反対派軍に対して、空爆と地上作戦を実施した。2016年9月からロシア・シリア政府軍は、反政府派が支配するアレッポ東部を襲撃して、2016年12月にアレッポの反政府派は崩壊した。




2023年1月8日日曜日

2022年12月31日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。

20221231日に、ウクライナのキエフでロシア軍のミサイル攻撃により母親が死亡した。その遺体の横で悲嘆にくれる夫と、母親の死体の近くに立った息子が慟哭した。ロシア軍の複数の爆撃が、首都キエフと地域の住宅地を襲った。ロシアは1231日午後に、ウクライナ上空に約20発の巡航ミサイルを発射した。撃墜できなかった約8発の巡航ミサイルが爆発した。首都キエフのソロミアンスキー地区の複数階建ての住宅でも起った。多くの都市で住宅地、ホテル、道路、車庫も攻撃を受けた。少なくとも1人が死亡、約14人が負傷し、ロシアの攻撃が新年の2023年を前に加速した。




















Warning: A husband reacts next to the body of his wife, besides her son crying to his mother, who was killed during a Russian attack in Kyiv, Ukraine, Saturday, Dec. 31, 2022. (AP Photo/Roman Hrytsyna)

 

   ロシア軍は意図的に市民を標的にし、恐怖の情勢を作り出した。ロシア軍が1229日にエネルギー関連施設に損害を与えるミサイル攻撃してわずか約36時間後に無差別に爆撃した。ロシア軍は10月以降に、ほぼ毎週ウクライナの電力と水の供給源に空爆を行った。ロシア軍は電力供給を損傷して、何百万人ものウクライナ市民は電力不足となり、ウクライナには夜間外出禁止令が出され、時計が新年を迎えた。

 南部の州都ヘルソンの一部でも夜間砲撃があり、1人が死亡、小児病院が損傷した。ロシア軍がヘルソン市を二分するドニエプル川を越えて撤退した後、11月9日にロシア軍が全面撤退して、ウクライナ軍がヘルソンを奪還した。1231日夜、小児病院を砲弾が襲った時に、近くの村で重傷を負った13歳の少年を手術中であった。直後に約99km離れたミコライフの病院に移管された。東部の町クメルヌィツキーで、1231日のロケット弾攻撃で、22歳の女性が死亡した。

 ゼレンスキー大統領は、1231日にロシア国民に向けてロシア語で演説して、「ロシアは、プーチン大統領の権力を死ぬまで維持するために戦争を仕掛けている」と述べた。

 ロシアの国防省は、東部ドネツク州のマキイウカ(Makiivka)の支配地域で、12月31日にロシア軍兵舎がウクライナ軍のハイマース攻撃を4発を受けた。異例の軍人約63人から約89人が死亡したと発表した。兵舎には当時約600人がいて、携帯電話を使用して特定されて、保管した弾薬の爆発などから犠牲が拡大した。

2023年1月7日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して約23人が即死、旧福屋1階の東消防署は全焼して約24人が即死して、消防機能は全廃となり、広島市内から多数の黒い煙の火炎が市内から立ち昇った。

広島原子爆弾が炸裂した直後に、木造3階建の西消防署は瞬間に崩壊して、直後から発生した火炎によって、全てが焼失して灰塵に帰した。爆心地から南南東約2.6kmにあった西消防署庁舎の建物は、1945年4月に設置された木造3階建ての新庁舎は崩壊した。焼跡中央部に見えるのは、無残にも焼けただれたはしご車である。西消防署の倒壊から炎上によって、西消防署の署員の約23人が即死して、その後に約34人が原爆死した。消防車は約8台が焼失した。



 東消防署は、広島原子爆弾に被爆した直後に、爆心地から東に約700mの旧福屋内の耐火性の建物内は全焼して、建物の構造は留めた。被爆によって、署員の約24人が即死して、約16人がその後に原爆死した。消防車は約7台が焼失した。消防車は無残にも焼き焦げた。すべてのタイヤは、焼失していた。東消防署の消防機能は、全く停止して、消防活動も不可となった。



 広島市の消防の本拠地として、大手町に西消防署、八丁堀の旧福屋1階に東消防署があった。甚大なる建造物の崩壊、火炎、火傷などが瞬時に同期した。本拠地の消防機能は焼失して、火炎が各地で散乱した。特に壊滅的な被害は、爆心地に近い西消防署と東消防署に及んだ。1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した広島原子爆弾の閃光に続いて激烈な爆風が通過して直後に、広島市内から黒い煙の多数の火炎が市内から立ち昇った。午前10時から午後2時までが、火炎が最も強力であった。夕方から火炎は萎縮するも、その後も約3日間燃え続けた。

 広島市の比治山には、殉職消防組員之碑が建立されている。この碑は、被爆以前には、水主町武徳殿に設置されていた。原子爆弾によって三つに割れた碑を、1950年11月に修復して比治山に移管され、約785柱が合祀された。

2023年1月6日金曜日

イラク戦争にて、ファルージャにてテロとの戦いで、イラク人テロリストが殺害された。多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、イラク軍政府軍兵士はテロリストのイラク人に襲撃された。

イラク戦争にて、イラク中部の都市ファルージャにおけるテロとの戦いにて、イラク人のテロリストが殺害された。4人のイラク住民らが、テロリストの死体を運搬させられた。死体は、収納する運搬袋に封入した手提げ袋を4人のイラク住民らが搬送した。死後に数日も経過して、死体からの悪臭が漂って、4人のイラク住民はマスクを装着して防臭した。



 テロとの戦いにて、広大な戦場から、都市部の戦闘に移行した。都市部における軍事作戦に戦闘の形態が変遷した。都市部の場合は、一般市民や住民も戦闘に巻き込まれた。非戦闘員が武装民兵組織に所属したり、自らの地域や民族を防衛するために民兵に変身した。地の理を生かして、都市部の障害物を活用して徹底抗戦した。都市部では、複雑な迷路となり、視界も遮り、武器の使用も制限された。大量の武力でも、各建物をそれぞれに掃討する必要がある。民間人が居住する地域には、戦争犯罪の防止から、爆撃や砲撃などを無差別に侵攻することが国際法で制限されている。

 2003年3月20日に勃発したイラク戦争では、逆に反政府テロリストやゲリラは、国際法を無視して、戦争犯罪の攻撃も執行した。イラク政府軍だけでなく、アメリカ軍を含む多国籍軍も、攻撃対象となった。イラク政府軍に敵対する勢力は、テロリストよりも、暴徒が主体であった。多国籍軍主導のイラク政府の運営に対して、不平と不満が高まって非協力となり、反対勢力に支持が高まった。さらに、国外からテロリストがイラクに侵入して、都市部の戦闘は混迷を極めた。

 報道機関が、民間人の犠牲者や崩壊した建物を公表すれば、逆に反対派勢力に同上が集まった。圧倒的な武力を保持する多国籍軍は、非難の対象となる。都市の郊外のゲリラには、地域の作戦範囲が広大となり、戦闘期間も長期化した。治安維持と軍事作戦の境界が曖昧となり、暴徒だけでなく多くの民間人が巻き込まれた。自爆テロリストは、事前に察知できなければ、あたかも民間人として接近して、直後に自爆攻撃を挙行する。

 ファルージャでのテロとの戦いにて、イラク政府軍兵士は、多国籍軍がイラク市民に救助物資を支給している時に、突如としてテロリストのイラク人に襲撃された。この襲撃で、多国籍軍兵士の1人が殺害されて、約40人が戦傷して、民間イラク人は約8人が殺害された。襲撃されて瀕死のイラク政府軍の兵士は、アメリカ軍の衛生兵から救護する手当を受けた。



2023年1月5日木曜日

アメリカ軍兵士はマーシャル諸島のクェゼリン島で、1944年2月3日に最後まで残存した日本軍兵士を掃討した。激しい戦闘の後に、海岸線上に殺害された日本軍兵士の死体を検分しながら、侵攻した。

アメリカ軍兵士はマーシャル諸島のクェゼリン(Kwajalein)島で、1944年2月3日に最後まで残存した日本軍兵士を掃討した。クェゼリン島で激しい戦闘の後に、海岸線上に殺害された日本軍兵士の死体を検分しながら、侵攻した。戦闘はますます激しくなり、日本軍は地形の不安定さを活用して、残存した迫撃砲や大砲を集中的に撃った。アメリカ軍の砲撃による惨状にも関わらず、まだ多くの隠れ場所から巧みに陣地を隠した。アメリカ軍は火炎放射器や手榴弾から重火器を使用して十分に破壊した。日本軍の将校は、むき出しのサーベルだけでアメリカ軍の戦車に突撃して殺害された。夕暮れ時に、日本軍の小銃兵が、椰子の枝を身体の前に持ってアメリカ軍の陣地に侵入して殺害された。火炎放射器を持ったアメリカ軍兵士が要塞に近づくと、戸口から反撃する日本軍将校が飛び出しながら消火器を噴射するも、足元で焼け死んだ。

 太平洋戦争にて、アメリカ軍は1944年1月30日に、約2カ月間の大規模な空襲と海襲の後に、水陸両用攻撃部隊の約8万5000人と軍艦約300隻がマーシャル諸島に迫った。2月1日に、アメリカ軍はクェゼリン島に上陸し、北に約72km離れたロイ島とナムール島の2つの島に上陸した。上陸した初日にロイ島を占領し、ナムール島は2日目の正午までに陥落した。クェゼリン島の戦いはさらに難しく、2月4日に安全が確認される3日間、日本軍を攻撃し続けた。日本軍の海岸線防衛戦から深く縦深防備戦が準備され、ペリリュー島、グアム島、マリアナ諸島などの戦いは、アメリカ軍にとってはるかに大きな犠牲を強いられた。 

 クウェゼリン島の日本軍は最初から約4万人以上のアメリカ軍に多勢に無勢であったが、最後に全滅するまで戦い抜くことを選択した。ロイ島とナムール島での日本軍の死者は約3,500人以上、捕虜は約200人、アメリカ軍の死者は約200人以下、戦傷者は約500人であった。クェゼリン島では、約5,000人近い日本軍兵士が死亡し、捕虜はほんの一握りで、アメリカ軍は戦死者は約177人、戦傷者は約1,000人まで及んだ。

 アメリカ軍の犠牲は、第二次世界大戦の過去4年間の戦闘で、約107万524人の死傷者を出した。そのうち約261,608人が死亡し、約32,811人が行方不明、約数十万人が負傷した。第二次世界大戦で使われた戦闘機よりも破壊力のあるロケット・ミサイルの方が、戦争の惨禍をもたらすのか、それとも平和を手に入るのだろうか?もし近くに核兵器が炸裂したらどうなるのだろうか?悲惨な光景が目に浮かぶ。戦場では、死、苦悩、破壊が戦争の代償である。戦争の犠牲をなくすことが、国連安全保障理事会の大きな役割である。




2023年1月4日水曜日

特攻隊員の若者が、知覧特攻基地から戦友の遺骨とともに、アメリカ軍の軍艦に自爆するために戦闘機に飛び去った。遺骨を、軍艦を自爆攻撃で瞬時に沈没する轟沈と記した手拭いで縛った。

特攻隊員の若者が、知覧特攻基地から戦友の遺骨とともに、アメリカ軍の軍艦に体当たりして、自爆するために戦闘機に飛び去った。遺骨袋を、アメリカ軍の艦船を自爆攻撃で瞬時に沈没する轟沈と記した手拭いで縛った。



 1945年3月25日に、アメリカ軍はついに沖縄戦の緒戦である慶良間列島に上陸した。日本軍大本営は局面を打開するために、フィリピンのレイテ沖作戦に1944年10月21日から挙行した特別攻撃隊(特攻)を激化を強行した。まず沖縄列島に最も近距離で最南端である鹿児島の大隅半島にあった知覧飛行場が特攻本部に選定された。沖縄戦の最前線の陸軍特攻基地となり、日本各地から特攻隊員が結集した。約15歳から約22歳までの青年で構成された。その他に少年飛行兵や学徒出身の特別操縦見習士官も参戦した。

 神風戦闘機の胴体の下に、約250kgから約500kgの爆弾を装着した。沖縄までの片道だけの燃料で、知覧基地を離陸して、その後に特攻すれば二度と復帰しなかった。陸軍の最後の知覧特攻基地から出撃した特攻隊員は、薩摩半島の最南端に位置する薩摩富士と呼称する約922mの開聞岳を展望して飛び去った。知覧基地から沖縄の戦場まで、約650kmを約120分から約140分で到達した。1945年8月13日まで特攻が厳命された。

 知覧基地から特攻した戦死者は、約436人に及んだ。その他に、知覧基地には、特攻本部が設置された。知覧基地から、各地の飛行場に特攻の出撃命令が下った。万世から約121人、都城から約83人、台湾から約134人、熊本から約127人、鹿屋から約12人、太刀洗から約14人などの特攻隊員が、知覧基地からの命令で自死して玉砕した。

 特攻の戦果は不詳である。アメリカ軍側の損害は、軍艦(航空母艦・巡洋艦含)は約32隻沈没、輸送船は約75隻沈没、艦船の損傷は約223隻、戦死者は約12,260人、戦傷者は約33,769人に及んだ(クロンステル『空戦』)。レイテ沖作戦から挙行した特攻作戦において、海軍は約2,535人、陸軍は約1,844人が戦死した。特攻作戦に参戦した約3,461機体のうち、約132機体が命中して、約122機体が至近弾で爆破した(『知覧特別攻撃隊』, ジャプラン,1989年4月25日)。













Warning: U.S. aircraft carrier USS Bunker Hill CV-17 on May 11, 1945. Photograph taken after the attack by two Japanese pilots on her flight deck Pacific Front.

2023年1月3日火曜日

1933年3月3日から6月末に、ナチス・ドイツによる約500人以上の殺人があった。民間人女性のグレーテ・メッシングは3月6日、男性のハインツ・べスラーは4月4日に虐殺された。

ナチス・ドイツによって殺害された労働者と知識人のリストを抜粋した。1933年3月3日から6月末までに、ナチス・ドイツによって執行された約500人以上の殺人に関する明確な情報源がある。その情報源は、ドイツの公式発表、否定されない報道、認証された目撃者の報告に基づく。殺人の総数のほんの一部であり、大部分は、ナチス・ドイツによる厳しい検閲から、親族、友人、目撃者に対する脅迫によって隠蔽された。

 ナチス・ドイツは、国家社会主義ドイツ労働者党(ナチ党)政権下の、1933年1月30日にヒトラーが首相に任命されて、1945年5月まで全体主義国家と化した。1939年9月1日にポーランド侵攻がイギリス・フランスの宣戦を招き、第二次世界大戦が勃発した。ソ連赤軍によるベルリンの戦いを目前にヒトラーが1945年4月30日に自殺した。1945年5月7日に連合国軍に敗北して中央政府の不在が宣言され、解体されて滅亡した。

 既婚で2人の子供がいて働く女性のグレーテ・メッシング(Grete Messing)は、1933年3月6日の午後6時頃に、バイエルン州セルブのゾンマーミュール通りに、家を出て買物に町の方へ行った。自宅から約40mほど離れた地点で、同じ通りに住む国家社会主義ドイツ労働者(ナチ)党員の男性ラガーに出会った。彼は彼女の前に出て、「ハイル・ヒトラー!」と挑発した。メッシング夫人は押返して復帰し、彼を追い越そうとした。ラガーは彼女を呼び止め「拳銃で、お前を撃ち殺すぞ!」と脅した。彼女は冷静に「撃ってしまえ!」と答えた。

 ラガーは拳銃を彼女の喉元に当て、引き金を引いた。メッシング夫人は致命傷を負った。彼女の夫は彼女を自宅まで運び出血多量で死んだ。犯人のラガーはナチの宿屋に行き酒を飲んだ後に、特別警察に出頭して、ラガーは逮捕された。約10日後に、ラガーは警察署から釈放された。セルブの駅で儀仗兵がラガーを出迎えた。ラガーはナチス突撃隊から追放されなかった。一方、殺害された女性の夫と19歳の息子は、バイロイトの刑務所に 保護拘束された。警察と特別警察は、ゼルブの労働者階級の家々で繰り返し捜索を行って、犯人でも殺人犯でもなく、殺人の証拠となる写真を探して検閲した。



 ハインツ・べスラー(Heinz Bässler)は、1933年4月4日にデュッセルドルフにて、ナチから逃走中に射殺された。射殺されたウィルヘルム・ドリュース社のベルリンの労働者のハインツが発見された (ベルリン・ターゲブラット新聞)。ベスラーは元ナチス党員で、突撃隊のリーダーであった。1930年12月頃にナチスの真実を理解し始めて、ナチを離党し、後に共産党に入党した。

 4月4日朝4時頃に、7人の保護隊員と2人の刑事によって、ハインツは服を着て連行された。彼らは午前3時には通りを封鎖し、戒厳令下でハインツを拳銃で連行して、通りで射殺した。ハインツの心臓に3発、腕に1発、首に1発、骨盤に1発、その他にも2発、全部で8発撃たれた。死体は放置され、農民たちが死体を見つけた。棺桶の上で、残酷に扱われたハインツがいた。新聞には、ハインツは逃走して射撃された、弾薬2つ発見されたなど嘘の偽ニュースが書かれた。戦争犯罪に圧倒されて、何も信じられず、卑劣で残忍を執行した。ハインツの葬儀は4月7日午後1時半から、南墓地に聖職者によって埋葬された。



2023年1月2日月曜日

六日間戦争(第三次中東戦争)で圧勝したイスラエルのモサド(イスラエル諜報特務庁)のスパイであったエリ・コーエンに、1965年5月18日にシリアで絞首刑が執行された。

1965年5月18日にイスラエルのモサド(イスラエル諜報特務庁)のスパイであったエリ・コーエン(Eli Cohen)に、シリアで絞首刑が執行された。コーエンは、1961年から1965年にかけて、イスラエル軍にシリアの膨大な量と幅広い情報データを提供した。コーエンのシリア要塞の植樹の秘密情報などにより、イスラエル軍は約2日間で、シリアのゴラン高原を占領できた。 

 1965年1月24日に、シリア治安部隊がコーエンを逮捕した。軍事裁判でスパイ行為で有罪となり、戒厳令下で死刑を宣告された。国際恩赦キャンペーンが巻き上がるも、40歳のコーエンは1965年5月18日に、シリアの首都ダマスカスのマルジェ広場で公開処刑された。死刑執行後、反シオニストの文字が書かれた白い羊皮紙が彼の体に貼られ、6時間吊るされたままだった。死後は、イスラエルの国家的英雄となった。

 第三次中東戦争(6日間戦争)は、1967年6月5日から6月10日にイスラエル軍と アラブ諸国(主にエジプト、シリア、ヨルダン)の連合との戦争である。アラブ軍側は約2万人以上が戦死して、イスラエル軍は約1,000人未満の戦死であった。イスラエル軍は、ゴラン高原・ヨルダン川西岸、市内半島、ガザ地区を占領した。コーエンのシリア要塞の植樹の秘密情報などにより、イスラエル軍は約2日間で、シリアのゴラン高原を占領できた。

 六日間戦争は、イスラエル国防軍が先制空爆を行って、エジプトとその同盟国の空軍は機能不全に陥った。その直後に、イスラエル軍は地上攻撃で圧倒して、エジプトからシナイ半島とガザ地区を、ヨルダンからヨルダン川西岸と東エルサレムを、シリアからゴラン高原を奪還した。六日間戦争は国連の仲介により停戦で一時停止した。中東の地図を大きく変わり、地政学的な摩擦が勃発した。イスラエル軍は約766人から983人が戦死して、約4,517人戦傷して、約15人が逮捕された。エジプト軍は約9,800人から15,000人が死亡あるいは行方不明、ヨルダン軍は約696人から約700人が戦死して、約2,500人が戦傷、シリア軍は約1,000人から約2,500人が戦死した。 




2023年1月1日日曜日

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年4月18日にウクライナのマリウポリで、ロシアの分離主義勢力が支配する地域のイリチ鉄鋼工場冶金工場のトンネルでビニール袋に入れてウクライナ軍兵士の死体が散乱した。

ロシア・ウクライナ戦争にて、2022年4月18日にウクライナのマリウポリで、ロシアに支援された分離主義勢力が支配する地域にあるウクライナで2番目に大きい冶金企業であるイリチ(Illich)鉄鋼工場冶金工場が戦場となった。その一部にあるトンネルで、ビニール袋に入れてウクライナ軍兵士の死体が散乱した。4月13日からロシア軍がイリチ工場を襲撃した。ドネツク州の親ロシア派のドネツク人民共和国の民兵たちは、その死体群を検分した。アゾフ海の戦略的な港であるマリウポルは、ロシア軍とウクライナ東部の分離主義地域の軍によって6週間以上に包囲された。4月18日から、ウクライナのマリウポルでロシアに支援された分離主義勢力の支配地域で、激しい戦闘により冶金コンビナートのアゾフスタリ地区のイリッチ製鉄所の冶金工場が破壊されて、車両が損傷して燃えた。 

 人口が戦前に約43万人だったマリウポリは、食料、水、暖房、医薬品が欠乏い状態で、10万人以上が閉じ込めらた。マリウポリ市長室の顧問は、アゾフスタリ(Azovstal)製鉄所に約2,000人のアゾフ大隊のウクライナ人兵士、負傷した兵士5約00人とともに、約1000人の民間人も閉じ込めらた。特に女性と子供は、水、食料、新鮮な空気がない状況にあった。ロシア軍の約2ヶ月に及ぶ致命的な砲撃により、マリウポルは煙の立ち込める廃墟と化した。負傷したウクライナ人兵士は、適切な治療を受けられず、苦しみながら戦死した。ウラジーミル・プーチン大統領は4月20日に、マリウポリでの戦いに勝利して占領したと主張した。アゾフスタル製鉄工場からハエ一匹通さないように、アゾフスタリ製鉄工場を封鎖するように指示した。ロシア軍は戦闘に巻き込まれて死亡したマリウポルの住民を埋葬するために、約9,000体の死体を埋葬した約200以上の新しい墓を周辺に増設したとウクライナ当局は主張した。

 国連と国際赤十字が、4月30日より、製鉄所から民間人が避難した。5月18日からロシア国防相は5月16日から、ロシア軍が包囲を続けてきたウクライナ東部の要衝マリウポリのアゾフスタリ製鉄所から、5月20日までにウクライナ側から合わせて約2439人が投降したとロシア国防相は公表した。アゾフスタリ製鉄所は1933年からソ連が製鋼し、1941年ドイツ軍が占領して停止し、1443年9月に開放されて再建された。





















Warning: Servicemen of the Donetsk People's Republic militia look at bodies of Ukrainian soldiers placed in plastic bags in a tunnel, part of the Illich Iron & Steel Works Metallurgical Plant, the second largest metallurgical enterprise in Ukraine, in an area controlled by Russian-backed separatist forces in Mariupol, Ukraine, April 18, 2022.(ABCnews, April 29, 2022, Alexei Alexandrov/AP)