2023年1月23日月曜日

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された人民解放戦線である2人の兄の死体を見守り慟哭した。

1988年に、スリランカのアグナコラパラッサで、小学生がスリランカ政府軍の治安部隊に殺害された2人の兄の死体を見守り慟哭した。2人の兄は、人民解放戦線(Janatha Vimukthi Peramuna, JVP)兵士であり、スリランカ政府軍に殺害された死体には、無残な拷問の傷跡が残存した。

 スリランカでは1987年4月15日から1989年12月29日まで勃発したJVP反乱(1987–1989 JVP insurrection)は、マルクス・レーニン主義によるスリランカ政府に対する武装反乱であった。1987年から1989年の暴動は、1971年のJVPの暴動と同様に、失敗した。JVP反乱軍は、破壊活動、暗殺、襲撃、軍や民間の標的へ攻撃した。スリランカ政府軍は、JVP反乱軍を鎮圧する作戦で対応した。約41,813人が死亡あるいは行方不明となった。JVP反乱軍は約6,577人を殺害して、スリランカ政府軍は約34,014人を殺害した。

 JVPの軍事部門であった反乱ゲリラ部隊は、1988年に頂点に達し、すべての民間人のスリランカ市民にまで被害を及ぼした。親政府系のゲリラによる市民への攻撃が、スリランカ内戦の停戦からインド平和維持軍の追放後に、すぐにスリランカ政府軍による大量殺戮が勃発した。多くのスリランカ市民と複数のインド人駐在員が殺害された。インド平和維持軍(IPKF)が、1987年から1990年に、スリランカ内戦の民族紛争に介入して撤退した。

 JVPは、敵であったスリランカ自由党(SLFP)から支援を受けた。しかし、JVPとタミール・イーラム解放の虎(LTTE)が公然と拒否した地方選挙にSLFPが参加したので、同盟は決裂した。スリランカ政府は1987年、JVPとSLFPに選挙参加を期待して禁止令を解除したが、結局失敗に終わった。約2年以上にわたり、若者や労働者の集団武装化、大量処刑、レイプ、襲撃が見られた。反JVP民兵も、左翼の人民革命赤軍(PRRA)を含めて暴力を引き起こした。LTTEが主にスリランカ北部を拠点にして、JVPは南部のジャングル地帯を拠点とした。

 1989年、スリランカ政府軍はコンバイン作戦(Ops Combine)を開始した。JVPの軍事部門であるDJVの暴動が激化した。DJVは、トリンコマリーのLTTE占領地域でも、スリランカ政府軍とIPKFに対抗して攻撃した。DJVは、タミル人武装勢力から支援を受けた。多くの小さな反政府組織の武装闘争を、DJVは1989年12月に断念した。スリランカ政府側だけでなく、反政府勢力であるLTTEが、多くの市民を虐殺した。約2,000人以上の市民を捕獲して、約30人以上を処刑した。