2023年12月31日日曜日

イスラエルにて、2023年10月7日朝にガザ地区近郊のノヴァ・フェスティバルの砂漠の音楽祭で、イスラム・テロ組織ハマスがイスラエルのパーティー参加者に発砲して、大量虐殺した。救助隊により音楽祭会場で、少なくとも260人の死体が発見された。

イスラエルにて、2023年10月7日早朝にガザ地区近郊のノヴァ・フェスティバルの砂漠の音楽祭で、イスラム・テロ組織ハマスがイスラエルのパーティー参加者に発砲して、大量虐殺した。2023年10月8日に救助隊により音楽祭会場で、少なくとも260人の遺体が発見された。民間イスラエル人を中心に約1,200人が死亡した10月7日に、約4,400人がイベントに参加していた。救急隊員は現場を大虐殺と呼称した。ガザ地区からの殺人的な大量テロ攻撃によってイスラエルに強要された戦争は、10月7日午前6時頃に勃発した。ガザとイスラエルの国境に近い農村地帯で開催されたフェスティバルで、ハマスの武装集団が逃げ惑う参加者に発砲し、他の参加者を人質に取った。

 ハマスが最初に狙ったのは、ガザ地区からわずか5kmしか離れていないキブツ・ベエリ近郊で開催されたノヴァ音楽祭だった。10月7日夜明けに空襲警報のサイレンが鳴り響き、国際的なフェスティバルの参加者たちは恐怖に怯えて初めて異変に気づいた。その後、ハマスのテロリストたちは電気を止め、ロケット弾を発射し、会場に乗り入れたジープから発砲した。参加者の集団は、イスラエルの防御を突破して、パラグライダーやバイクでフェスティバルを襲撃し、虐殺し、参加者を人質にとった。10月7日は、ユダヤ教徒にとり贖罪のヨム・キプールでもあった。

 ハマスがイスラエル国内の町々で暴動を起こして、民間人の男性、女性、子どもたち、約700人を殺害し、さらに数百人のイスラエル人の人質を拉致した。警察は、ハマスのテロによる死者数を270人から、警察官17人を含む364人に修正した。誘拐された音楽祭の参加者の数は40人であった。1987年に発足したハマスはイスラエルを一切認めない強硬な武力闘争を掲げて自爆テロなどを行った。その一方で、パレスチナ市民に対する福祉活動も行い、市民の支持を得た。穏健派のファタハとの武力闘争をへて、2007年からはガザ地区を実効支配した。

 イスラエル安全保障内閣は10月7日、基本法第40条に基づき、戦況のための重要な軍事的措置を承認した。安全保障内閣は一連の作戦決定を下した。ハマスとイスラム聖戦の軍事・統治能力を破壊して、イスラエル市民を脅し攻撃する能力と意欲を崩壊される。















Warning: Victims of a brutal massacre at the Tribe of Nova music festival are seen under a tent in Israel. (New York Post, Oct. 8, 2023)

2023年12月30日土曜日

広島原子爆弾の爆心地から約900mの地点の兵舎外の付近で、18歳の男性の日本軍兵士が被爆した。両側の下腿後面には第3度の限局性熱傷を受傷した。露出した皮膚だけの典型的な肉やけどを合併した。

広島原子爆弾の爆心地から約900mの地点の兵舎外の付近で、18歳の男性の日本軍兵士が被爆した。両側の下腿後面には第3度の限局性熱傷を受傷した。露出した皮膚だけの典型的な肉やけどを合併した。18歳男性の被爆者は広島原子爆弾の爆心地から約900mの兵舎の野外にいた。ケロイドの形成を伴う第2度熱傷は部分的には治癒した。18歳男性の被爆者は、広島第一陸軍病院宇品分院で治療を受けた。広島原子爆弾が1945年8月6日に投下して炸裂した数日後にケロイドを伴う第3度熱傷を受傷した。

 この写真は広島原子爆弾が投下して炸裂した79日後の10月24日にアメリカ軍によってカラーで撮影された。終戦直後にアメリカ軍が原子爆弾の写真資料を日本からアメリカ本国に接収した。その後に28年間もアメリカ軍病理学研究所(AFIP: The Armed Forces Institute of Pathology)に保管された。約2万点もの資料が1973年5月に日本に返還された。返還された資料は、三つに大別された病理標本、解剖記録、写真等であった。

  原子爆弾の生体への影響は、原子爆弾の電離放射線以外の要因、他の傷害、不潔、悪臭、精神的要因などが、海水障害や嘔吐に関与した。放射線障害の症状は、被爆者内部での発生率の高さによって証明された。爆心地から約1km以内にいた被爆者の嘔吐の発生率は広島で35%、長崎で27%であった。5kmより遠かった被爆者の発生率はそれぞれ1%と2%であった。同様に、食欲不振は広島では約1km以内の被爆者の48%、長崎では37%にみられた。約5km以上ではそれぞれ7%と5%であった。

 爆心地からの距離と遮蔽に関連した吐き気、嘔吐、食欲不振の発生率は、距離とともに着実に減少した。屋外で遮蔽されない内側の区域にいた被爆者の罹患率は、重い建物内にいた被爆者の罹患率とかなり近似した。前者の多くは構造物の陰にいた可能性があり、重い線量を受けた人は致命的な損傷を受けた。防空壕やトンネル内の被爆者には嘔吐が少ない。約2km以内の屋外または日本式建物、約1km以内の重建築物にいた人の発症率は、それ以上離れた場所や防空壕やトンネル内にいた被爆者よりもはるかに高かった。その症状の発生率は、女性よりも男性で高く、特に被爆の多い集団で高かった。火傷の有無は、被爆者の吐き気と嘔吐に有意な影響を及ぼさなかった。




2023年12月29日金曜日

ワルシャワ蜂起にて、ドイツ軍は反乱した容疑者のポーランド人に絞首刑を執行した。約63日間のワルシャワ蜂起に巻き込まれ、大量殺戮は、ドイツ親衛隊、警察、流刑大隊、ロシア人民解放軍の部隊によって執行された。

ワルシャワ蜂起にて、ドイツ軍は反乱した容疑者のポーランド人に絞首刑を執行した。ワルシャワ市民は、約63日間のワルシャワ蜂起に巻き込まれ、民間人が最も苦しんだ。8月5日から6日だけでも、ヴォラ地区の4万人以上の住民が虐殺された。大量殺戮は、ドイツ親衛隊、警察、流刑大隊、ロシア人民解放軍の部隊によって執行された。

 タデウシュ・コモロフスキ司令官が指揮する約5万の部隊からなるポーランド自治軍(AK)は、1944年8月1日に比較的弱体なドイツ軍守備隊を攻撃してワルシャワ蜂起が勃発した。3日以内にポーランド軍は市内の大半を支配下に戻した。鉄道駅や道路の分岐点など、主要な交通・通信の要所を占領できなかった。ソビエト軍が攻勢を停止したために、8月20日までに、ワルシャワ市内にいたドイツ軍は反撃計画を固めて8月25日に反撃を開始した。十分な支援を受けた残忍な攻撃で、約4万人ものポーランド市民が虐殺された。ワルシャワ蜂起は約10日間続く予定であったが、装備と補給に勝るドイツ軍に有利な包囲戦に巻き込まれた。

 一方、赤軍は、蜂起の最初の数日間、ドイツ軍の攻撃によって拘束され、ワルシャワからヴィスワ川を隔てた郊外のプラガに陣地を占めて休戦した。ソ連政府は、西側連合国が苦境に立たされたポーランド人に物資を空輸するために、ソ連の空軍基地の使用を拒否した。連合国が占領したイタリアのブリンディジ飛行場からの飛行は、約1,300km以上のドイツ軍の敵地を横断したため、損害は甚大となった。最終的に、9月13日、ソ連のヨシフ・スターリン首相は、ワルシャワでの限定的な人道的・軍事的援助の空輸を開始したが、ポーランド軍を助けるには遅すぎた。

 ワルシャワ蜂起が際限なく続くと、ドイツ軍の絶え間ない砲撃、飢餓と配給、水、電気、生活必需品の不足によってワルシャワ市民とポーランド自治軍は士気を失った。連合軍の大きな支援がないままに、ポーランド自治軍は小さなバラバラの部隊に分裂し、補給が尽きると10月3日に降伏を余儀なくされて、ポーランド自治軍兵士は捕虜となった。ドイツ軍はその後に、ワルシャワ住民を組織的に強制送還しワルシャワを破壊した。ワルシャワ蜂起では、約15,000人のポーランド軍と約250,000人の市民が死亡して、ドイツ軍は約16,000人の兵士を損失した。残った民間人約65万人はワルシャワ南部の強制収容所に強制送還された。




2023年12月28日木曜日

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御した。傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。

スペイン内戦にて1936年9月6日に、共和派の農民がスペイン北部のバスクの都市イルン郊外の農場を国民党軍から防御していた。その傍らには戦死した同志の共和派農民の死体があった。反乱軍の国民党軍は、8月9日のイルンの戦いの最初の攻撃は失敗に終わった。8月27日に再攻撃を試みて、約9日間にわたる激戦の末に、9月5日にモラ軍がイルンを占領した。その1週間後にはサン・セバスティアンを制圧した後、戦線は数ヶ月間静寂に包まれた。

 スペイン内戦は1936年7月17日に、右翼将軍のグループがスペインの民主的に選出された共和国政府を転覆させる軍事クーデターが勃発に端を発する。クーデターはスペインの多くの都市で国民党軍部隊によって侵攻された。しかし、マドリード、バルセロナ、ビルバオといったスペインの大都市のいくつかは、依然として共和国政府の支配下にあった。

 クーデターから数日のうちに、ヒトラーとムッソリーニは反乱軍将兵の側に介入した。ソ連は共和国軍のロイヤリストを支援した。イギリス、フランス、アメリカは中立を維持し、共和国への武器売却を禁じた。スペインの覇権をめぐる戦いは、3年近く続く凄惨な大惨事となった。写真報道という新しいメディアは、世界中の人々に内戦の恐ろしい映像をもたらした。国際的連帯を示すために、50カ国から約35,000人の志願兵が国際旅団に参加し、共和国を守るために生命と身体を危険にさらした。

 イタリア軍とモロッコ軍の支援を受けた国民党軍は、南部と西部の拠点から北上し、禁輸措置で弱体化した共和国軍の都市を占領した。バルセロナとその他カタルーニャ地方は1939年初めに陥落し、フランコ軍は3月28日にマドリードは陥落して、4月1日にフランコは内戦の終結と勝利を宣言した。スペイン内戦で共和国側と国民党側で50万人もの戦闘員と民間人が殺されたと推定した。両陣営で残虐行為が行われて、フランコ将軍率いる国民党軍は、戦後にさらに数千人を処刑した。紛争中、10万人以上の男女が処刑され、無名の墓に埋葬されたと推定されている。スペイン内戦戦で、共和党の親左派勢力が、国民党の勢力に敗北し、スペインにおけるフランコ将軍の長期独裁時代が始まり、1975年11月20日に死亡するまで継続した。




2023年12月27日水曜日

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。

1934年2月12日勃発したオーストリア内戦にて、ウィーンの「カール・マルクス・ホーフ」の段差に、銃殺された政府軍や警察官と労働者らの犠牲者たちの死体が横たわった。内戦の戦闘は主に、カール・マルクス・ホーフ、ロイマンホーフ、サンドライテン、オタックリング労働者宿舎などで、約3日間にわたり継続した。2月15日に、ドルフュス政権は政府軍の戦死者118人、負傷者486人と公表した。対抗したドイツ親衛隊は、戦死者は196人、負傷者は319人と推定した。イギリス人ジャーナリストは、戦死者は1,500~2,000人、負傷者5,000人と推定した。

 1934年2月12日早朝に、オーストリアのオーバーエスターライヒ州リンツで、社会民主党が所有するビルが襲撃された際に発砲があってオーストリア内戦が勃発した。社会民主労働党の準軍事組織である共和国防衛同盟が、ドルフュス政権に対して蜂起した。ウィーンの社会民主党はゼネストを招集して対抗したが、長年の失業と絶望的な貧困で、労働者が大勢で蜂起できなかった。

 1933年3月5日に、エンゲルベルト・ドルフュス首相のファシスト政権は、はクーデターを実行した。戦時経済実現法により、独裁政治により、報道の自由は廃止され、集会の自由は制限され、陪審裁判は廃止され、多くの産業で刑罰の脅威によりトライキが禁止され、労働会議所が廃止されて雇用保護法は弱体化され、既存の団体協約は修正され、賃金と失業手当は削減され、警察には政治犯罪の管轄権が与えられた。1934年2月12日に戒厳令が布告され、社会民主労働党、自由労働組合、社会民主党のすべての文化団体やその他の組織が解体された。2月14日からの軍法会議で9人に死刑が執行された。



2023年12月27日  
Japan No War  (JNW)
日本平和市民連盟    

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2023年12月26日火曜日

1919年1月31日にイギリスのスコットランド最大都市のグラスゴーにて、ジョージ・スクエアの戦いの労働者のストライキで、警察官の警棒に殴られたクライド労働者委員会のデビッド・カークウッドは地面に倒れ込んだ。

1919年1月31日にイギリスのスコットランド最大の都市グラスゴーにて、ジョージ・スクエア(George Square)の戦いの労働者のストライキにて、警察官の警棒に殴られて、デビッド・カークウッド(David Kirkwood)は地面に倒れ込んだ。デイヴィ・カークウッドは、暴力行為の中止を訴えるために市庁舎を飛び出して、警察官の警棒に殴られた。

 第一次世界大戦が1918年11月11日に終結からわずか数カ月後に、労働時間をめぐるストライキがスコットランドのグラスゴーのジョージ広場に大群衆を集めた。ロンドン政府は本格的な社会主義革命の幕開けを懸念した。その結果、ストライキの群衆は警察の警棒で殴打されて、最後の一回だけ暴動法が読み上げられた。そのため、ロンドン政府はグラスゴーの街をコントロールするために必死の措置をとった。秩序を回復するために約1万人以上の軍隊が投入されて、6台の戦車と100台の自動車が北部に送られた。ロシアでは革命が起きて1年余り、ドイツでは王政が転覆する暴動が起きた直後で、ロンドン政府はグラスゴーの騒乱に動揺した。

 1月31日金曜日の朝、何万人もの人々がジョージ・スクエアまで行進した。マルクス主義社会主義の象徴である赤旗が広場に持ち込まれた。群衆は領事による政府の回答を聞こうと集まった。政府はすでに週40時間労働制の要求を拒否して、代わりに全国的な公式労働組合と話し合うことを好んだ。クライド労働者委員会(CWC: Clyde Workers Committee)のデイヴィ・カークウッドやマニー・シンウェルを含む代表団が市庁舎に入り、プロボストに面会した。

 何人かが路面電車をひっくり返そうとして、ガラスを叩いたり、車を押したりした。広場には約2万人から約2万5千人がいた。警察は群衆に突撃し、警棒で無差別に殴打した。突然、ラナークシャーの保安官A・マッケンジーが、暴動法を読み上げ、集会は違法であると宣言して、群衆に解散を命じ始めた。暴徒はグラスゴー・グリーンに撤退し、警察との戦闘が続いた。いくつかの地区では夜遅くまで散発的な戦闘が続き、路面電車が壊され、商店の窓ガラスが割られ、商品が略奪された。ギャラチャー、カークウッド、シンウェルら指導者が逮捕された。ギャラチャーは警察署長に飛びかかり、警棒で殴られて逮捕された。CWCのリーダーら6人が裁判にかけられた。

 暴動の翌朝の2月1日に、武装したスコットランド連隊の軍隊がジョージ広場をパトロールして、郵便局とノース・ブリティッシュ・ホテルの屋上には機関銃が設置された。2月3日までに、キャトルマーケットには6台の戦車が停まった。軍隊は2月17日まで市内に滞在した。ジョージ・スクエアの戦いは、わずか1週間余りでストライキは終結して、週47時間労働を基本に和解が成立した。



 

2023年12月25日月曜日

1938年10月に日本軍の戦闘機による広東省の北海の爆撃により、中国軍兵士が殺害された。日本軍が羅芳遺跡を占領した後に、屋外の階段に中国軍兵士の死体が並べられた。

1938年10月に日本軍の戦闘機による広東省の北海の爆撃により、中国軍兵士が殺害された。日本軍が羅芳遺跡を占領した後に、屋外の階段に中国軍兵士の死体が並べられた。日本軍が広東省を攻撃した時に、中国軍兵士の死体を路上の階段に安置した。中国軍兵士の服はすでに破れて、顔はほとんど判別できないほど損傷した。日中戦争がいかに悲惨であったかを示唆した。日本軍は、中国軍兵士の死体を前にしても、容赦なく侵攻した。

 1937年12月13日に首都南京の占領に勢いづいた日本軍は、1938年に入ると、一層に積極的な中国侵略に踏み出した。1938年5月には、華北と華中を結ぶ重要地点にある徐州を占領した。8月から10月にかけては華中の揚子江中流域の中心地・漢口、華南の中心都市・広東への攻撃と占領があいついだ。なかでも漢口攻撃は大激戦となり、マラリアによる犠牲者もでて、日本軍は2万2000人にのぼる戦死傷者をだした。

 日本軍の広東攻略戦は10月12日バイアス湾に奇襲上陸を敢行して勃発した。上陸した各部隊は、一挙に内陸部まで侵攻して、10月15日には恵州を占領して、10月19日には増城を占領した。広東方面の中国軍は武漢防衛のため兵力を割かれて、迎撃は散発的となった。日本軍は10月21日に広州に入城した。一方で、主力と分かれ珠江を遡行して虎門要塞と三水を占領した第5師団も広東攻略を展開して、10月29日には広東入りして第21軍主力と合流して広東攻略が完結した。

 日本の軍部は、1938年末までに全中国の武力支配の完成をねらっていた。しかし、首都を重慶にうつした蒋介石は、「全国軍民に告ぐるの書」を発表して長期抗戦の決意をあらわし、中国共産党の毛沢東は、全民族の統一と団結で長期持久戦を戦い抜く訴えた。日本は、中国侵略のために約100万人をこえる兵力を出しているにもかかわらず、広大な国土をもつ中国では、都市とそれを結ぶ鉄道の点と線の支配を保つのが精一杯で、いつ果てるともしれない長期戦の泥沼にのめり込んでいった。




2023年12月24日日曜日

2023年9月16日に、ウクライナのドネツク州アンドリエフカ近郊の前線で、戦死したウクライナ軍兵士の死体が荒野に横たわった。ウクライナ第3突撃旅団兵士は、仲間のウクライナ軍兵士の死体の側を歩いて侵攻した。

2023年9月16日に、ウクライナのドネツク州アンドリエフカ(Andriivka)近郊の前線で、戦死したウクライナ軍兵士の死体が荒野に横たわっていた。ウクライナ第3突撃旅団の兵士たちは、仲間のウクライナ軍兵士の死体の側を歩いて侵攻した。バフムートを取り戻すために、ウクライナ第3突撃旅団は地獄の戦いで、森を生き延びて侵攻した。

 ウクライナ軍の反攻が2023年夏に始まって以来、ウクライナ軍第3突撃旅団が目標としてきたバフムトから南に約10kmのアンドリブカ村に向かって、焼け焦げた木々の間をよろよろと侵攻した。第3突撃旅団の戦闘員は、完全に枝をもぎ取られた木々が生い茂る残酷な戦場を侵攻して、周囲には、レンガや瓦礫の山が散在した。幅数十本、長さ約2kmの枯れた森が、アンドリエフカ村に向かう区間に位置した。ロシア軍が支配するバフムトへの道に無数に枯れた森があった。ロンドンの王立連合サービス研究所は、ウクライナ軍は約5日ごとに平均700~1200m前進して、ロシア軍は撤退する際に領土を掘り下げて、特に地雷を掘る時間を与えたと分析した。ロシア軍は9月16日までの1週間で約16回のウクライナ軍の攻撃を撃退し、ウクライナ軍の死傷者は約1700人以上、戦車は約16両に上ったと報告した。

 バフムトは2023年5月にロシア軍に陥落した。数百人単位で死亡した刑務所の徴兵を含む傭兵ワグネル戦闘員の波状攻撃によるものだった。ウクライナ軍第3突撃旅団はこの1月間で、地雷やブービートラップの仕掛けられた塹壕を横切り、大砲やドローン発射の手榴弾やロシア軍をかわしながら、約2kmしか侵攻できなかった。最後の攻撃が9月14日に勃発して、消耗した他の部隊の兵士も加わり、通常3~4日間の戦場となり、トネリコの木立の中を2カ月かけて少しずつ前進し、ついに森を突破してアンドリイフカ村にたどり着いた。ウクライナ軍はアンドリエフカ村を砲撃し、大通りに煙幕を張った。ロシア軍の大砲は、退却したり降伏したロシア軍兵士に命中した。最後の約100mには、血、金属、ゴミ、使用済み弾丸、ズタズタの装甲が散在した。アンドリフカ村は、レンガの山と焼け焦げた木々に死の臭いが漂った。













Warning: Ukrainian 3rd Assault Brigade servicemen walk next to the bodies of their comrades, killed at the frontline near Andriivka, Donetsk region, Ukraine, Saturday, Sept. 16, 2023.  (AP Photo/Mstyslav Chernov)


2023年12月23日土曜日

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに、長崎本線の道ノ尾駅前に設置された臨時救護所にて、日赤第713救護班の看護婦が被爆者の顔面と両腕の火傷に包帯を巻いて手当をした。

長崎原子爆弾が投下されて炸裂した翌日の1945年8月10日午後3時すぎに、長崎本線の道ノ尾駅前に設置された臨時救護所にて、看護婦が被爆者の顔面と両腕の火傷に包帯を巻いて手当をした。道ノ尾駅は、爆心地から北方に約3.6kmに位置した。救護している看護婦は、日本赤十字社の佐賀県支部で結成された、日赤第713救護班に所属していた。日赤第713救護班は、8月10日午前4時30分頃の汽車で、佐賀市から長崎市内に向かった。

  写真の看護婦は、19歳の西久保キクノ(旧姓鶴丸)であり、当時は佐賀陸軍病院に勤務していた。西久保キクノは、被爆した翌日の1945年8月10日に、道ノ尾駅の臨時救護所で、日本軍の報道カメラマンであった山端庸介によって6枚の写真が撮影された。終戦から21年目の1978年に、東京の大学に通っていた長男が、21歳の若さで白血病により急死した。原爆の救護に出たから、長男が原爆病死したと自責の念から、その後看護婦を辞めた。

 長崎に原子爆弾が投下された後に、長崎県内や他県からも救護隊が派遣された。長崎市内一帯が壊滅したために、長崎本線の小さな道ノ尾駅が被爆者を救護して移送する最前線の駅となった。爆心地から約3.5kmの距離にある道ノ尾駅は、長崎原子爆弾の炸裂時には、一部の壁が落下して、窓ガラスが飛散した。道ノ駅の駅舎に大きな被害がなく、駅前広場に臨時救護所が設置されて、長崎本線の救援列車の起点となった。臨時救護所には、瀕死の被爆者が集散した。道ノ尾駅の臨時救護所では、むしろがけの2つの小屋に約200人もの被爆者が収容された。救援列車で移送した人数は、合計約3,500人にも上った。乗る順番を待つ行列は、途絶えることなく、プラットホームも道ノ駅の広場にも被爆者で一杯となった。




2023年12月22日金曜日

クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えた。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死亡した。

クメール・ルージュによる処刑、強制労働、飢餓、病気から生還したカンボジア人が、タイとの国境を越えることもあった。タイでは、カンボジア難民の弱者は疲労と病気で死んでいった。1979年11月までには、ジャーナリストがタイの国境に集まり始めた。そのうちの一人が、ガンマ/リアソン社で働くフランス人写真家であるアルノー・デ・ウィルデンバーグ(Arnaud de Wildenberg)が撮影した。カンボジア難民の多くはタイのアランヤプラテートの南にあるバン・タプリックに到着した。赤十字はそこで難民を選抜して、新しい難民キャンプが建設されたサカオに運送した。多くの人が周囲の森で倒れ、それ以上歩くことができなかった。サカオでは、クメール・ルージュが他の難民を脅し続けて、しばしばカンボジアのクメール・ルージュ支配地域への自発的送還を受け入れさせた。

 1979年半ばは、クメール・ルージュはまだカンボジア地域を支配していた。ベトナム軍のカンボジア侵攻が迫りつつあった。クメール・ルージュはタイ国境沿いの救援活動が利益になると考えた。クメール・ルージュは、国境を越えたところに武器を隠し、罪のない難民を装った。ベトナム軍に対するゲリラ攻撃に戻った。1978年12月25日に、ベトナム軍はカンボジアに侵攻し、間もなく国土の大部分を占領し、親ベトナム政府を樹立してカンボジアを統治し、1979年1月10日にカンボジア人民共和国が成立した。クメール・ルージュの残党はタイとの国境近くのカルダモン山脈に退却し、カンボジア西部では他の抵抗運動が勃発した。

 クメール・ルージュが以前に仕掛けた地雷やブービー・トラップが、カンボジア難民たちに大きな犠牲をもたらした。食料と新鮮な水の不足は、難民の疲労や病気に拍車をかけた。カンボジア難民がタイに押し寄せるようになってから、カンボジアの悲劇の犠牲者の増大が国際的に広く知られた。

 カンボジアの荒廃は、ベトナム共産主義者がカンボジア領土をゲリラ活動の拠点として使い始めたベトナム戦争に端を発した。アメリカ軍は疑われたカンボジア拠点地域を攻撃することで対抗した。ベトナム人は拠点を離れると、カンボジア政府軍との戦闘に巻き込まれた。ベトナム人はやがて、カンボジアの反政府勢力の代理人として登場した。戦闘がエスカレートするにつれ、反乱軍であるクメール・ルージュは急速に勢力を伸ばした。包囲されたカンボジア政府は1975年4月17日に降伏した。




2023年12月21日木曜日

第一次世界大戦中のソンムの戦いにて1916年7月に、イギリス軍兵士の戦死傷者は西部戦線の基地病院に搬送される前に処置を受けた。

第一次世界大戦中のソンムの戦いにて1916年7月に、イギリス軍兵士の戦死傷者は西部戦線の基地病院に搬送される前に処置を受けた。第一次世界大戦にて史上最悪の戦いの一つとなったソンムの戦いでは、イギリス・フランス両軍は終結に失敗して、約100万人の兵士が命を落とした。戦争中に使用された爆発物によって、イギリス軍兵士たちは火傷を負った。戦場では多くの兵士が砲弾の爆発で死亡し、生き残った兵士も顔や体に榴散弾の傷を負った。

 ソンム攻防戦は1916年4月1日から11月19日まで約4ヶ月間続いた。戦争以前に義務教育を受けたフランスの軍隊に比較して、イギリス軍兵士は素人同然で、戦闘訓練の不足を数で補った。第一次世界大戦が勃発した1914年7月28日の時点でイギリス軍兵士数は約25万人だった。ソンム攻勢戦が始まる頃には、戦闘に参加するイギリス軍の数は約150万人以上に膨れ上がった。ソンムに集結したフランス北部の連合軍には、イギリス軍に加えて、カナダ、ニュージーランド、南アフリカ、インドなど大英帝国全域からの部隊が含まれた。

 第一次世界大戦で最も血なまぐさいソンムの戦いが勃発した1916年7月1日は、イギリス軍で最も血なまぐさい日となった。フランスのソンム川で連合軍によるソンムの戦いが勃発した。戦闘は激しい砲撃で始まり、午前7時30分の攻撃開始時刻になるまで、大砲を容赦なくドイツ軍に降り注いだ。イギリス軍第4軍の約10万の兵士たちは、塹壕の頂上を越えて、ドイツ軍の最前線に向かった。防衛戦術に慣れたドイツ軍は、塹壕に深く潜り込んだ。戦線は地下壕によって強化され、イギリス軍は大砲で潰れると考えていた。多くのドイツ軍は地下壕を持ちこたえ、ドイツ軍は戦闘態勢を整えた。砲兵は目標を変え、イギリス軍歩兵の突進が始まったとき、ドイツ軍機関銃兵は攻撃を受ける準備ができていた。ソンムの初日が終わるまでに、約57,000人のイギリス兵が死傷して、約19,240人が死亡した。

 連合軍全体としてはあまり前進できず、部隊は孤立を余儀なくされた。連合軍には約4.8平方kmの土地をもたらした。ソンムの戦いの初日が終わった後に、多くのイギリス軍ヘイグ司令官は損害に慄然とし、攻撃を放棄するつもりだった。しかし、ベルダンでのフランス軍の壊滅が目前に迫っていたヘイグは、ソンムの戦闘を続けなければならないと考えた。イギリス単独では戦争に勝つことはできず、ヴェルダンで泥沼にはまり込んだジョフルフランス軍司令官やフランスのペタン将軍、ニヴェル将軍からの緊急の嘆願によって、ドイツ軍が全戦力をヴェルダンに集中させるとフランス軍は敗北することが明らかになった。ソンムの戦いの死者数は、イギリス軍は約42万人(うち死者12万5000人)、フランス軍は約20万人、ドイツ軍は約50万人の死傷者を出した。ソンムの戦いで、戦車が初めて戦闘に使用され、主要な新技術が導入された。




2023年12月20日水曜日

大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織である玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。

早稲田大学の創設者である大隅重信は、外務大臣の時に1889年10月18日には国家主義組織玄洋社の一員である来島恒喜に爆弾による襲撃を受けて、一命はとりとめたものの、右脚を大腿下三分の一で切断することとなった。来嶋恒喜は、大隅重信を狙撃した後に、現場で自刃して自殺した。赤十字社により、アルコール漬より取り出した右下腿が撮影された。大隈重信は10月18日に内閣より外務省へ帰る途中で、外務省の門前において来嶋恒喜が爆裂弾を投げて、左脚を傷けて、遂にこれを切断するのやむなきに至った。これを機として黒田清隆内閣は総辞職し、次いで一時的に三条実美が総理大臣となった。12月には山県有朋内閣が成立した。右翼国粋主義団体の活動が頻繁に見られはじめた。未だ自由民権運動的な色彩をも加味するものから、急速に国権主義日本主義侵略主義的な運動となった。玄洋社はその代表的な日本で初めて創設された右翼団体であった。 

 1886年7月、猛烈な世論の反対を受けて外相の井上馨の条約改正案は中止となり、井上馨は辞職して首相の伊藤博文が兼摂した。1887年2月に大隈重信は外相となり、条約改正案に当り、11月に改正の趣旨を在外諸公使に訓令した。まずはアメリカの同意を得た。この間に、後藤象二郎を中心とする大同団結運動は、強硬外交を主張しながら華々しく展開した。当の後藤は、1889年2月に黒田清隆内閣 (88年4月成立)に逓相として入閣して、その変節は世人を驚かせた。大隅重信は、日本が江戸時代に締結した不平等条約にて、外国人が在留国にて外国の領事による裁判を受ける領事裁判権を改正を提案した。

 大隈重信の改正案は、1889年4月19日、イギリスの「ロンドンタイムス」に暴露された。外人の内地雑居、外国判事の任用の規定等が、いたく朝野の人士を刺激し、時論は俄かに沸騰して、しきりに反対運動が起った。内は枢密院議長の伊藤博文をはじめ、逓信大臣の後藤象二郎、法制局長官の井上毅等、外は自由民権派、国粋保守派を問わず、反対運動は猛烈を極めた。8月には在野の熊本国権党、福岡玄洋社等保守団体の全国非条約大懇親会が開かれた。10月15日遂に明治天皇の御前会議の開催となった。賛成者は僅かに総理大臣黒田清隆等数人を数えるのみであった。10月18日閣議は改正商議の中止と決した。

 大隅重信の右脚の切断は、直ちに外務省のソファ上で海軍軍医の高木兼寛が処置して、赤十字病院の佐藤勇主任等が切断して、ベルツ博士が支援した。切断手術がすんでから大隅の脚は大きなガラス瓶にアルコール漬となった。「邸へ届けて下さい」と命のままに早稲田の大隈邸へかつぎ込まれた。大隈は元来は酒は余り呑まない方であが、分身たる切断された脚は1月間に6.70円に上るアルコールを必要とした。大名生活の会計係もすっかり音をあげた。アルコールを飲んだくれた脚は、赤十字中央病院に参考品として引取られた。病院の「開かずの部屋」と云う薄気味悪い一室に安置された。




2023年12月19日火曜日

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテを1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチ町のドアに釘で打ち付けた写真を公開した。

アメリカ軍の海兵隊員は、ハイチにてシャルルマーニュ・マセナ・ペラルテ(Charlemagne Masséna Péralte)を1919年11月1日に暗殺した。ペラルテの死体は、ヒンチの町のドアに釘で打ち付けられた。アメリカ軍が死体を撮影して写真を公開して、ペラルテの残存信者の士気を下げようとした。アメリカ軍による処刑後に、カコスの指導者ペラルテの死体が展示された。逆効果で、イエスの十字架からの降下に類似して、ペラルテは国民的殉教者の栄誉を得た。

 ペラルテはハイチの民族主義指導者で、1915年のアメリカ軍によるハイチ占領に抵抗した。カコス(Cacos)と呼ばれるゲリラ戦闘員を率いて、ハイチに駐留するアメリカ軍に挑戦を叩きつけた。深刻な内紛が始まり政府が再び転覆したハイチに、ウッドロー・ウィルソン米国大統領は、1915年7月にアメリカ海兵隊を派遣して、ハイチを侵攻した。アメリカは1915年から1934年までハイチを占領した。ペラルテはレオガン市軍司令官だった。1918年9月に強盗事件の逮捕から逃亡して、ペラルテはハイチ北部に臨時政府の樹立を宣言した。数千人の農民非正規兵を動員して、1919年10月7日にポルトープランスを含むアメリカ軍の軍事施設を攻撃した。ペラルテは将校の一人であるジャン=バティスト・コンゼの裏切りに遭い、変装したアメリカ海兵隊軍曹ハーマンH.ハンネケン(後にその功績により少尉に昇進)とウィリアム・バトン伍長を率いて、グラン=リヴィエール=デュ=ノールは、変装して夜陰にまぎれてグラン・リヴィエール近くの反乱軍キャンプに侵入した。1919年11月1日にペラルテは至近距離から背中の2発から心臓を撃たれて暗殺された。ハンネケンとその部下たちは、ペラルテの死体をロバに縛り付けて逃走した。

 殺害されたペラルテの遺体はヒンチェで公開された。ハイチ住民からの反政府勢力の支持を思いとどまらせるため、アメリカ軍はペラルテの死体をドアに縛り付けた写真を撮影し、国内で配布した。しかし、それは逆効果となり、十字架刑に似たその画像はレジスタンスの象徴となり、ペラルテを殉教者として定着させた。1934年には世界恐慌の影響や、ニカラグアでのサンディーノ軍への苦戦などもあって、ルーズベルト米国大統領の善隣外交政策により、ハイチからも海兵隊が撤退することになった。




2023年12月18日月曜日

第1次世界大戦の西部戦線にて、1917年10月12日の夜明け前に、ベルギーのパッシェンデールの戦いはぬかるんだ凄惨な戦場となった。オーストラリア軍歩兵士が戦死した連合軍の兵士を死後処置をして、毛布を敷いた。

第1次世界大戦の西部戦線にて、1917年10月12日の夜明け前に、パッシェンデール(Passchendaele)の戦いはぬかるんだ凄惨な戦場となった。ベルギーのゾンネベケ駅付近のブロックハウスの周囲で、オーストラリア軍歩兵が戦死した連合軍の兵士を死後処置をして、毛布を敷いた。イーペルの町からほど近く、湿地帯であるイーサー渓谷とライエ渓谷を隔てる丘の尾根に位置した。背景には、雲の向こうから太陽の光が射していた。10月12日はさらに深い目標を掲げた再攻撃は、泥にまみれて死んだ部隊を除き、攻撃部隊が振り出し地点に戻って終わった。

 第1次世界大戦中に、パッシェンデールの戦いは泥の戦いとして知られた。ベルギーのイーペルで行われた3回目の最も長期間の戦いとなった。約3年間にわたる激しい戦闘にて、排水システムは完全に破壊された。何百万発もの砲弾でかき回された地面は、雨に濡れると粘り気のある泥沼に化した。この戦いは1917年7月31日に、イギリス軍は潜水艦の檻を破壊するために、フランドルを突破してベルギーの海岸に向かって砲撃した。ドイツ軍はこの攻撃に完全に備えて、連合軍はドイツ戦線を突破できなかった。1917年8月に雨が降り始め、約30年間で最大の降雨量となり、フランドル地方は沼地と化した。10月中旬には、カナダ軍団がイギリス軍からパッシェンデール戦線への出撃を命じられた。新しい道路や砲台の建設、路面電車の修復をして、何十万発もの砲弾が馬やラバで前線に運ばれた。パッシェンデール稜線の頂上では、ドイツ軍が継続的に砲撃を行い、何百人ものカナダ兵が死傷した。カナダ軍団は、11月10日までに15,654人を損失しながらもパッシェンデールを占領した。

 パシェデーレの戦いは、第一次世界大戦の恐怖と多大な人的犠牲を象徴した。塹壕の中も、塹壕の前も、塹壕の後ろも泥だらけだった。どの砲弾の穴も、不潔なにじみ出る泥の海だった。歩兵が泥沼に沈んで二度と生き返らなかった。殺戮の数々、わずか約20mの距離を得るために犠牲になった。泥の中での疲労はひどいもので、泥に足を取られて、もうこれ以上進めなかった。イギリス軍の死傷者は約275,000人、オーストラリア軍は約36,000人、ニュージーランド軍は約3,500人、カナダ軍約16,000人であった。ドイツ軍は、約22万人の死傷者を出した。約90,000人の死体が確認されず、約42,000人が回収されなかった。




2023年12月17日日曜日

パレスチナのガザ地区中部のアル・マガジ(al-Maghazi)難民キャンプの民家を狙ったイスラエルの空爆で、2023年11月4日深夜に子どもを含む50人以上のパレスチナ人が死亡した。

パレスチナのガザ地区中部のアル・マガジ(al-Maghazi)難民キャンプの民家を狙ったイスラエルの空爆で、2023年11月4日深夜に子どもを含む50人以上のパレスチナ人が死亡した。イスラエル軍はガザにある少なくとも3つの難民キャンプを空爆した。イスラエル軍は、10月7日のパレスチナ抵抗組織ハマスによる奇襲攻撃以来、ガザ地区への空爆と地上攻撃を拡大した。アル・マガジ難民収容所に対するイスラエル軍の攻撃で、ガザ保健省は約47人が死亡して、アル・アクサ病院は約52人が死亡したと公表した。犠牲者の多くは女性と子供であり、病院に運び込まれる死体が増大した。

 ガザ保健省によると、イスラエル軍によるガザ地区への攻撃は、2023年11月6日までの約31日間の時点で、約10,022人のパレスチナ人(約4,104人の子供を含む)が殺害された。イスラエル軍は11月6日の数時間だけで19件の攻撃を行って、約292人が死亡したとガザ保健省は述べた。ガザ保健省は、ガザ地区への医薬品、燃料、医療視察団の輸送のために、安全かつ緊急の人道的通路の提供を求めた。数千人のパレスチナ人の負傷者をガザ地区からエジプトや他のアラブ諸国に避難させるように求めた。ガザ地区の医療チームは、食料や基本的生活必需品が不足して、悲惨な状況に直面した。国連と世界に対し、侵略を止め、占領者の拘束を直ちに行動するように訴えた。

 ハマス武装勢力は、イスラエル軍がガザ地区北部の複数の病院付近を集中的に爆撃した伝えた。イスラエル軍は攻撃の前に電話やインターネットを遮断した。爆撃は、包囲された地区で最大のアル・シファ病院付近で特に激しかった。パレスチナのメディア情報によると、イスラエル軍機は、アル・シファ病院の本館にあるソーラー・エネルギー・ユニットを標的とした。イスラエル軍は、ガザ地区北部のインドネシア病院付近も急襲した。イスラエル軍の空爆は、ガザの他の地域から強制退去させられた人々が避難していた数軒の集合住宅を崩壊した。ハマスは10月7日にガザ国境付近の地域社会や軍事拠点に攻撃を仕掛け、民間人を中心に1,400人以上が死亡し、240人以上のイスラエル人と外国人の人質が拉致された。イスラエル軍は、報復と懲罰としてハマスの壊滅を宣言した。





















Warning: more than 50 Palestinians killed, including children, in an lsraeli airstrike targeting a house in al-Maghazi refugee camp, central Gaza Strip.

2023年12月16日土曜日

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。

広島原子爆弾が炸裂した後に、婦人が自宅に戻ってから焼け野原で焼滅した広島市内で洗濯に出ていた。婦人の背中には、児童を抱えながら、バケツの中でしゃがみ込んで手もみで洗濯をした。お風呂に入る、髪や体を洗う、衣服を洗濯することは、日常的除染を行っていた。水で洗い流すことにより、放射性物質はかなりの量を落とすことが可能であった

 1945年8月15日午前8時15分に、高度約9,630mから広島市内に原子爆弾が投下されて、地上に落ちる直前に爆発した。突然に、空に白っぽく、ピンクがかったまぶしい光が現れて、不自然な揺れを伴った。数秒のうちに、広島市の中心部の通りや庭にいた何千人もの人々が、焼けつくような熱の波に焦がされた。多くの人が即死して、他の人たちは火傷の耐え難い痛みに悶え苦しみながら地面に横たわった。壁、家屋、工場、その他の建物など、爆風に直立していたものはすべて破壊された。瓦礫が渦を巻いて空中に舞い上がった。路面電車は拾い上げられ、まるで重さも固さもないかのように放り投げられた。生きとし生けるものすべてが、筆舌に尽くしがたい苦しみの中で死滅していた。梁、レンガ、桁が渦を巻いて家々を倒壊した。原子爆弾の爆発の中心である爆心地から、3マイル以内の家々がまるでボール紙で建てられたかのように平らになった。安全な場所まで逃げ延びた数少ない人たちは、被爆後の約20日から30日後にガンマ線の放射線障害によって死亡した。

 原子爆弾の爆発から約30分後に、広島一帯の空が雲ひとつない中に、町には細かい雨が降り始めて、約5分間降り続いた。この雨は、熱せられた空気が突然高いところまで上昇し、そこで凝縮して雨となって降った雨である。雨が降ると上空に漂っている放射性物質が雨と一緒に落ちてくるために放射能の検出値は上がった。その後、激しい風が吹き荒れ、火は恐ろしい速さで燃え広がった。夕方には火は消え始め、そして消えた。燃えるものは何も残っていなかった。広島は消滅していた。広島・長崎の原子爆弾は核分裂反応が空中で起き、なにもさえぎるものがない状態で、大量の放射性物質が地上に降り注いだ。





2023年12月15日金曜日

1967年4月3日に、アラビア半島のアデン住民たちが反英横断幕を振り回し、イギリス陸軍は暴動に対する報復を行った。アデン周辺の市街戦が勃発して、街路にはイギリス軍に銃撃された死傷者が倒れ込んだ。

アラビア半島南端のイエメンのアデンでは1967年4月3日に、住民たちが反英横断幕を振り回し、民族主義的スローガンを唱えながら町を駆け抜けた。イギリス陸軍の王立ノーサンバーランド・フュージリアーズ部隊は暴動に対する報復を行った。アデン周辺の市街戦が勃発して、街路にはイギリス軍に銃撃された死傷者が倒れ込んだ。

 1967年4月2日の国連使節団のイエメンのアデン訪問は無駄に終わった。4月2日に、民族解放戦線(NLF)がストライキを呼びかけ、群衆が街頭に集まり、テロリストが手榴弾を投げたり軍隊を狙撃した。4月3日、特にシェイク・オスマンではテンポが上がりました。「解散するか、我々が発砲するか」の横断幕は急いで巻き上げられ、市街戦戦術が一時的に広まった。アデンの警察署はイエメンの暴徒に包囲され、女王竜騎兵隊の第3大隊と装甲車が救護した。4月4日の平穏な一日の後に、4月5日暴動が再び爆発し、国連使節団はアル・マンスーラ拘置所に護送さた。訪問によりセンター内で大混乱が引き起こされた拘置所外では激しい銃撃戦が起こった。最後に4月7日に、国連使節団はアデンを避難した。使節団のの訪問を機会に、シェイク・オスマンを乗っ取ろうとしたテロリストたちは撤退した。

 アデン緊急事態は、1963年の10月14日革命とも呼ばれ、イギリスの保護領であった南アラビア連邦に対する民族解放戦線(NLF)と占領下南イエメン解放戦線(FLOSY)により武装反乱が勃発した。南イエメン人民共和国の独立宣言につながった。1963年10月14日にアデン空港に集まったイギリス政府関係者に手榴弾を投げつけて勃発した。その後に、英国王室の植民地であったアデンとアデン保護領に緊急事態が宣言された。緊急事態は1967年にエスカレートし、1839年に始まったイギリスによるアデン植民地支配の終焉を早めた。1967年1月19日から20日に、NLFはアデンで街頭暴動を引き起こした。アデン警察が統制を失った後に、暴動を鎮圧するためにイギリス国軍が派遣された。NLFの暴動が鎮圧されると、親FLOSY派の暴徒が街頭に繰り出した。イギリス軍と親ゲリラ暴徒の戦闘は2月まで続いた。イギリス軍は約40回発砲し、イギリス軍に対する手榴弾や銃撃攻撃が約60回勃発した。その中にはアデン航空の ダグラスDC-3が空中爆撃で破壊され、乗員全員が死亡する事件もあった。1967年11月30日に、アデンおよび旧南アラビア保護領からなる南イエメン国家が独立した。1990年5月22日に、南北イエメン統合により現在のイエメン共和国が成立した。




2023年12月14日木曜日

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦で男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、ひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、甚大な犠牲者を出した。

太平洋戦争の沖縄戦後の洞窟内に残った沖縄師範学校生徒の多数の死体から白骨が発掘された。沖縄戦では、男子部・女子部ともに生徒らが戦場に動員され、その多くが死亡した。師範学校生徒の多くからひめゆり学徒隊や鉄血勤皇隊が構成され、たくさんの犠牲者を出した。教員の養成機関であった沖縄師範学校は太平洋戦争中の1943年に設置され、唯一戦後の新制大学への継承関係を持たない師範学校であったが、沖縄戦で校舎を失ってしまった為、後身校を持たず廃止となった。

 1945年3月31日に、沖縄師範学校生徒に召集令が下り、予科2年から本科3年まで約386人は鉄血勤皇師範隊を編成して、日本軍の作戦の沖縄戦に参加した。アメリカ軍が1945年4月1日に沖縄に上陸して5月下旬、沖縄戦が不利になり、日本軍とともに首里から南部へ移動し、摩文仁の壕まで退却した。6月19日、解散命令の出た後は、アメリカ軍に斬り込む者や壕内で自決で自殺する者など多くの犠牲者を出した。

 ひめゆり学徒隊とは、1944年12月に沖縄県で日本軍による看護訓練によって作られた女子学徒隊のうち、沖縄師範学校女子部と沖縄県立第一高等女学校の教師・生徒で構成された。敗色濃厚となった6月18日に突然解散命令が出され、6月19日から約1週間の間に約227人が絶命した。壕を出た生徒たちは、茂みや岩陰に身を隠し、海岸へと追い詰められた。砲弾の飛び交う中、戦傷した体で逃げる者、重傷で動けず倒れる者、砲弾に吹き飛ばされた者、黄リン弾攻撃を受けた者、手榴弾を爆発させ自決した者、海岸で大波に水没する者など、戦傷で行き場を失って、絶命する生徒が続出した。戦跡「ひめゆり塔」がある沖縄陸軍病院第三外科が南部撤退後に入った壕である伊原第三外科壕に、ひめゆり学徒を含む陸軍病院の看護婦や兵隊、住民など約100名が隠れたが、6月19日早朝にアメリカ軍の攻撃を受けて、約80人が死亡した。

 天皇を崇拝する皇民化教育と軍国教育も、教師育成の学校であり、特に徹底された。学徒の招集の際には、法的根拠がなく自主的に参加するという扱いであり、親の許可も必要でした。沖縄師範学校のほとんど生徒は、学徒隊として参加した。




2023年12月13日水曜日

1947年11月、インドのドグラ朝の支配者ハリ・シンの率いる準軍事組織によって、紛争地域の首都で数千人のイスラム教徒が殺害された。インドの首都ニュー・デリー暴動の犠牲者の死体が、路上から排除された。

1947年11月、インドのドグラ朝の支配者ハリ・シンの率いる準軍事組織によって、紛争地域の首都で数千人のイスラム教徒が殺害された。インドの首都ニュー・デリー暴動の犠牲者の死体が、路上から排除された。1947年10月から11月にかけて、20万人以上のイスラム教徒が、ドグラ朝の支配者ハリ・シンの軍隊に率いられた暴徒や準軍事組織によって、ジャンムー地方で組織的に大量殺害された。1947年8月15日にイギリスからのインド・パキスタン分離独立が宣言されて、パンジャーブ分割をめぐって、イスラム教徒のムスリム同盟に対するヒンドゥー教徒とシーク教徒の報復と暴動が1947年に勃発した。

 パンジャーブ分割に関連した最初の暴動で民族浄化であるラワルピンディ暴動が勃発して、パンジャーブ中央部や東部、シーク教徒が支配する諸侯国、ジャンムー・カシミール、デリー、連合州へのシーク教徒やヒンドゥー教徒の難民の大移動を引き起こした。シーク教徒とヒンドゥー教徒の難民が直面した残虐行為は、特にシーク教徒の間でイスラム教徒のムスリムに対する復讐心を引き起こして、深い衝撃を与えた。シーク教徒とヒンドゥー教とは、直後に、インド西部から追放された難民が定住できるように、インド東部州のイスラム教徒に対して暴動と虐殺を執行した。

 ラワルピンディ暴動は、1947年3月5日に英領インドのパンジャーブ州ラワルピンディ地区で起こった。イスラム教徒のムスリム同盟暴徒によるヒンドゥー教徒とシーク教徒への広範な暴力、虐殺、強姦事件が勃発した。暴動は約2,000人から約7,000人のシーク教徒とヒンドゥー教徒の死者を出し、ラワルピンディ地区からの大量脱出を引き起こした。ヒンドゥー教のホーリー祭に当たる3月5日に、武装したイスラム教徒の暴徒がラワルピンディやムルタンなどの西パンジャーブ州のいくつかの都市でヒンドゥー教徒やシーク教徒を襲撃し始めた。シーク教徒は約200人近くが殺害され、死傷者の多くはヒンドゥー教徒だった。暴徒は放火、略奪、虐殺、強姦を行い、ラワルピンディ、ジェルム、カンベルプール(現在のアットック)地区の村々で次々と暴れ回った。3月7日にタキシラで列車が暴徒に襲撃され、約22人のヒンドゥー教徒とシーク教徒の乗客が殺害された。カフタ村のシーク教徒とヒンドゥー教徒の居住区の家々は放火され、女性は強姦された。トハ・カルサ村とチョア・カルサ村とベワール村とムガール村とバサリ村の大虐殺は、武装したイスラム教徒の暴徒が村を包囲し、シーク教徒の住民にイスラム教への改宗を求め、シーク教徒が集団自殺した。




2023年12月12日火曜日

アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して呼吸は停止した。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。

イラク戦争が2003年3月20日に開戦する直前に、アメリカ軍は当時は地上戦は開始せずに、空爆を繰り返していた。アメリカ軍のミサイル攻撃の誤爆によって建物が崩壊して、若い男性のイラク人が殺害された。瓦礫の山に駆け寄ったイラク人の運転手は、その下を覗き込むや泣き出した。瓦礫の下に埋まったイラク人の死体を見てしまった。午前7時頃の暗闇に死体が浮かび上がって、イラク人の死体は、髪が縮れた若い男であった。既に絶命して、呼吸は停止していた。イラク人の顔が瓦礫の間に挟まって潰れた。アメリカ軍は、殺害された人間の顔を見ないで、ミサイル攻撃をしていた。開戦前であるので、イラク戦争の犠牲者第一号であろう。あるいは第二号も第三号も、瓦礫の下に埋まっているかもしれない。

 イラク人の運転手のすすり泣きが続いた。外に飛び出していた一人のイラク人が後ろから死体を覗き込んだ。その犠牲者の親戚であったイラク人は、泣き続ける運転手を指さして、「死体は運転手の兄なのだ」と言った。報道写真家が乗って来た車の運転手が、イラク戦争の開戦直前の犠牲者第一号の弟であった。一刻も早く、この場から立ち去らねばならない。すでに誤爆の証拠映像はフィルムに収めて、カードに記録した。物騒な現場に長居は禁物である。しかし、肝心の車の運転手は悲劇で運転不能となった。やがてイラク人の警察官まで現れて、当地にイラク軍の情報部が駆けつけたら、怒り狂って逮捕されるかもしない。

 2003年3月20日午前5時34分(バグダット時間)に、奇襲的なイラクへの軍事侵攻が開始された。宣戦布告はなかった。約24万8000人のアメリカ軍兵士、約4万5000人のイギリス軍兵士、約2000人のオーストラリア軍兵士、特殊部隊GROMから約194人のポーランド軍兵士が派遣された。連合軍は、約7万人以上のイラクのクルド人民兵部隊も支援された。2003年3月20日に、サダム・フセインに対するイラク撤退の最後通告が期限切れを迎えて、アメリカ軍と同盟軍は本格的なイラク侵攻を開始した。




2023年12月11日月曜日

日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。

日露戦争にて激戦地となった旅順要塞がある松樹山付近には、ロシア軍の陣地や塹壕などに弾丸の危害を防ぐために設けた屋根である掩蓋と白骨化した頭蓋骨が散乱した。

 ロシア軍は太平洋艦隊の最大の根拠地とするため、1898年に清国から租借権を得て占領して以来、約8年をかけセメント約20万樽を用いて築城した要塞であった。各堡塁は全てコンクリートで練り固められ、地下道で結ばれた。約百数十門の重砲と火器と強力な機関銃を配備した。正面の本防御線は、東北、西、北の3正面に区分され、白銀山、東鶏冠山、二竜山、松樹山、椅子山、太陽溝高地等の線であった。大孤山・小孤山、水師営南側、203高地等には前進陣地があった。203高地は、旅順港内を一望に観測できる要地であったが、前進陣地にすぎず、わずかな応急陣地だけであった。日本陸軍と大本営は、ロシア軍による旅順要塞の強化を認識していなかった。

 日本軍の第1回総攻撃は、1904年8月19日から砲兵部隊により、8月20日まで砲撃をした。8月21日に歩兵部隊による総突撃を命じた。ロシア軍堡塁は健在で、遮蔽物のない暴露地帯を侵攻する日本軍は、各砲台から火力にさらされ、日本軍兵士はバタバタと倒れて戦死した。連続6昼夜の総攻撃は、参戦した約50,700人のうち約31%にあたる約15,800人の死傷者を出した。8月24日に乃木司令官は攻撃中止を命じた。第2回総攻撃は、10月26日に開始した。11月1日までに、鉢巻山、一戸堡塁、瘤山を奪取したのみで停滞した。第2回総攻撃に参加した日本軍は約44,100人で、そのうち約3,830人の戦死者を出した。ロシア軍陣地前面には日本兵の死体が累々と横たわった。第3回総攻撃は、望台一帯の高地に向かって11月26日から11月29日まで、28インチ砲でロシア軍の要塞に激しい砲撃した。11月30日に歩兵が突撃を開始した。決死隊である白襷隊の約3,100人は、夜間の正面攻撃を敢行して、約2,300人が戦死して部隊は壊滅した。

 203高地を11月27日から12月5日に攻略した。11月31日に203高地を一時占領したが、すぐにロシア軍に奪回された。司令部にて、児玉大将が第3軍の指揮権を乃木大将から委譲させた。直ちに重砲兵部隊を高崎山に移動させ、12月4日から重砲兵部隊はロシア軍の主要砲台を徹底的に砲撃した。ロシア軍の砲台は12月4日に壊滅した。12月5日に歩兵部隊が突撃を敢行して、203高地頂上を占領した。12月6日ついに全山を完全に占領した。第3回総攻撃から203高地占領までに、参戦した日本軍兵士約64,000人のうち、約17,000人の死傷者を出した。

 203高地が占領すると、12月5日に旅順港内の軍艦や港湾施設に砲撃を加えた。12月6日までに旅順艦隊は全滅した。12月18日には東鶏冠山堡塁、12月28日に二竜山堡塁、12月30日に松樹山堡塁が陥落した。1905年1月1日に185高地を占領して、日本軍がまさに旅順市街に突入直前に、白旗を掲げたロシアの軍使が前哨点に現れ、降伏文書を提出した。



 

2023年12月10日日曜日

ウクライナ地域のドネツク州のロシア軍指導者は、戦死したロシア軍兵士たちの死体を秘密裏に大規模なゴミ捨て場に積み上げた。ロシア軍当局は、死者は行方不明と主張して、ロシア軍の死傷率を隠蔽した。

ウクライナ地域のドネツク州のロシア軍指導者は、戦死したロシア軍兵士たちの死体を秘密裏に大規模なゴミ捨て場に積み上げた。ロシア軍当局は、死者は行方不明と主張して、ロシア軍の死傷率を隠蔽した。ウクライナ保安庁は、家族をロシア軍に送り返しては探させている。ロシア軍はウクライナで戦死した兵士を、行方不明として記録して、実数を公表しない。死体は即席の死体捨て場で、積み上げた約200人のロシア軍兵士の死体は、死体の山が約2mの高さにも達した。

  ロシア軍当局は、2022年2月24日に侵攻を始めて以来、ロシア軍が負い続けた損失を隠蔽するために、大規模なゴミ捨て場を使用したことを、ロシア軍同士の電話を何度か傍受したとウクライナ軍当局は主張した。ロシア軍兵士が通話中に、彼の妻から話すのを促された後に、秘密裏の情報を漏らした。ドネツク州に行き、死んだ兄を見つけたと言った。死体のゴミ捨て場を見たと言った。死体の置き場所がなく、死体はゴミ捨て場で、人の背丈ほどもあると、ロシア軍兵士は2分半も会話が傍受された。電話の中で妻に語り、ゴミ捨て場はフェンスで囲まれて、誰も死体に立ち入りできないと付け加えた。

 死体のゴミ捨て場の一つがドネツク州にあり、何百体ものロシア軍兵士の死体が積み上げられ、風雨にさらされ放置された。

ロシア軍は集団墓地に捨てるだけで、その後は跡形もなく消滅したように装って、行方不明にして終わるのが簡便であった。ウクライナで戦死したロシア軍兵士の引き取り手のない死体が入った冷蔵列車のビデオ映像を、アルジャジーラが公開した。その中に人間の死体が入っている白い袋が積み重ねられた。

 ウクライナ軍当局は、ロシア軍がキエフ地方から撤退する際に、ロシア軍兵士の死体を回収した。軍服を着たまま引き取り手のない汚れて腐敗した死体もあった。ウクライナ軍当局は、ロシア軍当局は死者数を抑えるためにロシア軍兵士の死体の引き取りを拒否したと述べた。死亡した軍人の家族に対する補償金の支払いを、文民ではなくロシア軍が監督することを提案した。ロシア軍の損害の本当の規模をロシア国内の住民から隠したい願望を反映した。モスクワ当局はロシア軍兵士の死体をウクライナからベラルーシに密かに運び、国民の目に触れないように死後処置した。

 ウクライナ軍は、2月24日のロシア軍の侵攻の開始以来に約3ヶ月目に入って、約25,000人以上のロシア軍兵士が死亡したと、NATOは約15,000人のロシア軍兵士が死亡したと推定した。一方で、ロシア軍当局は、約1,300人程度ともっと低い数字を主張した。親モスクワ派のタブロイド紙コムソモリスカヤ・プラウダは、約3ヶ月に及ぶウクライナ侵攻で、約9,861人のロシア軍兵士が死亡し、約16,153人が負傷したと述べた。削除される前に、タブロイド紙は数値はロシア国防省の由来と主張した。



















Warning: During the reoccupation of the village of Vilkhivka, East of Kharkiv by Ukraine's 92nd Mechanized Infantry Brigade on March 30th, 2022, a series of mass graves were discovered. They are believed to be members of Russia's 59th Tank Regiment Approximately 90 bodies were found unburied in hastily dug mass graves (SOFREP, May 12, 2023).



2023年12月9日土曜日

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年10月21日に広島原爆病院で植皮術を受けた。

広島原子爆弾に爆心地から約2kmの広島市福島南で4歳の女児が被爆した。熱傷とケロイドの後遺症が、左顔面と両手に残った。被爆して16歳になった少女は、ケロイドが残存する瘢痕の後遺症を形成するために、1957年5月12日に広島原爆病院に入院した。

 金時さんというニックネームの16歳の少女は、広島原子爆弾によって4歳のときに被爆して、顔や首、肘などに大火傷を負った。その後に火傷した皮膚からケロイドが出現した。16歳になるまでに広島原爆病院でケロイドを切除し、傷のない皮膚をはぎ取って、皮膚を植皮する手術を9回受けていた。1957年10月21日に植皮手術により、左側の顔面の頬の一面に、瘢痕したケロイドを切除した。その傷口に両方の大腿から剥ぎ取って植皮した皮膚が張られて、黒い糸で縫い合わされた。

 手術した夜は、いつも金時さんは痛がってあばれた。まだ麻酔のさめない間に、手術室から帰ってきた金時さんをを、入院患者の仲間が集まって、ベッドに帯紐でがんじがらめに縛りつけるのが習慣だった。手術後は絶対安静が必要だった。手術日に、金時さんが手術室へ行く前に、「今夜はあばれないから、しばらないでね」と、同室の入院患者に哀れな声で頼んでいた。しかし、その夜に金時さんは例によってベッド上で痛がってあばれた。一部安静が取れずに、左頰に出血斑が残った。

 1957年7月に、原爆投下から12年を経て初めて広島に行った写真家の土門拳は、1957年11月まで広島に合計36日間にわたり通い詰めた。原爆病院の患者たちをはじめ、被爆者たちの悲惨な「魔の爪跡」を約7,800コマのフィルムに写真記録した。写真集『ヒロシマ』(研光社)は1958年刊行されて、国際的な反響を受けた。




2023年12月8日金曜日

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネを解放後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕で救援物資を握りしめたまま殺害されていた。

ナイジェリア内戦にて、1968年7月6日にナイジェリア軍はビアフラのイコット・エクペネ(Ikot Ekpene)を解放した後に、ナイジェリア軍兵士は、塹壕の中で救援物資を握りしめたままで殺害されていた。

 ビアフラ共和国は、1967年5月26日に虐殺されたイボ族を理由に、ナイジェリアからの分離独立を宣言して、1967年から1970年まで存在した。1960年10月1日にナイジェリアがイギリスから独立した後に、一連の民族的緊張と軍事クーデターが発生し、1966年にはイボ族に対するポグロムが勃発した。約3年間のナジェリア内戦にて、ナイジェリア軍による全面封鎖により、約200万人のビアフラ市民が餓死した。ナイジェリア軍は1960年の独立時に、戦闘ではなく市民を鎮圧する国内治安部隊となった。1966年6月から10月には、ナイジェリア北部で約8,000人から約30,000人のイボ族が虐殺されたポグロムが勃発した。1967年7月6日にナイジェリア軍がビアフラに侵攻して、ビアフラ戦争が勃発した。国際的に、ポグロムと飢饉はジェノサイドに分類され、ホロコーストを非難された。1970年1月14日に、ビアフラ共和国が降伏文書に調印して、内戦の終結と分離独立を放棄した。

 ナイジェリア南部のイコット・エクペネは、おそらく他のどの町よりも、ナイジェリア内戦によるビアフリア戦争で深刻な影響を受けた。ビアフリア軍にとってもナイジェリア軍にとっても、戦略的、軍事的、政治的に重要な町だった。この苦い紛争の中で、町とこの地域は少なくとも3回、所有者が変わった。戦争後、新たな再編成と国家構造により、アンナグ族の指導者のほとんどが戦争中に虐殺された。アナング族はナイジェリア内戦で 大虐殺を受けた。戦争は約3年間(1967年〜1970年)続いて、アナング族はかなりの数の人々を失った。















   1967 年にアフリカのナイジェリアで勃発したビアフラ戦争は、2年半の内戦でビアフラ市民は食料補給路を断たれ、餓死を含め150万以上が死亡した。国際赤十字の援助活動に参加していたフランス人医師らは、国際赤十字のルールであった沈黙の原則を破ってナジェリア政府軍によるビアフラ市民への暴力を公に非難して、1971年12月22日、国境なき医師団(MSF: Médecins Sans Frontières)が設立された。

2023年12月7日木曜日

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。

カンボジア内戦において、ロケット弾の砲撃を受けて、シクロの運転手が死亡して、その死体が路上に横たわり、民衆が取り囲んだ。クール・ルージュが包囲したカンボジアの首都プノンペンへのロケット攻撃後に、1970年4月頃にプノンペンの通りには多数の死体が散乱した。軍事情勢は、クメール・ルージュがプノンペンの北西わずか約10kmにある重要なカンボジア陸軍司令部を大規模に攻撃して悪化した。

 クメール・ルージュに繋がる1967年3月11日のサムラウト蜂起から、カンボジア内戦が勃発した。一方には、アメリカと南ベトナムの支援を受けたカンボジア国王ノロドム・シアヌーク政府があった。反対側には北ベトナムの支援を受けたカンプチア民族統一戦線があった。しかし、アメリカの支援は共産主義者との戦いでは役に立たなかった。1973年3月から7月だけで、約25万トンの爆弾がカンボジア領土に投下された。しかし、これは共産主義者を止めるのには役立たなかった。1975年4月17日に、カンボジアの首都プノンペンはクメール・ルージュの支配下に入った。クメール・ルージュの指導者はポル・ポトであった。

 クメール・ルージュの主な支持者は文盲の若い農民であった。彼らの憎悪と復讐は、都市住民にも及んだ。国民の下層階級の間でクメール・ルージュが絶大な人気を与えた。ベトナムを敵視するという考えが盛んに広められた。クメール共和国の打倒後、クメール・ルージュは代表者の物理的破壊と射殺であった。次のステップは都市からの人々の立ち退きだった。4月18日に、プノンペン住民は、クメール・ルージュに即時退去命令を受けた。住民全員が72時間以内に市から立ち退かされた。人々はあらゆる権利を剥奪された。拒否者は、敵として殺害された。困難な障害者や高齢者も殺害された。道路沿いでは数万人の住民が銃撃された。途中で体力の低下と飢えから多数の人々が死亡した。4月23日、ポル・ポトは空虚な首都プノンペンに入った。

 クメール・ルージュは、カンボジアに共産主義社会を構築する革命実験を開始した。以前の国家は事実上清算された。法令と政府文書以外の読み書きは禁じた。統治の最初の年に、ポル・ポトの指導下のクメール・ルージュは前国家の経済を完全に破壊した。カンボジアにおける正確な犠牲者数は判明していない。クメール・ルージュが権力を掌握して、内戦は終結した。カンボジアの全人口は1,000万人未満であり、死者数は約100万人から約300万人と推定した。

 1978年末、ベトナムはカンボジアへの本格的な侵攻を開始した。1979年2月7日、プノンペンが占領されました。1979年半ばまでに、ベトナムはカンボジアの主要都市をすべて占領した。クメール・ルージュは党派的な立場に転じ、80年代を通じて対ゲリラ戦を実施しなければならない重要な勢力の代表となった。しかし90年代までにこの組織は衰退したが、その残党は今もジャングルで強盗を続けている。 




2023年12月6日水曜日

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

ドニエプル河畔の戦いにて、1944年のドイツ軍とソ連軍の大規模な戦闘に巻き込まれて、犠牲になった子供の死体が川岸に横たわった。一人のソ連赤軍の兵士が、子供の死体の側に跪いて見守って追悼した。

 1943年夏のクルスクの戦いでの敗北後に、ドイツ軍は戦争の主導権を完全に失って、急速に西方へと後退し始めた。ソビエト連邦の主要な河川であるドニエプル川は、東壁の要素だった。ドイツ軍がドニエプル川の西岸に足場を築いて、ソ連赤軍の攻勢を阻止を目論んだ。クルスクの戦いが終結してわずか約3日後の8月26日に、ソ連軍はスモレンスクからアゾフまでの約750kmの前線に大規模な攻勢を開始した。1943年8月26日から12月23日のドニエプル河畔の戦いは、両軍合わせて約400万人もの兵士を動員して、史上最大の戦いの一つとなった。

 ドイツ軍は急遽に、ドニエプル川を渡り避難できるものはすべて避難させた。9月7日、ドイツ軍と親衛隊は、放棄するソ連地域から全て取り除く焦土化政策の命令を受けた。9月24日に開始されたソ連赤軍のドニエプル空挺作戦は頓挫して、約3000人以上の落下傘部隊が戦死した。ソ連赤軍はドニエプル川を渡る機会があれば、単独でも西岸に渡り、そこで橋頭堡を確保した。ドイツ軍の反撃を退けてからソ連赤軍の攻勢に転じた。ドイツ軍が防備を固める時間がなく、両軍の絶え間ない砲火の中で激しい戦闘が繰り広げられた。ドニエプル川を渡って、川の水が血で真っ赤に染まり、何百人もの兵士が目の前で戦死した。

 ドイツ軍は、川を渡ったソ連軍を即座に襲撃して、川に投げ返そうとした。主力部隊が到着する前に確保した橋頭堡を守るために、ソ連赤軍師団は最大で人員の約70%を失った。ドニエプル西岸をめぐる激しい戦闘は1943年10月末まで続いた。ソ連赤軍はウクライナ西岸に重要な橋頭堡を築くことに成功した。ソ連軍が南部のザポロジエ橋頭堡を保持し拡大して、クリミアのドイツ軍を陸地から遮断した。11月6日、キエフが解放された。ドイツ国防軍は1カ月半にわたりキエフの奪還を試みた。12月の最後の10日間、疲弊し衰弱したドイツ軍の攻勢が12月23日についに終結して、ドニエプル河畔の戦いは事実上終結した。ドニエプル川の戦いは、約40万人のソ連軍兵士が死亡して、ドイツ軍兵士は最大で30万人が死亡した。2022年2月24日のロシア侵攻によるウクライナ南部の一部で幅約kmを超えるドニエプル川沿いの戦いは、約80年前は大きな転換点となったが、ウクライナ軍も同様に甚大な犠牲を伴う。




2023年12月5日火曜日

1915年のオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺の際に、殺害されたアルメニア人でジェノサイドを示した。1915年の春から夏にかけて、アルメニア全土でよく見られた。

1915年のオスマン帝国によるアルメニア人の大虐殺の際に、殺害されたアルメニア人でジェノサイド示した。写真の画像はヘンリー・モーゲンソー(Henry Morgenthau)が1918年に出版した『モーゲンソー大使の物語』に引用した。原文で、「道端に倒れた人々。このような光景は、1915年の春から夏にかけて、アルメニア全土でよく見られた。虐殺、飢餓、消耗といったさまざまな形の死が、難民の大部分を破壊した。トルコの政策は、国外追放を装った絶滅であった。」と説明した。

  第一次世界大戦直前に、オスマン帝国には推定約200万人のアルメニア人が住んでいた。1915年から1923年の間に、約150万人のアルメニア人が死亡した。さらに約100万人が外国に難民として避難したり、イスラム教化した。1915年4月24日に、アルメニア人の大虐殺の第一段階は、主にオスマン帝国の首都コンスタンチノープル(現在のトルコの首都イスタンブール)にて数百人近い知識人の逮捕と殺害から勃発した。その後に、世界中のアルメニア人は、4月24日をアルメニア人虐殺の追悼日として記念している。

 第二段階は、約6万人のアルメニア人をトルコ軍に徴兵することで始まった。ジェノサイドの第三段階は、アルメニア人の女性、子供、高齢者をシリアの砂漠での虐殺、強制送還、死の行進であった。行進の間に、数十万人がトルコ軍兵士、憲兵、クルド人やサーカシア人の暴徒によって殺害された。飢饉や伝染病、風雨にさらされ、絶命して死亡した。何千人もの女性と子供が強姦された。数万人が強制的にイスラム教に改宗させられた。アルメニア人の大虐殺の最終段階に、トルコ政府によるオスマン帝国でのアルメニア人の大量殺戮と抹殺の全面的かつ完全な否定をした。アルメニア人のジェノサイドの国際的認知が展開しているが、トルコ政府は歴史的事実の改ざん、プロパガンダ・キャンペーン、ロビー活動など、あらゆる手段を用いて、アルメニア・ジェノサイドの受容に一貫して抵抗してきた。

 ジェノサイドという言葉は、1944年にポーランド系ユダヤ人の弁護士ラファエル・レムキンによって作られた。ナチスによる組織的な殺人、暴力、残虐行為、そして1915年にオスマン帝国でアルメニア人に対して行われた残虐行為を表現した。1948年12月9日、国連は「ジェノサイドの犯罪の防止及び処罰に関する条約」を承認した。この条約はジェノサイドを国際犯罪と定義し、加盟国はその防止と処罰を約束した。




2023年12月4日月曜日

1940年春にソ連軍が約22,000人以上のポーランド人将校を後頭部を撃って重ねて埋めた。カティンの森の集団墓地から、1943年春にナチス・ドイツ軍の兵士らは約4,500人以上のポーランド将校の死体を掘り出した。

1940年春にソ連軍側が約22,000人以上のポーランド人将校を殺害したカティンの森の集団墓地から、1943年春にナチス・ドイツ軍の兵士らは約4,500人以上のポーランド人の死体を掘り出した。ほとんどは、1940年春に強制収容所に強制送還されたポーランド陸軍将校で、後頭部を撃たれて重ねて埋められた。ポーランドは天然の要塞のない平原であり、カティンの森はロシアのスモレンスク地方に位置した。1940年3月以降に、約2万人のポーランド人将兵が行方不明となった。残りはキエフ、ハリコフ、ケルソン(ウクライナ)、ミンスク(ベラルーシ)、カリーニン(現トヴェリ)刑務所で処刑された。ドイツとは不可侵条約を締結していたソビエト軍に捕らえられたポーランド軍将兵は約18万人であった。スターリンは即座に、ドイツが発覚した戦争犯罪をゲシュタポに反撃した。

 ドイツ軍は1943年春に、カティンの森で数千にのぼるポーランド士官の死体を発見した。死体には、9ミリ口径のピストルが撃ち込まれていた。ポーランド人には、予備将校、医師、弁護士、教師などの知識人が多かった。行方不明になった士官は約8,000人で、カティンの森で発見された死体は約4,500人余りで、まだ発見されていない人もいる。1939年8月23日のリッベントロップ・モロトフ協定で ナチス・ドイツとソビエトの同盟を封印して、ポーランドの分割などに合意した。わずか1週間後の9月1日に、ドイツ軍が西方からポーランドへの侵攻を開始して、17日後にはソビエト軍が東方から侵攻する番となった。

 アメリカ特別調査委員会は、ソ連の犯行とした。ロシア共産主義が崩壊して、ソ連側が1990年最終的に虐殺の戦争犯罪の責任を認めた。1940年春にポーランド人捕虜を処刑したのは、スターリンの直接命令を受けたNKVD(ソ連秘密警察)の工作員だったことを認めた。2010年4月に、ロシアのメドベージェフ大統領とプーチン首相の主導で、カティンの森に関する秘密文書の電子コピーがインターネット上に公開された。処刑人であるラヴレンチ・ヴェリア(NKVD長官)が、スターリンに宛てたメモがある。ポーランド人の略式処刑を提案して、スターリンが青い鉛筆で承認した。しかし、共産主義者たちは、公文書館の文書の信憑性を認めず、ナチス・ドイツのゲッベルスらにによる偽造だと主張した。




2023年12月3日日曜日

イスラエル軍により2023年10月24日にガザ地区への空爆後に、パレスチナ人たちは破壊された家屋の瓦礫の下から発見された子供の死体を運び上げた。

イスラエル軍により2023年10月24日にガザ地区への空爆後に、パレスチナ人たちは破壊された家屋の瓦礫の下から発見された子供の死体を運び上げた。パレスチナ人によれば、イスラエル軍とハマス武装組織の壊滅的な戦争は、愛する者を奪うだけでなく、悲しみの中で弔問客に尊厳と安らぎを与えた葬儀の儀式も奪った。ガザ地区の病院や死体安置所は壊滅的な被害を受け、多くの家族は葬儀を執り行うことすらできない。

 包囲されたガザの狭い路地には、死臭と破壊の土の香りが充満していた。粉々になった家屋の残骸の中で、パレスチナ人が人類の最も古く厳粛な任務のひとつである死者の死体の回収を行った。イスラエルとパレスチナの紛争がエスカレートするにつれて、ガザ地区は台風の目にさらされている。イスラエル軍による執拗な空爆作戦によって、ガザ地区は廃墟と化して、パレスチナ人は厳しい現実に直面した。イスラエル軍の空爆の外科的なハマスの処置は、死者が埋葬された瓦礫に反映された。しかし、この紛争は、他の多くの紛争と同様に、目に見えない犠牲者を、生だけでなく死の尊厳も奪った。

 パレスチナ人は逆境に直面しながらも、愛する人が死んでも身元を確認できる方法を見出している。パレスチナ人は識別用のブレスレットを身につけたり、子供の手足に名前をつけたりしていた。イスラエルとハマス武装勢力の戦闘の混乱の中でアイデンティティを維持するためにどれだけの努力が必要であるかを痛切に思い起こさた。しかし、瓦礫の中から回収された死体の中には、見分けがつかないものもある。時には、死者を引き取る生存者がいないこともある。宗教問題を管轄するガザ・アフカフ省は、スペースが限られているため、集団墓地を掘ることを許可せざるを得ない。

  紛争が収まる兆しが見えない中で、ガザ地区の状況は次第に悲惨さを増悪している。イスラエル軍は、ハマス武装勢力のインフラと戦闘員を標的にして地上攻撃を続けている。この作戦による民間人の人的被害は甚大であり、死傷者は数千人にのぼり、その多くが女性や子どもである。ガザ地区が戦争の恐怖と闘っているのを世界中が見守るなかで、国際的な介入の必要性はますます高まっている。国際社会は、暴力に終止符を打ち、想像を絶する逆境に直面しながらも回復力と勇気を示し続けるガザ地区の苦境にあるパレスチナ人に援助を提供するために、迅速に行動しなければならない。

















Warning: Palestinians carry a body of a dead child who was found under the rubble of a destroyed house after Israeli airstrikes on Gaza City, Tuesday, Oct. 24, 2023. (AP Photo/Abed Khaled, File)

2023年12月2日土曜日

長崎原子爆弾の爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。10月中旬に浦上駅の駅舎に急造されたバラックにてイモの配給が始まった。壕舎生活をした長崎市民が集合して、待機する列がができた。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて炸裂して、爆心地から約1kmの浦上駅は崩壊した。その後に浦上駅の駅舎に、小さなバラックを急造した。10月中旬に浦上駅のバラックにてイモの配給が始まった。被爆してから壕舎生活をしていた長崎市民が集合して、待機する列がができた。当時は着る物食べるものは満足になく、何でも配給切符制度であった。

 長崎本線の浦上駅は、長崎市岩川町のほぼ中央に位置していた。爆心地の南に約1kmの地点であった。国鉄の長崎本線の線路を隔てて向こう側に、三菱製鋼長崎製鉄所と接していた。浦上駅も喪失して、建物も人も突然焼滅して、一面が焼野原で燃え残った木の幹が所々に点在した。もろもろの残骸や瓦礫の層、くすぶり続けている建物の断片が散在した。浦上駅は、駅舎が全壊して、約70人の国鉄職員のうちで、約20人は即死した。長崎原子爆弾の被爆後に約45人が原爆病で死亡した。

 三菱製鋼長崎製鉄所は、写真の左から右に、長崎製鉄所の第4工場、第一工場機械工場、第1工場鍛造工場、本館、変電所、第2工場鍛造工場のいずれも崩壊した。長崎原爆の爆風のために、壁体の鉄骨が、基部の支柱との接点で屈曲して、著しく傾斜した。壁とトタン屋根が吹き飛び、鉄骨がむき出した。浦上駅裏の三菱製鋼所は、燃え盛り、音を立てて鉄骨が崩れ落ち、爆風で曲がり折り重なった。従業員の総数は約5,300人で、8月9日被爆当日に勤務者は約3,300人で、半数交代制により午前11時2分には約1,700人が勤務していたと推定された。約1,700人他にも、動員学徒、女子挺身隊、海軍工作隊員が加わっていた。その中で、約1,400人が長崎原子爆弾爆弾に被爆して死亡したと推定された。






2023年12月1日金曜日

ソ連軍はレニングラード西方のオラニエンバウム近郊のドイツ軍陣地の塹壕を占領した。ソ連軍兵士の足元の塹壕の底と堤防には、放置されたドイツ軍兵士の死体が横たわった。

第二次世界大戦の東部戦線において1944年2月から3月頃に、ソ連軍兵士はレニングラード西方のオラニエンバウム(Oranienbaumem)近郊のドイツ軍陣地の塹壕を占領した。ソ連軍兵士の足元の塹壕の底と堤防には、放置されたドイツ軍兵士の死体が横たわった。ソ連軍兵士は、パンサー防衛線上のドイツ軍塹壕を視察した。パンサー・ウォータン戦線は、1943年にドイツ国防軍が東部戦線に建設した防衛線であった。ソ連軍兵士は1944年2月から7月に防衛線の突破を試みて、1944年7月17日に、パンター防衛線はオストロフ市の南で突破された。

 1944年にソ連赤軍が各地で攻勢を開始すると、ドイツ軍はプスコフ周囲のパンサー特別防衛線の建設をした。黒海からバルト海までの防衛線の一部で、パンサー・ウォータン戦線と呼称された。地域南部のオストロフとプスコフの都市であった。ドイツ軍の防御には、コンクリート・ブロックや対戦車壕から地雷原や掘削設備から機関銃、大砲、戦車)に至るまで防御手段が含まれた。要塞はプスコフ湖とヴェリカヤ川の岸沿いの丘の上にあった。

 1944年1月に、ソ連軍はレニングラードを解放し、プスコフに向けて侵攻を開始した。第2バルト海戦線の軍隊も攻撃を開始した。しかし、パンサー戦線でのドイツ軍の抵抗によりさらなる侵攻は阻止された。1944年3月1日に、ソ連軍の砲撃がパンサー戦線の全長に轟いた。ソ連軍によるパンター戦線突破の最初の試みは、プスコフの北と南で最大の損失を被った。ドイツ軍は強力な集中砲火でソ連軍を迎え撃って、すべての攻撃は撃退されて、両軍は非常に大きな損失を被った。第2バルト戦線はイドリザに向かって侵攻できなかった。赤軍兵士がパンサー戦線で占領されたドイツ軍の塹壕を視察した。

 第1バルト戦線と第2バルト戦線による1944年4月の攻撃も再び効果がなかった。3月と同様に、ソ連軍はドイツ軍の防御をわずかに突破した。パンサー線でソ連軍を阻止して、ドイツ北軍集団は前線を一時的に安定させ、1944年7月までソ連軍の侵攻を停止した。1944年7月にパンサー線を突破してバルト三国に侵攻した。1944年7月に、プスコフ地方のドイツ軍の防衛線は消滅して、ソ連軍の大規規模な攻撃が勃発した。7月17日、第3バルト海戦線軍によるプスコフ・オストロフスク攻撃作戦が島南のパンサー戦線の突破から始まり、大規模な軍事作戦の結果、1944年8月11日までに、プスコフ地方はナチスの侵略から完全に解放された。プスコフ郊外の血みどろの戦闘で約1,700人のソ連軍兵士が死亡した。





2023年11月30日木曜日

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を公開で執行された。死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、死刑囚は刑場に倒れた死体となった。

太平洋戦争における日本軍のB・C級戦犯が、中国上海軍事法廷で軍事裁判を受けて、日本軍将兵が死刑を執行された。公開された上海の屋外刑場にて、死刑囚は、戦犯の罪状を記した死者の墓標となる卒堵婆を背部に縛り付けた。中国人民衆は膝まずいた日本軍将兵を取り囲んで騒ぎ立てた。死刑執行人は、拳銃により日本軍将兵の後頭部から狙った。




  







 第二次世界大戦時の連合国は、東京に極東国際軍事裁判所を設置して、日本のA級戦犯の審判を行った。その他上海、済南、武漢、太原、台湾、マニラ、シンガポール、ヤンゴン、サイゴン、ハバロフスクなどで、B級、C級戦犯の審判を行った。連合国に起訴された各種の日本軍の戦犯総数は約5,423人、判決を受けたものは約4,226人、そのうち死刑を執行されたのは約941人であった。その中で、中国では保定、東北、南京、広州、上海、済南、武漢、太原、台湾など10カ所で戦犯を裁く軍事法廷が設置された。1949年2月までに日本軍戦犯約145人に死刑の判決を下した。アメリカやイギリス、オーストラリアにも軍事法廷が設立され、アメリカでは約6人、イギリスでは約21人、オーストラリアでは約5人が死刑になった。

 太平洋戦争後に東京裁判がA級戦犯を裁いたのに対して、横浜、マニラ、ラバウル、シンガポール、上海、広東などの各戦地では、通常の戦争犯罪ある非戦闘員(捕虜を含む)に対する残虐行為を行った者への軍事裁判であるB・C級戦犯裁判が審判された。指揮官としての管理責任を問われた山下奉文と本間雅晴両将軍のマニラ軍事裁判をはじめとして、残虐行為を実際に行ったとされた者に至るまで、B・C級戦犯の多くは、法律による満足な保護や手続もないままに、過酷な取り扱いを受けて、死刑を宣告された日本軍将兵は刑場で死刑が執行されたる。

 日本軍による残虐行為が、実際に多く発生した以上は、やむを得ない側面もあったが、被害者や目撃者の証言などが吟味されることなく証拠として採用された。人違いや、風俗習慣の違いからきた誤解、さらには個人的怨恨による告発などもあって、処刑や服役した者のなかにも、無実の者が含まれる否定できない。

   BC級戦犯は、連合国によって布告された国際軍事裁判所条例及び極東国際軍事裁判条例における戦争犯罪類型B項「通例の戦争犯罪」またはC項「人道に対する罪」に該当する戦争犯罪である。戦争犯罪人とされ罪状に問われた。A項は、平和に対する罪で訴追された者は「A級戦犯」と呼称した。日本のBC級戦犯は、GHQにより横浜やマニラなど世界49カ所の軍事法廷で裁かれた。被告人は約5700人で約1000人が死刑判決を受けたとされた。











     上海の刑場で、死刑執行人は、拳銃で後頭部を弾丸を射撃して、日本軍将兵の死刑囚を前にたまらず全弾を撃ち抜いた。殺害された死刑囚は刑場に倒れた死体となった。


2023年11月29日水曜日

朝鮮戦争にて1951年9月24日に、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

朝鮮戦争において、1951年9月23日に、国連軍は朝鮮半島の38度線の北に数km前進し、約3週間にわたって北朝鮮軍と交戦した。9月24日、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

 1951年9月13日に「ブラッディ・リッジ」の北隣の尾根である「ハートブレイク・リッジ」の戦いは、38度線の北側でアメリカ軍第2歩兵師団によって開戦した。約30日間にわたる戦闘の末、1951年10月15日に、3745人の死傷者を出しながら、この地域はアメリカ軍によって確保された。両軍とも多大な損害を被ったため、朝鮮戦争で国連軍が行った最後の大規模な攻撃となった。

 1951年4月11日にトルーマン大統領は、マッカーサー元師を解任した。朝鮮戦争は膠着状態が続いて、朝鮮半島の領土の交換はほとんど行われなかった。1951年7月10日に、国連軍と北朝鮮軍は開城で休戦交渉を開始することに合意した。休戦交渉は8月22日に共産党軍によって打ち切られた。その後、アメリカ軍の第8軍の防御態勢を改善するため、一連の限定的な目標攻撃を開始した。朝鮮半島の中東部のアメリカ軍の第X軍団と韓国軍の第1軍団は、カンザス線への攻撃を有利にする陣地から、北朝鮮軍を追い出すため、カンザス線から約8km〜約11km上方の地形目標(ブラッディーリッジやハートブレイクリッジなど)を目指して戦った。1951年10月最終週までに、これらの目標は確保された。朝鮮半島の38度線沿いで血みどろの膠着状態が続く中で10月25日に、板門店の新しい場所で共産党代表団と国連代表団による休戦交渉が再開された。




2023年11月28日火曜日

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。

アメリカの南北戦争にて1863年7月5日に、ペンシルベニア州のゲティスバーグに位置するローズ・ウッズ(バラの森)の端に、殺害された南軍の死体を埋葬のために集積した。これらの南軍兵士の死体は、1863年7月2日にローズ・ウッズとその周辺で戦った南軍のジョージア連隊あるいはサウスカロライナ連隊兵士の死体と推定された。チャンセラーズビルでの恐ろしい交戦の代償の一部でもある。南軍の最大の損失はストーンウォール・ジャクソン中将であった。何百人もの両軍の戦死兵士の死体が、夜の荒野で燃え盛る雑木林の中で焼かれた。

 ティモシー・オサリバンとアレクサンダー・ガードナーの戦争写真家が、1863年7月5日あるいは7月6日にローズ・ウッズの端近くで撮影した一連の写真の1枚である。ボルダーに最も近い兵士の死体は浅い墓に横たわった。背景には、写真家たちの暗室ワゴンが見える。ゲティスバーグのローズ・ウッズにいた南軍の死者の写真は、埋葬を待つ複数の男性が伏せた状態で一列に並んで、約3人ほどがうつ伏せになった。

 死体群は南軍が撤退する前に、埋葬するために集積した。腐敗し、肥大化した死体を集めた。腐敗して肥大化した死体を、最後の安置する墓地まで引きずるロープの先には、しばしば曲がった銃剣がフックとして使われた。引きずりの最中に、死体のズボンが下りてきた。南軍兵士が死体を埋葬する直前に、埋葬は未完成のままで、退却するよう突然命令が下された。

 1863年7月1日から7月3日に勃発したゲティスバーグの戦いは、北米で戦われた最大の陸戦となった。ゲティスバーグでは、南軍のロバート・リー将軍が率いる北ヴァージニア軍は約7万5千人であった。北軍のジョージ・C・ミード将軍が率いるポトマック軍は推定9万3千人であった。ゲティスバーグの戦いで、北軍と南軍のおよそ約5万人の兵士が死傷・行方不明の犠牲の結果に終わった。




2023年11月27日月曜日

第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍がスターリングラード攻防戦時に、戦死して地面に倒れたクロアチア軍団のクロアチア人からドイツ軍隊の識別バッジが外された。

第二次世界大戦の東部戦線にて、ドイツ軍がスターリングラード攻防戦時に、戦死して地面に倒れたクロアチア軍団のクロアチア人からドイツ軍隊の識別バッジが外された。クロアチア人は、非ドイツ軍部隊として、第100イェーガー師団の一部として戦った。クロアチア軍団は、ドイツ軍とスターリングラード市街戦で戦闘した唯一の外国人部隊だった。

 クロアチア独立国(NDH)は1941年4月10日、ドイツとイタリアの庇護のもと、破壊されたユーゴスラビア王国の廃墟に設立された。その2ヵ月後、ドイツ軍がソ連に侵攻した直後は、クロアチア王国は戦争に巻き込れなかった。バルバロッサ作戦開始の翌日である6月23日に、クロアチアのファシストのウスタシェの指導者アンテ・パヴェリッチ(Ante Pavelić)は、東部戦線に軍隊を派遣することをヒトラー総統に公式に伝え、受諾された。クロアチア独立国軍の大部分は、チトーのパルチザンと戦うために、クロアチアの領土に留まった。

 ソ連赤軍との戦いに派遣されたウスタシェ部隊は、クロアチア人志願兵で構成された。ソ連赤軍と戦うために、クロアチア軍団の最大4,000人の第369強化歩兵連隊が編成された。中核はクロアチア人で構成され、ボスニアのイスラム教徒も多く含まれた。1941年10月初旬、クロアチア軍団はウクライナに到着し、南方軍集団のソ連攻勢に加わった。1942年9月27日、クロアチア軍団はドイツ軍第100イェーガー師団の一員としてスターリングラードに侵攻した。

 クロアチア軍団は、爆撃の後に残存した巨大な溝を這いながら、連隊の陣地に向かって侵攻した。ソ連軍の爆撃機はリン爆弾を投下して、多くの兵士が生きたまま焼かれた。建物ひとつひとつを掃討しながら侵攻した。激しい冬の戦いの後、クロアチア軍団は事実上消滅して、生き残った者はソビエト軍の捕虜となった。




2023年11月26日日曜日

2023年9月6日に、ウクライナのコスティアンティニフカ市の食品市場で、ロシア軍のロケット攻撃を受けて殺害された男性の死体を、救急隊員が担架で搬送した。民間ウクライナ人が約17人が死亡して、約33人が負傷した。

2023年9月6日に、ウクライナのコスティアンティニフカ(Kostiantynivka)市の中心部の食品市場で、ロシア軍のロケット攻撃を受けて殺害され死亡した男性の死体を、救急隊員が担架で搬送した。ロシア軍のミサイルが、ウクライナ東部の屋外市場を切り裂き、民間ウクライナ人が約17人が死亡して、約33人が負傷した。コスティアンティニフカは、激戦地のバフムト周辺の前線に近く、頻繁にウクライナ軍関係者で混雑する。

 ウクライナ東部のドネツク州のコスティアンティニフカを襲ったロシア軍のミサイルは、屋外市場を、灼熱の黒焦げの廃墟と化して、死体が散乱した。市場の残骸があり、炎に包まれた車の近くには、黒焦げになった死体が衣服ごと路上で燃えた。死体が燃え盛る市場の前に転がった。新鮮なパセリを売る屋台の裏では、救助隊が血まみれの私服姿の女性を発見した。救急隊員が、コンスタンチノフカの食料品市場へのロシア軍のロケット弾攻撃で死亡した女性の脈拍を検査して検死した。消防士たちが炎を消そうとするなか、救急隊員たちは止血帯を装着し、担架や毛布を使って死傷者を緊急車両に乗せようと急いだ。ポスターや防水シートが死者を覆うために使われた。見物した住民は涙を流して、互いに慰め合った。

 人通りの多い大通りの真ん中で大きな爆発が起こり、歩行者が逃げ惑うなか、近くのビルのガラスが割れた。現場で消防隊員が対応するなか、激しい火災と、焼け焦げた車や建物から濃い黒煙が立ち上った。爆発の影響で、床に飛び散った血痕、燃える車、破壊された建物、救急隊員は死体を搬送した。ウクライナの検察当局によると、約30のパビリオン、20の商店、行政ビル、アパート、送電線が被害を受けた。アントニー・ブリンケン国務長官が、軍事・人道支援を含むウクライナへの10億ドル以上の軍事支援でキエフ訪問直後に、ロシア軍がミサイル攻撃をした。














Warning: Paramedics carry on a stretcher the body of a man who was killed after a Russian rocket attack on the food market in the city center of Kostiantynivka, September, 6, 2023.(AP Photo/ Evgeniy Maloletka)


2023年11月25日土曜日

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原子爆弾の投下して約3か月後に、原爆症の放射線疾患から回復中である。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

原子爆弾による38歳の男性の被爆者である。原爆症の放射線疾患から回復中である。原子爆弾の投下して約3か月後に写真を撮影された。口腔内の歯ぐきと下顎の壊死を示した。

 歯肉炎、口内炎、咽頭炎を含む粘膜の潰瘍化は、より原爆症の重症事例に共通していた。臨床症状は、白血球減少症と類似した。通例で、出血性下痢を伴ったが、多くの症例では伝染性の炎症によるので、その評価は困難であった。歯肉炎が始まった頃に、粘膜に点状現れる場合があった。但し、皮膚出血はもっと後に出現した。広島で収集した原爆症の資料から、ほとんどの症例は爆心地から半径約1.5km以内で発症した。

 アメリカ軍の米国戦略爆撃調査団は、ルーズベルト大統領の指令に基づいて、1944年11月3日に結成された。トルーマン大統領は、1945年8月15日に、対日本戦における空襲の効果について調査を指令した。対日戦の米国戦略爆撃調査団は、文官約300人、士官が約350人、下士官約500人で構成された。原子爆弾が投下されて約1月間経過した1945年9月初旬から、東京を基点として、名古屋・大阪・広島・長崎に支部を設置した。調査団の収集した資料は常設の政府機関に移管された。1945年10月から12月に約10週間、広島と長崎の被爆都市で実地調査した。他の調査機関である、対日原爆調査合同会議、対日英調査団、対日海軍技術調査団と相互協力した。

 原爆が炸裂直後に死亡した者の死因に関する記録はなかった。放射線は直ちに死を引き起こすものではないく、被爆死は他の傷害因子が死因となる。広島県保健局は、約60%は火傷(閃光火傷あるいは火災による火傷)、約30%は落下して破片、約10%はその他の傷害と推定した。その他の推定では、約50%は火傷が原因であり、約50%はその他の物理的傷害とされた。

 爆心地に非常に近い被爆者が、閃光火傷も二次傷害も被らなかった被爆者が、2から3日以内に原爆症は発症して、出血性下痢を引き起こして、上部呼吸器と胃腸粘膜に急性炎症を認めて。幾人かは、原爆症を発症して2〜3日で死亡した。大半の被爆者は約1週間後に死亡した。日本側調査団は、短期間で死亡した被爆者に血液中の著しい変化を証明するのは困難であった。




2023年11月24日金曜日

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して傷付いた。中国軍は広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送された。

日中戦争の大陸打通作戦にて日本軍と中国軍の戦闘は過酷だった。多くの軍隊の兵士が戦死して、傷付いた。このために、中国軍は次々と野戦病院を増設した。それでも死傷兵士の完全収容は不可能だった。広西省に新設された野戦病院に担架で死傷兵士を搬送した。それを中国人の従軍看護婦が見守っていた。徒歩で到着した中国人の戦傷兵士は野戦病院前にて、治療の手続きを待機した。

 桂林・柳州の戦いにて、日本の第11軍は桂林攻略を計画した。全県と桂林の間は約120kmもあり、支那派遣軍は一号作戦計画時から、柳州は第23軍が攻略を実施させ予定が、発動しなかった。第11軍は桂林攻略に固執し、その計画は1944年10月5日に決定した。

 桂柳攻略作戦の主力は日本の第11軍で、第23軍は側面から重慶軍を牽制した。第23軍傘下の第104師団は、10月14日に広西省に侵攻して、中国の重慶軍を牽制した。日本軍の丹竹平地で飛行場の占領も、中国軍に脅威を与えた。10月中旬に武林へ侵攻した第22師団は、アメリカ軍の爆撃機の来襲が激しく、防空壕に留まった。

  第11軍は10月26日に、桂林攻略の命令を受け、第3師団と第37師団に発進命令を出した。第3師団は広西省に侵攻すると、早くも中国人住民から自衛団の抵抗をうけた。11月4日に、歩兵第34連隊竹下大隊は雨中を突破して、不眠不休で修仁の高地で炊事を始めた。重慶軍はこの火に向けてアメリカ製10ミリ榴弾砲で初めて猛射した。

  10月28日に、第58師団の正面で重慶軍が退却を始めた。第58師団の第一線部隊が追撃を開始した。第40師団が桂林に進撃を開始した。第40師団は桂林の南側から攻撃を、中国軍から反撃され、逆に苦戦を強いられ、東方正面からの攻撃を命じらた。

 11月4日、湘桂作戦の最大の作戦である桂林城攻略のため七星巌の夜襲が執行された。中国軍は陣地内から銃や迫撃砲で応戦を開始した。日本軍は火焔放射器を使用したが、重慶軍の激しい防戦に会い、血戦は11月8日の朝まで続いた。中国軍側は日本軍は毒ガスを使用したと抗議した。

  11月9日に、第58師団による桂林の総攻撃が勃発した。日本軍は野砲42門を中心に、空からは第5航空部隊が市街地を銃爆撃した。重慶軍の応戦は激しく、日本軍の戦車へも果敢に砲撃を加えた。日本軍は水東門から桂林城中に突入に成功して、城内は混乱状態に陥った。敵味方の識別も難しい中での市街戦がはじまった。激闘一日半、桂林は第11軍が確保した。日本軍側の犠牲者数は不明で、中国軍の戦死者は約5600人、捕虜は約13,000余人を数えた。日本軍が桂林、柳州を占拠して「一号作戦」の目的である中国西南部のアメリカ軍用航空基地は全て奪取した。