2018年9月30日日曜日

エジプト軍事勢力がデモ隊を弾圧と虐殺して、ムスリム同胞団の多数の死体がモスク内に集積された。

カイロのラバア地区でデモ隊が2013年8月14日に弾圧された。イスラム主義者のデモ市民の死体は、モスク内に集積された。支援者が、死体に腐敗予防の氷を置いた。死体を巻いていた敷布からカーベットに、氷が溶け出した水分が溢れ出した。支援者は、その水たまりの中で素足で見守りながら立ち続けた。
 アラブの春によるエジプト革命でムバラク政権が2011年1月25日革命で崩壊して、スンニ派のムスリム同胞団のムルシー大統領が2011年7日に就任した。中東戦争で活躍していた軍部は、ムスリム同胞団のムルシー大統領を軍事クーデターで2013年8月7日に追放されると、同胞団を中心としたイスラム主義運動が、モスクと周辺のテント村を拠点として、デモ抵抗運動をした。エジプトの治安当局は、カイロのモスク周辺におけるイスラム主義のデモ抵抗運動者を襲撃した。当局との相互の発砲によって、周辺の歩道の通行者などの多くの市民が流れ弾を受けて死亡した。2013年8月7日はエジプト暫定政権は、ムルシ支持派による座り込みの抗議デモに、地元住民からの苦情を受けたとして強制排除警告を発していた。8月14日に中央治安部隊が、ムルシー前大統領の母校で前大統領支持派の拠点となっていたカイロ大学前及びラーバア・アダウィーヤ広場の2カ所で抗議デモの強制排除を行って、多数のデモ隊などが死亡した。15日夜までの死者数は全土で638人以上とされた。警察は、「デモ参加者らの殺害は違法性のかけらもなく、非常に静かに行われた」と無視した。2014年6月からシーシー大統領による軍事政権は、反体制的言論や勢力の撲滅を全土で行った。テロリスト掃討運動の監視として、治安当局の権限を拡大して弾圧した。



2018年9月29日土曜日

カリフォルニア州ブロデリックにおいて、無職の父親と子供兄弟は一緒にホームレスで飢えた困窮の生活に陥った

カリフォルニア州ブロデリックにおいて、1989年にマーレイ家は、無職の父親と子供兄弟は一緒にテントで飢えた困窮のホームレスに陥った。アメリカ合衆国では、果てしない貧困と戦う貧困戦争が頻発している。普通の市民も、アメリカの過去の繁栄から坂を転げる落ちるように、ワーキングプアやホームレスに転落した。貧困戦争により弱肉強食の社会になり、強者に甘く弱者に厳しい格差社会が到来した。どん底の生活で生存しているアメリカ人もまぎれもなくいる。脱工業化時代となったアメリカでは、アメリカ工業時代の普通の市民が犠牲者となった。1960年代には世界で最も豊かな国であったアメリカでも限られた分野に貧困は存在した。特定の地域的に集中した貧困地区を撲滅する諸活動を貧困戦争とした。
  1984年12月5日に、カリフォルニア州サンタバーバラでは、ホームレスで35歳のケネス・パーが虐殺された。その周辺には、高級住宅街・ホームレスの殺人・警察の暴力・自衛団などが混在した。生活の基盤を失った息子らを、貧困徴兵に応じて一兵卒として戦場に駆り出している。長いあいだ貧困に苦しむ普通の市民層は救われず途方に暮れていた。貧困と戦争は切っても切れない関係がある。戦争の根底には貧困問題が潜在している。貧困と汚職が戦争に駆り立てていると「戦争の代償(The Cost of War)」を2009年11月18日に公表された。アフガニスタン戦争の主な要因として70%が「失業」と「貧困」を挙げ、48%が「汚職」と「機能していない政府」と回答した。アメリカ合衆国には、1960年以降に生まれた男子は18歳の誕生日を迎える30日以内に兵役登録の責務がある。



2018年9月28日金曜日

ヨルダン川西岸から投石するパレスチナ人の18歳青年の右目から後頭部に、イスラエル軍の射撃が炸裂して虐殺された。

イスラエル軍に向けて2000年10月20日午後3時に投石中に、ヨルダン川西岸のラマラ自治区において、パレスチナ人の18歳の青年のサイール・アリ・ダウドがイスラエル軍により射殺された。パレスチナ人の青年は、頭部に銃撃をうけて、右目から後頭部に炸裂して即死していた。イスラエル軍の銃撃を避けながら、多数のパレスチナ人同志が、頭部から多量の出血しているサイール・アリ・ダウドを救護するために、死体を持ち上げながら小走りで救急車に運搬した。イスラエルのシャロン・リクード党首・外相(後に首相)が約1,000名の武装したイラク軍とアル・アクサモスクに入場して武力衝突が勃発した。2000年9月30日には、アル・アクサ・インティファーダ(第2次)発生して、PLO(バレスチナ開放機構)との和平交渉が決裂した。パレスチナ軍のインティファーダとはイスラエルによるパレスチナ軍事占領に対する市民抵抗運動の衝突が勃発した。
    それまでにパレスチナ自治政府は、ヨルダン川西岸地区およびガザ地区に存在したパレスチナ人による自治機関であり、1994年に成立した。第1次インティファーダは、1987年に4人の死亡者の衝突事故から勃発して、暴力行為は1993年8月のオスロ合意および1994年5月のパレスチナ自治政府で沈静化した。同時に1887年からイスラエル人とパレスチナ人双方の市民には平和運動や交流活動、イスラエルでの徴兵拒否や予備役兵の赴任拒否などの運動もあった。パレスチナ自治政府は和平を進めることを公式方針としたが、武力の弱点をおぎなうためテロ戦略の武装組織も存在して、若者や女性を頻繁に自爆テロ攻撃に駆使していた。一方で、イスラエル政府は占領中のヨルダン川西岸地区に入植者を送り込み、市民を不法な領土拡張政策に加担させた。イスラエル人の入植者達やイスラエル軍が、パレスチナ人地区をイスラエル人の地区として植民地化した。



2018年9月27日木曜日

連合軍がノルマンディーに上陸してから猛撃して、虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。

連合軍が1944年6月6日にノルマンディーに上陸してから猛撃した。虐殺されたドイツ軍兵士の死体が対空砲の側で散在した。1944年6月6日から7月11日までフランス国内において、ナチス・ドイツ軍は、約2,000人の将校と約85,000人兵士の戦傷者が犠牲となった。7月17日までには、ナチス・ドイツ軍は、約2,360人の将校と約97,640人兵士の戦傷者が犠牲となった。ナチス・ドイツ軍は、フランスにおける兵力損失は12%以上に達して、戦力を補充することは不可能となった。
 連合軍は侵攻を開始するために、まずフランスのノルマンディ地域のヘッジエルから突破した。まずクタンス地域に向かって進軍すれば、ナチス・ドイツ軍は瞬時に崩壊すると想定した。連合軍は軍事力とスパイ情報から、ナチス・ドイツ軍は、士気が消失して武力の深刻な不足に陥っていると過信した。しかし7月初旬になると想定外となり、ナチス・ドイツ軍は再編成と補給されて強化された。連合軍の侵攻の勢いは頓挫して、7月11日から逆にナチス・ドイツ軍が反撃を開始した。連合軍はノルマンディーで明らかな軍事的膠着に陥った。攻略するために、ナチス・ドイツ軍の背後にある水陸両用または空中着陸を考慮した。連合軍はコブラ作戦で7月25日から31日までの約2,000機による殺人的な絨毯爆撃を実行した。サン=ロー・ペリエの戦場は辺り一面がクレーターの様になり、ドイツ軍は壊滅状態となり屍の死体で溢れた。ドイツ軍兵士は皆、死んだか負傷して埋もれたか、発狂した。



2018年9月26日水曜日

日本軍が北間島の村落を放火し、ピョン農民が大極旗を振り大韓独立運動と叫び、日本刀により両腕を切断した。

日本軍が韓国を併合した時代に、朝鮮近辺における北間島の和竜県の全村落を放火した。その最中に、村民の30歳台のピョンと名付けた農民が、大極旗を振りながら、大韓独立運動と叫んだ。日本軍がピョンを検挙した。その処罰として、日本軍兵が、日本刀を振りかざして、ピョンの両腕を切断した。両腕から大量に出血して、直後に大地に倒れた。
 1902年10月に、日本軍がシベリアから撤退して、東南にソ連、西南に豆満江を挟んで朝鮮に接していた間島を侵略した。1920年10月に間島の日本領事館の琿春分館が2度に襲撃事件を引き起こして、朝鮮独立運動の容疑者を大量虐殺をした。朝鮮独立運動勢力は、北間島の周辺に潜伏した。日本軍は、北間島地方を無差別に弾圧した。1931年9月18日から満州事変が勃発してから、朝鮮独立運動は抗日闘争が過激化した。1934年に朝鮮人が土地を奪われて間島に流刑されて、人口が増大して約570,000人にも達した。間島を拠点とする独立武力勢力は強化されて、東北人民革命軍に合流して、中国共産党の支配下に入って、抗日統一戦線が結成された。



2018年9月25日火曜日

長崎原子爆弾により重度の火傷を3歳女児が被爆して大村海軍病院の入院直後に死亡した。(長崎)

長崎原子爆弾が1945年8月9日に投下されて、重度の火傷を3歳の女児が被爆した。8月26日に大村海軍病院の三病舎に入院した。すぐに重症で重毒であるとし診断された。右側頭部挫傷と左右の下肢が熱傷した。入院して、火傷部にガーゼー覆うべき処置をした。その後の入院記録もなく、入院直後に死亡したと推察された。終戦後には、大村海軍病院に9月26日に進駐してきたアメリカ兵が病院の被爆者の資料をすべて持ち帰った。 1973年アメリカ陸軍病理学研究所(AFIP)から学術資料や病理組織などが返還された。



2018年9月24日月曜日

南北戦争の南軍兵士の死体を葬儀するため、1864年にスポットシルベニア郡に集積した。

南北戦争において死んだ南軍の兵士の死体を葬儀するために、1864年5月にバージニア州北東部のスポットシルベニア郡に集積した。
 150人以上の兵士の死体は、整頓するよりもむしろ投げつけて集積することが多った。腐った死体が破裂した悪臭が消滅するまで、致し方なく埋葬の担当者は他の場所で働かされた。南軍兵士たちは銃をならびに、死体の下肢と上肢をまっすぐに伸ばして、できるだけ多くの穴の中埋め込むように踏みつけた。時には、担当者が自力で押し付けて、大量の死体を埋葬することが必要になった。コネチカット州の牧師は戦争の最後の日に約23人関係者が虐殺された絶望的な場面に遭遇した。短期間の滞在でできることは、死者を共通の墓に急いで埋葬することであった。長い道のりを歩いて行こうとすると、役人たちが、近くにいる人々を徴兵していた。それを避けるために、明らかに自らの居住者の名前を抹消した。1862年9月17日のアンティタームの戦いで、虐殺して塹壕に埋葬された「80人の反逆者」を示す簡易な木製の標識つけた。通例では、北軍と南軍の兵士は別々に埋葬をした。軍事病院の戦死者を無差別に埋葬したことが発見された。自らの死亡した勇敢な兵士の墓と、無価値な侵略者の土壌の墓を区別しないと牧師は表明した。兵士の頭を地面に覆うために、金を得るだけの気遣いをしている葬儀屋が原因であると思えて、病院墓地の別々の墓地に埋葬して、南軍と北軍の死体は死体は分離した。疲れた兵士らは、自然の塹壕と既存の斜面を利用した。 2回目のブルランの戦いの後、鉄道発掘で作られた尾根の横に約85人の死者が埋葬された。その後に塹壕を平坦化する埋葬方法で覆った。バージニの戦闘では、死者を1863年の春に、兵士を道路の両側にある深い溝の下に落として、その上を土砂で覆うために掘った。



2018年9月23日日曜日

タイの左翼学生が絞首刑で虐殺され、右翼の学生が非常に興奮して、折り畳み椅子で頭部を拳打し続けた。

タイは、1976年10月に2年ぶりの第3政権は、右派の市民右派組織と左派の大学生の間の衝突によって揺れ動いた。一晩遅く、2人のリベラルな学生がリンチされて首吊りで虐殺された。右翼の学生は、大学近くで左翼の学生を虐待して攻撃した10月6日の朝に、彼らは極秘にジャングルで虐待した。ジャングルでは、右翼の学生たちは、ますます興奮して暴力的になった。ライフルを武装した政権勢力の軍隊が現れた。左翼の学生は武装しておらず防御できずに、大学の建物内に避難した。自動小銃の激しい爆発音がサッカー場を越えて放たれた。避難した建物は全てのガラスが破壊されて、左翼の学生が逃避する場所はなかった。最後に、左翼の学生は降伏した。木々の中でいくつかの騒動が勃発した。身体が首吊りで針金で樹木からぶら下がった。左翼学生は確実に絞首刑で虐殺されていた。右翼の学生集団は非常に興奮して激怒して、折り畳み式の椅子で頭部を拳打し続けた。
   タンマサート大学虐殺事件または血の水曜日事件は、タイ王国で1976年10月6日クーデターの過程で発生した。タイ王国の首都であるバンコク市内タンマサート大学の構内で勃発した。左翼学生は、亡命先から強行帰国したタノーム・キッティカチョーン元首相の断罪を政府セーニー・プラーモート内閣に要求する約10,000人の集会運動をした。左翼の学生集団に、サガット・チャローユー国防相率いる国境警備警察、バンコク市警察と民間右派組織が攻撃した。集会参加者の約100人が検挙と拘束された。集会参加者の約2人は虐殺されて、約36人の負傷者が虐待された。さらに集会参加者の検挙拘束は約100人、集会参加者の犠牲者46人、負傷者167人を弾圧した。集会を制圧した午後6時に、サガット国防相は国家統治改革評議会の名の下に戒厳令と軍事クーデターを宣言して、セーニー・プラーモート首相は失脚して排除された。

 第2次世界大戦後に、タイではピブン政権から、軍事クーデーターによるサリット政権、クーデターによる政権の成立で、軍事政権の勃発から新憲法制定して、政党政治の復活するも、政治権力が腐敗を起こした。市民集会やデモに軍が軍隊が発砲して犠牲者が出る事件も相次いだ。軍事クーデターよる軍事政権の樹立する悪循環が現在まで何度も繰り返された。 



2018年9月22日土曜日

日本軍兵士はアメリカ軍海兵隊に正面突撃してガダルカナルのムカデ高地台上で草生す屍となった。

太平洋戦争において日本帝国軍とアメリカ軍の海兵隊が、1942年9月12日から14日までソロモン諸島のガダルカナルで激闘した。海兵隊は1942年8月7日にガダルカナルに上陸して、ヘンダーソンフィールド飛行場を防御するためにルンガ河周辺で守った。日本軍は、海兵隊の上陸に応じてガダルカナルに、約6,000人の日本軍兵士を投入して、9月13日の夜間にアメリカ軍の防衛網に正面突撃を行った。主な日本の突撃は、ヘンダーソンフィールド飛行場のルンガ南部の尾根周辺で発生した。海兵隊の防御網により、日本軍はは全面的に壊滅して敗退した。
 日本軍はガダルカナルのジャングルを突破して大きく南に迂回して、海兵隊の後方を狙った。大砲などの重火器は運べず、刀や銃剣による突撃になった。迎え撃つ海兵隊は、鉄条網に高圧電流を流し、多量の地雷を設置した上に、機関銃と大砲で射撃した。ムカデ高地南部は「血染めの丘」と呼ばれて、日本軍兵士は「突撃!」と叫びながら、刀や銃を振り回しながら、海兵隊の防衛戦に激突した。約800人もの日本兵が即死して、ジャングルと急峻な地形の中を撤退して、多数の日本軍兵士が外傷から飢餓や感染症などで死亡した。



2018年9月21日金曜日

日本軍により武漢を追われた中国人老婆は、病気の老夫らを抱えながら揚子江からボート難民として途方に暮れて逃避した。

日中戦争において、日本軍が武漢を1938年10月26日に占領した。武漢を追われた中国人老婆は、病気の老夫らを抱えながら揚子江からボート難民として途方に暮れて逃避した。1938年に南京を追われた蒋介石は、武漢に仮首都を置いた。日本軍は武漢攻略作戦で猛烈な総攻撃を加えた。日本軍の戦力は最大規模の約300,000もに達した。日本帝国は戦力調達のために1938年5月に国家総動員法を施行した。武漢攻略作戦は1938年8月に開始した。中国軍は兵員数は約4倍もあり、日本軍はマラリアや中国軍の激しい抵抗と犠牲を伴うも、10月25日に武漢を陥落した。日本軍の犠牲者数は戦死者約7,000人、戦傷者約25,000人に達した。蒋介石は占領の直前に政府をさらに奥地の重慶へと移転させて、 日本軍は中国国民党を降伏するのにまた挫折した。
 1931年に中国・奉天(現在の瀋陽市)郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が発生して満州事変が勃発した。1931年の暫定総動員計画は戦時の軍需品供給を優先する応急総動員計画iに移行した。1938年の第73帝国議会に国家総動員法案を提出、4月1日に公布され月5日より施行された。日本国民にとり非常に厳しい戦時下体制に至った。



2018年9月20日木曜日

ロシア帝国のオデッサでは、約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺された。

ツァール・ニコラス2世が1905年10月に声明文を発行した後に、反ユダヤ人によるユダヤ人虐殺の波が席巻した。革命期の帝国ロシアの民族的と政治的な緊張と暴動を反映した。基本的な市民権と政治的自由をロシア人に付与した数週間後に、主にユダヤ人に向けられた虐殺だけでなく、何百人もの市町村で学生、知識人、その他の少数民族が数多くの市町村で反乱が勃発した。港湾都市オデッサだけ、少なくとも約400人ユダヤ人と約100人の非ユダヤ人市民が殺され、ユダヤ人を中心に約300人が負傷したと警察は報告した。約1,600以上のユダヤ人の家屋、アパート、店舗が破壊されて、その被害は膨大となった。1905年のロシア帝国では、他のどの都市も、オデッサのユダヤ人に匹敵する虐殺は発生しなかった。ロシア帝国後期の反宗教主義とユダヤ人虐殺は過剰となった。オデッサはロシア帝国で4番目のに大都市で、人口約40万人で、約138,000人のユダヤ人が居住していた。19世紀から20世紀初頭にかけて、西ヨーロッパやロシアの多くの地域で、民族的差別により、民族宗教的対立と政治経済的危機が影響した。19世紀の大半の間は、ユダヤ人は特にオデッサで歓迎されていた。オデッサのユダヤ人は、一般的には潜在したままであった。度重なる戦争が始まった19世紀になり、愛国主義や民族主義が勃発して、ユダヤ人は反ユダヤ人主義に巻き込まれた。戦争によるオデッサからの穀物輸出をユダヤ人が仲介して敵対主義が扇動された。

  ロシア帝国は1905年1月22日に血の日曜日事件で市民を虐殺した。6月14日にロシア海軍の戦艦ポチョムキンの乗組員が反乱を起した。ポチョムキン号はウクライナ南部のオデッサ港に入港して、反乱兵士を迎えた市民がコサック兵に大量虐殺された。反乱の発端は、スープの肉が腐ってウジ虫を乗組員が訴えても、肉を食べない乗組員を士官が命令違反で銃殺しようとした。乗組員は、6月27日に艦長以下の士官を殺害し、艦を占領して、商業港オデッサに入港した。6月28日にロシア帝国軍はコサック兵を派遣して反乱は鎮圧した。


2018年9月19日水曜日

アメリカ軍がダバオ捕虜収容所に再来したとき、死んだアメリカ軍捕虜の遺体が分解して白骨化していた。

ダバオ刑務所が1932年にフィリピン南部のミダナオ島に大規模に設置された。太平洋戦争直後の1941年12月20日から日本軍侵攻によるダバオを侵略した。ダバオ占領期間中には、日本軍はアメリカ軍兵士の捕虜収容所として転用した。約2,000人のアメリカ人捕虜が太平洋戦争中にダバオ捕虜収容所に監禁された。日本軍が占領したほとんどの捕虜収容所では、アメリカ人捕虜に対して厳しく取り扱われて、虐待と虐殺から過酷労働や飢餓と感染症などで多数が死亡した。アメリカ軍がダバオ捕虜収容所に再来したとき、死んだアメリカ軍捕虜の遺体が分解して白骨化していた。1943年8月にパラオ島において日本軍はアメリカ軍に敗北した。次いで米軍機による最初のダバオ空襲は1944年8月と9月の空襲によりダバオ市は全焼した。1944年9月7日には、ミンダナオ沿岸の潜水艦が、劣悪な地獄船であった移送船を沈没した時には、何百人も乗船した元ダバオ囚人のアメリカ人捕虜が水没した。1945年の4月17日にミンダナオ西部のコタバトから上陸したアメリカ軍は、ミンダナ島を横断して南からダバオに5月3日に侵攻した。ダバオは日本軍にとって島内の最大の軍事拠点ではあったが、約1ヶ月間の激しい戦闘の後に、日本軍は北西部方向のダバオ川上流部のタモガン渓谷に撤退した。



2018年9月18日火曜日

ナチス・ドイツ軍が、戦争捕虜と政治犯を含む約1016人の強制労働者を納屋に入れて無差別に焼殺した。

ナチス・ドイツ軍は、1945年4月13日にガルデレーゲンの郊外で約1,016人以上を虐殺した。囚人たちはこの農家の穀物貯蔵所であった納屋に追い込まれて、火が放たれて、脱出する者も無差別に虐殺された。ナチス・ドイツ親衛隊とドイツ空軍の部隊が、戦争捕虜と政治犯を含む約1016人の強制労働者を納屋に入れて火をつけて焼殺した。ガルデケーゲン納屋から焼死した死体を、アメリカ軍兵士は4月15日に発見して消失した納屋から外の荒野上に、膨大な死体を搬送した。
 連合国軍が侵攻してくる際に、ドイツ軍は退却する直前に,ソ連軍の捕虜など囚人を納屋に閉じ込めて,火をかけて約1016名を焼殺した。ガルデレーゲンには、大戦末期にV1とV2ロケットを製造していたミッテルバウ・ドーラ収容所などから、1945年2月頃から多数の囚人がガールドレスに強制移送された。アメリカ軍が1945年5月7日によって。ガルデレーゲン虐殺が発見された。4月13日金曜日に、強制収容所収容者が、ガソリンを含んだ藁をつけた納屋の中に拘束された。納屋はナチス・ドイツ軍によって射撃された。引火して火から逃げようとした囚人たちは、機関銃で射殺された。4月14日土曜日虐殺の翌日、ドイツ人は遺体を墓地に埋葬して証拠を隠滅した。連合軍の爆弾によるドイツの都市の破壊やロシア軍の残虐行為を伏せて、ドイツのガルデーゲン虐殺を1945年5月7日にタイム雑誌報道された。戦争プロパガンダは、政府・軍あるいはメディアが、市民の思考・世論を誘導する戦争情報の操作であり、人種民族差別を推し進めた。



2018年9月17日月曜日

似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に広島原子爆弾の被爆者の遺骨が千人塚に埋葬された。(広島)

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に炸裂した。広島港から約3kmの似島の救護所に、宇品の陸軍船舶司令部から午前9時頃に手信号で緊急連絡が入った。広島港は日清戦争の西端の大本営となり、海外の帰還兵士の感染症の検疫と消毒のために、似島に検疫所を設置していた。十代の青年兵士である暁部隊が、広島市内の被爆者を、数隻の上陸用船艇に多数の重症の被爆者を載せて、午前11時頃に似島に到着した。千人塚の左後方像では、暁部隊が特殊潜航艇(マルレ)を運用した。第二検疫所には約10,000に及ぶ重度の被爆者の臨時野戦病院となり、8月6日の原爆の日だけでも、約2,000人が護送された。原子爆弾は、無差別に火傷で変貌した全身で、男女の区別もつかず、幼児に至るまで大量虐殺であった。膨大な被爆者に対して、似島に駐屯していた衛生隊や検疫所の軍人は、すべてが救護活動に関わった。4日目には医療機材等を使い切った。重度の放射線被爆者は約4日以内に死亡した。被爆による原爆死の死体の処置は、ほとんど他の応援部隊が執行した。主に掘ってあった防空壕などに死体を埋葬した。似島から瀬戸内が一望できる防疫班の厩舎跡に、身元不明者の被爆者の遺骨の墓標として千人塚に埋葬された。1955年に約2,000人の遺骨を発掘して、平和公園内の原爆供養塔に納骨して千里塚は撤去された。




2018年9月17日 

Japan No War (NGO) 

日本平和の市民連盟 

視読回数 160,000回

2018年9月16日日曜日

第2次世界大戦末期の東京空襲による犠牲者の死体の一部が、隅田川から引き上げられた。

第2次世界大戦末期の東京空襲による犠牲者の死体の一部が、隅田川から引き上げられた。川岸には数千人もの死体が列をなして体積していた。民間市民が火炎と熱傷から避難しようと隅田川に飛び込んだ死体であった。特に1945年3月10日の大空襲により、死者は約10万人以上と被災者は約100万人に及んだ。空襲の火炎から逃げのに、隅田川や荒川に架かる多くの橋、鉄筋コンクリート造の学校などに避難した。至る所で巨大な火災旋風が発生し、滝のように火炎が流れ込み、火の粉の川と変貌して、巻かれて焼死や窒息死した。焼夷弾の空襲は、分離した子弾が大量に投下されて、避難民に大量に降り突き刺さり、爆発的に燃え上がる凄惨な状況が多数発生した。川も水面は焼夷弾の油により引火し燃える川と化し、水中は冬期の低い水温のために凍死した。翌朝3月10日には隅田川・荒川放水路等は焼死・凍死・溺死者で川面があふれた。
 第二次世界大戦は、連合国と同盟国の当局による決定した戦争政策であった。ナチス・ドイツによるホロコーストで、約600万人のユダヤ人や他民族を殺した。アメリカ軍による日本の空襲により、約200万人以上の日本人は遺体を失い、約30万人の民間人が殺害されて約50万人の市民が負傷した。1998年にオランダのハーグで国際刑事裁判所を設立する条約が、承認は20と否決は7で、圧倒的多数で通過した。裁判所の設立に反対した7つの国は、アメリカ・中国・イスラエル・イラク・リビア・インド・メキシコであった。国際刑事裁判所は人道に対する重大な犯罪を罰せられない。連合国の戦争犯罪は、無差別の空襲をしたドイツのドレスデンの破壊や日本の火爆撃があった。第二次世界大戦が終結して以来、アメリカは他の諸国の軍事に介入した。アメリカは、世界の単一の超大国で自己任命の警察官を世界に誇示した。同盟国をニュルンベルク戦争と東京戦争犯罪裁判で罰してて国際的正義を確立した。半世紀後には「勝利者の正義」以下となった。世界の平和には、勝利者や征服者にも戦争犯罪を執行しなければならない。



2018年9月15日土曜日

第1次世界大戦にて、2人のロシア帝国軍兵士が有刺鉄線に巻き込まれ、ドイツ・オーストリア帝国軍の標的にな射殺された。

第1次世界大戦の東部戦線にて、2人のロシア帝国軍兵士が有刺鉄線に巻き込まれて身動きが不可能となった。ドイツ・オーストリア帝国軍の標的になり容易に射殺された。有刺鉄線は、いくつもの刺のついた鉄線である。主に鉄条網として、陣地である塹壕の防御のために、有刺鉄線で何重にも囲んだ。ロシア帝国軍は、オーストラリア・ドイツ帝国軍が、ポーランド地方に侵攻した期間に、約1,000,000人が犠牲となった。戦場から膨大な難民が避難するも、その途上を退却するロシア軍隊が妨害した。
 ロマノフ朝帝国はニ月革命により、1917年3月16日に崩壊して、ロシア臨時政府が成立して、連合軍が東部戦線の攻勢を要求された。7月攻勢にでる体制を固めて、広正面での突破をはかった。ロシア軍兵士は650万人と同盟軍を上回っていたが、二月革命から前線で脱走兵が急増した。6月18日から攻勢は開始され、ロシア軍はウクライナ南西部の東ガリシアでドイツ・オーストリア帝国軍の前線を崩壊した。突然6月20日以降から、厭戦ムードになり前線兵士と突撃部隊らが前進を拒否した。結局、ドイツ・オーストラリア軍が7月6日に反攻に出て、東部戦線は再び元の位置に戻った。ロシア帝国軍は、攻勢を中断して、7月19日にドイツ軍はズロチョフで攻勢に出た。約20Kmにわたりロシア軍の前線が崩壊した。ロシア兵は敗走して壊滅状態となった。ガリシア東部でもオーストリア軍の攻撃が開始され、7月29日にタルノポリが占領された。ロシア国内では、ボリシェヴィキによる武装デモである七月蜂起が7月16日に勃発して、騒乱が20日まで続く程の混乱状態に陥った。9月1日にドイツ軍は、バルト海のリガを目指して渡河を行った。砲兵と毒ガス弾によってロシア軍は弾圧され、ドイツ軍は容易に渡河した。9月4日にドイツ軍はリガ諸島を占領して、ロシア軍は多大な犠牲を受けた。10月21日までに何千ものロシア人兵士を捕獲した。内乱を収拾できなかったロシア臨時政府は、十月革命により過激共産派のボリシェヴィキにより11月7日に打倒された。ロシア領のウクライナ内戦にロシア革命政府は、同時期の11月8日に介入してウクライナ・ソビエト戦争が勃発した。



2018年9月14日金曜日

ハンガリー国境警備隊が、非武装市民に対する一斉射撃により約100人以上の死亡が特定された。

ハンガリ動乱は、1956年10月23日にハンガリーの市民が政府に対して蜂起した。対抗したソビエト戦車がハンガリーの秘密警察機関である国家保衛庁(ÁVH)の軍隊とともに、共産主義政権の保持の象徴に変わった。15歳あるいは16歳のハンガリー人青年が、首都ブタペストのヴァーツイ通りにバリケードを路上から裂けて舗装された石で交差点に構築した。舗石のバリケードの後ろから反抗して、体制、赤い星、星の紋章が公共の建物から取り除いた。革命は全国的に広がり始めた。ハンガリー北西部モションマジャローヴァールの国境警備隊の兵士たちが、1956年10月26日に非武装市民のデモ隊に発砲した。一斉射撃により約100人以上の犠牲者が特定された。家々には、革命の象徴である中央に穴が開いた国旗と倒れた人を記念する黒旗が掲げた。
   ハンガリー動乱は、1956年にソビエト連邦の権威と支配に対抗する民衆により勃発した。多くの政府関連施設や区域を占拠した。市民らは、守備隊、警察本部、製造工場を攻撃して武器を押収した。ハンガリー軍兵士の一部が武器を市民に渡したり、デモ参加者に加った。10月25日に、ÁVH部隊とソビエト軍隊が非武装の市民に弾丸を発砲して、約50人以上が死亡した。さらに対抗するソ連軍は11月4日から大規模な軍事力で侵略した。1957年の1月にはソビエト連邦は新たなハンガリー政府を任命して、ハンガリー人による改革を止めた。蜂起は直ちにソ連軍により鎮圧された。その過程で数千人の市民が殺害され、約25万人のハンガリー人が難民となり国外へ逃亡した。






2018年9月13日木曜日

イラク戦争の犠牲となったイラク人市民が、次々とバクダットの病院に護送され、死体も数多く搬入された。

イラク戦にて戦傷したイラク人市民やイラク人小児が、毎日次々とバクダットの病院に護送された。トラックで護送されるも、既に死亡した遺体も数多く搬入された。病院内には死体群を収容する場所も無くなった。イラク人の大人から子供まで多数の死体が、病院の廊下や空地に破棄されて散在した。死体置き場には、出血した血液と死体の異臭が廊下に溜まった。アメリカ軍による2003年3月20日からバクダッドをミサイルの砲撃と誤爆に、3月21日からB-52爆撃機による猛烈な空爆と誤爆がバクダッド市民を襲った。
 アメリカ軍は2003年3月20日からイラクの首都バグダッドへの空爆を緒戦に、戦闘が勃発した。アメリカ軍は、バグダッド時間の20日午前5時半頃に、突如に約40発ものミサイルをバグダッド地域に集中的に撃ち込んだ。国連を無視したアメリカ、イギリス両軍兵士らの有志連合軍が侵攻するために、イラク各地への本格的な空襲と誤爆により、イラク軍兵士だけでなくイラク人市民が虐待と虐殺された。4月4日に侵入して4月9日には、バグダードが陥落して占領された。イラク軍兵士らは勢力を潜めて5月1日には、アメリカ大統領ブッシュが勝利宣言をした。イラク侵略から占領までは約2ケ月以下の短期間であっても、イラク国内ではインク人市民の膨大な死傷者が巻き込まれて犠牲者となった。終結宣言までのアメリカ軍兵士は全軍では136人が戦死した。



2018年9月12日水曜日

スーダンのダルフール紛争で、アドワ村にてアラブ系民兵が、大量虐殺した非アラブ系黒人の死体である。

スーダンのダルフール紛争にて、アドワ村の郊外でアラブ系民兵が、大量虐殺した非アラブ系黒人の死体である。死体の付近の50ヤード平方の荒野に、人骨が満杯で散在した。
 スーダン西部のダルフール地方にて、非アラブ系黒人とアラブ系住民の対立から内戦が2003年2月に勃発した。非アラブ系黒人がスーダン解放軍(SLA)など反政府勢力が反乱した。スーダン政府は、政府軍を支援するアラブ人民兵による非アラブ系黒人の虐殺行為を支持した。内戦で約200,000人が死亡して、約2,000,000人が難民となった。ダルフール地方はサハラ砂漠に含まれ、非アラブ系のオアシス農耕民と、アラブ系の遊牧民が混在した。同じイスラーム教徒のアラブ系と非アラブ系の民族が対立した。2003年から「ジャンジャウィード」のアラブ系民兵が非アラブ系黒人の村落を襲撃し、民族浄化の大量虐殺や虐待をくり返した。それに反発した武装グループ(SLA)も反撃して、首都ハルツームを攻撃して内戦が拡大した。国際刑事裁判所(ICC)はスーダン大統領を大量虐殺で告発した。世界最悪の非人道的危機であるダルフール紛争は継続した。2005年からの国連平和維持活動(PKO)などにより、スーダンで2010年4月に総選挙を実施して、民主化と和平を模索中である。



2018年9月11日火曜日

南アフリカのアパルトヘイト撤廃の対立から、アフリカ全国会議の若者がインカタ自由党の青年を虐待して虐殺した。

南アフリカのソウェトで1990年9月15日に、アフリカ全国会議(ANC)の支持者とズールー人のインカタ自由党(IFP)が、1990年9月15日に衝突して銃撃戦となった。ANCの若者が、降参したズールー族のIFPの青年を捕獲した。ANCの若者らは、IFPの青年に石を突き刺すようになって、青年は地面に倒れた。さらにANCの若者の虐待が強まり、最終的に巨大なナイフを奪って、青年の胸に強く刺した。ANCの群衆からの罵声は、青年はIFPのスパイだと叫んだ。ANCの青年は、IFCの若者に残酷な虐待の攻撃を続けた。ズールー人の若者は地面に動けなかった。IFPの若者の体は、炎の中に包まれて、突然ウォーと叫び声を出した。素足の若造の黒人が駆け寄り、この地獄の火だるまの若者の燃える頭骨に長刀を振って粉砕して虐殺した。
 南アフリカでは、冷戦が終結した1990年代から黒人隔離政策であるアパルト体制を撤廃が始まった。1990年2月11日にネルソン・マンデラの釈放された。1990年7月にズール人勢力がインカタ自由党(IFP)が旗揚げした。1990年9月に、ナタール州のANC支持者とIFP支持者間が対立したハウテン州(PWV)へ飛び火した。1992年6月17日にポイパトン大虐殺で、多数のANC支持者が虐殺された。1994年3月28日にANC本部で、インカタ自由党(ICF)支持者とANC警備員が衝突した。1994年4月26日から4月29日に南アフリカの国民議会選挙があり、国民統一政府樹立されて、ネルソン・マンデラが大統領に就任した。



2018年9月10日月曜日

学徒男動員された15歳の男子は、長崎三菱養成所で長崎原子爆弾に被爆して、重度で激痛の熱傷と重篤な破傷風を発症した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日に炸裂して、15歳の男子が重度の熱傷を被爆した。大村海軍病院に翌日の1945年8月10日に護送されて入院した。男児は、中等学校以上にる学徒勤労動員されて、長崎三菱養成所で被爆した。顔面、背部、右上肢、左右右足背に重度の熱傷を被爆して、大村海軍病院の八病舎に収容された。8月11日以降は毎日生理食塩水であるリンゲル液500CCを静注された。8月20日には破傷風を発症して、頚部は硬直して、顔貌は痙笑して、牙関緊急の症状が出現して、開口が不能となった。熱傷の創面は著変なくても、激しい疼痛を伴っていた。腹筋も著明なる緊張があり、圧痛を伴った。脊髄痛があり、膝蓋腱反射も消失した。直ちに8月20日に破傷風の血清20ccを脊髄腔に注入した。8月21日には破傷風の血清20ccを脊髄空と皮下に注入した。8月22日には破傷風血清を20ccを静脈内に、20ccを皮下に注射して、8月24日まで注射を継続した。その後の記録はないが、8月24日に病死したと推定された。



2018年9月9日日曜日

パプアニューギニアにあるココダ・ルートからの日本軍兵士は海岸沿いで全滅した。

日本軍兵士は、太平洋戦争にてパプアニューギニアの海岸沿いで全滅した。連合軍は海岸の橋頭堡で最後の抵抗をした日本軍兵士を壊滅した。虐殺と破壊した惨状となり、病気と腐敗が蔓延した死骸が散乱した。ライフルさえ持ち上げれない病人や負傷者は槍で武装して戦闘に戻った。パプアニューギニアにあるココダ(Kokoda Track・Trail)ルートで、日本軍はオーストラリア軍と山中で、1942年7月から1943年1月まで死闘を繰りひろげた。ポートモレスビーからココダさらにブナの標高約3,000mのオーウェンスタンレー山脈を切り開いた密林のルートである。日本軍は約13,000人とオーストラリア軍は約6,000人が犠牲となった。1942年、シンガポールを陥落させさらに南方に戦線を拡大した日本軍が、次に南太平洋を侵略した。南太平洋に拠点と航空基地を築き、アメリカ軍の増援・補給を妨害して日本の戦況を打破しようとした。ニューギニア・ポートモレスビー攻略をするのに、日本海軍は1942年5月の珊瑚海海戦で空母艦隊に大損害を受けた。日本陸軍はオーウェンスタンレー山脈の陸路を越える作戦を強行した。オーストラリア軍は、日本軍が飛行場があるポートモレスビーに拠点を占領すと、本格的になるオーストラリア攻撃を防御して阻止した。オーストラリア軍と日本陸軍がオーストラリア軍司令部のあったイスラヴァ村で激闘を展開した。日本軍は大本営の指令により1942年9月25日から撤退を開始した。日本軍兵士は食料も無く、餓えと病気と戦闘で次々に戦死して、1943年1月にギルワから撤退するまでに壊滅した。



2018年9月8日土曜日

ロシア帝國にて飢餓と流行したチフスやコレラで、死んだ子供の死体を、農民の母親が諦めて見守った。

ロシア帝國において1891年から92年に飢餓と流行したチフスやコレラに感染した子供が死んで、農民の母親が諦めて子供の死体を見守った。飢饉は1891年夏頃から深刻な危機に襲われた。この時期は、飢餓がチフスやコレラの流行が拍車をかけて、約375,000人のうち数万人もの子供が死亡した。ロシア帝国はオスマン・トルコ帝国と1877から1878年までの戦争と1874年から徴兵制度によって、農民に飢餓を発生させるに至り、勝利で終結した。ロシア帝国による1980年代の工業化の犠牲となったのが依然として人口の圧倒的多数を占める農民で、政府は農民に重税を課し、そのうえ外貨獲得のために穀物輸出を推進して飢餓輸出まで行われた。飢餓輸出により、国内で必要な物資の消費を規制し、輸出に回して外貨を獲得するために、終局的には、国内の食糧消費が不足するほどの量を輸出して、飢餓を招く事態に陥った。飢餓の時ほど、直接的な多大な影響を受けるのが乳幼児であった。ロシア帝国の成立からは、1024年に飢餓が発生して、19世紀前半までに約130回発生した。



2018年9月7日金曜日

フィリピンの戦いで日本軍兵士がアメリカ軍の捕虜になるよりは、首を吊って自殺した。

太平洋戦争のフィリピンの戦いにて、日本軍兵士がアメリカ軍の捕虜になるよりは、自決をするために首を吊って自殺した。アメリカ軍歩兵が、フィリピンのセブ島の周辺のカブラン島で、1944年12月22日に1本の樹木の幹に布の紐により、縊死した日本軍兵士の死体を検死した。
 セブ島は日本軍のカブラン島を含むビサヤ諸島防衛の中心拠点で、微力な日本軍兵14,500人が配備された。アメリカ軍兵士は、セブ島タリサイ海岸に1944年3月26日に、激しい砲爆撃の援護を受けて上陸した。ビサヤ諸島の戦いは、6月下旬までに島の主要部の制圧を終えた。以後は現地のフィリピン人ゲリラのみによる掃討が行われた。 日本軍指揮官の多くは総攻撃に出て玉砕して全滅すべきと主張したが、ルソン島司令部が持久戦をするように下命した。セブ島諸隊は太平洋戦争が終戦した1945年8月頃まで、連合軍と現地フィリピン人ゲリラと悲惨な戦闘を継続した。 日本軍は戦闘で多数の死傷者を出し、ジャングルに追い込まれ飢餓と病気、ゲリラ攻撃で消滅した。日本軍は各地で孤立して残酷な状態で終戦を迎えた。



2018年9月6日木曜日

ドイツ軍は断固として兵役を怠慢した兵士として、首から「私は臆病者です」の看板を吊り下げて絞首刑にした。

第2次世界大戦末期になりドイツ軍は断固として、兵役を怠慢した兵士として、彼らの首から「私は臆病者です」と恥を晒す看板を吊り下げて絞首刑にした。1945年2月から連合軍の侵攻が速まり、3月23日には大規模にライン川を渡河した。北ドイツへはイギリス軍、中央および南ドイツへはアメリカ軍が侵攻した。4月12日にはデッサウ近郊でベルリンまで約100kmの地点に到達した。4月25日にエルベ川河岸のトルガウ近郊でソ連軍と初めて出会って「エルベの誓い」を交わした。
 第2次世界大戦のヨーロッパにて、ヒトラー帝国は内外で、多くの「普通の市民」の人生に最も影響を与えた悲惨な歴史だった。1944年6月6日のノルマンディ上陸から、8月にはアメリカとイギリス軍の侵攻で、フランス全土で勝利を収めた。連合軍は、ヒトラー帝国は速やか崩壊しなかった。オランダとドイツ国境沿いの数週間にわたる戦いは、最大の惨事となった。ドイツ軍は1945年5月まで戦争をさらに悲惨にした。連合国の圧倒的な軍事力の優位性を保持しても1944年には終結しなかった。ドイツの西側地帯に侵入するためには、大きな川の流れや難しい地形を乗り越えなければならなかった。戦闘では約2,700万人のソビエト市民が死亡した一方で、連合軍の戦死者は約100万人弱であった。大量虐殺されたユダヤ人の向こうにも、1945年にはドイツ人捕虜や奴隷労働者が数百万人もいた。連合国軍がドイツを解放しても、まだ語られていない「普通の市民」であった人間の戦争の悲劇が以前と放置されている。



2018年9月5日水曜日

黒人は1919年9月にネブラスカ州オマハで首を吊り下げられ、白人の群衆たちは黒人の死体を焼却した。

黒人であるウィリアム・ブラウンは1919年9月に、ネブラスカ州オマハで首を吊り下げられ、その後に白人の群衆たちが黒人の死体を焼却した。
 アメリカ合衆国では1925年頃に、黒人(ネグロ)への虐待とリンチは娯楽の一形態となっていた。白人の見物人の群衆を引き寄せて、リンチはプロの写真家も引き付けた。融通の良いカメラの助けを借りて、広く配布された黒人リンチの写真は、悲惨な出来事を奨励する重要な要素となった。記録するだけでなく、黒人リンチのニュースを広範囲に流した。
  1919年9月に黒人であるウィリアム・ブラウンはネブラスカ州のオマハで首を吊り下げられた。その後に、白人の群衆たちは黒人の死体を焼却した。この写真などの画像は、はがき、立体図、お土産として再現されて販売された。白人優位の教義を映像的に回覧するための媒体となり、リンチ側にとって不可欠となった。ロマンチックな白人の映像、白人の読者と白人の映画観客の人気が上がり、アメリカ合衆国の人種差別化の象徴を明らかにした。当時の白人が国家権力を握った実際の恐怖が、黒人リンチの流行を正当化した。1882年から1930年の間に実施されたリンチ被害者約3,000人のうち、約88%がアフリカ系アメリカ人の男性であった。そのほとんどは起訴されても、証拠はほとんど全く消滅していた。暴力の印象や虐待の写真は、視覚文化に加えて、凶悪な殺人事件の記念碑の中に新たに邪悪なマスコミが登場した。殴打と殺人はしばしば暗闇の外套の下で行われた。


2018年9月4日火曜日

第1次世界大戦のカポレット戦いでイゾンツォ周辺の塹壕の中に、多数のイタリア軍兵士の死体が散在した。

第1次世界大戦におけるカポレット戦いにて、1917年10月26日にイゾンツォ周辺の塹壕の中に、多数のイタリア軍兵士の死体が散在した。
 第1次世界大戦にて、カポレットの戦いは、イタリア軍に対して、1917年10月24日から11月9日に、オーストリア=ハンガリー帝国軍と援軍のドイツ帝国軍がカポレットで戦闘した。オーストリア=ハンガリー軍は1917年時点ですでに死傷者・捕虜で約150万人も達して疲弊していた。1917年10月24日からドイツ軍の援軍がイゾンツォ川で攻勢して、イタリア軍を砲撃と毒ガスさらに手榴弾と火炎放射器で錯乱した。イタリア軍は、撤退しなければ全軍が壊滅する事態となり、戦線の至る所が突破され無数のイタリア兵士が殲滅されて、10月30日にイタリア軍には敗退が命じられた。カポレットの戦いで、ドイツ軍とオーストリア=ハンガリー軍は約2万人の死傷者を出し、イタリア軍は約3万1000人の死傷者と撤退に遅れた約275,000人が捕虜となった。イタリア軍が被った被害は甚大であり、人的損失のみならず大砲、機関銃、迫撃砲も多くを失った。援軍したイギリス軍とフランス軍により、後方のピアーヴェ川で、西部戦線同様に同盟軍の進撃を留めた。4日間にわたる抵抗を退けて、ヴィラ・ジュステ休戦協定を締結してオーストリア=ハンガリー軍は撤退した。
 第1次世界大戦が始まった当初イタリアはドイツ・オーストリアと三国同盟を結んだ。イタリアは、オーストリアに「未回収のイタリア」の割譲を求めていた。その交渉が成立せず、中立の立場を取った。イギリスとフランスは第1次世界大戦後に「未回収のイタリア」の割譲を条件と、イギリスから5000万ポンドの借款も供与され、1915年4月26日にイタリアは三国同盟を破棄し、連合国側に加盟するロンドン条約を締結していた。


2018年9月3日月曜日

日中戦争にて、日本軍が遼寧鉄嶺の竜尾山で、中国人の児童や子供たちを大量虐殺して焼却した。

日中戦争において、日本軍が遼寧鉄嶺の竜尾山で、中国人の児童や子供たちを大量虐殺した。その後に死体の周辺に、炊き木を積み上げて焼却した。
 日中戦争において、日本軍が華北の解放区を根絶しようとして行った三光作戦を展開した。三光作戦は、無差別に中国人を殺し尽くす(殺光)、焼き尽くす(焼光)、奪い尽くす(搶光)作戦となった。日本軍には、三光作戦という名称はない。日本軍では「燼滅掃討作戦」「粛清作戦」「治安作戦」と呼称した。三光作戦のあまりの凄まじさのため、中国軍側が(殺光)、(焼光)、(搶光)から三光作戦と呼称した。1940年8月から12月にかけて、全華北で展開された八路軍の百団大戦による大奇襲攻撃によって、日本軍は大きな犠牲を受けていた。日本軍は1940年に、徹底的に敵根拠地を燼滅掃討し敵をして将来生存する能はざるに至らしむ三光作戦を、1941年1月から1943年まで本格化した。しかし、市民と抗日戦線との区別は不可能であり、八路軍を絶滅することはきわめて困難であった。そのためにゲリラ、一般人、子ども、女性等生きている者は全て無差別に殺害して、食料は奪い尽くし、村を焼き払った。完全に抗日勢力を根絶して、市民と八路軍との結託を絶つために三光作戦が実施された。華北の中国市民に大量虐待と大量虐殺を与えた。







2018年9月2日日曜日

北アイルランド紛争で、カトリック教会の神父が、西ベルファストで虐殺されたイギリス軍兵士2人に葬儀を捧げた。

北アイルランド紛争により、白髪のカトリック教会の神父は、1988年3月19日に西ベルファストで脱着され虐殺されたイギリス軍兵士2人のうちの1人に最後の葬儀を捧げた。1988年3月6日にイベリア半島にある英領ジブラルタルで、アイルランド共和軍(IRA)の3人が、特殊空挺部隊(SAS)により射殺された。彼らの遺体が北アイルランドに帰り、3月16日に西ベルファストで行なわれた葬儀には一万人以上の市民が参列した。埋葬場所となるミルタウン墓地に葬列である「IRAの葬儀」に、非番で私服姿の英軍人伍長2人の車はが急発進した。不審な行動をとる車に、人々は車を取り囲み、2人を車から引きずり出して、殴る蹴るの暴行をした。虐待を受けた伍長2人は、服を脱がされ、通行証でイギリス本国軍人と判明した。IRAの3人を射殺したSASの容疑者となった2人は、近くのゴミ捨て場の空き地の脇の駐車場に、車で連れ去られ情け容赦なく、何発も撃たれ何度も刺されて路地に放置された。
  IRAと社会民主労働党(SDLP)の会合で、1994年のIRAと王党派の停戦から、1998年の包括和平合意(GFA)となった。カトリック教会の方針は、1920年代の内戦以前から反(IRA)であった。暴力の最も激しい地域だった西ベルファストのカトリック神父の「平和」とは「人を死なせてはならない」ことであった。北アイルランドの神父は平和の市民として2013年11月22日にダブリンの病院で死去した。




2018年9月1日土曜日

日本軍は、無差別にシンガポール人華僑などを連行して、機銃掃射により殺害した。

日本軍は、無差別にシンガポール人華僑などをトラックに搭載して連行して、機銃掃射により殺害した。
 大東亜戦争にて1942年2月7日から15日のシンガポールの戦いで、イギリス軍は2月15日午後7時50分に日本軍に降伏して、日本軍はシンガポールを占領した。2月21日に、日本軍は、マレー半島からシンガポール各地で、「抗日分子」や旧政府関係者を掃討して粛清した。日中戦争が拡大すると、特にシンガポールの華僑を中心して抗日運動が拡大した。日本軍はシンガポールの占領後に、郊外の戦闘部隊は2月16日からシンガポールの治安維持やイギリス軍の武装解除で突入した。軍司令部は、日本軍の主力部隊を速やかに、シンガポールの治安を乱す華僑の「抗日分子」を2月21日から23日まで3日間以内での掃討を命令した。中国人の住民を集めて抗日分子を選別、アジトを捜索して容疑者を拘束し、秘密裏に処刑した。2月19日に日本軍の司令部は、「シンガポール在住の18から50歳の華僑は21日正午までに所定の場所に集合せよ」と通告した。憲兵隊は、シンガポールの中国系住民の半分を粛清する命令に従った。憲兵隊は2月21日から23日にかけて、集合場所に集った華僑を尋問しても選別できず、無差別にシンガポール華僑などをトラックに搭載して連行し、機銃掃射により殺害した。粛清する対象者と人数を適当に無差別に選び出して処刑した。23日までに処刑された人数は約5,000人以上に達した。さらに2月28日に近衛師団が抗日華僑の掃討作戦を行い、第2次粛清として、約300人以上を虐殺した。その後に第3次の粛清が同年3月上旬に行われ、約300人が殺害された。シンガポール人の虐殺は継続中となり、約25,000人にも達したと想定された。その他の民族であるシーク兵も虐殺された。日本軍が処刑した華僑粛清は、暴虐非道のまさに言語に絶する大量虐殺であった。