2019年11月30日土曜日

大芝国民学校の救護所では、広島原子爆で多数の被爆者が被爆死した引取もいない死体は、校庭で火葬をして白骨を土中に埋葬し周囲には残存した白骨が散乱した。

広島原子爆弾の爆心地から約4.7kmにあった大芝国民学校(現在の広島市立草津小学校)は被爆した直後から臨時の救護所に転換した。広島原子爆弾が炸裂した1945年8月6日当日から引き続いて被爆者が護送されて、重篤者は収容された。8月中には約3,000人も越えた被爆者が集積した。治療も十分にできずに、多数の被爆者が被爆死した。多数の引取もいない死体は、草津国民学校の校庭で火葬をして白骨を校庭の土中に埋葬した。火葬場の周囲には、埋葬して残存した白骨が火葬場に散乱していた。
 広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂により爆心地の周辺は壊滅した。広島市内には瞬時に原爆死した被爆者の膨大な死体が散乱した。たとえ生存した被爆者には、原子爆弾から放射された猛烈な爆風や灼熱の熱線や広範囲の火災などにより、火傷や外傷などの負傷を伴って、短期間に甚大な被爆死を発生した。さらに、数週間以内に原子爆弾からの放射線の被害による被爆死が激増した。
 その死体の処理のために、生存した身内や関係者らが、広島市内の至る所で火葬して白骨化した。その周囲から行方不明の多数の白骨を集積しては土中に埋葬した。特に臨時の救護所や残存した学校や病院の付近では、被爆病死した死体を処理する火葬が連日に舞い上がった。黒こげ胴体だけの死体の判別は、ほとんどできなかった。学校の校庭の片すみを掘って、焼残りの材木を集めて火葬にした。臨時火葬場は超満員の状況であり、それに必要な燃料がなくなると、保管していた天井板まで使用して火葬作業を続けた。収容した被爆者が次々に被爆して、それを火葬する人手もたらないほどであった。 
 大芝国民学校は臨時の特設救護病院となった。広島原子爆弾の爆心地から北 2.4kmにあった。校舎が大破して、一部は焼失した。校庭に避難者があふれたため、臨時救護病院になった。8月6日は周辺は火災にかこまれ、救護に当たった者は、動かせない重傷患者を残して、一時避難しなければならなかった。しかし、火の勢いが鎮まるとともに、救護者は引き返して再び任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人がいたが、その人たちの専門を越えた不眠不休の医療活動が、切実に必要とされた。


2019年11月29日金曜日

太平洋戦争のサイパン島の戦いにて、小屋に潜伏した日本軍兵士と交戦したアメリカ軍の海兵隊員は銃殺により戦死した。

太平洋戦争のサイパン島の戦いにて、前方の小屋に潜伏していた日本軍兵士と交戦して、アメリカ軍の海兵隊員は銃殺により戦死した。白兵戦により殺害されたアメリカ軍の海兵隊員の死体は、塹壕の中に身体が縮こまってうつ伏せに横倒していた。日本軍の死闘により、侵攻が頓挫したアメリカ軍司令本部は、1944年6月24日に陸軍司令官の無能を理由としてホーランド・スミス陸軍司令官を差し替えを指令した。ところが誤ってスミス陸軍司令官と同名であったラルフ・スミス陸軍幹部を解任してしまった。アメリカ軍の陸軍側が大憤慨して、太平洋戦争にて最悪の陸軍と海軍の抗争が勃発した。その抗争に巻き込まれて、脆弱になった前線で多数のアメリカ軍兵士が、日本軍兵士に殺害された。
 アメリカ軍が、サイパン島に1944年6月15日に上陸して、アスリート飛行場を確保した。約800人のアフリカ系アメリカ人が、第二次世界大戦で初めて戦闘に参戦した。占領した飛行場を防御するために、比較的に小島のサイパン島の全域に侵攻した。日本軍がサイパン島の北部に撤退して死闘を繰り返した。7月7日には、追い込まれた約4,000人の日本軍兵士が、最多数のバンザイ攻撃をして自滅した。日本軍兵士は、お酒によった狂人のように、剣を振り上げて叫けんで突撃した。突進する日本軍兵士の悲鳴、戦傷した兵士の叫び声、耳をつんざくような銃声が発生した。さらに日本軍は、攻撃の前線に女子や子共も含む民間市民を置き去りにした。アメリカ連合軍は約71,000人が従軍して、戦死は約3,426人、戦傷は約10,364人であった。日本軍は約31,000人が従軍して、戦死は約24,000人、上官の命令による戦傷者の自殺は約5,000人、捕虜が約921人であった。サイパン島の民間市民は、約22,000人が犠牲となり、その多くは自殺した。サイパン島では、膨大な民間市民が巻き込まれ、何百もの家族が降伏しないで、自殺するために崖から海に飛び込んだ。1944年7月9日にサイパン島の戦いは日本軍が、最後のバンザイ攻撃を挙行し全滅して終結した。自殺した女子と子どもを、新聞社は「日本の女性と子供のホコリ」と称賛した。東京大学からは「勇気が輝かしい光の閃光を発して、これは歴史上並ぶことのない自殺であった」と新聞に発信した。7月18日には大本営は豹変して、集団自殺は帝国の道ではなく、敗北であると公表した。第二次世界大戦後には、国体の擁護者は民間市民への自殺を奨励した命令は偽造されたと断言した。


































Japan No War (JNW)
 日本平和の市民連盟
2019年11月29日
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2019年11月28日木曜日

ベトナム戦争にて、韓国軍は1968年2月12日にフォンニィ・フォンニャット村で無差別にベトナム民間市民を大量虐殺した。

ベトナム戦争において、1968年2月12日に韓国軍の作戦地域であったベトナムのクアンナム省フォンニィ・フォンニャット村で虐殺された民間ベトナム市民の死体で、ほとんどお年寄りや子供たちであった。アメリカ軍の上等兵が、韓国軍がフォンニィ・フォンニャット村に攻撃した直後に殺害された女性と子供の死体を撮影した。アメリカ軍による1968年3月16日のソンミ村虐殺事件よりも約1ケ月前に韓国軍による虐殺事件が勃発した。韓国軍のベトナム派兵は1964年9月に非戦闘先遣部隊が送り込まれ、1965年2月に工兵部隊を中心に約2,000を派遣した。戦況が悪化して、10月には約18,000人の戦闘部隊を本格的に投入した。韓国軍がベトナムから撤退する1973年3月までに延べ約325,517人に及び、アメリカ軍に次ぐ大量派兵となった。
 ベトナムのサイゴンのアメリカ軍司令部のサムシャープ(Sam H.Sharp)大佐は、2月18日に秘密報告書1部を軍司令部参謀長のタウンゼントに提出した。そのタイトルは「1968年2月12日に韓国軍による残酷な行為の疑惑」であった。アメリカ軍は4月29日に韓国軍に虐殺事件の有無を問い合わせた。韓国軍は6月4日に、大量虐殺事件は共産主義者による陰謀であると回答した。1968年2月12日の虐殺事件。場所:クアンナム(Quang Nam)省、ジエンバン(Dien Ban)県、フォンニィ(Phong Nhi)・フォンニャット(Phong Nut)村。状況:韓国軍海兵隊の2旅団1大隊第1中隊は、並べ縦隊を組んで街を通った時に狙撃を受て、村を攻撃した。前小隊から民間人を搬送させた後は、ほとんどのベトナム人は射殺された。犠牲と損失:79人(または69人)のベトナム人女性と子供たちが銃剣で刺殺されたり銃殺して虐殺された。韓国軍海兵隊の1人が負傷した。(作戦名:グェリョン1号作戦)
 その他の虐殺事件は、1970年1月10日、ガムチャルブの軍司令部で、ロバート・クック(Robert M.Cook)大佐も秘密報告書1部を参謀長に渡した。タイトルは「1969年4月15日韓国軍海兵隊による残酷な行為の疑惑」。ベトナム民間市民が約4人が死亡して12人が負傷し、韓国軍は約1人が死亡し4人が負傷した。翌日の1970年1月11日、ロバート・クック大佐はまた、虐殺事件の報告書を、同じ関係先に送る。虐殺事件のタイトルは、「1968年10月22日韓国軍海兵隊による残酷な行為疑惑」であった。ベトナム民間市民が約22人が死亡して約16人が負傷し、韓国軍の犠牲者数は不詳であった。
 アメリカ国立公文書館は、2000年6月にベトナム戦争における韓国軍によるベトナム人民間市民の虐殺に関するアメリカ軍側の公式文書や写真の初公開を<ハンギレ21>が入手してした。アメリカ国立公文書のアーカイブ(NARA: National Archives&Records Administration)から2000年6月1日に30年ぶりに極秘が解除された。報告書は、アメリカ軍司令部におけるレポートと写真、各種添付文書で構成された。報告書は、ベトナム戦にて、韓国軍によるベトナム人の民間市民の虐殺を確認したアメリカ軍の公式文書である。それまで国防省は「韓国軍のベトナムの民間市民の虐殺疑惑」と関連文書の実在は、一貫して否定していた。報告書は、「ベトナム民間人虐殺疑惑」と関連して3つの事件を扱っている。1968年2月12日のポンニ・ポンノト村で起きた虐殺事件の報告書で最も衝撃的なのは、添付された20枚の現場写真である。この写真は、韓国軍が村を攻撃し、撤退した後に、ヴォーン(J.Vaughn)アメリカ軍軍上等兵が到着して撮影した。ほとんどの犠牲者は、女性や子供であることが明らかである。但し、ベトナム戦争の最終責任者であるアメリカ軍が作成した秘密報告書であった。








2019年11月27日水曜日

ブーゲンビル島でアメリカ軍の掃討により、多数の日本軍兵士が殺害され、死体が森林のジャングルに散乱した。

太平洋戦争のブーゲンビル島の戦いにて、1944年3月18日に日本軍兵士はアメリカ軍陣地に夜襲をかけた。それに対抗して早朝のアメリカ軍の掃討作戦により、多数の日本軍兵士が殺害された。その死体が森林のジャングルの中に散乱していた。日本軍兵士は1944年3月8日からアメリカ軍の飛行場があるタロキナ岬に侵攻したが、圧倒的な武力で壊滅した。日本軍兵士の約2万人のうち戦死傷は約13,000人にも達した。その直前から食料や武力の補給は途絶えて、栄養失調による餓死や感染症で約4,000人以上は戦病であった。アメリカ軍は、降伏する日本軍兵士も捕虜とせずに、多数を虐殺した。ボーゲンビル島の戦いは、墓島(ぼとう)と呼称された。
 ブーゲンビル島は、ニューギニア島の東に位置しているパプアニューギニアの島である。ブーゲンビル島は、約2000m級の山脈とジャングルが連なる険しい地帯であった。アメリカ軍が上陸した1943年11月1日から終戦後の8月21日の降伏まで戦闘が持続した。主にアメリカ軍はフィリピンの戦いのために1944年11月まで攻撃して、その後は主にオーストラリア軍が攻撃した。日本軍兵士に対して1944年4月に通常は約750グラムの米配給が、1944年4月に約250グラムに削減され、9月からは米配給は停止した。日本軍兵士は、食料を育てて時給自足に陥った。士気は非情に低下して、強盗、不服従、反抗なども発生した。ジャングルで、見つけるヘビ、ネズミ、ワニなど全て食い尽くした。ブーゲンビル島の民間市民は、戦前の約52,000人の人口のうち最大で約13,000人が戦争中に死亡した。約144,000人のアメリカ軍兵士のうち約727人が戦死して、約30,000人のオーストラリア軍兵士のうち約516人が死亡した。約45,000人を上回る日本軍兵士のうちで約18,500人を越えて死亡した。アメリカ軍と交代したオーストラリア軍の攻撃に対し、戦時中から戦略的にも無意味で無駄な戦闘であったとの批判がある。


2019年11月26日火曜日

インドネシア軍は、軍事作戦地域のアチェ州の自由アチェ運動と戦闘して、殺害した一味の死体を木に縛り付けて運搬した。

インドネシア政府軍は、軍事作戦地域(GOM)としたスマトラ島北部のアチェ州のバユ郡で、自由アチェ運動(GAM)の武装勢力と戦闘した。インドネシア軍は、戦闘で殺害したGAMの一味の死体を木に縛り付けて運搬して排除した。GAMに対して、1999年2月に約28人の虐殺、5月に約46人の虐殺、7月に57人の虐殺など大規模で市民を含めた無差別な虐殺事件が頻発した。2003年から2004年にかけて、GAMに対してインドネシア軍は戒厳令下で大規模な侵攻をして、GAMは甚大な損害を受けた。
 1976年から2005年にかけて、インドネシア対する分離独立を求める自由アチェ運動(GAM)により、約15,000人以上のアチェ人が虐殺された。GAMは、GAMⅠ(1976-1979)、GAMⅡ(1989年-1991年)、GAMⅢ(1999-2002年)は3段階にわたり変遷した。GAMⅠでは、大規模天然ガスの利権をめぐり闘争するも小グループで支援もなく一掃されて鎮圧された。GAMⅡでは、リハビアとイランからの資金援助されて約1,000人規模の武装勢力となって、アチェはGOMに指定された。GAMの一味の疑いある村は全焼されてたり、家族は連行されて拷問を受けて、約10,000人が虐待と虐殺の犠牲者となった。GAMⅢは、1998年にインドネシア政府の政権交替により、インドネシア軍が撤退後から、GAMの反政府運動が活発化して、約27,000人規模となって大規模な紛争を引き起こした。
 インドネシアのスマトラ島北部アチェ州で、同国からの分離・独立をもとめるアチェ人の独立運動が1953年から勃発した。インドネシア共和国は、アチェをイスラム法に基づく自治区として、1949年12月にアチェ州が設置された。1950年8月に、オランダの植民地の統合を済ませたインドネシア共和国は、1950年8月に州再編を行い、アチェ州を北スマトラ州に併合した。アチェ人の武装勢力は、1953年にインドネシア共和国から離脱し、ジャワ島西部を中心にインドネシア・イスラム国を目指した。1960年にインドネシアの反スカルノ勢力によるインドネシア統一共和国に参加した。1961年にインドネシア統一共和国が鎮圧されて、アチェ・イスラム国として再び抵抗運動をして、1963年にアチェ特別州に統合された。1976年に自由アチェ運動(GAM)が結成されて、アチェ・スマトラ国として武装闘争した。インドネシア軍が、1979年にGAMは一旦は鎮圧されたが、1989年からアチェは特別軍事作戦領域(GOM)に指定されて戦闘が再燃した。2004年12月のスマトラ沖大地震により、アチェは津波で壊滅的な震災を受けて、2005年にアチェは平和合意で武装解除して独立運動は終結した。



2019年11月25日月曜日

米比戦争の初日の1899年2月4日にサンタアナ近くの虐殺されて土中の溝に落下したフィリピン人反乱軍の死体が積み重なり散乱した。

米比戦争の初日である1899年2月4日にサンタアナ近くの虐殺されて土中の溝に落下したフィリピン人反乱軍の死体が積み重なり散乱した。1899年から1913年の間に、アメリカ合衆国のフィリピンに対する植民地戦争である米比戦争は、フィリピン人に激しい反抗を引き起こした。抵抗を鎮めるために約126,000人のアメリカ軍兵士が派遣された。アメリカ人が行った苦難、大量殺人、焼け焦げる火炎により、約400,000人のフィリピン人兵士がアメリカ軍の武力で死亡し、約100万人のフィリピン人市民が殺害されて、総計で約140万人にも達してフィリピンのルソン島の約1/6が一掃された。1899年にアメリカは、フィリピン人を教育し、キリスト教化し、文明化するために、フィリピンとの戦争を宣言して、フィリピン虐殺が始まった。1899年から1905年の間にフィリピン人がジェノサイドで殺された。虐殺が突然停止した可能性は低い。多くのアメリカ軍のフィリピン人に対する人種差別主義を示した。多くのアメリカ軍兵士が殺害を楽しむようになった。
 フィラデルフィア・レジャーのマニラ特派員は、「アメリカ軍兵士は容赦なく、男性、女性、子供、囚人と捕虜、反乱軍、10代の若者の容疑者を根絶するために虐殺した。」と1901年11月に公表した。アメリカ軍兵士は、「兵士は、平和的に降伏したフィリピン人の囚人を連行して、1時間後に反乱者を示す証拠なしで、弾丸で射殺され橋から落下して水に浮いた死体を見つけた。」「上官は殺害と焼却を命じて、殺害と焼却が多いほど喜んだ。」と証言した。死んだフィリピン人の死体が非常に多く、アメリカ軍は防御壁として使用した。「トム・ソーヤーの冒険」で最も有名な作家マーク・トウェインは、「数千人の島民を埋葬した。畑を破壊して、村を燃やし、未亡人と孤児を戸外に追い出した。残りの1千万人を、慈悲深い同化のために征服した。アメリカ国旗の星条旗を頭蓋骨と十字骨に置き換えるべきだ。」と提案した。強制収容所は密集して病気で一杯となり、約20%もの非常に高い死亡率となった。上官はすぐに町を燃やし、目の前の先住民の殺害を命令された。約1,000人もの男性、女性、子供が殺害された。フィリピン人の目撃者は「これは戦争ではなく、単に虐殺と殺人の屠殺である。」と述べた。
 1898年4月25日からフィリピンで勃発したアメリカとスペインの米西戦争が、1898年8月12日に終結した。1898年6月12日にフィリピン人は独立宣言をして、フィリピン人は独立のための闘争をした。その直後の8月14日からフィリピン占領するために、約11,000人のアメリカ軍をフィリピンに派遣した。1898年12月10日のパリ条約により、スペインはフィリピンをアメリカに譲渡した。1901年4月19日に、捕虜となった大統領が第一共和国を終結させて、フィリピンに対するアメリカの主権を認めた。1913年までフィリピンは、さまざまな地域で特にイスラム教徒の南部で、散発的な反乱闘争が続いた。


2019年11月24日日曜日

スペイン軍兵士が、モロッコ人抵抗運動に対するリフ戦争で、リフ地方のベルベル人の頭部を戦利品として吊り下げて自慢した。

スペイン軍兵士が、モロッコ人抵抗運動に対するリフ戦争にて、アマジゲのリフ地方のベルベル人を断頭した頭部を戦利品として吊り下げて自慢した。スペインの植民地政策に対して、モロッコの北部山岳地帯のリフにてベルベル人が組織的な武装闘争をしたリフ戦争が1921年から勃発した。リフ戦争は、1921年7月22日からスペインはモロッコ北東部で戦闘が勃発した。スペイン軍とリフ地域の反乱軍との軍事紛争となった。最初の年はスペイン軍は歴史的な敗北に見舞われた。スペインは敗北による母国の政治的危機により、リフ地域の植民地政策を短期的に見直した。イゲリベンの守備隊のスペイン軍の駐屯地は、厳しく包囲された5日後の1921年7月22日に、武器、装備、負傷者、病人を取り残して、メリリャに退却した。リフ共和国は、1923年1月18日に独立宣言をした。1923年9月13日にスペインでは軍事クーデターにより、独裁政権がスペイン国王から絶対的な権力を引き継いだ。
 1925年春にリフ軍はフランス領モロッコにも攻撃を仕掛け、フランス軍側に多くの死傷者が発生した。フランス政府はリフ共和国に宣戦布告し、約30万人を越す大軍で北部モロッコに侵攻した。圧倒的なフランス軍の攻勢で、リフ軍は大きな損害を受けた。壊滅的な敗北の後に、フランコ率いるスペイン軍はリフ地域で、無防備な人々に対する毒ガス攻撃で、圧倒的な武力行使した。1919年のベルサイユ条約で化学兵器は禁止されても、ドイツの支援を受けてスペインは条約を守らず毒ガスで残酷な虐殺をした。最終的には1926年5月に、スペイン軍およびフランス軍の約250,000人による数か月の激しい攻撃の1年後に、リフカビレンの最後の部族が降伏して、リフ戦争は終結した。リフ戦争で、スペイン軍は約43,500人が、フランス軍が約18,000人も犠牲となった。モロッコのリフ軍では、約10,000人の戦死と約30,000人の戦傷の犠牲を受けた。第二次世界大戦後の脱植民地化の潮流の中で、モロッコは1956年3月2日にフランスから独立宣言をした。


2019年11月23日土曜日

チェチェン紛争でグロズヌイ近郊の村で、親族が土中から掘り出した死体を検死した。

ロシア軍は反政府であるチェチェン共和国に1999年10月2日に侵攻した。 3年後まで戦争は続き、大量の墓地にはロシア軍の恐ろしい虐殺が暴露された。2002年5月13日午前3時にロシア軍兵士に誘拐されたゴラゴルスク村の4人の男性の死体が発見された。拷問、流血、認識不能な約15の遺体を含む大規模な墓地が発見さた。チェチェンの農民はイスラム教徒として、葬式のために家族に加わった。イングーシとの国境近くにあるグロズヌイの北西約50キロのゴラゴルスク付近で2002年9月8日に集団墓地が発見された。墓場の近くの土中から掘り出された村のチェチェン人の男たちの死体を、親族が検死をして確認した。この村では、ロシア軍に連行された村人が行方不明となっていた。連行された村人は拷問を受けて、虐殺されて土中に埋められた。直後の2002年10月23日にて、約42人のチェチェン人テロリストにより、モスクワ劇場占拠事件で、人人質は約129人とテロリスト約42人が死亡した。 
 1999年10月2日にロシア軍がチェチェン共和国に侵攻して、3年間続いた紛争で、ロシア軍当局は、証人の通行を厳しく制限した。住民はロシア軍や地元のチェチェン親ロシア民兵によって虐殺され、行方不明になった。失踪した人は数千人にも及んだ。死体は頻繁に、建物の廃墟、テラス、道端で発見され、時には爆発や破壊されて、拷問で刻まれた死体が、墓地から多量に掘り出された。写真の死体は、44歳の男性、20歳、50歳、37歳の男性の死体であった。5月13日に、ロシア軍兵士が民家に侵入した時は、彼らはベッドで寝ていた。襲撃で、兵士たちはマスクをして、頭は黒い目出し帽で覆われた。ロシア軍は、6人の男性を連行して、そのうち2人は3日後に道路で生存していた。生存者は、「目を覆われ、手を縛られ、装甲車で連行され、未知の建物の地下室に収容された。」と証言した。
  ロシア軍は兵士は、「あなたの不幸はあなたがチェチェン人であることである。」と述べた。彼らは裸の死体で発見され、頭はビニール袋に入れられ、首に接着剤を付けていた。非常に痩せて、食物なしで長い間に閉じ込められた。「頭部は包帯に包まれ、足がつぶれ、頭蓋骨が折れ、骨が皮膚だけ保持され、バッグに入れられ、折れた歯が口の底にあった。死体は裸で、ビニール袋に頭があった。他の2つの遺体は、身元不明で、胴体が切り取られた。」と、家族は一瞬で身内を認識するのは困難であった。大量の墓地はロシア国防省の特殊部隊に関連していた。 駐留したロシア軍は6月10日に、近隣のイングーシ共和国に退却した。集団墓地で、拷問した死体を取り除いた。6ヵ月後にプーチン大統領がチェチェン共和国の「安定化」を宣伝するも、到達方法は不明であった。チェチェンの人々は、ロシア人が排除するために追放したい人々であった。死体はロシア軍の駐屯地の近くで発見された。チェチェンではすでに大規模な墓地が発見された。2001年2月に50人以上の遺体、民間人、女性、チェチェン戦闘機が含まれた墓地は、グロズヌイ東部のロシアの主要軍事基地の近くで発見された。虐待と虐殺に関する国際調査は、戦争の開始以来、モスクワに承認されていない。チェチェン共和国南部の山岳地帯で、地面に掘られた深さ2mの穴に埋葬した。ロシア軍は、チェチェン共和国で「反テロリスト作戦」を実施したと主張した。2001年9月11日以降のテロリズムに対する世界的な作戦の一部とした。紛争により数万人が犠牲になった。ロシア政権は軍事段階が終わり、憲法の採択の国民投票が実施されると吹聴した。地雷の戦争、鉱山での紛争は続いて、ゲリラの待ち伏せは枯渇せず、人々の恐怖を焚き付けた。グロズヌイの通りでは、「私たちの強さは団結です! ロシアの他の人々との友情はチェチェンの繁栄の道です!」のスローガンを宣伝した。


2019年11月22日金曜日

ヴェルダンの戦いで、ドイツ軍兵士とフランス軍兵士の戦死体が、塹壕の中で一緒に重なって横並びに散乱した。

第一次世界対戦のヴェルダンの戦いで、フルーリー・デヴァント・ドゥモン村は崩壊した。第一次世界大戦の前夜には約422人の住民が居住した村は、フランス北東部のロレーヌ地方ムーズ県で、ヴェルダンから北東約8kmのドゥオーモン丘にあった。村の近隣でのヴェルダンの戦いで、ドイツ軍兵士とフランス軍兵士の戦死体が、塹壕の中で一緒に重なって横並びに散乱した。死者を戦場から取り除くことはできず、生きている兵士たちは悪臭を放つ腐敗した死体の横で眠り、食べ、戦うことを余儀なくされた。
 第一次世界大戦における主要な西部戦線の戦いであるヴェルダンの戦い、1916年2月21日から12月19日まで、フランス軍が約377,231人とドイツ軍が337,000と合わせて約714,231人以上の死傷者を出した。ヴェルダンの戦いに向かうドイツ軍が村に攻勢した1916年2月16日までに、村人はヴェルダンとブラスシュルムーズに避難した。2月24日にドゥオーモン砦がドイツ軍に占領されて、村は崩壊の運命を迎えた。1916年6月7日にドイツ軍は、絶え間ない砲撃によりヴォー砦を攻略して、村を最前の戦線に押し上げた。6月23日にドイツ軍が村を再占領し、その後7月11日に斜面をさらに侵攻して、ラプードリエールまで占領した。
 フランス軍は6月24日にフルーリー・デヴァント・ドゥモン村の陣地を再占領したが、まもなく失った。村はヴェルダンの戦いの重要な戦場になった。6月23日から8月18日までの間に、フランス軍とドイツ軍は、約16回にわたり交互に村を占領した。フルーリー・デヴァント・ドゥモンは崩壊して広大な荒野となり、フランス軍は村を攻撃の起点として、ドゥオーモン砦とヴォーの砦を再占領した。村は崩壊して、全てが崩壊して無人となった。それまでは、1870から71年の仏プロイセン戦争後に建設された防衛要塞により、それから19世紀後半までは平和な村であった。
   第一次世界大戦の荒廃後にフランス政府によって居住不可能と宣言された村となった。土地は汚染され、死者の遺体とともに、毒やその他の危険なガスが鉛と水銀とともに土壌に染み込んだ。村の入り口から数百mにあるドゥオーモンは、数ヶ月にわたるベル弾の戦いで死亡した数千人のフランス軍兵士の国立墓地となった。納骨堂には、ヴェルダンの戦いで戦死した約130,000人を超えるフランス軍兵士およびドイツ軍兵士の遺骨が収納された。



2019年11月21日木曜日

アッツ島の戦いで最後のバンザイ突撃をした日本軍兵士が、荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱した。

太平洋戦争において、アメリカ軍が上陸した1943年5月12日から5月29日までのアッツ島の戦いで日本軍兵士は全滅した。5月29日の真夜中に、最後となる約1,000人みの日本軍兵士の部隊が、「工兵隊の丘」にて残酷なバンザイ攻撃でアメリカ軍の陣地を襲った。突撃に衝撃を受けたアメリカ軍の後部隊は、すぐに日本軍兵士を白兵戦で撃退した。夜明け頃には、アッツ島の荒野に日本軍兵士の全員の悲惨な死体が積み重なり散乱していた。わずか19日間の戦闘により、日本軍兵士は約2,351人以上が戦死して、最後に生き残っても自殺して、残存者は約28人の捕虜のみとなった。上陸した約12,000人のアメリカ軍兵士のうち、約549人が死亡して、約1,200人以上が戦傷や病気に罹患した。太平洋諸島の戦闘では、退却する場所がなかった。日本軍にとり降伏は非常に不運であり不名誉であり、兵士は捕えられるのではなく自殺するように指示された。太平洋戦争当時に日本軍兵士の全員が死滅する「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは、1943年5月29日のアッツ島玉砕である。日本軍の大本営は、アッツ島の戦いは全滅する玉砕にもかかわらず、アリューシャン諸島の作戦を感動的な虚偽の叙事詩として賛美した。太平洋戦争当時の日本で「玉砕」の表現が初めて公式発表で使われたのは1943年のアッツ島玉砕である大本営は、アッツ島の戦い中の5月21日に、アッツ島の守備隊を放棄して見殺して、までアメリカ軍が上陸していないキスカ島の守備隊の撤退を決定した。アッツ島の玉砕を戦争遂行への天意の指揮刀と解釈して、勇士諸氏の奮闘を大忠大孝と惜しみなく讃えながら、戦争への勇気を称賛した。
 アッツ島は、北太平洋のアラスカのアリューシャン諸島の最西端である。アッツ島は、火山や山岳地帯もあり、悪天候で樹木のない不毛の地で無価値な島であった。日本軍は、1942年6月7日にアメリカの領土であったアッツ島を占領していた。アッツの戦いは、アメリカの領土で戦った第二次世界大戦の唯一の戦いである。同時に日本軍が中央太平洋で6月4日から7日まで惨敗するミッドウェイ島の戦いの直前であった。アラスカ地方の悪天候による降り注ぐ雪と雨、凍える寒さと泥などにより凍傷と壊死して、相互の兵士らは十分な装備も補給もなく悲惨な戦闘となった。最後の全滅となる突撃の前に、野戦病院の日本軍の衛生兵は手榴弾を渡して戦傷者を自滅に導いた。
 「夜二〇時本部前に集合あり。野戦病院隊も参加す。最後の突撃を行ふこととなり、入院患者全員は自決せしめらる。僅かに三十三年の命にして、私は将に死せんとす。但し何等の遺憾なし。天皇陛下万歳。
 聖旨を承りて、精神の平常なるは我が喜びとすることなり。十八時総ての患者に手榴弾一個宛渡して、注意を与へる。私の愛し、そしてまた最後まで私を愛して呉れた妻耐子よ、さようなら。どうかまた会ふ日まで幸福に暮して下さい。ミサコ様、やっと四才になったばかりだが、すくすくと育って呉れ。ムツコ様、貴女は今年二月生れたばかりで父の顔も知らないで気の毒です。お大事に。さようなら。
 敵砲台占領の為、最後の攻撃に参加する兵力は一千名強なり。敵は明日我総攻撃を予期しあるものの如し。」(辰口信夫、33歳、軍医)

2019年11月21日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 330,000回




2019年11月20日水曜日

広島原子爆弾により顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。

広島原子爆弾の炸裂による重度の被爆者が、広島市段原山崎町4番42号の第一国民学校に収容された。第一国民学校は爆心地から南東に約2.64kmに位置していた。鉄筋校舎により全崩壊を防いで、救護所に転用された。広島原子爆弾により北側の木造校舎は倒壊した。その他の東校舎や講堂などは、窓枠や窓ガラスが破壊された。その校舎や食堂などは全壊は免れた。被爆後に、東校舎と講堂は臨時救護所となり、1945年10月上旬まで多数の被災者を収容して救護した。6年生の国民学校初等科を終えた子どもが、2年間通った。
 1945年8月7日から20日にかけて顔面から上肢の全体にかけて、重度の火傷を被爆した女性が、第一国民学校の救護所内で寝たきりになっていた。右手指の重度の火傷を身内の女性らが処置していた。広島市内で崩壊を免れた鉄筋の学校などの建物が、救護所として転用された。連日にわたり、多数の被爆者が受診した。広島市前身となる広島市立第一高等小学校が、1932年4月1日に広島市段原山崎町に設立された。軍事主義教育の色合いが濃い「国民学校令」の施行により、1941年4月1日に広島市立第一国民学校と改組された。第一国民学校は、現在は段原中学校に転用された。
 国民学校令が1941年3月1日に公布され,同年4月1日からそれ以前の小学校が国民学校に改組した。国民学校令は小学校令を全面改正し、初等教育・前期中等教育を行う国民学校を天皇が勅令した。国民学校の目的は、「国民学校ハ皇国ノ道ニ則リテ初等普通教育ヲ施シ国民ノ基礎的錬成ヲ為スヲ以テ目的トス」に要約された。「皇国ノ道」とは、教育勅語の「国体の精華と臣民の守るべき道との全体」であり、「端的にいえば皇運扶翼の道」と例えた。国民学校では、「教育の全般にわたって皇国の道を修錬」を目ざした。「初等普通教育」は国民学校の内容、「基礎的錬成」は、教育の方法を示した。


2019年11月19日火曜日

硫黄島の戦いで砂浜に掘った塹壕の中で玉砕した2名の日本軍兵士の死体が腐乱した。

硫黄島の砂浜に掘った塹壕の中で玉砕した2名の日本軍兵士の死体が腐乱した。彼らは天皇のために死んだとアメリカ軍米海兵隊の記録が残っている。大本営からの玉砕命令は、戦争犯罪となる日本軍兵士と記録は残されなかった。大本営と日本軍に対する賛辞と語られた。大本営が戦争犯罪と裁かれる日本軍兵士と記録は抹殺された。太平洋戦争中に大本営は天皇の名のもとに 日本軍兵士を余りにも大量に虐殺した。大本営は戦争犯罪を自認していたのか硫黄島の日本軍兵士と記録は捨て石と見限って抹殺した。硫黄島がアメリカ合衆国から1968年に返還された。以後は自衛隊の管理下に置かれて、一般市民の立ち入りは厳しく制限されている。
 硫黄島は、東京から南約660マイルの火山島であり、幅が約2マイル、長さ約4マイルである。1944年にグアム、サイパン、テニアンのマリアナ諸島を確保する地上作戦が終了する前から、アメリカ海軍はすでに新しいB-29爆撃機に適した空軍基地の土地を開拓していた。巨大な爆撃機であるB-29は、日本の本島に向けて最初に1944年10月から始まった。しかし、小さな硫黄島から離陸した日本の戦闘機がB-29を迎撃して、マリアナ飛行場を攻撃した。アメリカ軍は、硫黄島の占領を決断した。
 1945年2月19日に、海軍が空爆した後に、アメリカ軍海兵隊が硫黄島に侵攻した。硫黄島の日本の守備隊は、火山岩の奥深く塹壕をを掘った。約70,000人のアメリカ軍海兵隊と約18,000人の日本軍兵士が戦闘に参戦した。硫黄島での約36日間の戦闘で、約7,000人にも昇るアメリカ軍海兵隊員が死亡した。さらに約20,000人が戦傷した。硫黄島の戦いで日本軍は全滅して、海兵隊は約216人の生存した日本軍兵士のみを捕獲した。硫黄島は最終的に1945年3月16日に占領が宣言された。海兵隊史上最も血なまぐさい悲惨な戦闘となった。戦闘後、硫黄島は約2,200機を超えるB-29爆撃機の緊急着陸地点として機能して、多数の航空隊員の命を防御した。硫黄島を確保することで、太平洋戦争の沖縄戦に繋げた。
 摺鉢山の山頂でのアメリカ国旗は1945年2月23日に掲揚された。戦闘開始の5日後。 AP通信の写真家ジョー・ローゼンタールは、5人の海兵隊員と1人の海軍隊員がアメリカ国旗を掲げている有名な写真を撮影した。硫黄島との戦いが終わる前に、これらの3人の男性は日本軍により殺害された。アメリカ全土の新聞に掲載されて、アーリントン国立墓地の海洋記念館の象徴となった。市民による戦死と戦傷による戦争による代償に対して、市民には永遠に取り戻せない名誉と尊敬の賛美で代償した。


2019年11月18日月曜日

イスラエル軍のガザ地区侵攻で、腹部に重傷を被った少女の娘を、父親が悲しみながら介抱した。

イスラエル軍は、パレスチナのガザ地区に、攻撃機、ヘリコプター、無人飛行機の爆撃だけでなく、戦車と大砲が侵入した。2009年1月5日に、パレスチナのガザ地区のシファー病院は、パレスチナ人の約16人の子どもと7人の女性を含む約39人の民間市民が死亡した。死者数は、すでに約540人以上に昇り、負傷者は約2,600人にも達した。父親が、腹部に重症を被った少女の娘を、悲しみながら介抱した。パレスチナ人の市民は逃げ場を失って、ますます緊張と不安に追い込まれた。。人口が特に過密な地区であるガザ市内のシュジャイヤで、妊娠していた母親と4人の娘が砲撃で殺害された。戦争がガザ地区を覆い尽くしている。血と大量の死体の悪臭がする。毎日のように不吉な知らせが届いた。崩壊したガザ地区に死体、切断された四肢、泣き叫ぶ子どもと両親、子どもや家族を探し回る肉親が迷って徘徊していた。イスラエル国防軍(IDF)は、ハマスが戦争に巻き込んだ民間人、特に子供を人間の盾として使用したと主張した。
 イスラエル空軍は、6ケ月間の一時停戦を破って、2008年12月27日からガザ地区の全域に猛烈な空爆を始めた。2009年1月3日に空爆と砲撃しながらガザ地区に無差別攻撃しながら侵攻した。ハマスとの激烈な戦闘により、ガザ地区の市街戦に陥った。イスラム世界では、ガザ虐殺と呼称した。パレスチナ自治政府を主導するハマスは、報復として、多数のロケット弾をイスラエル南部に発射した。1月15日には、国連のパレスチナ難民救済事業機関(UNRWA)の避難所を砲撃して、約40人以上が死亡した。イスラエル軍は約3週間にわたるガザ地区侵攻から、1月18日に一方的に停戦を宣言して、1月21日までにガザ地区から完全に撤退した。ガザ地区侵攻により、パレスチナ人は約1,166人以上、イスラエル人は約13人が死亡した。国連の世界保健機関は、約122の医療機関の約48%が崩壊したと公表した。2008年、2009年、2012年、2014年と、イスラエル軍は逃げ場のないガザ地区に無差別に大規模な侵攻で攻撃と破壊を繰り返した。現在もガザ地区の周囲はイスラエルに軍事封鎖されている。繰り返される戦争で最大の被害者は、常にガザの一般市民である。


2019年11月17日日曜日

サイパンの戦いで、担架の上でシートを掛けられたアメリカ軍兵士の戦死した膨大な死体が散乱した。

太平洋戦争におけるサイパン島の戦いにて、1944年6月にアメリカ軍兵士の戦死した膨大な死体が散乱した。埋葬する直前に、整列させた担架の上で死体はシートが掛けた。約71,000人のアメリカ軍によるマリアナ諸島の広範な最初の侵略となるサイパンの戦いが1944年6月15日から勃発した。上陸からわずか3週間で約55,000人にも達する兵士と民間人が死亡した。サイパンに上陸した最初の4日間だけで、アメリカ軍兵士の戦死傷者数は約5,000人にも達した。
 サイパン島は、日本本土とフィリピンとのほんど等距離の約2,200kmにあり、アメリカの最新鋭の爆撃機(B-29)による空襲の基地となった。太平洋戦争のアメリカ軍が初めて膨大なの民間市民に遭遇して、数千人の一般日本人が戦闘で命を落とした。多数の日本軍兵士と一緒に死亡した多くの民間人は、アメリカの侵略者に降伏するだけではなく、島の崖から海に飛び込んで自殺した。アメリカ軍は1944年7月9日にサイパンを占領した。
 サイパンの戦いは残酷な戦いであり、1944年の夏のわずか3週間で約55,000人の兵士と民間人の命を奪った。日本軍の容赦ない爆撃により、アメリカ軍も多数死傷者を出し、致命的な被害をもたらした。日本は1920年に国際連盟によりドイツから奪取して占領した。日本軍は、1934年からサイパンを強化した。アメリカ軍は、1934年から強固にしたサイパンに、約30,000人の日本軍兵士と対決した。アメリカ軍は、日本軍兵士がアメリカ軍に降伏するのではなく、死ぬ準備ができた容赦ない日本軍兵士に直面した。最初の4日間だけで、海兵隊員は約5,000人の死傷者を出した。ジャングルや洞窟、彫り込んだ地下壕は、日本軍兵士にとって隠密な陣地となった。塹壕は、猛暑で悪臭はひどく、埋め尽くしたハエとうじ虫が這い回った。戦闘の残忍さは、最北端のバンザイクリフの崖から海に飛び降りて自殺した日本の民間人の悲劇でも明らかである。
 サイパンのバンザイ自殺は、崖から飛び降りて子どもたちと自殺した女性を日本人女性の誇りであり、昭和の最高の行為と新聞は称賛した。国民と軍幹部を現実の状況を盲目にする罠となった。サイパンの戦いの最後にバンザイ突撃を指令してから、7月6日に司令部の幹部は自殺した。武士道と云ふは死ぬ事と見付けたり、悲惨な大虐殺と残虐行為が指令された。7月9日に約3,000人の日本軍兵士が、戦傷者を含めてバンザイ突撃命令に従って全滅した。サイパン島に上陸した約71,000人のアメリカ軍兵士のうち、約3,000人が死亡し、10,000人以上が戦傷した。約30,000人の日本軍兵士はほとんど全滅して、そのうち約5,000人の日本軍兵士は捕虜になるより自殺した。アメリカ軍の捕虜となって生存したのはわずか約921人の日本軍兵士だけであった。


2019年11月16日土曜日

ウクライナのドコロビッチで、ナチス・ドイツ軍は壁の前に立たせた4人のユダヤ人を銃殺によって処刑した。

ウクライナのドコロビッチで、ナチス・ドイツ軍は、1943年に壁の前に立たせた4人のユダヤ人を銃殺によって処刑した。1941年6月30日から、ドロゴビッチのユダヤ人は反ユダヤ主義の地元住民によって墓場に地に追い込まれて、虐殺された。1942年8月から、ドロゴビッチからユダヤ人はベルゼック絶滅収容所に強制送還された。ウクライナ補助警察の支援を受けて、ナチス・ドイツ軍は隠れようとするか逃げようとした多数のユダヤ人をその場や路上や森で射殺した。1943年2月15日に約450人のユダヤ人がブロニザの森に連行されて射殺された。
   第二次世界大戦前のドロホビッチには、総人口の約40%に相当する約15,000人のユダヤ人が居住していた。1939年9月のポーランド侵攻後にポーランドは分割されて、ドロゴビッチはソビエトウクライナに併合された。ナチス・ドイツ軍が1941年6月30日にドロホビッチに占領した直後に、ウクライナの民族主義者は、ナチス・ドイツ軍の支援を受けて、3日間継続したユダヤ人の約300人に対する虐殺を始めた。1941年11月30日にブロニザの森で300人以上のユダヤ人が殺害された。1942年8月8日から17日までナチス・ドイツ軍の占領者は市の広場や街で約600人以上のユダヤ人を虐殺した。1942年には、ナチス・ドイツ軍とウクライナの補助警察とが、虐待、虐殺、国外追放、殺人があった。1942年10月には、約10,000人のユダヤ人が投獄されたドロホビッチゲットーが設立された。そこに近隣のユダヤ人も連行された。
 ドロコビッチは、ナチス・ドイツ軍が1942年9月に約10,000人のユダヤ人を収容する隔離ユダヤ人地区であるゲトーを設置した。1943年6月に、ナチス・ドイツ軍が支援する政府と軍隊はドロホビッチゲットーを粛清して、主に1942年2月から11月の間にほとんどのユダヤ人をベルゼック絶滅収容所に移送して粛清された。ベルゼック絶滅収容所は、ボーランドのユダヤ民族を絶滅するために1941年1月から1943年6月まで稼働した。ドロホビッチにはわずか約800人のユダヤ人だけが生き残った。1944年8月6日に、ナチス・ドイツ軍によるドロホビッチ占領は、ソ連の赤軍が解放して街を占領した。



2019年11月15日金曜日

救援隊員が広島原爆に被災してトラックの荷台に横たわる少女を介抱して、に握り飯を食べさせようとした。

1945年8月15日午前8時15分に広島市内に原子爆弾が投下されて炸裂した。2日後の8月10日に、爆心地から約760mの上流川町(現 胡町)にて、救援隊員が被災した少女を介抱した。トラックの荷台に横たわる少女に握り飯を食べさせようとした。救護所に収容しきれない被爆者は、トラック、列車、船などで遠方の市町村に護送された。座り込んだ救助隊員が、頭の近くに置かれたボウルからおにぎりを少女を食べさせようとした。


 上流川町で広島流川教会は、旧1886年(明治19年)より布教を開始した。太平洋戦争末期には、軍服仕立て工場になったり、牧師も工場に徴用された。広島原爆で、礼拝堂は残骸だけ残して悉く灰になった。会員は死者約75人に昇、生存者約35人で再建に取り組んだ。広島流川教会の礼拝堂の前にかかげられている黒焦げの十字架は、「被爆十字架」と呼ばれ、広島原爆の被爆によってほぼ炭化した木材となった。1995年、被爆50年を記念して前会堂正面に掲げた。
 戦後に、谷本清牧師を中心にして(谷本清平和賞を創設)、アメリカの教会・慈善団体と連携して、原爆孤児に対する精神養子運動、日本全国に訴えて回った原爆乙女渡米治療運動に熱心に取り組んだ。精神養子とは原爆で身寄りを失った子供たちの養育を、アメリカ人家庭が手助けする「親子縁組」である。アメリカに1995年治療に渡った原爆乙女約25人の内、1人は手術台の上で、2人は帰国後に悲惨にも死亡した。ヒロシマ・ピースセンターの設立して、1971年に教会は上幟町近くに移転した。

被爆十字架

2019年11月14日木曜日

中国の人民解放軍と公安警察が、陝西省咸陽にて若い女性を含む囚人を公開で射殺して集団処刑した。

中華人民共和国の人民解放軍と公安警察が、1995年12月24日に陝西省咸陽にて、若い女性を含む囚人を公開射殺して集団処刑した。女性の囚人らの後頭部と心臓などを狙い撃ちにした。スカートやジーンズを履いたうら若き女性は後ろ手に縛られて、無表情な人民解放軍兵士と公安警察に銃で頭と心臓を撃ち抜かれて虐殺された。死刑の執行写真では、若い女性の名前は陸金鳳であり、彼女の首に下げられてる札には「故意殺人犯 陸金鳳」、背後にある卒塔婆には、同様に「槍殺 故意殺人犯 陸金鳳」と晒された。中国では、卒塔婆の氏名に赤バツをつけた札を首から下げて晒しものにする風習がある。中国当局の人民解放軍と公安警察は、公衆の面前で女性らの囚人を銃殺で処刑した。取り巻く多くの民衆と公安警察が死刑の光景を見ていた。死刑の判決を受けるのは通常は、麻薬密売や殺人などの重大な犯罪を犯した囚人に課される。中国ではそれ以外でも最も恐ろしい死刑が執行された。その他の男性の囚人は抵抗して、公安警察が走って行き押さえつけても、陸金鳳はその姿をただじっと見守って、表情には、生への希望も死への悲しみもなく、虚無のみであった。刑場に連行される死刑囚の一団が出て来る裁判所前にも大量の見物人が集まって、集団で死刑裁判と処刑が行われた。 
 一連の銃殺写真は密告者から「博訊新聞」に2004年に提供されたもので、時刻や場所は記載されていない。アメリカ合衆国ノースカロライナ州にある反共新聞である博訊新聞に、2004年12月23日に掲載された。犯罪者の死刑は歴史的には残虐な処刑が世界中にも存在するが、中国の場合は死刑囚を引き回して晒し者にして銃殺という前時代的な処刑が現代に至っても行なわれている。中国では死刑判決が出たら、抗弁をさせなように即刻で死刑を執行する。頭部を吹き飛ばす斬首や頭部を破滅したり切り離すのは、中国では魂を滅ぼす事を意味する。肉体を不完全にする事で、来世で獣に生まれ変わるなどの古来の迷信が由来とされる。その他には移植臓器などが必要な時に合わせて死刑を執行する人間生簀も示唆された。


   
 陸金鳳のうら悲しい悲惨な運命の略歴は下記である。1975年: 山西省運城市土懐郷陸各荘生まれ。1988年: 母も病で死去。継父とおじに家から叩き出される。その時13歳。生きるために路上生活を始めるが犬に咬まれ大怪我をしたところをホテルマネージャーに拾われるが強制的に売春させられる。 1991年: 全国的な売春取締りのガサ入れで捕まり労働改造所に入所。1992年: 釈放され実家に戻される。疫病神が戻ったのを怖がり、継父は陝西省慶陽件西嶺村の貧困障害者“李”に1000元で嫁として売った。李はベッドに寝たきりで母親が介護していたが性格は誠実だった。然し幸せは続かなかった。村の悪党“胡”が陸を気に入り2000元で李から奪っていった。1992年から1993年:  陸は凌辱と虐待を受け続け、逃亡を試みるも毎回捕まり監禁された。 何週間か過ぎ、胡は商売で長期間不在にした隙に胡の従弟である“唐”“関”の二人は陸を姦淫し妊娠させた。唐は自分の子かもしれないと思い、胡が戻ったら手切れ金を払って妻にしようと考えた。1994年末: 陸は男の子を産んだ。1995年旧正月: 胡が戻ったので唐は恐る恐る陸と子供を帰したところ胡は激怒、陸を拷問し誰の子かを吐かせた。その晩唐と関は胡に切り殺され、子供も殺された。陸は怒りと絶望で理性を失い鎌で眠っている胡を殺し放火した。1995年3月: 陸は逮捕され、慶陽県法院は“悲惨な生い立ちではあるが、労働改造所を出て保護観察処分中の身でありながら殺人を犯した。”として死刑判決を下した。陸は不服を申し立て上告しようとしたが却下。1994年12月24日: 咸陽にて銃殺で処刑される。 20歳で死没。

関連画像

2019年11月13日水曜日

オーストリア軍のレオナード・シフリート軍曹が、日本軍兵士とニューギニア原住民に見物されて、正宗剣の日本刀で斬首刑された。

1943年10月24日午後にニューギニアのアイタペで、日本軍に身体を縛られて、目隠しをされたオーストリア軍のレオナード・シフリート(Leonard Siffleet)軍曹が、日本兵士と原住民の見物人に囲まれて、正宗剣の日本刀で斬首刑された。彼は特殊部隊の通信士であり、ニューギニアで日本軍の背後で隠密するオランダ人のスタヴァーマン軍曹に率いられた長距離の偵察部隊の一員であった。この部隊はアイタペの約100人の村人の裏切りに遭い、村人によりスタヴァーマンは殺害されて、シフリートと2人のアンボン人協力者のレハリンとペート・ウェールは日本軍基地に連行された。アイタペの日本海軍基地司令官の鎌田中将の命令で、彼らは約2週間にわたり尋問、拷問、監禁されて、3人ともに斬首刑で処刑された。日本軍の斬首刑の執行人は、終戦前に死亡した安野近雄という日本軍兵士であった。シフリートらは縛られ目隠しをされて、日本人と地元の見物人の群衆の前にひざまずき、地面に押しやられて、斬首された。
 シフリートらの死体は満潮線よりも低いアイタペの浜辺に葬られた。彼の死体はその後には発見できなかった。日本軍兵士によって安野近雄が処刑剣を振るうシフリートの斬首処刑の写真(右)は、1944年4月にアメリカ軍によって、ホーランジアに侵攻した際に、オランディア近郊で戦した日本軍少佐の遺体から発見された。日本軍の捕虜取り扱いの残虐性を例示するため、シフリートの斬首刑の写真はすぐにアメリカの新聞や出版物、さらにオーストラリアの出版物で公開された。オーストラリアでは長年にわたり、この写真(右)は1943年3月29日にニューギニアのサラモアで処刑されたオーストラリア空軍のニュートン大尉を写したものと誤認されてきた。同時に処刑された写真(左)は、日本軍の捕虜となった氏名不詳の連合軍兵士が斬首される瞬間であった。戦後に、安野近雄は死刑を宣告されたが、部下の行動として10年間の懲役に服した。



2019年11月12日火曜日

ケニアでマウマウ団は、ラック家族を襲撃して6歳の息子マイケルをベット上で殺害した。

マウマウ蜂起の最も悲惨な犠牲者は、ナイロビのすぐ北にあるリフトバレーに住んでいた白人の入植者のラック家族であった。1953年1月24日にマウマウの約30人の戦闘員は遠隔地の農家を襲撃して、農夫のロジャーと妻で妊娠中のエスミ、そして6歳の息子マイケルをベット上で殺害した。マイケルの寝室の床に血まみれの熊のゆいぐるみと壊れたおもちゃの列車が散乱した。マウマウ蜂起の間、白人の入植者家族の殺人は実際には非常にまれであった。主にマウマウはアフリカ人を殺害した。マウマウは他の部族から少なくとも1,800人の仲間のキクユ族とアフリカ人を殺害しました。アフリカの女性と子供も頻繁に標的になった。この虐殺にイギリス国民に激怒して、ケニアの欧州共同体に衝撃を与えた。約1500人のヨーロッパ人の入植者が、地方政府に対応を求めてデモ行進した。
 ケニア最大民族であるキクユ族を中心とするケニア・アフリカ同盟から離脱した急進派のケニア都市自由軍は、1952年の反植民地闘争からマウマウと呼称された。イギリス軍兵士の大隊の助けを借りてケニア警察は、マウマウ反乱軍と8年間も戦闘した。イギリスの弾圧は残酷であり、不釣り合いな対応で、ゲリラ戦で数千人のケニア人が殺害された。約千人のケニア人が死刑の有罪判決を受け、絞首刑にされた。マウマウと疑われるか、武装勢力と疑われた最大約30万人が、衛生と食糧が不十分で、規律が残忍で容赦ない強制収容所で拘束された。
 マウマウの武装反乱は、植民地支配に対する最も激しい反抗となった。マウマウ反乱はイギリス領ケニア植民地で最も長く、暴力的な反植民地闘争となった。1885年のベルリン会議の結果、イギリス政府は 1895年7月1日にケニアを含む東アフリカ保護領を確立して、1920年に正式な植民地と宣言した。ケニアは、世界で最も豊かな農業土壌であり、標高と気候によりヨーロッパ人が恒久的に居住できる地域でもあった。1895年以前でも、イギリスはケニアに没収と暴力を襲った。ケニアはイギリスの開拓のために強制的に開墾された期間中に多くの紛争があり、イギリス軍は先住民に対して残虐行為を行った。イギリス帝国主義への反抗は、イギリス占領から始まり、1895年から1905年のナンディ抵抗、1913年から1914年のギリアマ蜂起、1947年の強制労働に対する女性のムランが郡の反乱、1950年のコロア事件などが勃発していた。1963年12月12日にイギリス連邦王国として独立して、1964年にケニア共和国が成立した。


2019年11月11日月曜日

イランのアメリカ大使館人質事件で、アメリカ軍の戦闘機の同志が砂漠上で激突して、8人の犠牲者と4人の負傷者を出して撤退した。

イラン革命の直後に、1979年11月4日に約3,000人もの過激な学生が、イランアメリカ大使館を襲撃して、63人のアメリカ人を人質にした。13人の女性またはアフリカ系アメリカ人が解放された。その後にイランのアメリカ大使館の人質事件に対して釈放を要求するも、解決が頓挫してしまう。アメリカ合衆国大統領のカーターは、アメリカ陸軍特殊部隊であるデルタフォース隊員を密かにイランのアメリカ大使館を奪還をするために1980年4月24日に侵攻させた。しかし、アメリカ軍の戦闘機の同志が砂漠上で激突して、8人の犠牲者と4人の負傷者を出して撤退した。砂漠上で激突して炎上した戦闘機の側で、投げ出されて丸焦げに黒化した搭乗員の死体が散乱した。8人犠牲者は、3人のアメリカ軍米海兵隊員と5人のアメリカ空軍の乗組員であった。8人の死体はイランから回収できず、記念碑がアーリントン国立墓地にある。
 イーグルクロー作戦(Operation Eagle Claw)は、1979年に11月4日に発生したイランアメリカ大使館人質事件で人質となった大使館員および家族ら53名を救出するために、1980年4月24日から4月25日にイランアメリカ大使館の人質救出作戦であった。イラン北東部で首都テヘランから約200kmのホラサーン州の砂漠が第一到着目標であった。その到着地点で故障のトラブルが発生して作戦は中止となった。アメリカ陸軍の対テロ特殊部隊搭乗した輸送用ヘリコプター(RH-53D)の3番機の1台が低空でホバリングしながら撤退中に、近くに駐機していた6台の輸送機(E-130)に激突し炎上した。これによってデルタフォース隊員を含む8名が死亡して、4名が負傷したほとんど損壊したRH-53Dは全機放棄して、生存した搭乗員とデルタフォース隊員は残った航空機(C-130)に分乗して撤退した。残存するイランアメリカ大使館の人質は、カーター大統領が辞任する日までの270日間は解放されなかった。
 1978年1月に追放されたアヤトラ・ルホラー・ホメイニが率いるイスラム原理主義者らは、モハメッド・レザ・シャー・パラーヴィーの皇帝下で親アメリカのイラン政府に反政府運動をした。1978年夏に、イランに在住していたアメリカ市民の約44,000人のうち、退去を希望する扶養家族を、1978年12月8日と9日に約903人をアメリカとドイツに避難させた。皇帝は1979年1月16日に退位し、ホメイニは2月1日に亡命フランスから戻り、イラン・イスラム共和国を樹立した。さらに1979年2月10日までにイランから約5,732人を避難させた。1979年2月14日には、武装したイラン人が大使館を襲撃し、102人のアメリカ人を人質にした。1979年3月1日までに約4,099人のアメリカ人を国外に避難させた。皇帝が10月22日にアメリカ政府に亡命した。多くのイラン人が激怒して、1979年11月4日にイラン人学生が再び大使館を占領した。


2019年11月10日日曜日

東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。

1992年冬季に東ボスニアにおいて虐殺されたセルビア人の死体がトラックの荷台に積載された。ボスニア政府軍が東ボスニアの小さな村を襲撃した。村人たちが近くのボスニアのセルビア人武装勢力に援護を要請した。警戒警報のサイレンが鳴る中で、セルビア人武装勢力が村を、ボスニア政府軍から奪還した。村から逃げ遅れた村人は、皆殺しにされて、多数の犠牲者が出た。肉親の父親がセルビア人の息子の身を案じた探索した。父親が犠牲者の中に虐殺されてトラックに積み込まれた息子たちの死体を見つけ出して慟哭した。
 ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国は、ユーゴスラビア社会主義連邦共和国の崩壊から1992年3月に独立宣言を強行した。ボスニア=ヘルツェゴビナ共和国には、ムスリム人(イスラム教徒)、セルビア人(キリスト正教会)、クロアチア人(カトリック教徒)の主要民族がいて、この順番に人口比率が高い。セルビア人の人口比率も32%と高く、内戦はクロアチア内よりも激しくなった。これに対してセルビア人は独立に反対し、民族衝突が激化した。ユーゴスラビア連邦軍は、ボスニアのセルビア人の保護を理由に武力介入を始めた。戦闘がボスニア=ヘルツェゴビナ共和国の全土に拡大した。  
 ユーゴスラビア連邦共和国はセルビア人が中心で、ユーゴスラビアを解体したくない考えなので、分離独立の動きには反対であった。1992年4月にボスニア全土に非常事態宣言が出される。1992年4月にはユーゴスラビア連邦議会は、セルビアとモンテネグロ両共和国からなる連邦国家である新ユーゴスラビアの創設を宣言した。ユーゴスラビア社会主義連邦共和国は消滅した。 
 6つの共和国から成っていた旧ユーゴスラビアは崩壊して、5つの国に分離独立した。新ユーゴスラビア軍は、ボスニアに武力介入して、一時にはボスニア領土の60%以上を占領した。1992年5月に国連安保理理事会は、新ユーゴスラビアに対して、経済制裁を決議する。経済制裁によりセルビアの経済は破綻して、月率約100%のインフレにより、実質失業率が約60%となり、工業生産高も約3分の1まで落ち込み、輸入品が枯渇した、国民は買いだめて、ガソリンの割当を求めて長蛇の列ができたり、バス便数が減少して、救急医療体制の不備を引き起こした。セルビア国家予算の約70%が内戦への戦費支出を占めた。



2019年11月9日土曜日

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれて、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルの中に放置されて腐敗してハエが集った。

太平洋戦争のフィリピンの戦いに巻き込まれ、虐殺された多数の女性と子どもの死体がジャグルに放置され腐敗してハエが集った。
 太平洋戦争の有名な激戦地は、ガダルカナル、硫黄島、そして沖縄である。ガダルカナルの戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、硫黄島の戦いの日本軍兵士の死者は約2万人、沖縄戦の日本軍兵士の死者数約8~10万人と推定された。しかし、中国戦線を除いて、太平洋戦争で最も日本軍兵士の戦死者が多かったのは、フィリピンの戦いであった。大本営は比島決戦と称して、フィリピンでのアメリカ軍との会戦を大東亜戦争の天王山と位置づけて、都合約75万人もの大兵力を送ったが、実に約50万人もの日本軍兵士が戦死した。日本軍の真珠湾奇襲とほぼ同時に日本軍は南方資源地帯の確保のため南方作戦で、1942年4月には日本軍はフィリピン全土を占領した。1944年10月20日から、約20万人ものアメリカ軍がフィリピン奪還の戦闘を始動した。1945年1月4日にアメリカ軍はルソン島北西部のリンガエン湾に上陸して、ただちに南下して首都マニラを侵攻した。
 それから終戦までの約10か月、フィリピンの海上では、日本海軍の神風特別攻撃隊の自爆突撃が勃発した。陸上では日本陸軍の敗残兵が最後までジャングルや山岳奥地に立てこもって持久戦に陥った。ルソン島で防衛準備をしていたが、レイテ島にアメリカ軍が上陸すると、戦力の逐次放出をしては圧倒的火力のアメリカ軍に殲滅された。困窮した日本軍はマニラを死守する方針に固執して、膨大なマニラ市民が戦闘の巻き添えになり大量虐殺された。マニラに限っても、マニラの非戦闘市民の犠牲者は10万人を昇った。フィリピン全土では一体いくらの罪なきフィリピン人市民が犠牲になった。背後の敵となる恐れがあると見なしたフィリピン人市民を日本軍は無差別に大量殺戮した。アメリカ軍は、マニラではトーチカや建物からの狙撃による犠牲の損害を最小限に抑えるため、重砲火による無差別砲撃で街区を次々と破壊した。近年の戦史研究は、マニラの民間市民の約10万人の犠牲の約6割は日本軍による殺戮で、約4割はアメリカ軍の重砲火による死亡と推定した。近年から戦争を撲滅することは人類の悲願であるも、兵器で闘争することが途絶えない。戦争が勃発すれば、必ず多くの市民が巻き込まれて犠牲となった。


 

2019年11月8日金曜日

日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸の雲南省とビルマとの国境にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。

日中戦争にて1944年9月7日に拉孟(松山)の村で、日本軍の守備隊が全滅した。さらに9月13日には、騰越の日本軍守備隊が全滅した(写真下)。騰越城内は、砲爆撃によって壊滅した。その瓦礫の中に、日本軍兵士の死体が散乱した。拉孟の戦いでは、日本軍の約1,300人全兵士が戦死して全滅した。騰越の戦いでは、日本軍の約2,800人の全兵士が戦死して全滅した。1944年9月頃から、国民党軍の雲南に向かった遠征軍が押し寄せて、日本軍は包囲されて、全滅が相次いだ。騰越城陥落の際、多くの慰安婦達が犠牲になる中で、救出され中国軍の捕虜となった慰安婦達がいた。
 拉孟・騰越の戦いは、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある滇西と呼ばれる拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で勃発した。日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘が炸裂した。すでに南部を占領していた日本軍の小規模な部隊は、援蒋ルートの遮断のために派遣された。日本軍が侵攻した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていた。援蒋ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続された。連合軍の支援によって近代的な装備を身につけた中国軍が、1944年より反撃に転じた。日本軍は補給路を断たれて孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に全滅して玉砕した。太平洋戦争で多くの島々にて日本軍は全滅して玉砕した。日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。陣地に立てこもる日本軍の防御戦により、中国軍も部隊比率では日本より多数の死傷者を出した。
 日本軍の一次資料は消去あるいは非公開で、アメリカ軍とイギリス軍の一次資料に準拠するしかない。その軍事史や戦史は、過去の戦争の戦訓や作戦と功績を導き出す研究が中軸であった。



2019年11月7日木曜日

約3年間も監禁された人質の救出作戦中に、海賊のソマリア人が殺害された。

パナマの貨物船アイスバーグ1が2010年3月29日に、機械設備輸送のためアラブ首長国連邦に向かう途中で、ソマリア沖の海賊に乗っ取られた。イエメン、インド、パキスタン、ガーナ、スーダン、フィリピン国籍の約24人の乗員が人質となった。ソマリア沖の海賊は、約1,400万ドルを要求した。人質救出作戦中に、海賊のソマリア人を殺害した。2012年12月24日に、貨物船アイスバーグ1に約3年近くソマリア沖の海賊により監禁された約22人乗員の人質が解放された。24人のうち1人は自殺、もう1人は虐殺された。海賊に監禁された期間としては過去最長となった。南アフリカ人の傭兵とプントランド海洋警察とともに、ソマリア沖の海賊と戦闘した。ソマリアから分離したプントランドの武装集団に属するソマリア軍兵士が、ソマリア人の海賊に侵攻した。
 ソマリアは1969年のクーデターによるバレ政権が,1991年に崩壊して以来,全土を実効的に支配できない無政府状態に陥った。劣悪な治安の下,大量の難民と国内避難民が発生し,干ばつの深刻化、食糧不足の悪化から、深刻な人道危機が生じた。ソマリア沖の海賊の一つ原因であるソマリア国内の貧困や若者の就職難等は未解決で、海賊による脅威は引き続している。1988年からソマリアに内戦が勃発して無政府となり、アデン沖で漁民による海軍が多発した。2012年11月にケニア軍と共同してソマリア連邦共和国が成立した。海賊被害のピークは2009年から2011年で、年間200件以上の襲撃があッタ。2012年からは減少して、2015年にはほとんど発生しなかった。
 アフリカの発展途上国では、主として民族対立を誘引として、厳しい紛争が各地で勃発した。特に、ソマリア、コンゴ共和国、ルワンダのように、紛争が終結しない状況が継続している。国連は1991年の「公正な希望」の作戦により、飢餓に迫る民間市民を救出して戦争を停戦させるために、ソマリア紛争に介入した。残忍なソマリア軍閥が屈強に国連軍に抵抗した。作戦は惨敗して、ヘリコプターが撃墜されて死亡したアメリカ軍兵士の裸体を首都モガディシュ市内を引きずり回した。犠牲者が公開されると、アメリカ軍は利権が潜んだ戦闘を、アメリカ市民民に正当化させるのが困難となる遺体袋症候群が発症して、アメリカ軍と国連PKOも撤退した。イスラム過激派組織であるアッシャバーブが台頭してアルカイダと連携してテロを引き起こした。


2019年11月6日水曜日

18歳のピーター・フェクターという東ドイツの若者が友人と一緒に、国境検問所からは遠くない地点から、日中に西ベルリンに逃げようとして射殺された。

1961年8月13日に有刺鉄線がベルリンの壁に設置されて、数日後からコンクリートの壁を増設した。その出現からほぼ1年後の1962年8月17日に、18歳のピーター・フェクター(Peter Fechter)という東ドイツの若者が友人のヘルムート・クルベイクと一緒に、国境検問所からあまり遠くない地点から、日中に西ベルリンに逃げようとした。友人はベルリンの壁を乗り越えたが、ピーター・フェヒターは東ドイツの警備員に撃たれて死亡した。約1.8mのベルリンの壁の有刺鉄線に絡まれて転倒したビーター・フェヒターは、東ドイツの警備員に射殺された。警備員は、彼の助けの叫びにもかかわらず、大量出血で致命傷となる肺と骨盤部を射撃した。ベルリンの壁の向こう側の西ドイツ警察官とアメリカ軍兵士も、彼の援助に誰も来れなかった。群衆が両側に集まり、行動を促したが無駄であった。最後に、射撃されてうめき声を上げても放置されて約50分後に、催涙ガスの雲の下で、警備員らが青年の身体を抱えて引きずりながら、救急車ではなく車で搬送した。2時間後に、高層アパートにいた東ドイツ人が、窓に看板を掲げ、西ベルリンに集まって興奮している群衆に「彼は死んでしまった」と知らせた。
ピーター・フェヒターの虐殺は、国際的な注目を集めした。東西の分裂以来、西ベルリンで最悪の暴動が勃発して、4日間続いた。それらの行動の多くは、衝撃的なことに、反米的志向であった。ピーター・フェヒターは、ベルリンの悲劇であり、東ドイツと西ドイツの両方で無力感が漂い、東洋に閉じ込められた人々を助けるアメリカ人の無力さを象徴した。ピーター・フェヒターは、約50人目の虐殺されたベルリンの壁の脱走者となった。少なくもと約938人が脱走者が虐殺された。それに失敗して逮捕された約75,000人は投獄された。ヴォルフガングベラが撮影した4人の警備員に連れ去られる写真は、世界中の新聞の第一面を飾った。総延長は約155Km達したベルリンの壁は約27年後の1989年11月9日に崩れ始めました。彼の死は、近くの主要な脱出トンネル(NBCが資金を提供)を掘り、他の若い男性にも影響を与えた。


 

2019年11月5日火曜日

朝鮮戦争にてアメリカ軍は約200人を越える民間市民を龍山で虐殺した事件に関与したと推定された。

韓国真実和解委員会(TRCK)は、朝鮮戦争にてアメリカ軍は約200人を越える民間市民を龍山で虐殺した事件に関与したと推定した。1950年8月25日におけるアメリカ軍は下記の写真を、ソウルの漢江北岸のある龍山近郊で、北朝鮮軍から避難していた朝鮮人市民が、ゲリラ部隊による夜間攻撃を受けて殺害されたと釈明している(米国国立公文書館)。
 朝鮮戦争中、南北が犯した民間人の大量虐待と大量虐殺があった。その大半は韓国側が執行した。多くは朝鮮戦争が勃発した直後から挙行した。1950年6月28日の北朝鮮軍によるソウル大学病院の虐殺から、大韓民国大統領李承晩は、政府関係者と右翼団体により、左翼と疑われた朝鮮人と家族を大量虐殺した。虐殺された人数は、少なくとも約60,000人以上と推定された。大虐殺の期間に、イギリス軍は同盟国に抗議して、一部の民間市民を救った。アメリカ軍は、朝鮮戦争の戦線に近づく民間難民を阻止する政策を持っていた。アメリカ軍が韓国中部の老斤里の村でも、1950年7月26から29日に、約300人の避難民を変装し​​た朝鮮人民軍兵士として虐殺した。
 2005年から韓国真実和解委員会は、朝鮮戦争の前、最中、後の虐殺行為を調査した。朝鮮戦争の虐殺のうち、82%が大韓民国軍によって実行され、18%が北朝鮮軍によって実行された。委員会は、済州島の南西にある済州島の南朝鮮ゲリラに対する大韓民国軍と準軍事部隊が関与した1949年から49年の済州島蜂起で、約14,373人の民間人と約16,000人の南北戦闘員が虐殺した。大部分の虐殺は1949年までに沈静化するも1950年まで続いた。委員会は、民間人の86%が大韓民国軍に虐殺されたと推定した。アメリカ軍に関連する虐殺は、正当防衛として擁護した。



2019年11月4日月曜日

広島原子爆弾の爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷とケロイドを受傷した。

広島原子爆弾が、1945年8月6日午前8時15分に投下されて炸裂した。爆心地から約1.6Kmで被爆した18歳の少女は、背中と上肢に火傷からケロイドと潰瘍を受傷した。被爆後の約3月後の1945年11月13日に、アメリカ陸軍によりカラー写真が撮影された。右肩から斜めに、カバンの紐の跡は無傷の皮膚のままに残存した。露出していた両上肢と背部には、火傷によるケロイドが発生した。ケロイドは彼女の顔、背中、そして彼女の腕と脚の関節に現れた。 ケロイドは関節の動きを妨げ、身体的および精神的な苦痛をもたらした。火傷後に、皮膚は再生して損傷を覆って治癒して、通常は傷跡が残る。ケロイドは、過剰に増殖する異常な瘢痕組織の不規則な腫瘤を発生した。熱放射線は人体を貫通しないため、身体の火傷部分は熱放射にさらされた部分であった。多くの場合に、身体の露出面のみが火傷して、非露出面は火傷の影響を受けにくい。
 原子爆弾の炸裂した直後に出現した急性の影響に加えて、放射線はさまざまな長期的な原爆症の問題を引き起こした。 過剰に増殖する異常な瘢痕であるケロイドが出現した。数年後、被爆者のかなりの割合が白血病または他の癌で死亡した。放射線の影響は今日でも曖昧であり継続的な研究が必要である。被爆者は常に自分の健康と後遺症を恐れた。原子爆弾の高い放射能は、被爆者の健康に壊滅的な影響を与えた。原子爆弾の炸裂により、被爆者は傷跡やその他の身体的損傷などの外傷により多くの負傷を負った。多くの負傷は爆弾の放射能によって引き起こされた。放射線は、脱毛、貧血、白血球の減少、下痢を引き起こした。その後、放射線は血液異常、男性と女性の両方の不妊、白血病、白内障、ケロイド、および多くの癌などのより深刻な原爆症を引き起こした。 


2019年11月3日日曜日

南京大虐殺後に、死体の埋葬を委託された中国人の埋葬隊が、幼児の死体を拾い上げて処理するために運搬した。

日本軍兵士による南京大虐殺によって、1938年1月に、非情にも幼児が日本軍によって虐殺された。大虐殺後には、死体の処理は市民は誰もが嫌がっていた。死体の埋葬を委託された中国人の埋葬隊が、幼児の死体を拾い上げて処理するために運搬した。虐殺された幼児は、両足には裕福な靴を履かせてもらえていた。埋葬隊が幼児の死体を背景にポーズをとっていた。左中段の幼児の死体は、肉親がベット上のマットにくるめて、悲嘆していた。約14万人もの日本軍は、南京の国民党政府を防御していた約40万人の中国人兵士らを、攻撃して壊滅して、内陸部に撤退させた。ホームレスとなった若い中国人らは、目立つ功績を上げるために、日本軍に対するゲリラ戦を仕掛けた。
(ライフ雑誌, 1938年2月21日、54ページに掲載)


2019年11月2日土曜日

ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体がニューギニアのブナ海岸の波に横たわった。

ニューギニアの戦いで、北海岸の約16マイル(約25 km)に沿って、西はゴナ、東はブナ、中央はギルワ(サナナンダ)の3つの重要な軍事拠点があった。1942年11月16日から、アメリカ軍とオーストラリア軍は、ニューギニアで日本軍が占領する主要な海岸、ブナ、 ギルワ(サナナンダ)、ゴナを攻略した。ブナ・ゴナの戦いの最終段階で、多数の日本軍兵士の死体が1943年1月にブナ海岸の波に横たわった。 その背後には、破壊された上陸船があった。
 アメリカ軍は、ニューギニアのブナを占領した日本軍に甚大な損害を負わせた。ニューギニアのパプア地域における日本軍の最後の抵抗地点であるブナの戦いの海岸に、殺害された日本軍兵士の死体は、破壊された着陸船から近距離で散乱した。日本軍はこの戦闘で重度の損失を被り、最終的にアメリカ軍とオーストラリア軍によって完全に占領された。浜辺での多数の日本軍と連合国の死体から蛆虫が繁殖して、ブナは「Maggot Beach(蛆虫の海岸)」と別称された。
 ブナ海岸で死んだアメリカ軍兵士の死体の写真は、第二次世界大戦中にライフ誌で初めて発表された。ルーズベルト大統領は、アメリカ国民が戦争の犠牲に慣れることを恐れた。アメリカ政府は、戦争の初期は一般国民の人々の士気を低下させるために、写真の公開を禁止した。オーストラリアでは、ダグラス・マッカーサー司令官は、特派員に公式許可なしにインタビューを行った兵士を軍法会議にかけると脅した。
 太平洋戦争の勃発から21ケ月経過して、ルーズベルト大統領がその公開を承認した後に、ライフ誌の1943年9月20日版で3人のアメリカ兵がブナビーチで死んだブナ・ゴナの戦いの写真の公開できた。ルーズベルト大統領と国防省らは、アメリカ人が自分たちの少年たちが戦場に戦死したことを見るべきと決定した。






2019年11月2日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 320,000回

2019年11月1日金曜日

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。

ポーランド人により虐殺された8人のドイツ人女性の死体が、ブロンベルグの近郊のグリンケに散乱した。ポーランド侵攻の2日後の1939年9月3日「ブルンベルグ血の日曜日(Bromberg Bloody Sunday)」事件で約5,347人のドイツ人が殺害された。血の日曜日では、イエズス会教会の牧師たちが暴徒に武器を配った。ポーランド人は教会に行く前に、隣人のドイツ人に挨拶して、教会の後に発砲した。家や地下で射殺されなかったドイツ人は、他のドイツ人と縛られて、様々な方法で拷問、切断、殺害された。何日もの間、死体まだ畑や中庭や庭、あるいは彼らの家の前に横たわり、小枝や葉だけで覆われて、表面的に埋められた。死体は何日もの間、野原、庭や庭、家の前に横たわり、多くの場合枝と葉だけで覆われるか、浅い墓に埋めた。死体の多くは、街路に沿って2つまたは3つに集積された。犠牲者の多くは、後になって遠く離れた場所で発見された。
 ポーランド軍とボルシェビキ部隊は、1939年にダンツィヒ回廊にて約58,000人のドイツ人を虐殺した。少なくとも1939年4月からポーランド人は無差別にドイツ人を虐殺した。ナチス・ドイツ軍がポーランド侵攻に至るまでに、ドイツ軍はすぐに打倒できると確信したポーランド人とロシア内務人民委員部(NKVD)とユダヤ人らは、多数のドイツ人を大量虐殺した。1939年9月1日のナチス・ドイツ軍のポーランド侵略以前からの虐殺であり、推定では約58,000人のドイツ人市民が虐殺された。ポンツ、ロッツ、ワルシャワ郊外のドイツ人農民を殺害し始めた。ドイツ人の子供たちは納屋に釘付けにされ、女性は強姦され、侵入してドイツ人は処刑された。1939年9月3日のブロンベルグの血の日曜日事件は、殺人乱交の恐ろしい結末であり、ドイツ民族に対するポーランドの全滅キャンペーンの集大成であった。1939年のダンツィヒ虐殺は、ナチス・ドイツにポーランドを攻撃するための完璧な口実を与えた。ナチス・ドイツはポーランドの侵攻を、ドイツ国民に対して正当化した。「血の日曜日」という用語は、ナチス・ドイツのプロパガンダによって作成されて支持された。
 ブロンベルグとその周辺では、ポーランド人の殺人集団は、避難できなかった数千人のドイツ人を虐殺した。ポーランド人の襲撃隊が地域に居住したリストを持っていた。犯罪が容認されただけでなく指示された。殺人集団は、ドイツ系民族の家を捜索し、捕獲するか、その場で射殺した。ポーランドの聖職者は、1939年7月3日にポーランドの教会当局の命令によりドイツ語でのカトリック教会の礼拝が禁止された。司祭は教会の礼拝中にポーランド人がドイツ人を絶滅するように扇動した。血の日曜日に、イエズス会教会の聖職者が暴徒に武器を手渡した。ポーランド人が教会に行く前にドイツ人の隣人に挨拶し、教会を出た後にはドイツ人を撃った。家や地下室で撃たれなかった人は、束縛されるか、他の人に縛られ、街から連れ去られ、あらゆる方法で虐待され、切断され、殺害された。ポーランド軍隊でさえ、束縛されて捕縛されたドイツ人の殺害に参加した。