太平洋戦争のブーゲンビル島の戦いにて、1944年3月18日に日本軍兵士はアメリカ軍陣地に夜襲をかけた。それに対抗して早朝のアメリカ軍の掃討作戦により、多数の日本軍兵士が殺害された。その死体が森林のジャングルの中に散乱していた。日本軍兵士は1944年3月8日からアメリカ軍の飛行場があるタロキナ岬に侵攻したが、圧倒的な武力で壊滅した。日本軍兵士の約2万人のうち戦死傷は約13,000人にも達した。その直前から食料や武力の補給は途絶えて、栄養失調による餓死や感染症で約4,000人以上は戦病であった。アメリカ軍は、降伏する日本軍兵士も捕虜とせずに、多数を虐殺した。ボーゲンビル島の戦いは、墓島(ぼとう)と呼称された。
ブーゲンビル島は、ニューギニア島の東に位置しているパプアニューギニアの島である。ブーゲンビル島は、約2000m級の山脈とジャングルが連なる険しい地帯であった。アメリカ軍が上陸した1943年11月1日から終戦後の8月21日の降伏まで戦闘が持続した。主にアメリカ軍はフィリピンの戦いのために1944年11月まで攻撃して、その後は主にオーストラリア軍が攻撃した。日本軍兵士に対して1944年4月に通常は約750グラムの米配給が、1944年4月に約250グラムに削減され、9月からは米配給は停止した。日本軍兵士は、食料を育てて時給自足に陥った。士気は非情に低下して、強盗、不服従、反抗なども発生した。ジャングルで、見つけるヘビ、ネズミ、ワニなど全て食い尽くした。ブーゲンビル島の民間市民は、戦前の約52,000人の人口のうち最大で約13,000人が戦争中に死亡した。約144,000人のアメリカ軍兵士のうち約727人が戦死して、約30,000人のオーストラリア軍兵士のうち約516人が死亡した。約45,000人を上回る日本軍兵士のうちで約18,500人を越えて死亡した。アメリカ軍と交代したオーストラリア軍の攻撃に対し、戦時中から戦略的にも無意味で無駄な戦闘であったとの批判がある。