2019年11月8日金曜日

日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸の雲南省とビルマとの国境にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。

日中戦争にて1944年9月7日に拉孟(松山)の村で、日本軍の守備隊が全滅した。さらに9月13日には、騰越の日本軍守備隊が全滅した(写真下)。騰越城内は、砲爆撃によって壊滅した。その瓦礫の中に、日本軍兵士の死体が散乱した。拉孟の戦いでは、日本軍の約1,300人全兵士が戦死して全滅した。騰越の戦いでは、日本軍の約2,800人の全兵士が戦死して全滅した。1944年9月頃から、国民党軍の雲南に向かった遠征軍が押し寄せて、日本軍は包囲されて、全滅が相次いだ。騰越城陥落の際、多くの慰安婦達が犠牲になる中で、救出され中国軍の捕虜となった慰安婦達がいた。
 拉孟・騰越の戦いは、1944年6月2日から1944年9月14日まで中国・雲南省とビルマ(現ミャンマー)との国境付近にある滇西と呼ばれる拉孟(保山市竜陵県)・騰越(同市騰衝市)地区で勃発した。日本軍と中国国民党軍・アメリカ軍(雲南遠征軍)の陸上戦闘が炸裂した。すでに南部を占領していた日本軍の小規模な部隊は、援蒋ルートの遮断のために派遣された。日本軍が侵攻した当初の1942年頃は中国軍に対して優位に立っていた。援蒋ルート遮断後もアメリカ軍の空輸によって中国軍への支援が継続された。連合軍の支援によって近代的な装備を身につけた中国軍が、1944年より反撃に転じた。日本軍は補給路を断たれて孤立し、拉孟守備隊および騰越守備隊は最終的に全滅して玉砕した。太平洋戦争で多くの島々にて日本軍は全滅して玉砕した。日中戦争にて、拉孟・騰越の戦いは中国大陸にて日本軍が悲惨に玉砕した稀少な戦闘となった。陣地に立てこもる日本軍の防御戦により、中国軍も部隊比率では日本より多数の死傷者を出した。
 日本軍の一次資料は消去あるいは非公開で、アメリカ軍とイギリス軍の一次資料に準拠するしかない。その軍事史や戦史は、過去の戦争の戦訓や作戦と功績を導き出す研究が中軸であった。