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2023年11月29日水曜日

朝鮮戦争にて1951年9月24日に、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

朝鮮戦争において、1951年9月23日に、国連軍は朝鮮半島の38度線の北に数km前進し、約3週間にわたって北朝鮮軍と交戦した。9月24日、アメリカ軍の海兵隊は最前線で頑強に抵抗する共産軍の狙撃兵を探すために、朝鮮人の小屋に迫って掃討した。小屋の入り口には殺害された北朝鮮軍の戦死者の死体の下肢が見えた。

 1951年9月13日に「ブラッディ・リッジ」の北隣の尾根である「ハートブレイク・リッジ」の戦いは、38度線の北側でアメリカ軍第2歩兵師団によって開戦した。約30日間にわたる戦闘の末、1951年10月15日に、3745人の死傷者を出しながら、この地域はアメリカ軍によって確保された。両軍とも多大な損害を被ったため、朝鮮戦争で国連軍が行った最後の大規模な攻撃となった。

 1951年4月11日にトルーマン大統領は、マッカーサー元師を解任した。朝鮮戦争は膠着状態が続いて、朝鮮半島の領土の交換はほとんど行われなかった。1951年7月10日に、国連軍と北朝鮮軍は開城で休戦交渉を開始することに合意した。休戦交渉は8月22日に共産党軍によって打ち切られた。その後、アメリカ軍の第8軍の防御態勢を改善するため、一連の限定的な目標攻撃を開始した。朝鮮半島の中東部のアメリカ軍の第X軍団と韓国軍の第1軍団は、カンザス線への攻撃を有利にする陣地から、北朝鮮軍を追い出すため、カンザス線から約8km〜約11km上方の地形目標(ブラッディーリッジやハートブレイクリッジなど)を目指して戦った。1951年10月最終週までに、これらの目標は確保された。朝鮮半島の38度線沿いで血みどろの膠着状態が続く中で10月25日に、板門店の新しい場所で共産党代表団と国連代表団による休戦交渉が再開された。




2023年8月8日火曜日

朝鮮戦争にて、1950年9月27日に全州で北朝鮮の朝鮮人民軍に銃殺されて殺害された父親の死体の前で、その妻と家族が共に慟哭した。北朝鮮の朝鮮人民軍が全州から撤退する際に、民間人を大量虐殺して埋葬した。

朝鮮戦争にて、1950年9月27日に全州で北朝鮮の朝鮮人民軍に銃殺されて殺害された父親の死体の前で、その妻と家族が共に慟哭した。北朝鮮の朝鮮人民軍が全州から撤退する際に、民間人を大量虐殺して埋葬した。右側もすでに死体となり、でゴザで覆われた。北朝鮮の朝鮮人民軍により、韓国の首都ソウルから南方に約230kmに位置する全州で、北朝鮮の大量虐殺の犠牲となった父親の死体を囲み、韓国人家族が悲しんだ。全州は、朝鮮人民軍に1950年7月に占領された。

 朝鮮戦争のアメリカ軍第10軍は1950年9月17日に、韓国の仁川の月見島から水陸両用で上陸した。9月20日に漢江から北東に侵攻した。9月26日に、平沢と烏山でアメリカ軍の第2騎兵師団と米7歩兵師団が合流した。従軍記者は、水原城を経てソウルに奪還に入る過程を主に撮影した。朝鮮戦争で戦場で戦争をする緊迫した瞬間から、涙を誘うような犠牲者の悲惨な瞬間の姿をほとんど写真に収めた。従軍記者が撮った写真は、なんと約4万枚に達した。アメリカ軍と韓国軍が、1950年9月27日に韓国の首都ソウルを北朝鮮の朝鮮人民軍から奪還して占領した。

 1950年6月25日に、約135,000人の北朝鮮の朝鮮人民軍が、韓国の国境を超えて侵攻して、約98,000人の大韓民国軍が防衛した。6月28日には、朝鮮人民軍は韓国の首都ソウルを、7月20日に大田を占領した。8月8日から北朝鮮の朝鮮人民軍は、釜山に侵入をするも、アメリカ軍と韓国軍に撃退された。国連軍の仁川上陸作戦により戦局が一転すると、朝鮮人民軍は敗走を重ねて、一時はソウルと平壌も喪失した。その後、1950年11月1日に中国人民志願軍の攻撃により、平壌を奪還してソウルも一時は再び陥落して奪還された。戦線が膠着状態に陥り、1953年7月27日に休戦協定が締結された。




2023年7月14日金曜日

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。

朝鮮戦争中に、頭と肩に重い荷物を背負って避難した朝鮮人の母親が、飢えで疲れ果てて土の上に倒れた幼い朝鮮人の娘を助けようと引き起こした。母親の視線は、何かを警戒して、朝鮮戦争中の不安で緊迫しながら周囲を見渡した。北朝鮮から韓国までの数日間にわたり長距離の避難して、一人の幼い韓国人少女は、疲れ果てて栄養失調で、母親の足下に座り込んだ。疲れ果てた朝鮮人の娘は、もはや自らの体を支えることができずに意識を失った。朝鮮戦争から避難した母親は、荷物をたくさん抱えながらも、諦めずに朝鮮人の娘の名前を呼び続けながら、娘の体を引き起こした。

 アメリカ軍の従軍記者らは1950年9月17日に、韓国仁川月尾島に上陸した後に、平沢と五山でアメリカ第2装甲師団と第7歩兵師団に合流して、水原性を経てソウルに入る過程にて写真撮影をした。国際赤十字委員会(ICRC)の東アジア代表処を通じて入手した写真には、遠い道を去る避難民の苦しい姿と負傷者の治療現場、混乱の中で子どもを預かる親の悲惨な姿などが生々しく収められている。戦争写真を通じて戦争の惨状を直接見て、なぜ戦争がこの地から消えなければならず、なぜ平和の世界が来なければならないのかを感じる展示となった。

 朝鮮戦争は、ソ連の支援により軍事力を増強した北朝鮮軍が、1950年6月25日に38度線の全域から南侵して、勃発した。わずか3日間で、首都ソウルを占領した。アメリカ主導で、国連安全保障理事会で、国連軍が派遣された。国連軍が9月15日に仁川上陸作戦で、ソウルを奪還して、鴨緑江まで侵攻した。中国軍が朝鮮戦争に介入して、再び首都ソウルが略奪された。1953年7月27日に休戦協定で一次的に終結した。朝鮮戦争の避難民の総数は、約1,041万人で人口の半数に相当した。朝鮮戦争の犠牲者(戦死者と行方不明者)数は、韓国軍が約98万7000人、民間人約143万人で、北朝鮮軍は約92万6000人、民間人約200万人が犠牲となった。国連軍は約15万人と中国志願軍は約18万3000人、民間中国人が約72万人が犠牲となった。




2023年5月1日月曜日

朝鮮戦争で、咸興の洞窟の中で約300体の咸興市民の死体を、洞窟の中から外に運び出した。多数の死体から家族の死体を見回りがら探した。地底の坑道から死体を引き上げた。

朝鮮戦争にてアメリカ軍と韓国軍の仁川上陸作戦により、北方に追われて北朝鮮の朝鮮人民軍が咸興から撤退した。その直前の1950年9月に、朝鮮労働党は人民軍戦線司令部に撤退命令とともに、各地方党に国連軍上陸時に支柱となるすべての要素を除去せよという命令を下した。朝鮮人民軍は、反共産主義の容疑者として咸興市民を洞窟の坑道に中に生き埋めの生埋葬した。

 咸興の洞窟の中で殺害された約300体の咸興市民の死体を、洞窟の中から外に運び出した。1950年10月10日に、アメリカ軍を主体とする国連軍は、親族らに死体の検死をさせて確認させた。咸興の親族らは、多数の死体から家族の死体を見回りながら探した。家族の死体を確認した咸興市民らは、死体の直前で慟哭した。

 


 咸興徳山鉱山に、朝鮮人民軍によって生埋葬によって虐殺された死体を、咸興市民らは1950年11月13日に地底の坑道から死体を引き上げた。地底から、生埋葬された約482体の死体を引き上げた。



 








 朝鮮人民軍による虐殺の惨状は、最南端の南海の海辺から北朝鮮の清川一帯、原山~咸興まで勃発した。大韓民国の李承晩政権も北朝鮮の金日成政権も、自分らが後退する場合に、市民が反李承晩や反金日成の旗の下で蜂起するのを懸念して朝鮮市民を虐殺した。大韓民国の李承晩政権は、1950年6月28日に緊急事態下の犯罪処罰に関する特別措置令を公布して、戒厳令下で左翼分子に対する即決処刑を命じた。ナチスドイツや日本軍も他国に侵攻して、その民族を大量虐殺したが、自分らの国民には銃口を向けなかった。

 朝鮮戦争では、民間市民に対する報復的大量虐殺が多発した。南北の政権が転覆すめ過程で、南北双方に加担した民間市民に対して広範囲に報復的大量虐殺が発生した。特に、1950年7月から9月期間に、朝鮮人民軍が南侵攻して、占領地の左翼が右翼の報復的虐殺を主導した。その後に韓国軍とアメリカ軍が北侵攻すると、旧占領地の右翼が、左翼の報復的虐殺を主導した。李承晩政権も金日成政権も、右翼あるいは左翼の報復的虐殺を黙認した。朝鮮戦争にて報復的虐殺は、南北で憎悪の悪循環と相乗作用により、各地で引き起こした。


2023年4月20日木曜日

朝鮮戦争で1950年9月18日に仁川を攻略後に、ソウルに至る途上の金浦路で、多数の北朝鮮軍兵士が殺害された。アメリカ軍将校や兵士に囲まれ、マッカーサー元帥は、自慢気に北朝鮮軍兵士の死体群を見下していた。

朝鮮戦争にて1950年9月18日に、仁川(Incheon)攻略した後に、ソウルまでに至る途上の金浦路で、多数の北朝鮮軍兵士が殺害された。その死体を、アメリカ軍将校や兵士に囲まれながら、国連軍最高司令官マッカーサー元帥は、自慢気に北朝鮮軍兵士の死体群を見下していた。1950年9月17日の夜明けに、北朝鮮の縦隊が金浦路に沿って、仁川とソウルの間で海兵隊を攻撃した。海兵​​連隊が待ち伏せし、北朝鮮軍が射程内に入ると、海兵隊は道路沿いの丘から北朝鮮軍を攻撃した。戦車隊が北朝鮮軍に徹甲弾を打ち込んで、約6台の北朝鮮軍の戦車は炎上して、地面には約200人の殺害されて死んだ北朝鮮軍兵士の死体で覆われた。

 1950年9月15日に、第X(10)軍団の兵士、水兵、海兵隊が、仁川に上陸した。上陸した最初の軍隊は、ほとんど抵抗なく内陸に急速に移動した。北朝鮮軍は上陸の準備がなく、過去の水陸両用作戦よりも少ない死傷者で達成した。月尾島と小月尾島の占領で、上陸部隊は約108人の北朝鮮軍兵士を殺害し、約136人を捕獲した。いくつかの洞窟で約100人を洞窟に生き埋めにした。海兵隊の軽傷約17人のみであった。9月18日に、アメリカ軍は金浦飛行場を占領した。仁川の陥落後には、アメリカ軍は、約40km離れた旧韓国の首都ソウルに焦点を合わせた。漢江の障壁と約20,000人を超える北朝鮮軍が都市を占領していた。1950年9月22日までに、第10軍団がソウルの西端に到達して。激しい市街戦が続いた。1950年9月29日にソウルはアメリカ軍によって陥落した。簡単な式典で、韓国の李承晩大統領にソウルの支配権が与えられた。

 1950年6月25日に、北朝鮮の朝鮮人民軍(KPA)は突如38度線を越えて強引な攻撃後に、朝鮮半島を執拗に南下した。韓国軍(ROKA)とアメリカ軍は、準備不良で戦力不足の部隊が追い込まれた。朝鮮人民軍のほぼ全員が釜山攻撃に関与していた。朝鮮人民軍の背後に上陸した仁川の戦いで、アメリカ軍は約224人が戦死して、約809人が戦傷した。朝鮮人民軍は約1350人が戦死して、約70,000人が捕虜となった。



2023年4月18日火曜日

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。

ベトナム戦争にて、フォンニィ・フォンニャットの虐殺は、韓国軍龍部隊が1968年2月12日に民間ベトナム人の約79人を虐殺した。フォンニ(Phong Nhi)村にて、ベトナム人の母親レディン・ディエン(34歳)は、赤坊のレ・ ディン・マンを抱いたまま、韓国軍の銃によって撃たれて殺害されて倒れた。母親ディエルの上着がめくれたまま、胸がむき出しになったまま死亡した。母親より死体の上方にも、ベトナム人の村人グエン・ティ・トが韓国軍に殺害された。赤ん坊を抱いて韓国軍の銃撃によって死亡したディエンは、生前に所持していた市民証を保持していた。

 赤坊は、うつ伏せのまま死んだ母親を仰向けにすると現れた。母親の血が付着して、赤ん坊は傷ひとつなく生存していた。額に汗まで流し、ディエンの赤ん坊は眠り続けて、母親が死亡して生死の見分けもできず、た悲しみを知らない。家や村が燃え、母も、祖父も、おばも失った。赤坊は、眠りから覚めてにこにこ笑ったり泣いたりしてた。

 父親レディン・トゥク(40歳)は、生活のために南ベトナム民兵隊員として働いた。自宅から約2km離れたキエムル哨所のそばに家を建て、夜を過ごした。わずかに支給される給料で、4人の子供に食事を食べさせていた。子供たちを戦災から逃れさせた。妻ディエンの死体を見て号泣した。祖父と姉まで死んでいた。家族を失った村の住民たちが、妻ディエンの死体を背負ってキエムル哨所に駆けつけた。アメリカ軍と村を守る南ベトナム軍の一人として、韓国軍の虐殺に憤った。

 兄弟の兄レディン・ムクは、父親がいるキエムル哨所でふざけながら遊んでいた兄。フォンニ村に鳴り響いた銃声に、無感覚となった。耳が銃声の音にとても慣れた。ベトコンと南ベトナム軍が、また撃ち合ったとやり過ごした。まさか母が末っ子の赤ん坊を残した死亡は想像もできなかった。母とおばと祖父の死の前で、兄はようやく生と死の境界を理解するようになった。

  韓国は1964年から1973年の間に約320,000人の韓国軍をベトナム戦争に派遣し、共産主義の北朝鮮に対抗して南ベトナムを支援して、アメリカに次ぐ最大の外国軍を派遣した。アメリカ軍は、1968年3月16日に、アメリカ軍がソンミ(The Mỹ Lai massacre)村で民間人のベトナム人347人を虐殺した。




2023年4月10日月曜日

朝鮮戦争直前の1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、反体制派の粛清のために、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。

1950年4月14日に、韓国の首都ソウルの北約16kmの丘の下で、韓国憲兵隊は厳重な監視のもとで約39人の左翼政治犯が処刑された。銃殺の処刑場にて、一人ずつ杭に縛られた。約39人は、全員が共産主義を信奉した容疑にて、韓国政府によって逮捕され、裁判もなく処刑された。韓国軍憲兵は囚人の目を目隠しで覆った。身体には銃殺する射撃の標的である心臓の部分を特別にマークを付けた。処刑者は、二列になっている銃殺の行列を形成した。処刑現場には約200人の韓国軍と警察官、6人のアメリカ軍将校がいた。アメリカ軍は、自ら処刑を行わず、監視のような役割を担った。指揮官が発砲命令を出すと、処刑人のライフル銃が一斉に発砲した。韓国憲兵は政治犯に近づき、一人ずつ検死した。その場で一度に殺害されなかった者は、2度目の銃殺が行われた。韓国の憲兵が囚人を縛る縄を解いて、囚人たちの死体を、次々と棺桶に入れた。


 1945年8月15日の日本の降伏後に、朝鮮半島は38度線に沿って2分割された。北はソ連が占領して、南はアメリカが占領した。1948年8月に南部に大韓民国、9月には北部に朝鮮民主主義人民共和国が樹立した。その後、アメリカが軍事顧問団を韓国に残した以外は、アメリカ軍とソ連軍は、朝鮮半島から撤退していた。北朝鮮でも韓国でも、反体制派の粛清が執行された。韓国では、親北の共産主義者が大量に逮捕され、銃殺された。その2か月後の1950年6月25日早朝に、北朝鮮軍が南方に奇襲攻撃を仕掛け、朝鮮戦争が勃発した。

 1945年8月15日の日本降伏後に、朝鮮半島の朝鮮戦争の前後から、組織的で意図的な大量虐殺(Genocide)や集団虐殺(Massacre)が勃発した。1948年5月10日に、韓国のみ総選挙され、それに対抗して左翼勢力が武装闘争が勃発した。左翼は、韓国だけの総選挙に対してニ・七救国闘争で敵対した。1948年の済州島四・三事件にて、大韓民国の李承晩政権は大討伐作戦を強行した。1948年11月から1949年3月まで、焦土作戦が本格化した。討伐軍は、中山間地域の約100地域を焼き払って無差別に戒厳令下で虐殺した。済州島では、武装勢力は約500人だけでなく約3万人も集団虐殺した。鎮圧軍による住民全体の民間人集団虐殺が発生した。1949年1月10日に、韓国陸軍は、反乱軍の軍事裁判は、2817人に対して約410人が死刑を受けた。1948年12月1日に、国家保安法が制定されると、弾圧された左翼は武装闘争に移行した。朝鮮戦争が1950年6月25日に勃発すると、敵味方の区別が困難な内戦に至った。韓国軍とアメリカ軍は、北朝鮮が活動する地域の民間人も含めて無差別に殺害した。





2023年4月4日火曜日

1904年に鉄道破壊する妨害罪の容疑者の朝鮮人の3人が死刑執行が公開された。日本軍兵士は銃撃してもまだ生きている朝鮮人に、撃った後の射撃の効果を検証した。

1904年に鉄道破壊する妨害罪の濡れ衣を着せられて朝鮮人の3人が死刑執行が公開された。日本軍兵士は銃撃してもまだ生きている朝鮮人に、撃った後の射撃の効果を検証した。中央の囚人は一発目で顎に、右の囚人は右腕に銃弾を受けた。目隠しをされた朝鮮人は、ロープをかけられ、十字架の上に乗せらた。単にロシア軍に幇助の罪で告発された3人の朝鮮人が処刑された。3人の囚人は、小隊として配置された多くの日本軍兵士の射撃の標的に利用された。9人の日本軍の射撃隊はで構成され、約25mメートル以上の距離から射撃した。銃撃は将校が命令して、監督した(La Vie illustrée, 1904年12月2日号: ラヴィ・イリュストレは1898年から1911年まで刊行されたニュース週刊誌である。多数の写真で出来事を報道した)

 1910年8月29日から日韓併合して約1年後に、満州において鉄道を妨害して止めた3人の朝鮮人の義兵を捕獲した。日本軍兵士が、朝鮮人義兵を木に縛り付けて銃殺した。捕らえられた朝鮮人の囚人は、朝鮮独立運動の抑止力として見せしめに銃殺された。日本軍が朝鮮半島に鉄道を敷設すると土地を差し押さえて、何の補償も受けれない3人の朝鮮人たちが、1905年に鉄道の線路を引き抜いて逮捕されて銃殺された。処刑場面は、9枚の一連の写真がある。

 日清戦争開戦を目的とした日本軍大部隊が朝鮮に侵入、王宮占領を起点に始まった反日義兵闘争は、その後1910年代前半まで、約20年間も展開された。日本軍は義兵を暴徒に矮小化した。義兵の闘争の規模から、戦争に匹敵した。日韓併合の次期に、朝鮮独立運動の過程で犠牲になった朝鮮人は少なくとも約15万人以上と推定された。そのうち国家から叙勲を受けた朝鮮人は1,500人もいない。約90%以上の朝鮮人の犠牲者は行方不明である。朝鮮八道で蜂起した数多くの義兵たちもほとんど不詳である。日本軍の警察の尋問は常に審問的である。朝鮮人の自白を狙った。1897年12月8日に成立した法律では、司法の尋問の形式や障害に左右されなかった。実際の証拠がない場合、容疑者、起訴された犯罪を最初から非難された。当分の間、証言を拒否する自由、弁護士を選ぶ権利、弁護士なしで裁判で証言しない権利を秘密裏にした。




2023年3月9日木曜日

朝鮮戦争で殺害された北朝鮮軍兵士の死体を見ながら、1950年10月18日に沙里原でアメリカ軍下肢士官兵(GI)はクッキーを頬張った。

朝鮮戦争で殺害された北朝鮮軍兵士の死体を見ながら、1950年10月18日に沙里原(Sariwon)で、アメリカ軍下肢士官兵(GI)はクッキーを頬張った。沙里原の戦いは、1950年10月17日に、韓国を侵略した北朝鮮軍に対する国際連合(UN)の反攻作戦の中で勃発した。多くの朝鮮人民軍(KPA)部隊が国連軍の圧力で後退する中、イギリス連邦軍第27旅団は、混乱した一方的な反撃でサリウォンの町を占領しました。アメリカ軍第7騎兵連隊の部隊も参戦した。北朝鮮の朝鮮人民軍の死傷者は約215人、捕虜約3,700人以上に及んだ。イギリス連邦軍の死者は1人、戦傷者は3人であった。

 沙里原は、北朝鮮の黄海北道の西部にあり、近隣北部に北朝鮮の首都平壌が位置した。沙里原から北朝鮮の首都平壌までは約60km離れて、沙里原と平壌の間には、時折低い丘があるだけであった。北朝鮮軍は首都平壤の防衛戦が、平壤近郊の沙里原の手前の高台で、10月17日に勃発した。

 突然に北朝鮮のライフル射撃が、イギリス連邦軍に襲いかかった。北朝鮮軍は果樹園に潜伏していた。戦車が果樹園に砲撃を開始すると、数人の北朝鮮軍兵士が果樹園から走り出した。直後に、大量の北朝鮮人が果樹園を抜け出し、稜線に向かって突進し、頂上を越えて潜伏した。果樹園に突入し、残存する北朝鮮軍を一掃した。短期の攻撃で、約40人の北朝鮮軍兵士を殺害して、他の者を捕らえた。逃げる北朝鮮軍は、10門の機関銃を残し、峠では対戦車砲の砲台を放棄した。沙里原に侵入したが、国連軍の爆撃でひどく損傷していた。この日の損失は、連邦軍は死者1人、負傷者は約3人であった。

10月17日から、奇怪な事件が次々と起こり、沙里原の夜は大混乱となった。町の南にいたイギリス軍の偵察隊が、北上中の北朝鮮軍兵のトラックと遭遇した。北側の出口が閉鎖されて引き返し、再び偵察隊と遭遇した。2度目の遭遇で、偵察隊は約20人の北朝鮮軍兵士を殺害した。

 沙里原での掃討の夜には、約150人の北朝鮮軍兵士が殺された。イギリス具はたった1人の兵士を失っただけで、北朝鮮軍のほとんどは沙里原を通過した。北朝鮮小隊の降伏は白昼に行われ、すぐに陣地の東側から北朝鮮軍兵士が押し寄せて降伏した。西側では、暗くなるまで小銃の射撃が続き、多くの北朝鮮軍兵士が降伏した。その夜に、第1大隊に投降した北朝鮮兵は約1,700人以上、女性看護婦は約13人であった。






2023年2月14日火曜日

北朝鮮の工作船が、1980年6月21日に韓国の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈され、1人が逮捕され、工作員の9人が射殺され、死体が担架で搬送された。

北朝鮮(朝鮮民主主義人民共和国)の工作船が、1980年6月21日に韓国(大韓民国)の忠清南道西海岸の大川沖合いに侵入して、韓国軍に撃沈された。1人が逮捕され、北朝鮮の工作員の9人全員は射殺された死体が担架で搬送された。逮捕された北朝鮮の金光賢は、北朝鮮の作戦部に所属して、工作船にて工作員を往復させて、韓国人を拉致していたと証言した。1970年代以前は韓国軍の海岸警備は手薄であったが、1970年代以後は韓国軍の海岸警備は強化された。

 北朝鮮は、対南工作(대남공작)にて、韓国に対して行う政治的、軍事的、思想的な工作活動を指令した。金光賢は、1955年から1959年まで北朝鮮の平壌首都保衛軍の伍長をした。紡績工場の作業班から1965年に中央党所属、対南連絡所で南派訓練を受けた。1980年6月まで北朝鮮でスパイ工作員を輸送する任務で、十数回韓国に南派された。数人を送り込んでは連れて帰った。スパイ工作船基地の海州港を出発してから、西海(黄海)まで大型船で行き、小舟の工作船に工作員を乗せる。その後に基地に帰って待機して、約15日後に工作員を迎えに行った。

 北朝鮮のスパイ工作船の基地は、東海岸任務は元山、南海岸任務は南浦、西海岸任務は海州にあった。金光賢の西海岸任務した海州には、スパイ工作船の母船である基本船が約6隻、小型工作船が約20〜30隻あり、小型工作船は5トン程度で約10人は乗れた。

 金光賢さんは1980年6月18日に海州港を出発した。外形は漁船であるも、高射機関砲を積んだ。西海(黄海)を経て、6月19日夜8時頃に忠清南道の海水浴場である大川の沖に到着した。工作員と約10人が小舟に乗り換えて、韓国の海岸の防備状況の偵察に向かった。6月20日夜に大川の沖から海岸に静かに接近した。北朝鮮の工作員を降ろす地点で、韓国陸軍の歩哨所に発見された。韓国陸軍からの攻撃が始まり、小舟は無抵抗状態であった。砲弾や銃撃が小舟に命中して、瞬時に沈没した。撃沈された時点に工作員は全員9人が殺害された。

 金光賢は、大川の沖を必死で泳いで逃げるも、韓国軍機に発見され、韓国軍の艦艇に捕獲された。9人の北朝鮮の工作員は殺害されて、金光賢1人のみが逮捕されて生存した。金光賢さんは、韓国軍に抑留されて1年間は北朝鮮のスパイ・拉致などの取り調べを受けた。その後に韓国社会に向けた更生訓練を受けて社会復帰した。




2023年1月18日水曜日

朝鮮戦争の勃発直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配して、当初約140万人いた人口が膨大な戦死者や餓死者などで3分の1まで減った。

朝鮮戦争が勃発した直後に、北朝鮮人民軍はソウルを1950年6月28日から9月28日までの約3ヶ月支配した。当初ソウルに約140万人いた人口が3分の1まで減った。悲惨で残国な北朝鮮はソウル市民を支配した。膨大な戦死者、餓死者、その他に政治的理由で避難者、食料を求め地方に移り住んだソウル市民が出た。

 北朝鮮に支配されたソウル市民の感情は徐々に悪化した。食糧の配給制と徴兵の問題、ソウルで行った人民裁判などがソウル市民に虐待と虐殺を招いた。北朝鮮軍は同時に、到着した翌日の6月29日から当地の学生を自治隊と動員し、各家庭へ調査した。食料保有量調査で、学生たちは銃を背中に背負い、赤い腕章を着けた。各家庭ですべての食料を提出させた。占領中の北朝鮮軍兵士に渡した。没収された食料は全くソウル市民の元には戻らず、朝鮮労働党だけに配給された。その結果、ソウル市内に餓死者が続出する事態に陥った。

 北朝鮮によるソウル占領で、徴兵やメディア統制も強制された。ソウルの若者を召集して、義勇軍を結成して、北朝鮮に戦争協力させ、戦地動員令を発令した。対象年齢は19歳から37歳で、より若い中学生も強制的に動員された。後に金日成は、韓国で約40万人を動員したと公言した。当然、朝鮮戦争の戦死者が出る。家族の不満は高まった。新聞では、どの大学から何十人、どの中学校から何百人、ときには女子中学校から学年全員の約200人が徴収された。アメリカや大韓民国に敵愾心を燃やさせ、義勇軍を支持させ、志願後にすぐに出陣させた。北朝鮮の体制に反抗者の人民裁判や新聞の発行禁止、北朝鮮体制の機関紙に切り替えた。

 6月25日午前4時に朝鮮戦争が勃発して、ソウル市を包囲していた北朝鮮の朝鮮人民軍は、6月28日11時30分からソウルの中心部に侵攻した。6月28日を境に当時約140万人いたソウル市民は大韓民国ではなく朝鮮民主主義人民共和国の市民になった。3日前の北朝鮮側の先制攻撃に対し、韓国軍は装備・兵力ともに大きく劣りソウルは占領され、撤退して、水原市に遷都した。北朝鮮軍がソウルに侵入した時に、ソウル市民の約半分は街に出て、人民軍を熱烈に歓迎した。赤い国旗を振って万歳と叫び、学校の国旗掲揚台に北朝鮮国旗を掲げた。北朝鮮の戦車は西大門刑務所に向かい、監獄の中にいた左翼の政治犯などを解放した。大韓民国の右派政治家たちは、3日前の6月25日に北朝鮮軍の南下の噂から、すでにソウルから避難していた。

 北朝鮮が侵攻する情報が6月25日に伝わるや、ソウルから避難した市民ら約40万人が避難した。その人数の約8割は以前は、北朝鮮で共産主義の恐怖から混乱期に南のソウルに避難した難民だった。その他は北朝鮮から要注意の右派政治家、資本家などだった。ソウルに残っていた市民は当初は、意外と冷静だった。ソウルに、北朝鮮の人民軍が、ミアリ峠を超え、恵化門に膨大な北朝鮮の戦車、車や馬車、兵士が溢れた。北朝鮮人は、北西地方の方で、言語、風習、血統は同族であった。当初は、ソウル市民は敵兵だと考えず、遠方の兄弟が故郷に帰ったと感じた。ソウル市民は、赤い旗を振り、北朝鮮軍に付いて回り、仕事を手伝うソウル市民が最も多かった。

 朝鮮戦争は前半は北朝鮮が有利、中盤に韓国側が国連軍の参戦で巻き返し、後半に中国義勇軍の参戦により北が再び陣地を挽回した。北朝鮮のソウル市は、9月25日にアメリカ軍と国連軍の仁川上陸作戦で戦況が逆転した。ソウルは9月28日に大韓民国側に奪還された。逆に10月19日に、韓国軍側は平壌を占拠した。




2022年11月16日水曜日

乳児を抱いた朝鮮人の女性の頭部の傷を、1950年8月頃に2人の韓国軍兵士が手当をした。女性の2人の息子は、北朝鮮軍が発射した砲弾が炸裂して、同時に死亡した。

朝鮮戦争が1950年6月25日に、約10万人の北朝鮮軍が、宣戦布告もなく北緯38度線を越えて南方に侵略した。乳児を抱いた民間朝鮮人の女性の頭部の傷を、1950年8月頃に2人の韓国軍兵士が手当をした。女性のその他の2人の息子は、北朝鮮軍が発射した砲弾が炸裂して、同時に死亡した。朝鮮戦争の最大の被害者は、最終的に民間人であった。

 LIFEの報道写真家であったデイビッド・ダグラス・ダンカン(David Douglas Duncan)が撮影した。朝鮮戦争の惨状と悲劇を撮影した。1950年6月28日から1951年1月まで、韓国軍とアメリカ軍と、洛東江と長津湖などの戦場に従軍した。

 1950年夏期に、北朝鮮軍は南方に進略した。6月28日に首都ソウルを占領した後に、大田(テジュン)を侵略した。8月初期に、アメリカ軍と韓国軍で約92,000人で、北朝鮮軍の約7万を上回った。アメリカ軍の増援により、北朝鮮の反撃を食い止めた。釜山の防衛戦は、北は浦項の周辺、南は済州島と馬山地帯、中央部は大邱の北方となった。1950年6月から8月に、北朝鮮軍はゲリラの支援を受けた。ゲリラの死者は約67,228人、捕虜は約23,837、投降り者は約44,154人に上った。

 アメリカ軍は、9月15日に仁川上陸作戦を挙行して反攻攻勢した。9月28日にソウルを奪還した。中国人民志願軍は10月19日から参戦し、山岳部を密かに南下して、10月15日から突撃した。朝鮮戦争を通じてアメリカ軍約3万3千人、中国軍は少なくとも約11万6千人が戦死した。一方、韓国と北朝鮮では合わせて約66万人の兵士と、約200万人の民間人が命を落とした。




2022年10月27日木曜日

朝鮮戦争のアメリカ軍の第8軍はキラー作戦を実行した。3月6日にアメリカ軍兵士はアリゾナ線付近で、中国人民志願軍の中国人兵士の捕虜と死体を捕獲した。

朝鮮戦争の1951年2月20日から3月6日までアメリカ軍の第8軍はリッジウェイ司令官のキラー作戦を実行した。3月6日にアメリカ軍兵士は、中国人民志願軍の中国人兵士の捕虜と死体を捕獲した。キラー作戦は、アリゾナ線と呼称される戦線以下の中国志願軍と北朝鮮軍を全滅させる作戦であった。しかし、既に中国人民志願軍と北朝鮮軍は総撤退を開始して、この地域でわずかな抵抗が残存した。キラー作戦の終了後に、直ちにリッパー作戦を開始して、ソウル市の再奪還と38度線への再突入の総攻撃を行った。侵攻のために選択した作戦のコードネームである「キラー(Killer)」殺人者は、ワシントンで陸軍参謀総長から即座に抗議を受けていた。

 1951年1月4日に中国人民志願軍と北朝鮮軍が国連軍を圧倒して、ソウルを2度目の再占領をした。リッジウェイが復活したアメリカ軍第8軍が、1951年2月の最後の2週間にサンダーボルト作戦に続いて、キラー作戦を執行した。可能な限り多くの中国人民志願軍と北朝鮮軍を殺すために、武力を最大限に活用する本格的な作戦であった。キラー作戦により、アメリカ軍は漢江の南の領土を再占領して、横城を占領した。1951年3月7日からのリッパー作戦で、1951年3月14日にソウルから中国人民志願軍と北朝鮮軍を追放した。朝鮮戦争前の約150万人だった人口は、約20万人にまで減少して、深刻な食糧不足に直面して苦悩した。 キラー作戦で、アメリカ軍は約59人が戦死して、約802人が戦傷、約119人が行方不明となった。

 1951年3月24日にトルーマンは、「停戦を模索する用意がある」との声明を発表する準備をしていたものの、これを事前に察知したマッカーサーは、「中華人民共和国を叩きのめす」との声明を政府の許可を得ずに発表した後に、38度線以北進撃を命令し、国連軍は3月25日に東海岸地域から38度線を突破した。マッカーサーが暴走を続けた末に、第三次世界大戦を恐れたトルーマン大統領は、4月11日にマッカーサー将軍を解任した。その後任にアメリカ軍第8軍司令官のマシュー・リッジウェイが交代した。




2022年7月15日金曜日

太平洋戦争の終戦後にアメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。

日本軍による韓国併合から解放された朝鮮人による政治的暴力で、終戦後に初めて朝鮮人が殺害された。アメリカ軍が1945年9月8日に朝鮮半島の仁川に上陸した際に、日本軍の警察隊によって朝鮮人が射殺された。殺害された朝鮮人の死体は労働組合指導者のクォン・ピョングンあるいは平和維持活動家のイ・ソククのどちらかであり、9月8日に殺害された。8月15日の日本の降伏から3週間以上たった年9月8日に、アメリカ軍は大量に韓国に到着し上陸を始めた。その後1カ月半で、その数は朝鮮半島の占領期間中のピークである約7万7000人にまで増大した。

 日本軍の警察の働きにより、9月8日にインチョンにいた朝鮮人は、アメリカ軍が大挙して上陸し始めると鎮圧された。その数日前から、インチョンとソウルの間の村々に住む数百人の朝鮮人が、アメリカ軍憲兵隊の先遣隊に集まり、車両を花で飾った。その後に続く大規模な部隊は、「民衆の束縛を打ち払うために天からまっすぐ降りてきた輝く騎士のようだった」と記載された。アメリカ軍兵士が朝鮮半島の南半分に散らばって占領の任務につくと、ほぼ一様に英雄として歓迎された。しかし、蜜月は短いものであった。ホッジ将軍がソウルに到着してから数日のうちに、警察は混乱し、街は緊張に包まれた。ソ連領事館にいたソ連軍は、扇動者を煽っている疑いがあり、これまで見た中で最も荒っぽく、最も乱暴な集団」であると述べた。国務省の占領軍の担当者は、石炭と食糧穀物の危機的な不足と広範囲に及ぶ広範な地域の失業を報告した。占領下のアメリカ国務省代表は、日本の軍需産業の崩壊と、多くの朝鮮人が長期休暇を選択したことも一因であった。

 アメリカ軍が朝鮮半島に9月8日上陸する頃に、朝鮮人は日本軍の植民地支配に代わる独立運動活動に深く関与した。8月中旬に、日本軍の阿部信行総督は、日本帝国の降伏を予期した。8月8日に宣戦布告したソビエト軍が、朝鮮半島に侵入した。朝鮮人が、約16万3,000人の日本軍兵士と約37万8,000人以上の民間日本人を攻撃することを恐れた。終戦の秩序を確保するために特権階級の朝鮮人を従事させた。阿部は、非共産系左派の余雲彪に接近して、穏健な民族主義者の朝鮮人に拒否された。ソウルに「朝鮮独立準備委員会」を設立して、朝鮮の自主独立政府の枠組みを策定した。日本軍から脱走した朝鮮住民の朝鮮人兵士や武装した青年団、私兵の支援を受けた。その中に中国共産党が解放した数千人の囚人(政治犯、犯罪犯を問わず)も含まれた。 

 朝鮮人の保守派の多くは朝鮮建国準備委員会への協力を拒否して、左派中心の組織となった。当時の朝鮮半島は、新旧の階級、政治団体、イデオロギーが入り乱れた。朝鮮人は約5人に約4人が農業で生計を立てる小作人であった。日本軍が主導して資本家、ホワイトカラー、工場労働者が混在した。戦時中の動員により、日本国内へしばしば強制移住させた。名前や言語を含む朝鮮文化の痕跡を根絶する強硬な同化が勃発した。朝鮮人は公然と抵抗するのは不可能であり、朝鮮人は程度の差あれ日本軍の支配に迎合し、解放の際に表面化する怨念を朝鮮住民の朝鮮人に生み出した。政治的には右派と左派に大別された。財産と教育を受けた朝鮮人の多くは、日本と何らかの協力関係にあり、包括的な土地改革や富の再分配の手段など、極端な変革に反対する右派に属した。日本の植民地支配の下で働いた低学歴、低所得の約40%近くが朝鮮人であった悪名高い警察官も、日本に加った。




2022年6月14日火曜日

朝鮮戦争にて、北朝鮮の咸興で、韓国憲兵隊は、井戸に捨てた政治犯65人の死体を北朝鮮軍兵士に取り出させた。咸興近郊で、北朝鮮軍が洞窟に不法監禁して窒息死させた約300人の死体を坑道から運び出した。

朝鮮戦争にて、咸興虐殺事件は1950年10月に、咸興で起きた北朝鮮軍による集団虐殺である。1950年10月19日に、北朝鮮の咸興(Hamhûng)で、北朝鮮軍により井戸に捨てられた政治犯65人の死体を取り出した。韓国軍憲兵隊(ROK)に見張られた捕虜の北朝鮮軍兵士たちが、井戸から多数の死体を取り出した。国連軍は、北朝鮮の咸興近郊で、1950年10月16日に北朝鮮軍が民間人を大虐殺した死体を発見した。坑道から約300人の死体が運び出された。300人余りの政治犯が洞窟に不法監禁されて窒死した。北朝鮮の中東部の咸興市にて、北朝鮮軍から反動とされた多くの朝鮮人市民は防空壕に収容されて、爆発されて虐殺されていた。

 朝鮮戦争にて、北朝鮮に占領されたソウルが1950年9月28日に解放された直後から、北朝鮮の不穏な残虐行為が発覚され始めた。北方に進軍する国連軍部隊は各地で残虐行為の証拠を発見した。北朝鮮は退却する前に、監獄に収容された政治犯や軍人を急いで虐殺した。ソウルの南約56kmにある楊柳の北朝鮮軍の殺人収容所で、子供を含む700人の朝鮮民間人が虐殺された。昆山近郊の忠孝で、竹槍や棍棒で武装した北朝鮮軍兵士が村の食糧を奪った後に、約82人の男性、女性、子供を突き刺して殺害した。

 大田(Taejŏn)の大虐殺では、北朝鮮軍が機関銃で殺戮する前に、まず自分らの墓を掘らせ縛り付けて射殺した。北朝鮮兵士と地元の左翼は、何千人もの民間人を無残に虐殺した。10月3日の務安郡での虐殺事件では、死刑を選択された家族が縛られて海岸に連れて、大人がナイフ、棍棒、竹槍、農具で殺され、海に投げ込まれた。10歳以下の子どもは、深い井戸に投げ込まれた。大田刑務所の虐殺は、朝鮮戦争最大の大量殺戮の一つであり、約5~7千人の民間人と兵士が虐殺された。大田刑務所の死体は、真っ黒で、ハエがたかって、民間人が無残に虐殺された。銃で撃たれ、鈍器で頭蓋骨を割られて殺害された。井戸の中は死体でいっぱいだった。共産党員の容疑者の7人を捕まえ、死体を並べる強制労働をさせた。死体は腐敗がひどく、抱き上げると、肉がすべり落ちた。裸では服の上から抱き上げれなかった。共産党員の囚人たちは、死体を扱より殺害を求め、牢屋に戻した。大田市役所から約300~400人を動員して、死体を片付けた。大田刑務所の裏山に穴を掘って埋葬した。約400から500もの死体は、大きな穴に集団で埋めた。 

 韓国の治安部隊は、捕虜を後方に護送する手間を省き虐殺した。韓国軍は一般市民を単に邪魔であり、捜索や反対尋問の手間を省き殺害した。1950年7月13日に、敵対関係の朝鮮戦争が勃発以来に、共産主義の容疑者約1200人が、韓国警察によって虐殺されたと報告された。朝鮮戦争初期には、北朝鮮も韓国も残虐行為を隠さなかった。残虐行為は、すべて北朝鮮軍の仕業でなかった。戦争法や戦争犯罪裁判は、一般的に適用され、すべての側に適用されてこそ、真の意味で法となり得る。アメリカ軍は当初から、何千人もの朝鮮人難民を対処するジレンマに直面した。北朝鮮軍兵士は、白木綿の農民服で変装し、難民に紛れ込んだ。アメリカ軍は何度も、田を耕す無邪気な髭面の朝鮮人農民を通り過ぎたが、夜明けの攻撃で手榴弾を投げる同じ朝鮮人に直面した。7月末に、敵対行為をした民間人を処刑すると韓国政府は発表した。北朝鮮軍は難民を利用して、7月26日に難民を南に強制的に追いやり、道を詰まらせたと宣告した。















 

2021年8月23日月曜日

韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱して、軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。

1967年には韓国軍は、ベトナムの中央海岸付近の荒野に駐屯していた。韓国軍は、ビンジン省の北ベトナム軍を掃討して、多数のベトナム人の死体が散乱していた。韓国軍は軍服の北ベトナム軍だけでなく、無差別に民間ベトナム人も虐殺した。黒服を着たベトナム人の死体が荒野に散乱していた。周辺には人体の破片が飛び散り、至るところに血痕が付着していた。韓国軍による残酷な拷問や虐待かせら虐殺により、北ベトナム軍とベトコンを弾圧して恐怖に陥れた。

 韓国軍の民間ベトナム人の虐殺事件は、1999年5月6日の「ハンギョレ21」に掲載された。1968年2月12日に、韓国軍兵士がベトナム中部クアンナム省のフォンニィ・フォンニャット村で、民間ベトナム人の約79人を虐殺した。その他ゴダイ虐殺約38人、ハミ虐殺約135人など多くの村々で住民の虐待と虐殺を繰り返した。韓国軍の中央情報部が、虐殺事件の幹部を尋問した。韓国の最高裁判所は、2021年3月25日に尋問の歴史的情報公開を韓国の国家情報院に命じた。ベトナム戦争時に、2020年4月にベトナム戦争で民間ベトナム人の虐殺に対して国家賠償が提訴された。韓国軍がベトナムで執行した民間ベトナム人の虐殺事件は約80件以上、犠牲者のベトナム人は約9000人を超えると推定される。特に青龍(チョンリョン)と猛虎(メンホ)部隊は、残酷な虐殺軍団の“鬼畜部隊”と呼称された。さらに、韓国人兵士によるベトナム人女性に対する性的暴行により産まれた約3,000人以上の子供はライダハンとベトナム語の読みとなった。タイヴィン虐殺1200人、ベトナム戦争後のベトナム社会主義共和国は、経済発展の国益を優先して、公開しても何の得にならない戦争の歴史を封鎖している。

 1964年8月から韓国人部隊がベトナムに出向された。1965年1月26日に韓国の国会でベトナムへの韓国軍の派遣が承認された。1965年2月から韓国軍部隊が派遣された。4月3日から約200人の韓国軍に対して北ベトナム軍から砲撃を受けた。1965年9月から、韓国軍の猛虎師団が赴任し始めた。1966年末には、ニンツアン省とビンジン省まで戦闘を拡して占領して、ベトコンと北部ベトナム軍に対して猛攻撃をした。1967年には最大の約44,829人まで増員されて、1973年3月23日まで留まってベトナムから撤退した。韓国が関与した1964年9月11日から1973年3月23日まで約8年5ケ月間に派遣された韓国軍兵士は延べ人数で約325,517人に及んだ。約5,099人が戦死して、約10,962人が戦傷した。




2021年4月29日木曜日

韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭して泣き崩れた。

韓国のベトナム戦争で戦死した韓国人兵士を埋葬するソウルの公園に韓国軍墓地がある。記念公園の韓国軍墓地の内で、1965年にベトナム戦争で戦死した我が子の遺骨を埋葬した墓に向かって母親が慟哭した。1966年1月1日の正月に花々を埋けながら息子の墓に泣き崩れる母親を、身内の女性が支えた。ベトナム戦争記念公園には、無数の戦死した韓国人の墓が立ち並んで、さらに今後の韓国人戦死者のための広大な墓地が整備されていた。かつては、多くの韓国人家族は、ベトナム戦争派兵結団式で我が子と最後の面談をした。韓国軍幹部から閲兵されて、釜山港から南ベトナムに派兵される我が子を見送っていた。
 韓国軍は、ベトナム戦争の1965年から本格的に参戦して、1973年に撤退した。のべ約40万人以上の韓国人兵士が、南ベトナム政府軍とアメリカ軍側の戦争で戦うために、南ベトナムに派遣された。猛虎(メンホ)、白馬(ペンマ)と青龍(チョンヨン)の精鋭の軍団が参戦して、南ベトナムに常時約4万人が駐在した。ベトナム戦争に参戦する韓国人兵士らは、韓国各地の基地から続々と釜山港に送り込まれて、南ベトナムに出港した。ベトナム戦争中に、韓国人兵士は約5,300人が殺害された。先史時代以来、韓国人兵士が海外に出て戦ったのは初めてだった。白衣の民族であった韓国は、迫害されても他国を迫害しなかった歴史を破った。
 アメリカからベトナム戦争への参戦の要請であった。韓国軍事政権の朴正熙大統領は、1961年5月16日に軍事クーデターで、国家権力を掌握して1963年に大統領となった。漢河の奇跡となる爆発的な経済成長、アメリカ同盟、韓国軍力の強化を求めて、ベトナム戦争に参戦した。政敵や民主化運動を弾圧して、財閥と癒着して腐敗した。1979年10月26日に、宴会で側近の中央情報部(KCIA)の金載圭により射殺された。