2019年9月30日月曜日

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人を容疑とした死体が放置されていた。

柳条湖事件の鉄道爆破地点の付近に、中国人の死体が放置されていた。この事件現場の写真は、1931年9月26日に公表された。中国人が爆薬を仕掛けて、日本軍兵営方向から逃げたように倒れた向きを見せかけたとの示唆もある。しかし、9月18日午後10時20分の爆発は軽微であり、レールの一部が損壊したのみであった。長春からの列車は、損壊したレール上を問題なく通過して、瀋陽に到着していた。
 1931年9月18日午後10時20分頃に、満州の奉天(現在の瀋陽市)の北方約7.5kmの柳条湖の付近で、日本の所有する南満州鉄道の線路の一部が爆破された事件が勃発した。関東軍はこれを中国軍による犯行と公表して、満州に対する侵攻と占領の口実とした。翌日9月19日午前6時30分には、関東軍は約7,000人の中国人兵士が駐屯する北大営を占領して、約300人の中国人を殺害した。日本政府は9月5日から関東軍決行を牽制して、9月19日に不拡大方針を出した。9月24日には関東軍の自衛行為と正当化した。1932年1月には関東軍の忠烈を讃えられた。関東軍が主要都市を制圧した1932年3月に、傀儡政権である満州国を建国した。1931年9月21日に中国は抗議して国際連盟に提訴した。国際連盟はリットン調査団を柳条湖に派遣した。その報告書は関東軍の自衛を非難しつつも、強い制裁措置を取らない融和的であった。しかし日本は不満として国際連盟を脱退し、国際的孤立を巻き込まれた。柳条湖事件から1945年8月15日の終戦日まで、日中戦争は中国全土で15年間も泥沼化した。


2019年9月29日日曜日

広島日赤病院は、医師約6人と看護婦約10人のみで殺到する広島原爆の被爆者を外来診療した。(広島)

広島赤十字病院は、爆心地から南に約1.5kmにあり、甚大な被害を受けた。病院内部は崩壊したが、3階建て鉄筋コンクリート製の外郭だけは残存した。戦争管理下で1939年陸軍病院に改修されて、兵士のみを入院させていた。正面玄関前の外来部門のみが市民の治療ができた。多くの医師・看護婦などの医療職は被爆してわずかに医師約6人と看護婦約10人のみで診療した。殺到する約1万人以上もの膨大な被爆市民を、外来部門のみ治療した。病院には比較的大量の医薬品と備品が備蓄されていた。その在庫は無限大の新しい患者の波ですぐに使い果たされた。医師と看護師は被爆者を正面玄関の前で治療した。医師も被爆して左上肢が負傷して、三角巾で支えて左上肢で、8月10日に被爆者を治療した。
 1939年5月に開院した日本赤十字社広島県支部病院は8月には陸軍指定の広島陸軍病院赤十字病院、1943年に広島赤十字病院に改称した。看護師は、日本赤十字病院に救護看護婦養成部の看護婦生徒もいた。大本営派遣調査団が被爆直後に、日本赤十字病院を訪問した。原爆調査感光したレントゲンフィルムからガンマー線の原子爆弾の放射能と8月10日付の広島爆撃調査報告で認定した。被爆により、2階のレントゲン撮影室に保管していたレントゲンフィルムが、真っ黒に感光していた。同日の陸軍海軍合同会議にて、特殊爆弾は原子爆弾であると認定された。1956年に被爆者医療に特化した日本赤十字社広島原爆病院が開院された。



2019年9月28日土曜日

ベリリュー島の戦いで、アメリカ軍海兵隊員は砲撃に巻き込まれ丸焦げになり、右下肢が付け根から吹き飛ばされて戦死した。

太平洋戦争において、アメリカ軍と日本軍がペリリュー島の戦いで死闘を繰り広げた。日本軍がペリリュー飛行場の北側に砲撃を激射した。アメリカ軍海兵隊員がその砲撃に巻き込まれて丸焦げに爆死した。一方のアメリカ軍の海兵隊員は、右下肢が付け根から吹き飛ばされて戦死した。血塗られた尾根からは遠すぎる。海兵隊員は戦死で終わった。洗い流されたて消えた。まだ砲弾で炸裂した塹壕を通り過ぎると、戦死傷者で混雑して散乱した。何とか夕方の光で静まり返った。心体は戦いで崩れ、顎はぶら下がり、目は頭の2つの黒い空の穴のようだった。ペリリュー島南部の浜辺近くで、戦傷したアメリカ軍海兵隊員が、恐怖で横たわり、水陸両用トラクターの方向によろめいて倒れた。顔は半分血まみれの肉汁であり、ショックで狂った歩行でつまずき、体を曲げたときに、上肢が挫滅した破片が棒のように垂れ下がった。まだ生身であった顔の半分は、最も恐ろしい悲惨な表情をしていた。白い砂の上の赤い水たまりに落ちて死亡した。
 アメリカ軍海兵隊がペリリュー島に上陸して2日目の1944年9月16日にペリリュー飛行場を占領して、東海岸に向かって侵攻した。アメリカ軍海兵隊は飛行場を横切って走り、日本軍の高地から北即への激しい砲撃により、その過程で多大な犠牲者を伴った。飛行場を占領した後に、アメリカ軍海兵隊は迅速にペリリュー島の東端に侵攻した。ペリリュー島の南部の日本軍防衛隊はアメリカ軍海兵隊によって壊滅した。この地域は、まだ多くの戦時中に作られたコンクリート製の要塞であるピルボックスを占領している日本軍と死闘した。熱指数は約46°Cに昇り、アメリカ軍海兵隊はすぐに熱疲労により大きな犠牲者を出した。さらにアメリカ軍海兵隊員の補給水が空のオイルドラムにより分配されて、その補給水が残留油で汚染され。上陸して8日目の6月23日までにアメリカ軍海兵隊は、ペリリュー飛行場と島の南部を確保した。ペリリュー島は恐ろしい戦場となり、暑さは息苦しく、雨は断続的に降った。蒸し暑い雨は、より大きな悲惨さをもたらした。サンゴの岩は日中は熱を吸収し、夜はわずかに涼しくなった。アメリカ軍海兵隊は可能な限り体調も不全となった。9月18日までに熱衰弱による犠牲者数は、戦闘による犠牲者とほぼ同等となった。血まみれさ、恐怖、気候、不可解な日本軍の執着さ、残忍さと疲労は、他の太平洋戦争より上回った。



2019年9月27日金曜日

ベトナム戦争にてアメリカ軍の凄まじいな銃声から、灼熱の太陽の下にベトナム少年の死体が横たわった。

ベトナム戦争において、1966年にビンディン省において、アメリカ軍の第一騎兵師団からの凄まじいな銃声が終わった後に、恐怖を伴う静寂が訪れた。灼熱の太陽の下にベトナム少年の死体が横たわった。少年のり死体から大量の出血を伴って、吹き出した血液が荒野に吸収された。ベトナム戦争に対して、アメリカ軍は猛烈で徹底的な戦闘を投入した。
 ベトナム戦争におけるアメリカ軍の巨大の新しい激烈な武器は、ベトナムに対してアメリカのベトナム戦争を途方もない強さで攻撃した。 多くの戦いの規模は巨大であった。大規模な軍事基地では、アメリカ軍兵士は本土の生活とほとんど同じ快適さを楽しんだ。アメリカ軍の多くの若い兵士は、大学進学の奨学金を得るために徴兵に志願した。年上の職業軍人は、「戦争が大好きである」と打ち明けた。職業軍人は、彼らが知っている唯一の仕事だった。 ベトナム戦争が、昇進する多くの最良の機会を提供した。しかし、一部のアメリカ人は、なぜ彼らが戦っているのか理解できなかった。「ベトナムが共産主義国家になることを望むなら、何が悪いのですか?」と疑問に感じた。 ほとんどの兵士は、できるだけ早くアメリカの実家に帰ることを切望していた。
 1966年末の時点まで参戦者数は、アメリカ軍の「軍事顧問及び地上戦闘部隊」は約38万人に達して、南ベトナム軍は約73万人、韓国などから約6万人近くが参戦した。解放戦線は小火器による狙撃、罠、地雷などで抵抗した。アメリカ軍人の犠牲者は、死者数は約6000人、負傷者は約3万人にも達した。一方で解放戦線のベトナム人も約6万を超える死者を出した。特に韓国は、1964年9月から派兵して、1973年までにのべ約32万5,517人とアメリカに次ぐ大量参戦となった。韓国軍の戦死者は約4,968人、戦傷者は約8,004に達した。
 ビンディン省は、ベトナム中南部で東シナ海に面している。1966年では1月にタイヴィン虐殺、2月にタイビン村虐殺、ゴダイの虐殺の悲劇に見舞われた。タイヴィン虐殺は1月26日から2月26日に韓国軍が約15集落のタイヴィン村の約1,200人のベトナム市民を無差別に虐殺した。2月に韓国軍がタイビン村で、約65人のベトナム人を無差別に虐殺した。韓国軍は、2月26日にビンディン省で約380人のベトナム人を無差別に虐殺した。韓国軍により虐殺と虐待されたベトナム人は、北ベトナム共産党政府の敵であった南ベトナム地域の住民であり、共産党の「輝かしい勝利」には貢献しなかった。南北統一後に、ベトナム共産党政府は、ベトナム南部の市民、宗教者、少数民族などの共産党から独立した運動を警戒し、厳しく統制してきた。ベトナム政府も韓国政府も、「韓国軍はベトナム人に対して犯罪を犯した。人道的で平和的な隣人の伝統により、過去を閉鎖することはベトナムの政策である.。」と大量虐殺と大量虐待を隠蔽して黙殺している。韓国はベトナム戦争の参戦も引き換えにアメリカからの対外援助に依存し、漢江の奇跡の韓国経済成長の起爆となった。




2019年9月26日木曜日

ベルリンのヒトラー総統官邸の玄関の階段に、1945年5月に殺害されたナチス・ドイツ兵士の死体が横たわった。

第2次世界大戦の終結を巡り、ソ連軍とナチス・ドイツ軍により1945年4月16日から5月9日まで、ベルリンで攻防の死闘が繰り広げられた。ベルリンのヒトラー総統官邸の玄関の階段に、1945年5月に殺害されたナチス・ドイツ兵士の死体が横たわった。ライプシュタンダルテ隊員は、ヒトラー総統の最後の日時を迎えても、本来業務である総統の防護の任務を果たしていた。1945年4月から5月までベルリンの攻防により、総統官邸は著しい損壊を受けて、崩壊した建物と無数の金属片と鉄筋コンクリートが散乱した。ソビエト軍のドイツ総統官邸を巡って占領の先陣を切る競争が多大な犠牲をもたらした。ソビエト軍兵士は、ベルリンを占領するとソビエト軍はドイツ人に対する報復と戦利品の強奪は苛烈を極めて、ついには約10万人に及ぶドイツ人女性に対して1948年まで膨大な最大強姦した。
 ベルリン市街戦では、ソビエト軍は1945年4月23日にベルリン市の郊外に侵攻して、4月25日にベルリン西側のエルベ川でアメリカ軍と合流して東西ドイツの国境となった。ソビエト軍はついに4月27日にベルリンを完全に包囲した。ベルリン市内での攻防は猛烈な掃討戦で、街路ごとに両軍ともにに多大の犠牲を伴った。破壊された建物、不定形の金属と鉄コンクリートの山が侵攻を妨げた。総統官邸の入り口まで車両は近づけなかった。建物は数え切れないほどの破片で埋め尽くされた。天井は部分的にしか残っいなかった。窓は空虚によって黒く変色した。ドア、窓、シャンデリアは、ほとんどが壊れた痕跡を残していた。総統官邸の地下は混乱していた。ナチス・ドイツの守備隊は激しく抵抗し、砲弾、爆弾、手榴弾を爆発させた。鉄骨コンクリートの金属と木製の巨大な破片は両方の横梁と頭上のカバーの周りに散在した。狭い廊下の両側に特定の小部屋が配置され、すべてが爆発によって悲惨に浸食された。5月2日になって、ソビエト軍第三帝国の象徴であった帝国議会議事堂(Rechstag)を完全に占領した。ソビエトの国旗をウクライナ人兵士は、グルジア人が両腕で支えられて、帝国議会議事堂の頂上に掲げた。同日にソビエト軍は、4月30日に既に自殺していたヒトラー総統官邸へ侵攻した。5月8日に、ソビエト軍司令部にて、ドイツ国防軍元帥が代表して正式な降伏に調印した。



2019年9月26日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 300,000回

2019年9月25日水曜日

キプロス紛争の取材中に、BBCの音声係が地雷で爆死して死体が地面に横たわり、側で負傷した特派員にトルコ軍兵士が立ち寄った。

キプロス紛争中の1974年の取材時に、BBCの音声係のテッド・ストッダートが、地雷で爆破されて死体が地面に横たわった。その側で負傷した特派員のサイモン・ドゥリングを救出するために、トルコ軍兵士が立ち寄った。その瞬間を、NBCニュースの中東特派員およびテルアビブ局長であったマーティン・フレッチャーが取材した。トルコは、1974年にキプロスに侵攻した。音声処理技術担当者で、音声の録音を担当していたテッド・ストッダートは地面で地雷を踏んで爆死した。NBCニュース特派員であったマーティン・フレッチャーのわずか0.91m(3フィート)離れた地点であった。数秒後には、もう一人の関係者が別の地雷を踏んで、炎と煙のなかで爆死した。マーティン・フレッチャーは、両人を助けることなく、その瞬間を撮影していた。1974年に国連が定めた緩衝地帯により、両首都であるニコシアの中心部を含めた国土は、全長約300kmもの鉄条網とコンクリート壁、地雷原で出来た境界「グリーン・ライン」で2つに分断された。
 キプロスは、1960年8月16日にイギリスからの独立を達成した。人口の8割を占めるギリシャ系住民は、ギリシャとの合併を求めた。1974年7月17日にギリシア合併推進によるクーデターが勃発した。トルコは1974年7月20日にトルコ系住民の保護を目的に派兵して、キプロス島北部を占領した。キプロス全島からトルコ軍占領地域にトルコ系住民の約10万人がが移住した。トルコ軍占領地域内のギリシャ系住民の約18万人はキプロス南部に脱出して約99.5%を占めた。北キプロスは、トルコ系住民が約98.7%となる圧倒的多数派を占めた。トルコ系住民はトルコの庇護のもと1975年にキプロス連邦トルコ人共和国を結成して、キプロス共和国の連邦国家としての再編成を要求した。1970年代を通じて国際連合は統合交渉したが、南キプロスがクーデター以前の体制の復活を要求して、北キプロスは対等な連邦国家の独立を要求した。1983年11月15日に北キプロス・トルコ共和国は独立を一方的に宣言した。
 1991年からの地雷禁止国際キャンペーン(ICBL)により、1997年9月にオスロで対人地雷全面禁止条約が採択され、1997年12月にオタワで150カ国が署名し、141カ国が批准した。しかし、アメリカ、中国、ロシア、インド、パキスタン、北朝鮮、ミャンマー、韓国などは署名を拒絶した。地雷の死傷者は世界で1日約70人、1年で25,000人に達する。現在は、地雷の犠牲者は兵士ではなく、市民や子どもがほとんどを占める。



2019年9月24日火曜日

日本軍が新四軍との戦闘により、国府軍の陣地周辺で殺害された新四軍兵士の死体が散乱した。

日本軍が安徽省の大路集で、国民政府の国府軍を包囲していた中国共産党の新四軍を掃討した。日本軍が新四軍との戦闘により、国府軍の陣地周辺で殺害された新四軍兵士の死体が散乱した。安徽省涇県で国府軍は、1943年年末頃から近隣の大路集に集結していた中国共産党の新四軍と約20日間にわたり内戦をした。国民政府の国府軍は、新四軍に包囲されて補給も停止して、残存する食糧と武器もわずかとなった。国府軍はやむなく、1944年1月10日に宿敵であった日本軍に救援を致し方なく要請した。日本軍は急襲して、1944年1月14日までに大路集に集結していた中国共産党の新四軍を掃討した。日本軍が新四軍の掃討が完了すると、国府軍は自陣の構築物の内部構造や障害物の配置などの軍事機密を日本軍に情報公開した。
 第一次国共合作が1927年4月に崩壊してから、長く反目していた。国府軍の攻撃により1934年10月から中国共産党の紅軍主力が長征に出発した。その後に華中,華南の紅軍の残存部隊はゲリラ戦を続けた。日中戦争が1937年7月7日に勃発してから、国民政府と中国共産党は、抗日を一致するために敵対関係を解消して、国共合作して日本軍と戦闘した。抗日民族統一戦線の成立後には,1937年8月国民政府のもとに,紅軍主力が国民革命第八路軍に編成されて,同年10月華中と華南の紅軍を主力として国民革命軍新編第四軍が編成されて兵力は約1万300を擁した。日本軍,国府軍の勢力が錯綜する地域で発展を続け,1940年末には兵力約10万にも達した。1939年頃から国共対立が急速に激化した。日中戦争が混沌して長期化した1940年頃には、国府軍と八路軍は対立が先鋭化して、中国の各地で内戦を繰り返した。41年1月7日に国府軍は、新四軍を安徽省涇県で反乱のかどで攻撃して、日本軍の援護により、約9,000人新四軍は壊滅的な打撃を受けた皖南事変が勃発した。国府軍は同月17日に新四軍の編成を取消した。中国共産党はただちに,新四軍の再建と拡大に努めて,45年には兵力約26万8,500人に達した。華北の八路軍,華南の抗日縦隊とともに華中の新四軍は,抗日戦争期の党軍事力の重要な支柱となった。46年7月全面的な国共内戦の勃発に伴い,新四軍は人民解放軍の華東野戦軍に編成され,1948年秋に中国人民解放軍第3野戦軍と改称された。


2019年9月23日月曜日

アフガニスタン北部同盟民兵が、カラ・イ・ジャンギの虐殺をした後に、囚人の死体を蹴りながら検死をした。

アフガニスタン北部同盟の民兵が、カラ・イ・ジャンギ(Qala-i-Janghi)の虐殺をした後に、2001年11月28日に殺害した囚人の死体でポーズをとった。タリバン勢力の死体が荒野に散在した死体を蹴りながら検死した。アフガニスタン北部同盟とアメリカ軍と連合軍が、2001年11月26日から12月1日にかけて、アルカイダを支援するタリバン勢力を、アフガニスタン北部のマザリシャリフの強制収容所で大量虐殺した。タリバンが2001年に、マザリシャリフの付近のカラ・イ・ジャンギ要塞から蜂起した。
 アフガニスタン北部同盟が、タリバン勢力の囚人の手を拘束し始めたとき、処刑されることに反発して、暴動が勃発した。アメリカ軍の空爆によるミサイルと爆弾が建物を粉砕した。アメリカ軍の特殊部隊とイギリスのSAは、アフガニスタン北部同盟の民兵による猛烈な地上攻撃を指揮した。虐殺された数百人のタリバン勢力はまだ手を縛られていた。タリバン勢力の囚人は密閉された貨物コンテナに積み込まれ、トラックは数日間に太陽下で放置された。多くの人が渇きと窒息で虐殺される囚人は、トラックの側面を叩き始めた。アメリカ軍部隊は停止したコンテナを機関銃で撃った。収容所に連行されるまでに、約2,000人から3,000人もの囚人が死亡した。タリバン勢力の囚人の死体は、アメリカ軍の監督下で、見分けもつかない大量墓地に即に埋葬された。タリバン勢力の囚人は約80人が生き残り、そのうち約50人はキュウバのグアンタナモ強制収容所に連行された。取り巻く死体の悪臭と調査の欠如は、連合軍の表向きの対応とは異なった。最初の段階は、アメリカ軍に拘束された多くを敵兵を不法な戦闘員と容疑をかけた。容疑者は、国際法の範囲を超えて、戦争の囚人ではなく、テロ戦争の囚人として、ジュネーブ条約の保護は即座に撤回された。被拘禁者を裁判するアメリカ軍軍事委員会は、不公正で差別的であった。
 1979年12月ソ連の軍事介入から、1989年2月ジュネーブ合意に基づき,駐留ソ連軍の撤退した。1994年頃からパキスタン軍から支援を受けるタリバーンが勢力を伸ばし,1996年9月に首都カブールを制圧して国土の約9割を支配するに到った。2001年9月11日のアメリカ同時多発テロ事件を起点として、アメリカ軍・イギリス軍等により10月からアル・カーイダとタリバーンに敵対する軍事介入した。12月にはアフガニスタン北部同盟等がタリバーン支配地域を奪還した。各勢力による2002年6月のボン合意に基づき、国連安保理決議により国際治安支援部隊(ISAF)が治安維持を支援した。その後,2004年1月に新しい憲法が制定され、10月9日に第1回大統領選挙が行われた。



2019年9月22日日曜日

長崎原爆の爆心地に最も近い城山国民学校では、労働者らの約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。

長崎原子爆弾が1945年8月9日午前11時2分に投下されて炸裂した。爆心地に最も近い学校である城山国民学校では、教職員と生徒の約133人が被爆死して、約19人のみが生存した。登校しなかった付近の家庭に残っていた学徒は、約1,400人は被爆死して、約50人のみが生存した。
 国民学校として長崎原子爆弾から西に約500mと最も近距離であった城山国民学校は、校長以下の職員約28人、学校を使用していた三菱兵器製作所の給与課職員(約58人)、女子挺身隊(約10人)、学徒報国隊員(約41人)ら約133人は一瞬で被爆死した。8月中旬に校庭で、身元もわからぬままで死体を火葬した。被爆後に約2カ月経過しても、無人地帯となっていた。火葬した校庭には、無数の白骨が散在しままであった。引き取り手もないままに、白骨は校庭の空き地に放置された。
 長崎原子爆弾の炸裂により、猛烈な爆風と熱線から、九州初となる白亜の鉄筋コンクリートの校舎は崩壊して炎上した。本館は、土台が製法に傾き、3階建とも内部は崩壊してほとんど全焼した。旧校舎は、火災は起こらずに、3階建てがほとんど崩壊した。児童の発案により1991年2月に改装して、城山平和祈念館として整備されて開放された。
 旧校舎の階段塔屋部分は、爆心地の周辺に残存した被爆建造物として、一部が2013年8月1日に指定文化財「原爆遺跡」として残された。原爆遺跡には、爆心地・旧城山小学校・浦上天主堂旧鐘楼・旧長崎医科大学門柱・山王神社の鳥居がある。被爆による火災の痕跡や亀裂が残る長崎市の城山国民学校校舎の世界文化遺産登録を目指す城山小霊会が2019年6月21日に、長崎市と長崎県に対し、国に登録を働きかける要望書を提出した。近年被爆者が超高齢となり、被爆の歴史を語り継ぐ困難に直面して、物的な証拠の貴重さが増している。


2019年9月21日土曜日

19歳のアメリカ陸軍一等兵(Pfc)が、イラク戦争後に、道端の即席爆発物(IED)で殺害された。

アメリカ陸軍一等兵(Pfc)の19歳のジェームズ・J・ハレルソンが、2007年7月17日にイラクのバクダットにて、道端にあった即席爆発物(IED)で殺害された。周囲のアメリカ軍兵士らは、殺害された彼の死体を爆発した車両から引きずり出した。陣地まで死体を搬送して処理した。
 アラバマ州デイドビルのファーストバプテスト教会でハミルトンの葬儀の際に、2つの勲章を授与された。アメリカ軍は家族らに賞を贈る特権を持っていた。勲章は国からの感謝のほんの小さな印であった。彼は2007年5月からイラクで従軍した。大学に行くのには必要な財政的な助けのために、陸軍の入隊したのは当時の選択であった。ハレルソン(19歳)は2007年7月17日にバグダッドで、道端の爆弾の炸裂により殺害された。海兵隊の軍曹としてイラクで死体の送迎を務めたハレルソンの兄弟は、家族は愛する人を失ったことに深く悲しんだ。戦争に人生を捧げたことに誇りに思うことは義務であった。家族や友人らがアレクサンダーシティのヒルビューメモリアルパークに埋葬のために集まった。


2019年9月20日金曜日

ナゴルノ・カラバフ紛争中に、コジャリーで数百人のアゼルバイジャン人がアルメニア軍とロシア軍によって虐殺された。

ナゴルノ・カラバフ紛争中に、1992年2月2日から2月26日までコジャリーの町から数百人のアゼルバイジャン人がアルメニア軍とロシア軍によって虐殺された。アゼルバイジャン側と人権センターによると、アゼルバイジャン当局が提供する公式の死者数は、女性106人と子供83人を含む613人である。コジャリー事件は、ナゴルノ・カラバフ紛争の過程で大量虐殺となった。
 1991年後半から約7,000人のアゼルバイジャン人が居住し、アルメニア人の軍事作戦は、アゼルバイジャンに対する攻撃は勢いを増した。約7,000人のアルバイジャン人が居住するナゴルノ・カラバフ地域にあるコジャリーの町が、攻撃目標になった。
 アルメニア軍は、1991年10月30日にコジャリ地区を完全に包囲して遮断した。コジャリーを占領して、アルメニアはナゴルノ・カラバフ地域の他の都市や町を占領する優位性を得た。1992年2月25日から2月26日の夜、アルメニア軍はコジャリーの町を攻撃して、無差別に高齢者、女性、幼児など、かつてない残虐な大量虐殺した。コジャリー虐殺では、女性約106人と子供約83人と老人70人を含む約613人の民間市民が殺害されて、約1,275人が人質の捕虜になった。コジャリー虐殺の犠牲者は、火傷や生きたまま埋葬され、皮を剥がされ、頭を切断され、子供たちは目を突かれ、妊婦は銃剣で刺された。
 アルメニア人によるアゼルバイジャン人の民族浄化の歴史は、18世紀初頭から勃発した。ロシア帝国が、南への拡張主義政策を強化するため、コーカサスにてアルメニア人を搾取した。1724年11月10日、ピーター1世は、アルメニア人がバクーやアゼルバイジャンの地域に定住をする命令を出した。アルメニア人はアゼルバイジャン人に対して残酷な虐殺と虐待を繰り返した。1905-1907年にはアルメニア人によって、何千人もの無実のアゼルバイジャン人を各地で大量虐殺した。1917年12月から1918年3月には、アルメニア軍とソ連軍は、アゼルバイジャンの合計約197村を破壊し、大量虐殺し、追放した。1990年1月20日に、ソビエト軍は首都バグーなどを占領して、無差別に民間市民を発砲して、約131人が殺害された。1991年8月30日にアゼルバイジャン共和国は独立宣言をした。近年でも、2016年4月1日から5日の間、ナゴルノ・カラバフ地域での激しい戦闘により、約88人のアルメニア人兵士と約31から92人のアゼルバイジャン人兵士が死亡した。



2019年9月19日木曜日

天安門事件にて、中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場に突撃して、学生が頭部を装甲車で破砕され虐殺された。

1989年6月4日未明に、中国人民解放軍の戒厳部隊が天安門広場に突撃して、学生が頭部を装甲車で破砕されて虐殺された。学生の死体を取り囲んで、武器を持たない市民や学生らの群衆は、拡声器を通じて抗議の叫び声を上げた。戒厳部隊は、戦車・装甲車・兵士を満載したトラックで、天安門に向けて街路地を突進した。デモ隊のバリケードは倒れ、民主の女神は破壊された。街頭に繰り出した市民や学生に対して、戒厳部隊は発砲して、約数千人も虐殺された。広場で銃声が響くと、市民や学生らは絶望して涙を流し広場を立ち去った。中国共産党は、事件による死者は319人と公式発表した。この事件による死傷者は、報道規制により不明である。数百人から数万人に及ぶなど死者数は不明確である。
 静音な6月3日未明から、戒厳部隊が強制排除に踏み出した。一度は撤退しては、再度に戻る戒厳部隊に、群衆の一部が投石や火炎瓶で応対した。火炎瓶を浴びて動けなくなった1台の装甲車から飛び出した兵士が群衆により虐待された。その挑発行為を武力行為と捉えた。それから戒厳部隊は、暴力的な武力行使を執行して、無差別に市民や学生らを襲撃した。政府指導者は、反革命的で反党的な陰謀として糾弾して、人民解放軍が北京に進駐した。集結した市民や学生の群衆に対して、戒厳軍は発砲して流血事件となった。6月3日の午後には、天安門広場の手前の数百メートルで、約6万人もの市民や学生らは人民解放軍の前進を阻止した。一部の武器を奪われた人民解放軍は再び侵攻した。兵士が、棍棒やベルトで市民や学生を打倒した。6月3日の午後10時頃に、バリケード突破と発砲を指令された。6月4日午前0時すぎに、天安門広場に突撃した。


2019年9月18日水曜日

太平洋戦争で、ガダルカナル島のココナッツ林の浜辺に追い込まれた日本軍兵士の死体が散在した。

太平洋戦争のガダルカナルの戦いで、日本軍はガダルカナル島の奪回のために、先遣隊の約917人は、タイボ岬から1942年8月18日夜に上陸した。8月21日真夜中から、アメリカ軍に占領して整備されたヘンダーソン飛行場に突撃した。日本軍は、ルンガ周辺の東側にあるアリゲータークリークのアメリカ海軍陣地に夜間の正面攻撃をした。テルナ川を越えてイル川西岸のイル渡河で、アメリカ軍の猛攻を受けて、約789人が大量虐殺されて全滅した。残りの部隊を撤退するよう将校が助言したが、隊長は撤退を拒否した。アメリカ軍に包囲されて、戦闘機からの機銃掃射と機関銃と砲撃により、日本軍の援軍のために上陸してから悲惨な戦闘をした。その後にガダルカナル島のココナッツ林の浜辺に追い込まれた日本軍兵士の死体が散在した。戦闘の終結後に、死体の中に、戦傷した日本軍兵士が突如にアメリカ軍兵士を射殺した。その後は、アメリカ軍は、全ての日本軍兵士の死体を撃って銃剣で刺した。
 ガダルカナルの戦いは1942年8月7日のアメリカ軍の上陸に始まり、1943年2月9日まで約6か月間続きました。ガダルカナルの戦いは日本軍にとって壊滅的な敗北であった。日本軍は泥と血と汚物にまみれ虐殺されて、ひどく気分を害する敗北であった。ガダルカナルの戦いは、中国、東南アジア、太平洋での連続した勝利の後、陸上での日本軍の初の敗北となった。ガダルカナル島にて日本軍部隊による一連の敗北の後に、連合軍兵士は陸戦で日本軍を破ることができた。約25,000人以上の日本軍兵士がガダルカナルの浜辺、密林、急な渓谷で死亡して、約7,000人のアメリカ軍海兵隊も死亡した。


2019年9月17日火曜日

あばら屋の前に立っている朝鮮人の婦人には3人の子供がいたが、その1人が激しい独立抗争により日本軍兵士によって虐殺された。

日本軍は、激しい朝鮮独立抗争が勃発した花樹里にて、1919年4月4日未明に大量虐殺を執行した。あばら屋の前に立っている朝鮮人の婦人には3人の子供がいたが、そのうちの1人が日本軍兵士によって虐殺された。虐殺された子供の死体の上に一枚の布がかけられた。その他の2人の兄弟はとうとう自分の兄弟が虐殺された死体の前で泣き叫んだ。さらに虐殺された父にも悲嘆した。1919年3月1日の三・一事件による独立を目指す万歳運動が朝鮮半島に拡散した。驚嘆した朝鮮総督府と日本政府内閣は、朝鮮内兵力を大々的に増派した。警務機関は査察及び検挙に極力活動して禍根を消滅せよと指示された。 
 激しい独立運動により4月3日に約2,000朝鮮人群衆は、花樹里駐在所の日本人巡査を撲殺した。その見返りの報復に、日本軍は4月13日に、花と木の町であった京畿道の華城市花樹里を焼却して灰に変貌させた。教会の首謀者として、朝鮮人約23人とうち女性1名を虐殺した堤岩里教会事件が勃発した。約40世帯のうち、半分が全焼した。日本軍の憲兵隊は、朝鮮人が眠っている明け方に乗じて、火を付けた松明を持って家屋に火をつけた。睡眠からぼけたまま飛び出してきた朝鮮人住民に対して棍棒と銃刀で虐待と虐殺した。死ねなかった朝鮮人住民は、刑務所に連行された。日本軍が襲った地域ごとに古里が一瞬に消えた。日本軍が襲った廃墟に残ったのは、恐怖に襲われた婦女子たちだけだった。朝鮮全土にわたって、その殺戮が深刻化した。



2019年9月16日月曜日

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、手榴弾と2挺の小銃が放置され、塹壕内でアメリカ軍海兵隊員の死体が横倒しになった。

太平洋戦争のペリリュー島の戦いで、手榴弾と2挺の小銃が放置されたままで、塹壕内で戦死したアメリカ軍海兵隊員の死体が横倒しになった。ペリリューの戦いは、アメリカの軍事史における水陸両用攻撃の中で最も悲惨な高い死傷率を伴った。アメリカ軍の海兵隊と歩兵部隊の約28,000んが参戦して、ペリリュー島の戦いで海兵隊と兵士の約40%にも達する約9,800人が戦死傷した。アメリカ軍にとってペリリュー島は、太平洋戦争では最終的に戦略的価値がほとんどなく、全く活用されなかった島で、深刻な犠牲が被っても悲惨な戦闘自体が無駄に至った。
 太平洋戦争にて、サイパンを攻略したアメリカ軍海兵隊は、隣島のテニアン島に1944年7月24日に上陸して、8月3日に日本軍が全滅して終結した。8月11日にグアム島を攻略して、パラオ諸島に侵攻した。ペリリュー島は、東西約3kmで南北約9kmの小さな孤島であるが、戦闘機と爆撃機の飛行場があった。その防御のために、日本軍の陸軍兵士の約6,192人と海軍兵士の約3,646人の総数は約9,838人が徹底抗戦した。アメリカ軍は約40,000人で、1944年9月15日にアメリカ軍はペリリュー島に飛行場の争奪のために上陸した。最初に上陸したアメリカ軍部隊は、約50%もの戦死傷者の甚大な犠牲を伴った。日本軍は、洞窟を要塞化して徹底抗戦する死闘により、両軍ともに膨大な戦死傷者を伴った。補給を絶たれた日本軍は、日々に壊滅に向かった。11月12日には日本軍兵士の生存者は約300人、11月18日には約150人まで減少して、11月22日にアメリカ軍が掃討して、11月24日に日本軍司令部が自決して万歳攻撃して終結した。組織的抗戦は消滅したが、終戦してからも約2年間も抗戦して生存した日本軍兵士の約34人が、1947年4月22日になってペリリュー島の洞窟から投降した。



2019年9月15日日曜日

日中戦争にて日本軍の戦地憲兵は、中国人捕虜を密偵として拷問で自白を強要して取り調べた。

日中戦争にて日本軍の戦地憲兵は、中国人捕虜を密偵として拷問で取り調べた。中国人を敵視して、自白を強要した。全く身に覚えのない容疑をかけては、拷問により生命を奪った。拘束・検挙して、不正確でも、特殊情報の成果の至上主義が蔓延して、権限の行使が無制限に認められた。植民地の朝鮮でも、朝鮮全土に憲兵が配置された。尋問のためには、こん棒を振り回して殴りつけた。焼きごてを、いきなり背中に押し付けた。日本の侵略戦争の対象地であった中国戦線には、戦地憲兵が網の目に貼り巡った。関東軍は、満州国の特別警察を関東軍の憲兵組織の配下に置いて、軍事警察権力を一手に掌握した。権力を乱用して、法律の原則を逸脱して政敵を排除した。
 戦地憲兵は、多岐にわたる兵士の軍紀の保守、極秘情報の収集、思想対策、中国民衆対策、宣撫宣伝、交戦日本人の監視の任務を遂行した。絶対的な使命として、国家権力に抵抗するあらゆる個人や組織を敵視して、処分・弾圧に臨んだ。戦局が悪化するほど、徹底した国民動員の不満の噴出を弾圧して強制した。
 憲兵とは、戦前・戦中に思想犯を死に追いやった特別高等警察(特高)と並び、市民への監視と弾圧を繰り返し、恐怖を撒き散らしながら市民を戦争へと駆り立てた旧日本軍の機関である。憲兵の本来の任務は、軍人の統制と監視にあったはずが、軍国主義が深刻化する中で、その本来の任務を大きく逸脱した。日本軍の憲兵組織を駆使して、権力の意図を実現する憲兵政治を強要した。戦争国家は、市民の自由な活動や言論を許容しないで弾圧して、市民を戦争に動員を強制した。戦前の軍国主義を支える憲兵は必然であった。日本国内と国外での憲兵隊の数は、約33,885人に達した。軍国主義が進展するほど、必ず遂行するために不当な権力が行使された。
 2007年6月6日に、自衛隊による違憲・違法の国民監視活動が告発された。陸上自衛隊情報保全隊の「イラク自衛隊派遣に対する国内勢力の反対動向」の内部文書が暴露された。自衛隊が情報保全隊が、2004年1月7日から2月25日までのイラク派兵に対するすべての国内の反対運動の監視を記録した。自衛隊の情報保全隊は、2003年3月に調査隊を格上げして約900人もの組織を設置した。



2019年9月14日土曜日

広島原子爆弾に被爆した約2ケ月後に、母親が重態の男児を抱いて、大芝国民学校に駆け込むも、すでに息がなく死亡していた。

広島原子爆弾が1945年8月6日午前8時15分に投下されて広島市内で炸裂した。それから約2ケ月後に、異変に気づいた母親が重態となった男児を抱いて、広島市西区大芝1丁目25番18号の大芝国民学校の救護病院に駆け込んだ。教室を改修した治療室で、医師の診察を受けた時には、すでに息がなく死亡していた。その男児の死亡に泣きながら悲嘆した。
 大芝国民学校は、爆心地から北西約2.4kmに位置して、爆心地に向けて縦に建った南側の新校舎のみが倒壊を免れた。焼けなかった学校や病院は仮設救護所となり、被爆した多くの市民たちが救護と治療に訪れた。被爆直後から、被爆者が大芝国民学校の校庭に殺到したために、8月7日から臨時救護病院を開設した。8月7日になって火の勢いが鎮まると、救護に当たる者が引き返して再び救護の任務についた。医師2人、歯科医3人、薬剤師2人、助産婦1人らが、専門領域を越えて不眠不休の救護活動を行った。1941年の国民学校令で、尋常小学校から国民学校に改称された。教育勅語に示された国体の精華と臣民の守るべき皇国の道を修練させた。



2019年9月13日金曜日

イスラム国は、イラクのシンジャルを攻略して、ヤズディ教徒を大量虐殺して、処刑地で膨大なクルド人の白骨が散乱した。

イスラム国(ISIS: Islamic State of Iraq and Syria)は、イラク戦争後にイラク北西部のシンジャルを攻略して、ヤズディ教徒を大量虐殺して処刑した。その1年後には、処刑の跡地の砂漠上で膨大なクルド人の白骨化した遺体が散乱していた。
 クルディスタン地域政府(KRG)は1992年に設立されて、ISISの脅威を戦うだけでなく、真のクルド人国家の創設を目指した。約1,400年間にわたりクルド人を迫害したアラブ人の駆逐を念願とした。サダム・フセインのイラク政権の激しい弾圧と迫害から、アラブ人によるクルドの併合からの独立を悲願とした。クルド人は、「国家を持たない世界最大の民族」として、イラク・イラン・トルコ・シリアなど中東に約3,000万人が居住している。
 2014年6月にイスラム国(ISIS)がイラク中央部を突如として侵略した。ISISは、世界をカリフ制度に戻し、イスラム教徒以外のキリスト教徒やクルド人、シーア派の抹殺を使命とした。6月のISISの攻勢により、クルド人の宗教的少数派であるヤズディ教徒がシンジャルで襲撃された。シンジャルは、イラク北西部の国境地帯にあり、KRGの領域外で無防備であった。ISISが2014年6月には、モスルを陥落させて、ISIS攻撃が狂乱した。
 2014年8月1日に、ISISゲリラが、KRGとシンジャルを結ぶ唯一の道から、わずか約10マイルのズマールにあるペシュメルガ軍事組織の前哨基地を攻撃した。8月3日にISISはシンジャルで大量虐殺を行って、少なくとも約5,000人のヤスディ教徒が虐殺された。大混乱してシンジャル山からの避難民はペシュメルガ軍事組織からも逃避した。8月10日には、ISISがKGBの首都アルビルを攻撃した。
 イラク国内にてKRGは1992年に創設されて、イラクに迎合してクルド人地域を維持していた。アメリカ軍によるイラク侵攻で、公然としてアメリカ軍に味方して、後方支援した。KGB領内では、連合軍の兵士はイラク戦争中に犠牲者は全くでなかった。2017年9月25日にKRGは、イラクから分離独立する住民投票を強行して約9割が賛同した。直後に、イラク軍が2017年10月16日に油田都市のキルクークを制圧して、KRGは周辺諸国による経済封鎖でクルド人勢力は疲弊した。


2019年9月12日木曜日

グアテマラ内戦で、軍事政権に連行され失踪した先住民のカクチケル・インディアン人は、無残な白骨に変わり果てた。

グアテマラ内戦に巻き込まれて1979年に軍事政権に連行されて失踪した先住民のカクチケル・インディアン人は、無残な白骨に変わり果てた。軍駐屯地の秘密墓地に埋葬されていた遺体が、1987年にアンティグラ市の近郊で見いだされた。先住民のカクチケル・インディアン人の女性は、変わり果てた遺骨に対面して悲嘆に暮れて慟哭した。1980年代から各地域には土地紛争鎮静化のため農園ごとに強制収容する軍駐屯地が置かれた。軍駐屯地内に秘密墓地が設置されて、拷問から虐待して殺害した遺体を埋めて消滅した。
 コロンブスが1942年10月12日に漂着した島民をインド以東と思い込みインディオと呼称した。南北アメリカ大陸の先住民であるインディオの基本的人権は、侵略したヨーロッパ民族により支配する諸国によって放置されて黙殺されて迫害された。支配民族は、先住民を虐殺と虐待して、抑圧して排除した。その支配する民族は、国内の先住民地を植民地化した。先住民の土地を収奪した大農園や鉱山開発企業の利益を守る政府軍は各農園に駐屯地を置いて、土地への権利を求める先住民への弾圧を強化した。国民的、人種的、民族的、宗教的な集団の全部または一部を破壊する意図をもって行われるジェノサイドを執行した。
 中央アメリカのグアテマラには、先住民族が国民の約4割を占めている。1954年から1996年までアメリカから支援された反革命の軍事政権が続いた。軍人や地主による土地強奪、人口の過半数を占める先住民の虐殺などが激化した。1970年代後半から農地を求める農民運動が拡大した。1981年から政府軍は、ゲリラ掃討により国土を焦土化して、約626が消滅部落となり、約100万人の国内難民、約10万人の国外難民が発生した。1982年からゲリラ組織とのグアテマラ内戦が激化した。グアテマラ内戦の犠牲者数は、死者が約17万5000人、行方不明者は約5,000人にも達した。



2019年9月11日水曜日

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。

日露戦争における黒溝台会戦にて、荒野に散乱した日本軍兵士の膨大な死体を集積して処理した。日本軍とロシア軍は、1905年1月25日から1月29日まで黒溝台会戦で死闘を繰り返した。黒溝台会戦は日本軍の司令不足、軍事の準備不足や作戦失敗など、大変な消耗戦による死闘となった。軍事的には損耗率約30%で戦闘力の喪失、50%を超えると壊滅となる。黒溝台会戦で、日本軍は戦闘力を喪失して、壊滅となる寸前となった。黒溝台会戦は全体で日本軍は約53,800人が参戦し、戦死者は約1,848人、負傷者は約729人、捕虜は227人、犠牲者は総計で約9,324人で、損耗率は約17%にも達した。戦闘により、日本軍兵士将の数多くを失う悲劇となった。日本軍の被害と損耗率が膨大であった。
 ロシア軍も膨大な犠牲を伴った。参加兵士の約105,100人のうち、戦死者は約611人、戦傷者は8,989人、失踪者1,105人、総計11,743人にも達した。戦死傷だけでなく、失踪者が1,000人以上出ている。ロシア軍の被害が相対的に大きなり、内部崩壊の状態となったが、黒溝台会戦では戦死者が少なく、全体の損耗率も約10%であった。1905年1月22日に、ロシア本国の首都ペテルスブルグで、多数の市民を射殺した血の日曜日事件が勃発していた。
 黒溝台会戦が、劣勢だった日露戦争の戦局を打開し、最終的な勝利の起点となった。死闘と犠牲の上に日露戦争を乗り切った。招魂祭は戦死者を祭ることで国家のために殉死した人々を英雄化し、戦争の記憶を市民に植え付ける。軍旗祭も師団管下の各連隊にとって、軍隊と地域の人々を結びつける年中行事となった、記念行事が定期的に挙行されるのと併せて、新聞や雑誌、音楽や演劇などで、日露戦争の激戦や悲劇は繰り返し国民の前に披露された。
 優勢なロシア軍を前に、日本軍兵士を真っ正面から悲劇的な突撃をした。黒溝台会戦は、軍事的には日本軍の完敗だった。黒溝台会戦は、結果的にはロシア軍の退却を誘発して、奉天会戦の犠牲として、日露戦争の勝利を導いた。その後の日本は第一次世界大戦、シベリア出兵、満州事変、日中戦争、太平洋戦争を経て犠牲者を踏み越えて敗戦に突入した。


2019年9月10日火曜日

ネパール政府軍兵士は、木製の担架でマオイストのゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬して、死体を集積した。

ネパール政府軍兵士は、ネパール共産党毛沢東主義派(以下、マオイスト)のゲリラとの戦闘で、2002年5月に殺害したゲリラの死体を集積した。ネパール政府軍兵士は、木製の担架でゲリラの死体の両手と両足を縛って運搬した。ゲリラは、1996年頃から政府軍に反抗して、中山間地域を基盤にして、血にまみれの内戦が勃発した。
 ネパール内戦が、1996年2月13日から2006年11月21日の包括的和平協定の成立まで、約11年間にわたり、ネパール政府軍とマオイストの間で繰り広げられた。2002年5月に、マオイストのゲリラ拠点であるネパール中西部のロルパ郡ガム村に、ネパール政府軍の治安部隊がマオイストのキャンプを襲撃して、無差別に約150人を殺害した。
 1996年に、マオイストはネパール政府に対して武力闘争を開始した。その後、2006年の停戦に至るまでの約10年間で民間市民を含めて、約13,000人もの犠牲者を出した。内戦だけでなく、カーストや民族間の対立、援助慣習など社会問題により、社会的環境は悪化した。国連のUNMIN(国連ネパール政治ミッション)が、2007年1月から2011年国連平和維持活動をした。2008年には制憲議会選挙を実施して、第1党となったマイトス勢力が王政が廃止して、ネパール連邦民主共和国に移行した。王政の廃止以降に、憲法制定作業が難航した新憲法が、2015年9月20日に公布された。



2019年9月9日月曜日

カシミール州のバンディポラで、占領するインド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。

インドの北西部にジャム・カシミール州のスナガルから北に約45kmのバンディポラで2002年12月以降に、インド軍により22歳の一般青年は、頭部を撃ち抜かれて即死した。インド軍兵士が、イスラム教武装勢力と混同した。射殺されたカシミール人の死体は、インド軍基地に分捕られた。カシミール市民は死体の引き渡しを求めて、「カシミールに自由を、独立を。カシミールからインド軍の撤退を」と怒号した。やがて弾丸が頭部を貫通して射殺された死体を、カシミール市民は確保した。インド軍兵士に射殺された青年の妻が、冷たい手を握り泣き叫んだ。遺体は、群衆に担がれて、悲しみに包まれて墓地に埋葬された。
 1947年8月にインドとパキスタンは、英領インドから独立して、576もの藩国が帰属を迫られた。1947年9月にヒンドゥー教のカシミール藩王はインドに帰属するために、市民の大多数を占めるイスラム教徒と闘争した。カシミール地方にて、インド軍はヒンドゥー教徒を、パキスタン軍はイスラム教徒を支援した。1947年10月から1949年1月まで、カシミール紛争により第1次インド・パキスタン戦争が勃発した。1965年に第2次インド・パキスタン戦争、1971年に東パキスタンからバングラディッシュが独立する第3次インド・パキスタン戦争が再燃した。1989年にソ連軍がアフガニスタンの撤退から、イスラム武装勢力が本格的にカシミールに侵攻して、カシミール紛争による犠牲者数は約65,000人にも達した。
 1998年5月には、インドとパキスタンは、同時期に引き続けて地下核実験を強行して、核兵器を保有を宣言した。核不拡散条約(NPT)は、核兵器の保有を国連の常任理事5国だけに限定した。インド、パキスタン、イスラエル、イラン、北朝鮮は、NPTに加入せずに核兵器を保有する核敷居国家と宣言した。



2019年9月8日日曜日

ファルージャへの攻撃による約800人の死者のうち約600人が民間市民であり、その半分が女性と子供であった。

ファルージャへの攻撃は、イラク占領軍が抗議デモに発砲して、約18人の市民を殺害した2003年4月のアメリカ軍の侵攻の直後に始まった。アメリカ軍の車両の旗は、「軍隊はすべてを殺す」という精神を象徴した。海兵隊の司令官は、病院は死傷者が多いので噂の源であるとして、病院を最初に占領した。ファルージャへの攻撃による約800人の死者のうち約600人が民間市民であり、その半分が女性と子供であった。多くの子供と赤ちゃんが爆撃で殺害され負傷した。約25,000人を超えるアメリカ軍がファルージャを取り巻き、そのうち約15,000人が反乱軍の要塞を襲撃した。
 2004年3月26日に攻撃の頻度の急激な増加に対応して、アメリカ軍は攻撃的な作戦を開始し、バグダッド西で2人の子供を含む家族が殺害された。南部および北部のモスルからファルージャまでの新しいゲリラの戦闘員は、両方の地域で集中的かつ同時の攻撃を行い、アメリカ軍の作戦計画者を混乱させる圧倒的な力を発揮した。
 2004年11月6日には、アメリカ軍のミサイルが、ファルージャのハイナザル病院を襲撃した。11月7日には、ファルージャ総合病院を襲撃した。11月9日火曜日の午前5時30分に、アメリカ軍用機が中央保健診療所を爆撃し、約35人の患者、約15人の医者、約4人の看護師、約5人のサポートスタッフ、約4人の医師が殺害された。アメリカ軍は、救急車も標的にし、約5人の患者と運転手を殺害した。
 戦争に関する第4回ジュネーブ条約は、「負傷者、病人、虚弱者および出産のケースをケアするために組織された民間の病院は、いかなる状況においても攻撃の対象とはならないが、常に尊重され、保護されるものとする」それは、第二次世界大戦後の1949年に締結された。ジュネーブ条約は、囚人の拷問などの慣行も禁止した。




2019年9月8日 
Japan No War (JNW) 日本平和の市民連盟 視聴回数 290,000回

2019年9月7日土曜日

広島原子爆弾が投下日に広島市北部の安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。

1945年8月6日に広島原子爆弾が広島市に投下されて炸裂した。当日の午後に広島市の北部に向けて7kmの地点である安佐郡古市町を、数十台のトラックが被爆者を載て、広島市北部の可部方面に通り過ぎた。トラックの荷台の被爆者は、あまりにも無残で悲惨であった。被爆者は悲惨を通り越して無残であり、鬼気が迫った。すぐに被爆者を乗せたくても全く余地がなく次のトラックを待つように説得するのが悲惨であった。その後は時折にトラックが来ては、被爆者らを広島市北部の方に運んでいた。それでも膨大な被爆者にはどうにもならず、多くは放置となり、うめく者、水をくれとせがむ者など、この世の地獄図になった。広島市内の中心部から、トラックの荷台に乗って避難する被爆者らに、歩いてくる多くの被爆者が後から後からと続いた。
 その当時は被爆者は原子爆弾の放射能のことは全く知らなかった。トラックで運んだ被爆者達も何とか助かったと思うも、恐らくはその多くの被爆者は助からなかった。各運送会社は、トラックを約20台を保有していたが、ガソリン車は約6台ほどで、後は木炭車であった。その頃はトラックを、助手がクランクをボンネットの前に差し込んで、手回してエンジンをかけていた。最初は、戦場への兵士に送られる若年の男性が優先的に救護所にトラックで運ばれて治療を受けた。当初に老人や女性、 子どもさえもトラックに乗せてもらえず、トラックの周りに群がり、大騒ぎにもなった。


2019年9月6日金曜日

沖縄返還の直前に沖縄市内の勢理客にて、過激派と機動隊の激しい衝突により、一人の機動隊が死亡した。

沖縄返還の直前に沖縄市内の勢理客にて、過激派と機動隊の激しい衝突により、一人の機動隊が死亡した。沖縄の基地による悲劇により死亡した機動隊員は、デモ隊に対する臨時隊員であった。しかし、機動隊のユニフォームを着用したら、正規隊員と見分けがつかない。1971年11月9日から11月10日に、沖縄返還協定反対・交渉やり直し完全復帰要求のストライキが勃発した。11月10日には約10万人が集結して、沖縄史上で最大のストライキとなった。最大の抗議集会によって、最後に一人の警官が死亡して、多数の負傷者を出した。デモ隊の交通整理係の48歳の警官である山川松三巡査部長が死亡した。機動隊のユニフォームとヘルメットを身に着けたまま路上で死亡した。
 大会終了した後に、デモ隊は与儀公園から行進した。安里から泊港に出てから、牧港の方向に向かう集団が、火炎瓶を投げて、その一帯は騒然とした。路上で赤い炎が立ち、住宅にも火炎瓶が投下された。勢理客の方面で、機動隊と過激なデモ隊が衝突した。火炎瓶を投げられて、身体から煙が出た機動隊員が転倒していた。駆けつけた機動隊は、デモ隊に無差別の攻撃を加えて、一般歯根のデモ隊までも、警棒や盾で殴られながら、催涙ガスの中を逃げ惑った。
 翌年の1972年5月15日に、沖縄の施政権がアメリカ合衆国から日本に返還された。その前年に、1970年12月20日にアメリカ軍兵士が2件の交通事故が起点となって、軍の自動車や施設を焼き討ちするゴザ暴動が勃発した。アメリカ軍兵士の乗用車がはねた沖縄市民を、軍警察(MP)が連行されて基地内に逃げて込んだ。1975年4月30日までベトナム戦争下にあったアメリカ軍兵士は風紀が乱れても、沖縄には裁判権もなかった。


2019年9月5日木曜日

ゲティスバーグに参戦兵士の膨大な戦死者の遺体を埋葬も十分にできずに、野原に集積され散乱して、悪臭と伝染病が拡散した。

南北戦争は、1863年7月1日から3日に北部に向けて2度目の侵攻する南軍に対して、北軍はペンシルバニア州のゲティスバーグの戦いで完全に阻止して撤退させた。最大の凄惨な死闘が勃発した地域には、墓地の尾根や悪魔の棲み処など呼称された。参戦した約16万5,000人以上のうち、兵士の約3分の1である約4万5,000人以上が戦傷死した。南部連合の独立や奴隷制度は頓挫した。ゲティスバークの戦いで、北軍の戦死傷者は約23,000人であったが、南軍は約28,000人に達して、南軍の3分の1以上を失った。
 アメリカは1981年から南北戦争が勃発した。1861年から1865年までに戦死者は約62万人と民間市民は約5万人と推定された。参戦した白人兵士の約5人に約1人が戦死した。膨大な戦死者の遺体を埋葬も十分にできずに、野原に集積され散乱して、悪臭と伝染病が拡散した。伝染病である赤痢だけで、約9万4,000人が病死した。北軍が南部に侵攻して、1865年4月にバージニア州アポトックス・コートハウスで南軍は降伏して、南北戦争は終結した。ゲティスバーグの市民らは、数千人の戦傷者に対処するために残された。家や公共の建物が病院になり、感染症や不衛生な状態から伝染病が町の生活を危険にさらした。戦闘中に、無差別なな弾丸が家のドアを通り抜け、20歳女性のジェニー・ウェイドは銃殺された。彼女は戦闘中に虐殺された唯一の女性となった。なんて恐ろしい光景だ!人間だ!ぼろぼろに覆われ、ほこりに覆われ、乱暴に乗り、丘を駆け抜けて、我が家に向かって駆け抜ける!叫び、最も不気味な叫び、呪い、拳銃の振り回し、そして発射した。



2019年9月4日水曜日

日本軍兵士はルソン島のリパ住民を大量虐殺して、対抗した住民らに殺害された日本軍兵士の遺骨を荼毘に付した。

ルソン島南部におけるリパの住民を日本軍兵士が大量虐殺した事件は、日本兵団の絶対的命令でもあった。事件後にはゲリラや住民らが大量虐殺に対する報復として、捕虜となった日本軍兵士の首を切断した。その埋葬地を戦後に発堀すると多数の白骨が出現した。その他に、不明な崩れ去った野ざらしの骨も産出された。野ざらしの骨に、薪を組み入れて並べて、薪に火を付けて、遺骨を荼毘に付した。
 バタンガス州リパの虐殺は、1945年2月16日から3月19日にかけて断続的に行われ、犠牲者数は約12,005人以上にも達した。ある村では、一村1,500人の全員が日本刀で首を切り落として虐殺された。リパ事件を体験して生還した旧日本軍兵士が、『狂気-ルソン住民虐殺の真相』を告発した。極限の残酷な戦争体験をすると、心的外傷後ストレス障害(PTSD)を伴った。フィリピン各地には、地元の人しか知らない、「旧日本軍に虐殺された慰霊碑」が多数残存している。
 谷底7メートル余りの侵食渓谷にて、日本軍兵士は住民らを白濁の水が流れた崖っ淵に連行した。突け!と銃剣は、一人の住民の胴体をⅩ字に貫き、すぐさま軍靴の底を腰に当てて銃を引いた。もんどりうつようにリパ住民はは谷底に芋づる式に落下した。日本刀の試し切りもした。日本刀を振り降ろし、あるいは横に薙ぐと、滝のような音を立てる血潮の圧力で、首は前に飛び、宙に舞い上がった。さらに1945年3月初句には、日本軍はある集落の全住民約200人を小学校の講堂に集めて監禁して、数人ずつ崖に連行して、次々と銃剣で刺して死刑にした。赤ん坊は両足首をつかんで頭を岩に打ちつけて殺した。日本軍は、マリプニヨ山の麓の村で大討伐して、小学校に集合させた約1,000人の住民が、暗くなってから無差別に女子も子供も含めて虐殺した。次第に日本軍は泣き叫ぶ女子や子供までを、銃剣で一突きして井戸に投げ込んだ。コンクリートで固めた縁高の井戸に、後手にくくられた十数人の住民の死体が、重なり合った。


2019年9月3日火曜日

中国の公安を避けて、ベトナムとの国境を越えるトラックに脱北者は恐怖に包まれて、体を縮めて座っていた。

北朝鮮からの脱北者たちは、2009年9月にトラックの荷台に乗って、中国の国境からベトナム北部のむらまで移動した。中国の公安に逮捕されないように、ベトナムとの国境を越えて猛スピードでトラックが走った。トラックに全員が恐怖に包まれて体を縮めて座っていた。
 9人の脱北者は周囲を警戒しながら、ベトナムとの国境がある中国・広西チワン族自治区の山道に体を潜めた。中国で逮捕されると、脱北者は北朝鮮に強制送還される。刑務所である教化所で、残酷な虐待を受けた。中国からベトナムに密入国して、ハノイの在ベトナムの韓国大使館に向かった。夜中に無人の山奥を、暗がりを這いながらも歩いた。しかし、在ベトナムの大使館の韓国人の職員が、駐在国を優先して、脱北者を受け入れを拒否した。脱北者を連れて他国に密入国するように指示した。欧米の他国の大使館に密入国するために、英語の文章を丸暗記した。警察官が取り囲む欧米の大使館に密入国した瞬間を、欧米の報道機関に秘密裏に捉えてもらい、国際的な圧力を加えた。大使館員が密入国を拒否するも、国際報道機関が脱北者を速報で公表したため、致し方なく脱北者を保護した。
 脱北者は、1994年頃から北朝鮮から国外への難民が急増した。1993年の大水害と干ばつにより食糧難が深刻化して、大飢饉となった。2018年時点までに約31,500人が韓国に亡命して、韓国人となった。脱北は、まず中国に逃避した。国境警察官が、国境付近で脱北者を逮捕して、不法入国者として北朝鮮に送還した。韓国に入国しても、一部の脱北者は、社会的偏見や差別を受けて余計者として虐待された。 



2019年9月2日月曜日

イラクのサダム政権が、クルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。

イラクのサダム政権が、1988年3月16日にクルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。イラクが毒ガス攻撃で、クルド人市民の約5,000人を大量虐殺した。クルド人らは反抗勢力で、自治権を求めて、イラクのバクダットと紛争した。クルド人がイラン軍を迎え入れた罪状として、イラク軍が毒ガス爆弾を投下した。イラクは過去約3年間にわたり、紛争しているイランに対しても大量に化学兵器の攻撃をした。国連は、1984年、1986年、1987年と3回の調査とも、イラクが化学兵器を使用したと断定した。毒ガスにはマスタードガスと神経ガスのタブンなどが使用された。化学兵器が広範に使用される危険性が高まった。軍事使用が可能な科学物質の販売は禁止されていたが、イラクは化学兵器製造のために先進国の企業から援助を受けていた。
 クルド人の町の家々や舗装されていない道路には、何十もの死体、男や女、子ども、家畜、ペットの死体が散乱した。死体には、全く傷や出血もない。爆弾による痕跡もなかった。死体の皮膚は奇妙に変色した。目は開いたままで、黒目は眼窩に隠れることなく、どこかを凝視した。口からはねずみ色の粘液が流れ出た。死体の指は異様に曲がったままであった。玄関の数メートル前で転倒して死亡した。母親が、子どもに最後の抱擁して死亡した。老人は幼児を守ろうとして死亡した。クルド人やイラン人は、化学兵器の投下は報復であると激高した。ハラブジャには人気はなく、沈黙した。大量虐殺に巻き込まれなかった家族が戻り、呆然としてゆくえを探した。
 ハラブジャ事件が勃発した直後から、イランが世界の報道機関に取材を求めた。イラン軍がハラブジャに同行した。事件後には、イランがハラブジャを実効支配をした。イラン軍のヘリコプターが、テヘランからハラブジャまで報道機関を護送した。ハラブジャの残酷な写真から映像が世界中に報道された。



2019年9月1日日曜日

尹奉吉は陸軍作業所で、日本軍兵士の一斉射撃で銃殺されゴミ捨て場に埋められ、柩と白骨化した死体が発掘された。

韓国人の尹奉吉は日本要人を上海で1932年4月29日に暗殺して、1932年5月25日に上海派遣軍の軍法会議で殺人罪等で死刑を宣告された。11月20日に日本の大阪陸軍戍衛刑務所に送還され、12月18日に極秘に金沢の法務部に護送された。12月19日午前6時に、尹奉吉は金沢市三小牛山の陸軍作業所に連行されて、日本軍兵士の一斉射撃で午前7月40分に銃殺された。火葬せずに、陸軍墓地と一般墓地の間のゴミ捨て場に埋められた。元法務官の憲兵隊員から埋葬先を突き止めて、処刑された尹奉吉の柩と白骨化した死体が掘り出された。7月11日に韓国に護送されて、ソウルで国民葬が挙行された。
 日本が1931年から満州の侵略を開始した。1919年3月1日に勃発した三・一運動から、4月には上海で大韓民国臨時政府を樹立した。日本要人を暗殺する韓人愛国団が結成された。1932年4月29日に、上海の虹口公園で昭和天皇陛下の誕生日の天長節祝賀式が挙行された。上海の抗日勢力は派遣日本軍に弾圧されて撤退していた。24歳の韓国人である尹奉吉は、爆弾を詰めた水筒と弁当を持って公園に向かった。太極旗の前で、上海の大韓民国臨時政府の金丸と撮影して、宣誓文を自筆した。「韓国愛国団」の一員として中国を侵略する敵の将校を殺すことを誓った。
 祝賀会の壇上の中央に、上海派遣軍司令官、公使、艦隊司令官、師団長、総領事らが並んだ。「君が代」の斉唱が終わり、爆弾を詰めた水筒が壇上の中央に転がり、爆発した。派遣軍司令官は死亡し、公使は片足を切断され、艦隊司令官は失明、総領事は重態に陥った。暴挙した尹奉吉は、捕縛され連行されて凄惨な拷問を受けた。大韓民国臨時政府の金丸が、英字新聞に「韓人愛国団」の指図と公表した。日本軍の掃討を受けて、中国各地を転戦して、重慶に潜伏した。