イラクのサダム政権が、1988年3月16日にクルド人のハラブジャ市民に対して化学兵器で襲撃して、無差別に大量虐殺した。イラクが毒ガス攻撃で、クルド人市民の約5,000人を大量虐殺した。クルド人らは反抗勢力で、自治権を求めて、イラクのバクダットと紛争した。クルド人がイラン軍を迎え入れた罪状として、イラク軍が毒ガス爆弾を投下した。イラクは過去約3年間にわたり、紛争しているイランに対しても大量に化学兵器の攻撃をした。国連は、1984年、1986年、1987年と3回の調査とも、イラクが化学兵器を使用したと断定した。毒ガスにはマスタードガスと神経ガスのタブンなどが使用された。化学兵器が広範に使用される危険性が高まった。軍事使用が可能な科学物質の販売は禁止されていたが、イラクは化学兵器製造のために先進国の企業から援助を受けていた。
クルド人の町の家々や舗装されていない道路には、何十もの死体、男や女、子ども、家畜、ペットの死体が散乱した。死体には、全く傷や出血もない。爆弾による痕跡もなかった。死体の皮膚は奇妙に変色した。目は開いたままで、黒目は眼窩に隠れることなく、どこかを凝視した。口からはねずみ色の粘液が流れ出た。死体の指は異様に曲がったままであった。玄関の数メートル前で転倒して死亡した。母親が、子どもに最後の抱擁して死亡した。老人は幼児を守ろうとして死亡した。クルド人やイラン人は、化学兵器の投下は報復であると激高した。ハラブジャには人気はなく、沈黙した。大量虐殺に巻き込まれなかった家族が戻り、呆然としてゆくえを探した。
ハラブジャ事件が勃発した直後から、イランが世界の報道機関に取材を求めた。イラン軍がハラブジャに同行した。事件後には、イランがハラブジャを実効支配をした。イラン軍のヘリコプターが、テヘランからハラブジャまで報道機関を護送した。ハラブジャの残酷な写真から映像が世界中に報道された。