2019年9月24日火曜日

日本軍が新四軍との戦闘により、国府軍の陣地周辺で殺害された新四軍兵士の死体が散乱した。

日本軍が安徽省の大路集で、国民政府の国府軍を包囲していた中国共産党の新四軍を掃討した。日本軍が新四軍との戦闘により、国府軍の陣地周辺で殺害された新四軍兵士の死体が散乱した。安徽省涇県で国府軍は、1943年年末頃から近隣の大路集に集結していた中国共産党の新四軍と約20日間にわたり内戦をした。国民政府の国府軍は、新四軍に包囲されて補給も停止して、残存する食糧と武器もわずかとなった。国府軍はやむなく、1944年1月10日に宿敵であった日本軍に救援を致し方なく要請した。日本軍は急襲して、1944年1月14日までに大路集に集結していた中国共産党の新四軍を掃討した。日本軍が新四軍の掃討が完了すると、国府軍は自陣の構築物の内部構造や障害物の配置などの軍事機密を日本軍に情報公開した。
 第一次国共合作が1927年4月に崩壊してから、長く反目していた。国府軍の攻撃により1934年10月から中国共産党の紅軍主力が長征に出発した。その後に華中,華南の紅軍の残存部隊はゲリラ戦を続けた。日中戦争が1937年7月7日に勃発してから、国民政府と中国共産党は、抗日を一致するために敵対関係を解消して、国共合作して日本軍と戦闘した。抗日民族統一戦線の成立後には,1937年8月国民政府のもとに,紅軍主力が国民革命第八路軍に編成されて,同年10月華中と華南の紅軍を主力として国民革命軍新編第四軍が編成されて兵力は約1万300を擁した。日本軍,国府軍の勢力が錯綜する地域で発展を続け,1940年末には兵力約10万にも達した。1939年頃から国共対立が急速に激化した。日中戦争が混沌して長期化した1940年頃には、国府軍と八路軍は対立が先鋭化して、中国の各地で内戦を繰り返した。41年1月7日に国府軍は、新四軍を安徽省涇県で反乱のかどで攻撃して、日本軍の援護により、約9,000人新四軍は壊滅的な打撃を受けた皖南事変が勃発した。国府軍は同月17日に新四軍の編成を取消した。中国共産党はただちに,新四軍の再建と拡大に努めて,45年には兵力約26万8,500人に達した。華北の八路軍,華南の抗日縦隊とともに華中の新四軍は,抗日戦争期の党軍事力の重要な支柱となった。46年7月全面的な国共内戦の勃発に伴い,新四軍は人民解放軍の華東野戦軍に編成され,1948年秋に中国人民解放軍第3野戦軍と改称された。