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2023年12月18日月曜日

第1次世界大戦の西部戦線にて、1917年10月12日の夜明け前に、ベルギーのパッシェンデールの戦いはぬかるんだ凄惨な戦場となった。オーストラリア軍歩兵士が戦死した連合軍の兵士を死後処置をして、毛布を敷いた。

第1次世界大戦の西部戦線にて、1917年10月12日の夜明け前に、パッシェンデール(Passchendaele)の戦いはぬかるんだ凄惨な戦場となった。ベルギーのゾンネベケ駅付近のブロックハウスの周囲で、オーストラリア軍歩兵が戦死した連合軍の兵士を死後処置をして、毛布を敷いた。イーペルの町からほど近く、湿地帯であるイーサー渓谷とライエ渓谷を隔てる丘の尾根に位置した。背景には、雲の向こうから太陽の光が射していた。10月12日はさらに深い目標を掲げた再攻撃は、泥にまみれて死んだ部隊を除き、攻撃部隊が振り出し地点に戻って終わった。

 第1次世界大戦中に、パッシェンデールの戦いは泥の戦いとして知られた。ベルギーのイーペルで行われた3回目の最も長期間の戦いとなった。約3年間にわたる激しい戦闘にて、排水システムは完全に破壊された。何百万発もの砲弾でかき回された地面は、雨に濡れると粘り気のある泥沼に化した。この戦いは1917年7月31日に、イギリス軍は潜水艦の檻を破壊するために、フランドルを突破してベルギーの海岸に向かって砲撃した。ドイツ軍はこの攻撃に完全に備えて、連合軍はドイツ戦線を突破できなかった。1917年8月に雨が降り始め、約30年間で最大の降雨量となり、フランドル地方は沼地と化した。10月中旬には、カナダ軍団がイギリス軍からパッシェンデール戦線への出撃を命じられた。新しい道路や砲台の建設、路面電車の修復をして、何十万発もの砲弾が馬やラバで前線に運ばれた。パッシェンデール稜線の頂上では、ドイツ軍が継続的に砲撃を行い、何百人ものカナダ兵が死傷した。カナダ軍団は、11月10日までに15,654人を損失しながらもパッシェンデールを占領した。

 パシェデーレの戦いは、第一次世界大戦の恐怖と多大な人的犠牲を象徴した。塹壕の中も、塹壕の前も、塹壕の後ろも泥だらけだった。どの砲弾の穴も、不潔なにじみ出る泥の海だった。歩兵が泥沼に沈んで二度と生き返らなかった。殺戮の数々、わずか約20mの距離を得るために犠牲になった。泥の中での疲労はひどいもので、泥に足を取られて、もうこれ以上進めなかった。イギリス軍の死傷者は約275,000人、オーストラリア軍は約36,000人、ニュージーランド軍は約3,500人、カナダ軍約16,000人であった。ドイツ軍は、約22万人の死傷者を出した。約90,000人の死体が確認されず、約42,000人が回収されなかった。




2023年9月21日木曜日

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍によるタイとビルマを結ぶ泰緬鉄道を建設する強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

オーストラリア軍兵士の捕虜は、日本軍による泰緬鉄道の強制労働により、脚気で重篤な衰弱と部分的な麻痺を伴った。手足のしびれ、筋肉の機能低下、嘔吐、精神錯乱などがみられた。脚気は、水腫を引き起こした。体内の水分が足のほうに流れ込み、足と脚が腫脹した。足はひどく腫れており、立ったり歩いたりするのが非常に苦痛である。ビタミンB1欠乏症による病気で、日本軍の粗末な食事のために蔓延した。

 日本軍は1943年12月5日から、大東亜戦争に必要な物資を供給するため、タイとビルマを結ぶ泰緬鉄道の建設を執行した。泰緬鉄道は険しいジャングルの中を約420kmも建設した。約6万人の連合軍の捕虜と約20万人のアジア系労働者のロムシャの俘虜労働力によって建設された。1943年のモンスーンの中で、手工具と筋肉で鉄道を敷設した。全員が日本軍の「スピード」との叫び声に駆り立てられた。致命的な熱帯の環境下、不十分な配給での容赦ない強制労働は、莫大な犠牲をもたらした。1943年10月に鉄道が完成するまでに、少なくとも約2,815人のオーストラリア人と、約11,000人以上の他の連合軍捕虜、約75,000人のロムシャが病死した。

 ビルマ-タイの泰緬鉄道での死因の最たるものは病気であった。過度の労働、栄養失調、粗末な食事、日本軍が十分な医薬品を提供することを拒んだ結果、ほとんどすべての捕虜が病気になった。強制労働させられた捕虜は一度に複数の病気にかかることが多かった。重病人のみが休息を許された。民間人なら重病と見なされても、働き続けた。

 病気では赤痢と下痢で、捕虜の死因の3分の1以上を占めた。便が出続けることで脱水症状を引き起こし、生存に不可欠なビタミンが失われた。栄養に富んだ食事がなかったため、アビタミノーシス(ビタミン欠乏による病気)が蔓延した。その最も頻発する病気は、ビタミンB1の欠乏による脚気とナイアシンの欠乏によるペラグラであった。

 マラリアはビルマ-タイ鉄道での死者の約8パーセントを引き起こした。マラリアは蚊によって媒介され、その症状は悪寒、発熱、衰弱であった。被害者は、戦後も繰り返し発症することがあった。熱帯性潰瘍は、鉄道事故による死者のわずか2%であったが、特に嫌われた。傷口が微生物に感染することで発症し、骨まで肉を食いちぎられた。多くの場合、切断が唯一の選択肢だった。しかし、適切な薬や器具がなかったため、多くの患者が命を落とした。

 その他の病死では、コレラは非常に感染力が強く、死亡率も高いため、囚人の約12%が死亡した。糞便に汚染された食物や水によって蔓延し、便所があふれる雨季に流行した。激しい胃痙攣で二重になって地面に転がり、手足は痙攣し、筋肉が痙攣してピクピク動いた。嘔吐と、腸から米のとぎ汁の白っぽい液体が無理矢理押し出され噴出した。

 1943年半ばの泰緬鉄道の追い立てられた「スピード」の時期には、毎日のように死者が出ていたため、各収容所には粗末な墓地があった。後で遺体を回収して身元を確認できるように、医療関係者は死者の墓場の詳細を記録した。葬式は厳粛に行われ、ジャングルからラストポストの音符が聞こえた。焚き火の刺激臭がキャンプ中に漂った。日本軍は死んだ捕虜の埋葬を許可し、葬儀に立ち会った。生前の捕虜の苦しみには無関心でも、死後は尊重した。




2023年1月10日火曜日

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。

太平洋戦線のニューギニアのブナ戦線で、1942年12月に戦死した日本軍兵士の死体をアメリカ軍兵士が取り囲み見守って検死した。ブナ、ゴナ、サナンダ分岐点の日本軍は、数百の塹壕壕と深く整備された機関銃で構築された。日本軍兵士には食料が欠乏して、日本軍は死者の埋葬を管理する気力も能力も低下した。ブナ地域の多数の日本軍兵士の死体が放置されていた。

 パプア・ニューギニア島の北部の海岸平野にあるブナは、日本軍がココダ・トレイルに沿って進攻する際の主要な拠点であった。ブナ地域に日本軍が最初に上陸したのは、1941年7月21日にブナの東にあるゴナで、その後にブナは日本軍歩兵部隊に占拠された。8月21日にブナで大規模な上陸が行われた。日本軍の存在は、ブナで基地を構築する連合国自身の計画を妨げた。ブナ地域は西から東に、ブナ村、ブナ政府基地、そして数km東にある2つの滑走路に囲まれた。

 ブナで大きな戦闘が起こったのは、日本軍がココダ・トレイルに沿って侵攻して、後退した後であった。アメリカ軍は1942年11月16日にまずブナに迫り、南からブナ村に向かって攻撃し、別の1つが東から滑走路に向かって侵攻した。日本軍の要塞化された壕を前にほとんど頓挫した。オーストラリア軍が、12月中旬にミルンベイから移動してアメリカ軍を援護した。当時はブナ村は日本軍に占領されたが、日本軍は飛行場と政府庁舎周辺に鎮座した。オーストラリア軍の最初の攻撃は、12月18日朝に飛行場周辺へ攻撃した。日本軍の塹壕を一つ一つ破壊して掃討した。連合軍は12月23日までに飛行場と海岸の間の地域の掃討を達成した。

 オーストラリア軍は、12月24日から29日に日本軍の抵抗の中心である旧地区のブナ西端周辺の陣地を攻撃した。最小限の砲兵支援のみで、日本軍の塹壕を侵攻して、不十分な攻撃に振り回され、大きな犠牲を伴った。1943年1月1日朝に攻撃し、日没までに日本軍陣地の大部分を破壊した。アメリカ軍はブナ村から東に攻撃し、ブナ政府局を確保し、1月2日に旧地区から西を占領した。1月22日に日本軍の組織的抵抗は終結した。ブナでの戦闘で連合軍は約2,870名の死傷者を出した。初めてアメリカ国民はアメリカ軍の死体の映像に直面した。日本軍の死者は約1,400人近くに上ったが、破壊された壕の中で死亡したり、生き埋めになり、日本軍の死者数はもっと多かったと想定された。