2021年10月12日火曜日

イラク軍はアマラーバスラ戦線にて、1984年2月24日にバスラ近郊のバイーダ村を襲撃して、塹壕にいたイラン軍兵士を殺害した。

イラク・イラン戦争にて、イラク軍はアマラーバスラ戦線にて、1984年2月24日にバスラ近郊のバイーダ村を襲撃して、塹壕にいたイラン軍兵士を殺害した。イラン軍は、イラク軍の防衛網を越えて、石油が豊富なマジュヌン島を占領した。バスラ近郊では、イラン軍によって繰り返し攻撃され多くの激しい戦闘が勃発した。イラク軍は1984年3月6日から、マジュヌン諸島で大量の硫黄マスタードと神経ガスの毒ガスを使用して大規模な生物化学攻撃を開始した。それ以降、イラク軍の化学兵器は、イラン軍と一般市民に対して1988年8月20日の終戦まで使用された。

 イラン軍は、1984年2月14日から3月19日までのへイバル作戦(Operation Kheibar)で、イラン・イラク戦争のイラク南部のバスラ近郊の湿地帯の戦い(Battle of the Marshes)にてイラン軍が攻勢した。イラク軍は、イラン軍のバスラへの大攻勢が失敗に終わった後に、ハウィゼ湿原の湖畔に戦線を張り、バスラへの攻撃の場を確保した。イラン軍は経済制裁を受けて、アメリカやイギリス製の軍装備品が深刻に不足して、多くの犠牲者を出した。イラン軍はパスダランとバシジの熱狂的な軍隊を有したが、十分な量の砲兵、航空支援、戦車で後方支援されなかった。

 イラン軍は、1984年2月14日からイラク軍の防衛網をかいくぐり、石油資源の豊富なマジュヌーン島に乗り込んだ。カイバル作戦は、イランにとって初めての戦略的攻勢だった。イラン空軍の戦闘出撃の回数は、1日平均約100回と不十分であった。イランは戦闘機が不足して、戦闘ヘリコプターで部隊を支援した。最終的には、イランはハウィゼ湿地帯を制圧して、イラク軍をマジュヌーン諸島から撤退させて、イラク軍に大きな打撃を与えた。イランは、湿原の戦いの最後の攻勢を開始した。イランは新たな攻撃を開始して、約25万人のイラン軍が、ハウィゼ湿地帯から西のアルクルナ方面から南のバスラ方面に向かって侵攻した。戦闘機の後方援を受けられず、装甲や砲兵も不足した。イラク軍は、イラン軍の非常に弱体化した装甲・機械化部隊による大規模な攻撃を撃退できた。イラク軍はイラン軍をハウィザ湿地帯に封じ込めた。

 最終的に、イランは湿原の戦いで約4万人の犠牲者を出し、イラクには約1万2千人の犠牲者を出した。人口の少ないイラク軍にとっては、1万2千人でも甚大な犠牲者であった。湿地帯の戦いの後に、イランはバドル作戦で、バグダッドとバスラの高速道路を奪おうとしたが、失敗に終わった。湿地帯の戦いでは、イラクは化学兵器による攻撃を併用してマジュヌーン島からイラン軍を追放した。

 アメリカとイランは、1979年にホメイニが主導する宗教革命が勃発し、イランがパーレビ王朝を倒して反米反西欧国家を樹立して以来、ずっと対立した。イランの台頭は、イランと伝統的に領土や宗教で対立してきたイラクに大きな危機をもたらした。イラクの指導者サダムは、アラブと欧米の両陣営の支援を得れると確信して、イランがまだ革命後の不安定な状態であった1980年に奇襲攻撃をかけた。約8年間もの石油取引が不安定となり過酷なイラン・イラク戦争が勃発した。1980年代の冷戦時代で悲惨なイラン・イラク戦争は、塹壕戦、兵員の戦死傷、毒ガス戦、血の山、特攻など犠牲をもたらした。1980年9月22日から1988年8月20日まで勃発したイラン・イラク戦争にて、イラク軍は約750,000人以上が戦死して、イラク軍側は約375,000人以上が戦死した。