2023年7月10日月曜日

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。

日露戦争の遼陽会戦において、1904年9月1日午後2時27分に、首山堡の南方高地の塹壕陣地にて、日本軍は歩兵第三十四連隊の戦死者の死体の収容作業をした。8月31日夜に、ロシア軍の塹壕内に大突撃をした。塹壕内には、戦死した日本軍兵士とロシア軍兵士の死体が散乱した。首山堡の攻略は、猛烈な犠牲を極めた。1904年8月30日未明、第二軍と第四軍は首山堡塁に対して攻撃を開始した。しかし、ロシア軍の強固な陣地に阻まれて苦戦し戦線は膠着した。8月31日には後に軍神の橘周太が壮絶な戦死を遂げた。戦況を打開するため、第一軍は8月30日夜からひそかに太子河の渡河を開始した。遼陽東方のロシア軍の側面に回り込めた。9月1日には 第二師団が饅頭山を、第十二師団が五頂山を占領した。

  側面に展開した第一軍に退路を危惧したロシア軍は、第二軍、第四軍と対峙した部隊を第二防御線へ撤退させた。その一部を遼陽東方へ投入した。苦戦した第二軍は、退却を始めたロシア軍を追撃しつつ、首山堡一帯を占領できた。今度は第一軍がロシア軍の猛攻を受けた。各方面共に戦線は膠着状態であった。ロシア軍は奉天方面での決戦に向けて9月4日にロシア軍は撤退を命令された。

 日本軍は約13万余の軍隊を集め、ロシア軍もまた約22万余の軍隊を有して、遼陽の戦いが勃発した。8月28日に総攻撃するも、とくに遼陽前面の首山堡の線ではロシア軍主力が第二、第四軍を迎え撃ちたれた。右翼の第一軍だけが侵攻を続け、最右翼の第十二師団は8月30日の夜中に、遼陽を通って遼河に流れる太子河の上流で渡河して、ロシア軍の背後をつく構えを示した。ロシア軍防衛線の中心である首山堡の陣地をできるだけ早く突破するように8月31日に第二軍に命令した。首山堡に突撃を敢行して9月1日に占領した。突撃を指揮して戦死した陸軍歩兵の橘周太は軍神に扱われた。遼陽の戦いで、134,500人の日本軍の死傷者は約23,500人、224,600人のロシア軍の死傷者も約20,000人とされた。