2018年10月19日金曜日

国民学校では、戦死した卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、小学生と前期中学生を毎日礼拝させた。

1943年頃に熊本県の日奈久国民学校では、戦死した同校の卒業生の遺影の写真を講堂に掲示して、学生に毎日礼拝をさせた。学生は休日には、その遺族への慰問奉仕をさせた。
 日中戦争の頃から、教育機関では学校報国班が結成された。学生は勤労動員から軍事訓練も必須の授業として強要された。太平洋戦争が勃発してから、国民学校の小学生も、戦争を担う次世代の戦争要員として訓練された。少国民として奉仕団を結成され、戦争要員の代替として養成された。少国民として、奉仕団を結成され、勤労奉仕から遺族家庭訪問などの強要が評価された。30校の国民学校が、1943年に陸軍省から特別表彰を受けた。報道機関は軍報道部から命令で同時の学校を取材して撮影された。
 1931年に中国・奉天郊外の柳条湖付近の南満洲鉄道の線路上で柳条湖事件が暴発して満州事変が勃発した。1930年の暫定総動員計画が応急総動員計画に改定された。1938年7月に盧溝橋事件から日中戦争が勃発した。大日本帝国は1938年の第73帝国議会に国家総動員法を提案して、4月1日に公布され5月5日より施行された。国民は一億総動員による徹底抗戦に巻き込まれた。
 1941年の国民学校令によって国民学校は設立された。教育勅語を遵守して皇国に則って初等・前期中等普通教育をして皇民の錬成を為した。教育勅語は、皇国による帝国主義を浸透させて、日本の道徳教育の根幹となった。道徳教育の主張である親孝行などの道徳を尊守を、天皇が国民に指令した。勅語とは、政治・行政などの天皇の発言として皇国化した。第2次世界大戦の敗戦後に、主権在民を原則とする日本国憲法により教育勅語は廃止された。


 「教育二関する勅語」が1980年に正式に交付され教育勅語と呼称された。「朕惟フニ我カ皇祖皇宗國ヲ肇ムルコト宏遠ニ德ヲ樹ツルコト深厚ナリ我カ臣民克ク忠ニ克ク孝ニ億兆心ヲ一ニシテ世世厥ノ美ヲ濟セルハ此レ我カ國體ノ精華ニシテ敎育ノ淵源亦實ニ此ニ存ス爾臣民父母ニ孝ニ兄弟ニ友ニ夫婦相和シ朋友相信シ恭儉己レヲ持シ博愛衆ニ及ホシ學ヲ修メ業ヲ習ヒ以テ智能ヲ啓發シ德器ヲ成就シ進テ公益ヲ廣メ世務ヲ開キ常ニ國憲ヲ重シ國法ニ遵ヒ一旦緩急アレハ義勇公ニ奉シ以テ天壤無窮ノ皇運ヲ扶翼スヘシ是ノ如キハ獨リ朕カ忠良ノ臣民タルノミナラス又以テ爾祖先ノ遺風ヲ顯彰スルニ足ラン

斯ノ道ハ實ニ我カ皇祖皇宗ノ遺訓ニシテ子孫臣民ノ倶ニ遵守スヘキ所之ヲ古今ニ通シテ謬ラス之ヲ中外ニ施シテ悖ラス朕爾臣民ト倶ニ拳々服膺シテ咸其德ヲ一ニセンコトヲ庶幾フ
明治二十三年十月三十日
御名御璽」 



2018年8月20日 Japan No War (Nonfiction) 日本平和の市民連盟 視聴回数 170,000回