2018年10月21日日曜日

ミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する市民集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。

2007年10月6日にミャンマー軍事政権に反抗するデモを支持する大衆集会にて、母親は流血して死亡した学生の写真を掲げて慟哭した。 
 ビルマの歴史で、多くの反抗的な反乱があった。自由のための紛争は60年以上続いた。王たちは下層のビルマ市民から税金の徴収や奴隷を集めるために軍隊を送り出した。19世紀のアングロ・ビルマ戦争は、侵攻したイギリス軍と占領に反抗し初めてビルマの自由の戦いとなった。
 1930年には、バーマン協会の知識人と学生がラングーンに集まった。国家の英雄となる若いアウン・サンがいた。1938年〜39年に全国的に激しい抗議が行われ、警察が残酷に抑圧した。アウン・サンは植民地のビルマを解放するために日本軍の支持を求めた。30人の同志は日本軍に訓練され、後にビルマ独立軍(BIA)を設立した。日本軍と一緒にBIAは1942年3月にラングーンを占領してイギリスの植民地支配を終結させた。独立に無関心の日本軍は、引き続きビルマを抑圧した。1944年にビルマがイギリス軍の助けで、日本軍から解放された後でも、ビルマは、非常に不安な基盤に立った。ビルマ以外の民族も1944年 2月12日全ての民族がパングロン協定に署名し、ビルマ以外の民族は平等な権利と実質的な自治となった。1948年カレンニ民族進歩党(KNPP)を通じてカレンニ革命を引き起こした。1949年にパオとモンも独自の革命を開始した。
 1962年にネー将軍が、政治的不安定により軍事クーデターを勝ち取った。ラングーン大学の学生たちは、民主主義の回復を要求し、軍隊がキャンパスを取り囲み、生徒に火を放ち流血された。兵士たちは連合ビルを爆破した。1963年に軍事政権は民族革命家に停戦を拒否したシャン族、カレン族、カチン族、カレン族およびモン族の他の集団は、軍事政権に反抗した。ビルマ軍は残忍に反抗者に野蛮な報復をした。 1960年代半ばに軍事政権はフォー・カットス政策を導入し抵抗を一気に押しつぶした。
   政府軍の悪質な抑圧の下で、民族国境地域は虐待され、学生と反対派は血まみれのデモを続けた。1974年に学生と修道士は再び怒りを表現するデモをした。数十人が死亡して、刑務所に留置され国境地域に逃げた。国民民主戦線(NDF)が設立され、民族族集団が同盟を結成し、ビルマ全域で共同戦線を構築した。1988年には数千人のデモ参加者が殺害された。軍事政権の経済不全に対する大規模なデモで全国が揺れ動いた。国防長官の軍事クーデターの反抗者は膨大に逮捕され、多くの学生らは国境地域に逃げた。ビルマ軍は、農村地域は支援や避難場所を与えたとして引き締め続けた。多くの野党が集まり、1990年にはビルマ民主連合(DAB)とビルマ連合(NCGUB)の連合政権を、EUは実質的に認可した。(軍事政権は1989年に、英語名称のビルマ(Burma)から、ビルマ語のミャンマー(Myanmar)に国名を変更した)
 1995年にビルマ軍に侵略されて、反抗者は海外に逃げて、国境を越えて自由の闘いを続けた。革命勢力は国境を越えて全域に広がって、ビルマ軍に対抗するゲリラ戦をした。政府は、植民地時代の手法で、民族を分裂させ、経済的譲歩、麻薬の栽培で。停戦協定に誘い出した。ビルマに頻繁に自発的なデモが起こり、多くの流血で粉砕された。刑務所で何年も投獄された元学生たちは、引き続き抵抗運動に参加した。 ビルマで2007年の9月と10月のサフラン革命は20年間の最大の抗議運動であった。多くの人が命を奪われ、刑務所に投獄された。 ビルマの自由に対する闘いには、武装抵抗運動はビルマ軍を攻撃し、国境地域を防衛するためにゲリラ戦、多くの政治活動家が国境を越えて遠く離れた土地に逃げた。国際レベルでは、政権に経済制裁を課し、国連安全保障理事会に世界的な措置を強いた。



  • (1)1988年、全国的な民主化要求デモにより26年間続いた社会主義政権が崩壊したが、国軍がデモを鎮圧するとともに国家法秩序回復評議会(SLORC)を組織し政権を掌握した(1997年、SLORCは国家平和開発評議会(SPDC)に改組)。(2)1990年には総選挙が実施され、アウン・サン・スー・チー氏率いる国民民主連盟(NLD)が圧勝したものの、政府は政権移譲を拒否。アウン・サン・スー・チー氏率いる民主化勢力は軍政による厳しい弾圧を受け、同氏自身も2010年までの間、3回、計15年に亘る自宅軟禁に置かれた。(3)2003年8月、キン・ニュン首相(当時)が民主化に向けた7段階の「ロードマップ」を発表。(4)2005年11月7日、ミャンマー政府は、首都機能をヤンゴンからピンマナ県(ヤンゴン市の北方約300キロメートル)に移転する旨発表し、新首都をネーピードーと命名。(5)2007年9月、全国的な僧侶のデモが発生。治安当局による制圧で、邦人1名を含む多数の死傷者が発生。(6)2008年5月2日、サイクロン・ナルギスがミャンマー南西部を直撃し、死者約8万5千名、行方不明者約5万4千名が発生。(7)2008年5月10日、新憲法草案採択のための国民投票を実施(一部地域は24日に実施)。92.4%の賛成票で(投票率99%)で新憲法承認。(8)2010年11月7日、総選挙が実施され、国軍出身者が率いる連邦連帯開発党(USDP)が大勝。スー・チー氏率いるNLDは総選挙をボイコット。(9)2011年1月31日、総選挙の結果に基づく国会が召集。(10)2011年3月30日、テイン・セイン大統領率いる政権が発足し(同時に国名も変更)、民政移管が実現。テイン・セイン政権は、政治犯の釈放、報道の自由化、少数民族武装組織との停戦交渉等を進め、民主化と経済改革を推進。(11)2011年6月、国軍とカチン独立軍(KIO)との戦闘が再発。以後、ミャンマー北東部にて複数の武装組織との衝突が断続的に継続。(12)2012年4月1日、議会補欠選挙が開催され、アウン・サン・スー・チー氏率いるNLDが45議席中43議席を獲得。(13)2012年6月以降、ラカイン州において仏教徒ラカイン族とムスリム住民との間でコミュニティ間衝突が発生。(14)2015年10月15日、ミャンマー政府は、カレン民族同盟(KNU)を含む8つの少数民族武装組織との間で全国規模の停戦合意(NCA)に署名。(15)2015年11月8日、総選挙開催。アウン・サン・スー・チー議長率いるNLDが大勝。(16)2016年3月30日、アウン・サン・スー・チー氏側近のティン・チョウ氏を大統領とする新政権が発足。アウン・サン・スー・チー氏は、国家最高顧問、外務大臣及び大統領府大臣に就任。ミャンマーにおいて約半世紀ぶりに国民の大多数の支持を得て誕生した新政権は、民主化の定着、国民和解、経済発展のための諸施策を遂行。
  • (ミャンマー連邦共和国の内政の現代史、外務省)