2024年9月10日火曜日

1991年12月5日に、トーゴの首都ロメの死体安置所に、軍事クーデター未遂事件の犠牲者が横たわった。12月3日にトーゴ軍が官邸を襲撃して、首相を拘束した。

1991年12月5日に、トーゴの首都ロメの死体安置所に、軍事クーデター未遂事件の犠牲者が横たわった。1991年11月にトーゴ共和国最高評議会(HCR)がエヤマデ大統領の政党(RPT)の解散を決議した後に、12月3日にトーゴ軍が官邸を襲撃して、首相を拘束した。エアマデは1967年から2005年死亡するまでアフリカ史上最長の大統領となった。

 エヤデマに忠誠を誓ったトーゴ軍は、政府が給与の支払いを怠ったため、10月1日にロメの国営放送を占領した。トーゴ軍はHCRの辞任を要求したが、エヤデマにより兵営に戻るよう命じられた。この騒乱で約5人ほどが死亡した。その1週間後に、今度はエヤデマの異母弟の指揮下にあった大統領警護隊が、首相兼HCR代表のジョセフ・コクー・コフィゴーを逮捕しようとした。逮捕はさらなる死者を出し、エヤデマの異母弟と他の数名の将校を逮捕する結果となった。

 委員会が新憲法を起草して、エヤデマとコフィゴーの支持者の間の抗争は、1991年秋まで続いた。1991年11月にはトーゴ軍が出動して抗議活動を鎮圧した。首都ロメには、夜間外出禁止令を出した。暴力の発生は1992年の初めまで続いた。1992年5月上旬、オリンピオ暗殺未遂事件は、トーゴ軍の仕業とされ、首都ロメでは2日間のゼネストが勃発した。騒乱が続いたため、1992年から1993年にかけて、選挙が実施されなかった。1992年3月、エヤデマが居住したロメの軍事キャンプが襲撃されて、オリンピオ支持者の犯行とされた。1992年4月、6月の大統領選挙が発表されたが、1992年5月に政府側と野党側の標的を狙った爆弾テロが相次いで、選挙は延期された。新たな選挙は1994年1月に予定されたが、エヤデマの軍事基地が再び武力攻撃されて、オリンピオとガーナ政府の責任とされて、選挙は1月まで延期された。

 選挙の結果、野党連合が勝利した。国を悩ます政治的暴力の解決には至らなかった。10月には、国の主要産業を管理する政府機関であるトーゴのリン鉱石局が襲撃された。野党連合がエヤデマ党への離反によって崩壊した後に、動揺が続き、トーゴの民主主義への移行に支障をきたした。1997年5月に首都で約10万人の野党支持者による集会が開かれ、エヤデマは政治システムの操作を非難された。抗議行動の平和的な性質と、トーゴ軍がそれを許したという事実は、トーゴが実行可能な民主主義国家として成熟しつつあるも、政治的・民族的な問題は多く残った。