沙基大虐殺は中国広東省広州市の地域で1925年6月23日に勃発して、イギリス軍兵士とフランス軍兵士による銃撃で200人以上の中国人デモ参加者の死傷者を出して死体が散乱した。イギリス軍とフランス軍とポルトガルの軍艦が砲撃して、50人以上が死亡して、170人以上が負傷した。死者の中には、13歳の子供1人、学生4人、教師1人、商人9人、労働者6人、ワンポア陸軍士官学校の学生と教師27人(ロシア人2人も死亡)が含まれた。広州は、周恩来が共産主義インターナショナルの指導の下でデモやストライキを計画した。
1925年6月22日、中国労働組合連盟の主催により開催された各界代表広州会議は、6月23日に広州市民大会を開催し、大規模なデモを行うことを決定した。6月23日、デモ隊はあらかじめ決められたルートに沿って進んだ。労働者や学生に加え、農民や商人、黄埔軍官学校の学生なども参加し、その数は約5万から6万人に上った。正午に大衆集会が開催され、非常に興奮した雰囲気となった。午後1時30分に、デモ行進が始まった。隊列はスローガンを叫び、沿道にビラを撒きながら進んだ。
1925年6月23日午後2時40分に、デモ隊が沙面租界の対岸である沙地を整然と行進した際に、イギリス軍兵士とフランス軍兵士にデモ隊に対して機関銃を撃つよう命じて、突然激しい銃声が響いた。イギリス・フランス・ポルトガルの軍艦も威嚇的に砲撃し、その場で50人以上が死亡し、170人以上が重傷を負い、無数の軽傷者を出した。これは沙基大虐殺と呼ばれ、中国から世界に衝撃を与えた。広州と香港の人々の反帝国主義感情はさらに激しさを増した。香港のスト参加者はすぐに25万人を超え、13万人が長期闘争の準備のために広州に戻った。